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一学期、最後の一週。楓子の足取りは軽い。ツクツクボウシの鳴き声は、次第に増していく。強い日差しは楓子の丹田からエネルギーを燃やす。こめかみから流れ出でる濁った汗が首に巻いた白タオルに吸収されていく。並列した自販機を過ぎて、T字路に差し掛かった所で頭に小さい粒のようなものが振りかかるのを感じる。楓子はいつも通り少し頭を傾けるようにしてそれをかわそうとする。

「そんなにお清めが嫌だったら流してあげる」

頭に冷たいものを感じると一気に楓子のセーラー服に染みていく。感覚的に驚いた楓子は、肩をあげる。しかし、カメだったら頭を引込めているだろうにといつもの思考回路に収められる余裕すらあった。香苗は空になったペットボトルを楓子の鞄の中に押し込む。歩みを止めない楓子の足を後ろから引っかける稔。地に倒れ込む楓子。一瞬、自分の下敷きになったウシガエルが頭に浮かぶ。

「有龍さん、ここ最近キモさ倍増してんだけど。どうしたの。あたしたちをなめてるの?」

楓子の一つ括りを掴む香苗。楓子の髪は強く引っ張られて、首が後ろに傾く。髪を引っ張る香苗の腕が震える。

「香苗、それはやりすぎだって」

稔は少し辺りを見回した後、不安そうな顔で香苗に留意する。香苗は楓子にグッと顔を近づける。

「てめえはてめえらしく黙っていれば良いんだよ。それとも、なんだ、あの足くさ女とつるんで強気にでもなってんのか?」

形相を一気に変えた香苗が楓子にしか聞き取れない程の声で詰め寄る。普段とは違う香苗の様子を観察するように黙ったまま俯いていじめられっ子としての姿勢を保つ楓子。黙っていればいいと言った香苗が〈何とかいえよ〉と楓子の一つ括りを強く引っ張ると、髪ゴムが取れて髪が解ける。髪ゴムを田んぼに投げ捨てると、楓子に掛けられた水で濡れた手を〈きったねえな〉と楓子の鞄で拭きとる。

「いつもの」

香苗が稔に命令すると、稔はおどおどとしながらも楓子の肩から鞄を下そうとする。鞄が手元まで下がった所で楓子はぎゅっと鞄の持ち手を握った。

「おい、離せよ!」

香苗とのいじめの歯車を止められる稔は動揺を増す。自分の手から離れそうになった持ち手を両手でとられまいとしがみ付く。

「ピピー! ちょっと待って! イエローカードよ!」

「っせえなあ!」

鞄越しに打撃を受けた楓子は後ろに大きくのけ反る。スローモーションのように肩より落ちていく。元より運動が苦手な楓子が身体のバランスを一度崩せば、後は重力のままに落ちていくだけであった。地面に身体を叩きつけられた楓子を、息を荒くした香苗が見下す。

「うっせえんだよ! 狂ったフリして、逃れようたって無駄なんだよ! それが嫌なら学校に来るなよ。てめえのブスな顔見るとイライラしてたまらなくなるんだよ。めろと稔を喧嘩の原因てめえだろ? てめえのせいでクラスの輪、乱れんだよ」

香苗の眉、目、鼻、口、耳、首へとコブのような黒い塊が蠢いている。蠢いた黒い塊は今にも香苗の皮膚を突き破って飛び出しそうだ。楓子はゆっくりと立ち上がる。一匹のツクツクボウシが鳴き止むと、刹那に時が止まったように静寂が訪れる。

「吉賀さん、大丈夫よ。心配はいらないわ。わたしにはそんな、クラスのガン細胞みたいな存在にもわたしにはなれないから。そうね…頑張っても小さいニキビくらいね…いやあでも、潰されて何か傷痕を残すことも出来ないわ。じゃあ、もう角質とかでいいや。わたしは、クラスの角質。角質レベルの存在よ」

心臓の鼓動と共に膨らんだり縮んだりしている黒い塊を胸に抱えている香苗が楓子の肩を見て後ずさりする。

「て、てめえがわりーんだよ…」

「ちょっとやばくない?」

稔が腰を引けながら香苗に語りかけると、二人は早足で学校の方へ向う。二人の背中が少し小さくなったのを見て楓子は肩に鈍い痛みを感じる。セーラー服の肩部分が破けて生地が真っ赤に染まっている。染まり切れなかった血が地面にポタポタと落ちる。

(…角質どころじゃないわ)

首に巻いたタオルを肩に結んで止血しようとするが片手では手惑い、タオルにまで血が滲み始める。ツクツクボウシの鳴き声が楓子の頭の中に響き渡る。真夏の日差しが意識を朦朧とさせる。タオルで肩を押さえながら一本道を歩こうとすると右足首にも痛みがはしる。足を引きずるようにして歩く楓子の傷ついた肉体に強い日差しが追い打ちをかける。

(このまま、眠りたい。このまま出血多量で死んだら…。このまま死んだら、わたしはわたしの一生を全うしたことになるのかな。すーっと、すーっと消えていけたらなあ)

緩やかな勾配を上っていく楓子は、一歩を進めるのに暑さと痛みで苦しそうな表情になる。

(あーあ…夏休みまでもうちょっとなのになあ…)

「どうしたんだよ! なんだこの血は!」

後ろから突然声を掛けられるが、驚く気力などは残っていない。

「神童君?」

「誰だよ、それ」

急いでタオルをきつく結び直す柏木は自分の首に巻いたタオルを重ねるようにして、楓子の肩を縛る。

「何があったんだよ。ほら、乗れよ」

歩くスピードが格段に遅くなった楓子を見た柏木が楓子の目の前にしゃがんで背を向ける。バレーボールで鍛えられた広いその背中に甘えたくなる。安らぎを求める楓子の肉体が柏木の背中に委ねようとするが楓子を見上げる柏木の目を見て足を止める。

