第六話 コラプス
一 墓地
坂を上りきったところにある教会の前に、一台の白い乗用車が停まっていた。
明け方の光を受け、車体が輝き、そして車内まで光が差し込み中の人間たちを照らしている。
車にはふたりの人間が乗っている。運転席では、長髪の青年が、運転用のサングラスをかけ、窓際に肘をつき頬杖をついて外を見ている。身長一七〇センチくらいの細身の男性だが、その顔はサングラスをしていても、女性のような線の細い美しさであることがわかる。
助手席では、背もたれをほぼ水平に倒し、アイマスクをしてもう一人の青年が横たわっている。こちらは短髪で、運転席の青年よりさらに背が高く、足元が狭そうだ。両手を腹の上で組み、ほとんど身動きせず、眠っているというより死んでいるような風情である。しかしよく耳を澄ますと静かな寝息をたてている。
携帯電話のコール音が鳴り、運転席の長髪の青年が腰のホルダーから携帯電話を取り出し、電話に出た。
「はい、葛城です。・・・・崇、だいぶ時間過ぎてるぞ。・・・ああ、晶生も一緒だよ。」
葛城は助手席の高原を見た。高原はまだ眠そうにゆっくりと両手を天に向かって伸ばし、アイマスクを外すと胸ポケットからメガネを出してかけた。
「崇はまだ着かないって?」
電話を終えた葛城が答える。
「ああ、あと一〇分で着くって。事務所に免許証忘れてとりに行ってたらしい。」
「まったく、あいつらしいなあ。」
葛城はサングラスを外し、少しだけ微笑んだ。見る者全てがぞっとするような、絶世の美貌は、しかしこの葛城怜という人間の職業にとってはほぼ何の意味もないものだった。むしろ隣の高原晶生の、性格の良い科学者のような容姿のほうが、仕事をする上で便利なことが多い。
二人とも、若くて小さな警備会社、大森パトロール社所属の警護員・・・俗に言うボディガードである。それも、かなり有能な。
メガネをかけたまま再び目を閉じる高原の顔を見ながら、葛城は、前夜の彼とのやりとりを思い出していた。
・・・昨夜、大森パトロール社の、警備部門の事務所にある資料室で会った高原は、いつものそつのない愛嬌ある好青年からは、程遠い姿だった。
彼がここ数か月間資料室に通って何を調べていたかは葛城は知っていたが、状況を把握できず、彼の蒼白な顔と真っ赤に充血した両目をただ見つめるしかなかった。
「怜、俺は、朝比奈さんとはほとんど一緒に仕事をしたことはない。」
「・・・ああ。」
「今回も、山添に頼まれて、調査に協力しただけだ。」
「そうだね。」
「だが、同じ警護員として、これは、許し難いよ。」
「・・・どういうことだ?」
「これじゃあ、朝比奈さんは・・・ただの、無駄死にだ。」
葛城と同じく大森パトロール社ができたときからの警護員仲間である山添崇に頼まれて、高原は、この会社の業務が始まってすぐに殉職した朝比奈和人警護員の警護案件について、改めて過去の資料を調べ直していた。
二人は資料室中央の机に向かってそのまま椅子に座った。
「さっき、事務所の外で、山添にも話したんだが・・・。あいつ、ここで話したら多分怒りでサーバーのひとつやふたつ壊しかねないから。」
「・・・・・」
「だとしても無理はないさ、あいつは俺達と違って、朝比奈さんとつきあいが長かった。」
「崇は、朝比奈さんほどの人が、なぜ関係のない第三者を巻き込んでしまったのか、どうしても納得できないと言っていたね。」
「そうだ。しかし当時の状況を知る人からの聞き取り調査の記録だけでは、十分なことは分からない。今回、山添と俺は、クライアントと、犠牲になった第三者とについて、そのふたりに絞り込んで調べてみたんだ。」
「もしかして・・・」
「ああ、もちろん、二人が知り合いだということは分かっていた。トラブルもない、良好な人間関係だ。しかし、その人間関係は、事件の一年ほど前から、急速に形成されたものだった。クライアントは、その第三者に、積極的に接近を図っているんだ。」
「・・・・・」
「そして、そこまでして仲良くなることによる、メリットはなにもない。仕事上も、私生活上も。」
「まさか」
高原は、机の上の携帯端末の画面に、いくつかの資料を表示した。レポート作成ソフトの様式上に、二人の人間の交友関係がびっしりと入力されている。関連資料がいくつかのファイルに分かれリンクされている。
「犠牲になった第三者は、その数年前、たった一回だけだが、通り魔のような襲撃事件に遭っている。そして・・・」
葛城は息を殺すようにして、目の前で端末に目を落とす旧友の、知性を暴力的に凝縮したような横顔を見つめた。
「そしてこのクライアントは、この警護案件の数年後・・・行方不明に、なっている。その上・・この警護案件の数年前からまえの消息も、一切わからなくなっている。」
「本当に・・・?」
高原は自分を嘲るように、笑った。
「これまで、襲撃犯のことばかりを、調べていた。だから、こんな単純なことに、気がつかなかった。」
葛城が息を飲む。
「このクライアントは・・・そしてそれへの襲撃は、ダミーだ。真の狙いは、犠牲になったあの第三者。そして真の襲撃犯は・・・」
「・・・・クライアント・・だね。」
・・・オートバイが近づく音がして、葛城は車外の後方へ目をやった。山添が葛城たちの車の後ろにオートバイを停め、降りてこちらへ歩いてくる。
高原が助手席の背もたれをもとに戻しながら起き上り、車外に出る。続いて葛城も、後部座席に置いてあった荷物を取り、車を降りた。
基本的に二輪のものしか乗らない警護員仲間の山添崇は、真っ黒に日焼けした、見るからにスポーツ好きそうな青年だ。
「悪い悪い、遅くなった。」
葛城と高原に詫びながら、山添は背中のリュックから青い花束を取り出した。かなり形が崩れている。
あきれたように微笑みながら葛城が、手元の白い花束を示す。
「代表して買ってきてやるって言ったのに、そんな狭いところに入れて・・・」
「やっぱり俺も持ってきたかったんだ。」
三人は教会の脇を抜け、奥の芝生へと入っていく。左手は公園、そして右奥は墓地になっている。
横に細長く、そして丘の上から階段状になっている墓地の、一角の、小さな墓碑の前で三人は立ち止まり、跪いて花束を捧げた。墓碑にはアルファベットで"Kazuto Asahina"という名前と、没年が刻まれているだけだった。
高原と葛城が立ち上がっても、山添は墓石を見つめたまま、じっと両膝をついていた。
「和人。お前を、殺したやつが、わかったよ。」
高原は黙っている。
「わかったところで、どうすることもできない。でも、わかったよ。ごめんよ。こんなに時間がかかって。」
朝日が次第に高さを増している。三人は、墓地に続く、木々が芝生に細い影を落とす公園を少し歩く。山添が立ち止まり、丘の下を見下ろす。眼下の街はゆるやかに霧に煙って見える。
山添が下を見つめたまま、傍らの高原に言う。
「警察には一応伝えるべきことは伝えるけど・・・なんにもならないだろうね。悔しいけど。」
「そうだな。」
「今、やつをつかまえられるんだったら、あのときに、できているはずだもんな。」
「そうだ。そして俺たちは、警察でもないし、探偵社でもない。」
「ああ。」
山添が高原のほうを見る。
「晶生、感謝しているよ。さすがにこんなことは想像していなかったけど、俺は和人の最後の警護案件のことを、なるべくきちんと理解したかった。腑に落ちないことを、調べて、納得したかった。」
「・・・・」
「だから、ちゃんと調べなおして、良かったと思う。協力してくれて、感謝しているよ。」
葛城は何も言えずに二人を見ていた。昨夜の高原同様、山添も、どんな風になっていたか簡単に想像がつく。その後ようやくここまで冷静さを取り戻したのだ。それは非常な努力の結果だ。
よくわかる。なぜなら、葛城自身、昨夜あの後、久々に内臓が焼けただれそうな怒りに眠れない夜を過ごしたからである。
高原が少し顔を上げ気味にして、朝焼けの消えた空を見た。
「俺は、死ぬときは、警護中に死にたいといつも思っている。」
「・・・・」
「だから、殉職した朝比奈さんを羨ましいと思ったことさえあった。」
「晶生・・・」
「なんにも、知らずにね・・・。最悪だよな。」
葛城は、まばたきすることができずに、足元の一点を見つめていた。
二 阪元探偵社
街の中心にある高層ビルに入っている事務所に、土曜の朝から若干の緊張感が漂っていた。
事務室の応接コーナーにふんぞり返るように座っている、長身の無精ひげの男のところに、やはり背の高めの女性がショートカットの茶髪を揺らしながら早足で近づいてきた。
「酒井さん」
「なんや?」
酒井と呼ばれた男性エージェントは、腕組みをして立っている同僚の、健康的な小麦色の肌をした顔を見上げ、ゆるゆるとした関西弁で返事をした。
「空気読んでください、空気。」
「今日は喫煙してへんで。」
「違いますよ。今日は、午前中から社長がお見えになる予定だって、知らないんですか?吉田さんもそのために、今日は早い時間からこちらにいらっしゃってるんですから。」
「ああ、そうやったっけなあ。」
酒井は、ことさらにどうでもよいといった様子で、ゆっくりと立ち上がる。
「めったに来えへんお方やし、たまにお見えになると、だいたいろくなことがない。」
「酒井さん!」
「安心せい、和泉。俺が今まで社長とトラブったことあるか?」
「それは単に社長が寛大だからですよ。」
和泉が酒井を急き立て、自席に追いやった。そのまま、奥のカンファレンスルームへ目をやる。朝から吉田がこもったままだ。会議で使われることがあまりなく、事実上の書庫のようになっている部屋だが、吉田は、なにか考え事をするときは、カンファレンスルームでテーブルに向かって座っているのが常だった。
和泉がそっと覗き込むと、吉田がすぐに振り返った。
「すみません、お邪魔してしまいましたか。」
上司に詫びる和泉に、吉田が静かな微笑みを返す。いつもの地味な白いブラウス、地味なタイトスカート姿のこの上司が、この事務所にいるだけで和泉は何もかもがうまくいく安心感を覚える。同時に、そう思ってしまう自分がいつか少しでも吉田の役に立つ日が来るのかという不安を覚える。
べっ甲色の縁のメガネをかけた、その顔を包むようなセミロングの髪を手で少しよけながら、吉田が椅子の上で体を和泉のほうへ向ける。
「いいえ。ちょうど聞こうと思っていた。」
吉田の手元には、紙の厚い資料と、携帯端末が置かれている。
「はい。」
「今回の案件について、歴代の調査チームの資料、全部あなたのところにも引き継がれたと聞いた。」
「はい。」
「内容は、どのくらい目を通した?」
「紙は全部読みました。電子データはまだです。」
「そう。ならば、わかっているわね。」
「・・・・」
「私が、この案件の、受託を社長に強くお願いした。でも、貴女は、気が進まなければ今回だけは、降りてもいいと私は思っている。」
「え・・・」
「同じことを、酒井が板見にも言うと思うけど、私が貴女にこう言うのは、それとは別の理由。」
「吉田さん、それは、大森パトロール社がらみの案件だから、ですね。」
「そうよ。酒井が言うところの、貴女が呪われているとしか思えないあの会社だからね。一回、パスしてもいいと思う。それに、背景は色々あるとはいえ、今回の仕事の内容自体は、非常に簡単だから。新米のエージェント二人もいれば、できてしまう仕事だもの。」
「吉田さん・・・」
「貴女は、次回以降のもっと技術のいる仕事のために、今回は充電しててもらってもいい。」
「・・・・」
「選択はまかせるけれど。まだ時間はある。どうするか、考えておいて。」
「・・・はい。」
和泉は一礼し、事務室の自席に戻った。
事務所の大きな窓のブラインド越しに、次第に高くなる太陽の光が差し込んでいる。
入口の自動ドアが開く音がして、非常に早足の靴音が事務室へ近づいてきた。
背中合わせに座っている酒井に、和泉が囁く。
「阪元社長ですよ。ちゃんとあいさつしてくださいね。」
「わかってるがな。」
広い事務室へ、この探偵社の社長である阪元航平が、スーツ姿で足早に入ってきた。それぞれの席で社員たちが立ち上がり、挨拶する。
「おはようございます、社長」
「ああ、みんなおはよう。」
阪元は、社長という呼び名から想像するよりは、かなり若い男だ。酒井ほどではないが背が高く、そして酒井とは違い姿勢が良く清潔感ある風体で、口元に涼しげな笑みを浮かべて社員たちの挨拶を受けている。しかし最も特徴があるのは、その金茶色の髪と、明らかに白人系の血が入っている顔立ち、そして深いエメラルドグリーンの両目だ。
「相変わらず、髭剃りのコマーシャルに出てきそうな男やな」
「しっ!聞こえますよ、酒井さん!」
「阪元とかやなくて、マイケルとかジョンソンとかいう名前のほうがぴったりくるやんか。」
「もう・・・!」
和泉があきらめて自分の仕事に戻ると、社長室に入る前に阪元がこちらを振り返り、和泉のほうを向いて言った。
「恭子さんは来ている?ちょっと話がしたい。」
和泉が呼びに行く前に、カンファレンスルームから吉田が出てきて、阪元の後に続いて社長室へと入った。この事務所で吉田を名前で呼ぶのは阪元社長と酒井だけだ。
社長室といっても、簡素な、個人的な書斎のような部屋だ。阪元がいつも座っているのも、部屋の入口側ではなく壁の窓に向かってしつらえられた、すっきりしたデスクに向かう質素な椅子である。
部屋の中央には、それでも一応、小さなテーブルと6つの椅子からなる、打ち合わせスペースがある。
吉田にその椅子のひとつを勧め、阪元は自分もデスクを離れテーブルに向かう椅子に座り、続いて座った吉田のほうを見た。
「今回は、恭子さんの迫力に負けたよ。」
「・・・」
「君は、とてもおもしろい人だ。・・・いや、悪い意味じゃないよ。そして改めて、うちに来てもらって本当によかったと思っている。私の思ってもみないことを、言ってくれるからね。」
吉田はまったく表情を変えずに、阪元の深い緑色の目を見ている。
「うちの会社の、それも通常の調査部門ではなく、本体部分に参加してもらったのは、君が明日香の妹だからじゃない。純粋に、君の力が必要だったからだ。でも同時に私は、君が明日香の妹だからこそ、絶対うちには来てくれないだろうなと思っていた。」
「・・・・」
「でも、君は来てくれた。つまり君がいかに、過去の経緯とか因縁とかにこだわらない人間かということは、よくわかっているつもりだよ。」
吉田がかすかに微笑んだ。
深い緑色の目をわずかに細めて、阪元も微笑んだように見えた。
「恭子さん、もう、私が言いたいことが、わかったよね?」
「ターゲットが、わたくしにとってちょっと嫌な人間なのですね?」
