冬の桜と人面犬《中編》
「……私、メリーさん。泣いていいかしら?」
部屋に来て。テーブル前に座っている新堂さんを見た相棒の、第一声がそれだった。
どうしたのさ。と僕が問えば、当の彼女は呆れたように頭を振る。何だか疲れて見えたのは絶対に気のせいじゃなかった。
「だって、貴方から飲みのお誘いよ? 夢じゃないかって頬っぺたつねったのよ?」
「……言われてみれば、確かに僕ら普段お酒飲んだりしないなぁ。クリスマス以来か」
「でしょう? 急にどうしたのかしらって、ちょっとドキドキしてたのに……」
メリーの視線が恨みがましげに新堂さんへ向けられる。
僕の見立てでは、彼女なら人面犬なんてものを目の当たりにしたら、まず驚いて。数秒後には持ち直して好奇心で輝いた目を見せてくれると思っていた。が、蓋を開けてみればこの通りだった。
「おい。おい若者。貴様いっぺん死ね。なんだアレはけしからん。肉まんどころかマスクメロンではないか」
「新堂さん少し黙ろうか」
お酒を取り上げる素振りをすれば、新堂さんはキャンキャンと鳴きながら犬がよくやるお腹を見せポーズをする。その何とも言えぬ絵面に、僕は不思議と泣きたくなった。
「冗談はさておき。彼女がさっき話した恋人かつ相棒で、同じ大学に通ってる、メリーです」
「……よろしく」
僕の紹介にメリーは仏頂面のまま、小さく会釈した。そんな態度でも妙に華やかなのは、美人さんの特権だと思う。
すると、その名を聞いた新堂さんは、あんぐりと口を開けたまま固まった。
「メリー、だと? ……さっきの口上。よもや君は都市伝説の……!」
「……あら、同業者さんはよくご存知で」
メリーの返しに、新堂さんは驚きに目を見開き、そのまま僕の方へ畏怖めいた視線を向けてくる。何となく、彼が言わんとしていることが読めてしまう。
これは……勘違いしてる顔だった。
「人面犬だけでなく、かの有名なメリーさんまで実在したとは……。しかもそれが恋人、だと!?」
「いや、彼女は……あー、まぁ。はい」
「彼ったら、私が電話をしても。後ろに立っても温泉で素っ裸で向き合っても殺しきれなかったの。愛すべき標的なのよ」
「凄いぞ若者よ! 本当に何者だ君は!」
仕返しの意味を込めているのか、メリーは妙にノリがいい。純粋な新堂さんは、もはや完全にメリーを自分と同じオカルトな存在と信じ込んでしまっていた。
色々理由はあれど本当はオカルト好きが高じて、自らメリーさん語っているだけ。そんなバッタもんが彼女なんだけれども、もう今更な感じがして僕は閉口した。オッサンの夢壊すのよくない。
「で、何? 今日の活動は、人面犬との交流かしら?」
「その通り。何でこうなったかはおいおい説明するけど、なかなか無い機会だろう?」
「なかなか無いどころか、一生に一度あったら語り継ぐべき事案ね」
ため息混じりにメリーは手に持っていたスーパーの袋を僕に差し出した。
ツマミやらは僕が用意してたけど、彼女も追加でお酒と一緒に持ってきてくれていたらしい。律儀だなぁ。と思いながら袋の中を確認すれば、中々に不思議なラインナップだった。
「トマトにバジル、オリーブオイル? と……チーズかい? これ」
僕が問えば、メリーは相槌を打ちながら、指で僕の鼻を軽く小突いた。どんなチョイス? と言ったコメントが顔に出ていたらしい。
「台所借りるわ。調味料はあるわよね?」
「マイナーなものを除けば」
「お塩とブラックペッパーだけあればいいわ」
「なら問題ない。え、何? 手作りしてくれるの?」
「欠伸が出るくらい簡単なものだけどね」
そう言って彼女は花咲くように微笑みながら、手を洗い、常備しているエプロンを棚から引っ張り出す。馴れた様子でキッチンに立つ姿を何となく目で追っていると、寄ってきた新堂さんが後足で立ち上がり、僕に前足キックをかます。サイズが柴犬なのでその威力はたかが知れているが、視覚的な衝撃はなかなかだった。
「おい、若者よ。俺を置いてきぼりにするな。二人だけの世界を作るな。エプロンか? エプロンが琴線に触れたのか?」
「別にそんなんじゃ……」
