表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/6

第四話 行き止まり

一 前兆


 午前中の穏やかな日差しの中、吉田と和泉は港に近い高台の一軒の家を後にした。

「お客様がご満足されていると、何があってもまたがんばろうって思います。」

 和泉が愛らしい童顔を紅潮させながら言い、明るい茶髪のショートカットの絹糸のような髪を風に揺らし、まぶしそうに空を見上げる。女性にしては背が高い和泉に比べ、平均的な身長の吉田は隣の和泉の健康的な小麦色の肌の横顔をちらりと見上げた後、前を向き、鼈甲色の縁のメガネの奥の両目を、少し細めた。

「和泉が元気で私も安心してる。」

 吉田は、いつもの独特の静かな微笑みを浮かべた。和泉はそれが何を意味するかよく分かり、吉田のほうを向いて軽く一礼する。

「ありがとうございます、もう全然平気です。」

「今日のお客様のご様子だと、またご依頼がありそうね。ご本人か、お知り合いかは分からないけど。」

「はい。」

「さて・・・・ひとつ仕事が終わったことだし、まだ少し今日は時間があるから、食事でもしていきましょうか。ごちそうするわ。」

「ありがとうございます!」

 和泉は先に立って歩く吉田の、セミロングの髪と地味な白いシャツ、ベージュのタイトスカートの後姿を追った。吉田は見事なまでに外見上なんの特徴もない女性だ。雑踏に紛れたら二度とみつけられないだろう。しかし、和泉たちにとって吉田という存在は、ほぼ神と同格である。

 坂の上から港を見下ろす小さなカフェに入り、窓際の席に座ると、吉田は海のほうを見ながら足を組む。和泉はその足が、すんなりときれいであることに、急に気が付いた。外見に特徴がない、というのは、つまり、目立つ欠点といえるものがない、ということなのだった。

 食事をしながら、和泉はこうして二人きりで外食することも初めての光栄な機会であるし、いつも思っていることを伝えたいと思った。

「私、いまだに、仕事をしていてよく迷います。このやり方は影響が大きすぎないか、うちのポリシーにあっているか、忘れていることがないか・・・・って。どんなに準備しても。」

「そうなの?」

「いつか、吉田さんのように、自信を持って仕事ができるようになりたいです。いつも、そう思います。」

 吉田は微笑み、その深い湖のような両の瞳で、和泉の淡い琥珀色の目を見る。

「そうなのね。でも、もしかしたらその目標は、あまり適切じゃないかも。」

「え?」

「私は、いつも自信をもってやってる、というよりも・・・迷わずに済む部分でしかやってない、というべきなのだと思う。」

「・・・・」

「あるいは、逆かな。確信という空洞の器に寄りかかって仕事をしてる。」

「空洞の・・・?」

 吉田はかすかに頷き、再び海のほうを見た。

「だからこそ、少しでも自分が揺らいだとき、それは自分が去る時だとも、思ってる。」

 一瞬吉田の横顔が霞のように遠くに見え、和泉がなにか言おうとしたが、すぐに吉田の表情にはいつもの穏やかな笑みが戻っていた。



 河合茂の労働環境の悪化は深刻だった。

 平日昼間に勤める会社で、決して自分が有能なわけでも有望なわけでもないとわかっているし、しかし自分にできることを一所懸命しているつもりでもある。しかし、これまでのさまざまな不遇のなかでも、今回のことは群を抜いており、課長に抗議することも検討している。

 斜向かいに座っている、カラスのように真っ黒な髪をそつなく整えた、背の高い、不気味なほど整った容姿の若い男のほうを見て、茂は改めて言った。

「どうしてお前が、俺と同じ係にいるんだよ!三村!」

 三村英一は端末の画面から目を離し、茂のほうを見て、この世のものとも思えぬ嫌味な笑顔を浮かべた。

「会社の人事のことが、俺に分かるわけないだろう。ただし、いえることは、お前の尻拭いをするためじゃないからね。河合、多くは期待しないから、せめて俺の邪魔をしないでほしいね。」

「・・・・!」

 茂の隣の席の、ベテラン係長がまあまあと二人をなだめる。

「河合も三村も、仲良くしてくれよ、これもご縁だからね。お前たち入社同期だろう?三村が来てくれてうちの係も助かるんだし。まあ、ひとつ困るのは・・・」

 係長は英一の席の前にできている行列を見てため息をついた。

「大した用もないのに、会社中の女子社員がやたらうちの係に来るようになったことだねー。」

 茂が英一を気に入らないのは、別に異常に才色兼備で女子にももてて完璧な人間であることからではない。それも少しはあるが、最も気に食わないのは、彼がこの会社で片手間に仕事をしているくせにやたらと仕事ができて、しかもクソ傲慢で不遜で唯我独尊であることである。本業を別に持っており、そちらだけでも十二分に優れた才能を持っているというのに、である。

 ただ、「副業」がある、という意味では、茂も同様なのではあるが。



 そして、土日と夜間限定で茂が従事している「副業」(もちろん、平日昼間働いている会社には許可をとってある)においてまでも、茂の不幸は及んでいた。

 ようやく長い一週間が終わった金曜の夜、平日昼間働いている会社と同じ最寄駅だが駅の反対側にある、大森パトロール社の事務所に茂が顔を出すと、奥の応接室から茂を呼ぶ声があった。

 応接室を覗き込んだ茂が、そのまま顔をひきつらせて固まる。

 応接セットには、先輩警護員の高原晶生と、その向かいに三村英一が座り、麦茶を飲みながら談笑している。

 英一を指差しながら、茂は高原に向かって抗議した。

「高原さん・・・最近、こいつがここにいることが多い気がするんですが・・・」

 高原はよく似合うメガネの縁をちょっと持ち上げながら、いつもの人好きのする笑顔で屈託なく答える。

「ああ、うちの大事なクライアント兼コンサルタントだからねー。」

「いつからそうなったんですか!」

「まあ細かいことは気にするな河合。」

 茂は大森パトロール社で、土日夜間限定で警護員の仕事をしている。先輩挌の高原晶生は、大森パトロール社きっての有能な警護員である。だから高原がここにいることに何の不思議もないが、英一はここの社員でもなんでもないのである。確かに一度大森パトロール社の警護契約のクライアントとなったことはあるが、なぜ高原と英一がこんなに親しいのか茂には理解不能である。

 高原は英一と同じくらいの長身で、その爽やかな短髪と、英一のような完璧な美青年ではないが知性と愛嬌を兼ね備えた笑顔は、性格の良い科学者といった感じだ。メガネがよく似合う。高校で科学の教鞭をとったら女子高生から大人気になりそうである。

 英一が「ではそろそろ失礼します」と言って席を立つ。高原が事務所入口まで見送って行った。

 応接室でひとり不機嫌そうに麦茶を飲んでいる茂に、戻ってきた高原がにやにやしながら声をかける。

「河合さあ、素直にみとめちゃいなよ、昼も夜も三村くんの近くにいられてうれしいって。」

「なんでですか!」

「いや、俺も、お前があの人を嫌いなことは知っているさ。」

「そのとおりです。」

「でも安心しろ、あの人はお前があの人を嫌っている以上に、お前のことが嫌いだろうからさ。」

「なんの慰めにもなってないです。」

 茂が三杯目の麦茶を飲みほしていると、いつの間にか事務室の反対側の打ち合わせコーナーに移った高原が、再び茂を手招きした。

 三十分後、事務所の従業員用入口がカードキーで開き、もう一人の先輩警護員が事務所へ戻ってきた。

「晶生。・・・茂さんも、戻ってますか?」

 声をかけながら、戻ってきた葛城怜が打ち合わせコーナーを覗く。

 狭いコーナーのテーブルを挟んで、向かい合って座った高原と茂は、机上の書類に向かってペンを持ち真剣な顔をしている。

 葛城が笑って二人を見比べた。

「・・・またケーススタディですか。」

 茂の代わりに高原が答える。

「過去、うちの会社が請け負った警護業務で、不幸にして犯人の実行行為の着手に至ってしまったケースのうち、代表的なものは、頭に入れておくべきだからね。」

 書類に集中していた茂は、一呼吸遅れてはっと気が付き、葛城のほうを向いて挨拶した。

「葛城さん、お帰りなさい。お疲れ様です。」

「今日で今の案件も終わりました。次はまたペアですね。」

 葛城は肩の下まで伸ばした髪を相変わらず無造作になびかせている。そして相変わらずこの世の天使のような美貌だ。三村英一がどんな女性も魂を奪われる美男子だとするなら、葛城怜はどんな美女も戦慄する美形である。女性と見紛うその容姿は、しかし彼が実際はもちろん身も心も立派な男子であるため、本人にも周囲にも色々迷惑をかける代物でもある。