「そうだよ。ターゲットがわかった。そして、どうして私が直接恭子さんにこの話をしているかも、わかるよね。」
「他の者に担当させたいのですね?」
「そうだ。君自身の感想はともかく、やはりなるべく、あの警備会社とは直には関わりを持ってほしくないんだ。なるべく、ね。」
「ターゲットが大森パトロール社に警護を依頼したということですか?」
「いや、そうじゃない。依頼すると思われるのは、ダミー屋本人のほうだ。」
「えっ・・・・」
「大胆かつ、不遜。過去の成功は、ときに人間を致命的に自信過剰にするんだね。そしてそれだけ今回の報酬が巨額なんだろう。今度は十年くらい遊んで暮らすつもりかもね。」
少しうつむき加減で、吉田が苦さの混じった笑い方をした。
「わたくし、ついさっき、和泉に同じようなことを言ったばかりです。理由は、ダミー屋の過去の所業であり、今回のことではありませんが・・・・、しかし基本的に同じようなことを、言いました。」
「なるほど」
「でも今、考えが変わりました。わたくしは今回の仕事を、・・うちの会社がずっと断ってきたこの仕事を・・・受諾するべきだと、強く社長に申し上げました。大森政子が失った最初の警護員に関わるケースである、そのことが、うちの会社がこの仕事をしない理由であるなら・・・・うちの会社はいつまでたっても、大森の呪縛から一歩も自由になれないからです。ですから・・・」
「・・・・・。」
「ですから、和泉にも、もうやめろとは言いません。」
「毒を食らわば・・・・かな。そうだね、中途半端が一番いけないのかもね。すまない。余計なことを、言った。」
「いいえ。」
「仕事の内容自体は、簡単だ。」
「はい。」
「新人エージェントでも、二人もいればできるよ。技術的にはね。」
「はい。」
「でも今回のケースは、その持つ意味が、君に担当してもらう意味が、大きい。だからこそ私は怖気づいてもいるよ。」
「はい。」
「逃げると思われたくはないが、最後にひとつ、言っておきたい。」
「・・・・」
「いつでも、中止してかまわない。お客様には、事情を話してある。」
吉田が何か言おうとしたとき、既に阪元は立ち上がり、自分の机に向かって歩きながら右手を軽く挙げ、用件は終わったと告げていた。
社長が昼前に一旦事務所を後にし、ほっとした様子で和泉が続いて出張に出ていく。
酒井は、和泉がいなくなったのを見計らったように、パントリーに入り、探しものをしていたが、板見に見咎められた。
「酒井さん、あれほど和泉さんに、事務所内禁煙と言われているのに、まさか灰皿とか探してませんよね。」
「お前、いつから和泉の手先になったんや。うー、しかも灰皿全部処分されてもうたな、これは。」
最近吉田のもとで働くようになった板見は、背はあまり高くないが、折り目正しくなおかつ野生動物のような空気を持つ、ごく若い青年だ。宝石のような硬質な輝き方をする、とても大きな目が印象的である。酒井は、見た目どおり真面目な、つまり自分とは正反対の性質のこの後輩エージェントと、もう何度目かの仕事をともにしていた。
「そうや、板見。」
「はい。」
「今回の仕事、恭子さんから概要の資料もうもらったよな。」
「頂きました。」
「俺はとりあえず、お前を止めようかと思とったんやけどな。やっぱり、止めるのはやめた。」
「は?」
「さっき和泉が言うとった。恭子さんの許可が出たから、今回、後方支援やけどきっちり参加するってな。」
「和泉さんと俺とを、外そうと思っておられたんですね?酒井さん。」
「そうや。仕事的にはなんも難しいことあらへんけど、そうは言っても相手がちょっと曲者は曲者やからな。」
「・・・・もう、あの茶室でのようなことは絶対ありませんから、大丈夫です。」
板見は大きな目をもっと見開いて、自分よりずっと背の高い先輩を見上げた。
腕組みをして、酒井が、やや長めの黒髪に縁取られたその精悍な顔に少しの笑みを浮かべ、板見の顔を見下ろす。
「まあ・・・大丈夫かな。恭子さん、お前には補助をひとりつけてくれるそうやし。それに今回は俺も近くにおるからな。けど、とりあえず絶対気を抜くな。」
「心配してくださってるんですね、酒井さん。ありがとうございます。」
「いや、お前がヘマしたら、今回は俺がもろ巻き添えになるからや。」
「・・・・。」
三 依頼
河合茂の労働環境は引き続き劣悪であった。彼が平日昼間に勤める会社で、自分が何かを主張できるような有能な社員でないことは百も承知だが、前回の「副業」で負傷ししばらく会社を休んでいる間に係に新たに発生していた懸案事項について、その後突然に係長から分担割が申し渡されたことは、どうにも承服しがたい事態であった。
係会議の後、自席に戻った茂は、やり場のない怒りをとりあえず斜向かいに座っている怒りの原因へと向けた。
「なんで俺が、お前とペア組まなくっちゃいけないんだよ、三村!」
「俺が知るわけないだろう。それに、迷惑なのはこっちのほうだ。」
三村英一は、いやになるほど整った顔に、これ以上ないほど感じの悪い笑顔をよぎらせ、端末の画面から目を離さずにめんどくさそうに答える。
この入社同期の同僚のことを、茂が気に入らないのは、彼が不愉快なほど才色兼備の完璧な人間だからだけではない。どう考えてもこの会社での仕事は片手間であり、別に持っている本業のほうでも十分優秀であるのに、片手間の仕事においても鳥肌が立つほど有能で、そして傲慢不遜に茂のような一般人を顎で使うからである。
この会社以外での仕事を持っているという意味では、茂も同様であるが、さらに茂の労働条件を悪化させているのは、その茂の副業の場にまでこの三村英一が時々姿を見せることだった。
終業時刻になり、茂はその透けるような色の薄い琥珀色の両目をまじまじと開いて、英一のカラスみたいな真っ黒の髪と同じ漆黒の目をじっと睨みつけた。
英一は無視して帰り支度をしている。
「おい、三村。」
「・・・・なんだ?」
「お前、うちの事務所に来る予定があるなら、事前に言えよな。」
茂のほうを見た英一は、嘲るような微笑を浮かべた。
「ん、最近そういえばちょっと行ってなかったな。今日あたり行くかな。」
「今日か?」
「冗談だ。公演が近いから、夜の稽古は毎日休みなしだ。安心しろ、当分行かないよ。」
「・・・・波多野部長も高原さんも、最近お前があまり遊びに来ないから、淋しいって・・・また是非にって・・・おっしゃっていた。」
「・・・・」
「俺は、伝えたからな!」
茂はカバンを持ってさっと立ち上がり、席を離れる。英一が茂を呼び止めた。
「待て、河合。」
「なんだよ。」
「今日これから、俺じゃないが、親父が事務所へ、うかがう予定だ。昨日の日曜日、俺が電話して波多野さんにアポをとった。」
「三村蒼氏が?」
英一の父は、日本舞踊三村流家元の三村蒼である。茂が土日夜間に警護員として働いている大森パトロール社は、かつて英一の父の依頼で、英一の身辺警護をしたことがある。三村蒼氏と大森パトロール社とは、その時以来の縁だ。
「波多野部長とアポ、ということは・・・」
「そう。警護の仕事の依頼だ。」
茂は全身の毛が逆立つような嫌な予感に包まれた。
「ど、どんな内容の・・・」
「それはクライアントのプライバシーだね。」
「う」
三村家当主の依頼ということは、警護対象はおそらく三村流の関係者である。そして、前回三村英一の身辺警護を担当したのは大森パトロール社の誇る敏腕警護員の、葛城怜だ。三村蒼氏はそのときの葛城の働きに感銘を受けたと聞く。
依頼を受けた警護案件を、どの警護員に担当させるかは、基本的に大森パトロール社側の判断だ。しかし、クライアントが前回と同じ警護員をと申し出た場合、特段の不都合がなければ希望に沿うようにするのも通常である。
つまり、また葛城が担当する可能性が高い。
ということは、茂も担当する可能性がきわめて高い。茂はサブ警護員として引き続き葛城とペアを組んでいる。ペアはもちろん絶対ではないし、警護員の育成のためにあえて変えることもある。が、なるべく基本の組み合わせを変えないことが業務上は望ましい。
したがって、三村家界隈での仕事を、また茂がするはめになるであろう、ということなのだ。
カバンを持って立ったまま固まった茂に、英一が少し声の調子を変えて再び話しかけた。
「河合、お前さ、高原さんに最近会ったか?」
「なんでだよ?」
「高原さんの様子がおかしいと思わないか?」
「なんだよいきなり」
「昨日俺が波多野さんのアポをとるために、大森パトロール社に電話したとき、高原さんが電話に出たんだ。」
「日曜日に警護員が事務所にいるのは、別に珍しいことじゃないよ。」
「いかにボケのお前でも、高原さんが警護員としてどのくらいのレベルの人かは、わかっているよな?」
「はあ?・・・当たり前だろう。大森パトロール社が始まったときから仕事をしていて、これまでのおびただしい警護案件は、たったひとつを除いて全戦全勝。同僚からは人間離れしたガーディアンって言われてる。」
「そうだ。葛城さんよりさらに上だ。頭脳も技術も、おそらくお前のとこの会社だけじゃなく、日本中探してもあのクラスの人はめったにいないんじゃないかね。」
「そうだよ。」
「その高原さんが・・・・昨日俺が電話したとき、俺の話を、まったく理解しなかった。」
「え?」
「親父が波多野さんに会いたいこと、そして依頼したい内容の概略・・・これだけのことを、俺が話して、そして、三度も同じ話を聞き返された。」
「・・・・・」
「メモを取っている様子もあったが、明らかに、上の空だった。」
「そんな・・・・」
「周囲が騒がしい様子もなかった。何か気を逸らせる要素がありそうだったわけでもない。」
「・・・・・」
「俺は今まで何度かしかあの人と話していないが、あの人がこういう様子なのが、どのくらい異常なことかくらいは分かる。」
「・・・・・」
茂は背筋から血の気が引くような思いで、急いで最近の高原の様子を思い浮かべていた。最後に会ったのは・・・先週の、何曜日だったか。金曜日に波多野部長に呼び出された、あの日は高原は事務所にはいなかった。いつ、いったい、何があったのか。
「河合、お前も、今日はいつもと少し様子が違っていたから、朝から、この話をお前にしようかどうか迷ったんだが。」
英一は、少しためらった後、言葉をつないだ。
「高原さんも葛城さんも、先輩として、後輩のお前をよく面倒みてくれているんじゃないか?お前も、いつも心配してもらうばかりじゃなく、たまには、先輩のことを心配してあげてもいいんじゃないのかね?」
茂が会社を後にし、同じ最寄駅だが駅の反対側にある、大森パトロール社の事務所に着いたとき、ちょうど応接室では波多野営業部長が来客と面談しているところだった。ときどき波多野の大きな笑い声が聞こえてくる。
応接室の扉は閉まっている。事務員の池田さんによれば、波多野部長と三村蒼氏は、もうかれこれ一時間くらい話しているらしい。
するとようやく応接室の扉が開き、波多野と三村蒼氏とが事務所内を横切ってこちらへ歩いてきた。茂が三村蒼氏へ一礼する。三村蒼氏が嬉しそうに茂のほうを見た。
「やあ、河合さんですな。お久しぶりです!」
ジャケットにスラックスという洋装だと、三村蒼氏は舞の家元にはとても見えず、単なるふつうのおじさんだ。
「今回、また葛城さんと河合さんにご担当していただけたらと、お願いしていたところですよ。ご都合が合えばうれしいですな。うちの真木さんが、また河合さんの愛らしい女装姿が見たいといつも言ってますが、こちらは無理だと言ってあります。」
波多野と三村蒼氏が楽しそうに笑う。茂は理性を総動員して営業スマイルをつくる。
三村蒼氏を見送った後、波多野は振り返り、その似合わないメタルフレームのメガネ越しに、茂の顔を見て言った。
「驚いてないところを見ると、英一さんに聞いたか?」
「はい。今日、ご依頼にみえると・・・」
「聞いてのとおり、葛城とお前をご指名だ。内容的に、問題はないと思うが、明日、改めて話す。葛城も一緒に。」
「はい。」
「・・・・どうした?」
「あの・・・今日は、高原さんは事務所にはみえていないですよね?」
「そうだな。昨日の日曜日に詰めていたし、今日は警護業務が夜から入っているから。」
「だ、大丈夫でしょうか・・・」
「何がだ?」
「今日の、その警護業務です。」
「・・・・お前、よくわかったな。確かに、今日の仕事、別の奴に交代させようかと思ったよ、俺も。」
「そうなんですね。」
「でもあいつもプロだ。大丈夫だよ。」
「はい。・・・・三村が、三村英一ですが・・・あいつが、昨日電話したとき高原さんの様子がおかしかったって言っていたんです。」
「なるほど。」
茂はしばらくためらった後、思い切って言葉を出した。
「あの、波多野さん、お尋ねさせてください。なにが、あったんですか?高原さん。」
「内容を詳しくお前が知っておく必要は、ないよ。」
「・・・・俺、高原さんには、今までさんざんお世話になったし、ご迷惑もかけました。信じられないくらい、ご面倒をかけました。なのに、いつも高原さんは俺にすごく優しくしてくださいます。確かに、高原さんは先輩で、俺は後輩でまだまだ新米でしかありません。でも、同時に、俺も大森パトロール社の同じ社員です。高原さんを心配しても、いいですよね?」
「まあ、それは、そうだが」
「俺、麦茶とってきます」
波多野は苦笑した。
事務員の池田さんが応接室のグラスを片づけテーブルを拭いていると、波多野と、それに続いて麦茶のピッチャーとグラスふたつを持った茂が、入ってきた。
「あらあら、なんだかさっきより、もっと長いお話になりそうですね。私はではこれで、失礼しますね。」
「はい・・・。お疲れ様でした、池田さん。」
翌日、火曜日の夜、大森パトロール社の事務所に着いた葛城は、出迎えた茂の顔を見て開口一番に、こう言った。
「茂さん、・・・今日は帰ったほうがいいんじゃないですか?ものすごく顔色悪いですよ。」
「あ、いえその、大丈夫です・・・俺は。」
「?」
常人離れした美しい両目を不思議そうに少し見開いて、葛城が茂を見る。この、有能かつやはり優しい先輩警護員の様子は、普段と変わりがなかった。
応接室へ二人が入ると、波多野はもうテーブルの上に書類を広げていた。紙の書類の一番上にはにクライアントの概略、そして携帯端末には写真が表示されている。
「今回の警護依頼人は、三村蒼勝氏。日本舞踊三村流の師範だ。ご紹介は三村流家元の三村蒼氏。二人は従兄弟同士だ。」
「・・・こちらが、警護対象ですか?」
「そうだ。」
