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生き様

「あんた…なんでこんなとこおるん…あんた、学校は? ほんで足どないしたん? 制服もあんたのんとちゃうやろ」

無音の中に日名子の言葉が吸い込まれていくように、楓子の耳に届かない。

「あんた…なんでなん、なんでこんなとこおるん」

明らかに動揺を隠せない日名子が瞬時に白髭の老人を睨む。

「おい、ジジイ! 何でこの子を連れてきたんや!」

「すいません、まさか、日名子様の娘様であるとは思いもしませんでした!」

「この足は何や!」

白髭の老人の肩にかかった楓子の学生鞄に目を向ける。

「おい、ジジイお前この子になんかしたのか?」

「い、いえ、とんでもございません!」

詰め寄る日名子に後ずさりをする白髭の老人。日名子の進行を妨げる物。日名子はそれをどけようと掴むがそれが楓子の松葉杖であることに気が付く。片足立ちの楓子は、松葉杖を持つ腕を震わせる。

「全部、わたしに聞きなさいよ」

「え…」

「このおじさんはわたしを助けてくれたのよ。何てこと言うのよ」

楓子は冷め切った無感情な口調で静かに語る。楓子の目は遠くを見つめている。楓子の見つめる先の夕日が沈み始める。突然の暴風。楓子の片足に巻かれた包帯が解けはじめると赤い棘のついた真っ黒な足が露わになる。楓子が笑い出すと棘が次々に周囲の物を破壊し始める。白髭の老人は何本かをかわすが一本が太腿に刺さってその場に崩れ落ちる。慌てて小屋から出てきた陽二郎お経を唱えるも、すぐに数珠が破裂し陽二郎の身体諸共、風に吹き飛ばされる。着物を盾代わりにして身を守る日名子だが、刺さった棘が着物を溶かしていく。

「楓子! 待ってや! 楓子! 一体、どうしたんや!」

楓子の足から発生した棘が楓子自身の肉体を刺す。刺されれば刺されるほど楓子の笑いは止まらなくなる。やがて、笑いは号泣に変わり漆黒の雨を降らす。地面からゾンビのように浮き上がるウシガエル達が日名子を赤い目で鋭く睨む。夕日が沈み切ると、ウシガエルの鳴き声だけが残り、辺りは暗闇と化した。暗闇が凝縮して塊のようにまとまると、一気に日名子の胸に吸い込まれていく。


 セーラー服姿の日名子JK。机の上にはビリビリに破られた生物の教科書が置かれている。悲しみ。周りでクスクスという笑い声。不快。疑問。日名子JKが周りを見渡すと誰もが視線をごまかす。苛立ち。勇気。恐怖。

「これなんや? 誰がやったんや?」

無視。寂しさ。空虚。不快。日名子JKがまるでそこにいないかのようにクラスメイトが振る舞う。不安。日名子の身体に、クラスメイトがぶつかる。驚き、痛み。〈あ、ごめん、いたんだ〉と言って去っていく。疑問。悲しみ。絶望。突然の出来事に言葉が出ない。思考困難。体勢を崩した日名子が前のクラスメイトの椅子の脚に自分の足をぶつけてしまう。焦り。恐怖。謝る暇も無く、前のクラスメイトがこちらを振り返っては舌打ちをしてすぐに前を向く。悲しみ。寂しさ。苛立ち。担任教師が前の扉を開く。期待。安堵。クラスメイトが席につく。安心。日名子JKは机の上の生物の教科書をおそるおそる見つめる。恐怖。悲しみ。苛立たしさ。ビリビリに破かれたページが一か所に集められて閉じられている。不思議。悲しみ。疑問。虚無感。生物の勉強が出来なくなった。動揺。不安。悲哀。自分の思いが沢山詰まった物が壊された。喪失感。恐怖。憎む暇すら与えられない。また、やられる。恐怖。担任が席替えを行うと発表する。希望。不安。クラスメイトの視線を気にしながら担任が用意した白い箱の中のクジを引く。不安。席に戻るとビリビリに破れた教科書が担任の目に触れられないように机の中にしまい込まれている。疑問。不安。クジの番号に一喜一憂するクラスメイト。羨望。疑問。日名子JKの方へ一人のクラスメイトが近づくと強引にクジを奪い取られ、そのクラスメイトの引いたクジが日名子JKの方に投げつけられる。驚き。悲しみ。恐怖。地面に落ちて開いたそのクジは、現在の日名子の席の位置。驚き。恐怖。クラスメイトが荷物をまとめて移動する中、その場で棒立ちとなった楓子にまた別のクラスメイトが近づいて紙を渡される。恐怖。紙には、担任の疑問への返答の仕方が書かれており、最後に〔言わなかったらお前の育てたトマトを引き抜く♡〕と書かれている。恐怖。毎日、丹念に観察をして水やりや施肥をしたビニールハウスのトマトは日名子にとってかけがえのない子供のような存在である。不安。恐怖。日名子は、担任の〈また、そこなのか〉という疑問に対して紙に書いてある通りの文言を発する。恐怖。悲しみ。

