嫉妬
丹田に温かいものを感じて意識を取り戻す。ケヤキがほとんど力なく佇む。
「ほんと、死んでってば。お願いだから」
朱里は、拳をギュッと握りしめる。楓子の隣の席のアデルが普段と違う朱里の姿に動揺
する。犬飼が答案用紙を配り終えると〈席につけ〉と言う。席を立つ楓子。
「わたし? わたしは死なないわ。あなたに殺されるまで死なないわ。死ぬまで生きるわ」
楓子の声が教室全体に響き渡る。楓子の席の窓から吹き荒れた風が二人のスカートを揺らす。のりこが楓子の方を振り返って笑みを浮かべる。楓子の言葉に一瞬教室は時を失って、楓子の口から発せられる言葉を否定する空気を忘れる。予想外の楓子の反応に頭が真っ白になった朱里が興奮に依存する。
「…何よ! 殺してやる!」
楓子に飛びかかろうとする朱里を取り押さえるアデル。
「離して! 離してよ!」
「やめときなって。一体どうしたっていうのよ。そんな感じじゃ無かったじゃない」
「離してって言っているでしょ! あんたが止めないでよ! ハーフだからってね、ちやほやされすぎなのよ。そんなのずるいじゃん。何、あやかってアイドル何てやっちゃってんのよ。あんたの、歌なんて興味ないのよ!」
アデルが朱里の身体から手を離すと、床に崩れ落ちる朱里。宇多田めろが口を開けたまま茫然自失となる。
「そんな風に思ってたんだ…」
〈なんだなんだなんだ〉と駆け寄る犬飼。
(このまま終わらせるわけにはいかない)
後ろ扉を目がけて走る楓子。〈おい、有龍どこに行くんだ!〉
「櫻井さん、タイマン張るなら外でしょ。カモン」
楓子は振り返って、床に転ぶ朱里を挑発する。
「引き返すもんか!」
そう呟いて立ち上がると、楓子の後を追う。〈おい、待てどこに行くんだ! 待て!〉犬飼の怒鳴り声に背を向けて教室に出ていく楓子は〈おい、何すんだ、離せ〉という犬飼の声を耳にして教室を一瞬振り返る。犬飼の服を引っ張っているのはのりこ。
(のりこ…ありがと)
楓子は、普段使わない太腿やふくらはぎの筋肉に痛みを覚えながら廊下を駆け抜けて、階段を下りる。後を追う陸上部の朱里は校舎から出るとすぐに楓子を捉える。
「…ちょちょっと早すぎるよ…ここだと、先生の守備範囲…だから…もう少し先に良い場所があるから…はー…そこへ行きましょう」
「どこへ行くのよ! 一体何なのよ。どこへ行けば良いの! そんなへとへとであかりに勝てる訳ないじゃない。もう、どうしたら良いか分からない」
あかりの頬をビンタする楓子。
「何するのよ!」
楓子の胸倉を掴む朱里。犬飼の〈どこだ〉という声が薄ら聞こえてくる。
「…まだまだ…戦えるわ。とにかく、わたしに…ついてきて」
再び走りはじめる楓子に、仕方なくついていく朱里。
まるまるとしたコキアに囲まれたベンチに倒れ込むように座り込む楓子。続いて、朱里がよろめきながら地面にへたり込む。二人の乱れ合う呼吸音のみが小さく響く。
「ここ…どこよ…」
「わたしが…いつも…お弁当…食べている場所よ…、コキア、可愛いでしょう」
「はあ…? コキア?」
「そう…この子達コキアっていう名前なんだよ。…あれ、櫻井さん…バテバテじゃない…、陸上部のくせに」
「うるさいわね…。高跳び…専門なんだから仕方ないでしょう…」
息を整える二人に風が吹きつける。汗が二人の身体から体温を逃がしていく。
「じゃあ、そろそろやる?」
「やるって、何をよ…」
「わたしを殺すんじゃないの?」
「はあ? …そんな状態で、あなた頭おかしいの?」
「言いだしっぺは櫻井さんよ。わたしの答案用紙どうしてくれるのよ」
「…」
「さあ、かかってきなさい」