「ほら、何してんだ。早く乗れよ」

楓子の頭の中にパンダ目になって涙を流すのりこの顔が一瞬浮かぶ。

『頂上で会いましょう』

蘇るのりことの誓い。

(こんな所でへこたれちゃいけない。わたしは、わたしを終わらせない。そう、終わらせてたまるものか。負けてたまるものか。こんなもん痛くもかゆくもない。まあ痛いけれど、かゆくはないわ)

「…柏木君。ありがと。でもね、大丈夫! 一人でいけるわ」

楓子が柏木の横を過ぎようと一歩進めると、一旦歩みを止めていたために肉体の動作リズムがおかしくなったせいか足が絡んでふらつく。咄嗟に立ち上がって楓子の肉体を支えた柏木が楓子に告白した時と同じような腹をくくったような表情に変わる。

「ここは、俺を使って(・・・)くれないか? のりことちゃんと話した。お前との事も聞いた」

「えっ…」

「俺らの学校を救ってくれ、なんてな」


 柏木の背中におぶさる楓子は照れくさそうに、周りの草木に視界を集中させる。

「この間は悪かった。友達の事傷つけて。ましてや元カノの事を…」

「何話したの」

柏木の発言途中に楓子が割り込む。

「ん?」

「のりこと」

「ああ、話すつもりだ」

少し沈黙した後口を開く柏木。

「俺、のりこに告白された時はすげえ嬉しかったんだ。練習の休憩中に見た体育館でのりこのバスケ姿ほんとに格好良かったんだよ。皆に指示出して、チームの連携が綺麗にとれていて俺にはのりこが輝いて見えた。もっとのりこの事知りたいと思ったんだ。でも、ある時、お前のクラスの吉賀とあと二人いるだろ。あいつらに急に放課後呼び出されて、有龍さんの事をいじめているひどいやつだって教えられたんだ。有龍って名前聞いたのその時が初めてだったけどな…」

沈黙。

「で?」

楓子の突っ込みを待つように間をあけてみたがそのような空気では無いようだ。

「そ、それでな、そんな事なんでわざわざ俺に言いに来るんだってあいつらに聞いたら、とにかく別れないと俺の評判が危ないって一点張りだった。評判って誰のだよって感じだったけどな」

「…、それは柏木君の事で」

「まあ、待てよ。急かすなよ。学校までには終わらせるからさ」

楓子を背負った柏木は一歩ずつ噛みしめるように一本道を踏みしめる。

「別に俺の前ではそんないじめをするような奴には見えなかった。というよりも、正直、知らないでおこうと思った。俺の前のこの明るくてけなげなのりこが全てだって自分に言い聞かせた。でもそれは俺の幻想だった。ある日、生物の教科書忘れちまってのりこに借りに行ったんだ。そしてページを捲ったら有龍の決まり文句って題されたメモ用紙が挟んであった。なにか、仕方なくこの席を…譲ってもらっている? …みたいな」

「ここは風通しが良いので、呼吸器の弱いわたしにとってここは救いなのです」

「そうそれだ、…覚えちまってんのかよ…。で、そっからだ。お前の事意識し始めたの」

沈黙。

「で?」

楓子の予想外の早い返球に焦る。

「…お、おう。そうそれで、のりこがお前の事をいじめてんだって確信がついた。結局その後ものりこから俺に言ってこなかったし俺も一々その事を問い詰める気は無かった。でも、そんなメモ用紙を毎回素直に読んで、その席に座らせ続けられる子って一体何を考えているんだろうって」

「ねえ、もう良いよ。その話」

「その時から楓子の事ずっと見てた。見ているうちに、どんどん楓子に興味が湧いた。気持ちよさそうに夕日に照らされて風靡かれている楓子を見て、全くいじめられているようには思えなかった。何でこの子がいじめられてんだろうって。見すぎて犬飼に一回キレられたんだけどな。のりことニケツして学校行く時だっておめえと会わねえかなって思ったりもしちまった。…よく見れば顔もまあまあだし、乳もデカいし」

「嫌い。下して」

「怒るなって」

「下せ」

楓子は柏木の背中を必死に手で突っ張り、足をバタバタさせる。しかし、楓子の太腿をがっちり固定する柏木の腕力には適わない。

「頂上で会うんだろう?」

静止する楓子。

「俺にはよく意味は分かんねえけどさ、のりこが真剣に言ってた。楓子と約束したんだって。のりことはちゃんと仲直りしたんだぜ? 楓子の事がホントに好きになった時期とお前と付き合っていた時はかぶっていなかったって、ちゃんと分かって貰えた。今の俺は、楓子一途だ。どうだ? もう一度…」

「嫌だ。わたしはあんたの事大嫌いだわ。のりこの陰口言っているの、わたしは聞いたわ。今だって、わたしのピンチを救ってわたしの気を引こうとでもしているんじゃない?

川本君があんなに壊れた瞬間初めて見たわ。あなたは、自分の事ばかりでデリカシーのかけらもない。誰かの事を踏み台にするなんて男として最低よ」

「何とでも言えよ! 下すもんか」

いきなり、歩くスピードを速めたと思うと走り出す柏木。

「仕方ねえだろ、好きなんだから! 元カノの悪口が一番ウケるんだから。俺だって、こんな自分が大嫌いだよ。変われるもんなら変わりたいよ。でも、性格なんてそう簡単に変えられるもんじゃないんだ。だから、だからこれは俺が俺に捧げる罰だ。お前に心底嫌われてやる。学校まで、絶対にお前を離さないから」

楓子は両手を軽く柏木の肩に載せる。肩から滲み出る柏木の汗を感じる。柏木の後頭部に柏木のもう一つの顔が現れる。その悲しそうな表情が、楓子を見つめる。楓子は目を閉じる。掌から伝わる湿りから冷たいものを感じる。


崩れた家。重なる木柱。燃え盛る炎。膝から崩れ落ちた人型ヘドロが悲鳴をあげる。その頭から煙が放出されている。放水活動を続ける防火服をつけた楓子はその悲鳴に反応する。

(中にまだ?)