 自販機を過ぎてT字路に入った瞬間に頭にかけられる粉のようなもの―塩。絶望。〈お清め〉だという言葉。絶望。田んぼに投げ捨てられる学生鞄。絶望。ばらまかれた教材。絶望…諦め。田んぼに蹲る日名子JK。日名子JKの中の楓子ヘドロが次のシーンへと案内しようとするが、日名子JKの肉体が動かない。仕方無しに日名子JKの首後ろからニュルっと抜け出ると、力なく横たわる日名子JKの姿を見つめて〈ジュギュウウウウウウウウウ〉と首をかしげる。少し動いた日名子JKの掌を目撃した楓子ヘドロが再び日名子の肉体に重ねようと日名子に近寄った、その時。上空から降ってくる西洋の剣が楓子ヘドロの目の前に何本も刺さると行く手を阻んだ。

「そこまでだ!」

着地した神童烏が日名子の身体を抱きしめる。

「おい、日名子、大丈夫か!」

(…神童君…? どうして? 嫌い)

楓子ヘドロはアメーバのような分裂を繰り返し、分裂した個体をさらに結合させて巨大化をはかる。何が足で、どれが腕で、どこが胴体なのか全く分からない。冷たい空気を漂わせると辺り一面の稲を枯らしていく。

(どうして…神童君…わたしはママに知って欲しいだけなの。辛い)

「ニュギュルルルルル」

「楓子! それ以上は駄目だ! 日名子は、君を身代わる事しか(・・)出来ない! これ以上は抱えきれない!」

(どうして、どうして誰もわたしの事を分かってくれないの? 大嫌い)

「ニュギュワアアア」

楓子ヘドロの肉体に合成しきれなかったヘドロが液体状となって田んぼの用水路へと流れる。

「楓子、聞いてくれ!」

巨大化した楓子ヘドロを見上げて両手を広げる神童。

「君には日名子には無い力がある!」

空に向かって西洋の剣を掲げ、この世界に叫ぶ。

「君を本当に救えるのは君自身だ!」

(……)

楓子ヘドロが動かなくなる。

「そうだ。大丈夫だ、楓子」

微笑みながら一歩ずつ楓子ヘドロに近づく神童。

「戻ろう、君達の世界へ」

楓子ヘドロの肉体から松葉杖が突起する。

 ドン。

 松葉杖が猟銃のようになって神童の胸を打ち抜く。

「カラス!」

日名子の悲鳴はこの世界に柔軟に溶けていくように悲鳴にすら成り立たない。日名子が横たわる神童に、這いながら近づく。

(ウソツキ。ウソツキ。まーた、どうせ嘘なんでしょう。神童君は、ママの事が好きなんでしょう。へへへへ。それって男の子の浮気性っていうやつでしょう? へへへ。お仕置きしないと。神童君はわたしのものー)