「もうすぐ波多野部長が戻ってくるから、それまでに終わらせろよ、晶生。」

「ああ、大丈夫大丈夫。今日は部長からお前たちの新しい仕事の話だね。」

「俺のほうの単独案件も終わったからね。」

 高原に肉薄するような有能な警護員である葛城は、自身が新人警護員であったころからのつきあいである高原と話すときだけは、タメ口でしかも自分を俺と呼ぶ。

 その後波多野部長よりも先に事務所に到着したのは、出前の配達員であった。

 一同が応接室のテーブルに出前の弁当4つと麦茶4人分を並べていると、ようやく大きな足音とともに波多野営業部長が戻ってきた。

「やあ、悪い悪い。遅くなった。」

 坊主頭に近い短髪に似合わないメタルフレームのメガネをかけた波多野は、背広の上着を暑そうに脱いで席の背もたれにかけ、応接室のソファに座り麦茶を飲み干す。

 弁当を食べながら、空いた手で大型封筒をテーブルに置き、中身を三人に見せた。

「今回の案件は、また怜と茂のペアでやってもらうんだが・・・。二人とも、明日、俺と一緒にクライアントに会いに行くからな。」

「はい。」

「それから」

 波多野は高原のほうを見た。

「晶生、お前も資料に一通り目を通しておいてくれ。警護開始は明後日の日曜日からだからそれまでに・・・・念のため。」

「わかりました。」

 茂と高原と葛城は、それぞれ自分の分の書類を受け取り、その場でななめ読みをしてみる。

「準備時間が非常に少ないが、それよりも問題なことが、ひとつある。」

「・・・これは・・・、刑期満了後の警護ということですね。」

「そうだよ。久々だよな、怜は。」

「はい。」

「そして茂は初めてだ。良い経験になるかもな。」

 葛城と茂は真剣な目で書類を追う。

 翌日土曜日の待ち合わせを決めた後、葛城と波多野は先に事務所を後にし、茂は高原に呼び止められて事務所に残った。

 応接室のソファの背もたれにもたれ、高原が頭のうしろで両手を組み、向かいに座っている茂のほうを下眼遣いに見る。

「河合、お前さ、今回、波多野部長がなぜ俺にも資料を事前に渡したか、わかるよな。」

「はい。」

「メイン警護員に・・・怜に、緊急事態が発生して、俺があいつに替わってメイン警護員業務に入ることになる可能性が、わりと現実的なものとして存在するということだ。」

「・・・・はい。」

 茂は唾をごくりと飲み込んだ。

「まあそんなに肩に力を入れることはないけどさ。ただ常にこのことを頭の隅に置いておけばいい。」

「はい。」

 しばらく沈黙した後、再び高原は茂のほうをメガネ越しに見て、口を開いた。

「河合、警護員にとって一番大事なことは、何か知ってるよな?」

「身の危険を顧みずに、クライアントを守ること」


「それは四番目くらいだ。」

「十分な準備をして警護に臨むこと」

「それは二番目。」

「えっと・・・・非常時には、戦うことは最後の選択と心得、とにかくクライアントともども逃げることを第一に考えること。」

「よし、それは三番目だね。」

「うううう・・・」

「警護員の守備範囲をわきまえること、だよ。」

「・・・そうでした。」

「違法な攻撃を防ぐことが、俺たちの仕事だ。だから、その次のステージに事態が進んでしまったときは・・・犯人が実行行為に着手したら、その時点で俺たちは単なる”たまたま一番近くにいるいち市民”でしかなくなる。その先は、基本的には、警察の領分になる。このことをいつも忘れるなよ。」

「はい。」

「つまり端的に言うなら、必要になったとき警察へ通報するのをためらうなということだ。」

「ためらうことは、ないような気がしますが・・」

「そう思うだろ?しかしいざというとき、意外に、警察というものの存在をすっかり忘れる警護員は、多い。自分だけでなんとかしようとしてしまうんだ。警護業務の続きみたいな錯覚の中で。」

「そうなんですね」

「忘れるな。俺たちはSPじゃない。ただの、丸腰の、民間人に過ぎないんだということを。」



 駅に向かって歩きながら、波多野部長が葛城に話しかける。

「で、その後どうだ?あの新米警護員は。」

「すごくがんばってますよ。」

「バカなこともそれなりにしてそうだが、なかなか面白い奴だろう?」

「はい。面白い人です。思ってもみないようなことが、最近増えました。茂さんとペアを組んでから。」

「ふーん」

 波多野部長がにやにやしながら葛城の顔を横目で見る。

「な、なんですか、波多野さん。」

「怜、お前が今まで警護でペアを組んだ人間は数知れないが、お前がそんなに嬉しそうな顔をして話す人間は、高原晶生以外だと俺は知らんな。」

「・・・・」

「いい後輩になりそうじゃないか、あいつ。」

「・・・・はい。」



 海沿いの整然とした街に林立するタワーマンションの一室で、足下の街が金曜の夜らしい賑わいであることが別世界のように、明りの暗い部屋で、一人の痩せた中年男性が背筋を伸ばして来客と対面していた。客はふたりいて一人は男性、一人は女性である。男性のほうの客は、身長百八十センチくらいの長身で、非常にバランスのとれた、見ただけで身体能力の高さがわかる体型であり、顔立ちも精悍だ。しかし怪しげな目の光と耳下までかかる長さの黒髪と無精ひげ、そして少し猫背の姿勢のせいで、スポーツマンというよりは殺し屋のように見えてしまう。女性のほうは男性よりは背が低いが女性にしてはやはり長身であり、すごい美人というわけではないが愛らしい童顔をしている。明るい茶色のショートカットの艶やかな髪が、健康的な小麦色の肌をした顔を縁取っている。

 女性のほうの客が書類を片づけバッグにしまい、男性のほうの客が中年男性のほうを改めて見て、硬い表情に少しの穏やかさを交えながら、それをやがてかすかな微笑みに変えた。

「我々を信頼していただいたこと、感謝しておりますわ。」

 男性の客の言葉はゆるやかな関西弁で、不思議な包囲力がある。

「我々に最初に依頼してこられたのが、治賀良太氏やったことを考えたら、我々が二重に仕事を受けたんと違うか、と、疑われても仕方がない状況です、川西さん。」

 家主の川西は痩せた小柄な体をさらにきちんと伸ばし、白髪の混じる髪をきちんと整えた、学者のような顔をまっすぐに客に向けた。

「酒井さん、貴方がたの・・・・阪元探偵社さんのことは、前から・・・事件直後のあのころから、実際、知人に詳しくうかがっておりました。」

「はい。」

「お声をかけていただいたとき、それが偶然か運命かはわかりませんでしたが、いずれにせよ感謝しました。私の小さな、ささやかな望みを、かなえてくださると思っています。」

「もちろんです。それから川西さん、ちょっと正直に申し上げますと」

「はい?」

「治賀良太から依頼を受けたとき、ほんまは我々、治賀氏の依頼を断った後、川西さんへお声かけするようなこと、普通やったらせえへんかったと思います。どんなにこちらがやるべきと思う仕事であっても、受けるのは、ご紹介によるお客様側からの依頼があったときだけというのが基本です。でも、治賀氏がおんなじことを、大森パトロール社へ依頼していることがわかったんで、半分はうちの勝手な希望で、仕事させてもらえたらと思ったんですわ。」

「商売敵か何かなんですか?そこは。」

「仕事内容は競合しまへん。でも、我々にとってあの会社は、まあ台所で遭遇するネズミみたいなもんです。とりあえず、本能的に、その仕事を駆除したくなるもんで。」

「では、今回のことは、私だけではなく阪元探偵社さんにとっても、意味があることなんですね。それは、私としても、なんだかうれしいことです。」

「ありがとうございます。でも、仕事はもちろんきっちり普通にやりますので。」

「法に反することをさせてしまうのは、本当に申し訳ないと思っています。」

 酒井は和泉と顔を見合わせ、微笑した。再び依頼主のほうを向く。

「それが我々の仕事です。死ぬべき人間を法が罰しないんやったら、我々が代わりにやる、それだけのことですからね。」

 和泉が優しい目を依頼主に向けて、言った。

「命をもってしても、もちろん十分に償ったとはいえません。が、奥様の味わわれた苦しみの何千分の一でも、返せるならと、思います。」

「我々は、治賀を最後は殺害します。ただ、再三申し上げましたとおり、最後の最後まで、お客様である川西さんには、選択の余地を残します。中止命令があったときは、そこで我々は止めます。実際、止められるお客様も、何割かおられます。このことを、覚えておいてください。」

 酒井が念押しする。

 窓の下の、コンクリート岸の向こうで、夜の海が深い淵のように静かに揺らいでいた。

 依頼主の住まいを後にし、夜の海沿いの街から車で遠ざかりながら、運転席の酒井は助手席の和泉に声をかける。

「お前、ほんまに頑丈にできとるなあ、和泉。」

「は?」

「前回、大森パトロール社とかかわって、まあ全体としてはうちの仕事はできたとはいえ、あんだけ後味悪い思いしたのに、ようまたおんなじあいつらを相手にしたいと思うたなと。しかも今回は前回みたいな上品な案件とちゃうしな。」

「言い方は違うけど、吉田さんもだいたい同じことをおっしゃってました。」

「これは俺の勘やけどな。」

「はい。」

「二度あることは何度でもある。お前はたぶん、あの会社と相性が悪い。また、何度でも、嫌な思いすると思うで。」

「・・・そうかもしれませんけど。二度でも三度でも百度でも、別にかまわない。・・苦手な相手って、逃げるより正面から関わり続けるほうが、よっぽどラクですから。」

「はははは」

 酒井は大きな声で、楽しそうに笑った。

「お前、なんか最近、ちょっと恭子さんみたいやなあ。」

 吉田を酒井は名前で呼ぶ。

「えええ!なにをそんな、私が吉田さんみたいだなんて、恐れ多い・・・」

「いや、あんなにすごい人はもちろんこの世にほかにおらんけどな。まあ、女ならではの地味なしぶとさっちゅうんかな。」

「吉田さん、そういえばこの間、なんだか気になることを、おっしゃってました。」

「ん?」

 酒井が煙草に手を伸ばし、和泉の強烈な視線に気が付いて手を引っ込める。

「私、吉田さんがいつも自信をもって仕事をしておられるから、そんなふうになりたいって言ったんです。」

「そしたら?」

「吉田さんは、自分は自信というようなものじゃなく、なにかその・・・からっぽのものに、よりかかっているだけだ、みたいなことをおっしゃって」

「・・・で?」

「”だから、自分がちょっとでも揺らいだら、それは、自分が去る時”だ・・・って、おっしゃっていました。」

「・・・・。」

 酒井は前を向いたまま、表情を特に変えずに、しかしかなりの間だまっていた。

 車が海にかかる橋を渡り、街の中心の光の海へと入っていく。

「それは、恭子さんひとりのことというよりも、」

「?」

「うちの会社全体に、いえることなのかも、しれんな。」



二 クライアント


 土曜の朝、波多野営業部長に連れられて、茂と葛城はこれから一か月間の警護を行う新たなクライアントの自宅へ向かった。

 私鉄駅から歩いてすぐのところにある、低層のマンション入り口で部屋番号を押して呼び出すと、低い男の声で返事がありオートロックの扉が開いた。

 クライアントの部屋は三階の角部屋だ。一階の郵便受けにも、部屋の前の表札にも、名前はない。

「失礼します。」

 インターフォンを押すと部屋の扉を開けてクライアントが出迎え、三人をリビングの食卓の椅子へ案内した。

 波多野が二人の警護員を紹介する。

「こちらがメイン警護員の葛城怜、こちらがサブ警護員の河合茂です。」

 二人が頭を下げると、クライアントも同様にした。

「治賀良太です。お世話に・・・なります。」

 治賀が椅子に腰かけ、波多野たちも続いて座った。治賀は体が大きくやや小太りで、一見年齢不詳だが上目使いの目が常に不安そうに泳ぐ、相手を落ち着かない気持ちにさせる男だった。

「よろしくお願いいたします。警護ご依頼人の治賀直見様・・・お母様は、今日はこちらではないのですね。」

「はい、母は郷里のほうで用があり、結局こちらには。でも支払いは母から振り込みしますので。」

 茂は警護対象・・・クライアントをしげしげと見た。葛城と初めて会ってその美貌に驚愕しない人間は珍しいが、それどころか治賀は一度も三人の誰とも目を合わせようとしない。