近くの体格のよさそうな野次馬のケンタウロスにホースを渡すと崩れた家の方へ迷わず入っていく。他の消防士が楓子を止めようと追うが炎がそれを阻む。楓子は構わず進み続ける。

「いるの! いたら、返事して! いなかったら早めにいないって言って!」

燃え盛る木屑が楓子を襲う。

「ここだっぺ! 動けないんだっぺ! 助けてくれ!」

「大丈夫、直ぐに行くわ! どこの訛!」

楓子の前に大きな木柱が倒れる。衝撃で飛び散った火の粉が振りかかる。

(熱い)

楓子は笑う。

(気持ちがね。あなた達よりもずっと私の方が熱いわ)

扉の向こうに声が聞こえる。

「頼む! 早く来ておくれだっぺ!」

楓子は、全身の体重を乗せて歪んだ扉をグッと押すと床が削れるように火の粉をまき散らす。扉が開くと、ベッドの上であぐらをかいてタバコを吸う褐色の狸の姿。

「なーーーんだ。楓子っちか。結局」

「なんだって何よ。助けにきてあげたんだからもっと泣いてしがみつくぐらいの事をして貰わないと割に合わないわ」

「まーた、烈々たる格好だな。楓子っちの良い子っぷりはもう見飽きたっぺ。結局」

タバコをふかす狸。

「この状況で煙吸うなんて斬新だわ。…良いから、早く逃げるわよ」

「そんなに急ぐ事ないっぺよ。結局」

「…死ぬわよ、あなた」

大笑いする褐色の狸はタバコを投げ捨てると、もう一本取り出してドアを飛び出すとタバコをふかしながら再び戻ってくる。

「おめえも、一本いるだっぺか? 結局」

「いらないわよ」

タバコの火を見つめる狸。

「この炎はご主人の炎。おれっちはご主人の事を良く知っているっぺ。だから、この炎の事も良く分かるんだっぺ。おれっちを殺そうなんてできやしないんだ。結局」

「出火原因はヘドロって事?」

「こいつらもご主人も同じだって言う事だっ。結局。おれっちはご主人が助けに来てくれるのを信じている」

「そう。じゃあ、わたしは帰るわよ。仕事残っているんだから」

つぶらな目をする狸は楓子を悲しそうに見つめる。

「わたしも信じているし、知っているわ。必ずご主人はあなたを救いに来るわ」

「当たり前だっぺ」

狸は再びベッドの上にあぐらを

「で、おめえ、狸じゃねえっぺ」

えっ。

「おめえだよ、さっきから狸、狸って」

筆者が手を止めて固まる。猫か? 猫型ロボットとかそういう流れか?

「レッサーパンダだ。結局」

レッサーパンダ? 単に褐色の狸ってわけじゃないのか?

「はあ…おめえはほんとに使えないっぺ。文才が無いならせめて、実況ぐらいちゃんとしてくれだっぺ。おれっちの魅力が半減するだろう? 結局」

「まあまあ、筆者も必死にわたし達と向き合おうとしているのよ。大目に見てあげて」

楓子…ありがとう。でも、腹立つからこれだけは言っとくわ、何とかパンダ、お前は端役やからそんな個性出してこられたら困るねん。脇役でもない端役や。

「何だと、この野


 楓子が目を開くと学校の校門がもう近くに見える。校門に入っていく生徒を目撃して駆け足だった柏木は少し速度を緩める。

「ここで大丈夫だわ、もう。ありがとね」

「お前…歩けないだろ…、保健室までいく」

「皆に見られるわ」

「そんな事気にしている場合かよ」

「いや、わたしはどうでも良いんだけれど、柏木君に変な噂立っちゃうかもしれないわ」

「うっせえ、俺は楓子が好きなんだよ。それの何が悪いってんだ。何とでも言えよ。何とでも言われろよ、俺なんて」

柏木は決心したように、堂々と歩き始める。こちらに気付いた専Ⅱの男子生徒や女子生徒が何かを話している様子を見ないように目を逸らせながら歩く柏木。校門を入ってすぐに伝田麻美と出会う。楓子の怪我に大袈裟なリアクションをすると、柏木に〈ありがとう〉と礼を言って楓子の身を預かろうとするが〈保健室まで行きます〉と断る柏木。ケヤキの影を歩いて保健室に向かう三人。


 世界史のテストが担当教師のよって返される。出張に出ていた犬飼は出張先で流行していたインフルエンザにかかって休みであると担当教師の口からは告げられた。保健室で渡された楓子の仮のセーラー服は、洗濯洗剤の香りがする。自分ではなく他人が選択した洗剤がこんなにも新鮮な香りに感じられるのだろうか。肩あたりの匂いをこっそり何度も嗅いだ。血が滲んだセーラー服があっという間に真っ白になった。あんなに血が出たのに、シンプルなかすり傷であった事に安心するどころか何となく楓子は残念な気持ちになった。机横に引っ掛けた松葉杖を楓子は気に入っていた。捻挫の痛みは嫌だけれど、一度はやってみたかった。隣の席のアデルが、度々楓子の包帯で固定された足元に視線を落とす。その視線に気が付いた楓子は、机の影に隠れないように自然と足を机の下からはみ出してみる。

「宇多田めろ」

(あ、やばい)

世界史の担当教師は出席番号順にテスト用紙を返却する。いつも通り、めろが呼ばれたぐらいでスタンバイをすればスムーズに受け取れるのだが松葉杖の存在を忘れていた。焦って立ち上がろうとして机にぶつかり松葉杖が倒れる。拾おうとして届かない。席を立って再度試みようと思った途端に誰かの腕が先に松葉杖を掴む。

(また、始まるの。肉体的に不利なこの状況でお相手出来るのかしら…)

小さく息を吐いておそるおそる見上げると前の席の朱里。無言のまま楓子に松葉杖を差し出す。

(なるほど、拾ってあげるフェイクの全然渡して貰えないパターンね。そんな罠に簡単にはまっても面白くないわ)

「受け取るフェイクの楓子ビーム…」

黙ってこちらを見続けた朱里は、楓子の机に松葉杖を掛けて席に戻る。

(へっ…、すべったのに? …じゃなくて、本当に拾ってくれた?)

