サキュバスは聖夜に惑う《前編》
クリスマスなのでオカルトコメディ回&お砂糖回です。
肩の力を抜いてどうぞ
クリスマスには沢山の伝説がある。
サンタクロース。フィンランドが主張するまでは実は北極が故郷だった。
トナカイはああ見えて、時速80キロで走る。
クリスマスはイエスキリストの誕生日ではない。正確には彼が生まれたことを祝ってるだけで、彼の本当の誕生日は謎。
サンタが煙突から来るとされたのは、面倒くさい煙突掃除を子どもにやらせるため。
クリスマスツリーはある聖人が冬の夜空の下に立つもみの木の美しさに感動し、家族に見せたい気持ちが暴走してその場で伐採。家に持ちかえったのが始まりである。
九月生まれが多い理由? 察しろ。
他にも多数。
いやぁ、クリスマス凄いなぁ……。
「ねぇ、辰……どうしてそっぽ向いてばかりなの?」
そうやって現実逃避していた僕に、再び残酷な真実が突きつけられる。
後ろから抱きつくような形で細い腕を僕の首に絡ませてくる美女。
ハチミツみたいな甘ったるい香りが僕を包み込むとと同時に、柔らかくも凄まじい質量が背中に押し当てられているのを感じながら、僕は顔をひきつらせる。
天国と地獄とはまさにこのことだった。
「メリー、頑張って。ホント頑張って下さい僕が死んじゃう」
「あら、頑張るのは私だけなの? そんなの嫌よ。貴方も頑張ってよ。いっぱいいっぱい、二人で頑張りましょう?」
「止めてくれ。頼むから止めて。あのね。今の君は分からないかもしれないけど、僕既に物凄く頑張ってるから。全国。いや、今なら地球上の男子から尊敬されるレベルで頑張ってるから」
「……〝すべては、待っている間に頑張った人のもの〟らしいわよ?」
「トーマス・エジソンかな? ハハッ、メリー、君が何を言ってるのか分からないよ」
いつもの言葉遊びも、今や僕を追い詰める刃にしかならない。はぐらかしも今の彼女には通用しないのだから。
クスリと、わざとらしく笑いながら、僕に身体を密着させた魔性の女は「わかってるくせにぃ……」と、囁いた。
「私の全ては貴方のものよ? 遠慮なんかして欲しくない。全部奪われたって構わないわ」
「す、凄い光栄だよ。君が〝素面〟だったら大喜びしたいくらいにね」
「失礼ね。私は素直になってるだけよ。だから……遠慮なんかしないわ」
真綿で締め付けるような響きを含んだ声が僕の心臓を鷲掴みにする。何か来ると身構えた時、僕の耳が柔らかくも湿ったもので包まれた。
「ちょ――っ! ほわぁああ! 待って待ってメリーストップ! 耳を! 耳ハムハムは止め……!」
「んっ……耳、咥えるのダメなの? なら――、どこがいいの?」
「どことかじゃなく……、わひゃ!? ノォオオオゥウウ!」
じゅるり。という、身が震えそうになる音が僕を侵食する。
蛇だ。舌が蛇みたいに……!