「あら、前に裸エプロンした時、いつもより凄かったのに?」
「メリィ!?」
「貴っ様ぁ! エロゲーみたいな生活送りやがってぇ!」
ふざけるなぁ! と、僕に飛びかかってくる新堂さんを咄嗟にキャッチ。
空中で犬の足をばたつかせるオッサンは、なかなかにシュールだった。
「メリー、煽るのよくない」
「貴方が悪いのよ。エプロンは別に……なんて言うから」
「そういう意味じゃない。それに、この場でそんな気になるわけないだろ」
「あら……どうしてか聞いてもいい?」
弁明を述べれば、メリーはこちらに振り返りながら、目を細める。わざとらしい、試すような表情だった。
いい性格してると思うけど、さっきみたいに遊ばれたままで終わるのは嫌だったので、反撃に転じることにする。
「君の本名呼べないし」
「……それだけ?」
「あと、エプロン姿の君とお料理するなら、二人きりの方がいいかな」
「……どっちの意味かしら?」
「両方? 君の料理も、君も。とっても美味しいからね」
前者は作る人が。後者は素材がいいのだろう。僕がそう言い切れば、メリーは顔を真っ赤にしながらキッチンに目を向けた。
「…………ばか。エッチ」
「なんとでも」
「後で不眠症にしてやるわ」
「……お手柔らかに」
もはや日常になっている言葉のドッヂボールをしていると、ビリビリした視線が突き刺さる。新堂さんだった。
「オイ。若者。死んでくれねーかな。お前頼むから死んでくれねーかなぁ」
「何怒ってるんですか」
「やかましいわお前ホント……お前ぇ……!」
「……新堂さんステイ」
「ワン」
ものは試しでそう言えば、人面犬はおとなしくなり、すぐにニヤッとした笑みを漏らした。存外ジョークもいける人らしい。
そのまま野郎二人は、メリーの料理姿を眼福と眺めながら、フローリングに腰掛ける。
包丁が食材を切り、まな板を叩く音が耳に心地よかった。
「いいな。美人に限らず誰かの料理風景は心が落ち着いて……。何故だろう。泣きたくなる」
「昔の記憶……ですかね?」
「わからんが……ふと、思ったんだ。俺もいつかに、こうして何かが出来るのを、待っていた気がするよ」
そんな雑談を交えていると、メリーがパチンと指を鳴らす。完成したようだ。
欠伸が出るくらい簡単なものと言ってたとはいえ、三分そこそこで終わらせてしまう辺り、流石と言うべきだろう。
「お待たせ。……しかしまぁ、ユニークってレベルじゃないわね。突然変異なのかしら?」
ツマミの乗る皿にパタパタと尻尾を振る新堂さんを見ながら、メリーが小さく呟いた。
その本当の意味すら分からずに、僕らの酒盛りは開始された。
※
「若者よ、俺は何故俺なのだ。俺とは何者だ? そもそも俺という概念は何なのか。いや、俺で自分を指すとはどういうことか。そもそも人は……」
「貴方は犬か人のどちらかですが?」
「それでいて霊ね。めんどくさい事に」
「辛辣う!」
酒に酔った赤ら顔で奇妙な事を語りだした新堂さんに、僕とメリーの追撃が突き刺さる。
ビールにカクテル、ワイン。思い思いの好みのお酒に加えて、ツマミも枝豆、サラミに裂きイカ。クラッカーとチョコレート。カットフルーツに、メリーの手作りカプレーゼ。てんでバラバラだ。
そんなメニューが乗せられたテーブルを、男、女、犬が囲む。
混沌を通り越した喜劇的な食卓にて、意外なことに僕らは楽しくやっていた。
新堂さんの事情から。今の大学のシステムや様子に、僕とメリーの馴れ初め。霊が視え、オカルトサークルなんて珍妙なものに精を出しているから語れる、奇妙な怪奇譚まで。話題は尽きなかった。
「今の大学は奇っ怪なサークルだらけなのだな。俺の時はどうだったか……」
「新堂さんも大学に?」
「んにゃ、俺は中退だ。働かざるをえなくなってな……」
「あら、そこは覚えてるのかしら?」
「うーむ。ダメだ。何だろうな。喉ちんこ辺りまでは出てる気が……するが」
チラチラとメリーを見る新堂さん。意図を察したのは僕だけではなくメリーもだったらしい。横目で「流すの宜しく」何て言われたので、僕はため息混じりに口を挟む。
「犬には無いのでは?」
