解放
目の前に、楓子が苦悶の表情を浮かべている。自分の右手が楓子の髪を掴んでいることに気が付く稔。今のは何だったのだろう。あまりにも浮世離れした世界の記憶に困惑する。
「ねえ、玉井さん、とりあえず手離してくれる?」
楓子が笑顔で言う。稔は、恐ろしくなって楓子の髪を掴んでいた手を離す。楓子の笑顔が生まれる根源を全く想像出来なかった。ついさっきの世界においてもそうだ。包容力を宿す程の余裕を感じさせる楓子は、自分たちのいじめを黙っておどおどと受け入れる以前の楓子とあまりにも異なる。ただ狂って自分たちの攻撃から逃れようとしているのではない。単なる防御姿勢の発見ではあるまい。なぜ、今笑える。彼女は本当に人間なのだろうか。稔が初めて楓子に対する興味を抱く。
「ねえ、玉井さん、もう一度わたしの髪を掴んでくれる?」
楓子はまるでお菓子でもねだる様なテンションで目を輝かしている。稔は楓子を凝視する。稔が掴んで引っ張った部分の楓子の髪が傷んで散らばっており白い皮膚が露呈する。この手で傷つけた楓子の毛根と頭皮はその傷を修復するのに一体どれだけの時間が必要なのだろうか。地面にへばりつくようにして投げ捨てられ、土で汚された楓子の透明なカッパはどこでどのようにして透明さを取り戻すのだろうか。無限のように糸くずが生まれる楓子の学生鞄は楓子の希望を運べるのか。英語の試験に向けて備えておくべき楓子の集中力と記憶力は、痛みに耐えられるのか。楓子の望みとは一体何であろうか。めろとの共感を得るという結果の対価がこの一人の女性の存在価値の否定なのだろうか。
「玉井さん? 好きなだけ掴んで良いよ。三年くらい。そのまま、一緒の大学に入学しよう。わたしとニコイチね。サンコイチ解散騒動勃発ってわけ」
しかし、それでもだ。人の痛いのは三年でも辛抱してしまうのだ。楓子の存在価値の否定は、めろとのコミュニケーションを円滑にする。沈黙は地獄。音の無い世界など住めるはずがない。
「何こいつ。二度と学校に来るな。ブス。行きましょ、めろ」
稔はめろをリードして歩き始める。めろは楓子をどこか不思議そうな眼で睨んだ後、稔についていく。
めろと稔が取っ組み合いの喧嘩をしていたのは、一限目の英語のテストが終わった休み時間であった。楓子がいじめられている冷淡で安定した空間に依存して麻痺していたクラスメイトにとってその突発性は解釈不能であり、より一層の不安と恐怖による抑制本能からめろと稔の喧嘩を止めようとした。楓子は、二人の姿を笑顔で見守った。
「てめえの話がつまんねえんだよ!」
両腕をクラスメイトに抑えられためろが叫ぶ。
「何だとこのクソギャル野郎! ファンデーションお化け。ねえ、香苗もあんたの事嫌ってるの知ってる? 化粧の塗り方間違ってて本当は友達と思われたく無いらしいよ」
稔は取り押さえられながらも笑みを浮かべる。
「黙れ! 黙れ黙れ黙れ黙れ!」
「何? 泣いてんの? 塗りすぎのファンデーションがぐっちゃぐちゃで泥みたい。きもーい」
「アハハハハハハ」
「何笑ってんのよ。あんたも有龍さんと同類ね。気持ち悪い」
「香苗におんぶにだっこ? ダサすぎでしょ。金魚の糞。いや、金魚の糞に失礼ね。ずっと思ってたけど、学級員してる時のあんたいきっててほんとに見てられないからね。ここにいる全員思っているからね。何勘違いしているの? 誰もあんたの事凄いとか思ってないから。指揮者の時なんてびっくりするぐらいのドヤ顔だったじゃない。あたしら全員ドン引きだったからね」
稔が顔を赤らめて、泣き叫ぶ。
「何なのよ!」
「はい、そこまで。二人ともどうしたのよ! とりあえず一旦落ち着こうか!」
遅刻してきた香苗がドアの前に立っている。登坂のりこは黙々と次の科学の勉強を続けて
いる。
ウルシが葉を散らして、その細い枝を風に揺らす。空は薄暗く夕焼けを灯す。枝の間か
ら差し込んで注がれる夕日は楓子の疲れた表情を緩和させるように照らす。
「いつもごめんね…ちょっと疲れちゃって」
