覚悟
風鈴の音。縁側。ボロボロになった教科書の一ページを眺めながら、お茶を啜る楓子。
「神童烏。変わったお名前ね」
「なーに、本に喋りかけてんの」
日名子の声に驚き、咄嗟にページを捲る楓子。
「べ、勉強よ。もうすぐ期末試験だし。声に出した方が五感を使って覚え易くなるの!」
「へー、まあそんな気張らんといてーや」
お茶を一気に飲み干す楓子。
「ママ、まだお仕事行ってなかったの」
「今からや。ほな、洗濯物よろしく。午後から雨っぽいわ」
そそくさと玄関の方へ去っていく。ガガガガガガと引き戸の閉まる音。
「ふーっ」
と楓子が一息つこうとする間もなく、ドタドタドタ。日名子がせわしなく戻ってきて縁側の和室で靴下を履き始める。
「靴下忘れとったわ。あ、せや、楓子、松の手入れもよろしくな。あと、鯉にパン粉やっといて。今朝、あんたが残したパンの耳砕いてな」
「うん。行ってらっしゃい」
「あと、楓子」
「なに?」
「ゼッタイ、植物枯らしたらあかんで。もしなんか嫌な事あったらママに言い」
(ん?どういう意味? 嫌なことがある事と植物が枯れる事に因果関係があるということをママは―)
「分かった?」
「うん、なにかあったら」
畳部屋をドタドタ。玄関の方へ消えていく引き戸がガガガガガと閉まる音。
「なにかあったらって…普通、ママから気づくべきじゃないの?」
はっきりとした楓子の独り言は、畳の隙間へと吸い込まれていった。
(いや、とんでもない。むしろ気づくべきではないわ。毎日仕事に明け暮れるママが扱える事態の量じゃないよね。ママは一体何の仕事をしているのかしら。娘をほとんど放っておいて。娘に言えない仕事って一体何なの…まあいいわ。鯉にはきちんとなけなしの小遣いをはたいて買った鯉専用のエサを与える。あとは、ウバメガシの施肥ね。ママはわたしの生態を知らなくて良いの。知ろうとしないで良い。家庭を支えるのはバランス感覚だわ)
湯飲みに茶を注ぐが、僅かに二、三滴の水滴が落ちるだけであるのにも関わらず楓子は急須を傾け続ける
(でもわたしの存在を、身体のどの部分で感じているの? 学校でいじめられているという事実を相談できる土俵を作るのも親の役目とするならば…先生の提示した母子家庭への憐みは、こういったことに通ずるのだろうか)
脚立に乗って松の剪定を行う楓子。蘇る神童の言葉。
『君は終わらない。終わってはいけない』
手際良く松を剪定していく。ブオーっと鳴くウシガエル。
『君の人生は、例え君がいなくなっても終わらない。僕たちのように』
アマガエルがグワグワグワと叫ぶ。
『僕たちのように?』
ブオー。ブオー。グワグワグワ。ブオー。ゴロゴロゴロゴロゴロ。
「はっ、もう来たの」
天を仰ぐと、積乱雲が人間の想定通りまんまと差し迫っていた。剪定鋏と脚立を急いで 倉庫にしまい、洗濯物を縁側へと取り入れる。ついでに鯉のエサを取り出し、あくせくと池に両手でエサをまく。
(わたし…お伽噺の某爺さんっぽいかな)
シトシト…ザバーッ。空が張り詰めていた涙腺の糸を一気に紐解いた時のようなスピードで落ちる雨粒が楓子をうち始める。激しく暴れる風鈴。縁側に避難した楓子は、窓を閉める。ぎゅっと閉め切る。巨大な雨音がその気配を弱める。漂った空間的な安堵感にフーっと溜め息をつく。
下着、ズボン、上着の三つの山に分けて洗濯物を畳む楓子。とはいうものの、楓子の普段着は浴衣であるため、ズボンと上着の分野には学生服以外日名子の物しか含まれない。(ママは、どこで服を汚しているの)
畳み終えた洗濯物を見ていると、既に飲み込んでいるはずの孤独感が、嗚咽となって出てくる。
