グフーズ元伯爵夫人
強姦を示唆する場面があります。不愉快な方は読み飛ばして下さい。
あらあら、こんな田舎町に良く来ました事。
私に会う為に馬車に何時間も揺られたかしら? さあ、此処に来てお茶をお飲みになって。美味しいマフィンもありますわよ。
貴方様が此処に来たのはあの子についてね。
あの子の話はこんな田舎町にも耳に入るわ。何せ一国の王妃様ですものね。
……そうね。あの子のお話をする前に私の元亭主についてお話しましょう。
あの人と私の結婚は貴族では珍しく恋愛結婚でしたわ。
私の実家と彼の実家は祖父同士が親友で、その縁で私達は出会う事が出来ました。元々この町は私の生まれ故郷だったのよ。この小さな家は私の実家。あんまり贅沢するのが好きではない家系だったから。
あの人はね。昔は悪い人ではなかったのよ。気弱な人で、怨みを買いたくなかったから社交界では目立たない様にしていたわ。領主としても無難に治めていたから領民からはそこそこ慕われていたし、父としても良き父親としてやっていたわと思うわ。
……嘘だと思うでしょ? でもね、本当なのよ。当時の使用人や領民や私の友人だった貴族達に聞けばこう答えるわ。『善人な普通の貴族だった』てね。
どうしてあんな風に変わったか答える前に、あの子の母親について話させてもらうわ。
あの人はね、真面目な普通の男の人だったけど悪い癖があったの。『浮気性』と言う悪い癖がね。
浮気症は彼の一族の男達の共通の悪い癖。私の息子も独身時代は浮名を流していたわ。でもね。結婚すれば大抵の男達は落ち着いていくの。私の息子も結婚した途端、女遊びは止めたわ。
ただね。ごく一部の人間は中々女遊びを止めない人間もいたわ。
あの人は基本的に弱虫だからせいぜい商売女と遊ぶか、色っぽい綺麗な女の人の姿を見れば鼻を伸ばすかのどちらかで、貴族として馬鹿な間違いを起こさなかったわ。……アーニャの件がなければ。
アーニャは我が家の使用人だったわ。私の目から見ても可愛らしく、まるで天使の様な女の子! 同性の私ですら思わずうっとりする様な子だったわ。
可哀想にあの子は天涯孤独の身で、グフーズ家に働なければ娼婦として売られる所だったと侍女頭に言われた時はどれだけショックだった事か!
アーニャは素直で優しく、元気のある子だったわ。使用人全員から好かれ、私の子供達も彼女を慕っていた。私はもしあの子が結婚して子供が出来たら名付け親になってあげるとあの子と約束したのよ。
……あの馬鹿が酔っ払ってアーニャを襲うまでわね。
その日は夜遅くまで私は刺繍をしていたわ。どうしてなのか、その日は目が冴えて眠る気がしなかった。……きっと嫌な予感がしたのでしょうね。
突然侍女頭が私の部屋に訪れたの。こんな深夜に何故? と思ったけど彼女と一緒アーニャが泣きながら部屋に訪れたの。一体何があったかと慌てて問いただすととんでもない事を言ったの。
私が屋敷にいない間、元亭主は泥酔した挙句偶々近くにいたアーニャを襲った。そのせいでアーニャが妊娠したと言う事をね。
信じられなかったわ。
あの人に限ってそんな馬鹿な話はない、と。何かの間違いだ、と。でも、侍女頭が襲われた直後の放心状態のアーニャとその横でイビキをかきながら寝ている元亭主の姿を見たと言ったから間違いなかった。
結局その夜の事は三人だけの秘密と言う事になったけど、アーニャが妊娠した事を侍女頭が先程気付き、どうしようもなくなったから私に相談する事になったの。
その日はもう、屋敷は大騒ぎだったわ。
元亭主を殺そうと猟銃を取り出す私。それをひたすら止める使用人。盾となって元亭主を庇う勇敢で優しいアーニャ。頭を抱えて地に伏せて怯えている情けない姿の元亭主。
本当にあの時ばかりは子供達が学園にいて良かったと思ったわ。
結局アーニャは一人で子供を産み育てる事になったわ。屋敷を去って下町で暮らすことを決めたわ。私は生活が困らない程度の支援を約束して見送った。あの馬鹿以外の使用人、家族総出でね。
その時の元亭主? 医者の所に行って子供が出来ない様にしていた所よ。
一応、子供達にはアーニャは事情があって辞める事になった、と言う嘘をついていたけど。年を追う事に真実が何処からか漏れてね。表面上は仲良くしていたけど、腹の中はどう思っていたのかは母親である私には分からないわ。
そしてアーニャが流行り病で亡くなり、あの子が来た。
アーニャは娘には一度も私達の悪口は言っていなかったのか、よそよそしかったけど慕ってはいた。だから私はあの子を立派な伯爵家の娘として厳しく躾たわ。