風に靡くウルシの枝は楓子の孤独の嘆きを受け止める。
サンコイチが解散報告は、教室で香苗と稔が二人で会話する一方、めろが櫻井朱里とめろの席で向かい合う光景によってなされた。めろと朱里の元へ二枚のCDを手にした草野アデルが近寄ると、一人に一枚ずつ渡す。
「わー、ありがとう、アデル! ずっと聞きたかったの。普通のCD屋さんには置いてないもんね」
メロは大げさに反応する。稔と香苗の席まで聞こえるか聞こえないかぐらいの声量。二人を意識している。サンコイチの解散というよりもめろの独立であった。
「ありがとおー」
めろの反応に慌てて沿うように、朱里が声を震わせる。CDのパッケージには幼い少女の絵が風船を追いかけている。アデルのアニメ好きはクラスでも有名であった。アデルの教科書には、アニメキャラクターの落書きがあり、ページを捲るたびにクラスメイトからは歓声があがった。そして、容姿端麗。身長が一七〇センチを超えている上に、細見の身体で色白、自然な二重の目に透き通った鼻筋、分厚い唇。周囲から憧れと嫉妬と羨望の目で見られた。アデルの出来上がりすぎた外見は男子生徒に魅惑と敬遠を催させた。自分には釣り合わないと距離を置く男子と猛アタックする面食いの男子に大きく二分割された。香苗がクラスの裏のまとめ役とするならば、アデルはクラス全員に受け入れられたシンボルのような存在であった。彼女に対する羨望や嫉妬心は、彼女に対する直接的攻撃への原動力とはならなかった。クラスメイトの中では崇高な存在であったからだ。父がイギリス人で母が日本人という生まれはクラスメイトに特別視され、容姿端麗である事はそもそも土壌が違うと思われた。手の届きそうで届かないものに対しての嫉妬や羨望はそれを解消しようと対象を何らかの形で陥れようとするのだが、アデルの容姿端麗さは日本人である限り手の届くものではないとクラスメイトに判断された彼女はハーフちゃんというあだ名をつけられ、崇められることによって嫉妬と羨望をかき消した。崇拝は距離を保つ。アデルは孤高にクラスメイトと接する事しかできなかった。その為、アニメ好きというアデルの趣味ですら神格化され、どんなに腐女子の落書きを教科書に書こうが画の上手い外人止まりであった。アデルは言葉のスキンシップが欲しかった。それが例え批判や侮辱であっても良い。同じ土俵で話したい。めろは、容姿端麗のアデルの味方につけて香苗や稔のグループ対抗しようというのが表面上の動機であったが、サンコイチ時代からアデルとの波長の一致を感じていた。
「アデルってお父さんの写真持ってないの?」
「ほんとだ、みたいみたい!」
朱里がめろに連動する。
「うーん、今は持ってないや。今度持ってくるね」
「残念、ハーフちゃんのお父さんすっごくイケメンなんだもんねえ」
朱里が大袈裟なリアクションをする。
「朱里見たことあるの?」
「うん、ハリウッドスターって感じだよ。めろちゃんもきっとタイプだよ」
「そ、そうかもね…」
「そんな事よりさあ、二人とも日曜の僕のライブ見に来てくれない?」
アデルは右手でピースサインを作って、顔の傍に近づけてわざとらしくポーズをとる。一人称が〈僕〉である事によってもアデルというキャラクターはクラスメイトの中でも際立っていた。周りと違うことがアデルの場合、ハーフとしての特別視を基盤にして全てクラスメイトに受け入れられているようであった。出る杭は打たれるが出過ぎた杭は根本的に打つという意識すら消失させている。
「何やってんのアデル…ライブって何なのよ」
めろが思いのままに反応する。
「またやるの?」
目を輝かせるのは朱里。
「え、ライブって何の? アニメの?」
「めろちゃん、知らないのね。ハーフちゃん、アイドルなんだよ。CD見てみて」
アデルに借りたCDの入れ物の隅にミックスガールズと直筆で書かれていることに気が付く。
「アデルがアイドル? アデルがアイドル…アデルがアイドル? アデルがミックスガールズ?」
