出会い
有龍楓子は縁側で濁った茶を飲む。風鈴の音。
庭石の隙間から漏れ出した光が一気に楓子を包み込む。一つ結びが解け、楓子の髪は右往左往と踊り始める。
「一人ぼっち」
茶に映る自分の姿を見て、大きく笑い始める。
「一人ぼっち。やりたい放題!」
狂うほど笑う。楓子の髪は一つ結びが解けて、一本一本がそれぞれ別の風を受けたように右往左往と踊り始める。激しく鳴る風鈴の音。残りの茶を全て自分にかける。
(…狂っているの? 何の為に? …たしかに、今日も学校でみんなに教科書を破られて、机に死ねと書かれたけれど、そんな事はわたしの感性を守る為の小さな対価だと割り切っているはずだわ…ん? 本当は常識的かつ普遍的でありたいのに、はみだしてしまったという孤独の自覚を肯定するために笑っている? そもそも肯定って、他者が存在してこそ生まれる概念じゃないの…今狂う必要無いわ。こんな感覚はそもそも幻では―)
「一人ぼっち…ハハハハハハハハハハ! ロンリーガール! ハハ」
(なぜ、わたしは笑っている? 何一つ、面白くも楽しくもないのに。…わたしが、わたし自身を笑っている? 何の為に?)
笑いながら庭園を舞う楓子は、庭石を三つ拾い、お手玉を始める。かすかな花の香りを感じると渋くも男性的な細い声が空間を支配した。
「ユーモアは癒しですよ。楓子ちゃん。あなた、最近いつも縁側に座って、ぼーっとしていたのですよ。空の急須をずっと傾けていましてね。楓子ちゃんの魂がね、悲鳴をあげているようでしたから」
楓子は、ぽっと頬を赤らめる。
「今回は誰なの。またわたしを元気づけようとしたの? …にしても的外れだわ。どうして、こんなヒステリックな解決法を選ばなければならなかったの? 浴衣、びしょ濡れじゃない」
「濡れていませんよ、楓子ちゃん」
袖から滴り落ちる茶。
「濡れているじゃない」
「わたくしが語りかけられるのは、あなたの魂の世界だけですから」
「今、濡れているのだから濡れているの!」
「…失礼いたしました。ところで、楓子ちゃん。常識的で普遍的な日常の世界観や価値観というのはね、そもそも幻想なのですよ。結局、人間は対個人との関わり。ロンリーガール、ロンリーボーイ。なのですよ」
「どうして? じゃあどうして、みんなはわたしをいじめるの? どうして、あなたはわたしを癒そうとするの?」
「巨乳だからですよ」
「逝って」
「ハハハハハ」
光が去っていく。風鈴の音。一つ結びの楓子は呆然と笑顔のまま縁側に座っている。ふと、頭を垂れたガクアジサイが視界に入り、苦笑いに落ち着く。
「もう、あなただったのね。…死ぬ前に教えて! どうして、こんな事を?」
一輪のガクアジサイは風に揺られたまま、その花びらを全て散らした。飲みかけの茶と、乾ききった浴衣。ひっそりと周りを見渡した後、倉庫から鎌を取り出しそのガクアジサイを狩り、ウバメガシの下に埋める。
「一体、なんなのよ」
庭石に視線を移した後、釜を傍におく。庭石を三つ拾い、お手玉にチャレンジするも失敗。縁側で楓子を見つめる有龍日名子。
「楓子、頭おかしなったか」
笑いながらフーっとタバコの煙を口から出し、怪しむような一重瞼が強調されている。
「いや、ママこれは…いやあの、文化祭で、あの」
地面の釜に気づいた途端に口からタバコを落とすと、鬼のような形相で楓子に近づき胸倉を掴んだ。
「カエデコオオ、やったのか!」
激しく鳴る風鈴の音。光に包まれた余韻のせいか、ベストな言い訳のセリフを咄嗟に創作できない思考の鈍さに気づいた楓子は早めに諦めの境地に至る事にした。
「ごめんなさい…」
息荒く、楓子を睨み続ける日名子。
「二度と枯らすんじゃねえ」
その一言を敏感に受け取った楓子は一瞬の抵抗感を覚えた。
「…不可抗力よ! どうしようもないじゃない」
「不可抗力だと?」
楓子を睨み続ける日名子が、ややあって肩を落とす。鳴り止む風鈴の音。