昨日からの雨は、少しその勢力を弱めたものの、田んぼ道を泥道に変えるには十分であった。アマガエルとウシガエルは、人工物に抵抗するように車のほとんど通らないコンクリートをここぞとばかりに狙ってその活動領域を広めた。ビニール傘を手に持った楓子は長靴でゆっくりと歩く。足元に気を配りながらもほんの少し後ろを警戒した。登坂のりことは、通学路が同じであるが、一対一の状態で手を出される事は少ない。たちが悪いのは、路端に自動販売機が並ぶ道を超えたくらいのT字路から遭遇確率の高まるクラスメイト。校舎へと続くこの一本道は専門Ⅱのクラスメイトに最も利用されやすい。周りに男子がいなければ、大半はここで吉賀香苗率いる、玉井稔、宇多田めろ所属のサンコイチというグループメンバーにお清めの塩をかけられ、鞄をひったくられ、田んぼに教材をばらまかれる。しかし、楓子は一度も登校時間や登校経路を変えなかった。教材を集める時間を考えて、早めに家を出ようとしたこともあるが、そう考えているうちに教材を集めるスピードが格段に早くなったのでその必要が無くなった。同じ時間に同じ場所で、同じ人間に同じいじめられ方をするという楓子の外面的な狂気は、クラスメイトの行為の抑制には微塵ともならなかった。それが、当たり前という歪められた常識性によってその世界観を保持する事が出来たのは、何より彼女達が楓子に無関心であったからだ。つまり、いじめっ子達にとって楓子という個体は、エスプリの宿らない玩具と同じで、それを使って遊ぶ事で集団に加味している安心感と共感を得たいだけであった。その反面、楓子はそんなクラスメイトにいくらか興味があったのだった。
グワグワ。ブオー。ブオー。楓子の目の前に一匹のウシガエル。
「あら、お歌がお上手なのね」
しゃがんで語りかける。一向に晴れ間を見せない雲はさらに厚みを増して、黒く姿を変えていく。チリンチリン。後ろからやってくる自転車の存在に気が付いた楓子はウシガエルの後方をパチンパチンと叩いて驚かせる。
「よそへ、お行き」
地面を素早く徘徊して田んぼへと姿をくらますウシガエル。ブレーキの音が響く。
「おい、大丈夫か? 腹でもいてえのか?」
(通り過ぎて欲しかった…)
見上げると片手に傘を持って、自転車を片腕で操る専門Ⅱの柏木翔太…の腹部に回された白い腕。短い靴下。足首に二本のミサンガがきつく縛られている。
「有龍さんじゃないの、そんなところでしゃがんでいたら危ないわよ」
登坂のりこの言葉は、楓子のはるか頭上を越えていった。
「気をつけてね。翔太、レッツゴー」
「おおう」
自転車が一瞬フラっとして、のりこが悲鳴をあげるも、順調に安定する車輪。楓子のスカートは、その先を泥濘につからせている。
(登坂さん、彼氏できたんだ…)
柏木翔太、性格は朗らかで陽気。ユーモアのセンスこそ乏しいが、当然の事を当然に、単純明快に話す姿は集団には受け入れられやすかった。また、それが彼の誇りでもあった。二年にしてバレーボール部の副将に推薦されたのも、彼のそういった誰とでもコミュニケーション図ることが出来る性格を評価されたためだった。女子高校生としてとにかく彼氏というステータスが欲しかったのりこは、活発で皆に人気がある事や体育館仲間であるが故の成功確率が高いという点を動機にして、柏木に仲間伝いに告白したところ、柏木もまた同じように考えているように少しの抵抗も見せず、波長の一致のよる成就と思われていた。前方を行く柏木にしがみついたのりこが楓子の方へ顔を向けたかと思うと、目元以外を笑顔に作り上げる。その表情に対して、微々たる好奇心の湧いた楓子は顔を敢えて逸らさない。
(わたしに対してのリア充アピールなのね。わたしが男性との関わりが皆無だという特質を不名誉で嘆かわしい事であると捉えた目ね。いじめの対象となる獲物を、絶えず探し続けるあなたは、リア充というよりもリア獣だわ。でも残念な事に、わたしはわたしで終わらせる事がわたしの生き方なの。あなたの満腹感は、わたしにとっての空腹感にはつながらないの…)
再び歩き出す楓子。雨脚がやや強まる。楓子の頬に横からうちつけた雨と同時に、溢れ出す涙。楓子の頭に、蘇るのりこの言葉。
『そんなところでしゃがんでいたら危ないわよ』
『気をつけてね』
(無感情に発せられた言葉とはいっても…本当に無感情なの? 登坂さんは何者?)