「有龍楓子!」

「は、はい!」

楓子の声が裏返る。

「先生、私が届けます」

のりこが担当教師からテスト用紙を楓子の代わりに受け取ろうとする。

「駄目だ」

そう言った担当教師が楓子の席までテスト用紙を届けに来る。

「あ、ありがとう…ございます」

今まで味わった事のないこの感覚は何だろうか。楓子の思いが分散して教室中を迷走する。いじめられっ子としての姿勢を貫いてきた楓子は自分の感性を疑った。

(自分の守っていたはずの感性が崩壊したとでも? 嬉しい。最悪。どこ、私はどこ)

思う事もままならない楓子は目の前の裏返しのテスト用紙を表にする事だけを考えた。テスト用紙の隅に74点との赤色の文字が浮かぶが、その数字が自分にとって一体何を意味しているのかさえ考えられなくなる。

(私は誰、私はどこ)

机の中を無意識にまさぐる。夏休みに向けてほとんどの教科書や荷物を持って帰って何も無くなったはずの空間に手がどこかに救いを求める。左手の掌に密着するはずの木面との間に何かの存在を感じ取る。ゆっくり、慎重に動かすとそれが紙であると分かる。そのままそっと取り出して、世界史の上にその紙を重ねてみた。68点の赤い数字。

(これは…)

無理矢理広げられた皺だらけの生物のテスト用紙。楓子は自分の奥底から一気に込み上げる自分を見つけた。共に溢れ出す涙。あの日勉強出来なかった苦しみや悔しさが成仏されようと楓子の涙に託すように、あの日解けなかった多細胞生物に関する問題の解答欄の空欄を埋めていく。ゆったり流れた風が優しく楓子の髪を揺らす。香苗が稔に楓子の方を示すようにアイコンタクトを送る。稔はどのような反応をすれば、香苗が気に入ってくれるのかを考えるが結局見当がつかずとりあえず黙って頷いた。

 やはり香苗の近くに人は集まる。昼休み。コキアに囲まれたあのベンチまで行く体力は楓子には残っておらず仕方なく教室の自分の机の上に風呂敷を広げた。香苗は、稔とクラスメイト二人とドラマの話で盛り上がっている。香苗の感想に稔が共感してフォローする一方、他の二人はにこにこして頷くのみだ。香苗の独壇場と化している。楓子はおかずを口に運びながら耳だけを香苗軍団の方へ傾ける。

〈でさあ、絶対諦めたと思ったんだよね。ハヤト。だって、完全に精神的に追い詰められてたじゃん〉〈わたしも。まだ戦うとは思わなかった〉〈ほんとに最後まで見逃せないわ。でもとにかく、ハヤトがカッコよすぎて、最近ストーリーとかどうでも良くなっちゃった〉〈ハヤトが好きな感じ? それとも俳優?〉〈うーん、あたしん中ではハヤトしか知らないし、ハヤトかな〉〈分かる〉〈でもさあハヤトが悪役パターンのどんでん返しもあるかもって思う〉〈えー〉〈人間表面だけで分からないじゃん〉

いつもより時間をかけて噛む卵焼きの味が楓子の口いっぱいに広がるがその事象が事象としてのみ処理される。

(人間表面だけじゃ分からない…)

香苗から発せられた言葉としては意外だった。香苗の今までの振る舞いがそのような言葉とは無縁のように思えるからだ。

(ドラマの中の人間には興味があるのかしら。ドラマの中では香苗の予想を超えた行動をとったハヤトに吉賀さんは魅力を感じている。吉賀さんの支配の届かない世界、テレビの中では凶暴な吉賀香苗を凌駕する何かが存在しているの? それとも、納得しない展開にテレビ局に苦情でも入れているのかな。あの勢いがあればそれも無くも無いわ)

鯖の身を丁寧にほぐして口に運ぶ。

(痛い)

口の中に全部取り除いたはずの鯖の骨が軽く刺さる。刺さった骨を取り出して眺める。

(そうだよね、ごめんね。美味しく食べなきゃね。ありがとう。わたしの傷を癒して)

骨を弁当箱の隅の方に繊細な箸使いで配置する

〈でさあ、剛腕ハヤトの原作者? 引きこもりだったらしい〉〈そうなんだ!〉〈やばくない? あんな妄想してたんだって思うと引きこもりも馬鹿には出来ないわ〉

(…どういう事。引きこもりが世間に認められるような創作をした驚きだろうか、引きこもりに剛腕ハヤトのような情熱的な感情が存在した事に対しての恐れだろうか)

数枚のキャベツを挟んだ楓子の箸から一枚のキャベツが床に落ちる。落ちたキャベツが楓子の視界に入る。吉賀にわざとらしく机にぶつかられて散らばったキャベツや卵焼きの記憶がフラッシュのように思い出される。

(さすがにわたしがこんな状態じゃ攻撃してこないわ)