立ち上がって両手を胸の前に構えるが、拳は作らずにくの字に整える楓子。
「何やってるの…」
「ミジンコのファイティングポーズよ」
「あなたとは、会話にならない。もう、あなたを攻撃する気なんて無くなったわ」
楓子は構えた手をおろす。
「そう、そうなのよ。櫻井さんが向き合うべき存在はわたしじゃないの」
「…さっきから何を言っているの? あかりは何しているんだろう…」
頭を抱えてしばらく黙った後泣きわめく朱里。
「終わった! あかりの学生生活終わった!」
「違う! 始めたの! 櫻井さんは櫻井さんの人生を始めたの!」
強い口調に変わる楓子。
「目立ちたければ、正々堂々目立てばいいの」
ドキッとしたように身体を硬直させる朱里。
「わたしなんかをいじめて目立ったって、専Ⅱ女子の価値観の中で埋もれるだけだよ。じゃあ逆に沢山わたしに優しくするとか、休み時間にアイス奢ってくれるとか、毎日可愛いって言ってくれるとか、した方が良いかもしれないわ」
「違う…違う、そんなんじゃない…」
朱里を囲む数多くのコキアが、朱里の狼狽を可笑しむようにそのまとまった樹形を顕示する。
「やっぱりここだったわね」
泣いているアデルの肩を支えながら、めろが立っている。微笑む楓子。狼狽に狼狽を重ねて立ち上がる朱里の目には大粒の涙。
「何よ、何でめろが来るのよ」
「アデルの事、あんな風に言われて黙ってられる訳ないでしょ。あんたは何、アデルに嫉妬していたの?」
「…い、いや」
「はっきり言いたい事があるなら言いなさいよ!」
アデルからそっと離れて、朱里の方へ向かうめろ。怖気づいたように、後ずさりする朱里。
「朱里! いってまえええええ」
楓子が叫ぶ。朱里の足が止まる。グッと顔を上げて、めろの方を睨む。
「嫌なの」
「はあ?」
「嫌なの、めろちゃんのことが」
『ねえ、香苗もあんたの事嫌ってるの知ってる? 化粧の塗り方間違ってて本当は友達と思われたく無いらしいよ』
めろの頭に蘇る稔の声。
「どいつもこいつも。で? だから?」
「…だから、もうめろちゃんの言いなりは嫌なの」
「はあ? 言いなり? あんたが勝手にやっているんじゃない。わたしが何したって言うのよ」
「しているじゃない! いつも、有龍さんをめろちゃんの言う通りにいじめたら良くやったってあかりを褒めるじゃない。もし、そうしなかったら、あかりどうなるんだろうって。めろちゃんが凄く怖かった。サンコイチに嫌われたら終わりだって思ってた」
「はあ、なるほどなるほど。それでサンコイチを脱退したわたしにはもう逆らえるってことね」
「関係ないわ」
泣き止んだアデルがめろに向かう。
「朱里は楓子を自分のやり方でいじめていたわ。わたしは隣でずっと見ていた。それに、誰よりも授業に集中してノートをとっていたし、夜私が忘れ物を取りに帰った時、一人でずっーと棒高跳びの練習をしていた」
「…何が言いたいの? アデル」
アデルが朱里の方へ向き直す。
「無理して、私たちとつるむ必要ないわ。あなたは、頭も良いし運動も出来る。勉強もスポーツも疎遠な私たちにそれをもっと評価して欲しいって気持ちはね、私たちにはしんどいものなの。勝手に良い大学行って、活躍すればって思うの」
アデルの本音に朱里は一瞬後頭部を鈍器で殴られたような解釈不能な大きな痛みを感じるが、その次に生じたのは決別の情熱であった。朱里は黙って、立ち上がると〈さようなら〉と一言、その場を走り去った。楓子はその後ろ姿をコキアと共に鼓舞する。めろとアデルは楓子を訝しそうな目つきで見た後に、背を向ける。その目は以前から続く楓子の奇天烈な行動に対する恐れと好奇心を宿していた。抱いた二人の後ろ姿にも、同じように感情を込める。