平然さといじめられっ子としての気鬱さを取り戻した楓子は丁寧に田んぼ道を進んでいたが、自販機の後ろに人影を感じた。
(サンコイチ。普段はT字路を超えた辺りでの遭遇なのに、今日はなんで…)
淡々と自販機のある道を進む楓子。
「今よ!」
(やっぱり来たわ。今日は何をプレゼントしてくれるのかしら)
香苗の号令がかかると、自販機の後ろから飛び出したカッパ姿の稔とめろが楓子の片腕ずつを取り押さえる。ピンク色の傘をクルクルと回しながら登場した香苗は、ドラマの見すぎか悪役感をむんむんと漂わせているようだ。捕えられた衝撃で楓子の傘は吹き飛ばされ、楓子の身体を直に雨が打ちつける。楓子は、自分の抵抗に抵抗をされることで発生する軋轢によって怪我をするのを防ぐ為に素直に身を委ねる。
「有龍さん、おはよう。あなたに捧げるサプライズよ。楽しそうね。ワクワクするわね。今日は、特別な事してあげる。愉快な儀式よ」
そう言って楓子の胸に優しく触れ始める香苗。香苗の予想外の行動に思わず身体を捻らせた楓子を笑いながら制する稔とめろ。次第に、激しく楓子の胸を愛撫する香苗。比例するように悶える楓子。
(…やめて、それはやめて…)
「脱がせるわよ」
香苗がセーラー服のボタンに手をかけて、めろが剥ぎ取ろうと試みるが楓子の激しい抵抗はそれを困難にする。稔がT字路の男子生徒の姿に気がつくと、香苗とめろにその旨を伝えるや否や楓子から手を離すと急激な体重移動の途中で、拘束という支えを失った楓子の身体はバランスを崩し泥道に叩きつけられた。その姿を尻目にサンコイチは何事も無かったような雰囲気で去っていく。地面に倒れた楓子は泥にまみれ、程なくして腕の下に柔軟性を伴う湿った個体の存在を感じた。楓子の両手サイズ程のウシガエルが、ほとんど瀕死の状態で下敷きになっていた。
「いやあああああああああああ―」
和室の方で鳴り響く電話。庭園で全身を雨で打たれている楓子は放心したようにウバメガシの下にヒキガエルの墓を建てている。十字架の形に近いウバメガシの枝を頂戴し、墓に刺す。合掌をして目を閉じる。墓に刺した枝が輝き出したかと思うとすぐに温かい光が楓子を包む。セーラー服は一気に乾きを取り戻し、雲の隙間から光が漏れ出し、空が青色を取り戻す。庭園が花畑に変わっていく。花畑の隙間を楓子の両手サイズほどのヒキガエルがぴょんと飛び跳ねている。
「受け入れる愛、受け入れない愛だ。楓子様」
空の方で光が楓子に語りかけてくる。
「あなた…ひょっとしてウバメガシ? やめて! 今すぐやめなさい! …はっ、わたしが施肥を忘れていたから? あなたは死んではいけないわ!」
「楓子様、オレは大丈夫だ。この状況を作り出している原因は楓子様が施肥をしなかったからでも、オレの死期が迫った訳でもない。これが、オレの使命なのだ。楓子様の魂の身代わり(・・・・)に…」
「黙りなさい!」
光の話を遮るように怒鳴る楓子。
「幻よ、幻よ、全部幻じゃない!」
そう天に叫ぶと、花畑の花をがむしゃらに抜き始める楓子。
「これも、これも、これも、これも!」
「やめろ、楓子様! 楓子様―」
光の声に被せるように、囁き声が聞こえてくる。
「憎悪、厭嫌、怒り、悲しみ、無自覚の自己憐憫…憎悪、厭嫌、怒り、悲しみ、無自覚の自己憐憫…憎悪、厭嫌、怒り、悲しみ、無自覚の自己憐憫」
楓子を黒いヘドロが不気味に取り巻く。楓子の髪とセーラー服が次第に湿り始める。光を遮るように空にどす黒い雲がかかり、楓子の手の平サイズほどのヒキガエルは地面にへばりついた途端、骨になる。楓子の手元の引きちぎった花は即座に黒く枯れ果て石へと変わる。合掌の終えた楓子は、一つ結びの紐を荒く解き立ち上がる。表面積を拡大した楓子の髪は、より多くの雨水を吸収して重量を増した。