「そう! ミックスガールズっていうアイドルグループのライトポジションつとめているんだよ。凄くない?」
めろは、ミックスガールズを知っていた。その姿すら見たことは無かったが、音楽を知っていた。ハーフアイドルの三人組の青春パンク。英語を交えながらの曲はめろの耳にこびりついて離れなかった。そもそもミックスガールズの魅力をアデルに語った時に、アデルがあまりにも嬉しそうな表情をしていたことが理解できた。わざわざ、自分がミックスガールだと名乗らなくてもそれは周知の事実であるとアデルが思っていたのかもしれない。サンコイチという何の音楽も生み出せないちっぽけなグループで隔離状態になっていためろにはその情報が届くことは無かった。
「ご、ごめん、そういえばめろには言っていなかったっけ。インディーズなんだけどね…」
アデルが頭を掻いて照れる。まさかあのアデルがこのアデルなのかという自分の好きな音楽を奏でる人間が目の前にいる事に単純に興奮する一方でアデルと朱里の関係を訝しく感じためろは、香織と稔の関係性による自らの傷心経験によって、また同じようになるのではないのだろうかという恐れを抱く。普段大人しく控えめで、めろに対して従順な朱里はまるでめろに話題を提供することを誇り高き行為だと思っている風にめろには感じられ、その朱里の姿に、あの無音を恐れて無意味な話題をねじ込んでくる稔への嫌悪感と似たような感覚を覚えた。朱里は、アデルの魅力に身体を委ねているのだろうとめろは推し量る。
「インディーズっていっても、ものすごい熱狂的なファンでいっぱいだよね。めろちゃん、ハーフちゃんは凄いんだよ! ハーフちゃんはね、ファンに貰ったプレゼントを全部大切にするんだ」
「…朱里はどこまで僕の事知っているの。ライブ、来たことないくせに」
苦笑いのアデル。
「今度の日曜日は来てね」
「…今度の日曜日…あっちゃあー、あかり、美容院の予約入れているの」
朱里がわざとらしく残念そうな表情を見せる。
「私、行けるわ」
めろが朱里の回答にわざと連動する。
「めろ、本当?」
嬉しそうなアデルは思わずめろに抱きつく。その光景に、動揺を隠せない朱里。
「ハ、ハーフちゃん、時間帯はどれぐらい? あかり、夜なら行けるわ」
「夜の七時からだよ」
めろに抱きつきながら顔だけを朱里の方へ向けるアデル。
「あ、あかりもいける!」
朱里にも抱擁するアデル。めろは、二人に聞こえないくらいの舌打ちをして、鞄に大事にCDをしまう。チャイムの音でアデルと朱里がそれぞれの席に戻る。めろは自分の机の上に忘れられたもう一枚のミックスガールズのCDに気が付くが敢えて何も言わずに放置したまま、鞄から生物の教科書とノートを取り出す。
犬飼が一人一人のクラスメイトの名を呼ぶ。名前を呼ばれた生徒が順に返却される答案用紙を教卓の方へ取りに行く。楓子のひとつ前の席の朱里が答案用紙を受け取った場合は必ず黒板を前方にして左前から二番目のめろの席に寄って、互いに点数を見せ合う。出席番号順の為、めろの方が先に答案用紙を裏返して落ち着いている。朱里は答案用紙を受け取ると、めろの方を見て口パクで〈やばいやばい〉とアピールする。見慣れた光景。すぐさま点数部分に折り目をつけて隠すのも朱里のシステマチックな習慣である。朱里はめろの机に近づくとめろにだけ点数を見せるようにする。めろは、〈凄い〉という。そもそもめろは朱里と競っている訳ではなかった。都会の大学を志す朱里はクラスの中でもトップクラスの成績で、その異常さに興味を抱いためろがテストの点数を見せるように朱里にお願いしたところ、何の躊躇もなく点数をめろに見せた事が始まりであった。故にめろが朱里に点数を開示する場合は朱里との差を自嘲的なユーモアを孕んだ雰囲気で語って笑いを生むぐらいの事でしか考えていなかった。しかし、毎度めろの平均点以下の点数を見せつけられた朱里は笑うことをせず、〈あー〉とか〈おー〉ぐらいの返答をしてすぐに具体的な解答箇所の話題へと移り変えた。朱里はめろにテストの点数を見せた後、黒板を前にしてめろの右斜め後ろの席ののりこの方をあからさまに蔑んだ目で見る。のりこの机の横に掛けられた体育館シューズに視線を移し、片手で鼻をつまむ。めろが声を控えて爆笑する仕草をする。のりこはそれを視界に入れながらも黙って答案用紙を返却する犬飼の様子を眺めていた。楓子の方へ歩いてくる朱里。楓子は、朱里の内股の歩き方を俯瞰する。