香苗は、沈黙を忘れて次から次へと自分の感性を語り続ける。剛腕ハヤトのドラマを見たことが無いであろうことが顕著なほどにクラスメイトの二人は小さく頷くのみだ。

(吉賀さんは二人を二人の別々の感性を抱いた人間として把握する余裕すら無いのかもしれない。今日の吉賀さんはいつも以上に饒舌だわ。何かがおかしい。何に焦っているの。わたしの髪を引っ張った吉賀さんの焦った顔はわたしの変化に対する不安の表れなのだろうか。わたしがいじめられなければ、わたしが剛腕ハヤトのように吉賀さんを攻撃するとでも思っているのだろうか。わたしの報復を恐れているのだろうか。それをきっかけにして吉賀さんの支配していた空気が分散されて再び吉賀さんを襲ってくるようにすら感じているのかもしれない。わたしの変化はクラスの変化。でも、言ったでしょう? わたしなんてまだ(・・)クラスの角質以下の存在よ。あなたを陥れようなんて思ってもいないしそんな事何年かかっても出来やしないわ)

一人で淡々と食事を済ませたのりこが弁当箱を鞄にしまい込むと教室を出ていく。そもそものりこが無視の対象になる前から昼休みには決まったクラスメイトと食事をとる事は少なかった。昼休みまでに適当に話が合ったクラスメイトと食べる時もあれば、自分一人で食べる事も少なくなかった。〈でさあ、〉香苗が次の話題を振りかけようとした所で教室を出ていくのりこを見て急に小声になると三人に向かって何かを囁く。すると、立ち上がった稔がのりこの机に掛かった体育館シューズの袋をもぎ取る。袋から体育館シューズを取り出し、わざと袋を机の上に広げて置いて立ち去り、後ろ扉から一緒に食事をしていたクラスメイトの一人を誘って出ていく。〈言うなよ〉クラス全体に行き届く声。香苗は正面を見ている。クラスメイトの一人と食事をしていた朱里の背中がきゅっと丸くなる。楓子は香苗の横顔を眺めると、ギロッと楓子を睨みつけて笑みを作る。

「てめえに言ってんだよ。今度余計なことしたら、そんなんじゃすまないかもね。ハハ」

蛇に睨まれたように一瞬固まる楓子はすぐに弁当箱の方へ視線を逸らす。最後に残した一つの卵焼きの渦を目で追うようにして気を散らそうとするが眩暈がするように嗚咽して、食べたばかりの食物が逆流しそうになる。グッと堪える。

(耐えるの、耐えるのよ)

吐きそうになるのを無理に抑え込むと涙が滲む。

(…何か破滅的な空気を感じる。吉賀さんの憎悪、厭悪、怒り、悲しみ、無自覚の自己憐憫が吉賀さんを壊そうとしている…)

のりこが教室に戻る。クラスメイトがのりこの姿を確認して目線を逸らし、耳、後頭部、肩、肘、太もも、かかとでのりこを意識する。自分の机の上に置かれたぺちゃんこになった体育館シューズの袋を握りしめる。体育館シューズの袋を机に叩きつけると教室全体を見渡す。

「で、何がしたいの?」

のりこの表情は、もはや清らかで諦念すらを感じさせる。沈黙。稔とクラスメイトの一が後ろ扉から何事も無いようなフリをして腰を低くしながら教室に戻る。互いにすこし顔を見合わせてにやける。のりこが返答の存在しない無い教室に叩きつけた体育館シューズの袋を丁寧に畳み終えたかと思うと香苗の席に向かってゆっくりと歩みを進める。俯く香苗。俯いて垂れた髪が香苗の表情を隠す。楓子には香苗の隠された表情が恐ろしくてたまらなくなった。

(今の吉賀さんは何をしでかすか分からない! のりこが危ない)

「私のシューズ知らない?」

表情を隠し通す香苗の前にのりこが立つ。

(駄目! のりこ、駄目よ!)

ガチャン! 松葉杖が香苗の席の傍にはじけ飛ぶ。

「吉賀さん! わたしを見て! 肩はただの擦り傷で足はただの捻挫だった! 案外、丈夫でしょ。びっくりさせてごめんね! でも大丈夫、超回復! 超回復!」

沈黙。黙ったまま席を立つ香苗。稔が不安気な面持ちで香苗を見上げる。表情を隠しながらこちらに振り向く香苗の佇まいは教室の時を止めるように、クラスメイトのコンシャスを捕える。

「吉賀さん、だ、大丈夫よ…」

「くたばれ」

楓子の方に瞬発的に走ってきたかと思うと楓子の顔に拳が飛んでくる。反射的に引込めた頭の上を拳が通過して窓ガラスに激突し、割れた破片が校舎の外にも内にも散らばる。その音に朱里が頭を抱えて丸くなり、稔とのりこが立ち尽くし、向き合って弁当を食べていたアデルとめろが硬直する。香苗の崩壊はクラスメイトの怯えを呼び起こす。

「てめえなんか、てめえなんかくたばっちまえよ…」

呼吸を荒くした香苗から溢れ出すヘドロが楓子の首を絞める。

(吉賀さんが壊れた…)

香苗の拳から流れた血が黒い塊となって楓子の腕と手を縛る。その塊から楓子の顔に血が噴きかける。

(…わたしのせい…なの…)


 暗闇。廃墟ビル。青い太陽。

「ここらしいぜ」

頭に〔シャカイフテキゴウシャ〕という鉢巻を巻いたヤンキーが同じ格好をした[チュウソツニート]に囁く。

(このお兄さんたち…斬新ね)

廃墟ビルの前に立った楓子は冷たさを感じる。うさぎの人形を抱えた〔チュウソツニート〕の足が震えだす。

「や、やっぱり止めておこうぜ。何かやべえ気がする」

(ここに吉賀さんの憎悪、厭悪、怒り、悲しみ、無自覚の自己憐憫がいるのね…)

「余裕だって、はよ行くぞコラ」

楓子は自分のドスの効いた男性声に驚く。

(まさかの男…?)