四方八方を田畑に囲まれた路地を、ゆったりとした足取りで登校する楓子。楓子は学校が好きであった。母親が自分の為に四六時中働いて捻出してくれている入学金と授業料に応えたいという気持ちもあったが、何より第一志望としていた地元の学校は自然豊かで、自然保護運動を活発に行っており、楓子の感性と性格にぴったりと統合した。楓子の偏差値から考えると都会の学校に入学することも可能であったが、高層ビルや排気ガスの存在に対しての根本的な嫌悪感に加えて、山や川を大切にしたいという湧き上がる使命感により選択の迷いは生じ得なかった。ツクツクボウシの鳴き声が心を高揚させる。
(メスを呼んでいるのね。でもそんなにモテたいの? …そりゃそうよね。約一週間以内に、お相手見つけてゴールしないと子孫を残せないもんね…ん? しかしながらそもそもなぜ生態系は自らを維持しようとするの。それは、とても非情で機械的な節理なの? 次世代に何かを託すの? 人間社会…結婚して子供がいることにある一定以上の賛美と称賛が贈られる。なぜ? しからば、生涯独身で死んでいった者の歩んだ人生には、ある一定以下の痛罵と叱責が贈られるとでもいうの。そもそも贈呈者は、誰なの。神…?)
「パイオツさん、おーはよー」
楓子を後ろから学生鞄でこづく登坂のりこ。日差しでショートヘアの茶髪が際立つ。
「え、まだ学校来るつもりなの?」
(至極当然、行くわ。パイオツさんって、ネーミングセンスが乏しいわ。そうね、あらかた、わたしを学校に来させない事を目標とするなら、もっと騒音に限りなく近く悪臭漂うような、耳にも鼻にも一日中まとわりつく命名をしなくちゃ。そうね…大乳輪こじらせ女…長いな…おっと、自滅はケアレスミスだぞ)
「無言? ちょっと何にやついてんの? ほんと、きもいねー」
足早に先へと向かうのりこ。男子から人気のあるバスケ部に所属しているという誇りから装着したバスケ関係のストラップで重量の増したエナメルバッグを揺らす。のりこが去った後の田んぼ道を、弱り切ったツクツクボウシが這う。
「危ないわ」
楓子が、手を指し延ばすとジッジッジと暴れてそのまま田畑の方へ落ちていった。
二階の教室。楓子の席は黒板を正面にして、左後ろ隅。窓際。いじめを忍ばせる空間的関係としてはベスト。楓子は席替えのたびに、この席のクジを強制的に引かされる。生徒数は二十五人で、横五列の縦五列という端正な正方形の席配列に整っていた。大人の意識から隔離距離が最長の左後ろ隅のクジを引いた者は、楓子のそれと交換しなければならないという不文律によってこの教室は妙な統一感を保っていた。
「有龍、お前またそこなのか?」
「はい、先生。みなさんに譲っていただいているのです。ここは風通しが良いので、呼吸器の弱いわたしにとってここは救いなのです」
一字一句、毎度同じように述べた。席の移動途中ののりこから既に渡されているメモ用紙をカンニングしながら定型文を発声する楓子を、無言であるが故に包むクラスメイトの邪悪な圧力は、到底日常の雑務に追われる大人の作業的意識には感知されないほどの存在力の弱さをも兼ね備えていた。大人の教師としての想定内の振る舞いに対して、若人はいじめっ子として当然のように隠蔽作業をやってのけた。いじめのヴァイタリティーを高める余裕さえ感じさせるように。機械的返答を終えると自然な表情に戻る楓子。
(何よりケヤキの葉の隙間から西日が差しこむのです、フフ)
楓子の机にケヤキの葉の隙間から西日が差しこむ。セロハンテープで固められた生物の教科書を机の上に広げる。
「アメーバはこのように分裂という無性生殖を繰り返し、個体数を増やしていく」
担任兼生物教師の犬飼恭二は、恍惚感の含んだ気概で授業を展開する。
「先生、それってつまり相手がいらないってことですよね?」
まるで神経系を通さないように、ほとんど反射的に吉賀香苗が質問する。香苗は学力においては平均以下だが世間の流行に敏感であり、JPOPやドラマの話を土台にして饒舌であり、クラスの会話内容の基準値を支配していた。よって、楓子をいじめるにはもってこいの空気統治能力を保持していた。
「そうだな、だから遺伝子も同じ遺伝子をそのまま受け継ぐんだ」
「簡単に子供が産めて、楽で良いよね」
便乗するように、のりこが発言する。
恍惚感が自尊心へと変化するように、犬飼は張り切った。
「しかしだ。遺伝子が全く同じということは、一個体が環境に適応しなかった場合絶滅の恐れがあるのだよ」