(もう…これ以上…耐えられない、わたしはわたしで終わらせてやる、わたしはわたしを終わらせてやるのだ)
楓子が教室に辿りついた時には、既に四限目の植物栽培の授業が始まっていたので、教室には誰もいなかった。楓子は窓の外を睨んだ。雨はあがり、相変わらずケヤキの木は、その精気を弱めて佇んでいた。机に鞄を託した楓子はグリーンフェイスのノートとグリーンインクのボールペンを取り出し、しばらく眺める。閉め忘れられていた窓から入る風に気づいた楓子は、遮るように静かに窓を閉める。
「さ、いきましょうか」
後ろ扉を開くと、偶然教室に入ろうとした犬飼に出くわす。物理的思考においては偶然だったが、楓子はその時、奇妙な必然性を感じ取っていた。
「先生、どうなさいましたか―」
「こっちのセリフだ! お前ん家に何回電話したと思ってんだ!」
「ごめんなさい…」
「遅刻理由は何だ」
「いや、あの、母親の看病で…」
「そんなわけがない! 嘘をつくな!」
(…そんなわけがない? どういうこと? 先生が断言できることじゃない、あなたはいつも言葉を選ばない。一言、一言が乱暴で横柄、わたしも言葉を探す必要がないわ)
「何でもありません!」
「おい、こら!」
楓子は勢いよく階段の方へ去る。しかし、犬飼が追ってくる様子は全くなかった。
「あら、有龍さん遅刻? 大丈夫? 髪バサバサじゃない。それにしてもかなり遅いわね」
ビニールハウスの中でトマトの研究日記をつけている香苗は、支配力と正当性を周囲に主張するような口調で楓子を咎める。
「有龍さん、こんにちは。ほら、トマト大きくなったよ」
めろが香苗の支配力と正当性に依存する。表面的友好関係を感知した担当教師が、楓子をめろの隣に配置することで適格かつ残酷に処理しようとした。
「おい、楓子。おめえ、俺と今朝会ったよな?」
柏木翔太が立ち上がる。栽培授業は、専Ⅱの男子クラスと合同で行われた。楓子はグリーンインクのボールペンをぎゅっと握った。
「うん、途中でお腹痛くなっちゃって、一旦家に引き返したの」
腹の底に溜まった覚悟が吐き出されるようにして楓子の腹式呼吸を支えた。
「やっぱ、そうだったのか。もう良いのか?」
「うん、もう大丈夫。優しく声かけてくれたから嬉しかったわ、ありがとう。柏木君と…のりこ」
専Ⅱ女子の目線がのりこに集まった。
「え、なに? なんのこと?」
「のりこがそんなところでしゃがんでいたら危ないわよって言ってくれたからあの後すぐに帰って落ち着いたのよ」
「言ってない。言ってないわ!」
担当教師は不快な空間を感知して絶妙なタイミングで場を制し、楓子を配置した。サンコイチは、担当教師の目を盗んでは互いに磁石のように依存的距離を確保し、のりこの方を見て囁き合った。
校舎を出てしばらく行ったところにコキアに囲まれたベンチがある。楓子は昼休みをここでお手製の卵焼きと生野菜の弁当を膝元に広げるのが日課になっていた。一学期初めの頃は、席で済ましていたものの、案の定サンコイチを中心に食事の邪魔をされ、頻繁に卵焼きが地面に転がった。その後、場所を転々とする中、サンコイチが時間を天秤にかけて追ってこなくなったのがこの場所だった。楓子には逃げの意識は無く、自然の産物に対する感謝の念によって生まれた護衛の概念が彼女の引っ越しを手伝った。楓子はいつも通り風呂敷を膝元に載せて、結び目を解く。銀色の蓋をとると、卵焼き、生野菜、白米がいつも以上に窮屈に露わになった。今日に限って、特別、通常時は二席の卵焼きの定員数を強引に二席増やしたからであった。素材の味を脳天で感じたかった楓子は生野菜、白米、卵焼きの順に、それぞれを単独で味わう。頬から口に伝う感涙が唯一の調味料となる。