(皆、何かを抱えている。憎悪、厭悪、怒り、悲しみ、無自覚の自己憐憫、それだけじゃない。それでも何ともない風に振る舞うの。誰にも気づかれないように、沢山の思いを背負っている。それに生じた歪がわたしを攻撃する。なぜ、わたしかって? わたしにはそれに向き合えるだけの力があるからよ。わたしは、わたしの感性を守る為に自分を貫けた。そんな、わたしにだからこそ与えられる障壁はわたしにしか乗り越えられない。いじめっ子達の魂は、わたしの不幸を喜んでいるのではないわ。己の不幸を必死で嘆いているの。大丈夫。きっと、大丈夫よ。わたしは、わたしの心に従って生きていきましょう。何か…悟っているわね、わたし。ガウタマ=シッダールタ。世界史のテスト、来週返却だ。怖いなー)
コキアは楓子の感性を全て受け入れるような丸々とした優しい姿をしていた。
有龍楓子は縁側で濁った茶を嗜む。楓子にとっては休日の中で最も幸福な時間であり、太陽の光と庭園の植物が心を空っぽにしてくれる。空っぽになった心に染みる茶の味が毛細血管を利用して全身を巡るように楓子の身体を温める。真夏なのに、この温かさを温かいと感じられる精神は楓子の感性を豊かにする。風鈴の音色。
結局あの後、朱里はアデルとめろと一言も言葉を交わさなかった。授業を勝手に抜け出した人が多かったせいで、全体でのホームルームが犬飼の指導によって行われた。〈これは異常事態だぞ。先生、こんな事は初めてだ。櫻井、草野、宇多田そして有龍、登坂! 君達は授業を妨害したんだ。真剣に受けようと思っていた子達に迷惑だろう。一人ずつ説明してもらおうか〉楓子のいじめを知っている犬飼の表面的なアプローチに対して、クラスメイトは淡々と適当な嘘で対応してその場を凌ぐのみであった。〈有龍さんがあかりのテストの点数を馬鹿にしたからです。ガリ勉で気持ち悪いって言われて。カッとなってしまいすみませんでした〉〈…私は、櫻井さんと有龍さんの喧嘩を止めようとして熱くなりました。すみませんでした〉〈私はアデルが泣いているのを見て、ちゃんと話し合う必要があると思って、二人で教室を抜け出しました。今、思うとその時やるべき事では無かったと思います。すいません…〉それぞれの謝罪は犬飼の進行を上手に妨害しない程度のまとまった格好で教室の床にぽとぽとと落ちていくようであった。〈有龍、登坂お前達はこの場を借りて皆に謝っておきなさい。詳しい事情は職員室だ〉のりこも楓子もクラスメイトの嘘や犬飼の進行に抵抗する事はしなかった。
濁った茶は楓子の喉を潤して、苦みを与える。楓子の味覚を訪れた苦みは、静かに楓子の感性に溶け込む。風鈴の音色は、古民家を彩る。太陽の光に目を瞑ると力いっぱい背伸びをして、脱力する。
犬飼は、当日午後から出張であったらしく、呼び出しは次の週まで繰り越される事となった。次の日の世界史のテスト返却も先生の採点が遅れているらしく次回へ持越しとなった。楓子は、犬飼と世界史のテストの点数に対する期待と不安を抱えたまま休みに入った。犬飼に対する期待。それは、ほとんど楓子自身に対する期待であった。
勢いのある風が、楓子の浴衣を揺らすと温かい光が楓子を包もうとする。
「楓子、今日暇やろ」
預けそうになっていた身をびくりとして取り戻す楓子。日名子がタバコをわざわざ口に咥えながら見下ろしている。
「パパの墓参りにでもいかんか。あたしと」
こくりと頷く楓子。