「ギョオオグggggg」

楓子ヘドロの肉体から触手のようなものが数本生成されると日名子より先に神童の肉体に触れる。

「やめて…、やめて! 楓子!…」

日名子の叫喚が空しく地に低落していく。それは、楓子ヘドロの肉体の一部として歓迎され、さらに肉体を肥大化させる。楓子ヘドロの体内に吸収される神童はグッタリとしており、ヘドロの中にゆっくりと溶け込んでいく。大きな結膜に黒い瞳孔。円形に飛び出したそれぞれの触手が錆びた西洋の剣と松葉杖を交互に握る。胴体を引きずって日名子の方へ進む楓子ヘドロの姿は破滅的で破壊的。絶望を呼び起こす闇の体現。青い太陽が昇るのはこの世界における自然の摂理。日名子の流した涙は、到底、楓子ヘドロの流すヘドロにその存在すら認められない微々たる塵のようだ。

「楓子、ごめんな…ママ気づけんかったわ。悪かった。…ママはもうあんたの好きなようにし。ママはママ失格や」

日名子の足は実際に竦んで動かないが、立ち上がろうと神経に命令を出す事すら諦めていた。触手に掴まれた日名子はブラックホールのような楓子ヘドロの口の中に放り込まれる。

 …

 …

薄暗いヘドロの体内から外の様子が伺える…飛び散るガラスの破片…崩れる校舎…逃げ惑うクラスメイト。枯れていく植物。青い太陽。繰り返される破滅と破壊。日名子は、自分の知らない楓子に対する驚きと罪悪感で、その光景そのものを嘆く余裕すら無かった。夫が事故で亡くなってこの子を腹に宿した時から、この子は夫の贈り物であると女で一つ育て抜く覚悟をした。当時、輪山で悲しみに暮れる日名子の周りの草木が次々に枯れていく様子を見ていた陽二郎が日名子の能力を確認し、日名子にこの仕事を紹介した。食べていけるだけの職を田舎で探す事の困難さを知っていた日名子はその紹介を受け入れた。すがりついた。例えどんな仕事であろうと覚悟はしていた。楓子を育て抜く覚悟は身代わり屋の仕事への没頭に繋がった。様々な人間の抱える闇を身代わる代わりに頂く対価によって楓子の希望した高校に入学金と学費を払えた。仕事に対する感謝の念は深まり、次々に人間の闇を身代わった。しかしワークフローの中で陽二郎にお経を唱えてもらい、闇の退散を完了させるまでの時間は地獄のようであった。人間の最も奥底に潜む悲しみや苦しみを抱える事は、肉体的な傷を抱くよりもはるかに痛かった。その心の痛みは日名子の希望や意欲、楓子に対する愛すら蝕む。その時間だけは本当に嫌だった。嫌ではあったが対価には犠牲が伴う。命がけで働いて楓子に不便させてはならない。夫の分まで頑張らなければ。楓子が、庭園の植物を枯らし始めたのは楓子が中学に上がった頃だった。〈植物の声が聞こえる〉という楓子の無邪気な笑顔は日名子の不安の原因となった。やはり、遺伝か。自分と同じ苦労はこの子には絶対にさせたくない。その能力を開花してしまえば、おそらくその延長線上にこの仕事を見つける。それだけは絶対にしてはならない。不便なく楓子を守り切らなければ…。

「なあ、カラス」

薄暗い暗闇の中で横たわる神童に語りかける。

「私、何か間違っとったんかな」

静かな様子の神童。

「楓子、いじめられとったん分からんかった」

神童の横腹に両手を添える日名子。少しずつ、神童の肉体を揺らし始める。

「なあ、カラス。お前、何で教えてくれんかったんや? 楓子守ってくれるゆう約束やったんちゃうんか? なあ、見とったんちゃうんか…なあ、なあ。…なあ!」

ぐったりしている神童の身体を何度も揺するが返事一つない。


「日名子、だね」

当時、楓子を腹に宿した日名子が夫の墓の前で泣き崩れていた時だった。肩に温かいものを感じると同時に聞こえてきた声に振り返った。そこに立っていたのは、人間…でもない。銀髪に学ラン。腰に西洋の剣。日名子は直観的に夫の名を漏らした。