(さよなら、さよなら、さよなら)
コキアを揺らす夏風は楓子の閉ざした心の肌に触れる事は出来なかった。楓子自身への餞別でもある三つ目の卵焼きに手をつけようと箸を伸ばす。
「あなたに、のりこって呼ばれる筋合いないわ」
楓子は箸を止める。
「あなたに下の名前を呼ばれる筋合いはないの」
「来ると思ってた」
「有龍さんの思い通り。教室に帰ったら、誰も口を聞いてくれなくなったわ。無視ってすごく冷たいのね。質問口調で語りかけても、無言で返される。私の言葉はただただ宙を舞って消えていく。冷たい。すごく冷たい。南極で一人ぼっち、周りには言葉の通じない野生動物ばかりで、私の存在を認識しかしてくれない」
「登坂さん、あのね」
「もっと、冷たいのはね!」
のりこの全てがりきむ。
「周りのざまあって視線。私の事、皆ざまあって思ってんのよ! 私はバスケ部で一年の頃からスタメンだったし、それなりに顔面偏差値の高い彼氏もできた。平均以上の学力もあったし、茶髪にしても私だけ先生に指摘されなかった。そんな私を皆羨んでいたの。だから余計によ、余計にあんたなんかとつるんでるって思われたことが最後。あいつらの恰好の獲物になった。…ここまで計算してたってわけ?」
「そうよ」
「有龍さん…あんた今日よくしゃべるわね。これは私に対する宣戦布告ってことね。いいわ、力づくでも、皆の前で真実を吐かせてあげる。わたしは登坂さんにいじめられていますってねえ!」
楓子の肩を両手で揺すった衝撃で、卵焼きは地面に転がった。
「それは違うわ! 守って欲しいの!」
「は?」
「この学校を守って欲しいの。わたしの後任者になって欲しいの。皆から羨ましがられたって、憎まれたって別に良いじゃない。あなたはあなた。あなたの能力はあなたの感性を具現化しているもの。それを守る為にはどうせ対価を払わなければいけないの。だからね、登坂さんにはもっともっとバスケを上手くなって、もっともっと翔太君とラブラブになって、先生に良い大学を勧められて、金髪にして、もっともっと周りに疎外されて、いじめられて欲しいの。わたしの分まで。もっと、もっと、もっと!」
楓子は、大きくのりこの肩を揺すっていた。
「…あんたの言ってる事がさっぱり分からないわ。あんたみたいな人が学校を守っていたとでもいうの? だいたい後任者って何? このオカルト女子が! あんたは、私を踏み台にでもして、これからはイケイケ女子にでもなりたいというの?」
笑いが込み上げるのりこ。落ちた、卵焼きを一つ踏みつぶす。
「ねえ! 面白いじゃん! 髪の毛、銀色にでも染めてあげようか、ねえ、有龍さん、これからどうする」
「…死ぬのよ」
瞬間的に訪れた静寂は、微弱な風にも揺れていたコキアを静止したような空間を演出した。死ぬと発した時の楓子の顔は穏やかで、大きく羽ばたく節目に至った人間の気迫さえ感じられた。楓子の爪先から湧き出るヘドロ。ヘドロは楓子の身体を包み込むと、目の前のコキアが一瞬にして黒く染まり闇が広がる。
「イケニエ、ギセイ、イケニエ」
囁くような声が聞こえてくる。
はっと意識が戻った楓子の目の前に転がる卵焼き。丁寧に卵焼きを両手に拾い上げた楓子は、一気に口の中に入れて噛みしめ、飲み込む。
「ごちそうさまでした」
言葉を失っていたのりこが、一言目を発声しようとした時には既に、視界はサンコイチの姿をとらえていた。
「あら、お二人さん。仲がよろしいようで、フフフ」
香苗がめろと稔を率いて、二人の前に立ちはだかった。
「ご、誤解よ。これは誤解よ」
慌てふためいたのりこは教室方向へ、サンコイチの隣を走り去ろうとして転倒。稔の片足が、のりこの足首を捕えていた。その姿を確認した楓子は、反対方向へ全力で賭け出した。
