本音
ケヤキがその葉を完全に散らして静かに佇む。楓子のスカートの上に落ちた割れたガラスの破片をゆっくりと取り払うその手に落ちる香苗の涙。
「てめえなんて…てめえなんて、くたばっちまえば良いんだ」
「香苗!」
必死に香苗を取り押さえる稔と…めろ。
「誰か! 保健室! 先生呼んできて!」
香苗の拳からしたたり落ちる血。悲鳴をあげるクラスメイト。楓子の丹田に宿る温かいものは、闇との葛藤の末に抱いた学びの温もりである。のりこが楓子の方まで松葉杖を運ぶ。泣き崩れ落ちそうになる香苗は稔とめろに支えられている。松葉杖を脇に挟んで立ちあがった楓子は〈顔をあげて〉と声を掛けると同時に、朱里によって強引に広げられた生物のテスト用紙を発見した時に流したあの涙と同じ涙をほとんど意識的に流す。
「ずるい! ずるいよ! 吉賀さんだけ。そんな風にして。わたしの気持ち、考えた事ある? ねえ、ここにいる全員に言っているの! 見てたでしょう! 全部、全部全部! 教科書がビリビリに破られて、机には死ねって書かれて、頭には塩をかけられて、鞄は田んぼに投げ捨てられて、キモイって言われて、オカルトって言われて、胸倉を掴まれて、胸が大きい事を馬鹿にされて、プリントを捨てられて、おまけに無視」
(憎悪)
「憎いよ! 皆が憎いよ! 同じ思いをさせてやりたいぐらい! 破ってやろうか、皆の多細胞生物のとこだけ!」
(厭悪)
「…嫌だよ、こんなの嫌だよ。みんな大嫌いだ。水回りのぬるぬるより嫌だ!」
(怒り)
「ねえ、どうして、こんな事をしたの? 関わらなかったら良いじゃない! わたしなんか教室の角質程度だって言ってるじゃない」
(悲しみ)
「…辛い。痛い、冷たい。かゆい。かゆくはないか。…もうこんなわたしは」
(無自覚の自己憐憫)
「生きていちゃダメなのかな」
「いや、結局そこかい」
のりこが楓子の方を見て笑っている。泣きながら微笑み返す楓子。めろが香苗を抱きしめて泣いている。
しかし女子はどうして、こう、すぐ連鎖するように泣くのだろうか。どうして誰かの感情の爆発にここぞとばかりに自分の爆発を重ねるのだろうか。それも一種の協調性の表れなのだろうか。だが、筆者が見た女性社会の中でこの専Ⅱ女子のクラスは比較的特異である。個々の思いが共感よりも表現を求めている。…ん? それは誰もが同じことなのだろうか。
「で、わざわざ段落下げてまで何しているのあなた」
…おお、俺か。ごめんごめん。つい、物思いに耽ってもうたわ。
「よく…こんな状況でそんな事…呆れるわ」
「楓子、あんた誰と喋ってんのよ」
のりこが突っ込む。
「えっああいやあ、独り言…」
「また、オカルト発揮しているの」
のりこが笑う。首を横に振る楓子。
(やったわね。あなた、覚えておきなさい)
でへへへ。あ、大事な仕事中に思い出させるのは無しやで。それは、反則やから。
(別に大事なんて思っても無いクセに)
でへへ…でへへじゃないねん。これ読まれたら怒られるやんけ。大事に思っとるわ。ただちょっと退屈なだけや。
教室の後ろ扉から伝田麻美が、真っ青な顔色で駆け付けた時には楓子はすっかり泣き止んでいた。チャイムが鳴る。めろと稔に支えられながら教室を出ていく香苗は普段見せなかった弱みを曝け出した自分に驚いて、恥ずかしくも感じた。しかし自分の元を一度去っていっためろがしっかりと自分の身体を支えてくれる姿を見てこれで良かったのかもしれないと微かな安堵の気持ちが香苗を包んだ。
「強くなりましたね、楓子姫」
ウルシの声は楓子の好きな声。低音でハスキーなその声が楓子の鼓膜を求めているだけ震わせる。
背中に温かさを感じて目を覚ます。ウルシが高らかに笑いながら、葉を風に散らして枯れていく。放課後、松葉杖つく楓子はいつもとは違うルートからウルシ山を登り、この平地に辿り着いた。家に帰って庭の植物を枯らして日名子を怒らせるのが嫌だった楓子は、放課後度々このウルシ山を訪れてその身を委ねた。そもそも日名子が、庭の植物を枯らしたことをどうして楓子に怒っているのか楓子には分からなかったし、知りたくも無かった。それを知る事が今の親子の距離感をおかしくしてしまうような気がしていたからだ。自分が学校の事を話せば母は抱えきれないし、母の仕事や事情を知ったら学校でやっていける気がしないような、漠然とそんな気がしていた。枯れたウルシに〈ありがとう〉とだけ言って、山を下り始めた時だった。
「いつも、ありがとうございます」
どこからともなく聞こえる丁重な口調に驚いて楓子は慌てて木陰に隠れる。
(こ、こんな山の中に一体誰…)
ウルシの木の間から出てくる人影。…犬飼恭二。
(なんで、なんで先生がこんな所にいるの! インフルエンザでお休みだったはずじゃない?)