教師らしい言及をやっと披露できたという個人的な自尊心の嬉々たる心の内が露呈するように、犬飼の額が汗ばんだ。
「絶滅って、ダメなことなのですか? …はっ」
(やってしまった)
すぐにクラス全員の視線が楓子を刺した。
「ど、どういうことだ? 有龍」
咄嗟に自尊心をしまいこんで、定型的な教師としての人格を引きずり出す犬飼。楓子はすぐさまいじめられっ子としての振る舞いを取り戻すように視線を落とせるだけ落とし込んだ。
(餌を露わにしてしまった、とりあえず一旦喰わせるのよ)
「あんたって、本当にキモいよね」
野生的に言葉を発するのりこ。落とした視線を僅かに彼女の方へ向ける楓子。
(きたきた、どうぞ美味しく味わって)
「でも確かに、あんたみたいな人間は絶滅すべきかもねー」
周辺のクラスメイトと笑い合うのりこ。反射的に楓子の視線がのりこを捉えた。
(ん? そうだよ。そういう事だよ。あたしが言いたかったのはそういう事―)
のりこの発言はどうしてか漫才師のツッコミのように、この空気感の中では最も的確であると判別されるような共感を呼び起こす。
「こら、登坂! その辺でやめろ」
何の当てもなく怒鳴る犬飼。犬飼の客観性の駆使は一時的で、コントロールの効かない主観性が混乱と時には破滅を導き出す。
「有龍は母子家庭なのに、一生懸命やっているんだ」
沈黙。犬飼のおっかない発声量の対価として得られた沈黙は、クラスメイトの間を黒く漂った。楓子の提供した沈黙は、周囲とは一線を引くような冷静さで、既に沈着しかけていた。
(先生はバカね。なんで、登坂さんを止めるのよ。しかも、母子家庭なのにって…母子家庭を無為無策に憐れむ心が露骨だわ)
「次のページいくぞ。玉井、読め」
獲得した沈黙の空気の濁りを感知したのか、教師としての権力という清掃機具に救いを求めた。起立をして朗読を始める玉井稔。
校舎を刺激するチャイムの音。下の専門Ⅱ・男子クラスが騒がしくなる。専門Ⅱクラスは、二年生のみで構成されており、本棟とは離れたこぢんまりとした木造の校舎で講義が行われているため、響きやすかった。
「とりあえず、最後の段落まで読み切ってくれ」
(登坂さんが言うように、今後、わたしがわたしのような遺伝子を消滅させる事が出来れば、わたしのようにいじめられる要素を兼ね備えた人間を一人でも減らす事が出来るのではないのかな。よって、わたしは男子にモテる必要がない。だから、バスケ部に入部しないし、髪の色素を抜く事もない。恋をする必要がない。というより。してはならない。わたしはわたしで終わらせなければ。…なぜ、巨乳なの。巨乳であるが故に、些かの、いや、いくらかの男子の視線を無駄に惹きつける。無意味に。…とすれば、のりこのパイオツ発言は騒音で悪臭に等しい。のりこは分かっていたの? 体育会系の反射的な直観というものなの。恐ろしいわ)
「おい! こっちは授業中だ! 静かにしろ!」
稔の朗読リズムを崩壊させるようなタイミングで廊下に出て、けたたましく下に怒鳴る。
ケヤキの方を見つめる楓子は、稔の朗読が次のページに及んでいる事に気が付かない。稔は、犬飼の方をクラスメイトと同じように少し気にするが直ぐに淡々と朗読を再開する。西日を遮っていたケヤキの葉が一枚落ちると、西日が強く楓子の顔面を照らし、その光が楓子を包むように覆った。
神童烏が後方扉のガラス越しに楓子を見つめている。その姿に気がついた楓子は胸を隠すように俯く。
犬飼がガラガラガラと前方扉を閉めると同時に、後方扉がガラガラッと開いた。無駄のない身のこなしで、楓子が何かを思う前に抱きしめた。強い西風が吹きつけ、ケヤキの葉を散らせていく。楓子の身体は反射的に抵抗の信号を発したが、運動神経にまで行き届かない。
「この子を泣かしたのは誰だ、誰だ! …何だこの教科書。先生、これはいじめだ!」
教科書を高く突き上げる神童。西風によって、楓子の涙でさらに紙媒体としての機能を保つことが難しくなったセロハンテープで補修されているページがどんどん捲られる。教科書が西洋の剣に変わる。楓子は神童の腕の中であまりにも唐突な状況に身体が硬直して身動きがとれない。
(わたし、泣いていた…?)