(朱里はめろに従順である事で安心感を得たいの? 違うわ。あなたの憎悪、厭悪、怒り、悲しみ、無自覚の自己憐憫をわたしは知っているわ。あなたはあなた自身でも気づいているはずよ。それはね…)
楓子の前に止まると、楓子の答案用紙をじっと見つめる。裏返しにも点数部分に折り目をつけられてもいない楓子の答案用紙は所々糸くずを発生させている楓子の黄土色の筆箱で固定されている。楓子の答案用紙を引っ張り抜いて、ぐちゃぐちゃに丸めたかと思うと窓の外へ投げ捨てる朱里。こんなにも大胆で突発的な朱里の姿を初めて見た楓子は、自分が多くの時間を費やしたその紙へのアプローチを一瞬忘却する。めろが後ろを振り返って驚嘆している。おそらくいつも通りであれば、無防備なテストの点数を敢えて強引に確認されそれをめろに伝えるというのが朱里のシステマチックな習慣であるはずだ。朱里のシステマチックな動きに対してシステマチックな感情を抱いていていれば良かった楓子の心は揺らぎ、目を泳がせる。泳いだ目はクラスメイトをぼんやりと捉える。ピントの甘い楓子の視界の中でいじめっ子の肌色の面が薄らと浮かぶ。彷徨った楓子の目は朱里の手元にピントを合わせて落ち着いた。朱里の震える握りしめた拳。
(そう、自己顕示欲。あなたには野心があるわ。めろやアデルを利用して自分を輝かせようとしているのね。埋もれたくないから必死にもがいているのね)
「ほんとに死んでよ。お願いだから」
微かな声で楓子に語りかける朱里。
(あなたはあなたの意志でわたしを追い込むことで、あなた自身を表現しようとしているのね。良いわ。あなたの勇気にわたしも答えてあげる。お相手差し上げましょう)
朱里の鼻の穴からヘドロが噴き出すと楓子を圧迫する。ヘドロを浴びた楓子は全身に冷えを感じるが、表情は非常に安らかである。
(待っていたわよ。どんとおいで)
車内。真昼間の高速道路。ゆったりと流れる景色が静止する。渋滞。ハンドルを握るのは肉体を強張らせて背筋をピンと伸ばしたスーツ姿の人型ヘドロ。スーツ姿の楓子は後部座席からミラーを通して人型ヘドロを見つめる。人型ヘドロの赤黒い目と目の間に時計が埋め込まれている。時計の長い針が動く度にその針がヘドロの顔面を抉り取る。悲鳴をあげる人型ヘドロは、肉体を捩る。後部座席の窓を開いて風を迎え入れる楓子。楓子は一つ括りのゴムを外して髪を靡かせる。抉られて飛び散った人型ヘドロの肉片が楓子の腕につく。楓子は微笑むと、大きく深呼吸する。
「先輩、大丈夫ですよ。そんなに焦らなくても。わたし、下道で近道知っています。次のインターチェンジで降りて頂けませんか」
不安定な道でガタガタと揺れる車内。
「ここを右です」
楓子の指示に従ってハンドルを操作する人型ヘドロ。閑静な住宅街を進む営業車。楓子は
車内用携帯をポケットから取り出して触り始める。
「すいません、トイレ行かせて下さい」
人型ヘドロの赤黒い目がミラー越しに強く楓子を睨む。
ガソリンスタンドのトイレから走って出てくる楓子。座席中に人型ヘドロの肉片が飛
散っている。
「ギュウウウウウウウ」
「ごめんなさい、お待たせしました」
楓子は助手席の扉を開くとタオルでヘドロをふき取って座り直す。
「ウギャウウギャウ」
隣の人型ヘドロが楓子の方を睨んでいる。
「大丈夫です。間に合いますから。行きまっしょっか」
人型ヘドロの目をしっかりと見つめて、笑顔を見せる楓子。
遊園地の入り口付近に止まる営業車。
「ギュアアアアアアアアアアアアアアア」
人型ヘドロが楓子の首を絞めようとした瞬間に、運転席の扉が開かれる。
「お待たせしました!」