〈大丈夫だわ。行きましょう〉と発するつもりだったはずの言葉が変換される。

「は、はい失礼しました。行きましょう」

[チュウソツニート]が楓子の発言に従順になる。楓子は自分の赤い特攻服に気が付く。でかでかと[有龍一家、組隊長]の文字。

(わたし隊長なの…)

ふと自分のリーゼント頭の鉢巻の存在を感じる。

(今時リーゼントなんて…)

鉢巻をとって見てみると[メンヘラオカルトチュウ]とプリントされている。

(…凄い、これでよく隊長まで上り詰めたわね…)

「隊長、隊長の言う事なら俺ら何でも従います」

[シャカイフテキゴウシャ]が楓子ヤンキーを強い眼差しで見つめる。小刻みに頷く[チュウソツニート]。

「良いから、そんな固くなるなって。遊びだろ? バイク乗ってる時とは訳がちげえんだよ。楽しむぞ。肝試しだぞ! 分かったか!」

「へい!」

懐中電灯を突き合わせる三人。

楓子ヤンキーがいかり肩で廃墟ビルの方に向かうと二人が後をついていく。廃墟ビルの周りでは葉を完全に散らした木々や辺りに響くカラスの鳴き声が不気味な雰囲気を醸し出している。廃墟ビルは旧民宿ホテルだという。かつて、そこで宿泊したであろう客の忘れ物が散乱し、剥がれた壁の残骸によって建物の中は雑然として足場も悪かった。その中で心霊スポットとして最も恐れられている部屋が存在した。108号室。その部屋には大量のぬいぐるみが置かれており、それは供養の為だという噂だ。もしもぬいぐるみを持って来ずにこの部屋を訪れた場合、巷ではそこに住み着いた子供の霊が怒りその人間をぬいぐるみに変えて一生遊ばれるという都市伝説すら漂流していた。テレビのバラエティ番組の潜入取材で実際に潜入した女性タレントが〈子供の声が聞こえた〉と気分を害してその場にうずくまるという演出を大げさに思えた彼らが〈これは演技だって〉〈この女別にかわいくもねーのによくテレビに出れるな〉と夜通し[シャカイフテキゴウシャ]の家に集まり盛り上がった。場所もそう離れてなかったこともあり楓子ヤンキーの思いつきで実際に訪れることにした。肝試しという名目の楓子ヤンキーの思いつきは、決して興味本位では無く何か使命感のような感情に駆られての生起だった。自分の肝を本当に試す時が来ていると、覚悟の末にバイクに跨った。勿論、その子供が癒すべき吉賀の憎悪、厭悪、怒り、悲しみ、無自覚の自己憐憫であると知っていたのだが、今回ばかりはどうしてか些かの不安が楓子の動悸を誘う。

実際にヤンキー仲間でエントランスを入るとカラスの鳴き声が恋しいほどの静けさで、おそらく受付カウンターであったであろうと思われる場所にはソファや観葉植物用のプランター、ラグなどが見るも無残な状態で重なり合っている。楓子ヤンキーはそれらの残骸を懐中電灯で照らしながら避けて道を模索しながら進む。残骸がかき分けられて通りやすいところもあれば、残骸を踏みつけて登るしかない場所もある。いずれにしてもそうする(・・)しか(・・)ない(・・)。そうするしかない選択をするうちに108号室には辿り着くようになっているのだろう。あの女性タレントが叫びながらいとも簡単に飛び越えていったように思えた残骸は、はるかに楓子ヤンキー達の進行を困難にする。

「隊長、ちょっと進むの早いっす…」

バイクの改造能力がグループの中で秀でており、マフラーの改造によって倍以上にも増した走行音でアスファルトを駆け抜けるあの雄姿とは一転して、[チュウソツニート]がもの静かに楓子ヤンキーの後ろにひっそりと隠れる始末だ。

「押すんじゃねえよ」

[シャカイフテキゴウシャ]が[チュウソツニート]と胸倉を掴みあう。右手にうさぎのぬいぐるみと懐中電灯をわざわざ握り直している[チュウソツニート]は必至の抵抗でうさぎのぬいぐるみを[シャカイフテキゴウシャ]に見せつけると声を出して驚く。

「俺は、両手が塞がってんだ。こいつ持ってんだから先行かせろよ」

真ん中争い。先頭を楓子が行けば、取り残されるんじゃないかという恐怖を最後尾の人間は抱えなければならない。

「片手で持てるじゃねえかよ」

「うっせえ、懐中電灯動かせねえだろうがよお、ああん?」

(もう、喧嘩なんかこんなところでしないでよ)

「はよ、こいや! いてこますぞ、この野郎」

「へい!」

 108号室の扉は半分開いたままであった。楓子ヤンキーが扉をギギギと強引に開ける。ひんやりとした空気が一気に三人を包む。団子状態になった三人が部屋の中へ懐中電灯を向けると床一面にぬいぐるみが置かれている。暗闇の中で照らされたぬいぐるみ達の笑顔の表情はもはや狂気染みていて、直視する事を阻まれるほどに毛が抜けてボロボロになっていたり黒い染みみたいなものがついていたりとにかく奇怪だ。[チュウソツニート]は必至で楓子にしがみついて目を瞑る。[シャカイフテキゴウシャ]が楓子ヤンキーと共に部屋全体を照らす。

「や、やべえっすよ。これは。隊長帰ろう」

体格に恵まれており、グル―プの中でもバイクの後ろでシャチホコという技を完成させた、たった一人の勇者としての面影をすっかり失った[シャカイフテキゴウシャ]のおぼ腰は引けている。