「授業中だ! 今すぐ戻れ!」
「あんた…どこに眼ついてんだ―」
犬飼につきつけた西洋の剣は先の方まで銀色に輝いた。吹き荒れる風によって窓ガラスが振動する。突きつけられた剣の先をにやりと見つめる犬飼の眼は、その剣先に対抗して鋭くなり黒いヘドロが噴き出す。犬飼の眼からはみ出した黒いヘドロがアメーバのように分裂を繰り返し、ガラスを一枚一枚、スピードを増して割っていく。逃げ惑うクラスメイトの中、神童に手をひかれて教室を飛び出す楓子。取り残された机上のグリーンフェイスのノートとグリーンインクのボールペンが黒く染まっていく。
「待って、待ってよ。どこに行くの」
「それは後だ。とにかくここを出る」
西日はほとんど落ちかけているが、依然としてツクツクボウシの一切の統一感を感じさせない、むしろ互いの音を打消し合おうと試みているような大合唱の中、銀色の馬に乗った神童とその隣を歩行する楓子は田んぼ道を行く。楓子は混乱と羞恥が頭上にのしかかり、顔をあげる事ができない。
「僕は、専Ⅱの神童烏だ。よろしく」
改まった神童の口調は楓子の混乱と羞恥を一旦リセットしようとする。
「…よろしく、お願いします…じゃなくて…一体何がどうなっているの…さっきの犬飼は何なの…」
「あれは、君が思うところの憎悪、厭悪、怒り、悲しみ、無自覚の自己憐憫だ。人間、誰でも持っている」
楓子は俯きながら視線を泳がした。
「顔をあげてくれないか」
包み込むような声を聞いて、銀色の馬の方へ横目をやったが、銀の眼に驚き視線を再び落とす。
「…」
「…これからどうしようか」
一旦この男に身を任せた時に生じた依存の心が刹那に砕けた。
「ええっ、どうしようかって、あなたに勝手に連れられて―」
困惑した表情の楓子。
「それは、僕が何とかする。違うんだ。そうじゃなくて、これからの学校生活。ユウ…リュウ?」
楓子の学生鞄に貼ってある名札を確認する神童。
「これで、ウリュウって読むんです」
「ウリュウフウコ」
「カエデコです。ウリュウカエデコです」
(何なの、このコールアンドレスポンスは―)
「知っている」
「なんのいじりなのよ」
「楓子、これからも楓子の教科書は破られ続ける。僕が楓子さんを庇った事で、よりいじめは発展してしまうかもしれない」
(うん、そうだね。神童君の名はこんなにも学校生活に閉鎖的なわたしの心の耳でさえ侵入させざるを得ないくらいのモテ男だもんね)
「…うん」
「僕はそこそこ専Ⅱの女子に人気がある。つまり君にくだらぬ嫉妬の眼を向けさせてしまうことになる」
「いうんかい」
「…初めて、初めて僕の眼をみてくれた」
神童の銀色の髪は、百獣の王のように風に靡いている。銀色の瞳は、畏敬の念を抱くほどの迫力と優しさを兼ね備えていた。
(学ラン…)
「生物の教科書は、僕のをやる。たとえ何回破られても、何冊でも僕が新しい教科書を用意してやる! その約束に、第二ボタンだ」
銀色の馬に乗った神童は上方から楓子に、自分の第一ボタンを渡す。
「楓子のピンチは僕が必ず救ってやる」
「…あ、ありがと」
第一ボタンをぎゅっと握りしめた楓子は、妙な羞恥にのみ頭を垂れた。
(この人、馬鹿だわ。今のは確実に第一ボタンだったわ。あんなに凛々しくて純粋無垢な表情で間違えられたら、もはやツッコむに値しないわ。自分のキャラ設定を迷走している。強引さと天然さ、人懐っこさと真剣さ、銀のパーツと学ランは共鳴しづらいわ。そもそもこの場合、わたしは馬に乗せて貰っているのが普通じゃないの。なおかつ、教科書は誰にも破らせさせないという約束をするべきだわ。…そしてこの人は、この人はわたしの王子様だわ。わたしの依存心、母性、ユーモア心を満たしてくれる完璧な王子様。…王子様? わたしはこの男性に対して、乙女な救いを求めたとでもいうの? 女子高生としての客観性を一時的にも駆使してしまったの? わたしは、わたしで終わらせなければならぬというのに)
「楓子、君は終わらない。終わってはいけない。君の人生は、例え君がいなくなっても終わらない。僕たちのように」
「へっ?」
(心の声が聞かれた? さっきみたいに、漏れていたのか?)