「ねぇ、どうしたの? いつもはキスと指と声だけで私を蕩けさせてくれるのに……」
「ふ、風評被害だっ! 何かそれだと僕が物凄くエロい奴みたいじゃないか! 君もだぞ!? それ君もだから! 僕も毎回どうにかなりそうになるんだからなっ!」
「そうね。誤解を招きかねなかったわ。凄いのはするけど、まだ最後まではいってないものね。……今日までは」
「――っ! ちくしょうめぇ!!」
耳に差し入れられていた舌が今度は首筋を捉えて、そのまま甘噛みを伴いながら僕を優しく翻弄する。
吸血鬼がじゃれつくような愛撫に身体の芯が冷却と燃焼を繰り返す。容赦ない責め苦に耐えきれなくなった僕はシャウトしながらも極力彼女を優しく引き剥がし、ベッドに抑えつけた。
亜麻色の髪が白いベッドの上にふんわりと広がっている。思わずクラリときかけた僕がそれから目をそらせば、今度は謀らずも押し倒してしまう形になった彼女をまともに視界に入れる事になり……。頭がどうにかなりそうになる。
赤を基調とした生地に白いファーで縁取られた服と、同じ趣向をこらされた赤いストール。に黒いニーハイソックス。
愛すべき恋人、メリーが身に纏うは十二月終盤には溢れかえるであろう衣装である。しかも、それを何倍も危険かつ魅惑的にした核爆弾、ミニスカサンタ。
破壊力高いとか、殺意あるとかそんな生易しいものではない。完璧に、骨の一欠片も残さずに僕を悩殺……もとい滅殺にきていた。
「貴方が、欲しいわ。頑張って報われたんだもの。恋人や友達だけじゃ足りないの」
「……嬉しいよ」
「だからほら、こっちに来て? これ、貴方の為に着たの。脱がせて欲しいわ」
「――っ、おおぉ……! こ、断る!」
「…………ふぅん?」
生まれたての小鹿のようにプルプル震えながら、僕は理性を総動員して、恋人の罠をはねのける。
正直、こんな状況じゃなかったらどうなっていたかわからなかった。だいたい普段の彼女ならこんな台詞……もしかしたら言うかもしれないけど、それは置いておき。今はもっと重大な事件が起きているのだから。
「……私、メリーさん。今、貴方を誘惑してるの」
「へ? ――ふぉもがっ……! んぐぅうう!」
腕を払われ、首の後ろに腕が回される。あれよという間に引っ張られた僕の顔面は……気がついたらハチミツとほんのりミルクの香りがする桃源郷に誘われていた。
「…………っ!」
「悪戯しても、甘えてもいいのよ?」
「――う、ぁ……」
柔らかさと硬さの境界線が、僕の思考を麻痺させていく。よかった、ブラ着けてない訳じゃなかった。と悟りはしても、それは何の解決にもなっていない。
根本的な問題は、まだ彼女に根差しているのだから。
「くそっ……まだか……?」
どうにか柔らかな双丘から顔を引き上げながら、僕はメリーの首元を見る。そこには事の元凶。宿り木に似た黒い蔓が首輪のように絡み付いている。その一部は役目を終えた石炭のように白く染まっていた。
「……もう、いいのに」
「違う、そのまだじゃな……んっ、むっ……!」
「んぁ……辰、どうして? 貴方からもキスしてよ……」
「無理。今そんなことしたら間違いなく色々無くすから無理です……!」
本当に、どうしてこうなった?
僕はそう自問自答しながら、天井を仰ぐ。
手足を絡めてくる恋人の啄むようなキスが顔中に落とされるのを感じながら、僕は悟りを開くために苦行へ挑む僧侶のような面持ちで、この世の無常を呪っていた。
十二月二十四日。クリスマスイブ。
僕もメリーも楽しみにしていたこの日は、例によってバカ丸出しな怪奇により水を差された。
何が起きているのか簡単に説明するならば、今のメリーは……僕を捕まえる為に暴走した、〝サキュバス〟となっているのである。
※
時は昨日の夜にまで遡る。
『暗夜空洞』