端末の写真ファイルに映っている、二人の和服の人間のうちひとりを波多野が指差した。痩せた中年男性で、緊張した面持ちでこちらを見ている。
「これが、警護対象の佐藤裕太氏だ。三村蒼勝氏の弟子であり、同時の、蒼勝氏が経営する会社の社員でもある。」
「警護は・・・一日だけなんですね。」
「○○県○○郡・・・これ、旅館ですか。」
「そう、次の土曜日、つまり四日後ということになるが、三村流の恒例の野外公演で、開始から終了までの間だ。」
「時刻は・・・夕方から夜にかけてですね。」
「もう察しがついているとは思うが、脅迫状が送られてきている。そして実際に、一か月前と、二週間前との二回、佐藤氏は不審者の襲撃を受けている。一回目は未遂だったが、二回目は軽傷とはいえ負傷された。」
「凶器は・・・もしかして、これですか。」
茂が紙資料の何枚目かにあった、血糊のついた刃物の写真を指す。
「二回目の襲撃の後で、脅迫状と一緒に佐藤氏の自宅へ郵送されてきたものだそうだ。その下に写しがついている。名取公演の場で必ず殺す、とある。」
「なとり、って、何ですか?」
「茂、お前最初の普通の警護で三村家を担当したのに、そんなことも知らんのか。日本舞踊の弟子が、一人前になって先生と同じ苗字をもらうことだ。」
「三村流の・・・お家元は出られないようですが、蒼淳さん、蒼風樹さん、そして・・蒼英さんつまり英一さんも出られるんですね。」
「宗家の若手が出る、恒例の野外公演だそうだ。舞台は人里離れた山間の温泉旅館にくっついてつくられた、能舞台だ。警護は、ちょっとやっかいかもしれない。」
「そうですね。」
「しかも、これも察しがついているだろうが、ロープロファイル警護とのご指定だ。警護がついていることは、極力、周囲に悟られないようにしなければならない。」
一番下についていた、現地の案内図面を見ながら、旅館の敷地の広さに茂はやや呆然となった。
葛城が、波多野の次の言葉を待っている。
「そうだな、怜。肝心なことを言ってなかった。」
「襲撃犯に心当たりは、ないのですね?クライアントは。」
「ああ。ただし、動機は多少想像できる、と、依頼人の三村蒼勝氏は言っていた。佐藤氏は、蒼勝氏が経営する会社で、佐藤氏から破格の厚遇を受けている。佐藤氏に良くない感情を持つ人間は正直言って多いとのことだ。佐藤氏と出世争いをして蒼勝氏が事実上解雇した人間も何人もいる。それから、三村蒼氏のほうから聞いたが、実際、三村蒼勝氏の経営は有能だがかなりワンマンらしい。」
「犯人が、同じ会社の社員かもと社員、あるいは・・・それに頼まれた人間の可能性があるということですね。」
「名取公演の場を襲撃の舞台にしてきたのは、もともと三村蒼勝氏と佐藤氏の縁が、舞だったことからだろう、とのことだ。」
茂は、初めて葛城とペアを組んだ、あの三村英一の警護案件のことを思い出していた。公演で見た、いくつもの、この世ならぬ夢幻のような舞のことも。そして、三村流のそうそうたる若手舞踏家たちの舞をまた多少なりとも間近にできるのが、少し嬉しい自分に驚いていた。同時に、そうした公演の場を、犯罪の場に指定してくる犯人へ、心の底からの憎悪を感じた。
波多野が茂のほうを見る。
「おい、茂、木曜日に、昼間のほうの会社休めるか?」
「え、あ・・・はい、大丈夫だと思います。」
「現地を、二人で下見してこい。事務所の車を使え。」
「はい。」
「了解しました!」
「仕事なんだから、温泉とかのんびり入ってるんじゃないぞ、茂」
「わかってます!」
四 準備
翌水曜日、深夜まで葛城と二人で事務所で事前準備を続け、そして木曜早朝に再び事務所に到着した茂はさすがに仕事場でもあくびを我慢できず、給湯室で冷たい水で顔を洗った。
朝が弱い葛城はもっと眠そうだった。
冷蔵庫から麦茶のピッチャーを出している葛城へ、茂が顔をタオルで拭きながら話しかける。
「葛城さんは、警護の準備に、どんな小さなことも絶対に手を抜かないですよね。・・・当たり前のことなのかもしれませんが、俺はいつも、やっぱりすごいと思ってしまいます。」
葛城は棚からグラスを出しながら、茂のほうを振り返って笑った。
「ははは、でも睡眠不足になって仕事に支障が出たらなんにもならないんですけどね。」
昨夜、葛城は、波多野を通じてクライアントから提供された追加資料を全て携帯端末へ入力し、地図データと合せてひとつの警護資料にまとめた後、現地の地勢、旅館の詳細情報、交通手段と往来者の動き、気象情報、そして公演と出演者および招待者に関する情報を、全て処理していた。葛城の準備のやり方にかなり慣れてきた茂が手伝っても、それは、三日間程度しかない準備日数でこなすには、夜中までかかる作業だった。
「俺、運転代わりましょうか?」
「ありがとうございます、でも茂さんだって睡眠時間は同じわけですから。」
「いつか俺・・メイン警護員をできる日が来たら、やっぱり絶対に、葛城さんみたいに緻密な準備を、やっていきます。」
「それは、頼もしいです。」
「研修で、講師の先生が言ってました。・・・”警護の本番は、学校で言えばテストの本番。警護の質は、本番が始まるまでの準備段階で、全て決まっている。”」
グラスの麦茶を一口飲み、葛城は茂のほうを見て、ふっと顔を笑顔から真面目なものに変えた。
「茂さん・・・なんだか、私に優しくしてくれてます?」
「えっ・・・?」
二人は事務所の車に乗り、葛城の運転で、土曜日の警護予定現場へ向かった。
車窓の外はあまり良い天候ではない。
「本番は晴れるといいですね。」
運転席で前を向いたまま、葛城が言う。
曇り空から落ちてくる雨粒が激しく窓に当たっては次々と後方へ流されていく。
茂は、葛城の横顔をついじっと見てしまう。それはもちろん、初めて会ったときとは違い、葛城の美貌が原因ではない。
ワイパーのスピードを変えながら、葛城は口だけで少しだけ、微笑んだ。
高速を降り、山道を少し走ると、背後に森が迫る木々の間に埋もれるように、その旅館は大きな建物を潜めていた。車寄せに停めた事務所の車から二人が降りると、出てきた旅館の人間は既に事情を知っており、目立たぬように二人を敷地左手奥の能舞台へ案内してくれた。
小降りになってきた雨に二人は傘を畳み、目の前の方形の舞台の前に広がる空間の、それほど広大ではないのに不思議な広がりを感じさせる空気に、しばらくそのまま圧倒されるように立っていた。
舞台の背後の森は、どこまで続くのか、ここからはまったく分からない。そして平面図を見てわかってはいたが、客席へのアプローチはほぼ三百六十度である。
「公演会場での警護というより、大きな都市公園というのが、近いイメージですね。」
「はい・・・。非常に会場面積は限られているのに、閉鎖的なものを期待してはダメそうですね。」
たっぷり二時間余りをかけて、二人は、目と紙とレンズで、警護現場の状況を把握し記録した。
旅館の人間たちは協力的で、当日の照明の位置や、出演者の控室からの動線、舞台を見ることができる客室の位置まで教えてくれたため、それでも予想よりずっと短時間だった。
確認作業を全て終え、丁寧に礼を言って旅館スタッフたちが本業へ戻っていくのを見送り、二人も能舞台に背を向ける。
ふと、葛城が立ち止まり、茂のほうを見た。
「茂さん、一昨日の夜・・・なぜあんなに顔色が悪かったんですか?」
「え?」
葛城はその尋常ならざる美貌の顔で、さらになぜか伊達メガネまで外して、茂の目を凝視した。
茂は思わず一歩下がった。
「理由がありますよね。教えてください。」
「そ、それは・・・・」
十数秒間の沈黙の後、葛城は申し訳なさそうに、微笑した。
「茂さんは・・・嘘をつけない人ですね。波多野部長も、そうですけれど。」
「・・・・・」
「どこまで、聞きました?」
茂は、葛城の、懇願と迷いとが入り混じったような、その目を見て、もはやその追求からは逃れられないと思った。
「多分、全部だと、思います・・・・。」
「話してもらえますか?」
太陽が次第に高くなり、雲の間から細い光が順に連なるように、能舞台の湿った屋根や柱、そして床に届き始めている。
「俺に、先週金曜日、波多野部長が、大森パトロール社ができた経緯について、話してくださったんです。」
「はい。」
「その最後に、俺が、高原さんや葛城さんは、大森社長が前にいた会社からのメンバーですかと、尋ねました。そうではない、とのことでしたが、そのとき、高原さんたちと一緒に大森パトロール社に入られた、朝比奈さんという警護員さんが、殉職されたとうかがいました。」
「はい。」
「それから・・・月曜日、改めて俺から波多野さんにお願いしました。先週、高原さんにどんなことがあったのか、教えてくださいと、お願いしました。」
「・・・・」
「全部、教えてくださいました。船上での警護のこと、そしてその後・・数年経って、今、高原さんと山添さんが至られた結論のことも。」
「そうですか。」
葛城は一度うつむき、それからまた顔を上げ、茂の背後で日の光を浴びる能舞台を改めて眺めた。
「晶生も私も、朝比奈さんとは殆ど一緒に仕事をしたことはありませんでした。大森パトロール社の業務が始まってすぐに、彼は亡くなりましたから。会社が出発したばかりのときに警護員が犠牲になり、衝撃を受けたことは覚えていますが、同時に、それが警護員という仕事なんだと、納得さえしました。」
「・・・・はい」
「しかし今回、高い可能性で判った事実は、警護員という仕事そのものを、危うくするものだと思います。」
「・・・はい。」
「本当にお恥ずかしい話ですが、我々、先輩として行先を示さなければならない立場であるにも関わらず、この問題について整理をつけるには、少しかかるかもしれません。」
「・・・・」
「茂さんは、我々のことを、心配してくださったんですね。一昨日から、ずっと、なんだかおかしいなと思っていました。でも、これは我々の責任で乗り越えるべき話ですから、茂さんが悩むようなことじゃないんですよ。茂さんは茂さんが警護員になった日からのことだけ、考えていてください。」
「葛城さん・・・・。」
茂はこみ上げるような口惜しさを感じた。
どうしてこの先輩警護員は、ここまで、自らを制御することができるのだろう。
どうしてなのか。
「・・・・茂さん?」
「月曜に、三村が言っていたんです。日曜日事務所に奴が電話したとき、明らかに高原さんの反応が異常だったって。そして、波多野さんも同じことをおっしゃっていました。・・・そして、葛城さんも、俺がいつもと違う様子だということに、すぐに気づきました。なのに俺は、いつも俺は、皆に心配してもらうばっかりで、自分は人の気持ちに気づくことさえできない。三村に怒られましたが、奴の言うとおりです。」
「・・・・・」
うつむく茂を、葛城がじっと見ている。
「・・・すみません。」
「いいえ、茂さん。」
そして、葛城は今まで茂が見たどんな笑顔より、温かくそして静かな笑顔で、言った。
「・・・こんなことを言っても信じてはもらえないかもしれませんが、私も晶生も、後輩警護員が・・・茂さんが、元気で嬉しそうにしているのを見るだけで、先輩として何よりしあわせなんですよ。私たちの心配なんかして悲しそうにしている顔を見るのは、何より悲しいことなんですよ。わかってもらえますか?」
「・・・・葛城さん・・・」
「・・・そうですね、茂さんがいつか、先輩と呼ばれるような立場になったとき、わかるのかもしれませんが。心配するのは先輩の仕事です。後輩の仕事は、元気でいてそして先輩を頼ることですよ。それに・・・」
葛城はふいに、いたずらっぽい顔になった。
「それに、先輩として後輩にあまりみっともないところを注目されたくないですからね。そういう意味でも、心配なんて、いらないんですよ。」
「・・・・」
茂は、こんな先輩たちを、これからも全力で心配しようと心に誓った。
葛城は踵を返し、茂の先に立って歩き始めた。
「行きましょう。今日はクライアント宅を訪ねる予定ですが、ここの下見が予定より早く終わりましたから、少し事務所で仮眠もできそうですね。」
街の中心にある高層ビルの事務室に、夕日が大きな窓のブラインド越しに深々と差し込んでいたが、やがてスタッフたちが帰宅しいなくなるのと同時に、夜の闇が広々とした事務室を覆っていく。
しかし、事務所奥の、個人の書斎のような社長室には夕暮れ時から再び明りが灯っていた。
明りが漏れる扉の外で、吉田はしばらく佇んでいた。それは待っているようでもあり、ためらっているようでもあった。
しばらくして、ようやく吉田は社長室の扉をノックした。
「どうぞ、恭子さん。」
よく通るすっきりとした声が、中からすぐに返ってきた。
「失礼します。」
阪元は、今週二度目に会う、自社の最も頼りにする女性エージェントを、デスクの椅子から立ち上がって出迎えた。
部屋の中央にあるテーブル脇の椅子に阪元が座っても、吉田は立ったままだ。
「どうした?」
「一点、お許しを頂きたいことがあり、参りました。」
「なんだか、思いつめた顔だね。」
吉田の表情は一見いつもと変わらないが、この探偵社の社長である阪元には彼女の様子がほかの人間よりも分かるようだった。
部屋には、抑えた音量で、音楽が流れていた。女声の声楽曲だった。
「・・・・。」
「音楽、気になるなら切るよ。」
「いいえ。・・・・ペルゴレージですか。」
「ああ。」
曲は終盤に入っていた。
「実際に、先日社長がおっしゃっておられたとおりになりました。」
「そうだね。その悪いニュースは私も聞いたよ。不遜にして、大胆・・・というより、無謀と言っていいね。愚かな奴だ。」
吉田は一瞬ためらった後、意を決したように言った。
「大森パトロール社に、警告してもいいでしょうか?」
阪元は、あまり驚いてはいなかったがそれでも目を少し丸くして吉田を見返した。
「・・・恭子さん、それはもちろん構わないけれど、多分、やぶ蛇になるよ。」
「わかっています。」
阪元は少しだけ嬉しそうな表情をその深いエメラルドグリーンの両目によぎらせた。
「恭子さんが理詰めでものを言わないのは、珍しいけど楽しい。」
「申し訳ありません。」
「フェアに、やりたいんだね?」
吉田が、少しうつむいた。
部屋に流れる女声声楽曲が、曲の終わりまで来て、再び曲の冒頭へ戻り演奏が始まる。
阪元は、少し斜に吉田の顔を見て、そして今度ははっきりと、微笑した。
「明日香が、よく聴いていた曲だね。ペルゴレージの、Stabat mater dolorosa。」
曲は二人の女声が絡み合うように奏でられていく。
Stabat mater dolorosa
iuxta Crucem lacrimosa,
dum pendebat Filius.