「若者よ。俺はそこのお嬢さんのお口から喉ちんこなんてないじゃないと言って欲しく……」
「辰、玉ねぎはあるかしら? この犬にカレーでも出すわ」
「殺す気か!」
「新堂さん、もう死んでます」
そうだった。と、舌を出す新堂さんは、とても楽しそうだった。セクハラも、もしかしたら距離を測りかねたか、お茶目から来るものなのかもしれない。
犬用の皿からビールを啜り、「喉ごしが上手く味わえんのが残念だ」とぼやきながら、新堂さんは今度は取り分けられた裂きイカを口にくわえ、丸飲みした。
「……ああ、久しぶりだよ。こんなに話し、人の話を聞いたのは。ああ……」
嬉しいなぁ。楽しいなぁ。
染々と新堂さんは呟いた。
深い黒目が僕を見る。それから読み取れるものがあり、僕は少しだけ、チクリとした胸の痛みを覚えた。
「未練になりそうですか?」
「そんな気がする。ヤバそうなら最後は一気のみでもするさ。良い子は真似するなと叫びながらな。その隙にやっちゃってくれ」
「……そうならないよう祈ります」
少しの沈黙。破ったのは、急に点けられたバラエティー番組の笑い声だった。
「ちょ? メリー?」
「辛気くさかったんだもの。宅飲みなら、テレビ点けながら飲むのもオツなんじゃない?」
毒にも薬にもならぬ、しょうもないトークを披露したコメディアンが、司会の男性にチョップをくらい、スタジオで笑いを誘っている。滑稽な。だけれども温かな雰囲気が感じられた。
「ああ、テレビもずいぶん久しぶりに見た気がするよ」そう呟き、項垂れる新堂さん。やがて、ありがとう。という言葉が絞り出され、新堂さんはビールに口をつけた。
感謝を込めて、メリーを見れば、彼女は優しくウインクして、新しいビール缶に手を伸ばした。
「お葬式やお盆に、どうして豪華な料理を出し、お酒を出すんだと思う? 私は専門家じゃないし、色々諸説はあるんだろうけど、第一は死者を安心させる意味もあると思うのよ」
私達は元気にやってます。貴方の死を悼み、それでも前に進みます。そんな意味が込められているのではないか。そんな所か。
そういえば中国だかでは死者を弔うのに麻雀をやる。なんて話を聞いたことがある。牌を混ぜるガチャガチャしたあの音が縁起良いのだとか。
「今宵は新堂さんを送る為に開かれたのよ? 新堂さんが辛気くさい顔しちゃ駄目じゃない。主役なんだから」
カシュンと小気味良い音がしてプルタブが解かれ、犬皿にビールが満たされる。奇妙なお酌の図に見えるかもしれないけれど、そこには確かに労りがあった。
「そうですね。送りが目的ですが、僕だってただ送る訳じゃありません。ちゃんと覚えています。未練になりそうでしたら、お盆にでも帰って来ればいい。またお酒くらいは付き合いますよ」
「……止めてくれ若者、お嬢さん。オッサンは涙もろいんだぞ? 酒が入ればそりゃあ凄いぞ?」
顔を上げる新堂さんは赤ら顔で目を潤ませていた。垂れていた尾が振られている。感情が分かりやすいのは犬ならではだけど、今はそれに感謝した。ちゃんと言葉が届いた証だろうから。
「〝涙を流すことを恥と思う必要は全くない〟ですよ。お酒の席であろうとなかろうとね」
「チャールズ・ディケンズね。ついでにいえば、〝恥は一つしかない。すなわち、なんの恥も感じないということだ〟ってね」
「パスカルかな?」
「正解よ」
「何だ君らは、検索エンジンでもついてるのか?」
泣き笑いする新堂さんは、僕らのやりとりに大学の友人らと同じような事を口走ると、注がれたビールをがぶ飲みする。
肉まんの時と同じ、犬特有のかっ込み。だけれども、もうばっちいとは思わなかった。そこには何らかの決意が見えていた。
酒の後、新堂さんは豪快にツマミを喰らう。「チョコは確かダメだよなぁ。これはマズイか」といった具合に一部選り好みして口にした所で、新堂さんは盛大なげっぷと共に、ごちそうさんと、短く口にした。
「〝人生ほど重いパンチはない。しかし、どんなにきついパンチだろうと前に進み続ければ必ず勝てる〟」
試すように此方を見てくる。僕とメリーは顔を見合せ、互いに頷き合った。
ロッキーかな?