今更説明するまでもない、僕のバイト先である。
立地は東京下町にある路地裏のどこか。店主の深雪さん曰く、常人ではまず視えないし、入れないのだという。
一応表向きは(普通の人は入れないのに変な話だが)古本屋と骨董品屋。だが、その実態は物好きな店主さんが営む何でも屋である。
訪れる客は決まって常識から外れたものか、現状で怪奇に悩まされている人間のどちらかだ。
深雪さんは時にそれらの相談窓口になったり、いわく付きなものを売り買いしたり。時には客をそのまま商品にしてしまう事すらある。
こうして営業内容を改めて並べてみると、怪しいことこの上ない店だと自分でも思う。
そして、そんな魔的なお店で僕のような人間が働いていると、やっぱり少なからずゴタゴタに巻き込まれるケースが多々あったりする。
今回の騒動も始まりはそんな感じだった。
「辰ちゃん、三番の地下倉庫。お掃除お願いね」
「了解しました。そこだけですか? あと品物に羽箒はかけて大丈夫です?」
「ええ。OKよ。終わったら声かけて頂戴な。あ、中にある〝品々〟には、絶対に手で触らないこと。特に今は……酷いですよ?」
「……そんなとこ掃除させないでくださいよ」
「やかましい、メリーちゃんの為でしょ? キリキリ働けぃ。私は今ボジョレー・ヌーヴォーを楽しみたいんです」
「はいなー」
今日の仕事は店内や蔵の大掃除。メリーとクリスマスを存分に楽しむ為にバイトの増加を申し出たら、暮れの大掃除にまで駆り出された大学生がそこにいた。深雪さんは中々にしたたかである。
因みに物騒な脅し文句だとか、店主が昼間から酒浸りなのは今更なので気にしない。
僕もたまに好奇心に負けそうにはなるけれど、たとえ酔っていても深雪さんがそう言うなら間違いなく危ないものなので、わざわざ言いつけを破る真似はしないのだ。
マスクと三角巾。今や愛用となった魔法の羽箒を装備して、僕は深雪さんに命じられるがまま、本の迷宮じみた店内を進む。目的地は本屋スペースを横切り、骨董品売り場から更に奥。店の者しか入れない、地下室への扉が無数ある廊下である。
その道中。偽メリー騒動以来、もはや店のマスコットと化しつつある悪魔が現れた。
『やぁ、シン・タキザワ。アルバイトご苦労様』
「こんばんは、魔子。今日も元気そうだね」
ミンクを思わせる四足歩行の体躯をのそのそ動かしながら、そいつは僕の足元に近寄った。こいつはこうして店内を我が物顔で歩いては、バイト中の僕にちょっかいをかけてくるのである。
『屈め。肩に乗せろ』
「対価は?」
『チャージで』
「僕は電子マネーじゃないんだけど」
『いつか素敵な恩返しをしてやるよ?』
「……悪魔の恩返しとか嫌な予感しかしないな」
僕が肩を竦めながら要求を飲めば、魔子は羊を思わせる顔を歪めながら、キキキッ! と、奇声を上げた。やがて、肩にずしりとした質量が巻き付くかのように乗ったのを確認した僕は、そのまま立ち上がり、仕事を再開する。
奥の廊下の三番目。そこの扉を開けて地下倉庫へ。
独特の匂いがする空間へ続く扉は、まさに異介への入り口を思わせた。
『そういえば、あたしはここ入った事ないなぁ』
「倉庫はここも含めて毎回配置や入れてあるものが変わるんだよね。僕も入った事ない場所あるし。……どうでもいいけど、触ったり悪戯したりしないでくれよ?」
『アイアイサー』
軽い返事にやっぱり置いてきた方がよかったかな。と思いながら、僕らは部屋に入る。
仄かに白檀の香りが充満しているお馴染みの部屋。その日も僕は何の気なしに掃除しようとして……。
「……ん?」
『……へぇ』
しばらくの間、入口で固まっていた。
第三地下倉庫は、殆どがらんどうだった。ただ、部屋の中央には逆さまにした大きな鉢植えがあって……。その上に、十二、三歳位だろうか。腰どころかお尻くらいまではありそうな長い金髪を有した碧眼な裸の少女が鎮座していた。