楓子ヤンキーが一歩前に進んだ時だった。

「アショボウ…」

小さい男の子のような声が確かに三人の鼓膜を震わせた。叫んで楓子ヤンキーの特攻服の中に頭を突っ込む[チュウソツニート]と〈聞こえちゃった、聞こえちゃったよ俺〉と楓子ヤンキーの特攻服を強い力で引っ張る〈シャカイフテキゴウシャ〉たちに楓子ヤンキーの一喝はもはや機能しない。楓子ヤンキーは喚き散らす二人を力ずくで振り払いながら部屋の奥へと進む。

「ごめんな! こいつらうるさくて! こいつら悪い奴らじゃねえ」

そう言いながら楓子ヤンキーが一人ずつ腹にパンチを入れると〈ううっ〉と倒れて少し静かになる。

「俺は、お前に会わなければならない気がしたんだ」

楓子ヤンキーが足元を誰かに引っ張られる感覚があったので、〈おめえらしつけえなあ〉と足で振り払おうと目線を落とすと大量のぬいぐるみが楓子ヤンキーの足に纏わりついている。

「あしょぼう…」

腐敗した壁の方から声が聞こえてくる。ぬいぐるみ達に引きずられる楓子ヤンキー。

(ちょ、ちょっと待って)

声が出ない。宙に浮いた不気味な人形が楓子ヤンキーの手を引っ張る。行先は…腐敗した壁。壁から細い人間の透明感のある片腕だけが飛び出している。

「隊長! これです!」

地面にひれ伏していた[チュウソツニート]がうさぎのぬいぐるみを楓子の方に見せる。

(早く! 早く! それを持ってきて)

声がでない。立ち上がろうと試みるが〈立てません〉と嘆く[チュウソツニート]。楓子ヤンキーの左腕を壁から飛び出した細い透明感のある腕に掴ませるようにぬいぐるみ達が誘導する。左腕を掴まれるとそのまま壁の奥へ引きずり込まれそうになる。冷たい。透明感の割に実在感のある手の感触に悪寒がはしる。[シャカイフテキゴウシャ]が[チュウソツニート]からうさぎのぬいぐるみを奪い取ると〈お前が必要なのはこれだろ〉と細い透明感のある腕の方へ投げつける。宙を飛んでいくぬいぐるみ。うさぎの耳の部分を掴むその腕は他のぬいぐるみの腕だった。うさぎのぬいぐるみは他のぬいぐるみ同士の奪い合いになって繊維が解けてバラバラになる。二人の方へ襲い掛かろうとするぬいぐるみ達に二人は〈やめろ、やめてくれ〉と座ったまま後ずさりをする。青い太陽が部屋を覗く。楓子ヤンキーが救いを求めるのはやはり神童烏。きっと西洋の剣がどこからともなく飛んできて楓子のピンチを救ってくれるに違いない。…が、次の瞬間。なすすべもなく壁に吸い込まれそうになる楓子の最後の希望は儚く散った。楓子の右腕を引っ張るぬいぐるみの姿が銀の(たてがみ)に学ラン…

(何で。何で、言ってくれたじゃん。わたしのピンチの時は救ってくれるって。約束してくれたじゃん。何で。何でなのよ)

ぬいぐるみと化した神童は楓子を腐敗した壁の方へと案内する。

(止めて! 止めてよ。離して)

もがこうとした楓子ヤンキーの左手を掴む透明な細い手の力が強くなる。

(痛い。痛いのよ。あなたは何様? わたしの神童君を返してよ)

「アショボー」

(何なのよ。遊ぼうって何なのよ。こんなやり方で遊んで何が楽しいの? あなたの都合ばっかり押し付けてきてさ。…ずるいよ。ずるいよ。ずるいよ。ずるいよ。ずるいよ!寂しいのはあんただけじゃない! わたしだって寂しいの!)

「だから遊ぶなら正々堂々と遊べってんだよ!」

楓子ヤンキーのドスの効いた声がようやく響き渡る。右手を引っ張る神童の姿をしたぬいぐるみを払いのけると壁に強く掌を当てて思いのままに透明感のある細いその腕をこちら側に引っ張り抜く。その勢いのままに飛びしてきたのは金髪美少年。

 …

 アスファルトを駆け抜ける数十台のバイクが騒音を鳴らす。

「…てな感じでおっかなかったんだぜ、お前」

楓子ヤンキーの右隣を並走する[チュウソツヤンキー]が楓子ヤンキーの後ろをしがみつく金髪の美少年に語りかける。

「こいつ泣き叫んでたからな」

「な、泣いてはないっすよ」

「おめえ、あれ見せてやれよ」

楓子ヤンキーがそう言うと、クラッチレバーを握り締める。コンクリート全体を振動させるようにマフラーの音が響き渡り楓子ヤンキーのバイクを抜いていく。その音に驚いた金髪美少年は両耳を塞ぎ、バランスを崩しかけた身体を楓子ヤンキーの片腕が支える。

「どうだ、おもしろいだろ、あいつ」

耳を塞いだ金髪の美少年が微笑む。

「あいつ、中卒って鉢巻してんだろ。実際まともに中学も通ってねえんだ。中学を休んでは、親の財布から金盗んでグラビア雑誌に全部つぎ込んだんだ。ある日、それが親にバレて勘当しちまったからここに入れてくれって土下座して頼まれて、全くどんな理由だっつうんだよな」

美少年が楓子ヤンキーにしがみつき直す。

「おい、外国の小僧!」

声のする方を振り向く。今度は左隣に並走したバイクのタンデムシートで、頭を下にして[しゃちほこおおお]と叫んでいる男がいた。[シャカイフテキゴウシャ]。その勇姿に周りのバイクがコール音で称える。

「あいつ、バカだけど、すっげえだろ。あの技はな、破天荒にやって見せてるけど練習の賜物なんだぜ。何回かバイクから落ちて骨折ってんだ。でもあの技完成させるまでやめなかった。熱い奴だぜ」