楓子は呼吸を潜めてその姿を伺う。
(違う。さっきの声は)
「お気をつけて帰って下さいませ」
犬飼を送り出したのは、清楚な着物をまとった白塗りの女性。ウルシの葉を腕でかき分けて犬飼の通り道を作る。見たことも無い着物。見たことも無い懇ろな言葉遣いと仕草。見たことの…。犬飼がこっちに向かって歩いてくる。慌てて木陰に隠れる楓子は息を殺す。犬飼が鼻歌を歌いながら楓子の傍を通って山を下る。犬飼の姿が見えなくなってから再び、女性のいた方を見るが誰もいない。木陰から飛び出した楓子は松葉杖をつきながらその場所に向かう。先程、女性の存在した辺りの草むらをかき分けると、一本の砂利道が現れた。砂利道は沢山のウルシの木に囲まれて日を遮られており薄暗くなっている。登り勾配となっており出口と思われるその先に光が差し込む。道の先の様子は眩しくて把握するのは困難だ。
(行ってみよう。先生の秘密を知れるかもしれない)
傾斜のある砂利道が松葉杖を突きながら片足で登っていく楓子の体力を奪っていく。学生鞄がいつもに増して重たく感じる。途中で立ち止まって汗を拭ってはまた歩みを進める。
(さすがに運動不足のわたしじゃあしんどいわね。…先生は何の為に学校をずる休みしてまでこんな坂を…?)
『楓子、見ているか、あいつは僕にも手が負えないんだ。勿論楓子にもだ。だから、何とかしようと思ってはいけない。心を閉ざし切っている』
神童の言葉が蘇る。楓子の松葉杖は砂利に何度も力強くめり込む。
(…わたしに救えないものは…ない)
ツクツクボウシの鳴き声にお経が混じり出したのは出口に数メートルの所だ。楓子が力を振り絞って松葉杖を砂利に突き刺した時だった。
「ん? 見かけない顔だなあ。お嬢ちゃん予約はしたのかい? もう営業終了時間だが」
出口の方で男性が立っている。逆光の為シルエットだけ浮かび上がり、長い間は直視できない。
「お嬢ちゃん、その足でここまで来たんか。はよ、あがり」
そう言って楓子の学生鞄を持ってやると出口まで一緒に上ってくれた男性は、袴に下駄姿で年齢はとうに五十を超えているであろうと推測できる白髭の老人だ。出口に辿り着いた楓子は、膝に手をついて呼吸を整える。
「お疲れさん」
ツクツクボウシの声をバックにお経が聞こえる。いきなり明るい所に出た楓子の瞳孔は慌てて小さくなって受光の量を減らす。それを待つように目線を下に落とした楓子は明るみに慣れて、呼吸が少し楽になったのを確認して顔をあげる。広がる芝の向こうにポツンと石で積み上げられた丘の上に太い丸太を組み合わせて建てられたログハウスのような小さい建物が一軒立っている。
「お嬢ちゃん、お客か?」
楓子に学生鞄を返す白髭のおじさん。
「いいえ、ねえ、ここはどこなの」
「知らんのに、良く見つけられたなあ。ここは、身代わり(・・・・)屋の仕事部屋みたいなもんじゃ」
「みがわり屋?」
「そうだ。身代わり屋だ…知らんのか?」
「知らない。おじさんもそうなの?」
「元だ。わしも若い頃はよう働いたもんじゃ」
「…」
「用はなんだ? お嬢ちゃん。ここには、たまに迷い込んでくる人達がおってな、だいたいこのウルシ山の登山客なのだが、お嬢ちゃんは恰好からしてどうもそうでないらしいのお」
楓子はお経の声が小屋から聞こえる事に気が付く。
「ねえ、おじさん! 身代わり屋ってどんなお仕事なの?」
「…わしの質問…まあ良いだろう。人間には色んなトラウマがあるじゃろう? お嬢ちゃんも持っておるじゃろ。簡単に言えば、それを身代わって体験して取り除いてやる仕事じゃ」
(トラウマを身代わる…って事ね)
「普通の人には、修行を積んでも無理な仕事じゃよ」