よく見ると金髪の中に紛れるように薄青や薄紫色の蕾を有した蔓が見える。
何ともエキゾチックで神秘的な造形に、僕はギリシャ神話のニンフを連想した。
「精巧に出来た人形……かな? また、何というか。深雪さんも珍妙なものを仕入れたなぁ」
『ホント、あの女何者なんだかねぇ』
呆れるような僕らの声が倉庫に木霊する。この店はある意味魔窟だ。いちいち驚いていたらキリがない。例えば……。
「魔子」
『触るな。でしょう? わかってるってば』
「ならいいよ。さて、――伸びてくれるかい?」
念のためにもう一度釘を刺し、僕は羽箒を一振りする。するとそれはブルリと〝独りでに震えだし〟たちまち、柄の部分がモップ並に伸びていく。
魔法の羽箒とは、何も比喩的に言った訳ではない。これもまた、暗夜空洞に安置されている謎アイテムの一つだった。
手早く室内を掃いていく。そんなに汚れていなかったことと、物が人形と鉢植え位しかなかった事が幸いし、あっという間に掃除は終了した。
「ご苦労様。縮んでいいよ。綺麗になったら、もう一仕事お願い出来るかな」
再びの一振りで柄が元の長さに戻る。クルリと回せば汚れた羽が一瞬で綺麗になり、ついでに「了承」というように羽箒が振動する。……本当に、何なのか分からない。ただ、意志らしきものは僅かに感じるので、多分付喪神の一種だとは思う。
「さて、次は……これか」
部屋にある、唯一の物に目を向ける。精巧な少女の人形。これに僕みたいな男が羽箒をかけたら、何だか端から見ると苛めているように見えそうだが、仕事は仕事だと割り切る事にした。
『ストップ。シン・タキザワ。コイツに埃落としは必要ない』
意を決して、僕が人形に近づこうとすると、魔子が僕の肩へ軽めに爪を立てる。
何事かと横を見れば、魔子は警戒するように目を細めていた。
「どうしたの?」
『戻ろう。シン・タキザワ』
「いや、でも……」
『君は掃除してたから気づかなかっただろうけどね。コイツ生きてるよ。さっきから、そして今も、ずっと君を見つめている』
「……え?」
そんなバカな。そう思って少女の顔を見る。すると、少女の首がゆっくりと動き。パチパチとまばたきしながら僕を見つめ返した。
「……っ!」
心臓を鷲掴みにされた気分になりながら、僕は数歩後退りする。
成る程。確かに生きて、動けるならば掃除はいらないだろう。けど……。
「気配が、全然わからなかった」
『省エネ主義な奴のかもね。いかにも植物っぽいし。けど油断するな。多分、コイツはあたしと同じだよ。妙なのは、微妙に人間と……何かよく分からないものの匂いがするくらい』
「……分かるの?」
『腐っても私は悪魔だよ』
「……よし、撤退」
触らぬ神に祟りなし。悪魔も同様だろう。何となく背を向けるのが怖くて、そのまま後退り。
その瞬間。少女は花咲ような笑顔を浮かべ、僕の方へ手招きした。
『――ヤバイ! 逃げろ! シン・タキザワ!』
鋭い声に、僕は反射的に踵を返し、一気に走り出す。
魔子がこんなに焦る相手だ。絶対にロクなものではない。扉を閉めず、出来うる限り全力で階段をかけ登り、僕らは深雪さんがいる場所まで逃げ込んだ。
「し、辰ちゃん? どうしたの?」
ワイングラスを片手に何故かバスローブ姿の深雪さんが目を丸くする。お気に入りのロッキングチェアがギシリと音を立てていた。
「深雪さん、第三倉庫に変なのが……てか、何ですかあの少女」
『店主。ありゃ何だ? あたしの同属がいたなんて聞いてないぞ?』
「………………はい?」
僕と魔子の剣幕にポカンとする深雪さん。その時、僕は猛烈に嫌な予感がした。
「……時に深雪さん。第三倉庫に何を置いたか覚えてます?」