コール音を鳴らしながら楓子ヤンキーのバイクを追い抜いていく。楓子ヤンキーにしがみ付いた金髪美少年が背中をポンポンと叩く。[なんだ]と振り返った楓子ヤンキーににこっと笑って前方を指差す金髪美少年。

「良いのか? おまえ、後悔しても知らねえぞ。しっかり捕まっとけ」

そう言って急加速すると前輪が少し浮いてウイリー状態になる。再び前輪がアスファルトに着地すると次々に目の前のバイクを抜いていく。

「どうだ! これが隊長の実力だああ!」

先頭に立つと少し速度を緩める。楓子ヤンキーのパフォーマンスにコール音が鳴り響く。

「俺様が、有龍家特攻隊長。楓子様だ」

さらに鳴り響くコール音。先頭に立つ楓子ヤンキーのバイクは深夜の道路を開拓するように自由に走った。

「…おめえ、ほんとにヘドロなのか?」

楓子ヤンキーの特攻服が風を切る。金髪美少年にそう尋ねると、密着した金髪美少年から冷気を感じて震え上がる。

「お、おう確かに。おめえみてえな奴もいるんだな」

〈さみいよ〉と言って片手で金髪少年の頭をポンと優しく叩く。

(わたしと遊ぶ為に我慢していてくれていたのね)

青い太陽は深夜を優しく照らす。二度と日が昇らないこの世界で必死にあがくのは、香苗の闇と楓子の闇。バイクから鳴り響いたコール音は楓子の叫び。必死にしがみつく金髪の腕は香苗の孤独。美少年密着した金髪美少年と楓子ヤンキーがあがき合う。遊び合う。遊び合うというユーモアの選択は楓子にしか出来ないものであった。楓子にしか持っていない力、優しさ、ユーモア。香苗の闇は廃墟に住み着く正体不明の幽霊を、楓子の闇はおどけた暴走族を表現した。楓子のユーモアに惹かれた香苗の闇が必死にその純粋無垢な姿を保とうとする。遊びあう二つの汚れた魂が互いに切磋琢磨し向上し合う。そのうちに筆者が二度と日が昇らないと設定したこの世界ですら温かい日が昇ってくる気がするのだ。

「俺、隊長とかやってるけど、スイーツとかすっげえ好きなんだぜ」

先頭をはしる楓子ヤンキーのバイクは先が見えない道路を切り抜ける。

「おめえんとこの国だったら、うめえスイーツとかあるんじゃねえのか? 俺はなあムースが一番好きなんだ。マニアだろ。それもクルミのムースだ。俺、昔ハムスター飼ってた時によう、クルミをおやつとしてやってたんだけど、どうにもうまそうでな。一口かじってやったんだ。さすがに、ハムスター用に作られたクルミは味気なかったけどな。なんとかクルミを使って、うめえもん作りたかったんだ。で、たどり着いたのがムースってわけだ。クルミは血行良くしてくれたり、高血圧の予防になったりもするんだぜ」

「ビュウワ、ビュウワ」

「何、笑ってんだよ。隊長にはギャップも必要なんだ。強いばっかりじゃあ、怖気づいて誰も近寄ってこねえ。メイドカフェとか通い詰めているんだぜ。雑貨屋は好きだし、この特攻服なんておばあちゃんに塗って貰った。もはや、ギャップでもなんでもないか。メンヘラオカルトチュウだしな」

背中に温かさを感じる。

「なあ、おめえもそんな綺麗な格好してるけど実は、すげえ巨乳好きだったりするんだろ?」

返答がない。

「おい、無視…」

振り返るとそこに金髪美少年の姿は無かった。すると、青い太陽がゆっくりと沈んでいく。〈やべえ、暮れるぞ〉と[シャカイフテキゴウシャ]が叫ぶ。〈太陽についていくんだ! 沈ませるな〉と[チュウソツニート]が加速して走行音を立てる。しかし、青い太陽は沈むスピードを速めて暗闇が訪れる。というのもつかの間、逆から真っ赤な太陽が昇り始める。楓子ヤンキーは走行停止の合図を送り、真っ赤な太陽の方を振り返った。振り返った時そこには既に仲間の姿も無かった。逆光。眩しい。すると、真っ赤な太陽の中に見覚えのあるシルエットが浮かぶ。

(馬…)

銀馬に乗った神童烏。そのまま、楓子ヤンキーの所まで走ってくるとそのまま先へ行く。

「楓子、走ろう!」

「おめえ、この野郎!」

後を追う楓子ヤンキー。銀馬に乗った神童にラップ音を鳴らしながら追いつき並走する。

「何で、おめえがやられてんだよ」

「すまない! 失敗した!」

「ああ? 失敗しただと? おまえ、あのままあいつにおもちゃにされるとこだったんだぞ」

「本当に、助かった! 楓子ありがとう!」

「何がありがとうだ! …俺がどれだけやばかったのか知ってんのか! ピンチの時は助けに来るって言ったじゃないか」

「すまない…」

「なんなんだよ…くそ」

加速して、神童を追い抜く。神童も負けるものかと並走する。

「あれは、君にしか救えなかった! そして僕も救われた! 君には、僕にないものがあるってことだ! …僕だって完璧な存在じゃないんだ!」

「うっせえ! この、天然ボケの獣野郎がよ」

「…」

「何だよ、言い返せないのか」

「楓子、君だって、君だってそのリーゼントエビの天ぷらみたいだ!」

「んだと、この野郎、悪口絞り出してくんじゃねーよ!」

「君が言い出したんだろ」

「つべこべうっせえ奴だな。俺と勝負してみろ。どっちがゴールに早く辿りつけるかだ」

「ゴールって…どこの」

「知らねえよ、この先になんかあんだろがよ!」

「…分かった」

太陽に照らされて輝くアスファルトの上を二人は走り続ける。叫び合い、笑い合った。



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