 波多野が書類を食卓に広げる。

「警護期間は明日から一か月間。平日は仕事先までの出勤時と帰宅時の移動時警護。土日祝日は、事前にお知らせいただいた外出先とご自宅との間の、やはり移動時警護。外出ご予定はこちらの内容で間違いございませんか。」

「・・・・はい。でもまた追加があったら、全部対応してもらえますよね?」

「大丈夫です。なお、平時の朝の出勤時警護と、平日昼間の臨時の警護については、メイン警護員のみの対応となります。」

「わかりました・・。」

「利用する交通機関は公共交通機関のみですね。」

「はい。」

「予定にない行動をされるときは、くれぐれも事前に警護員にお知らせいただくことを、忘れないでください。」

「はい。・・・僕を狙っている人間は、たったひとりです。絶対にちゃんと、奴から僕を守ってください。お願いします。」

「川西肇、ですね。我々は探偵会社ではありませんので、その人そのものを調査したりマークしたりすることはできません。しかし、川西氏について今回治賀さまから頂いた情報は理解の上で、警護にあたります。もちろん、ほかのあらゆる危険から、同時にお守りいたします。」

「よろしくお願いします・・・。」

「ほかに、ご心配なことはございますか?」

 治賀はテーブルの上に置いた両手の指をしきりに動かしていたが、初めて顔を少し上げた。

「僕みたいに、刑務所から出てきたあとで・・・被害者の家族に、狙われて、・・・・そしてほんとに殺されちゃったひとって、いるんですか?」

 波多野は少し時間をおいて、穏やかな顔で、答えた。

「それは、わかりません。しかし、治賀さまは、ちゃんと国の法律が定めた償いを、終えられた。今はもう、安全な生活をする資格がおありです。それをお守りするのが、我々の役目です。」

 クライアントの自宅を後にし、茂と葛城は波多野と別れてさっそく警護ルートの下見を開始した。時間がほとんどないので、ルートを動画撮影し事務所で確認する方法をとる。

 事務所で映」像をレビューし携帯端末へ必要な情報とともに入力すると、二人は警護計画を紙で確認した。

 作業のあと、茂は葛城に、事務所には誰もほかにいないのでその必要はないのだが、なんとなく小声で、話しかける。

「クライアントは、なんだかあまり、俺たちを信頼してくださっていない感じですね。」

「それだけ不安が大きいということなのでしょう。出所後の警護依頼では、わりとそういうことが多いです。」

「被害者遺族に狙われるケースは、そんなに多いんですか?」

「実際は、それほど多くはありません。妄想の域を出ないものも多いです。しかし、ケースとして数少ないとはいえ本気の襲撃は、文字通り、本気ですから、警護の難易度は高いです。」

「・・・・・。」

「茂さん、大丈夫ですよ。正直に、言ってください。」

「・・・人を死なせて、数年で刑務所を出られるのって、やっぱりなんだか、軽すぎる気がします。」

「そうかもしれませんね。」

「俺が遺族だったら、確かに、殺してやりたいと、思うかもしれません。」

「はい。」

「でも、やっぱり、今日クライアントに波多野営業部長がおっしゃったことが、正しいとも、思います。なんだか、ちょっとその両方で、ふらふら考えてしまいます。」

「はい。」

「なので・・・。・・・すみません・・・・自分でも、何が言いたいのか、よく・・・・」

「いえ、茂さんのおっしゃりたいことは、わかりますよ。」

 葛城は、多くの優しさに少しの苦さが混じった、微笑を浮かべた。

「国の法律は、司法は、ある意味、無力です。」

 茂は一瞬、葛城が何を言ったのかのみこめず、固まった。数秒後、驚きを隠さない顔で、目の前の先輩警護員の顔を見た。

「刑罰は、遺族からみても、我々一般人からみても、基本的に、軽いです。そう感じるのが、普通ですし、私も、そう思います。しかも・・・」

「・・・・」

「しかも、犯した罪を、全部正しくカバーすることさえできないことが、むしろ普通でしょう。」

「葛城さん・・・・」

 茂の、透き通る琥珀色の大きな両目が、葛城のこの世ならぬ美しさの切れ長の目を、恐怖に似た驚きを湛えたまま凝視している。

「我々の仕事は、なにかを判断することではない。しかし、」

「・・・・」

「迷うことからも、いつも、逃れられない。これも、事実なんだと思います。」

「・・・・」

「そういう・・・そのままの状況で、ひとつのことを、実行するということです。」

「・・・・そうですね。」

 茂が小さな声で答えると、葛城は立ち上がり、給湯室から麦茶を取ってきた。笑顔で、茂にグラスをひとつ渡す。

 茂の手のグラスにピッチャーから麦茶を注ぎ、首を少し傾けて葛城は優しい目で後輩警護員を見た。

「警護は、一件一件が、貴重な経験でもあります。今回も、なにがあるかわかりません。」

「はい。」

「茂さんが、警護員として、クライアントのためにしっかり対応してくださることを、信じています。」



三 警護


 日曜日から始まった警護は、身構えていた茂にとっては意外なほど何事もなく進んだ。クライアントの交友関係は極めて狭く、仕事場と家の往復以外はなにもないと言ってよかった。初日の日曜日だけは市の外までの外出があったが、昼間の短い時間帯のことで、すぐに自宅まで同行し早い時刻に警護は終了した。翌週も同様だという。

 茂が平日昼間に仕事をしている会社での劣悪な労働条件に耐え、再び週末を迎えたとき、波多野部長から連絡があり警護期間が延長されたことを知った。

 土曜朝、大森パトロール社の事務所に顔を出した茂は、今日は英一がいないことにほっとしながら、事務員の池田さんが置いていってくれた朝食を食べた。

 しばらくして、高原が事務所に現れた。顔が明らかに眠そうである。

「おはようございます、高原さん。そういえば、夕べから徹夜の警護が入っておられたんですよね。」

「今の俺は、五秒でどこででも寝られるよ。襲撃するなら今だ。」

「なに言ってるんですか。仮眠室を池田さんが準備しておいてくれてるみたいですから、おやすみなさい。」

「池田さんはほんとに偉いよねー。三人のお子さんがいるのに、休みの日でも夜中でも、こまめに来て俺たちの面倒みてくれるんだもんな。」

「池田さんひとりで、なんかもうこの事務所の二十六人の警護員全員のお母さんみたいですよね。」

「ほんとほんと。警備員事務所のほうは、人数がもっと多いから事務員さんも複数いるけど、ここは池田さんひとりだもんな。」

 高原はしゃべりながら奥のロッカーの前で寝巻に着替えている。

「あ、警護員の人数は、正確には二十五人だ。この間ひとり辞めたからね。」

「そうなんですね。」

「俺や怜みたいなフルタイムと、お前みたいなパートタイムがいるけど、事務所にあまり立ち寄らない奴も多いから、なかなか顔を覚えられないだろう?」

「はい。たまに立ち寄られても、あんまり会話しない人が多いですね。」

「警護員は、ペアを組んでいる相手を除けば、基本的に個人業務だからね。時間も不規則だし・・。そういえば河合、お前社長に会ったのって、入社式のときだけか?」

「そうですね、そのときだけだったです。」

 寝巻に着替えたままの恰好で、高原は仮眠室ではなく茂のいる打ち合わせコーナーのほうへ来て、近くの椅子に座った。

「警護員は、長く勤める人間と、短期間で辞めていく人間との、両極端なんだけど、社長はその見極めがすごく正確で・・・・」

「はい。」

「ある程度の経験を積んで、それなりの存在になった奴・・・・そう、うちの会社で”ガーディアン”っていわれるようになった奴、と言ってもいいかな・・・・そういう奴らは、全員、入社してすぐに社長に、なにか言われてるんだよ。それぞれみんな、違うんだけど。」

「そうなんですね。」

「お前にもそのうち、声がかかるかもね。ジンクスに過ぎないかもしれないけどさ。」

 茂は、高原がこういう話をしてなにか時間を引き延ばしているような気がして、先輩警護員に勇気を出して訊ねてみた。

「高原さん・・・・俺に、なにかお尋ねになりたいことが、あるんでしょうか・・・・?もしかして」

「はははは」

 高原は知性と愛嬌の同居した目をメガネの奥でほころばせ、楽しそうに笑った。

「河合、お前、良い勘してるな。そこらへんは、怜に似てきたんじゃないか。」

「そうですか?」

「・・・・どうだ?初めての、出所後警護は。」

「すごく順調です。準備期間がほとんどなかったですが、クライアントの行動がとても限定的なので、助かってます。」

「そうだな。たぶん、この先も一か月間、なにも問題ないかもしれないね。」

「はい。」

「行動パターンが限られていて、こちらの予想を裏切らないクライアント。警護しやすい対象だ。」

「はい。」

「ただ、その警護期間が一か月以上の長期間になり・・・三か月、半年、というようになったときは、話は別だ。」

「・・・・?」

「襲撃の危険と確率は、等比級数的に上がっていくんだ。」

「・・・・実際にクライアントを狙う人間がいた場合は、ということですよね。」

「そうだ。」

「高原さんは、治賀さまを実際に被害者のご遺族が狙っていると思われるんですね?」

「それはもちろん、わからないよ。仮定でしか、話はできないからね。そしていつも最悪のことを考えるのが警護屋だからさ。・・・・河合。」

「はい。」

 打ち合わせコーナーの机に両肘をつき、高原は両手を顔の前で組んだ。メガネ越しに、笑みを絶やしたその両目が鋭さを露わにして茂の両目をとらえた。

「お前、最初の予定の一か月が終わったら、この警護を、降りろ。」

「・・・・?」

 ふたりのほかに誰もいない事務室に、沈黙が満ちる。

 高原は茂の、驚いた顔を見ながら、その答えを待つ。

「降りるって、途中で、仕事を断るということですか・・・?」

「そうじゃない。怜は手練れのガーディアンだ。あいつだけで、十分やれるだろう。」

「・・・・」

「たぶん、波多野さんも、そして怜も、同じことを考えているとは思うけどね。念のためだ。俺からも、言っておく。」

「高原さん・・・・。」

「必要なら、ほかのベテラン警護員をサブにつければいいだけのことだ。お前はまだ新人だ。難易度の高い”出所後警護”で、しかもああいうタイプのクライアントは、深入りするのは百年早い。」