ロッキーかしら?
そう返せば、新堂さんは嬉しそうに笑った。
「俺の好きな言葉だ。といっても、俺は基本的にTKO負けばかり喫してきた気もするが、それでもな。好きだった。つまんない灰色な人生だと思っていたが、それでも……大切なものがあって。生きていたんだと思う。粘り勝ちを狙ってな」
勝てたぞ、俺は。そんな声が聞こえた気がした。
「若者のような友を得て、お嬢さんみたいな美人に酌をしてもらえた。だから俺は……何か未練があったのだとしても、あんたらの為に、悪霊にはなりたくないと思う。だから……」
今なら逝けそうだ。やってくれ。
その言葉を噛み締め、僕はゆっくりと新堂さんの傍に歩み寄る。
一瞬視線を交わし。僕はそっと、新堂さんの方へ手を伸ばす。
繰り返しになるが、僕もメリーも、霊感がある。それでいて、そんな体質が由来のちょっとした力がある。
僕が出来るのは、幽霊やそういった現象や領域。概念に干渉すること。
ざっくり言えば、幽霊と触れ合える。成仏させるとは、それが根源となった、いわば副産物のようなものだ。
干渉し、成仏を促すか、無理矢理力を叩きつけるような形で昇天させるかの違いだが、今回は前者で行けそうだ。
「若者よ約束だ。また酒に付き合えよ。お嬢さん。悪かったな。もうじき日付が変わる。後は若い二人が夜中に二人きりだ。好きなだけハッスルするがいい」
「最後の最後に何言ってるんですか!」
「そうよ! こういうのはもう少しちゃんとシチュエーションを……って何言わすのよ!」
一斉に叫ぶ僕らを、カッカッカと笑いながら新堂さんは交互に見て、静かに目を閉じる。気を取り直して僕が手を近づけると、丁度テレビの時報が十二時を告げて……。
直後、新堂さんの纏う空気が変質した。
「…………っ!」
ぶるりと、小さな身体が震えたかと思えば、新堂さんは弾かれたかのように僕の手から逃れた。
二、三歩程後方へ飛び退いた新堂さんは、そのまま身を屈め、フーッ、フーッ……。と、荒い呼吸を繰り返しながら、警戒した目で、僕とメリーを睨み付けた。
「……新堂さん?」
僕の呼びかけに、新堂さんは唸り声で返した。そこにはひょうきんなおっさんの表情はなく。人の理性を溶かした表情と、ギラギラした眼光がある。紛れもなく縄張りの侵入者へと向ける、獣のそれだった。
「……メリー、下がっ……」
「らないわよ。貴方が私を守る。私が貴方を守る。いいわね」
強引に手を取り、メリーは僕の指に己の指を絡ませる。
不思議でかつ現金な事に、それだけで、妙に力が沸くようだった。
そのまま、怪奇と対峙する準備が整った僕らは、無言のまま、獣と化した新堂さんを見る。
何が起きたのだろう。
悪霊になった? いや、それは恐らくない。唐突すぎるし、新堂さんは本心から成仏を望んでいた。
嘘をついていたようにも思えない。となると……。
「記憶が戻った? いや、もしかしたら、これが本来の姿? ……でも……」
「待って。様子が……あっ」
隣でメリーが小さく息を飲む。新堂さんの身体に……いや、顔に変化が訪れていた。
顔や目元が腫れ上がる。青あざが一気に広がり、鼻は潰れていた。さながらめちゃくちゃに殴り付けられた後のような顔に、思わず僕らが戦慄していると、不意にポタポタと、液体が滴り落ちる湿った音がし始めた。
新堂さんの口から……血が出ている。ただしそれは、口の中が出血したというわけではなさそうだ。
犬歯がチラチラ覗くそこは、返り血でべっとりと汚れている。それはまさに捕食者の貌。まるで生き物の喉笛に食らいつき、肉を噛みちぎった直後を思わせた。
『……殺して、ヤル。引き裂いて、八つ裂きにして……命を奪ってやる。……返せ……返してくれ。……返せぇ……!』
悲哀にまみれた声が響く。ぼこぼこになった新堂さんの頬には一筋の涙が伝っていた。