「そうではない。僕はエンジェルハーフという、君のような能力を持った人間にのみ可視化出来る妖精のような存在らしい」

日名子は、その存在意義を問う。闇を照らす為だと知るが、どうして自分の所へ現れたのか。

「おそらく恩返し、とでも言ったところか。僕は君の旦那に命を救ってもらったあの時のカラスだ。僕は電線に翼が引っかかって二日間身動きがとれずに生きる事を一度諦めた。暴れる僕の姿を横目に過ぎていく人間や笑う人間。僕を救ってくれる人間も仲間も誰もいない、そう絶念していた。しかし、彼は違った。意識を朦朧とする僕の翼から絡まった電線を取り除いてくれた」

日名子が、次の問いに移ろうとするが、神童は続ける。

「そして僕は君の旦那に命を救ってもらったあの時の猫だ…とも言える。僕達(・・)には使命がある。僕達は死んだ後、気付けばこの姿になっていた。そしてなぜだろう。救わなければならない。闇を。そして君達(・・)を」

神童烏と名乗ったその不思議で不安定な存在に日名子は強く元気付けられた気がした。

 神童の身体を揺らす気力も無くなる。…自分が全て悪い。あの日、何となく仕事に行きたくないと言っていた夫の憂鬱そうな顔を無視して送り出した自分が悪い。事故死だったという夫の顔はその悲劇に似合わない穏やかな表情だった。トラックの運転手は赤信号で飛び込んできたという。死にたかったのだろう。そんな事も気づけずにこの人の妻をしていたなんてどの口が言えようか。小さなSOS。おそらく探せばいくらでもあっただろう。楓子の事も同じだ。そもそも、庭園の植物が枯れている時点でどうして楓子と向き合おうとしなかったのか。自分が許せない。何もかも、自分のせいだ。

日名子の目の前に目を閉じた裸の姿の楓子が現れる。

ならば。

裸の楓子をゆっくりと抱きしめる日名子。

自分はどうなっても良い。破壊しても破滅しても構わない。でもこの子だけは。さあ、全てを自分に託せ。塩をかけられて、鞄を投げ捨てられて、教科書が散らばって…それで次は何をされた。この子の闇を全て。

「大丈夫だ」

 …

 ?

 誰だろうか。カラスか?

 …

「大丈夫だ、日名子」

 …

 へっ?

 神童烏の身体が何かに動かされるように、立たされる。

「大丈夫だ、日名子。この子は強い」

神童烏の姿に夫の姿が重なる。残った気力を忘れて神童の身体に飛び込む日名子。

「すまなかったな。俺は自殺なんかじゃないんだ。俺、安月給だったろ? お前に子ができてからすっげえ不安だったんだ。転職先を探さないとこいつは養えないと思ってな。職場とも上手く折り合いがつかなくて、転職先もなかなか見つからずに俺は男としてなんて情けねえやつなんだってボーっとしていたら…」