(これで良かったの。学校を守る為よ)
『冷たい。すごく、冷たい』
(そうよ。冷たいの。心が寒くて寒くて風邪をひくの。でもね、誰にもその症状は分からないの。胸の中でそっと、一人静かに凍えるしかないの)
楓子はどんどんと加速して、田んぼ道を走る。あがっていた雨は、ウルシ山の方へ向かうに連れて、徐々にその落水量を増やしていった。ウルシ山にたどり着いた楓子は整備された入口を避けるように、山に分け入った。雷やアマガエル、ウシガエルの大合唱は楓子の自覚的聴覚には届かない。ウルシの葉をくぐりながら、上へ、上へと。
(終われる。終われる。終わらせる)
「憎悪、厭悪、怒り、悲しみ、無自覚の自己憐憫…憎悪、厭悪、怒り、悲しみ、無自覚の自己憐憫」
楓子の胸の谷間から黒いヘドロが噴出し、楓子を取り巻き始める。
「憎悪、厭悪、怒り、悲しみ、無自覚の自己憐憫」
(さあ、あなた達、わたしと一緒に卒業よ)
ウルシの木が、楓子を避けるようにして黒い道が出来上がっていく。楓子の目は、充血し赤黒く染まる。土からヘドロが湧き上がると思うと、人型となって楓子の背中を支え始める。走る必要の無くなった、人型ヘドロに身を任せ、笑う。狂気は狂気としての自覚を失い、その存在を普遍化させた。目的地についた楓子は崖下を覗いた。一本の川に大量の人型ヘドロがうごめいている。楓子の存在に気づいた人型ヘドロは一斉に上を見上げて拍手喝采を送っている。
「ソツギョウオベデドウ、ソチュギョウオメデトーウ」
そっと笑顔を見せた楓子は汚れたスニーカーを脱ぎ、揃えて傍においた。十六歳の誕生日に日名子から貰ったスニーカーだった。
(ママ…ごめんね)
楓子の目の前に、泣いている日名子のイメージが具現化する。日名子を楓子が抱きしめる。
(ママはわたしを知る事が出来なかったの。でも、ママは何も悪くないわ。今日わたしが全部教えてあげる)
日名子の涙はヘドロに変わり、具現化したイメージはヘドロへと変わっていく。スニーカーに人型ヘドロが触れようとした瞬間、一本の西洋の剣が人型ヘドロの腕を突き刺した。
「カエデコオオオオオオオオオオオ!」
川の人型ヘドロに一体ずつ西洋の剣が刺さっていく。剣の刺さったヘドロは、その形を失い雨に流されていく。楓子は、神童に背後から抱きしめられたまま茫然自失としている
「誰だ、誰だ、離せええええええ!」
神童の百獣の王のような銀色の髪は揺さぶられた衝撃で楓子の肩にかかると、その存在を把握した楓子の充血している目が本来の瞳を取り戻そうとする。
「…神童君…神童君なの」
「そうだ。楓子、こんな事をしても終われないんだ」
「終われない?…」
雨に流されまいと抵抗したヘドロが瀕死したヒキガエルの姿へと変えて見せる。
「…幻…幻よ、わたしは騙されない、全部幻!」
楓子の胸の谷間から再びヘドロが飛び出そうとする。目が赤黒く充血する。
「やめるんだ! 楓子!」
神童の左手が、楓子の胸の谷間をグッとおさえる。
「幻じゃない。僕もこいつらも確かに存在するんだ。普通の人間の五感では把握されない。でも君は、僕達を感じる事ができるんだ」
もがき続ける楓子。神童の左手の指の隙間からヘドロが湧き出す。
「聞いてくれ! 楓子! 今ここで飛び降りたとしても楓子の肉体は滅びるが魂は滅びないんだ。楓子の思うところのえっと…そう、憎悪、厭悪、怒り…悲しみ、無自覚の自己憐憫! その為に自ら命を絶った魂はこいつらと同じように、黒いヘドロを身にまとって、無意識的な飢えの充足の為に破滅を望んだ人間に引き寄せられ、同じ道に招待することを繰り返す。それでも決して歪んだ飢えは癒えないんだ」