車の中は家に居るときとは違った空気を感じられる。換気口から入ってくる排気ガスの匂いが、楓子の嗅覚を刺激する。なんだか、安心した気持ちになる。日名子の吸うタバコの副流煙が外風によって運転席の方から幾らばかりか助手席の楓子の方に流れてくる。なんだか、落ち着く。自然を愛する楓子はこれらの匂いに受容的で安定した心を誘発される自分が少し嫌になったりもした。日名子が開いた窓を閉めると、雑音が遮断されツクツクボウシが鳴いていた事に初めて気が付いた楓子は姿勢を整え直した。朝から夜まで仕事に明け暮れる日名子に対する楓子の気配りは、会話の対象を車外に求める。
「ここの、コンビニ無くなったんだね」
「結構愛用しとったのに、不便やわあ」
(自分の話をしても仕方がないわ。ママはお仕事で疲れているのだから。せめて休みの日ぐらいわたしが居心地を良くしてあげないとね。わたしの為に働いているのだから)
流れてくる副流煙を意識的に吸い込んでみると少し意識がぼーっとする。
(働く…働くって何をするのだろう。どんなことするのだろう…未知の世界…。お金を貰うって、そんなに大変な事なの。きっと、わたしなんかには到底できない事ばっかりなのだわ。ママは、凄い。わたしには到底適わない存在よ)
「テストどうやったん」
「…え、ああぼちぼちかなあ…」
「理科よう勉強しとったやん。あれどうやったん」
「理科…? 生物のことね。んーあんまりだったかな」
「そうなんや、まあええやん、どうせそんなんおとなんなっても使わへんしな」
(クラスの子に教科書を破られて勉強出来なかった箇所があった事や答案用紙をぐちゃぐちゃに丸められて窓の外に投げられた事を話したら、ママは一体どうするのだろう)
「楓子、元気か?」
「うん」
「いや、なんていうかな、植物」
「えっ?」
「庭のや。最近、枯れてないな」
「うん…、だってママ怒るじゃん」
「そうや、大事にせなあかんねん」
車は山道を上っていく。固くなった楓子の身体をほぐすように車体が揺れる。急なカーブと逆方向に体重を倒してバランスを保つ楓子に働く慣性の法則はハンドルを握って車をコントロールする日名子のそれとは少し異なるようだ。次のカーブに備えるように楓子は予め先を見通す。
「ママに何にも言うてこんしな。植物も枯らしてないやん。相当、元気なんかなと思ってな」
「…うん」
「楓子、友達できたんやな」
「え?」
カーブで楓子の身体が大きく傾く。
「うちに、お友達呼んだんやろ?」
「え、え、呼んでない」
「ええんや、別に勝手にあがってもろても。ちゃんと、飲みもんとか出してあげたか?」
(のりこの事だろうか)
「う、うん、お茶出した」
「まーた、そんな渋いもんを」
笑った日名子の横顔は、木々の隙間から出でる光に一瞬照らされたり、照らされなかったりを素早く繰り返す。
「…なんで分かったの?」
「ああ、匂いや」
「におい?」
「よそ様にはよそ様の家の匂いがあるやろ。うちにはうちの匂いがあるからな、誰か来たら匂いですぐ分かるんや」
「ふーん」
少し自慢げな口調な日名子にムッとする楓子。
(そんな事には敏感なのね)
ウルシ山とは学校を挟んで対称的に聳えるこの輪山には、山頂付近の墓地を囲むようにして樹木や植物たちが根付く。初夏の光に照らされた樹木や植物たちが死者の魂を癒すのを心待ちにしているように生き生きとする。後部座席に置いてあるガクアジサイの花束は、日名子に言われて楓子が摘んだものだった。砂利の上を行く車が、バリバリと音を立てて駐車する。楓子は、一旦助手席を下りて後部座席の花束を取り出すとそのまま管理事務室へと向かう。日名子は、〈トイレ行くわ〉と言って左手をあげて合図をする。楓子は冷房の効いた管理事務室と外との寒暖差に一瞬頭がクラッとなる。