Cuius animam gementem,
contristatam et dolentem
pertransivit gladius.
O quam tristis et afflicta
fuit illa benedicta,
mater Unigeniti!
Quae maerebat et dolebat,
pia Mater, dum videbat
nati poenas inclyti.
Quis est homo qui non fleret,
matrem Christi si videret
in tanto supplicio?
Quis non posset contristari
Christi Matrem contemplari
dolentem cum Filio?
吉田はゆっくりと目を閉じ、そして再び目の前の上司のほうを見て、一礼した。
「明日の夕方、実施いたします。許可をくださいまして、ありがとうございました。」
「今回の仕事で、多分一番大切なことは、成功することではなく、納得することだ。お客様もそうであるし、そして、我々もね。」
「・・・・失礼いたします。」
吉田は部屋を出て行った。
あまり大きくはないが明るい日本家屋の客間で、英一が着流し姿で、言葉で地歌を口ずさみながら舞っていた。
床の間を背にして、背の低い痩せた女性がやはり和服姿で正座し、英一を見守っている。英一の兄の許嫁の、三村蒼風樹だった。
舞い終わり、英一が扇子を畳において一礼すると、蒼風樹は首をかしげてちょっと困った顔をした。
「英一。家元に見てもらった後、わざわざ私にも見てほしいって、今回なにか仕上がりがそんなに心配なの?」
「とりあえず、コメントをくれよ、美樹。」
英一が蒼風樹を本名で呼ぶ。
「・・・・完璧だけど。」
「本当か?」
「不安と言えば、これでまた貴方のファンが増えて、さらに弟子が増えて、貴方が過労死するんじゃないかってことくらいね。」
「心配してくれてありがとう。」
蒼風樹は、もう一礼して立ち上がろうとする、目の前の長身の美男子・・・三村流宗家の超人気舞踏家を、呼び止めた。
「英一、今度の公演で、大森パトロールさんの警護が入ると聞いたけれど、警護をされるのはお弟子さんなんですって?」
「親父に聞いたのか?」
「家元に聞いた淳也に聞いたの。」
淳也とは、英一の兄である三村蒼淳の本名だ。
「弟子に警護がつくと何か問題あるか?」
「いえ、最初、警護がついたのが蒼勝さん本人かと思っていたから。」
「美樹は、蒼勝と知り合いだっけ?」
「教授たちの噂で聞いたことがあるわ。遅くに始められてあのスピードで師範になられたのは本当にすごいけれど、でも本業のほうではずいぶん評判が悪いそうよ。」
「・・・・」
「まあ、いずれにせよ、あの大森パトロールさんがいらっしゃるなら、なにがあっても安心だわね。私、もちろんもう二度とお邪魔したりはしない。」
蒼風樹は、前に大森パトロール社が英一を警護したとき、彼を襲撃犯からより確実に守ろうと、知り合いのつてで阪元探偵社にその保護を依頼したことがあり、そのときに大森パトロール社の葛城が負傷したことを、ずっと引け目に感じている様子だ。
「あのボケの河合がサブ警護員らしいから、予断を許さない状況ではあるけどね。」
蒼風樹は笑いながら英一をたしなめたが、ふっと、今思い出したように、話題を変えた。
「あのね、英一。」
「?」
「私たち、来年春に、結婚することにした。」
「・・・・・」
「今度の公演が終わったら家元に淳也が話すことになっているんだけど、貴方には一番最初に報告しておきたくて。」
「そうか、おめでとう。」
「婚約期間がずいぶん長かったから、なんだか実感わかないけどね。」
微笑む英一の顔を見ながら、蒼風樹はなぜか複雑な表情をしていた。
五 警告
金曜の夕方、帰宅ラッシュが始まったばかりの駅の雑踏を遠目で見ながら、高原は仲間の警護員の姿を目で追っていた。
改札前の、乗降客でごった返す一角で、葛城が人の波をかわしながら少し緊張した面持ちで、ひとりで立っている。
高原が時計をちらりと見て再び葛城のほうを見たとき、その向こう側から一人の人物が葛城のところまで来て立ち止まったのが見えた。高原は息を飲み込んだ。見覚えのある人物だった。
「大森パトロール社の葛城さんですね。」
目の前の、あまり背の高くない、しかし印象的な大きな目が硬質な輝き方をするごく若い青年を、葛城は冷たさの多く混じった静かな表情で見た。
「偽名で呼び出すのは、失礼ではありませんか?」
「お許しください。」
二人の周囲を、触れ合わんばかりの距離で、膨大な数の人間たちが二人に無関心に通り過ぎていく。
葛城は黙って相手の目から目をそらさず、相手が用件を言うのを待った。
板見は自分より少し背の高い葛城の美しい切れ長の両目を見上げ、礼儀正しく遠慮がちな微笑と共に言った。
「お詫びをふたつ。そして、お知らせをひとつ。今日の、これが用件です。」
「・・・」
「お詫びのひとつめです。京都では、大変失礼をいたしました。我々の分を越えた行動だったと思っています。」
「・・・」
「ふたつめは、その後別の仕事の際には・・・我々の巻き添えにして、貴方がたの大切な新人さんを負傷させてしまったことです。」
「あなたは、どこの誰です?」
「あの新人さんには、借りがあるので、なおのこと申し訳なかったと思っています。私たちのお客様の命を、助けることに、協力してくださったことがありますから。」
葛城は、目の前にいる、折り目正しい野生動物のような青年の大きな目を改めて見た。そして、記憶の中に、その声が蘇っていた。集音マイク越しにスピーカーから聞こえていた、あの、聞きなれぬ声。その宝石のような目と同じように、硬質で、透明な声。
「謝罪しなければならないことは、ほかにもおありだと思いますけれど?」
板見は大きな目をぐっと細めて、くすりと笑った。
「我々のことを思い出していただけて、光栄です。葛城さん。」
そして腕にまきつけていたネックレスのようなチェーンをとり、そのまま葛城へ差し出した。ペンダントトップの代わりに、メモリーが取り付けてあった。
「このデータを、後ほどご覧ください。今日の用件の最後、お知らせについてです。」
葛城の左手首に、ネックレスをからませた。
「端的に申し上げます。今回の警護、お断りになることをお勧めします。」
「・・・・」
「もちろん我々に強制力はありませんし、予定通り警護をされるならそれはそれで、ご自由です。が、その場合は、お互いあまり気持ちの良い結果になりません。」
板見は一礼し、去り際に初めて、名乗った。
「わたくしは、阪元探偵社の、板見と申します。今日はお時間を頂きまして、ありがとうございました。」
雑踏にそのまま紛れてしまった板見が去っていったほうを見ている葛城に、後ろから高原が声をかけた。
「あの茶会でクライアントを襲った奴だ。」
「そうだね。」
金曜の夜、昼間の会社の仕事が終わり予定どおり大森パトロール社の事務所に到着した茂は、比較的鈍い彼にも十分感じられる程度の、事務室内の異様な空気を感じた。
明りがついて人の気配がするのに静まり返っている応接室を覗くと、波多野部長と三人の人間たちが、なにも言わずにソファーに座っている。テーブルの上には、紙資料と、見慣れぬメモリーのつながった携帯端末とが置かれている。
茂がそっと応接室を離れようとすると、波多野が入口のほうを見て言った。
「茂、かまわんよ、お前も入れ。」
空いていた一人掛けのソファーに遠慮がちに腰を下ろす。長椅子には波多野、隣に高原、向かいの並んだ一人掛けソファふたつにはそれぞれ葛城ともう一人、日焼けした男性が座っている。茂は初めて見るが、この人が山添さんだろうと思った。
波多野が茂に説明してくれた。
「今日、事務所へ、怜あてに差出人の分からないメッセージが届いた。いや、正確には差出人は偽名・・・朝比奈和人を名乗っていた。重要な用件があるからと、時間と場所を指定しての呼び出しだ。念のため晶生を一緒に行かせたが。相手は自分たちが阪元探偵社の人間だと言ってこのメモリーを怜に渡した。そして、これがその内容だ。」
「これは、佐藤裕太さんの・・・今回の我々のクライアントについての・・・資料ですね。」
「全体は膨大な量だが、要点を数枚にまとめてもある。少なくとも数年をかけて調査されたものだ。結論は、佐藤裕太は、升川厚と同一人物である、というものだ。」
「ますかわ、あつし?」
「大森パトロール社が始まってすぐに殉職した、朝比奈警護員が、最後の警護案件で警護した、クライアントだ。」
「・・・・!」
「顔も名前も役所の届け出関係も全部変えている。同様に、朝比奈の警護案件発生の数年前以前、さらに第三の別の人物として生活していた証拠も、確認されている。」
「そんな・・・」
茂は高原の顔を見た。黙ってテーブルの上の資料を見ているその横顔は、茂の目からは恐ろしいほど平静に見えた。
「メモリに入っていた情報は、要するにそれだけの内容だ。この事実だけを、根拠資料とともに示しているだけのものだ。つまり阪元探偵社は、朝比奈和人のケースを十分理解し、我々に、単純な、メッセージを伝えている。」
「・・・朝比奈さんが殉職する原因をつくった人間を・・・・・いや、警護員という存在を犯罪に利用した人間を、我々が警護しようとしているのだという・・・・」
「そう、そしてそんなことはやめなさい、ということだな。」
茂は喉が詰まったようになり、波多野の顔をじっと見た。波多野はメモリーにつながったネックレスのチェーンを見ながら、苦々しく笑った。
「ご親切なことだ。」
山添が、顔を上げて波多野を見て、咳き込むように言った。
「佐藤に・・・升川に、このまま予定通り行動させましょう、波多野さん。犯罪行為に至らせましょう。そうすれば、警察に逮捕させることができる。」
「だめだ。」
波多野は間髪を入れずその選択肢を禁じた。
「わかっているとは思うが。」
山添の顔を、半ば厳しく、しかし半ば労わるような表情で見ながら、波多野は言った。
「そういうことをしたければ、うちではなく他の会社へ行って、やれ。」
「・・・・すみません。」
茂は、山添もそうであるが、高原と葛城が、さらに驚くほど冷静なのを見て、逆に当惑さえしていた。
高原はテーブル上の資料から引き続き目を離さず黙っている。葛城もほぼ同様である。
「阪元探偵社がうちにご親切なアドバイスをしてくれた理由は、佐藤つまり升川が彼らのターゲットだからだろうな。うちが警護を降りれば、手間がひとつ省ける。」
波多野は、葛城の顔を見た。テーブルに向かって黙っていた葛城は、少し顔を上げて波多野を見た。
「考えは、決まったよな?怜。」
「はい。今回の警護依頼は、警護契約上の告知義務違反であることが、強く推定されます。・・・契約解除します。」
「そうだな。メイン警護員にも異存がないなら、明日朝いちばんに、警護依頼人へ説明する。納得されない場合は、当社事由による解除扱いにしてもいい。必ず、断るよ。」
「はい。」
茂は、昨日の木曜日の夕方、警護依頼人の三村蒼勝の自宅で、蒼勝と警護対象者の佐藤裕太に会ったときのことを思い出していた。
写真では痩せて神経質そうだった佐藤は、しかし実際に見ると目鼻立ちの整った柔和な印象の男だった。佐藤よりやや上の年代の蒼勝は、佐藤がかつての自分と同様にかなり遅く日本舞踊を始めたこと、会社でも優秀であることなどを、自慢げに語った。蒼勝はあまり他人の意見を聞かなさそうな傲慢な性格である印象だったが、しかし少なくとも佐藤を弟子としてそして部下として、高く買っていることはよく伝わってきた。
茂は胃のあたりに、激しい憎悪が湧き上がるのを感じた。
そしてふいに茂は、前回の治賀良太の警護のことが、頭に蘇ってきた。
あの、監禁された部屋のスピーカーから聞こえてきた、和泉の乾いた声。
殺害します、という、明瞭な言葉。
「波多野さん。」
「ん、なんだ?茂。」
「我々が警護する予定だった明日の公演で、阪元探偵社は、佐藤つまり升川を・・・・」
「・・・・」
「殺害、するということですよね。おそらく。」
茂の言葉が発せられると同時に、応接室の空気がさっと変わり、発言した茂自身が一番驚いた。
葛城が、茂のほうを見た。葛城のその顔は、表情は、例えるならばいきなり初対面の人間から「お前、死ねよ」と言われたらこうなるだろう、というようなものだった。
声さえ出ない、それはとっさの許容範囲を超えた驚愕だった。
高原も、そして山添も、視線こそ茂へ向けてはいなかったが、ほぼ同じ表情になっていた。
「あ、あの・・・」
この場にいる誰もがわかりきっていることを、言葉にしただけである。
なぜ先輩警護員たちがこういう反応を示すのか、茂には理解困難だった。
この後の、わずか一分間弱の沈黙は、茂にとっては世の終わり程度に永遠のものに感じられた。
再び最初に口を開いたのは、葛城だった。
「波多野さん。警護の契約は、解除しないで・・・もらっても、いいですか・・・・?」
声がかすれていた。
波多野はまだ黙ったまま、葛城が、人形のように整った顔をほぼ真下に向けたまま言うのを、聞いていた。
「・・・お願いします。」
そして、波多野が大きなため息とともに、答えた。
「わかった。」
茂が当惑している間に、波多野と先輩警護員たちの話題が速やかに明日の警護のことに移っていた。殺害のリスクが極めて現実的であることから、高原と山添も現場に行くことを望み、波多野が了解した。
話し合いが全て終わり、先輩警護員たちが部屋を出ていき、波多野も腰を上げたとき、茂はようやく少し頭が冷静になっていた。
「は、波多野さん。」
「なんだ?」