楓子を押し倒すような格好になっていた人型ヘドロの姿を見て、申し訳なさそうに頭を下げるのは営業先のTシャツとハーフパンツ姿の中年男性。
「遊園地接待って新しいですね」
急いで運転席から降りて頭を下げる人型ヘドロ。中年男性は両手に、大きな紙袋を持っている。ゆっくり、助手席の扉を開いて車を降りた楓子に中年男性はその紙袋を上に挙げて見せる。
「僕のセンスだけど、気に入らなかったらすいません」
中年男性と楓子を交互に困惑して見る人型ヘドロの眉間に埋め込まれた時計が地面に落ちて、バラバラに壊れる。楓子は、中年男性から紙袋を受け取ると人型ヘドロの方を見つめる。
「先輩、今日のお仕事楽しみましょうね」
ジャージ姿の楓子と人型ヘドロ、中年男性はひつじコースターの列に並ぶ。
「何でジャージなんですか。もっと可愛いのあったでしょ」
不満そうな楓子は頬に空気を溜めて中年男性の方を睨む。固まる人型ヘドロ。
「すみません、動きやすいのが一番かなと思いまして…」
頭を掻きながら苦笑いする中年男性の傍でそわそわとする人型ヘドロの背中を中年男性がポンと叩く。
「お仕事中ですよ、ちゃんと楽しまないと」
笑う楓子と中年男性。楓子が何かを思いついたような顔で二人を見上げる。
「まだしばらく並ぶと思うので、わたしアイス買ってきます! 先輩は何が良いですか?」
首を横に振って、先に聞く方を間違えているというように焦って中年男性の方に掌を向ける人型ヘドロ。中年男性は再び、人型ヘドロの背中をポンと叩く。
「ユア、チョイス」
戸惑う人型ヘドロに、安定した表情で話しかける中年男性。
「ビャビャビャ、ビュアニラ」
「ナイスチョイスですね! シンプルイズザベスト! 私も食べたくなってきました よ。では、私もそれを一つ」
「中年男性さんも、バニラですか?」
ふき出す中年男性。
「ビュウワ。ビュウワ」
思わず笑う人型ヘドロ。つられて笑う楓子。人型ヘドロが即座に笑う事を止めて楓子の首
を絞めようとする。
「良いんです。良いんです。どう見たって中年男性ですから」
人型ヘドロを宥める中年男性は、楓子の方に向くと〈アイスよろしくね〉と優しく言う。
楓子は〈はい〉と大きく返事をしてその場を離れる。二人きりになって、人型ヘドロは気
まずそうに楓子の事を謝るようにして頭を下げる。〈いえいえ、とんでもない〉と手を振
る中年男性はやはりどっしりと落ち着いて心穏やかで、前に進む列に自然と溶け込むよう
に、同じペースで進み続ける。中年男性に頭を下げる人型ヘドロの視野は困惑と焦りのせ
いで狭くなっており、時折前の人のかかとを踏んではさらに深く頭を下げた。
「大丈夫ですか、ヘドロさん。ヘドロさんは、ジェットコースター平気なのですか?」
「ダイジョーブ、ギュ」
「そうなんですね。私、実は今、手汗凄いんですよ。苦手でしてね、その反面娘は大好きなんですよ。だから、遊園地に行く度に億劫でしてね。今日は、それを克服したいっていう気持ちもあるんですよ。楽しみ方いっぱい教えて下さいね。ヘドロさん」
「…ギュギュギュ、ギュウ」
「有難うございます。ヘドロさんは、ご結婚とかってされているんですか?」
首をかしげる人型ヘドロ。
「そうなんですね。でも、独身時代は独身時代で楽しかったなあと思いますよ。昨日だって、遅くに帰ってから嫁にカレー作ってってせがまれたんですよ。それで作り終わったのが、もう日を跨ぐ直前だったんです。ソファで寝転んでバラエティ番組を見ている嫁に、仕上がりを伝えた所、うんそこ置いといての一言だけでしてね、その後食べたんですがジャガイモが大きいだの、辛いだの、ご飯の量が間違っているだの言われまして、まるで会社で怒られている時のような気分になるんですよ。あ、結構前に進みましたね」
屋外から屋内へと入っていく二人。
「楓子さん、大丈夫ですかね」
「ダダダダダダダイジョーブ、ギュ」