 茂は透き通る琥珀色の両目で、先輩警護員の少し厳しい顔を長い間見つめていたが、ようやく口を開いた。

「高原さん・・・ありがとうございます・・・・俺、今まで、これまで・・・・」

「?」

「これまで、親にも、こんなに心配してもらったこと、ないです・・・。」

「・・・・」

「本当は、降りませんと頑張りたいです。でも、俺、素直におっしゃるとおりにします。身の程というものが、あると、思いますから。」

「よしよし。」

「あと残り三週間、葛城さんの足をひっぱらないように、がんばって勤めます。」

「くれぐれも、気をつけろよ。」

「はい。」



 翌週も月曜から毎日、茂はクライアントの仕事場から自宅までの帰宅時移動警護に従事した。波多野部長からも葛城からもまだ何の話もないが、茂は残り二週間少しとなった警護期間を有意義に過ごそうと、全身を目にしてクライアントの周辺に注意を払っている。期間が短いことで、より集中力が高まるということも、実感した。問題といえば、警護を終えて葛城と一緒に事務所に立ち寄ると、高い確率で英一が高原と談笑していることだけである。

 そして、クライアントの様子を毎日集中して観察していて、ほんの少しであるが、何かの違和感が茂の中に生まれ始めていた。それがなんなのか、自分でもよく分からない。葛城に相談しようにも、違和感の名前さえよくわからなかった。

 木曜日、もともと終業時間が遅いクライアントが、さらに残業があり、茂と葛城は夜十時を回ってクライアントとともにその自宅マンションに到着した。

 茂は引き続き、自分の感じている違和感の正体について考え続けている。

 クライアントと茂と葛城は、階段で三階に上がり、葛城がその場で鍵を借りて部屋のドアを開け、茂とクライアントは玄関で待機する。葛城がクライアントの部屋へ入り、窓、バルコニー、クロゼット、バスルーム、そしてあらゆる、人や物が隠れられる箇所をチェックし、不審人物や不審な様子がないか確認する。問題ないことを確かめた後、葛城と茂は廊下に出て鍵を返し、クライアントが部屋に入りドアをロックしたらその日の警護は終了となる。

 マンションの階段を下りながら、茂が難しい顔をしていることに葛城が気付き、声をかける。

「茂さん、どうかされましたか?」

「いえ・・・なんでもないです。」 

 マンションを出て、最寄りの私鉄駅で、すぐに到着した上り列車に乗り込んだとき、ふっと茂の頭によぎった考えがあった。茂は葛城に、今日は別の用があるので事務所には寄らない旨を伝え、次の乗り換え駅で降りた。

 茂はそのまま下り列車に乗り、もと来た道を行き、クライアントのマンションまで戻っていた。自分がどうしてこんなことをしているのか、よく分からなかった。

「あんまり集中してクライアントを観察しすぎて、俺は、おかしくなったのかもなあ・・・。」

 通りから見える、三階一番奥の角部屋が、クライアントの部屋だ。明りがつき、不穏な気配もない。もうすぐ、就寝することだろう。茂はしかしわけもなく胸騒ぎが収まらないので、もうこの際、部屋の明りが消えるまでここで見ていようと思った。マンションに帰ってくるほかの住人にみつからないよう、物陰に身を隠す。

 駅からさほど遠くないのに、低層住宅しかないこの辺りは静かな住宅街で、咳をするだけでそこらじゅうの家に響きそうだ。

 そのとき、マンションの一階入口から、一人の大柄な人間が出てきたのを見て、茂は目を疑った。

 クライアントの、治賀良太に間違いなかった。

「えっ・・・?」

 その瞬間、茂はここ数日毎日自分の中に溜まってきていた違和感の正体が、わかった気がした。マンションの自室に着いたとき、ほとんどの日、クライアントは家に帰ってきたという安堵感を、見せないのだ。それは、室内に不審人物が潜んでいるのではという不安から来るものだと思っていた。しかし、クライアントにとってこのマンションの自室が「ゴール」ではないのではという、そんな感じがしていたのだ。

 そう。ほとんど毎日、彼は、警護員と別れた後、別のところへ行っている。深夜から早朝まで。警護員に知らせずにこことそこの間を往復している。その事実が、茂の目の前で実際に彼に見せつけられていた。

 いざ見せつけられてみると、いったいどうしてそんなことを、と、激しい疑問が茂を襲うが、自問している時間はなかった。足早にマンションを離れるクライアントを、茂はみつからないように後を追う。携帯電話で葛城に連絡しようと思ったが、あまりに周囲が静かすぎて、話ができそうにない。もう少し先に行ってからメールを打とうと思いながら、茂は追跡を続けた。

 徒歩わずか五分程度のところで、治賀が足を止めたのは、二階建ての木造アパートの前だった。周囲を見回し、階段へ向かう。二階の部屋へ行くようだ。茂は階段の反対側へまわり、スリングロープを使って軽々と二階廊下奥の壁の裏まで登る。高原のようにマンションの三十階から降りるようなことはできないが、上り十五メートル、下り三十メートルくらいは、茂も訓練を受けている。

 茂は携帯電話を取り出し、葛城の番号を表示させ発信ボタンを押した。木造アパートの二階廊下は明りがついておらず真っ暗だ。茂は携帯電話を耳にあてながら、廊下奥の壁からそっと様子を見る。道路の街灯の明りで辛うじて、治賀が向こう側の階段を上がってきて、こちらへ歩いてくるのが見えた。茂はコールした携帯電話のスイッチを切り、頭を引っ込めて、耳を澄ます。ひとつ、ふたつ。何番目の部屋の前でクライアントが立ち止まったか、数える。

 クライアントが五つの部屋のうち真ん中の部屋の前で、鍵を取り出したとき、茂はアパートの階下に人の気配を感じた。その様子は、住人ではなかった。茂は反射的に廊下奥の壁を乗り越え、クライアントの後に続いて真っ暗なアパートの部屋へ、無理やり入り、自分の手でドアのロックをした。

 治賀が驚いてふりかえるが、暗くてなにも見えず、茂が慌てて名乗って初めて事態を理解した。



 木造アパートの裏手で、ヘッドフォンのインカムともう少し大型の無線機の両方を持ちながら、酒井が声を殺して苦笑していた。インカムから、メンバー全員へ、酒井の声が入る。

「あーあ・・・。一緒に入ってもうたで。これは今日はちょっと、無理やなあ。」

 インカムから和泉の声が入る。

「でも、今日やめるということは、この方法そのものをやめるということになります。」

「まあな。それにしても和泉、俺、前お前に言ったこと取り消すわ。あの会社と相性が悪い、て言うたやつ。相性悪い、どころの話やないな。お前、絶対、あの会社に呪われてるで。」

「そうかもしれませんけど。・・・・吉田さん、このまま進めさせてください。大森パトロールの新人警護員がひとり中にいても、治賀の殺害に特段の支障はありません。」

 吉田の静かな声が入ってくる。

「和泉、確かに貴女の言うとおりだと思う。でも約束できる?ターゲット以外の人間に、危害を加えないこと。もしも、河合警護員を何らかのかたちで巻き添えにする危険が生じたら、直ちに本件を中止すること。」

「はい、約束します。」

 酒井の声が重ねて入ってきた。

「大丈夫です、恭子さん。和泉が勢い余って河合に襲い掛かったら、俺が責任もって止めますから。」

 近くに停めた車の中で、吉田は、やはり隣の席でインカムをしている川西のほうを見て、直接言った。

「決行します。よろしいでしょうか?」

 川西は、頷いた。


 

 治賀が抗議する前に茂が抗議していた。

「いったい、どうして、こんなことをしておられるんですか・・・?わざわざ、危険なことを・・・」

「・・・なんで、なんで、ここがわかったんです?」

 とにかく明りをつけようと、治賀がドア近くの電灯スイッチを手探りで押すが、何度やっても明りがつかない。茂が、手持ちの小さなペン型LEDライトをつける。室内は、敷きっぱなしの布団とちゃぶ台、そしていくつかの段ボール箱だけがある、殺風景な六畳一間だった。手前に小さな、料理をしたあとのある台所と、トイレ入口らしきものがある。

「おかしいな・・・」

 治賀が茂のペンライトの明りをたよりに部屋に入り、蛍光灯の紐を直接引いてみるがやはり駄目だった。そして「あれ?」と言って、奥のベランダに面した唯一の窓のほうを見た。真っ黒な、ブラインドのようなものが窓を覆っている。「なんだこりゃ」と言って治賀が窓に近づいて触ってみる。その瞬間、茂が入口ドアのカギを開け、ドアに体当たりした。

 ドアは、外側から封印され、開かなくなっていた。

「しまった・・・・!」

 二人は、アパートの部屋に監禁されていた。



 葛城が上り電車を降りたとき、携帯電話が鳴った。すぐに切れたが、腰のホルダーから電話を取り出して着信履歴を見ると、茂からの電話だった。すぐに折り返し電話する。しかし電話はつながらず、「電波が届かない場所にいるか、電源が入っていないため、かかりません」という旨のメッセージが流れた。

「・・・?」

 不審そうに眉間に皺を寄せ、葛城はホームに立ったまましばらく考える。今電話してきたばかりの茂の携帯が、なぜ、圏外や電源オフになるのだ。

 茂はどこにいる?葛城の考えが、素早く巡る。

「茂さん・・・もしかしてクライアントの家に戻った?」

 治賀の携帯電話の番号を表示させ、発信する。やはりつながらない。そして茂と同じ、電源が切られているか圏外である、という旨の自動音声メッセージが流れた。

 葛城の顔色が変わった。

 向かいのホームまで行き、入ってきた下り電車に乗り込みながら、葛城は波多野営業部長へ電話をかけた。数コールでつながった。

「もしもし、怜か?」

「波多野さん、すみません、警護時間は終わっているんですが、引き続きこちらの判断で警護業務を再開してもよいでしょうか。」

「わかった。で、何があった?」

葛城は状況を手短に説明する。

「少なくとも、自宅にいるクライアントの、携帯電話が、こういう状態であるのは不自然です。」

「なるほどな。・・・なんでもないのかもしれないが、しかし・・・・わずかでも可能性があるなら、悪いほうの事態を考えるのが、警護員というものだな。」

「クライアントの部屋に行ってみます。」

「そうだな。部屋の様子を確認して、問題が解決しない場合は、事務所へ電話してみろ。」

「え?」

「今日は確かまだ、晶生が事務所にいるはずだ。あいつの意見を、聞いてみろ。」



 茂は体当たりしたドアから体を離し、治賀のほうを振り返った。治賀はまだ状況を飲み込めずにいるようだ。

「治賀さん、この部屋のブレーカーの場所はわかりますか?落ちていたら、上げてみてください。明りがつくかどうか。」

 言いながら茂は自分の携帯のリダイヤルボタンを押す。しかし携帯電話の画面は、ここが圏外であることを示していた。

 治賀がドア近くの電気ブレーカーを上げる。

「だめです。」

「携帯電話を持っていますか?警察に連絡したいので、貸してください。」

 治賀が携帯を取り出す。

「だめだ、圏外になってます。」

「・・・・!」

 木造アパートの、室内と室外とで、携帯電話の圏外と圏内に分かれるはずがない。クライアントをパニックにしないよう、茂は言葉に出さなかったが、通信機能抑止装置が原因であるとしか考えれらない。