立ち上がって波多野の顔を見ながら、茂は口籠りながら、言った。
「俺、まずいことを、言ったんでしょうか?」
波多野は茂の様子がかなり深刻なのが意外なように、メタルフレームのメガネの縁を少し上げた。
「ああ、まあ、ある意味、まずいことを言ったな。」
「やっぱり・・・」
「なに全身で罪悪感感じてるんだ?茂」
「・・・・」
「あいつらが、自分で至った結論だ。別に、お前のせいじゃないよ。」
「・・・ならいいんですが・・・・」
「先輩を心配するのはいいが、罪の意識まで感じるようになったら、行きすぎだ。」
「はい。」
「人間の悩みとか迷いとかってのは、結局、本人たちにしか分からないことが大部分なんだから。」
「・・・・はい。」
「それより自分のことを振り返ってみろ、茂。」
「え・・・」
「近くに、不義理をしている友達がいるんじゃないのか?」
「・・・・」
「うちの大事なクライアント兼コンサルタントさんだよ。」
「三村ですか?あいつに、俺が不義理って・・・・?」
波多野はにやにやしながら茂の顔を下目づかいに見た。
大森パトロール社を後にした金曜日の夜、葛城と山添はそれぞれ、自宅に戻った後、それぞれの車とオートバイで、夜の高速道路へ出ていった。
そして波多野と高原は、それぞれ、別々の人間へ電話をかけていた。
波多野は、事務所の電話の短縮ダイヤルで。
そして高原は、夜道を歩きながら、携帯電話をかけていた。
三回コールして、出なかったら切ろう、と高原は思った。三回目に、相手が電話に出た。
夜中にもかかわらず、英一は車で自宅と駅の間に横たわる大きな都市公園の駐車場まで来てくれた。
車から降りてきた英一を、先に着いていた高原が、会釈して出迎えた。
「三村さん、公演前に、本当に申し訳ありません。」
「いいえ、実は俺も、できれば大森パトロールさんとお話したいと思っていたところでした。」
二人は、芝生に埋め込まれた照明が木々をライトアップする、広大な公園内へ少し入り、噴水前の石段で足を止め、英一は手すりに背を軽くもたれるようにして高原の言葉を待った。高原は英一に斜めに向き合う位置で、まっすぐの姿勢で立ち、英一の顔を見た。
「明日の警護ですが、私も現地に行きます。佐藤様の殺害の危険がきわめて高いと思われるからです。」
「佐藤の、ですか?蒼勝ではなく?」
「・・・三村さん、そう、思われましたか?」
「ええ。俺は蒼勝がどんな人間かよく知りませんが、教授仲間の評判を聞くと、佐藤より蒼勝のほうが、よほど命を狙われそうな人間ですね。それで、今回の警護のことは、機会があれば大森パトロールさんに状況をうかがってみたいなと思っていたところです。」
「佐藤様を狙っているのは、阪元探偵社です。」
「・・・えっ」
「そして、三村さんや蒼風樹さんの想像どおり、今回そもそも命を狙われたのは、蒼勝氏です。」
「では、蒼勝を殺そうとしているのは、誰なんですか?」
「佐藤氏だと、思われます。」
「それは・・・・いったい、どういうことですか?」
「佐藤氏は、殺人を職業としている人間・・・いわゆる殺し屋ですね、そういう商売の人間だと思われます。それも、数年に一度、大きな案件を受託して、巨額の報酬を得る。つまり、基本的に複数の人間からの依頼と報酬とを受け、しかも指定された場面での難易度の高い殺人を請け負います。ですから依頼人の動機は怨恨が主です。」
「・・・・」
「佐藤氏は、明日の殺人のために、数年前から蒼勝氏に接近したと思われます。公演の場で蒼勝氏を殺してほしいという、依頼人たちのニーズに完璧に応えるために。彼は、蒼勝氏に一番近いところにいて、そして、自分への襲撃事件という舞台を活用して、自分の手で蒼勝氏を殺害するつもりだと思われます。」
「それは・・・・」
「同様の手口で、我々の同僚がかつて、利用されました。そして今回、その犯人と、佐藤氏とが、同一人物であることをつきとめたのは、阪元探偵社です。顔も名前もすっかり変えていましたが。」
「それは、誰かが佐藤の殺害を阪元探偵社に依頼したということですね?」
「おそらく、我々の同僚が利用されたあのとき殺害された被害者の、ご遺族でしょう。」
「同じ警備会社の警護員を、また利用するというのは、恐ろしく無謀なことに思えますが。」
「はい。私もこれが、何かの間違いであることを、願ってはいます。」
高原はいったん口をつぐんだ。そして浅くため息をつき、一礼した。
「警護ご依頼人にもお話ししづらいことでしたが、三村家のどなたかには、お耳に入れたいと、勝手に思い・・・お話ししてしまいました。申し訳ありません。」
英一は改めて高原の顔を見た。日曜日に電話したときの、彼の異常な様子の理由は分かった気がしたが、新たに分からないことができた。
「・・・高原さん」
「はい?」
「高原さんたちは、佐藤の・・・いえ、犯罪者かもしれないこの男の、警護を、お断りにはならないのですね。」
「・・・・」
「すみません。愚かな質問だということは、わかっています。お答えも、わかっているつもりです。」
英一は、この質問をしてはいけなかったと思い、高原を見た。
しかし意外なことに、高原の様子は、質問をされるのを心底待っていたかのように見えた。
「・・・・愚かな質問などではありません・・・・。とても普通の、そしてとても良いご質問です。」
「・・・・」
「我々、バカじゃないかと、お思いでしょうね。」
「・・・・確かに、思います。」
「・・・・」
英一は、今はもうはっきりと、高原の知的な目の奥の、訴えるようなものを理解していた。
「高原さんたちは、迷ってはおられない。しかし、迷っておられる。・・・俺に、なにか、良い意見を言うような能力があればよいのにと思いますよ。でも、何も言ってはあげられない。申し訳ないと、思います。」
「三村さん・・・」
そして英一は、背筋をまっすぐに伸ばして立ち、高原の目を見て微笑した。
「どんなことがあっても、我々は貴方がたを信頼していますよ。蒼も、蒼風樹も、そして俺も。」
高原はかすかにうつむき、そして何かをこらえるように、じっと黙っていた。
ずいぶん長い間、そのまま黙っている高原を、英一はまっすぐに見つめていた。
夜更けの空から、冷えた空気が木々を抜けて降りてくる。
ふいに高原が、顔をあげて、英一に言った。
「依頼を受けたわけではありませんが、我々に・・・・蒼勝氏の警護を、させて頂けたらと、思います。」
六 公演
土曜日の午後、茂と葛城が警護現場へ到着したとき、駐車場にはもう山添のオートバイが停められていた。
「晶生も崇も予定より早く到着したみたいですね。」
オートバイにはヘルメットがふたつ、ハンドルから無造作にぶら下がっていた。
二人は、予定通り、旅館の最上階の客室へ向かう。入口から声をかけると、廊下に面した引き戸が開き、三村蒼が出迎えた。
「やあ、葛城さん、河合さん。本日は大変お世話になります。ささ、どうぞお入りください。」
「公演前のお忙しいときに、恐れ入ります。」
茂と葛城が広い客間に入ると、続きの間になっている奥の部屋で、三村蒼勝と佐藤裕太が茶菓子を前に談笑しているのが見えた。
部屋の主である三村蒼氏に導かれて二人も同じテーブルを前に座る。
蒼勝が笑顔で二人に挨拶し、佐藤は遠慮がちに「よろしくお願いします」と言って頭を下げた。
三村蒼氏が手ずから二人の警護員に茶を淹れてすすめた。
湯呑を手に取りながら、茂は隣の葛城の横顔に目をやった。葛城はいつも通りの、穏やかな表情で、その優美な切れ長の目に嫋やかな微笑を含ませてさえいた。
「公演は夕方六時半、リハーサルはこの後まもなく開始ですね。ご予定に変更はありませんね?」
「はい。全て予定どおりです。天気も心配なさそうでほっとしています。」
「そうですね。」
あまり見てはいけないと思いつつ、茂は目の前の、三村蒼勝と佐藤裕太を、何度も見てしまう。本当に仲が良さそうだ。何らの問題があるようにも見えない。
警護開始は公演開始と同時のため、リハーサル中は下見ということになる。公演中の警護員の動きを最終確認し、茂と葛城は三村蒼氏の客室を後にした。
会場はすでにすっかり公演の準備が整っていた。
方形の能舞台を取り囲むように椅子席が設けられ、さらにその後ろは立見席になっている。リハーサルの対応に立ち働く三村流のスタッフたちには茂たちのことは伝えられているため、茂と葛城が舞台周辺にいることが不審がられることはないが、極力目立たぬよう、隅のほうの客席に茂は座り、手元の小型端末で公演予定を再確認した。三時間の公演で、出演者は前半が佐藤を含む三名の名取、後半が蒼勝、蒼英、蒼風樹そして最後が蒼淳である。
葛城は葛城の担当部分である、橋掛かりの裏から鏡の間、そして客席までの動線を再確認しながら、不審物等の最終確認を何度もやっている。いつも以上に、少し過剰なほどの丁寧さだと茂は感じた。
リハーサルが始まり、ようやく葛城は客席の茂の隣にやってきて椅子に座った。
「茂さんは特に意識する必要はありませんが、晶生と崇の位置取りに、少し変更があります。」
「はい。」
「波多野さんの指示で、崇はあくまで警護員ではなく予備要員ですが、インカムを装着して、そして客席ではなく別館最上階のバルコニーから監視してくれることになっています。」
「全体を見てくださるんですね。」
「会場は非常に暗いですから、見える精度は限定的ですが、ないよりはマシですね。それから晶生は、蒼勝氏の警護をすることになりました。」
「えっ・・・」
「依頼があったわけではありませんから、自主的な・・・謂わばこちらの勝手な行動です。いずれにせよ、茂さんと私は佐藤氏に集中することに変わりはありません。」
「はい。」
「後はすべて打ち合わせ通りですし、警護内容はシンプルですが、茂さん、くれぐれも気をつけてください。」
「・・・・はい。」
「もう少ししたら、早めの夕食に行きましょう。お家元が、旅館に頼んでくださっているそうです。」
早くも、空は夕日の気配が近づいていた。
遠くの空を、鳥が数羽飛び去るのが見えた。
食事を終え、茂が葛城と別れて客席脇の定位置へついたとき、既に日はほぼ暮れていた。会場にはどこからこれほどの人数が、と思えるような多くの観客が集まっている。もちろん、茂が前回の三村家の警護であまりにも見すぎてあきあきしている、数十人規模の女性客の集団も、英一を目当てに客席の一角を占めている。
葛城はこの後、佐藤につかず離れずの警護となるため、別行動だ。
高原はどこにいるのだろう。気にしなくてよいと言われたものの、茂はつい舞台脇周辺を捜してしまう。かがり火がたかれており、また照明もあるが、予想通り舞台以外は非常に暗く、みつけられそうにない。
開始のアナウンスがあり、公演が始まった。
佐藤はトップバッターだった。三村の姓と芸名がプログラムに書かれている。袴をつけて舞うその姿は、一端の舞踏家だ。
出番を終えると、すぐに佐藤は客席のほうへ降りてきて、橋掛かりに近い隅の席へ座った。葛城が少し間を開けて、ついている。そこへ蒼勝がやってきて、立ち上がった佐藤とひとしきり立ち話をしている。舞の出来栄えについてさっそく師匠からコメントをもらっているといった様子だ。暗くて二人の表情はよく分からないが、しきりに佐藤がお辞儀をし、そして蒼勝は佐藤の肩を叩いて笑っているようだ。
前半の舞が終わり、休憩時間になると、さらに観客の人数が増してきた。立見席にもほぼ全列に人が並んだ。
後半最初の、蒼勝の舞が始まる。予想以上に洗練された舞に、茂は意外な驚きを感じながら舞台を見てしまい、そして理性の力で橋掛かり近くの客席に座っている佐藤に意識を戻す。暗いが、その近くにいる葛城もなんとか見える。
十五分間ほどの演目を終え、蒼勝が正座して一礼すると、かなりの拍手が起こった。橋掛かりから退場した彼がやがて客席へ現れ、佐藤のところにやってきて、佐藤は立ち上がって拍手するようなしぐさをしながら師匠を出迎えた。蒼勝の知人らしき人間たちが何人かやはり客席から立ち上がって近づき、祝福の言葉をかわるがわる述べているようだ。葛城は佐藤との距離を数歩縮めて、注意深く警護している。二人に近づく人間たちの顔と名前も、基本的に全て葛城の頭に入っている。
やがて蒼勝を囲んでいた知人たちはまた一人二人と自分の席へと戻っていく。
そのとき茂の目に、暗くてはっきりしないが灰色っぽい色の帽子をかぶった男が、静かに蒼勝と佐藤のいる集団へ向かっていくのが見えた。警護員としての茂の直感が彼を意識させただけではなく、実際に彼の手には光るものが握られていた。
インカムへ茂が叫んだ。
「葛城さん!客席側から不審者接近あり、グレーの帽子の男です。」
まだ十分な距離がある。茂は自らクライアントと不審者との間に先回りした。灰色の帽子の男と、はっきりと目が合った。
そのとたんに、茂の視界がなにかに遮られた。それが長身の男性だと分かったときにはすでに再び視界が開けており、そして、その長身の男性と灰色の帽子の男が、こちらへ歩いてくるのが見えた。
暗闇の中でも、灰色の帽子の男の両腕が後ろに回されており、背後にいる長身の男性がその両腕をとらえているらしいことが、茂にもわかった。
その長身の男性を、茂はよく知っていた。最初の警護のとき英一を監禁し、京都では新幹線の中で葛城を挑発し・・・そしてマンションで手紙に火をつけた、あの男だ。
客席から、今までとは違う、ひときわ大きな拍手が起こった。三村蒼英、つまり英一が、舞台に登場したのだ。
舞台には燭台ひとつ。伴奏は三味線と笛。英一の手には扇子一本。
曲が始まると、地上の客席の、全ての人間が、能舞台だけを見ていた。客たちの誰もが、それ以外のものが存在することを、忘れてしまったようだった。
舞台を見ていないのは、二種類の人間たちのみ。警護員達と、そして、殺人者達だった。