「ウレシイセカイ、ウレシイセカイ、ウレシイセカイ…」
「カナシイセカイ、カナシイセカイ、カナシイセカイ…」
ツクツクボウシの鳴き声が言葉に変わっていく。抽象的で包括的、そしてどこか芸術的なツクツクボウシの歌声は奇妙な混沌を創り上げた。一個体一個体が発する声に、共通項は存在しない。それぞれがそれぞれの経験により培った感性で魂を震わせていた。楓子が神童の方を見ると、やはり煌々とした温かい光に視界を制された。ツクツクボウシの音に勝った光の無音に可聴域を制覇された。
(温かい。今だけは身を委ねよう。わたしの王子様に。今だけ、今だけ、今だけ…)
「…多細胞生物とは異なり単細胞生物とは、一つの細胞から構成される生物のことで―」
徐々に大きく聴こえてくる稔の朗読。瞼をゆっくり開けると、教室。はっと窓の外を眺める楓子。ほとんど葉を散らしたケヤキが力なく佇む。
(…あなただったの? シンドウカラス、シンドウカラス? 初めからそんな名前の男子生徒はいないわ)
第二ボタンを握りしめたはずの右手には、何も無い。風を感じて捲れる生物の教科書。
(風が心地良い。こんなに心落ち着くポジションは、他にないわ。みんなにとっては、ビリビリに破いた教科書や机に様々なデザインを駆使して書いた罵詈雑言を隠蔽したいが故のポジショニングなのにね)
廊下で一人の専Ⅱの男子生徒が犬飼に頭をペコペコと下げている。深く下げ終ると、その男子生徒のシルエットが消えていく。ドアを手荒く開いて犬飼が教室に戻る。
「今日はここまでにしよう。問13を次の宿題にする、登坂、号令」
(でもね、大人は気づいているわ。隠蔽を隠蔽しているの。…もし、メスを入れてしまえば、わたしに牙を向いていた憎悪、厭嫌、怒り、悲しみ、無自覚の自己憐憫がどこにどのように散って、誰を蝕むのか分からない。わたしをいじめているクラスメイトを見て見ぬフリするクラスメイトもそれを知っている…わたしが解放されれば最悪の場合…戦争、破滅…)
「起立」
(つまり集団の中で、憎悪、厭悪、怒り、悲しみ、無自覚の自己憐憫を背負う役割が存在すれば、集団は幸福。それぞれの憎悪、厭悪、怒り、悲しみ、無自覚な自己憐憫は、わたしの胸の中で。静かに。静かに。でも巨乳だからといって、彼らはいつか必ず爆発して、暴走するわ。その時がわたしの最期。わたしと共に消える。ともすれば、そのあと誰がこの学校を守るの? 後任を探さなければならない…終われないってそういう事? 神童君。わたしはわたしの後継者諸共、苦しみ続けなければいけないというの? 分かっていた事だけどさ。あなたは、悪魔? あの温かい光は―)
「有龍!」
「は、はい! すみません」
あわてて席を立つ。にやにや、にやにや、にやにや、にやにやとするクラスメイト。