「楓子ちゃん、久しぶりだねえ」
管理人の川本陽二郎は、専Ⅱ男子クラスの川本将史の父親である。普段はお寺で住職をしているが、輪山の霊園管理も業務の一部らしい。
「つるハゲ! こんにちは」
「こんにちは。あれ、今日は…一人なのかい?」
つるハゲとは楓子が陽二郎と初めて会った幼き頃に突発的に呼んだであり、焦って楓子の口を塞ぐ日名子の一方で、陽二郎がその純朴さを優しく受け入れたことによって定着したあだ名である。
「いいえ、ママと来たわ。今は、お手洗い。いつもの貸してくれる?」
「そうか、はいはい」
穏やかな陽二郎の笑顔は川本のそれととても似ている。川本を坊主にして皺をいくらか増やせば陽二郎とほとんど見分けがつかないだろう。
「どうぞ」
陽二郎が、手桶と柄杓を渡そうとするが片手いっぱいに花束を抱える楓子の様子を見て〈持てるかい〉と声を掛けるも、片腕に手桶をぶらさげ柄杓を握ると〈ありがとう〉と言って外へ出る楓子の姿は見慣れた光景であった。
「日名子さんの事頼むよ、楓子ちゃん」
楓子の父親は、楓子が生まれる前に亡くなった。中学時代、顔見知りであった陽二郎の耳には、鬱病が原因の自殺であると噂程度には入っていたが真相は定かではない。葬式の時は淡々としていた日名子がお腹に楓子を宿してほとんど毎日この霊園に来て泣き崩れる姿を、静かに見守るしかなかった。何にも分からないのだから。日名子が帰った後に、墓周りを清掃してやる事ぐらいしか出来なかった。楓子が生まれてからようやく墓には埃を被る暇が許された。楓子が成長するに連れ日名子が墓に訪れる頻度は減っていった。学校に通うための資金調達や、日々の生活に精一杯だったのかもしれない。陽二郎は、楓子の父親と顔見知りとは言うものの話した記憶はほとんどない。中学時代の彼の印象は、シャイで変わっていてそしてとにかく優しかった。その優しさはおそらく道徳的な学習によって得られたものではなく咄嗟の災難でも他人を優先して助けるような根本的な性格だと陽二郎には思われた。あの出来事だけは忘れられなかった。山々に囲まれていた中学校には農作物を荒らすついでに熊が時々顔を覗かせる事があった。勿論、鉄線を張るなどの厳重な警備はしていたものの、学校の近くに熊の目撃情報が入ると警報音が校内に鳴り響き、念のため運動場にいる生徒は強制的に校舎へ避難するルールとなっていた。どうせ、熊なんて入ってくるわけがないとアメフットのボールでパス回しを続けていた陽二郎と友人二人は警報音を無視して続けていた。叫び声が聞こえたのは陽二郎が投げすぎたボールを友人が取りに行った所だった。後の新聞記事には体長五十センチ程の小熊であったと綴られていたが当時中学生の陽二郎達にとっては、とてつもない恐怖の対象となるのに十分な大きさであった。陽二郎が駆け付けた時には、友人は左足を咥えられて運動場の隅の方へ引きずられていた。〈助けてくれ!〉という大声に対して陽二郎ともう一人の友人は、その非日常的な光景に困惑と恐怖を覚えその場に立ち竦んでしまった。陽二郎は、咄嗟に自分の中に鉛のように重たい思いを感じる。絶対に後悔する。ここで、友人がやられてしまったら俺たちは絶対に後悔する。一生引きずらなければならない。陽二郎は強く拳を握って、一歩進めると熊が立ち止まりこちらを見る。毛根の隅々に冷たい汗を感じ、それが一気に引いていくのが分かった。陽二郎は進めた一歩を戻して、さらに二、三歩後ずさりしてしまう。そして、叫んだ。
「誰か! 誰か来てくれ! 熊だ! 熊が出たんだ!」