白い髭を触りながら少し自慢気である。
「どういうこと?」
「いやあ、だからのお、トラウマを取り除くには持って生まれた特別な力が必要だっていう事じゃ。…さあ、お嬢ちゃん客じゃないのなら用はないじゃろう。下まで一緒に下りてってやるから帰んなさい」
〈さあ、さあ〉と楓子の身体を包むように誘導しようとする。
「それって、ヘドロみたいな子達をお相手する感じ?」
「…お嬢ちゃん、それは誰から聞いたんだい」
「わたしも、出来るの」
「ほう、たいしたもんだ。…とにかくここは客と関係者以外が来ても何にもならない。帰りなさい」
「ねえ、小屋で何が行われているの? それだけ知れたらわたし帰るからさ」
楓子は前方に数歩進んで、〈お願い〉と白髭の老人の方を振り返った。〈駄目だ〉と腕を組む白髭の老人。〈お願い、お願い〉〈駄目だ、駄目だ〉〈お願い、お願い、お願い〉〈駄目だ、駄目だ、駄目だ〉静止。風に揺れる木の葉の音。お経。〈お願い、お願い、お願い、お願い、お願い―〉〈駄目だ、駄目だ、駄目だ、駄目だ、駄目だ―〉互いに言葉を重ね合う。白髭の老人は〈全く〉と諦めたような表情になって溜息を漏らす。
「試験じゃ」
白い髭が、先の方から黒く染まる。
部屋中の引き出しを隅から隅まで開いて何かを大慌で何か(・)を探す人型ヘドロ。見つからずに頭を抱える。床に頭をめり込ませて床下を探す。静止。時計の針がぐるぐると勢いよく回り続ける。針が六時十四分に必ず一度静止してまた回り始める。カレンダーが自動的に捲れ続ける。三月で必ず一度静止が訪れ、十九日の枠が光る。針とカレンダーの静止は、人型ヘドロの静止と関連する。人型ヘドロが静止すると静止する。しかし、静止した人型ヘドロの思考までもが停止してしまうので、人型ヘドロにとっては四六時中引き出しを開け続ける事しか知らない。人型ヘドロが何かを再び探し始めると同時にそれらも慌ただしく動き始める。焦り。
原稿用紙を前にして楓子は一旦鉛筆を置く。小説のタイトルが〔焦燥と〕の後に二文字程度の空欄。何か抽象的なものを、抽象的な文で抽象的な世界観の中で描けば結局、それが読者の抽象的な価値観による理解によってそれぞれが抽象的に把握されて評価されるのではないかという安直な読者頼りの原稿が形になるほど小説は甘くないと楓子は知っていた。作家養成塾で修得した知識を敢えて鼻から無視して、書き続けてきた楓子の思考はやはり停止する。楓子の停止は人型ヘドロの焦燥を生む。停止すれば、するほど人型ヘドロは何か(・)を探し続ける。抽象的に生み出された人型ヘドロの心は一体何を抱え込んで、何を表現しようとするのか。三月十九日六時十四分に、何の意味があるというのだろうか。抽象的な感覚で生み出された人型ヘドロはその肉体を増々黒くして一つ部屋の中であがき続けた。楓子は、ペンを持たない事による人型ヘドロのあがきを感じる。
(なるほど、じゃあ)
楓子の書き抜くという覚悟は生き抜くという覚悟。生き抜くとは、死ぬまで生きるという事。
(あなたには、生き抜く覚悟が足りないの。だから、死ぬ事さえ出来ない。何か(・)を探し続けるのは、探すという行為そのものに依存しているだけ。何か(・)を求めさえしていれば、時を過ごせると勘違いしているの。時の中を生きなさい。物語を紡ぐのはあなたなのよ。わたしはペンを握る。はしらすのはあなた自身の思いよ)
楓子は鉛筆をグリーンインクのペンに持ち変え、筆箱に消しゴムをしまう。