「こんばんは、佐藤さん。いえ、升川さん、ですな。」
ゆるゆるとした関西弁で、低いが確実に届く声で酒井は言った。そして、灰色の帽子の男を背後から片手で楽々と拘束しながら、ゆっくりと、さらに近づいてくる。その視線は、茂を飛び越えて、茂の斜め後ろにいる佐藤と葛城とを見ていた。
茂の目に、酒井のもう一方の手が、灰色の帽子の男の首に、銀色の細いものをぴったりと突き当てているのが見えた。
佐藤は、大きく目を開いて、酒井と帽子の男とを見ている。
「私から、離れないでください。」
葛城は片手を、佐藤をかばうように斜めに伸ばし、佐藤を一歩下がらせる。
「升川さん、計画は残念ながら失敗のようですな。ごらんなさい。あなたのターゲットは、大森さんとこの有能なボディガードさんが、とっくにどこかへ連れていってしまいましたよ。」
佐藤がぎょっとして振り返る。茂も思わず振り向き、佐藤と同じくらい目をみはった。今の今まで佐藤の隣にいた蒼勝は、一瞬のうちに、どこかへ消えていた。
舞台からは、悲しげな調べが波のように客席へと広がっている。
”鹿を逐ふ漁師は
山を見ずといふ事あり
身の苦しさも悲しさも
忘れ草の追鳥
さらに佐藤そして葛城との間合いを詰めながら、酒井が言葉を続ける。
「あなたずいぶん、なめてかかりましたね、大森さんとこの会社を。なんぼこの人達が、来るものは拒まずやからって、限度というもんがありまっせ。」
数メートルの距離を残して、酒井は足を止めた。
そして、ななめ横から見ている茂でも全身の血が凍りそうな、無慈悲な笑いを浮かべた。
「ターゲットは、あなたなんですよ。本当の、意味でね。」
脱兎のごとく、佐藤がその場を離れ、客席へと駆け込んだ。暗い客席の人ごみの中に、その姿はあっという間に紛れた。
酒井が楽しそうに、低くしかし遠慮もなしに笑った。
「無事に、死ににいかはりましたな。ご苦労なことです。・・・さて、」
隣の、灰色の帽子の男に向かって酒井が言った。
「あんたが狂言で襲うふりをするはずやった、あんたの雇い主は、あと十五分で、この世からいなくなる。もうここにいる意味はないやろ。立ち去れ。もう一度この会場で俺があんたを見たら、そのときは、雇い主の後を追うことになる。」
酒井が手を離すと、帽子の男は後方の会場出口へ向かって走り去った。
”品変りたる殺生のなかに
無慚やなこの鳥の
警護員の元を離れたクライアントを、葛城は制止できずその去ったほうにただ目をやっているように見えた。
「葛城さん、申し訳ありませんが、俺は貴方の力のほどは、だいたい分かっているつもりです。」
葛城が、ゆっくりと、酒井のほうを見る。
「今逃げてった貴方のクライアントが、駆け出すのを止めるのに、一歩出遅れた・・・。それは、貴方の能力から考えたら、ありえないことです。」
「・・・・・」
「貴方は、止める気がなかった。」
「・・・・」
「認めましょうよ、葛城さん。そしてそれは、正しい対応です。」
”親は空にて血の涙を
親は空にて血の涙を
降らせば濡れじと菅蓑や
客席に紛れ、立ち見をする客たちに紛れた佐藤が、舞台のほうを見て息を整えたとき、その背後から足音もなく近づく人影があった。
その姿は、女性だ。
地味なパンツスーツを着て、広めの縁のある帽子をかぶっている。
その両手がふっと前方に上がった、それだけに見えたしぐさが、確実にふたつの縛めを前方の男に与えていた。
右手は佐藤の額に斜めに回された細い革紐を後ろから締め付けた。革紐についている眼帯のようなものが、佐藤の右目に覆いかぶさっている。
そして左手は、佐藤の首に回された紐を、やはり後ろから固定していた。
「ぐ・・・・」
「お静かに、佐藤さん・・・いえ、升川さん。声を出されると、右目がつぶれます。」
「・・・・!」
佐藤の背後の、女性の姿をした、大きな目をしたごく若い青年が、さらに顔を佐藤に近づけて、言った。
「こんなにたくさんの人がいる中で、誰にも助けてもらえないご気分は、いかがですか?」
舞台へ向かう客席の観客たちの集中力はさらに高まっていた。
目を大きく見開き、親の仇を見るような目で自分を見る葛城に、酒井は落ち着き払ったまま言葉を投げ続ける。
「客船上で、朝比奈警護員のクライアント・・・升川を、襲撃したのは、升川が雇った人間でした。今日と、おんなじですな。そしてその一番近くには、升川が親しくしている、仲良くしている、人間がいました。これも、今日と、おんなじですな。」
「・・・・・」
「豪華な、船上レストランでのパーティーだったそうですね。ちょっと外の空気を吸いたいとか言って・・・升川は、真のターゲットとともに、デッキへ出た。寒かったでしょうにな。」
「・・・・」
「ガラスの壁一枚隔てて、レストランの中には大勢の人間。衆人環視。これも今日と・・・・」
「それが、どうしました?」
酒井は容赦なく一層の笑みを浮かべた。
「劇場指定型殺人。高度な技術です。ただし、過去の成功は、奴を致命的に自信過剰にした。今回、我々、楽勝ですな。」
「・・・・・・」
「大森さんと、我々の、勝ちです。奴は、自分の実力におぼれて、自滅した。それだけのことです。そしてそれは、当然すぎるほど当然の、天罰です。」
”隠れ笠隠れ蓑にもあらざれば
なほ降りかかる血の涙に
目も紅に染めわたるは
紅葉の橋の鵲か
板見は、佐藤の後方から、息がかかるほど顔を近づけ、ささやくように話し続ける。
「前回と同じパターンで、やれると思われたんですね?自分への襲撃の演出。そして、ボディガードが有能であればあるほど、舞台装置は完璧になるということですよね。」
「・・・・・っ!」
声を出そうとするのを制するように、佐藤の右目を圧迫して革紐が締まる。
「ボディガードは、襲撃者を排除することに集中する。目撃者の目線と注意もそちらに集中する。」
「・・・・・」
「そして貴方には、一番近くにいる一番親しい人を、皆が見ているのに誰も見ていない中で、殺す機会を、得る。」
「・・・・・」
「貴方が今回も、しようとしていたこと。同じことを、貴方に、してあげますよ。文字通り最高の舞台と一緒に。」
「船上レストランから、ガラス一枚隔てた、船のデッキで。升川が雇った偽の襲撃犯は、優秀だったらしいですね。朝比奈警護員の実力を持ってしても、取り押さえるのに多少の時間を要した。そして升川は、一番近くにいた、”親友”のもとに保護を求めてパニック状態を装って身をよせた。」
「・・・もういいです。」
「そして見えないように後頭部でも殴って、デッキから突き落したんでしょう。」
「・・・・・」
「そしておそらく・・・」
葛城の目に憔悴の色が混じった。
「おそらく、朝比奈警護員は、クライアントの・・・升川の動きに、気がついたんでしょう。そうでなければ、その人ともろとも転落するタイミングで、助けに行けたはずがありません。」
「ええ、そうでしょう・・・・」
「升川は、自分が突き落した”親友”と、それを助けようとして一緒に海に落ちた自分のボディガードとを、助けてくれと言って、その後ずっとデッキで叫び続けたそうですね。」
「そうです。」
酒井の顔からは、いつの間にか笑みが消えていた。
「水温はほぼ零度。冬の海に、動いている船から転落したら、どうなるか。助け上げられるまでの間、生きてろと言うほうが、無理ですな。」
”冥途にしては化鳥となり
罪人を追つ立て鉄の
嘴を鳴らし羽をたたき
追い詰めるかのように、酒井が言った。
「この曲の終わりと同時に、我々は、奴を絞め殺します。ニワトリを締めるみたいに、ね。」
葛城が、暗い客席のほうを、一瞥した。
”逃げんとすれど立ち得ぬは
羽抜け鳥の報ひか
葛城が一歩出ようとするのを、酒井がさらに制する。
「あんた方が、合法なことに拘りはるのは、ある意味評価しますわ。大したもんです。けど、今度ばかりは、いかがなものかと思いますで。」
「・・・・」
「その人間は、あんた方の同僚の警護員を殺した・・・・いや、もっと言えば、警護員という存在そのものを、騙し、否定し、犯罪に利用した、最低最悪の人間ですよ・・・あんた方にとってね。。」
「・・・・」
「違いますか?」
風が渡る。
そして月の光は、幻のように能舞台の屋根に落ちている。
「違いません。」
茂は、息をつめて、目の前の先輩警護員の横顔を凝視した。
茂の記憶に、波多野の話してくれた、自分たちのいる会社の存在している、理由が、蘇っていた。
ひとりの女性の死。それが隔てた、二人の、女性。人を守るために手を取り合った二人の女性を、隔てた、人の死という厳然たる事実。
大森が、誓った、たったひとつのこと。
”うとうはかへつて鷹となり
われは雉とぞなりたりける
朝比奈の無念。
山添の悔しさ。
まったく時をともにしていない茂にも、想像できる。
”遁れ交野の狩場の吹雪に
空も恐ろしい地を走る
葛城が、天を仰ぎ、両目を閉じた。
そして茂は、今までのどんな時より、葛城の思いが、直に感じ取れる気がした。
”犬鷹に責められてあら心
うとうやすかた
・・・・自分たちの、無力さは、いったい際限というものは、あるのか。
茂は、葛城の目から涙がこぼれるのではないかと思った。
”安き隙なき身の苦しみを
助けて賜べや御僧
酒井はふと、葛城から目線を外した。そのまま葛城のさらに後方に、目をやった。
「貴方も、そう思われませんか・・・・・メガネの警護員さん。」
暗闇に、高原が立っている姿が、なんとか茂にも見えた。
高原が、叫んだ。
「怜!」
葛城が目を開け、そして高原のほうを見た。茂からは見えなかったが、その表情は、茂が想像したような柔なものではなかった。
葛城は、再び客席のほうへ目をやり、インカムへ向かって言葉を発した。
酒井は、黙ってその様子を見ていた。
インカムから、葛城の声が聞こえた。
「崇。あれから、客席を離れた人間は、いないね?」
インカムに山添の声で応答が来る。
「ああ、誰もいない。」
インカム越しに、葛城から、茂へ指示が入った。
「茂さん・・・中央立見席後列から三列目、そしておそらく一番向こうから二人目あたりです。私が襲撃者を排除します。茂さんはクライアントの確保を。」
「はい!」
舞台の音響は、曲の終盤が近づいたことを示していた。
客席に入って行った二人の援護に出ようとした高原の前に、酒井が立ちふさがった。
「警護を担当しているのは、あのおふたりです。手出しは無用と、ちがいますかね?高原さん。」
佐藤の前に葛城が立ったとき、板見は不思議と、まったく驚かなかった。
葛城が、佐藤を拘束している阪元探偵社のエージェントを見下ろし、静かに言った。
「その人を、離してください、板見さん。」
そのとき、佐藤の右横に立っていた男が、葛城につかみかかろうとした。
「よせ!」
板見が男を止めるより早く、葛城が男へ目線を向け頭ひとつ身を沈めた。普通の目には、ただそれだけのことで、男が膝を折り地面にうずくまったように見えた。しかし板見の目にはかろうじて、葛城が身を沈めたと同時にその左手の突きが男の脇腹へ入った、わずかコンマ数秒の出来事が見えていた。
かがり火の揺らめく光の中、客席が一瞬静まり返り、そして、割れるような拍手が沸き起こった。
茂が佐藤を支え抱えるように客席から連れ出すのを見ながら、酒井は立ち去る前に、高原に向かって最後に、言った。
「おたくの会社、変人度は、筋金入りですな。さすがうちの社長が・・・めんどくさがってる会社さんだけのことは、あります。」
七 間隙
客たちが去り、後片付けの進む公演会場へ茂が戻ってきたとき、葛城も高原と別れて能舞台前に引き返してきたところだった。
「葛城さん、蒼勝さんと高原さんは・・・」
「はい、病院へ向かいました。茂さんから佐藤さんを預かって病院に送り届けたのが、うちの山添だということも、蒼勝氏とお家元に伝えてあります。お家元はこちらで関係者との挨拶があるので病院には行っておられませんが。」
「旅館のかたにも聞いてみましたが、警察は呼ばないそうです。」
「被害者と主催者両方の意向なら、仕方がありませんね。・・・晶生は蒼勝氏に、この後ご自宅まで同行するつもりのようです。うまく話をつけてました。」
「山添さんも、もしも入院にならなければ佐藤さんを家まで送り届けるとおっしゃっていました。」
葛城は、安堵したように微笑んだ。
そして、茂がもの言いたげに自分を見つめているのに気がつき、茂の疑問を葛城が口にした。
「佐藤氏の真実を、蒼勝氏に伝えるのかどうか、ですね?茂さん。」
「はい。」
「晶生は、少し待ったほうがいいと思うと言っていました。波多野部長のご指示を待ちます。一通り電話で報告はしてあります。」
「また蒼勝氏の命を狙う恐れはないでしょうか・・・・。」
「ないでしょう。これは、晶生と私の、勘ではありますけれどね。」
客席の椅子は運び去られ、舞台を照らしていた明りも落とされていく。葛城が懐中電灯を灯す。
「さて、予定通りなら、この後お家元のお部屋で、お家元と英一さんと茂さんと私の四人で遅い食事会ということにはなりますが・・・」
「予定通り、我々も今夜はここに宿泊しますか?」
「できれば遅くなっても戻りたいところですが・・・お酒を勧められてしまいそうですね。」
これまで、三村蒼氏はあの前回の三村家の警護以来、大森パトロール社の警護員の慰労会をしたいと何度も申し入れてきていたが、波多野も葛城もずっと固辞してきた。今回、ようやくそれが実現する機会が訪れたことになる。二人が泊まる部屋も用意したので時間を気にせず飲食してほしいと、事前に波多野経由で念を押されており、今回ばかりは逃れられそうにないと波多野から茂と葛城は言われていた。
「まだ少し時間がありますね。車で仮眠しましょうか。お家元が関係者回りを終えられたらご連絡をくださり、ロビーでお家元と英一さんとで、我々をお迎えくださるんだそうです。」