「…憎悪、厭悪、怒り、悲しみ、無自覚の自己憐憫は永遠とでもいうの!」
「永遠に、生まれ続けるものかもしれない! しかし、光は闇を制することは出来ないが照らす事はできる。闇そのものの歩む道を照らすのだ。無意識的な飢えを自覚させる。その為に、僕達が存在する」
「何に飢えているっていうの」
「愛だ」
「愛?」
「闇を照らす為には、闇を愛してあげる必要があるんだ」
「分からない。愛って何よ! 私に向けられた憎悪、厭悪、怒り、悲しみ、無自覚の自己憐憫は愛せるものなんかじゃないわ!」
「楓子、落ち着いて聞いてくれ。親の愛情を貰えなかった子供は、心を閉ざして人間不信に陥って引きこもったり、非行に走ったりするだろ。それと同じなんだ」
神童が楓子をギュッと抱きしめる。
「頼む。落ち着いてくれ。とにかく、死んでも何も終らないんだ。分かるだろ? 僕も死んだ人間や植物がその先どこへ向かうのかは正直知らない。ただ、見えるだろ? 自ら命を絶った魂はその闇の中でずっとこんな風に溺れ続けるだけなんだ」
「生きていてもどうせ同じじゃない。今よりずっとマシな世界かもしれないわ」
「馬鹿野郎! 僕も馬鹿野郎! なぜ、こんなにも君を説得するのが下手なのだろう」
神童は西洋の剣を右手で生成すると、谷底の一体の人型ヘドロに突き刺す。西洋の剣がこなごなに砕け散ると人型ヘドロは、人型を失い、赤い目と鋭い牙をこちらに見せつけて蠢く。赤い目は赤い涙。後悔の涙。
「いつかは、必ずこいつも救う。ただ、今の僕にはどうすれば良いのか糸口すらも見つかっていない」
楓子はその人型ヘドロに怯える。
「君にはこうならせない。僕は、君を…あ、あ、愛して、いるの…だから…」
楓子の姿が本来の姿を取り戻していく。
「…そんなの綺麗ごとよ。愛なんて…サムイわ」
「僕は本気でそう思っている。リアルガチだ」
(リアルガチ…?)
「あなたは、ケヤキなの?」
「いや、厳密には違う。僕は、人間の名づけたところによるとエンジェルハーフという名前らしい。姿を具現化できる妖精だ。様々な植物を転々として、植物から光命を頂戴して、闇を照らすのが僕の使命。植物よりも具現化した光の姿を創りやすい僕達は、大きな闇に向き合う場合に力を発揮する。楓子の抱えた大きな憎悪、厭悪、怒り、悲しみ、無自覚の…」
「自己憐憫」
「そう、それらが僕を引き寄せた」
「まあ、なんだかあまりよく分からないけど、光命って?」
「植物の持つ光の命。温かい光」
「それ…わたし知っているわ」
「そうだろう。君はそういった存在を感じられる遺伝子を…あ、いや、力を持っているのだ。だから幻なんかじゃなくてリアルガチの存在なんだ」
「…リアルガチ…なのね」
「植物自身は、僕らのような色々な植物から光命を頂戴できるエンジェルハーフとは違って、自らの光命を利用するしかないんだ。にも関わらず、惜しみなく僕達や人間たちにその光命を惜しみなく分けてくれる」
「植物は、光命を失うとどうなるの?」
「枯れて死ぬ」
「…それも知っていたわ」
「ただ、死ぬといっても、人間が抱くような悲観や哀憐の情は、植物の死の感覚においては場違いなんだ。植物は僕達や実は人間にもその身を犠牲にして光命を与え続けて、闇の身代わり(・・・・)となるんだ。その量に比例するように枯れて、与え尽くすとその生命を終える。それが植物の役目であって宿命なんだ。今回の為に光命を頂戴した六本のウルシの木達は、僕らのために死を迎えた。しかし彼らから死の恐怖は微塵たりとも感じた事はない。彼らは寡黙に嬉々として闇の身代わり(・・・・)になる光の存在であるからだ。彼らの死は、彼らにとっての誇りなのだ」