(さあ、今からあなたの行動は全てここに刻まれるわ。過去は消せない。それが時を生きるということ。わたしだって、現実世界では、いやこっちも現実だって知っているけれど、いじめられていじめられて膨れ上がったわたしの憎悪、厭悪、怒り、悲しみ、無自覚の自己憐憫はもう消えないの。でもね、それはわたしを強くするの。それが、どれだけどんな風に人の心を蝕み傷つけ、破滅に追い込むのかって知っているの。だから、あなたの事だって分かる。救える。今のあなたは、強くも弱くもなれない。進みなさい。それが、例え間違った方向であったとしても。生きなさい)
静止。もっと自由に。本音で。三月十九日午前六時十四分、一秒、二秒、三秒。時が刻む。人型ヘドロは、何か(・)を探す事を止める。開けた引き出しを全て閉め終ると、玄関に出てホースブラシで靴を丁寧に磨く。ホースブラシは被った埃を落とすのには最適である。隅々まで埃を掻き出すと、今度は靴箱から靴用クリームを取り出して、ホワイトブラシに持ち変える。艶を出すにはこれまた最適である。そのような人型ヘドロの几帳面な性格が、度々家に招くガールフレンドによって煙たがられた。彼女が、作り過ぎて余った夜食のパスタを少し大きめの透明のタッパに入れて保存を試みたところ、もっとその量に合った大きさのタッパがあると別のオレンジ色の蓋のタッパに詰め替えるように催促されて洗い物が一つ増えた。おまけに冷蔵庫の中での保存場所にすら文句をつけられた彼女が気分を害して、昨日というより今日の深夜というより朝の四時頃に出て行ってしまった。同棲をして、二週間と二日になるがそんな感情を爆発させた彼女を人型ヘドロが目にしたのは初めての事だった。動揺の末、とにかく寝て考えようと布団に包まったが結局寝られず、暗闇の中スマフォのゲームアプリをして現実逃避をした。手持ちキャラクターのレベルは現段階では全て50であるが、一体が51となると他のキャラクターをダンジョンにいかせてレベルを揃えなければと少し面倒になってアプリを閉じた。アプリを閉じて、彼女からの連絡を確認するが自分のうった言葉で途切れたタイムラインの会話文を見て空虚感を覚えて、閉じる。何となしに開いたSNSに人気項目となって題されていたのは「彼女が彼氏に冷める瞬間」。〈ニュギュウギウウウウウウウウ〉と言ってスマフォをクッションの上に投げつけて、跳ねたスマフォがベッドの隙間に入り込んでしまった。このベッドの隙間は憎んでも憎み切れない。1kの部屋にこのベッドを配置するに当たってはこのポジショニングがベストであったからだ。〈ジョウダ〉と何かを思いついたのはベッドの配置時に利用した折り畳み式の2メートル定規のことだった。しかし、しまい込んだはずの引き出しに存在しない。デザイナーの仕事をする彼女が以前、家に持ち帰ってきた仕事で生地の長さを図りたいと借りていった事を咄嗟に思い出して、彼女への怒りが再びこみあげてきた。あらゆる引出を開けても見当たらないとなれば、彼女が持ち出しているに違いない。あいつから必ず取り戻してやる。定規、愛を。人型ヘドロが玄関扉を開くと朝日よりも眩しい光が差し込んだ。
楓子がグリーンインクのペンを一旦置くと原稿用紙からはみ出した温かい光に包まれる。
「ハハハハ、面白い。面白いお嬢ちゃんだ」
腹を抱える白髭の老人。
「おじさん、小説家を目指していたの?」
「…そうじゃ。何度も書き始めては途中でほっぽらかしたんじゃ。結局、こっちの仕事が忙しくてのお、書いたら書きっぱなし、それがワシの後悔となっとるんじゃな」
「今からでも遅くないわ」
「ハハハハ、遅いわい。…というよりも、もうそこまでの情熱を持てる年でもないんじゃ」
「ふーん」
「…まあ、お嬢ちゃんからは少し元気をもらったわい」
楓子に近寄る。
「静かにするんだぞ」
こくりと頷く楓子。日が西に傾く。