 茂は治賀のほうに体を向け、ゆっくりと言った。

「治賀さん、落ち着いて聞いてください。我々は何者かにここに閉じ込められたようですし、そしてそれは・・・よく計画された、やり方で、です。」

 治賀が返事するより早く、部屋の天井付近から、スピーカーのような雑音が聞こえ、ほどなく女性の声が響いてきた。

「河合警護員のおっしゃるとおりです。おふたりには、しばらくここにいて頂くことになります。」

 和泉の声だった。茂は、もちろんその声をよく記憶していた。

 治賀が震える声で天井に向かって言った。

「あ、あなたは誰ですか・・・?僕たちをどうするんですか・・・?」

 女性の声に、蔑むような色が混じった。

「私ですか?もう、お分かりのはずではないですか?・・・貴方が殺した女性の、使いの者ですよ、治賀良太さん。」

 ばたりと音をさせ、治賀が、持っていたカバンを畳に取り落した。

「ぼ、僕を、殺しに来たんだな・・・・。川西の、命令なんだな・・・。」

 茂はペンライトで天井を照らしスピーカーとマイクの位置を探すが、ライトの細い光では対処不能だった。

 ペンライトを畳と畳の隙間に差して明り代わりにし、治賀に「話さないでください」と手で合図して、部屋のどこかにあるはずの集音マイクに向かって茂は自分が話した。

「河合です。申し訳ありませんが、俺がここにいるので、クライアントに危害を加えることは、させません。」

 和泉の笑い声が部屋に広がる。

「貴方に、我々の仕事を妨害することは、できません。我々は確実に、治賀良太さんを殺します。もしもお邪魔をされるなら、河合さん、貴方も一緒に、殺すだけです。」

 治賀が立ったまま、体を小刻みに震わせ始めた。

「ああ、そろそろ夜中の十二時ですね、治賀さん。貴方の命日になる日が、始まりましたよ。」

「やめてくれ・・・・」

「安心なさってください、まだ少し、お話したいことがあります。」

 茂はかすかな明かりしかない室内を、注意深く見回す。周囲に、なにか、異常を知らせる方法はないか。

 台所に行き、水道の蛇口をひねる。やはり、水は出ない。ガスレンジも念のため確認するが、ライフラインは全て止められていた。最初にアパートの廊下に上がったとき、左右の部屋の明かりが消えていたことは確認した。おそらくは、階下の部屋も含め、無人にされているだろう。

 ベランダに出られるであろう窓を見る。内側から、ブラインドに似せた鉄格子が、ボルトで取り付けられている。窓ガラスにはさらに丁寧に外側から遮光フィルムまで貼られてあった。ガラスを割って叫べば通行人に聞こえるであろうが、それは昼間であればのことだ。

「あ、念のためですが、お二人とも、大きな音を出したり、脱出を試みたりは、なさらないように。その場合は、お話を中断して、直ちに殺害にはいりますので。」

 和泉の嘲笑するような声が響いた。

 茂は窓に取り付けられた鉄格子のボルトに、手持ちの携帯用の小型工具を当ててみたが、とても回るものではなかった。ペンライトを持って、玄関ドアも調べてみるが、外から封印されており、内側から開ける方法は見当たらない。トイレも含め天井もひととおりチェックしたが、やはり無駄だった。

 しかしこのことで、わかったこともあった。室内には集音マイクはあるようだが、監視カメラはない。茂のこれだけの行動に、和泉が無反応だからだ。その前に和泉が「大きな音を出したり」と言ったことも、そのことを図らずも示したと思われる。

「治賀良太さん、貴方が服役した、罪名をおしえてください。」

 茂に制されるまでもなく、治賀は恐怖で声が出なくなっていた。

 和泉が低く笑い、自分で答える。

「監禁致死罪。・・・・これは、大嘘ですよね、実は。」

「・・・・」

「貴方は、殺意をもって、麻里さんを突き落した。」

「・・・・ちが・・・」

「これは質問ではありません、治賀さん。」

「ぼくは・・・し、知ら・・・・」

「貴方には動機があった。麻里さんと貴方を知る人間なら、誰もがこれが殺人であると分かった。状況証拠もあった。でも、証拠不十分で、貴方は、罰せられなかった。」

「・・・・」

「麻里さんは、暗い部屋に長時間閉じ込められ、最後はその部屋から十四階下の地上へ転落させられ、全身を酷く傷つけられ、たくさんの血を流して、死にました。」

「・・・・」

「でも貴方は、数年間刑務所で福利厚生の充実した生活をし、またこうして、無事に生活している。」

「うわあ・・・・」

 治賀はふらふらと歩き始め、部屋の壁にそってぐるぐると回り始めた。段ボールに躓いてまた立ち上がり、トイレのドアノブにつかまって段差を降り、台所の汚れた食器の入った洗い桶に右手をつき、玄関の土間にうずくまる。茂は治賀をつかまえようとする。なんとかしてクライアントを落ち着かせなければならない。

 玄関で再び立ち上がり、畳の六畳間へ向かって戻ってきた治賀のほうへ近づき、茂はクライアントの両肩に手を置き、座らせようとした。

「大丈夫です・・・落ちついてください、治賀さん、俺は貴方の傍を離れま・・・」

 茂の言葉が止まった。

 治賀の握った両手が茂の腹に押し付けられ、その手には水がしたたる包丁の柄が握られていた。

 治賀が叫ぶ。

「お前も奴らの仲間だろう!僕を守るふりをして、ここに閉じ込めて・・・!」

 尋常ならぬ声で叫びながら、治賀は包丁を抜き、しかし手に返り血を浴びてはっとして動きを止めた。

 胃のあたりに激しい衝撃を感じた茂は、押さえた右手に温かい血が絡み付いて初めて、刃物で腹部を刺されたことを知った。

 茂が黙って治賀の手から血まみれの包丁を掴み取る。治賀の抵抗はなかった。茂の左手がゆっくりと包丁を畳の床に置いた。右手は血の流れだした腹部を押さえている。

「・・・傍を離れませんから、どうか、落ちついてください、治賀さん。」

 治賀がそのまま尻餅をつくように座り込んだ。

 続いて、茂が、床に両膝をついた。



 クライアントのマンションの前で、葛城は波多野の助言どおり大森パトロール事務所へ電話をかけた。本当に高原はまだ事務所に詰めていた。ワンコールですぐに電話に出た。波多野部長が事前に連絡しておいてくれたのかもしれない。

「もしもし、警護員の葛城です。・・晶生?」

「ああ、そうだ。どうした?怜。少し前に、波多野部長から、とりあえず事務所からまだ帰るな、とだけ電話があったよ。」

「晶生、お前の意見を聞かせてくれ・・・。」

 高原は、葛城の声が動転していることに気がつき、血の気が引く思いがした。大森パトロール社ができたときからのつきあいである葛城怜が、警護業務中に少しでも冷静さを失ったことは、高原の記憶している限り、たったひとつの例外を除いては絶えて存在しない。そう、あの、茶室での高原の事件を除いては。

「・・・河合に、なにかあったか?」

「今日二十二時過ぎに、クライアント宅で予定通り移動時警護を終えた。その後、茂さんは用があると言って○○駅で降りた。そのあと・・・俺がターミナル駅で降りたちょうどそのとき、茂さんの携帯から着信があった。でも、折り返しかけたら、圏外か電源オフのメッセージだった。」

「・・・・。」

「クライアントの携帯電話にかけたが、同じように、圏外か電源オフのメッセージになっていた。」

「・・・・まずいな。今、クライアント宅前か?」

「管理会社に事情を話して、部屋に入れてもらったが、もぬけのからだった。誰もいない。」

「荒らされたあとは?」

「それもない。」

「手掛かりになるようなものは?」

「手紙や書類、郵便物・・・探したが、なにひとつなかった。携帯電話もなかった。もちろん、血痕も。」

 高原は、一分間近く考え込んだ。

「・・・怜、折り返し電話するから、まだそこを動くな。」

「わかった。」

 事務所の固定電話を切ると、高原はパソコンでいくつか電話番号を検索し、そのうちのひとつに電話をかけた。

 かなり何度もコールした挙句、不機嫌そうな男性の声で応答があった。

「はい、○○市水道夜間受付サービスです。」

「もしもし。○○市○町○丁目○番地の治賀と申しますが、ちょっと大至急お尋ねさせてください。」

「なんでしょうか」

「私は、ちょっと遠方に住んでるんですけど、○○市にみっつ、私の名前で水道をつかってるとこがあるんです。で、この間、一か所、水道を止めてってお願いしたんだけど・・・・。間違ったところを、お願いしちゃったと思うんです。」

「はあ。」

「もう住んでないとこと、まだ親がひとりで住んでるとこがあるんですが、住んでるほうの水道をとめちゃったかもしれないんです。」

「では、そこのお客様番号をおしえてください。」

「こっちに今全然請求書とかがないんです。ちょうど捨てちゃったばっかりで。お願いします、水道契約がとまってしまってないか、確認させてください。」

「住所はわかりますか?」

「同じ市内なんだけど、妻がぜんぶやってて、番地の記憶があいまいなんですよ・・・今回もあいつが電話したからこんなことになっちゃって・・・・一か所は、○○市○○町○丁目○○マンション三階の○○○号室。これは間違いないです。あとほかに二か所、同じ名前で契約してるんです。歩いてすぐのとこのはずだから、同じ町なんじゃないかな。」