「でね、独身生活時代はパチンコに飲みに好き放題やってまして、昨日みたいな日はそんな毎日が懐かしく感じられるんですよね。でも、やっぱり家族って良いなって思う時もあるんですよ。賑やかな娘とお風呂入ってね、あがったらテーブルにビールとおつまみが用意されている日なんかは幸せ者だなって思いますよ」
首をかしげる人型ヘドロは、その肉体を紫色に変化させる。
「ヘドロさんは彼女や彼氏さんはいらっしゃるのですか?」
やや固まって、模索するようにして肉体を様々な色に変化させる。緑色に落ち着いたと同
時にその肉体から、二体の人型ヘドロが瞬間的に分裂され、再び一体に戻る。
「ナカマ、ダイジ」
「そうですか、ヘドロさんって素敵な方ですね」
大勢の人の間を掻い潜った楓子が右手にバニラアイスクリームを二本抱え、左手にはビニール袋を提げている。
「はい、これが先輩と中年男性さんの分です。取ってください」
「おお、ありがと、ありがと。ところで、楓子ちゃんはそれ、何買ったんだい?」
中年弾性が不思議そうに楓子の左手のビニール袋に目をやる。
「ウヘヘヘヘへへ」
楓子が袋の中を二人に見せると香ばしい香りが漂う。
「ダイナミック唐揚げでーす」
「ビュウワ」
「そこ、アイスじゃないんですね」
「途中でどうしても匂いに釣られてしまいまして。凄いでしょ先輩、わたしの協調性の無さ」
「ビュウ」
自分で言うなというように楓子の頭を優しく叩く。
「いくらしました?」
財布を取り出した中年男性に〈良いです良いです〉と断りを入れる楓子。どこからか携帯音が鳴り響く。人型ヘドロは、人間でいう耳あたりの部分に触手をつっこんで社内用携帯電話を取り出す。携帯を開くと宇多田めろの名前が表示されている。焦る人型ヘドロは、その肉体を黒く染めて楓子に画面を見せる。
「そのまま! そのまま、切れるのを待ちましょう。絶対触ったら駄目ですよ! バレるはずが無いんです。予定している帰社時間もまだまだ先ですから」
鳴り止む携帯。安心するように肩を落とす二人。間もなく、鳴りはじめる携帯音。楓子は
心配そうな面持ちで人型ヘドロを見つめると、人型ヘドロが耳辺りに触手を当てて首を横
に振る。楓子は、自分のジャージのポケットに振動を感じると〈やばい〉と言って表情を
強張らせるフリをしたのも、つかの間。ポケットから携帯を取り出すと、直ぐに電話に出
る楓子。呆気にとられた人型ヘドロは硬直する。
「はい、もしもし、めろりんティーヌ? はい? いや、めろりんティーヌはめろりんティーヌでしょう。それとも二世とでも言うの? もはや、王座は奪われたの…はい? ヘドロさんですか? 居ますけど。あ、さっきめろりんティーヌからかかってきている携帯電話を無視どころか、その着信音に合わせて、日本舞踊を披露していましたけどね」
楓子に襲い掛かりそうになる人型ヘドロを、くすくす笑いながら取り押さえる中年男性。
「何ですか? 社うどん? 社うどんって何ですか? 社内食堂のうどんの事ですか? ああ! 商談ですか。ちゃんとやっていますよ」
携帯を中年男性に渡す楓子。
「はい、代わりました。中年男性でございます。そうです、恰幅の良い中年男性でございます。神童でございます。…ええ。大丈夫ですよ、今からですから。はい、お二人ともきちんとジャージ姿で来られていますよ。…ええ、ジャージ姿で。今から、楽しい商談タイムでして…ええ、はい、本当に全く問題は無いです。ええ、では楓子さんに戻しますね」
携帯電話を受け取る楓子。
「ということです」
口元を片手で覆う楓子は、小声になる。
「ちゃんと結果は残してきますので。わたしと先輩のタッグは最強なのですよ」
電話を切る楓子。中年男性に解放されて呆然と立ち尽くす人型ヘドロはその身体を様々な
色に変化させる。中年男性にウインクをする楓子。
「何名様でしょうか?」
係員に人数を聞かれて、大きな声としぐさで三人と答える楓子。
「それでは二名様、一名様に分かれてご乗車下さい」
四人乗りのひつじコースターに三名の客を乗せる場合のマニュアル接客による係員の機械的で丁寧な口調と作り上げられた笑顔が虚勢のように感じられる。