「驚いても決して声を出すんじゃないぞ。まあ特別、社会見学と言ったころじゃ」
そう言って白髭の老人は手を後ろに組んでひょいひょいと軽い足取りで楓子の前を歩く。〈重かろう〉と再び楓子の鞄を持ってくれた白髭の老人の後ろを健気に追う。小屋に近づくに連れてお経は大きくなる…とはまた別に女性の呻き声のようなものが聞こえてきた。不安になった楓子は一瞬立ち止まると、白髭の老人は〈どうした帰るか〉と言うので首を横に振って再び前に足を運ぶ。
「あれはなに」
「百聞は一見に如かずじゃ」
そう言って、楓子を放って身軽に石の階段を上り始める。白髭の老人の下駄が石の階段にコツンと音を立てて当たる。
(ちょっと、待ってよ)
肩に掛けた楓子の学生鞄は左右に揺れて白髭の老人の身体を叩く。先に小屋の前に立つと白髭の老人は扉を静かにゆっくりと開ける。扉は引き戸であり僅かに音を立てる。静かにと言われた楓子にとってそれらの音は新鮮かつ放っていかれた事による不安と相まって苛立たしい。その程度の音なら良いのかと、松葉杖をわざと石にトンとついてみる。
「しーっ」
その音に敏感に反応する白髭の老人が少し滑稽に思えた。女性の呻き声が大きくなればなるほどお経がまるで何かを抑制するかのように合わせて大きくなる。数十センチ程開けたところで白髭の老人は楓子に再び〈しー〉と人差し指を立てて見せると、手招きをして楓子に隙間から覗かせる。隙間に顔を近づけると、どこか親しみのある落ち着く香りが漂う。靴棚があって、棚の上に置かれているのは鉢植えに入ったガクアジサイ。ガクアジサイが隙間風に揺られたかと思うと一気にその花びらを散らして枯れてしまった。舞った花びらの向こう側に二人のシルエットが浮かぶ。畳の部屋に、正座する住職。その場にひれ伏せてもがいて呻く着物姿の女性。女性の背中から大量のヘドロが追い出されそうになって、そのいくつもの赤い目が引きつっている。楓子は、今まで以上に黒いその闇の姿に鼓動が早くなる。住職の額に汗。
(あんなに、大きなヘドロは初めてだわ…あのお坊さんはそんなヘドロを…えっ……)
楓子がその住職の姿が川本陽二郎であると気付くと、顔を引込めて白髭の老人の方を見る。
「あの人、あのお坊さん、知っているわ」
と囁く。白髭の老人は〈まあ、見ていなさい〉とでも言うように顎で小屋の中を指し示す。
(つるハゲおじさんが何故…輪山に住んでいるんじゃないの?)
陽二郎が両手に挟んだ数珠がはじけ飛ぶと同時にヘドロが女性の身体から抜け出し、黒いまま粉々になって消える。女性はそのまま力が抜けたように地面にへばる。大きく息を吐いた〈お疲れ様でした〉と言って陽二郎が奥へと消えていく。楓子は突然ポンと白髭の老人に肩を叩かれ、驚いて振り返る。
「終わりじゃ」
白髭の老人が〈帰るぞ〉と手を差し伸べるが、陽二郎の事が気になってもう一度振り返る。すると、散らばった数珠をほうきと塵取りで集める陽二郎の姿が伺えた。女性がむくっと起き上がると、陽二郎の方へ一礼し白塗りの顔をこちらに向けて歩いてくる。楓子は慌てて、白髭の老人が石段を降りようとする。
「ジジイ、今日もお疲れや」
(??)
「ははあ、明日もよろしゅうお願いします」
(???)
「で、その子は? 足どないしたん。その制服、うちの娘と…」
(!!!!)
白髭の老人の手から離れる楓子の手。髪ゴムで止められていない楓子の髪は、振り返ると同時に楓子の顔を半分隠す。楓子の驚嘆の眼球に映る白塗りの日名子。同じく日名子に映る楓子。
「…か、楓子…?」
「ママ…?」
泣き止むツクツクボウシ。夕日が二人の顔をはっきりと照らす。口を開けたまま硬直する白髭の老人。