神童の瞳に宿る夫の澄んだ心。止まらない日名子の涙が学ランを濡らす。

「死んじまうんだもんな。笑えねえよ。ここまで、お前達を苦労掛けるなんて本当に俺こそ父親失格だ」

そんなことで―

「すまなかったな…日名子」

夫の声が震える。

「言えた、やっと言えた…」

神童の目から零れ落ちる夫の涙が日名子の上に落ちる。日名子が楓子の身体を抱き上げる夫に抱かせる。

「…こんなに重いのか。あ…失礼か。女子高生だもんな。普通の親父じゃ、こんな年頃の娘、抱けねえぜ。…顔、お前の若い頃にそっくりだよ」

 〈生きたかった〉と楓子を抱きながら顔を埋める夫の学ランを何かが引っ張る。

 …

「おめえがそんなに泣いてどうすんだっぺ、結局」

あの時の褐色の、

「レッサーパンダだ」

その奇怪な存在に目を丸くする日名子。

「おお、そうだよな。わりいな…楓子」

「親父さん、裸の娘を眠っているからって、そんなに抱きしめちゃあ嫌われますよ。私の」

「…こ、これは仕方ない状況だ」

Tシャツとハーフパンツ姿の中年男性がリュウグウノツカイの背中に跨って自由に飛び回る。必死にその後をデメ二ギスがついていく。

「楓子さん、今日の衣装はこれです!」

慌ただしく腰の低いディレクターが裸の楓子にセーラー服を着せる。全身紫タイツのMCが、ゲストを招き入れる。コール音。

「オラオラオラオラオラオラ」

〈シャカイフテキゴウシャ〉と〈チュウソツにニート〉がバイクに乗って登場する。賑やかに舞台が整っていく。周りを見て笑う夫。その目まぐるしい世界に目をまわす日名子。この人達は一体何だ。

「しゃちほこおおお」

張り切る[シャカイフテキゴウシャ]。全身紫タイツのMCに〈それは本番に置いておいて欲しかった〉と言われて落ち込む。ハナカマキリは嫌そうに、暴走族の二人を威嚇する。

「では、そろそろ楓子さん、出番です」

ディレクターの声。夫の腕から楓子の身体が離れていく。その舞台を背景に、夫が天に昇っていく。夫の名を呼ぶ日名子。


「俺は君達をずっと見ている」


いつの間にか、学ランの胸ポケットにつけられていたワイヤレスピンマイクに気付いた夫がそれを口元に近づける。


「この子は強い。そして―#$%&」


ハウリング。音声士が慌てる。椅子に座った翼の生えた遊園地の係員が貧乏揺すりをしながら唐揚げを食べている。テーブルに並べられた唐揚げの撮り方を一カメのカメラマンが一生懸命に探っている。照明士によって壁がライトアップされると、宇宙が現れる。薄くひらひらと漂うピンクの惑星、柔らかそうな緑の惑星、分裂を繰り返す水色の惑星。楓子のユーモアを満足そうに上から俯瞰した夫がもう一度マイクに口を近づけた。


「面白い!」


リバーブのかかった夫の声が響き渡ると、神童の肉体が光の粉に変わる。

「本番まで五秒前!」

ディレクターが大きな声を出す。演者に向けられるカメラ。

「四!」

緊張した面持ちの演者。スタッフ、観覧者。煌々と照らす照明。

三と無言で指折りする。

徐々に上げられるフェーダ―。

二―

セットの真ん中に立っているのは楓子。

一―

 瞑っていた目を開く楓子が微笑む。

「ママ」

日名子の背中に温かいものを感じる。


「ママ! ママ! ママ、ママ、ママ…」

日名子の腕の中で泣く楓子。夕暮れが優しく二人を輝かせる。白髪の老人は、状況が掴めないにも関わらず深く頷いている。その包容力は年の功といったところか。小屋の玄関から除く陽二郎が深く息を吐いて安堵の表情へと落ち着く。

「ごめん、楓子、ほんまにごめん。ママ、楓子の事知るのが怖かったんや」

「うん。わたしも、わたしもごめんなさい。沢山隠し事していて。わたしもママに甘えるのが怖かったの。何かが壊れちゃうんじゃないかって」

「…この足も髪も全部誰かにやられたんか? ママには今更そんな権利ないかもしれんけど、その子ら全員の名前教えてや。ママが直接話しにいくわ」

「…いいの。これはわたしの問題だから。分かってくれたら、もう。それに、皆、苦しんでいるの。わたしだけじゃない。わたしはわたしの力で皆と最後の最後まで全力で向き合うわ」