誰もいなくなった運動場に響く陽二郎の声は、余計に他に誰もいない事を陽二郎達に再度意識させて二人の恐怖をさらにあおるだけであった。不安を示すように隣の友人も叫びながら小石を小熊に投げつけるが、当たらない。逃げようとした友人の足元に再び熊が喰らいつこうとした時だった。
「こっちだぜ! 熊吉!」
熊の横を全速力で駆け抜けたのが彼だった。彼の去っていく後ろ姿を目撃した熊は、本能的に彼の方へ突進していく。すると、彼は熊の方へ向き直してこう言った。
「ごめん。元々ここは君達の住みかだったよね」
興奮して突進する熊に対して、ゆっくり歩いて行く彼の表情は穏やかで微塵の怯えすら感じさせなかった。その姿に、一瞬立ち止まった熊が銃声と同時に地面に倒れた。
「熊吉!」
熊に寄り添った彼は、先生に引き離されるまで泣いていた。困惑と恐怖から解放されてこぼした陽二郎の安堵の涙とまるで正反対の感情が含まれているようであった。もしも、熊が殺されなかったら彼はやられていたかもしれない。彼がこの世に存在しなくなった今、余計にその時の光景が陽二郎の頭の中をぐるぐると回り、記憶を支配した。
楓子から花束を受け取った日名子は、管理事務所内の陽二郎の方へ軽く礼をして墓石のある階段を上り始めた。楓子は日名子の上った後の階段を上っていく。父親の墓石に到着すると、摘んできたガクアジサイを供えた楓子は合掌する。
(パパ、楓子だよ。だいたい一年ぶりかな。これからもママの事、守ってあげてね)
楓子が合掌を終えて振り返ると日名子が合掌を続けている。
「なあ楓子」
慌てて合掌を再開する楓子。
「なに?」
「楓子は、将来どうしたいとかあるんか」
「将来? え、いやまだ決まっていないけど。高校二年生だしそろそろ考えなきゃね」
「そうか」
静寂の墓地にツクツクボウシの鳴き声のみが木霊する。
「大学、オッケーやからな」
「え?」
「お金の事は何にも気にせんでええで。楓子は楓子のやりたい事、やったらええんやからな。昔っから気い使いいやから、それだけは言うとかなと思ってな。自分の為に頑張るんやで」
「…う、うん」
(将来の事なんて考えた事無かったな。だって、だってだってだって今を生きるので精一杯なのだから。何で大人はいつも将来の事ばかりを言うの。今が全てじゃない。将来の為に今を犠牲にしろとでも言うの? ねえ、パパ。パパもわたしにそう言っているの。パパはわたしの毎日、見てくれているよね)
「いつまでやっとん」
合掌を終えた日名子は楓子を無理矢理からかうような口調で声を掛ける。楓子から柄杓を受け取って、少し手荒く墓石に水をかけてやる。楓子は日名子が水を汲みやすい位置に手桶を動かしてやる。
「ねえ、ママ」
「なんや」
「パパってどんな人?」
黙ったまま、二回水をかける日名子。
「アホや」
「アホ?」
「そう、ドアホや。何や、前までそんなん聞いてこんかったのにどうしたんや急に」
「い、いやあ、別に。良いじゃない…」
整地されているはずのコンクリートの隙間から小さなイグサが窮屈そうに咲いているのを見つけた日名子は柄杓に残った水滴をパッパとかけてやる。不満そうにイグサの方を見る楓子は日名子に柄杓を手渡され、父親の墓に向き合う。
(ママの事よろしくね。わたしにはどうしようもないから…)
管理事務所の方から陽二郎が見上げる。楓子は輪山の空気を足裏から吸い込むように身体全体にいき渡らせ、手と足の指から一気に吐き出すように深呼吸をする。
(見ていて、わたしの事も)
父親の墓石に誓いの水をぶつける。
(さあ、今週が終われば夏休みだ)