「それじゃあちょっとわからないですね・・・」

「どうか、お願いします・・・!!!親父は八十九歳で、最近はちょっと足腰もあぶないんです。確認できたらそれだけでいいんです。来週には妻がまた行けるし・・・」

「・・・○○町の近くですね、では、お客さまの名前と生年月日、登録の電話番号を教えてください。」

 高原は治賀のそれを、手元の資料を見ながらよどみなく答えた。

「・・・はい、確認できました・・・。あ、あとふたつじゃなく、あとひとつですね。」

「○○町の・・・」

「ええ、××番地×丁目×号、××アパート二階の三号室ですよ。あってますか?」

「はい、たぶんそれです!」

「あ、確かに、先週ご連絡をいただいて、水道をお止めしてますね。」

「やっぱり・・・!それ、すぐ開けてください。」

「緊急開栓ですか?でも、バルブの閉栓はお客様にお願いする、と記録にありますから、お父様がご自分でバルブを閉めてないかぎり、水道は止まってませんよ。」

「ああ、そうですか・・!よかった!ほんとにありがとうございました。」

 電話を切り、高原はパソコン画面に住所を入力し、地図情報を表示させるとそれを葛城の携帯へ送信した。

 高原がかける前に、葛城から電話がかかってきた。

「晶生、今メール受信したよ。これってもしかして・・・・」

「ああ、多分、クライアントの”別宅”だね。水道屋さんにおしえてもらった。これは想像だけど、警護が終わったあと、治賀氏は誰にも知られていないその部屋で、深夜から早朝までの一番怖い時間帯を過ごしていたんじゃないかな。」

「そんな・・・」

「普通に考えたら、頭がおかしいとしか思えない行動だけどね。でも人間、恐怖でパニックになると、しばしば、信じられないようなことをする。」



 茂は破れたシャツの前身頃を裂いて折り、右太ももと腹の間で挟んで少しでも止血を試みながら、血で染まった右手をぬぐい、手元のメモ用紙と別のボールペンを取り出して、走り書きした。

 書き終わると、まだ茫然自失状態から抜け切れていない様子でうなだれている目の前のクライアントに、何度か「大丈夫ですからね」と声をかけ、ペンをしまい、右手でゆっくりと治賀の左肩に手をおいた。

「河合さん・・・」

 数分たち、少し落ち着きを取り戻してきた治賀が、畳の上のペンライトの弱い光に照らされた顔をあげ、茂に向けた。

 茂は、二つの携帯電話をいじっていたが、治賀の表情がさっきまでより穏やかになったのを見て、微笑み、畳の上においたメモ用紙の走り書きを見せた。そこには、次の三点が書いてあった。

”-・私が話せなくなっても、夜明(または奴らが襲撃してきたとき)までの間、私と会話しているふりをしてください。

・夜が明けたら(または奴らが襲撃してきたら)、格子の隙間から窓ガラスを割り、私の携帯のメール送信ボタンと、治賀さんの携帯の電話発信ボタンを押して、ただちに窓から、なるべく遠くの植え込みめがけて放り投げてください。

・その後、窓から、大声で「××アパート××号室で、人殺しが!」と、何度でも叫んでください。-”

 メモと一緒に茂が差し出した茂の携帯電話と治賀の携帯電話は、それぞれ、葛城あてメール発信の準備およびオート着信設定、警察への電話発信の準備がされ、背中合わせにビニールテープでつながれていた。

「あ・・・・」

 治賀がなにか言おうとし、茂は制してもう一枚のメモ用紙にさらに走り書きをして示した。”-室内の会話は全部聞かれています。くれぐれも、俺が負傷していることが、ばれないようにしてください。俺が傍で守っていると思わせることで、襲撃のリスクは減ります。-”とあった。

 最後に茂は、もう一行、書いた。

”-あきらめずに、がんばりましょう-”

 茂の顔をしげしげと見て、治賀は複雑な表情をしながらも、頷いた。立ち上がらず四つん這いの恰好で、窓のほうへ行き、音をたてないように格子やガラスの様子を確認している。どこを割るべきか、イメージしているようだ。

 その後ろ姿を見ながら、しかし茂はその場を動くことはできず、座ったまま、腹に当てた服の切れ端に目を落とした。折りたたんだ布全体から血がしたたるほど重く真っ赤に染まっている。血が噴き出すようなことはないが、思ったより深く刺されたようで、圧迫しても流れるような出血が止まらない。

 少しでも出血を和らげ、体力の消耗も防ぐべく、茂はゆっくりと畳の床の上に体をあおむけに横たえた。

 窓の格子の隙間を確認していた治賀が、ふりかえり、不安そうな顔で、床の上の茂を見る。

 茂は顔を治賀のほうへ向け、大丈夫ですよ、というように笑顔をしてみせた。



 酒井は、アパートの裏側で建物から少し離れた物陰に立ち、二階のベランダの窓から目を離すと隣の和泉のほうを見た。部屋につながる無線機を、オフにしたまま和泉はずいぶん長い間、インカムあてにも言葉を発しない。

「和泉、なんや、お前のほうが監禁されてるみたいな顔やで。」

「・・・・」

 和泉は硬い表情で前を見たままだ。

「あの新米警護員さん、しみじみ変人やな。」

「・・・・」

「だいたい、なんでここまでクライアントにくっついて、のこのこ来たんか、そこからもう、変やわ。」

「普通は、考えられません。」

「警護員のイロハのイよりも、まだもっと原則中の原則や・・・警護員の職務範囲をきちっとする、っちゅうんはな。そやないと、あの職業自体が成り立たへん。考えてもみい。ひとりの人間を、一生守れるか?ありえへん。だから、警護時間とか期間とか範囲とかいうものがある。」

「移動時警護が終わって、部屋に戻したクライアントが、その後なにをしようと、警護員が関知する必要はないし、関知すべきことでもない。」

「そうや。警護の範疇を逸脱した瞬間から、それは、単なる個人行動になる。危険で、無駄で、中途半端な、行動や。」

 静かな住宅街の、少し古い木造住宅が肩を寄せ合うこの一角は、植え込みや樹木がそれ以外の場所よりひときわ大きく、夜風を受けて意外なほどざわざわと大きな葉音をたてる。

 四人が持つ無線機に、六畳一間のアパートの室内からの音声が入ってくる。

「・・・河合さん、僕は、刑務所で、少しだけですが本当になにかを、償った気持ちに、なった。」

「はい。」

「でも、被害者のこととか、考えることは、・・・あまりなかったし・・・・」

「はい。」

「こんな・・・・閉じ込められるというのは、怖い・・・怖い・・・」

「そうですね。」

「でも、僕は・・・死にたくない・・・・死にたくないです・・・・」

「・・・はい。」

 震える声の治賀は、しばらく意味不明のことを言っていたが、やがて、明瞭に、言った。

「麻里なんか、あんな女、死んで当然だったんです・・!」

「・・・・」

 車内で、吉田がちらりと川西のほうを見た。その表情から、感情は読みとれない。

 おそらく、四人の中では川西が今最も冷静だった。

 六畳間の畳の上で、茂は、治賀の声が次第に遠くに聞こえることに気がついた。右手を置いた傷口の布から、流れ出した血液は畳に達し、温かい水たまりを背中の下につくっている。唇を噛み、意識を覚醒させようとするが、視界がほとんどなくなっていくのを感じた。

 茂の脳裏に、高原の言葉がよみがえっていた。

 ・・・「忘れるな。俺たちはSPじゃない。ただの、丸腰の、民間人なんだということを。」・・・

 そうだ。そのとおりだ。

 しかし、今、自分がクライアントの傍にいて守らなくて、誰がそれをするというのか。

 茂の両目が閉じられ、やがて、それまでまっすぐ天井を向いていた顔が、力なく少し左に傾き、そのまま動かなくなった。

 血まみれの右手が腹部の上から床へと落ちた。



四 破綻


 六畳間から、治賀の声が、集音マイクに拾われ無線機に届きつづける。

「麻里は、あの女は、僕にずっとお金をくれていたのに、もうくれないと・・・。いままでのことも、みんなに言うと・・・どうしてだよ?じゃあどうして初めから、だめっていわないんだよ。やさしいふりなんかして・・・・ぼくを騙したんだ・・・・・ひどいよ、ひどいよ・・・・。一晩中、あそこに閉じ込めた。携帯で何回も電話したんだ。でもだめだって。あいつのせいだ。・・・・しょうがないじゃないか・・・・・僕は、誰もだましていないのに・・・・こんなところでどうしてこんなにされなきゃいけない・・・・。」

 ゆっくりゆっくり、絞り出すような、治賀の声が、途切れ途切れに聞こえ、和泉の顔から次第に血の気が引いていく。

 車の中で、川西は目を伏せ、両手を硬く膝の上で握りしめ、無線機に耳を澄ましている。

 数秒後、吉田が、ふっと顔を上げた。

 まだ、無線機からは、河合に向かって話しかける治賀の独白が、永遠に続くかのように聞こえてきている。

 吉田の顔色が、急速に変わり、隣の川西のほうを向いた。

「川西さん」

 インカム越しでなく、直接川西に吉田が話しかけた。

「・・・どうされました?吉田さん?」

 ただならぬ雰囲気に、川西が驚いて吉田の顔を見る。

「川西さん、申し訳ありません。計画を、中止させてください。」

「え?」

 インカムに向かって、吉田が言葉を発した。

「酒井、和泉、聞こえてる?」

 二人から応答があった。

「確認だけど、部屋から脱出しようという動きは、まったくないわね?」

「ありません。ドアも、窓も、破ろうという試みはありません。壁や床をたたいたりする気配も。」

「・・・計画は中止する。酒井、部屋に入って、河合を救護しなさい。」

「ええっ!」

「脱出の試みが一切ないこと、治賀の今の話が始まってから河合の反応がないこと、これらを考えると・・・・」

「・・・・」

「おそらく、河合警護員は、自ら動くことができない程度の、重傷を負っている。」

「な・・・」

「そしてたぶん、もう意識がないはず。・・・・早く、急ぎなさい!」

 聞いたことのない剣幕で吉田が指示を出すのと同時に、酒井がアパートの外階段を三段飛ばしで駆け上がり、部屋のドアを手元の工具で一瞬で破った。

 吉田は大きく息をしながら、川西のほうを見た。

 川西は、数回、頷いた。


 破った部屋のドアを大きく開き、大型のライトを酒井が室内に向かって照らした。

 酒井の目に、室内の光景が明瞭に飛び込んできた。

 奥の鉄格子の取り付けられた窓に背をもたれるようにして、治賀がこちらを向いて両足を伸ばして座っている。

 そしてその手前に、向かって左側を頭、右側を足にして、こちらから見て横向きに、茂が畳の床の上にあおむけに横たわっていた。

 入口から見てもわかるほど、おびただしい血液が、畳に血の池をつくっていた。

 酒井が踏み込むより先に、彼を追い越して和泉が部屋に駆け込んだ。

「河合さん・・・・!」

 和泉が茂のすぐ脇まで走り寄り、自分の薄手のカーディガンを脱ぐと、手持ちのナイフで身頃の中央から横に裂き、身頃部分を折りたたんで傷口に押し当て、袖部分を使ってそれを茂の胴体へ圧迫しながら結びつけた。まだ血が止まっていない。