「え? 嫌だわ辰ちゃんったら。耄碌したお婆ちゃんじゃないんだから。ちゃんと覚えてますよ? まずは室町時代からある妖刀の……」
「はいアウトォ!」
「えぇっ!?」
僕の判定に深雪さんは身体を仰け反らせ、直ぐ様パタパタとその場を後にする。
やがて、奇妙な地鳴りが店全体を揺らして……。数秒後、いつかに見た羊の角を生やした深雪さんが、血相を変えて舞い戻ってきた。
「辰ちゃん! 何もされてない!?」
「……いや、わかりませんけど」
一応身体に異常は見られません。そう僕が返すと、深雪さんは神妙な顔で僕を検分するかのようにペタペタとあちこち触りまくる。
すると、深雪さんの顔がみるみるうちにひきつり始めた。
「辰ちゃん。えっと……ごめんね。酔ってたみたい。お掃除頼むお部屋間違えちゃった」
てへっ。と、握り拳で頭を叩く深雪さん。それを見届けた僕は、無言でその場のワインを没収した。
「ああっ! それ開けたばかりなのにぃ!」
「深雪さん、クリスマスは禁酒で。冷蔵庫調べれば分かりますからね」
「酷い! 横暴です!」
「知りません。で……。僕の容態は?」
慣れてるなぁと思わないで欲しい。ただ、悲観はしていなかった。暗夜空洞でどんなトラブルに見舞われようと深雪さんにかかれば、大抵の事は解決して……。
「ふ、二日くらい。ここに泊まって誰にも会わないで? 幸い浴びた花粉は少量です。精々一人分狂わせる程度だし、それで解決だと思います」
「…………え?」
その宣告に、今度は僕が顔をひきつらせた。
「あの……」
「うん、分かるわ。頑張ってたの知ってるから凄く心痛いですけど。本当に、後でとびっきりのボーナス出すから……ここに留まって」
「いや……そうじゃなく」
「メリーちゃんとも会っちゃダメですよ。彼女なら本来問題はないんでしょうだけど、よりにもよって辰ちゃん経由でこの花粉が付いたら……うん、ダメね」
「せ、説明! 説明を!」
混乱とか色々な感情に翻弄されながら僕がそう問いかければ、深雪さんはショボンとしながら、ゆっくりと口を開いた。
「辰ちゃんはね……。今女の子に近づけば、それだけで相手を狂わせる。そういう花粉がついちゃってるの」
「花粉……? 狂わせる?」
目を白黒させながら僕が復唱すると、深雪さんはコクリと頷いた。
「普通の人間なら、間違いなく発狂する。けど、辰ちゃんは多分、その手があるから抵抗できたのね」
「……何なんですか、あの子」
僕が繰り返し質問すると、深雪さんは指でバッテンを作る。
「世にも珍しい怪奇と人間のハーフ。……と怪奇の間に生まれた子。なまじ特性が似た存在が惹かれ合って生まれてしまったが故にその力も強まった……超絶激レアな存在よ」
「それ、滅茶苦茶危険なのでは?」
「ええ。だから隔離していたのよ。普段は辰ちゃんも入れない第七倉庫に封印してるんだけど……この間、頑張って大掃除して」
「……当ててみせますよ。掃除中に彼女を別の部屋に置いたけど、途中でめんどくさくなって。残りは明日でいいや~ってなった」
深雪さんは大量の冷や汗をかきながら僕から目をそらしている。
すると、それを見た魔子が嘲るように鼻を鳴らす。
『で……そのまま忘れたと』
「……か、回答を拒否します」
「深雪さん、正月終わるまで禁酒で」
「殺す気ですか!?」
「一番被害受けてるの僕ですからね! てか、僕今日はこのままメリーと夕食に行く予定だったんですけど! 彼女に何て説明すればいいんですか!」
帰れない。クリスマスも会えなくなったと言えばいい? 却下。メリーは勘がいいから、それだけで何かあったと察するだろう。
いや、寧ろ……。
その時だ。スマートフォンがブルリと震えた。
ディスプレイを見ると、そこにはトークアプリの会話画面で……。