学園に行かせた時にあの子がこの国の王太子様とその側近達と仲良くしていると、友人達が私に話してきた。貴族の娘はむやみやたらと異性と仲良くするのは眉を顰める。しかもそれが婚約者持ちなら尚更。友人達も『アレは友情を育んでいると言えないわ』と苦言として言ってきたの。
流石に私や娘、息子達も叱ったわ。伯爵家と王家では身分差があるし、王太子様は公爵家の令嬢と婚約済みだから下手をしたら不敬罪に問われると厳しく叱った。
あの子の唯一の味方は元亭主だったの。「ただ仲良くしていただけだ」「この子には悪いはなかった」と援護していたけど、王太子様の婚約者である方はこの国の宰相様だからもし何かあったらどうするの、とつい反論してしまって。
それからいつしか私達の仲は冷え切り、顔を合わせれば喧嘩する様に成ってしまった。
そしてあの日。
王太子様が宰相様の一人娘との婚約を破棄をし、あろう事があの子――ミスリアと婚約すると学園の卒業式でそう宣言したのだ。
何でもミスリアが虐められていたのは宰相様のご息女の指示だから、なんて聞いた時は馬鹿な! て思ったわ。
何せフローレン様は社交界では知らない者がいない程有名なお方。その容姿も教養も性格も素晴らしい人。それにミスリアを愛妾に、とフローレン様が王太子様にワザワザ進言してくれたのよ。
それにフローレンス様の家は公爵家、私達の家は伯爵家。しかもフローレンス様の曾祖父に当たる方は王家の方。つまりフローレンス様は王族の血が流れている。どう考えてもフローレン様と比べればミスリアが王太子妃、行く行くは王妃になるにはどうしても見劣りするし、しかも王妃教育を全く受けていないミスリアが王妃だなんて苦労するのが眼に見えている。
私はミスリアに直ぐに辞退する様に説得した。
だけど、ミスリアは王太子と生涯を共にしたいと言って初めて反抗したのだ。私は「貴女が思っている程王族は、王妃は簡単に成れるものではない」と言って説得をし続けるうちについ、怒鳴ってしまった。
そんな時にあの人が帰って来た。
ミスリアを庇う元夫と喧嘩が始まった。
あの人はミスリアを王妃にしてグフーズ家の名を大きくしようと考えていたらしく、あの子を何としても王太子妃にしようと目論んでいた。
あの人にそんな野心があったなんて驚いていたけど、つまりミスリアの幸せを願っていないとあの時の私はそう捉えたわ。
お互いを罵り、時に私が物を投げつけて。部屋はもう嵐か戦場の後の様に荒れ放題だった。
あの人から離婚を突きつけられて私は受け入れたわ。
子供達や周りに説得されても私達は頑として譲らず、そのまま別れた。……そう言う所が本当に私達はそっくりだったわ。
そう言う訳で。私は少なくはない慰謝料を持って、この町に戻ってきた訳。
此処の人達は本当に気さくで良い人達だわ。偶に住人の皆さんを集めてパーティーをやったり、奥様方とお茶会をしたりで楽しく暮らしているわ。息子達も嬉しい事に全員私の方へ付いて来てくれた。あの人にはミスリアがいればそれで良かったのよ。
えっ? 夫をどう思っているか?
それには答えないでおくわ。答えたら淑女失格の言葉を吐くのは間違いないのだから。……そうね。穏やかで幸せだったあの頃の思い出が偶に夢に出る位、と答えておきましょうか。
質問はこれだけ? それならこの話はお仕舞いで宜しいかしら。さあ、お茶が冷める前にお飲みになって?
上記の内容はとある記者がグフーズ元伯爵夫人に取材した時に残った記録である。これ以降彼女に関する記録はない。
グフーズ元伯爵夫人は離婚後、自分の産まれ故郷に戻り静かに暮らしていた。
帰った後表舞台に出る事はなかったが、ある意味幸せだっただろう。後に記載するミスリア側の主要人物のほとんどが悲惨な目に合っているのだから。
彼女はこの記者以外の人物に元夫に関して何も意見を言わなかった。子供には何かしらの会話があったかもしれないが、子供達も死ぬまで何も言わなかったからどうしようもない。
数多の研究者は何故夫人が元夫の事を何も言わなくなったのか。『嫌い過ぎて話すのも嫌だから』という説が有力視されているが、それは半分正しくないと私は思う。
恐らく夫人は伯爵の事を愛していたであろう。しかしミスリアの母の件から一気に愛情が薄れ、離婚を宣言された時にその愛は砕け散った。
それでも愛の欠片が夫人の心の中にまだ少しばかり残っていた。
だからこそ自分の口から、愛していた男の悪口を言うのは耐えられなかったのではないだろうか。私はそう考えている。
夫人の正式な死亡時は不明だが、長女であるマカリアが遠くに嫁いだ妹に宛てた手紙の一部に、『母さんが亡くなって三ヶ月』と記載されているので、多少の誤差があるかもしれないが、恐らくは七十一歳で没したのではないかと言われている。