 酒井は、ドア脇の通信機能抑止装置のスイッチを切り、携帯電話を取り出したとき、後ろの気配に初めて気づいて振り返った。

 酒井の後ろに、肩で息をしながら葛城が立っていた。

 葛城の両目は、酒井の手元のライトが照らしている室内をまっすぐ見つめていた。

 道を開けた酒井の脇をすり抜け、室内へ葛城が入っていく。

 そして、茂のところまで来ると、座ったまま見上げる和泉がそこにいないかのように、両膝をついて上体をかがめ、両手で茂の両頬を包み込むようにして顔を覗き込んだ。

 右手がそのまま首に滑り降り、頸動脈に触れ脈を確認する。次に左耳を茂の口元に近づけ、呼吸があることを確認した。

 茂がゆっくりと目を開け、葛城を見た。

 唇が動き、なにか言おうとするのを、葛城が制する。

「しゃべらないで。」

 茂は目の前にいるのが葛城であることを確認するように、その顔をじっと見て、安心したような表情になる。

 しかしすぐに目を閉じ、沈むように再び意識を失った。

 葛城はそのまま、左腕を茂の背中に、右腕を両膝の裏に回し、茂を抱き上げ立ち上がった。入口のほうを向き直り、後ろのクライアントに向かって、「治賀さん、行きましょう。」と声をかけた。治賀が我に返ったように立ち上がり葛城につづいた。

 入口ドアまで来た葛城は、激しい怒りをあらわにした目で酒井を見て、そして立ち去った。



 深夜といえる時刻は過ぎつつあったが、まだ明け方は遠い暗がりの中、乏しい照明の下で、高原は窓際まで行き携帯電話をかけていた。

 三回だけコールし、出なければ切ろうと思っていた。

 三度目の呼び出し音のあと、相手が電話に出た。高原はむしろ少し焦りを感じながらも、言葉を出した。

「もしもし、夜分に申し訳ありません・・・・・。大森パトロール社の、高原です。」

「三村ですが。」

 英一の声は意外に眠そうではなかった。

「こんな時刻に恐れ入ります。」

「大丈夫です。明日の稽古までに仕上げる書類があって、徹夜していたところですから。」

「・・・今、市立××病院の待合室から電話しています。お知らせしたいことがあって。」

「はい。」

「河合警護員が、負傷し、病院に搬送されました。」

「えっ・・・・!」

「警護中の事故です。家族には既に連絡してありますが、三村さんにもと、思いました。・・・河合は、余計な心配をかけたくないと思うかもしれませんが、私があなただったら、知らせてほしいだろうと、思ったからです。」

「ありがとうございます。・・・河合の、容体は?」

「重症ですが、余程の急変がない限り、命に別状はないそうです。まもなく意識も戻るだろうとのことです。ただ、内臓に損傷があり、まだ危険はあるため、いずれにせよ当分の間入院です。病院の住所を申し上げます。」



 金曜日の午前、約束した時刻に、吉田と酒井は海沿いの街のタワーマンションの一室を訪ねていた。

 応接室で向き合った川西氏は、テーブルの前で頭を下げる二人に恐縮した様子で、椅子をすすめた。どんよりと曇った空と、同じ色に染まった海面が、境目をあいまいにして窓の外に漂って見えた。

「お詫びのしようもございません。契約解除の手続きと、お支払させていただきます慰謝料については、後日改めてご連絡をと存じますが、まずは謝罪の、ごあいさつに伺いました。」

「そのような・・・・。まあとにかく、おかけください。」

 吉田と酒井がソファの長椅子に腰を下ろすと、川西は隣室から用意していたコーヒーセットを持ち込み、三人分のコーヒーを淹れた。

「私は、コーヒーにはちょっとうるさいんです。どうぞ、召し上がってください。」

「ありがとうございます。」

 川西は、昨夜車の中でずっと隣にいた、そして今日は目の前に座っている、鼈甲色の縁のメガネをした静かな目の女性をじっと見た。昨日と今日とで、ほとんど別人のように見え、川西は内心驚いていた。

 コーヒーを飲みながら、川西が尋ねた。

「今回のような場合、契約解除の扱いになるのですか?」

「はい。計画の遂行途上で、わたくしどもの都合で、中止いたしました。この場合、”全部解除”になります。代金は全額お返しするとともに、ご迷惑をおかけした部分を賠償させていただくことになります。」

「そうですか・・・。」

 窓の外の灰色の空に少し目をやり、再び二人の客人のほうを向いて、川西は言葉をつづけた。

「私は、今日から、新しい人間として、生きられそうなんですよ。」

「・・・・」

「和泉さんが、昨夜、犯人に言ってくださった言葉、覚えておられますよね。・・・”麻里さんは、暗い部屋に長時間閉じ込められ、最後はその部屋から十四階下の地上へ転落させられ、全身を酷く傷つけられ、たくさんの血を流して、死にました。でも貴方は、数年間刑務所で福利厚生の充実した生活をし、またこうして、無事に生活している。”・・・。」

「はい。」

「あの言葉を、言ってくれる人が、この世にいた。それも、肉親でもなんでもない、赤の他人で。そのことが、どれだけ私を、救ってくださったか、お分かりでしょうか。」

「・・・・」

 川西の両目に、涙が浮かんでいた。

 うつむいて酒井は唾を飲み込み、そして隣の吉田の顔を見た。吉田は唇を噛んで、下を見ていた。

「そして・・・最後の、犯人の・・・治賀の言葉を聞いているうちに、なんというか、何かが吹っ切れたんです。そう、これは人間じゃなくて、鬼畜なんだな、と。妻は、鬼畜に、殺された。そういうことだと。」

「・・・・」

「もちろん私が犯人を許すことはないでしょう。しかし、相手が人じゃないとわかり、ある意味で、あきらめがついたんです。」

 吉田の唇に、さらに歯が食い込むように噛みしめられた。

「・・・ひとつだけ心残りなのは、・・・・関係のないあのボディガードさんに、ご迷惑をかけてしまったことですが・・・しかしあれは、あのボディガードさんの行動は誰にも予想できなかったわけです。」

「・・・・」

 ここまで言葉の出ない吉田は極めて珍しく、酒井はむしろそのことが不安になって上司の顔を見た。

 すると、ようやく吉田が口を開いた。

「あのボディガード・・・河合警護員ですが、幸い命に別状はないそうです。和泉が、彼の搬送された病院から情報を得ております。」

「それはよかった。」

「はい。」

 吉田と酒井を見送って一緒に玄関まで来た川西は、二人が玄関で一礼したあと、吉田に続いて酒井が廊下へと出て行こうとするのを、呼び止めた。

「あ、あの、酒井さん。」

「はい。」

 長身の男性エージェントが振り返る。

「私は、非常に感銘を受けています。」

「は・・・」

「あのとき、吉田さんが、迷わず計画中止を命じられたことです。」

「・・・・」

「たったあれだけの材料で、ボディガードさんの状況を理解した、その判断力はもちろんですが、それよりも・・・・なんというか・・・」

「必死でした・・・彼女。」

「そうです。私はよくわかりました。貴方がたが、人というものを、どう捉えて仕事されているか。」

 川西は、優しい表情で、酒井を見送った。



 街の中心部にある高層ビルの事務所に吉田と酒井が到着すると、もう和泉が戻ってきていた。

「お帰りなさい、吉田さん、酒井さん。」

「おお、お疲れさん、和泉。」

 酒井は和泉に答え、上着を席の背もたれにかけると、応接セットに座り背もたれに体を預けた。

「あ、コーヒーは今飲んできたから、紅茶にしてな。」

「はいはい。」

 和泉はパントリーで三人分の紅茶を準備する。

 吉田はいつもの地味なタイトスカートがよく似合う、きれいな足を組み、紅茶を運んできた和泉のほうを見た。

「お疲れ様だったわね。和泉。」

「吉田さん・・・」

 テーブルにティーカップを置くと、和泉は改めて吉田のほうを向き、一礼した。

「すみません、吉田さん、お客様にお詫びに行っていただくことになり・・・・・それに、契約も・・・・」

「貴女が気にすることじゃない。会社として、普通の対応だし、珍しいことでもないし。」

「・・・・・すみません・・・・。」

「仮眠はとったの?」

「はい。吉田さんは・・」

「この後、自宅でゆっくり寝るわ。酒井も、これ飲んだら今日は上がりなさい。」

「そうさせてもらいますわ。」

 紅茶を飲みながら、和泉は目と鼻の頭を赤くしている。

「元気出しなさい、と言っても、無理だろうけれど・・・・」

 吉田が声をかける。

「今回のケース、レビューは和泉、貴女が書きなさい。問題点を、残さず分析して、次の仕事に活かせるように。」

「はい、了解しました。」

 三十分後、まず和泉が、次に酒井が、事務所を後にした。吉田も事務所の明りを消しながら机を片づけていたから、すぐに帰宅するだろう。

 車で酒井は自分の自宅へ向かって高速道路を三十分ばかり走り、その後は一般道路を走り、一時間ほどで自宅のすぐ近くまで到着した。が、ふと思い立ち、車をUターンさせた。来た道を戻り、逆方向の高速に乗り直し、事務所へと戻る。

 事務所を出て二時間ほど後に戻ってきた酒井は、もちろん誰もいない室内を見て、自分で自分にあきれた。

「考えすぎやな。そやそや、何心配しとんのや、俺は。」

 しかし酒井は、自分が、懲りるということがあまりない性格であるということを、さらにその半日後に実感した。

 金曜夜の、渋滞しまくる道路をイライラしながら走り、自宅から二時間かけて再び酒井が高層ビルの事務所に到着したのは、もう日付が変わりかかった時刻だった。

 室内に入ると、誰もいない事務室にふさわしく、真っ暗だった。が、明りをつけるまえに、酒井は、奥のカンファレンスルームの扉からかすかな光が漏れていることに気が付いた。