心底眠そうな茂に向かって、それよりさらに眠そうにしながら葛城が言った。
能舞台からさほど遠く離れていない、森に囲まれた道路上の車の中で、吉田は板見との電話を終えた和泉から、今日何度目かの、そして最後の、報告を聞いていた。
そして、吉田は携帯電話から、高層ビルの書斎のような一室で待つ自分の上司へ、手身近に最終報告をした。
報告を終えた後も、吉田はしばらく電話を切らない。相手がなにか言っているのを聞いていた吉田の、顔がさっと青ざめたことに、運転席の和泉は驚いた。
社長室で、阪元は、窓の外のかすかな星空を見ながら電話の向こうの有能な部下に向かって、いつになく踏み込んだ質問をしていた。
「恭子さん、もう一度聞くけど、狂言襲撃犯は、大森パトロールさんのところの警護員さんと近くで対峙したんだよね?」
「はい。」
「顔も、見た。」
「はい。」
「そうだね・・・普通なら酒井の脅し文句は、そいつを直ちに地の果てまで追い払うに十分だとは思うけど。でも、自暴自棄になった卑怯者の行動は、君たちの想像以上に無謀かつ下品なものだよ。」
「つまり・・・」
「そう、もうわかったよね?」
「自分たちの邪魔をした敵へ、どんなことをしても、一矢報いようとする・・・・」
「そうだよ。そしてそういうとき、誰を狙う?」
「一番、弱い相手ですね。」
電話を切り、そのまますぐに吉田は、別のところへ電話をかけた。
旅館の自室で着替えようとしていた英一は、扉を叩く音に「どなたですか」と声をかけた。聞き覚えのある声が、しかし慌てた様子で、名乗った。
着替えをやめ、英一が扉を開けると、私服姿の三村蒼風樹・・・美樹が、やや息を上げて、立っていた。
「どうしたんだ?そんなに慌てて。」
「吉田さんから、電話があったの。」
「え?」
「とにかく中へ入れて。」
二人は畳の部屋に入り、扉を閉めた。
「吉田さんって、もしかして」
「阪元探偵社の人よ。私が前に、依頼した人よ。」
「どうして美樹のところに。」
「誰か大森パトロールの人に伝えてほしいって。英一、あなた、誰か連絡つく?」
「落ちついて話してくれ。用件は何だったんだ?」
蒼風樹は息を整え、やっと言った。
「今日、佐藤さんを襲った犯人が、河合警護員を狙っているから、河合警護員がひとりにならないようにしなさい、って。」
「・・・・・!」
英一は少し考え、やがて再び冷静な顔になり、蒼風樹を見た。
「事態は分かった。俺に任せてほしい。」
「・・・お願いね。」
蒼風樹が部屋を出ていった。
旅館の最上階の一室の入口の扉を開けて、広い客間に英一が足を踏み入れたとき、部屋には誰もいないように見えた。
しかし英一は、部屋の奥の、バルコニーのようになっている屋外へ出られるガラス戸へ向かって、声をかけた。
「河合は、来ないよ。」
物音はしない。
「悪いが、そこにいることは、わかっている。」
数秒間の沈黙の後ガラス戸が開き、外のバルコニーから、灰色の帽子をかぶった男が部屋に入ってきた。
英一は長身をまっすぐに伸ばして立ち、その整った顔で侵入者へ厳しい視線を向けた。
「今日の河合と葛城の行動予定は、佐藤から、全部聞いていたんだろうな。そして、ここに最初に来るのが、河合だということも、知っていた。」
「・・・・・」
「メイン警護員の葛城は部屋の主と落ち合い共にこちらへ向かう。サブ警護員の河合は先に部屋に到着し念のため安全を確認する。警護業務が終了したとはいえ、それは自然な行動だ。」
帽子の男の手に、光る刃物が握られている。
英一が一歩、間合いを詰めると同時に、男は短刀を構え、床を蹴り英一へ向かって突進してきた。
全力で英一にぶつかった男の両手に握られた刃物が、英一の胸の中央を狙った。その刃先は英一が逆手に持った扇子に払われ、胸ではなく腕を貫いた。
男は短刀を英一の左腕から抜き二度目の攻撃をしようとしたが、返り血を浴びながらその動きは止まった。
英一が逆手のまま突いた扇子の先端が、男の喉元に食い込んでいた。そのまま、崩れるように男は床へ倒れた。
裂けた着物の袖を濡らして血が床へ落ちることも気にならないかのように、英一は落ち着いた様子のまま、携帯電話で警察へ通報した。が、電話が終わるか終らないかのうちに、背後から不意の声がした。
「三村!」
振り返った英一は、この部屋に来てから初めて、驚いた表情になった。
部屋の入口に、茂が立っていた。
茂は一瞬立ちすくむように英一を見ていたが、すぐに部屋に駆け込み、倒れた男の両手両足を拘束した。次に、英一の腕の傷の止血をする。
「河合お前、どうしてここにいる」
「葛城さんには、せっかくだから俺はこの旅館に泊まってみたいと言って、葛城さんだけ帰ってもらった。」
傷をぎゅっと縛り、茂は英一の顔を睨みつけた。
「なんで・・・こんなことをした?」
「・・・・」
「蒼氏からのものと偽ったメモを、旅館の人間から葛城さんに届けさせたのは、お前だろう、三村。今日の食事会は中止、って。葛城さんと俺を、帰すために。そして、蒼氏も、葛城さんからと偽って、どこか別のところへ誘導したんだろう。」
英一は、自分より背の低い茂の顔を見下ろしながら、しばらく黙っていたが、やがて少し感心したように言った。
「河合、よくお前、俺の行動がわかったな。」
「わかるよ。」
「葛城さんも、そして親父さえも、想像がつかなかったのに?」
「最初の警護では、一週間はりついて警護したし。なにより、昼間の会社で入社同期で、今は見たくもない顔を毎日目の前で見てるし。お前のひねくれた行動パターンはよく理解してるよ。」
「ふん」
「お前が剣道の有段者だってことは知ってる。けど、素人だ。どれだけ危ないことをしたか、わかってるのか?」
英一は答えない。
「なんでこんなことをした?」
さらに茂に畳みかけられ、英一は嫌そうな顔で茂を見返しながら口を開く。
「・・・・理解してると言ったよな、今」
「理由がわかるという意味じゃない」
「お前が、大森パトロールさんにとって、大事な人間だからだ。」
「・・・・・・」
今度は、茂が言葉につまった。
茂の脳裏に、波多野の言葉が蘇っていた。
・・・・「三村英一さんは、お前の尊敬する先輩警護員の高原や葛城を、助けてくれた人だ。二人は三村さんからの口止めを律儀に守っているようだが、俺はそういうのは気にしないから教えてやるよ。」・・・
二度目の警護で高原が死にかかったとき、英一が葛城を説得し、茂が高原を助ける道を開いてくれたこと。三度目の警護で高原が”敵”の迫力に圧倒されていたとき、英一が高原に蒼風樹の意を伝え、茂を取り戻す決意をさせてくれたこと。
それまで、茂がまったく知らなかった事柄についての、波多野の言葉が。
茂は、英一の襟元をつかんだ。
「お前・・・なんでだよ」
「?」
「・・・・・俺や高原さん葛城さんたちに一方的に助力をするのに、なぜお前自身は俺や他人に甘えない?」
「・・・・」
「なぜ求めない?なぜ怒らない?」
「・・・・」
「なぜ泣かない?蒼風樹さんにも本当のことを言ったことはあるのか?」
英一は茂に襟元をつかまれたまま、じっと茂のほうを見ていた。
がくっと英一の両膝が折れ、その体がくずおれた。
「・・・・三村!」
英一の上体を抱きかかえるように支え、茂も床に両膝をつく。
両目を閉じ、顎を上げて英一はぐったりと茂の両腕に体を預けている。
「おい、三村!・・・三村!」
茂が英一の呼吸を確かめようとしたとき、英一の端正な両目がぱっと開き、茂のほうを見て、片目をつぶった。
その端正な唇の片側だけで笑い、英一が言った。
「・・・冗談だ。」
「・・・・!」
「大分、心配したか?」
「そ・・・・そりゃそうだろう!」
「なら、もう、あまり答えにくい質問をするな。」
「・・・・こ、このやろう・・・・!」
茂は涙が出そうになるのをごまかすように英一の首を絞めるしぐさをした。英一は皮肉な笑いを絶やさずその手を振り払う。
「けが人を殺すなよ、警護員さん。」
八 光の下
高速を走る車の中に、美しい声楽曲が流れている。
和泉は運転に集中しながらも、隣の吉田が、今回のケースについてまだまったく発言をしていないことが気になり、上司の言葉を待っていた。
「・・・ごめんね、和泉。」
「え?」
「私が何も言わないから、不安になっているでしょう?」
「あ・・・いえ・・・・」
この上司の千分の一でもいいから、自分も吉田の気持ちを察し理解することができたらよいのにと、和泉は思った。
再びしばらく沈黙が流れる。和泉は別の話をした。
「この曲、ときどき社長が聞いておられますね。・・・なんという曲なのでしょう。」
「ペルゴレージのスターバト・マーテル。和泉はこういう曲、好き?」
「・・・吉田さん、お好きではないのに、聴いておられるんですか?」
吉田はくすりと笑った。
「和泉、おもしろいこと言うわね。」
ふたつの女声が絡み合うように紡ぎだされる調べが、夜空の星々の光と、混ざり合うように流れていく。
「す、すみません・・」
「美しいけれど、ただひたすら、嘆いて、そして祈っているだけの曲よ。」
「そうなんですね。」
「そう・・・。それだけ。」
吉田の声に、かすかにため息が混じった気がした。
「・・・・」
「あの人たちに、ちょっと似合う曲かもしれない」
「・・・・」
和泉は前を見ながらも、吉田が窓の外の夜空を見上げたのがわかった。
「愚直に守る。奪われて嘆く。それだけ。ほかには、なんにも、しない。」
「・・・・」
再び正面を向き、吉田は足を組んだ。
「ほんとに、おもしろい人たち。あんな風になれたら、ある意味しあわせなのかもしれないわね。でも私には、無理。」
和泉の顔に、微笑みが浮かんだ。
「私も、無理です。」
夜更けの大森パトロール社の事務所で、波多野は最終報告を終え、電話を切ろうとした。
電話の相手が何か言い、波多野は少しためらった後、答えた。
「そうですね。そのうちあいつらにもちゃんと話したほうがいいと思います。でも、まだ、いいんじゃないかとも、思いますよ。・・・・社長が、一番好きで、一番嫌いだった、大親友については。」
電話の先の相手の声とともに、その背後の音楽が聞こえていた。
その美しい女声声楽曲は、まだこの会社が存在していないころから、波多野がたびたび耳にしてきた曲だった。
「・・・いずれにせよ、今回のこと、ご許可くださり感謝しています。結果的に、あいつらにとって良かったんじゃないかと思ってます。精神的にきつかったと思いますが。でも、一番きつかったのは、社長でしょうね。」
相手の言葉を待たず、波多野は言葉を続ける。
「ともあれ・・・吉田明日香の志したものは、その妹に・・・気鋭のエージェントに、しっかり受け継がれてますね。じつに、困ったことですが。まあ、そんなことはいずれにせよ、うちには関係ないことですけどね。我々の仕事は、いつも、単純です。」
受話器越しに、女性の控えめな笑い声が漏れる。
「そう、単純ですよね。犯罪から、ただ守る。それだけですから。」
高速の出口が近づき、和泉は一つだけ、上司に頼んでみた。
「吉田さん・・・・。この曲の歌詞、どんな意味なんですか?」
喉の奥で控えめに笑ったあと、吉田は言葉を出した。
「悲しみの母は 涙にむせび
御子のかかった 十字架の傍らに
佇まれた
神のひとり子の かつてあれほどまでに
祝福された母
慈悲深き母は 人々の罪のために
御子が責められ 鞭打たれるのを見られた
愛しい御子が
苦しみ 息絶えるのを見られた
聖なる母よ
十字架にかかりし傷を 私の心に刻みつけてください
私のために傷つき 苦しんだその罰を
分けてください
私の命のある限り
あなたとともに涙し 磔刑の苦しみを感じさせてください
十字架のもとに立ち ともに悲しみ苦しむことを
私は願います」
日曜の早朝、坂を上りきったところにある教会の前に、オートバイが停まり、日焼けした青年がリュックを背負って降り立った。
山添は、リュックを開け、少し形の崩れた青い花束を取り出し、教会の脇を通り抜けて奥の墓地へと向かう。
墓地の一角で立ち止まり、そのまましばらく立っていたが、小さくため息をついて、まだ夜明けの薄暗さの残る空を見上げた。
「和人、お前の遺志と、合っているのかな・・・?俺たちがやっていることって。」
やがて山添は跪き、あらためて墓碑に目を落とした。
「・・・今日この質問をされるのは、二度目かな、和人。」
墓碑には、すでに真新しい白い花束が、捧げてあった。
昼前の明るい陽光の下、門から白い車が入り、さらに少し走って、巨大な日本家屋の玄関前で停まった。
出迎えた女性が、車から降りてきた高原を中へ案内した。
客間の前を通り過ぎ、長い廊下を抜けて階段を上がると二階には洋間の扉があり、女性は立ち止まり、扉をノックした。中から返事があり、女性に促されて高原は中に入る。
「失礼します。」
部屋の主は寝室のベッドで、肩に袖を通さずにガウンをひっかけたままの恰好で腰かけていたが、高原を出迎えて立ち上がった。女性のほうを見て声をかける。
「真木さん、高原さんにはコーヒーをお願いします。」
「かしこまりました。」
寝室の中央にあるテーブルに向かう椅子に、英一は高原を伴って移動し、向かい合って腰を下ろした。
「すみません、昨日の今日で・・・。まだお疲れでしょう。」
「いえいえ。せっかく病院から解放されたのに、親父が今日は寝室から出すなと真木さんに厳命したらしく、どうやって過ごそうかと思っていたところです。」
「ケガの具合は、いかがですか?」
「念のため今朝まで病院に留め置かれてしまいましたが、特に後遺症の心配もないそうですし、大丈夫です。ありがとうございます。」
英一のガウンの隙間から、腕の痛々しげな包帯が少しだけ見える。