『私、メリーさん。今、凄く不吉な幻視を視たの。だから迎えに行くね』
うん、そんな気はしてた。
僕が何とも味がある顔で深雪さんを見れば、彼女は『かぁーっ。辛いわ~。連戦辛いわ~。かぁーっ』と嘆きながら、何やら奇妙な手遊びを始めた。
「何してるんです?」
『人避けの結界を強化。後学のルーンも添えて』
「あの、メリーに危害は……」
『そこまでのものは、深雪さんのブラジャーに掛けて張りません』
「ありがとうございます。でも……」
『ええ、皆まで言わなくても分かりますよ~だ』
スマートフォンが震え出す。
『私、メリーさん。今、貴方のバイト先の近くにいるの』
『私、メリーさん。今、変な壁と染みに邪魔されてるの』
『私、メリーさん。開けてって伝えてくれない? 今ならバレンタインまでの禁酒で許してあげる』
素敵な脳細胞と視神経で、一体どこまで視たのだろう? これ多分、クリスマスに隔離宣言も視ちゃったんだろうなぁ。
どうにも文の端々にいつかに僕がバウムクーヘンを落として激怒された時みたいな念が見えるのだ。
『ねぇ、辰。開けて?』
不思議だ。暑くないのに汗が出てきた。
「み、深雪さん」
『ダメよ。辰ちゃんを外に出したら、無関係な人が巻き込まれるわ。多分一人。多くて二人だけど、それでも被害を被る人はその人と……その周り』
『シン・タキザワ。騙されるな。コイツこんなこと言ってるけど、今回は全部コイツが悪いじゃないか。迷惑上等。責任は全部コイツが負う。行け』
『魔子ちゃあん! ちょっと蒸し返さないでくれませんかぁ!? 禁酒延びたらどうしてくれるんですか! ご飯抜きにするわよ!?』
『テメェ! ふざけんなこの野郎! てか、お前凄い奴なんだろう? 花粉くらい何とかしろよ!』
『花粉なんてフワフワしたものだから大変なんですぅ! しかもそれがよりにもよって辰ちゃんに付着したせいで、とんでもないものになってるの!』
ホントあの娘タチ悪いんだから……! と、悪態をつく深雪さん。すると、僕のスマートフォンがまるで最後通告のように鳴り響く。
『私、メリーさん。別にこれ、壊してしまっても構わないんでしょう?』
刹那。何かがベリベリベリと破られるような気配が店を包み。やがて、カツカツカツと、規則正しい足音が聞こえてきた。
『想いって、時に神様さえ倒せちゃうんです。信仰とかが廃れるのがいい例よ』
アチャー。といった顔で深雪さんは頭に手を当てる。
僕はといえば、何も悪いことしていない筈なのにどうしてか身体が震え始めていた。
『辰ちゃん。貴方とメリーちゃんは、間違いなく一級品の霊能力者よ。この私が保証するわ。貴方達なら、どんな試練も乗り越えられる。……負けないでくださいね』
こそこそと、深雪さんがカウンターに隠れて。魔子は『いや、お前が悪いの揺るがないけどな』と呟きながら、ロッキングチェアの上で丸くなり、クッションに擬態する。
残されたのは僕と……。
「辰、アルバイトお疲れ様。迎えにきたわ」
僕がプレゼントした御守りをまるで手甲のように片手に巻き付けて、にこやかに微笑むメリーの姿だった。
「ねぇ、辰。これ、ちょっと御利益使いきっちゃったみたいなの。だから、また魔法をかけて欲しいわ」
「あ、うん」
絶対に使い方間違えてる。と思いながらも、僕は頷くより他はなく。だが、直ぐ様身体を強ばらせた。
「ま、待ってメリー! 順番に説明する! よくわからないけど、今は僕に近づいちゃダメらしいんだ!」
「みたいね。けど、安心して。私は平気よ。だから……」
今すぐここで、魔法をかけて。
そう囁くや否や、メリーは蕩けるような微笑を浮かべると、音もなく僕に飛び付いて。
「え……? んんっ……!?」
いつも二人きりの時にしかしない、とびっきり濃厚なキスを僕に叩きつけた。