「…なんとなく、わたしもそう感じていたような気がするわ…でもそうして枯れていった植物を見つけるとママはわたしを叱るわ。それは単純に飼育方法を怠ったという認識から」
「それは違う。 …あ、いや…そうなのかもしれないな」
「…」
「あなたもいつか死ぬの?」
「闇が世界から存在しなくなった時だと思う。だけど、この世界に闇が無くなる事は無い。むしろ無くなってはつまらないとも思う。僕は闇を照らす事で、闇と切磋琢磨して向上していくことに生き甲斐を感じる」
「闇が無くなったら死ぬんだもんね…闇に光を照らすって、どういうことなの」
「わからない」
「分からない?」
「一概には僕にも分からないんだ。それが愛するという言葉が一番近いのかもしれないだけだ。闇にもそれぞれの個性がある。人間がいう個体の概念とは少し違うんだが、剣を振り回せば全ての闇が納得するわけでもないんだ。愛を与える方法は様々で、叱ったり、話を聞いたり、肩を揉んだり、時にはギャグで笑わせたり…」
「ギャグ?」
「いやああ、本当に一度だけだ。ところで、このように僕は幻じゃない。実在する。リアルガチの存在だ。分かってくれたか?」
「分かったわ。そして今の時点であと二点、質問したいことがあるわ」
「何でも聞いてくれ」
「一点目は、前に会った時、専Ⅱの男子クラスの人気者という設定で現れた。わたしもあたかもそうであるような一種の勘違いをしていた。でも現実世界では、そのような名前の男子生徒がそもそも存在しなかった。生物の教科書も剣にならなかったし、わたしの手の中には第二ボタンも存在しなかった。今回は、前と姿は同じだけれど、とても矛盾を感じられない。矛盾を感じられないのは、もしかして前回と同じように価値観が歪められているから?」
「わからない」
「分からない? デジャヴ…」
「それも一概には僕にも分からないんだ。一つ言える事は、光命を頂戴する植物によって変化するということだ。ケヤキのモテ願望が、もしかしたらそういった演出をしたのかもしれない」
「モテ願望って…はっ…それは違うわ! わたしはあの時…自分という人間は子孫を残す程の価値の無いものだという結論に至っていた。だから―」
「そういうことかもしれない。光命があるテーマに沿って、その闇を照らす為に一番ふさわしい舞台を提供してくれる。僕が役者といったところか」
「そうね」
「おそらく今回の楓子の巨大な憎悪、厭悪、怒り、悲しみ、無自覚の自己憐憫には、真実の光を照らす必要性があった」
「だから、この後も決して矛盾を感じさせないのね」
「おそらく…だからこそ多くのウルシが犠牲になってくれたのかもしれない。楓子に真実を伝える為に創造したこの姿や環境には多くの光命が対価として支払われる。支払い? 支払いという感覚もそもそも間違っているのかもしれない。植物はそれを望むように、むしろ楽しんでいる」
「神童君。二点目」
「おっと、すまない。話を広げすぎたかな。どうぞ何でも」
「わたしは、神童君との会話のキャッチボールの序盤で平生を取り戻した。今、あなたの左腕の目的はなに?」
瞬時に状況を把握できなかった神童が楓子の谷間を押さえていた左手を動かすと、楓子の身体がよじれた。
「…ssssssすまない! これは、失念だ!」
楓子の背中が熱くなったと同時に、身体は光で包まれた。
楓子はウルシ山の麓に立っていた。雲の隙間から空が広がり、日が暮れかけているにも関わらずツクツクボウシが鳴き始める。学校の方へ振り返った楓子は、今後の人生において、どこにも打開の道が見えず、何のグッドアイデアも浮かばないという途方に暮れた状態であると脳で処理したが、それがどうした、全力で途方に暮れ抜いてやる、と強かに胸の奥で加工していた。