「はい、お姉さんがそういうならそうします。唐揚げ間に合いそうに無いので一個食べてください」
「あ、ありがとうございます。お気持ちだけ…宜しければお預かり致しましょうか?」
「ほんとですか? じゃあ、なおさら預かって貰ったお礼として全部食べちゃって下さい」
困惑する係員にビニール袋を渡して、楓子が二列目の座席につく。人型ヘドロと中年男性
は顔を見合わせて、人型ヘドロが〈お先にどうぞ〉とジェスチャーをすると〈すみません〉
と一番前の座席につく。一番年の若い楓子がワクワクした表情で先に乗り込む姿を見た人
型ヘドロは、中年男性の方を申し訳なさそうに眺める。
「どうしたのですか? 早く私の隣に来てくださいよ。私一人だと隙間が空いて怖いんですよ。お願いです。ここに座ってください」
頭をペコペコとさげながら中年男性の隣に乗る人型ヘドロ。そわそわと辺りを見渡す中年
男性は額に汗を滲ませる。
「おっちゃん、びびってるのー?」
「うるさいよ」
窮地に立たされた時の人間にとって、上下関係のしきたりなどはもはやどうでも良いよう
に、取るに足りない事であるように楓子の茶化しに対等に反応する。
「こ、これ、どうやって下ろすんだよ」
身体を固定する為のレバーの下ろし方が分からなくて戸惑う中年男性に、人型ヘドロがボ
タンの位置を教える。
「さ、サンキュー」
レバーがきちんと固定されているかどうか、係員が確認する。
「ここここれ、緩くないですか?」
列に並んでいる時の安定した表情とは一変する中年男性の姿に人型ヘドロが身体を赤色に
変化させる。
「ダイジョー――ブ」
「そうですよ、大丈夫です、レッツゴー――」
係員が他の係員に呼びかけると、他の係員が一斉に〈レッツゴー〉と返す。楓子が〈レッ
ツ中年男性!〉と続く。額の汗を拭いながらも覚悟を決めたような表情になる中年男性。
真っ赤になった人型ヘドロは、進行方向を指さす。
「ギュウウウウウウワ、ベチ」
「良いね! ヘドロ! 行こうぜ! 俺たちの世界へ! …うあああああああ」
坂を上り出して揺れる車体に驚く中年男性。
「ギュウ、ギュウウウウウウ」
車輪の音が響く。線路に噛み合おうと必死な車体が悲鳴をあげるようにゴーゴーと音を鳴
らし始める。人型ヘドロはその音に耳辺りを両手で防いだ。己の悲鳴と瓜二つ。頭を抱え
て首を横に振る人型ヘドロ。〈おい、ヘドロどうしたんだよ〉中年男性の焦りの声が薄ら
と人型ヘドロの中で木霊する。〈おおおおい、楓子、何してんだよ!〉その言葉に違和感
を感じた人型ヘドロは、顔をあげる。隣に、自分と同じジャージの存在を受け入れるが、
瞬時にそれが楓子だという事は判断不可能であった。
「さあ、わたしに従いなさい!」
楓子が二人の間で傾斜に逆らって立っている。
「先輩、大丈夫よ。自分を解放して良いの。あなたにはあなたのはしりかた(・・・・・)があるでしょう? 何にも縛られる必要はないの。正しさはあなたの中にあるもの。それを信じるのよ! さあ、おっちゃん、さっきの掛け声をもう一度」
「え、あ、え、レッツ中年男性!」
「違う」
「ああ、そうか」
少し口元を緩ませる中年男性。
「行こうぜ! 俺たちだけの世界へ!」
フフフと笑う楓子の髪は上空の風に揺らされている。係員が焦ったようにこちらを指差して見上げている。
「緊急停止! 緊急停止!」
落下ポイントに差し掛かって停止する車体。楓子が人型ヘドロに手を差し延ばすと、その
手をギュッと握りしめ、レバーの隙間から肉体の形態を平たくして抜け出す。
「緊急発進!」
楓子がそう叫ぶと人型ヘドロをそのまま、前方へ投げ飛ばす。ヘドロは液体状になって車輪に纏わりつく。進み始めた車体が、落下を始める。〈うおおおおおお〉という中年男性の喜悦の悲鳴と同時に滑り落ちていく車体。楓子の身体が宙に投げ出されるとその身体に合わせて車体が浮き上がる。
「ウギュウウウウウウウル」