「…でも…」

「お願い! そうさせて!」

「…分かった。でも、何かあったら必ずママに言いや」

「うん!」

ウルシの木がゆるやかな風に吹かれる。風に運ばれた澄んだ空気が楓子と日名子の髪を優しく撫でると風が止む。夕日が沈みかける。

「帰ろか」

「うん!」

白髭の老人が下まで送りますと言う。砂利道を下る楓子は松葉杖を懸命につく。日名子が〈ゆっくりいこうや〉と言う。楓子の鞄を背負う白髭の老人が先を懐中電灯で照らす。


「なあ、楓子」

「なに?」

「何かあった…その…先生…担任に言うんじゃ無くてママに言うんやで」

「…うん」

「…今日ね。ここで先生を見かけたの。やっぱり、先生は―」

「…まあ、ウチの常連さんや。小さい頃から父親に虐待受けてたらしくてな、どうしても人に壁を作ってしまう癖がなかなかとれんみたいなんや。そのせいで教師同士の中でも、上手い事コミュニケーションがとれんと疎外されてるみたいなんや。だから、彼が楓子の担任になったって知った時はほんま不安やった。でも、毎日何の文句も言わず学校に行く楓子見とったら大丈夫なんちゃうかなって…まあ、それもママがそう思いたかっただけやったんやけどな」

「そうだったんだ」

楓子が足を止める。

「先生は救えないの?」

しばらく考える日名子。

「…そうやなあ…彼は仕事の合間でも必死にここへ来て自分を変えようとしてんねん。自分の孤独と戦ってる。でも…今のままやと少し余裕がないかもしれへん。やから今変に刺激したら、何をするか分かれへん」

「わたしだったら―」

「あかん! …言うても楓子やったらもしかしたら救えるかもしれんなあ。でもな、彼はもう立派な大人やねん。本来やったら楓子を守らなあかん立場やろ。身代わり屋に来るのはその分自分の金で来てるわけやから良いんやけど…大人になったら自分の事は自分でやらなあかんねん」

「何で? 大人って何? 大人とわたしと何が違うっていうの? 誰が決めたの? 世の中の事を沢山知ったら大人なの? 誰もが同じ人間でしょう?」

「あんた、やっぱり変わってんなあ。あんたがもうちょい年取ったら分かるわ」

「ふーん」

「何か、楓子とこんな感じになるのも久しぶりやなあ…小さい時から結構個性的な子やったけど、凄い今新鮮な気分やわ」

「ママとは、元々気が合わないもんね」

ハハハと笑う日名子。

「親子と言えども、お互い考え方は違うんやな。それでも、これからもママはあんたのママやからな。残念ながら」

「残念だわ。これからもわたしはずーっとママの子で残念だわ!」

日名子にそう言い放つと、先へ行く楓子。

「楓子、ほんなら今日はマグロでも買って帰るか!」

「マグロ! マグロ! わさび醤油で!」

「いや、ショウガや」

「わさび!」

二人の会話を微笑みながら聞く白髭の老人が、ぶつかり合う二人を〈まあまあ〉と宥め道を作っていく。ウルシの隙間から見え隠れする無数の星がそれぞれの輝きを放ち、互いに照らし合っている。止まない楓子と日名子の会話を静寂が柔らかく包んで澄んだ空気に溶かしていく。楓子は地面を確かめるように一歩ずつ松葉杖をついた。


 学内演芸コンテスト決勝の垂れ幕。用意されたパイプ椅子に座る全校生徒の拍手喝采。片手にマイクを持ちながらお辞儀をするアデル。司会を務める稔が感想を語る。腕を組む香織とめろが体育館の後ろの壁にもたれかかりながら小話をする。稔が次の出演者を発表すると朱里を含む学祭スタッフによって檀上に一本のスタンドマイクが用意される。下手の舞台袖で手を握って緊張するのりこに逆サイドの舞台袖にスタンバイしている楓子がガッツポーズをして、その拳を自分の口に入れる素振りをする。それを見て笑ったのりこが軽く頷く。下手と上手からそれぞれ登場する二人に送られる拍手と歓声。

「いやいやいや、そんなに拍手いらないですよ。もう、うるさいなあ…抱きしめたろかい!」

「喜んでるじゃん」

楓子のボケをのりこが素早くツッコム。笑い声。手を叩いて笑う香苗とめろ。

(行くわよ、のりこ。わたし達の頂上(てっぺん)に)


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