高原は、椅子から立ち上がり、頭を下げた。
「こんなお怪我になってしまい、本当に、申し訳ありません。」
英一は慌てて立ち上がり高原に座るよう頼んだ。
「私が・・・勝手にやったことですから。」
「あの後、葛城が河合の知らせを受けて病院へ伺ったとき、同じことを言っていたと思いますが、メイン警護員がサブ警護員をフォローしきれなかったのはお恥ずかしい限りです。二人には改めてお詫びのご挨拶に来させます。」
英一は高原の右肩に右手を置いて椅子に座らせ、微笑んだ。
「夕べ病院に来られた葛城さんも、確かに同じことをおっしゃっていました・・・・しかも今のあなたと、まったく同じような顔で・・・。本当に貴方がたは、プロ意識の高い警護員さんたちだと、思います。」
「・・・・・」
「昨日の公演での皆さんの警護は、まさに、プロの仕事だったと思っています。我々は皆、感謝していますよ。」
「・・・感謝しているのは、私たちのほうです。」
もう一度高原が、頭を下げた。
「河合警護員を、助けてくださり、本当にありがとうございました。」
「そろそろお昼にしましょうか、茂さん」
書類と端末の置かれた打ち合わせコーナーのテーブルで、葛城が茂に言った。
いつの間にか時計の針は正午を指している。
「あ、もうこんな時間なんですね・・・。」
「始まりが遅かったですからね。」
二人は大森パトロール社の事務所で、今回の警護のレビューと報告書作成をしていた。
「外で食べましょうか、それとも出前がいいですか?」
「はい・・・・」
茂が上の空な様子なのを見て、葛城は例によってその艶な両目でじっと茂の顔を見た。
「麦茶、飲みますか?茂さん」
「ははは・・・」
そして茂は、椅子からおもむろに立ち上がり、頭を下げた。
「葛城さん、俺、今回また勝手なことをしてしまい、申し訳ありませんでした。」
葛城が微笑した。
「・・・今朝からそれを言いたくて、ずっともの言いたげな様子だったんですね?」
「は、はい」
「確かに、メイン警護員に無断で一人で旅館に戻ったのは、危険極まりない行動でしたね。警護業務が終了したとはいえ。」
「はい。中途半端な行動だったと思います。すみません・・・。」
「そうですね。これからは、ああいうときは、私も一緒に連れていってください。」
「・・・・」
葛城の顔から微笑が消えていた。その目には、自責の色がよぎっていた。
「茂さん、私は、あなたにお礼を言わなければならないんですよ。・・・それから、お詫びも、です。」
「え?」
「あのとき、警護を断らずに済んだのは、茂さんのあの一言のおかげです。」
「・・・・」
「目を逸らして通り過ぎようとしていた事実を、指摘してくれた、そのおかげなんです。」
「・・・・」
葛城は、立ち上がった。茂とほぼ同じ身長の葛城の目線が、茂の目線と水平に合う。
「そして・・・お詫びをしなければなりません。あの後、私が茂さんを守れなかったことを。」
茂は、夕べ英一が傷の手当てを受けた病院へ葛城が駆け付けたとき、葛城が、茂から事実関係だけを聞くと、それ以上何も言わなかったことを思い出していた。
そして、英一に詫びていた葛城の横顔を。
うつむいて言葉を失った茂に、しばらくして葛城が言った。
「ひとつひとつの警護は・・・貴重な経験でも、ありますね。私ももっともっと勉強しなければなりません。」
「葛城さん・・・・」
「これからも、よろしくお願いします。茂さん。」
「お、俺のほうこそ、あの、よろしくお願いします・・・!」
茂はふと、今までずっと持っていた素朴な疑問・・・・葛城がどうして警護員をしているのか・・・その疑問について、初めて、どうでもよくなった自分に、気がついていた。
自分がどうして警護員をしているのかという疑問と、同じくらいに。
長居を避け腰を上げた高原に、英一が言った。
「差支えなければ、お見送りがてら、蒼風樹・・・三村美樹が、高原さんにひと目お会いしたいと申しているのですが・・・」
「はい。」
英一の指示で間もなく真木さんが蒼風樹を伴って部屋に現れた。
背の低い痩せた女性は、今日は洋装だった。
「初めてお目にかかります。三村美樹と申します。いつも英一がお世話になっております。」
寝室から出られない英一が真木さんに厳しく監視されながら二人を見送り、蒼風樹は高原を案内して玄関へと向かった。
ゆっくりと歩きながら、蒼風樹は低い声で言った。
「あれは・・・英一は、ああ見えて、他人との意思疎通が全然できない人間でした。」
「は・・・・」
「何をやっても上手ですから、人付き合いもそつなくこなしますけれど、心の通う人間は、いなかったと思います。」
「・・・・」
「でも、大森パトロールさんの、波多野さん、高原さん、葛城さん・・・そして河合さんに出会って、なんだかほんの少しだけですが、あれが、心から何かを心配したり拘ったり、そういうことを始めたような感じが、しています。」
「それは・・・」
玄関前で立ち止まり、蒼風樹は自分よりはるかに背の高い高原の顔を、見上げた。
「まだまだ、子供ですけれどね。」
「・・・・・」
「あれは、私にとっては、たったひとりの弟か息子みたいなものです。皆様にご迷惑ばかりかけた私が、こんなことを申し上げるのは厚かましい限りではありますが・・・どうか、これからもよろしくお願いします。」
「・・・はい。」
午後、仕事を終えて事務所を出た葛城は、駅までの道を歩きながら、携帯電話をかけていた。
「もしもし・・・晶生?」
高原がワンコールで出る。
「ああ、怜。お疲れ。」
「英一さんの様子はどうだった?」
「怪我は確かに重傷だ・・・本人が言うよりも。でも、顔色はまあまあだった。ご家族がしっかり監視しておられるから十分休養されるだろう。」
「よかった。」
「そうだな。」
「・・・晶生。」
「ん?」
「公演会場での警護では・・・ごめん。」
「・・・・」
「奴らの指摘どおりだ。俺は、クライアントを守ることを、あの場に及んで躊躇した。」
「わかってるよ。」
「・・・・」
「なんにせよ、今回・・・奴らに、借りが出来てしまったとは、言えるね。」
「そうだね。」
「でも奴らもこれで、何かをリセットしたかったのかもな。根拠はないけど、なんかそんな感じがするよ。」
「・・・」
「それができたのかどうかは別として、いずれにしても、これで奴らと何か分かりあえることが見つかったかといえば、まあ、その反対だろうね。」
「・・・・そうだね。」
街の中心にある高層ビルの事務所に、一人の女性が上司に伴われて緊張の面持ちで社長室に入っていった。
「・・・君が、今度採用になった・・・」
「森宮さんです。」
隣に立っている吉田が代わりに言った。
阪元は、深いエメラルドグリーンの目を少し細めて、異国的なその顔をあらためて目の前の新人エージェントに向けた。和泉に負けないくらいの高い身長に、少年のようなショートカットの髪型がよく似合っている。
そして阪元は、森宮の目の深い湖のような色が、隣の吉田によく似ていると思った。
「新人はしばらく別の上司のもとで経験を積んでもらうけれど、その後、恭子さんの・・・吉田のチームに入ってもらうことになる。覚悟のほどは、いいかな?」
「はい」
森宮が退出した後、残った吉田に、阪元が声をかける。
「あの子、君に似てるね。」
「そうですか。」
「つまり、明日香に、似ている。」
「・・・・」
「良いエージェントになる予感がするよ。第一印象の、直観だけど。・・・お客様の、ご推薦なんだってね。」
「はい。川西肇さまが、ご紹介くださって、選考対象になった人間です。」
「ああ・・・・君がずいぶん落ち込んでいた様子だった、あの案件の、お客様だね。」
「・・・・・」
「うちの会社は、まったくの文字通り、良い人材が生命線だ。こうしたご紹介はありがたいことだよ。そしてなにより、お客様からのご支持が、ね。」
「川西様は、莫大なご寄附もくださいました。」
阪元は微笑み、窓の外へ目をやった。午後の陽光が柔らかく遠くの街並みを浮かび上がらせている。
「明日香がいつも言っていた言葉、私も時々、改めて自分に言い聞かせている。」
「はい。」
「”何度挫折しようとも、絶対に、あきらめるな。”」
「・・・・・」
「続きを、言ってみてくれるかな、恭子さん。」
「・・・・”そして野垂れ死にせよ。希望をつないで。”」
阪元が吉田のほうを振り返り、吉田は一礼した。
「それでは、失礼します。次の仕事の打ち合わせがありますので。」
「酒井、和泉、そして板見。皆、良い人材だね。これからも、よろしく。」
「はい。」
翌月曜の夜、大森パトロール社の事務所に茂と葛城が顔を出すと、応接室の扉が閉まっていた。
「お客様ですか?」
事務の池田さんが答える。
「学生さんが、波多野さんにアポをとられて。」
応接室のソファでは、波多野の前で一人の青年がかしこまっていた。
「大学二年か・・・。今の学生さんって、そんなに早く進路を決めるんですねえ。」
「俺、絶対に、警護員になりたいんです。どうかよろしくお願いします。」
「動機は、お父様のことですか?」
「はい。こちらの大森パトロール社の、高原さんのことを、父からずっと聞いています。そして・・・父があの事件で世間からどんなふうに言われているか、よく分かってます。そんな父を、守ってくれた警護員さんのように、そんなふうに、俺もなりたいんです。」
「警護員の仕事は、世間のイメージとはかなり違いますよ。地味で激務です。」
「はい、想像はしてます。」
「まあ、今は大学での勉強をがんばることが第一ですよ。そしてもしも・・・」
「・・・・」
「もしも、本当に本気で警護員を目指されるのなら、そうですね、まずは学生さんのうちに色々な経験をして、見聞を広めておかれるのが大事なことでしょう。それから、何かひとつ、武道をお習いなさい。これは、技を磨くというより、体力と精神力づくりのためです。」
「はい。」
「そしてもしも就職前の見習い・・・インターンシップで来られたら、そうですね、高原は無理ですが、河合くらいとならペアを組ませてあげますよ。」
「ありがとうございます。河合さんのお名前も、父から聞いています。」
「頑張ってくださいね、豊嶋さん。」
学生を事務所入口まで見送り再び事務室へ戻った波多野は、影からこちらを見ている茂の視線に気が付いた。
「なんだ覗き見は良くないぞ、茂」
「今の人・・・豊嶋さんの息子さんですよね?」
「個人情報だ。」
「はあ・・・」
「お前たち、英一さんのところへは行ってきたのか?」
葛城が給湯室から出てきて茂の代わりに答える。
「はい。茂さんも会社を休んで昼間に伺おうとしたんですが、英一さんがその必要はないとおっしゃって、昼間の会社の仕事が終わってから私も合流してさきほど行ってきました。」
そのとき、従業員用入口がカードキーで開く音がして、高原が入ってきた。
「波多野さん波多野さん」
「なんだ、晶生」
「今このビルを出て行ったの、豊嶋さんの息子さんですよね?」
「・・・個人情報だ。」
高原が打ち合わせコーナーで茂に最新の電子錠のこじ開け方を教授している間に、少し離れて波多野が葛城に尋ねる。
「あの二人・・・茂と三村英一さんは、どんな様子だった?」
「・・・・いつもと、変わりませんでした・・・。」
「そうか」
「二人とも相手を尊敬してるはずなんですが、どうして仲良くできないんでしょうね。」
「そうだな」
波多野はにやにやしながら、部屋の反対側の打ち合わせコーナーで、高原と向き合って座っている茂を見た。
「まあ、人間関係は、本人たちにしか分からないことも、あるもんな。」
電子錠の最新モデルをクリアして高原に褒められた茂は、嬉しそうに笑い、そしてふと思い出したことがあり高原に言った。
「そういえば、姉が喜んでました。」
「ん・・?」
「俺が退院した日、高原さんが姉を見て美人だとおっしゃっていたんで、姉に伝えておきました。」
「既婚女性に感謝されてもなー。」
「高原さん、まだ新しい彼女できないんですか?」
「お前に言われたくないが・・・。お前の昼間の会社に独身女性とかいないのか?」
「いますけど、独身女性で、三村のファンじゃない人間を探すのは大変です。」
「不毛だなあ」
「そうですね」
「そうそう、葛城怜不幸の話、その後の最新情報によると」
「はい」
「例によって、交際後一か月で怜がふられた後だ、」
「はい」
「その元カノが、罪悪感を感じて、これからはお友達として仲良くしようと、自分の新しい彼氏を怜に紹介したんだ。」
「ふむふむ」
「その日以降、二度と怜はその元カノに口さえきいてもらえなくなった。」
「なんでですか?」
「その彼氏が、怜にひと目ぼれした。」
「あはははは!なるほど!」
そして茂は、ちょっとトイレ行ってきますといって席を立った。
そのまま直進し、葛城とすれ違った茂は、安全な距離まで早足で退避した。
後ろの打ち合わせコーナーから、高原のすごい悲鳴が聞こえてきた。
「こら、うるさいぞ、晶生!」
応接室でテレビを見ている波多野の声が響く。
大森パトロール社の事務室の窓から、大きな月が明るく見えていた。
(第六話 おわり)
シリーズ小説「ガーディアン」は、第二十四話まであります。
わたくし藤浦リサの書いた小説はすべて、著作権フリーです。無償で、そして許可なく、自由に複製や出版等して頂いて大丈夫です。
また、作品の趣旨を損なわない限り、続編やサイドストーリー等の執筆・発表等も自由にして頂いて大丈夫ですが、その際は、藤浦リサの執筆でないことを明記願います。
これからも、「ガーディアン」を、よろしくお願いいたします。
平成27年5月16日
藤浦リサこと 石田麻紀
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