液体となっていたヘドロが車体の両脇の赤い翼へと変化する。車体の前方にデザインとして施されたひつじの顔面が、命を吹き込まれたように穏やかになる。宙を浮いた車体は、遊園地を抜け出し、閑静な住宅街の上を賑やかに飛行し続ける。
「すごいよ! すごいよ、ヘドロさん!」
中年男性が翼に語りかける。中年男性の隣でレバーを装着し直した楓子が深呼吸して空気を味わう。
「中年男性さん、あくまでもこれはジェットコースターですからね。ねえ、先輩」
人型ヘドロは楓子の呼びかけに応えるように、ぐんぐんとスピードをあげると一気に急降下して見せる。叫ぶ中年男性と楓子。
「商談は成立だー!」
「やったね、先輩! わたしたち、間違っていないの」
「金なんぞ、いくらでも出してやる。私は君達が大好きだ。君達とならこれからも楽しめそうだ。…社会はそんな事ではやっていけないと言われるかもしれない。でも、僕達はやっていくんだ。社会はそんなに甘くないと言われるかもしれない。それでも僕らは楽しみ切るのだ。この瞬間のように。娘と嫁は俺の生き方で守り抜く。ありがとう。ヘドロさん、楓子。自信が湧いてきたよ」
「コチラゴチョウ…アリガチュウ」
車体の真ん中からパラシュートが開くと翼が光の粉となって車体を包む。中年男性の姿は、学ラン姿の神童烏へと変わる。ゆっくりと下降していく車体。
「神童君、お嫁さんいるんだね…」
寂しそうな表情の楓子は小さく語りかける。
「そうみたいだ」
「そうみたいだって、あなたの選択じゃないの?」
「違う。ヘドロさんを照らす為に、必要とされた設定だよ」
不満そうな顔をする楓子。
「仕事中だぞ。しっかり接待するんだ。楓子」
楓子の頭にポンと手をのせて笑う神童。
「何よ。中年男性」
「ハハ、ほんとにそう呼ばれた時は驚いたよ。筆者の文体に引っ張られすぎだよ」
「引っ張られたわけじゃないもん。自分で面白いと思ったからそう言ったの」
カラフルなパラシュートは温かい風を内に溜めこむ。
「でも、わたし、分かった気がするの。憎悪、厭悪、怒り、悲しみ、無自覚の自己憐憫の癒し方」
「そうか、良かった。…けれども楓子。無理をしちゃあだめだぞ」
「無理? 無理なんかしていないわ」
「ウルシ山のウルシが最近よく枯れている」
温かい光が楓子を包み始める。
「…ごめんなさい」
「いや、謝る事ではないんだ、楓子。君は、立派だ」
「…」
「ただ、君は少し疲れている。自分も愛するのだ、楓子」
「どういう意味?」
「そ、そう言われるとだなあ…」
「わたしの憎悪、厭悪、怒り、悲しみ、無自覚の自己憐憫を自ら癒すという事?」
「そう。そんな感じだ」
「そんな感じって…ちゃんと説明してよ」
「ご、ごめん。そうだな。植物は喜んで楓子のそれを命と引き換えに受け取るし、僕だって楓子に何かあれば必ず守る。しかし、楓子は楓子としての人生を大切にして欲しいんだ。楓子の夢、希望、欲それに従って欲しいんだ。闇を照らすのは、僕達エンジェルハーフの仕事だ」
笑い始める楓子。
「神童君。闇からも学ぶ事が沢山あるって言ったわよね」
「言った…かな」
「社会はそんな事ではやっていけないと言われるかもしれない。でも、僕達はやっていくんだ。社会はそんなに甘くないと言われるかもしれない。それでも僕らは楽しみ切るのだ。この瞬間のように。この世界の娘と嫁は俺の生き方で守り抜く」
中年男性に変装していた時の神童のモノマネをする楓子。
「や、やめてくれよ」
頬を赤らめる神童。
「フフ、でもね、あれは演技とは思えなかったわ。あなたの中で輝いた何かがあったの」
「そ…そうかもしれないな…」
「何ていうか、それなの。わたしはその輝きで生きていける気がするの」
光に包まれて下半身が消える楓子。
「じゃあ、戻るね。ピンチの時は頼りにしているんだから。神童君」
「勿論だ! もう行ってしまうのかい…」
物言いたげな神童の顔と消えかけた楓子の間を、翼を生やした先ほどの係員が唐揚げを頬張りながら、横切っていく。
「ごっ馳走様でしたー」
「食べるんだ」
「食べるんだね」