 そのまま大股で事務室を突っ切って歩き、カンファレンスルームの扉を開ける。

「恭子さん、早く帰って寝ろって確か部下に言うてはったのに・・・」

 こちらに背を向けてテーブルに向かい、椅子に座って窓の外に目をやっていた吉田が、そのまま、少しだけ頭を上げた。

「なのに、ご自分がこんなことでは、いかがなもんですかな。」

 カンファレンスルームは、奥の壁が広いガラス窓になり、下界の街の光がよく見える。そして両脇の壁は天井まで書庫になっている。おびただしい数のファイルが整然と収納されている。

 吉田は入口の酒井のほうは見ず、ドアに背中を向けて座ったまま、そして反対側の窓の外に目をやったまま、低い声で答える。

「入るな。酒井。」

「・・・・」

 酒井は何も言わず、しばらくそこにいた。

 吉田も、長い間、黙って窓の外を見ていた。

 少しして、再び吉田の声が、酒井の耳に届いた。

「・・・我々は、よくよく考えて、この方は・・・と思える人を、お客様としている。」

「そうですな。」

「当然、お客様は、基本的に、良いかたばかり。何があっても、我々を責め立てるようなかたは、ほぼ、おられない。」

「そうですな。」

 頭を上げて、吉田は少し天を仰いだように見えた。

「だとすると・・・・誰がいったい、私たちを、責めてくれるのかしらね。」

 吉田の語尾が、かすかに震えたような気がした。酒井は、息をのんだ。

 さらに数分間も沈黙が続いたような気がした。

「恭子さん、今回の我々の仕事、間違うとったと、思てはりますんか?」

「間違い・・・・」

 吉田はまっすぐに窓の外を見たようだった。

「そうね、間違い。私が、いまさら・・・心底、怖くなったのは、間違うことというより、・・・・・誤りを犯しても、それを修正する人間がこの世のどこにもいないということね・・・。」

「・・・・そうですかな・・・」

「ごめん、恥ずかしいことだわ。」

「恭子さん、怖いって言いはりましたな。」

「・・・言った。」

「殺人事件をめぐる、人間の心の奥底っていうやつは、どんだけすごいか・・・・俺も、毎回、正直言ってびびりますわ。ほんまに、そうです。怖いのは、当たり前ちゃいますか。そんなものの前で、さらに間違いについて考えとったら、誰があの人たちのために仕事なんかできます?」

「私は、川西様を、はっきり今回、苦しめた。さらには、川西様を巻き込んで、新たな犯罪を生んだ。」

 酒井は沈黙した。吉田の言葉に、心の底から同意であると同時に、心底、不同意だった。

 さらに、とどめを刺すように吉田の言葉が続いた。

人殺し、がつくる人間の心の暗闇に、踏み込む資格は、自分にはないと、思う。」

 上司の命令に背くことになろうと、たとえ殺されようと、今すぐ部屋に入っていきたいと酒井は思った。しかし、辛うじて踏みとどまった。

「恭子さん、この仕事、辞めるつもりですか・・・?」

「・・・・」

 酒井は喉がつまり、声がかすれるのを感じた。しかし勇気を奮い起こして、言葉を続ける。

「夕べ、あのアパートで、ケガした新人警護員さんを抱きかかえた葛城さん、すごい目で俺を睨んでいかはりました。それがどんな理由であろうと血を流した後輩警護員を、守ることは、迷うこともない先輩警護員の責務です。そして同時に、そんな彼らは・・・・・あのクライアントの警護することについて、正しいと思うてはりましたかね?、果たして。」 

「・・・・・」

「思うてなかったんとちゃうか、と、俺は想像してますよ。正確な表現やないかもしれまへんけどな。少なくとも、なんの確信もなかったんとちゃいますやろか。」

「・・・・・」

「それでも、やる。そういうことですやろ。」

 吉田が、机の上で、うつむいたままじっとしていた。

 酒井が、足を一歩、踏み出した。

「・・・・入るな、酒井。」

「入りませんよ。でも・・・ここで、待ってます。何時間でもね。」



五 出直し


 日が暮れ、室内の照明が明るく見える四人部屋の病室の、奥のカーテンの中で、二人の先輩警護員がベッドの上の後輩警護員を見守っていた。

 ベッドから少し離れた椅子に高原が座り、その前、茂の頭近くのベッドサイドに、葛城が立って茂の顔を覗き込んでいる。

 茂は眠ったまま、顔を赤くして苦しそうにときどき顔を左や右に動かしている。

 高原が上体を伸ばし、葛城の体越しに様子を見る。

「なんかうなされてるなー。」

 葛城はさらに心配そうに、茂の額に手を当てた。

「熱があるから・・・。仕方ないと先生はおっしゃっていたけど、苦しいだろうな。」

 そのまま、葛城は自分の手よりずっと熱い茂の手を、握ってやる。

 そのとき、茂が、ぱちっと目を開けた。まず葛城を、次にその奥の高原を、順に見る。

 葛城が安堵したように声をかける。

「茂さん。」

 茂は、葛城のほうをもう一度見て、うわ言のように言った。

「・・・・治賀さんは・・・?・・」

「無事ですよ。警察で事情を聴かれていますが。」

 高原が腕組みし、そして足も組む。

「河合さあ・・・・・」

 茂が高原のほうを見る。

「お前、ほんとに、しょうがないやつだな。」

 葛城が黙って苦笑していた。



 葛城と高原は茂の病室を出て、エレベーターホールへと向かった。

「明日は俺は夜も仕事だけど、お前は様子を見に来られそうか?」

「ああ、大丈夫。それに、昼間はまたご家族が来られるそうだよ。」

「そうだな。」

「・・・・・」

「どうした?」

 エレベーターに乗り込むと、葛城が少しためらった後、高原に言った。

「英一さんは、どうして来ないんだろう。心配なはずなのに。」

 高原はちょっと考えた後、ドアのほうを見たまま答える。

「来られないとしたら、多分、負傷した茂のことが死ぬほど心配だからだろうね。」

「あの人は・・・愛情も、友情も、それが大きくなればなるほど、自分から表現できないタイプかな。」

 メガネの奥で少しだけ微笑みながら、高原が葛城のほうを見た。

「ああいうふうに、何から何まで完璧な人間ってさ、意外と、人間関係面は満たされない。彼によもやなにか弱さがあるなんて思う人間はいないだろう。弱さがない人間を、親友にしたい奴はいない。」

「女性関係もしかりかな。千人の女性に囲まれようと、この世で一番愛しているたった一人の女性を、手に入れることができなかったわけだし。」

「本当に心を許せる・・・親友と呼べる存在も、たぶん、いないんだろうな。」

「だから・・・怖いのか」

「まあ、大丈夫。きっと波多野部長がまた背中を押してくれるさ。」



 噂をすれば、二人の警護員が乗ったエレベーターの、すぐ隣のエレベーターの中で、長身の美青年が、短髪で似合わないメガネをしたがさつな男性に、腕をつかまれ拘束されていた。

 エレベーターが停止階で扉を開ける。

 三村英一は、波多野部長にほとんど押し出されるようにして、エレベーターホールへ降り立った。

 病棟入口で名前を記入すると、英一は観念したように奥の四人部屋へと入っていった。

 入れ違いに出てきた看護師に、茂の様子を聞く。

「今、眠っておられます。」

 足音をたてないように二人は奥のベッドに近づき、カーテンをそっと開ける。

 頭を冷やすものを枕の上に入れてもらい、茂が赤い顔をして寝息をたてている。波多野部長はベッドから少し離れた椅子に座った。英一はそれより茂の頭に近い、ベッドサイドに立った。

 茂を見下ろす英一の横顔が、予想以上に真剣なのを見て、密かに波多野は微笑んでいた。

 ずいぶん長い間、英一はそこに立っていたが、波多野部長は、茂が目を覚ましそうにもないので「そろそろ行きましょうか」と声をかけた。

 英一は、右手を伸ばし、汗で顔に張り付いた茂の髪を指でどけてやり、そして波多野のほうを向いて頷いた。

 波多野が茂のほうを見て言った。

「あ、目を覚ましましたよ、こいつ。」

 茂の透き通るような琥珀色の大きな目が、英一の漆黒の目を発見し、さらに大きく見開かれた。

「み、三村・・・?」

「そんな嫌そうな顔をするな、河合。」

「そうだぞ、茂。三村さんは、稽古を代講に変えて来てくださったんだから。」

 英一はちらっと波多野のほうを見て、そのことは言わないでくださいというような表情をした。

「そ・・・それは・・・どうもあり・・・」

「無理するな。俺が勝手に来ただけのことだ。」

「はあ・・。」

 相変わらず虫の好かない奴だと茂は思ったが、体が弱っているせいかあまり不快感にも力がこもらない。

「波多野さんに、お前が負傷した経緯を、少しうかがった。」

「・・・・」

「ばかだな。」

「・・・は?」

「会社でも相当バカだが、警護員としてのお前も、かなりのバカだと、わかった。」

「何言ってるんだよ一体・・・」

「まあ、会社の同僚としては、俺が同じ係でフォローしているから問題ないけどね。・・・・そして、いつか俺が、お前に言ったことがある・・・お前が、警護員に向いている、と。」

「ああ。」

「あれは、取り消す。」

「はあ」

「波多野さんが、今日、言っておられたから。河合は、警護員じゃなく・・・ガーディアンの、卵だって。」



 夜明けの清浄な光が窓から差し込んでいる。

 街の中心にある高層ビルの事務室で、朝一番だと思ってやってきた和泉は、既に事務室の応接セットに酒井が座って目を閉じているのを見て、驚愕した。

「台風と竜巻がいっぺんに来るかも・・・」

 酒井は朝が弱いので有名なのだ。

 しかし和泉は、あることに気が付いた。

「酒井さん、昨日と、服が、おんなじですね。」

 酒井は目を開けて、和泉のほうを見た。

「ああ、これか。そりゃそうや。ずっとあれからここにおったんやから。あー眠ー。」

「なんでですかー」

「いや、徹夜明けで眠いときって、車運転したらやばいかなーと思って、あの後やっぱりここへ戻ってきたんや。」

「はあ」

「そしたらまあ、誰もおらん事務室ってけっこう快適やからさ、ちょっと泊まってみた。」

「はあ・・・」

「それより和泉、お前異常に朝早いな。いつもこんなんか?」

「そんなはずないでしょう。今日は、昼までに片づけてからお客様宅へいかなければならない仕事があるので、早出なんですよ。」

「なるほど。」

「ところで、テーブルの上の吸い殻、ちゃんと片づけてくださいね。だいたい、事務室内は禁・・・」

「はいはい。」

 ゆらゆらと酒井は立ち上がり、灰皿を持ってパントリーのほうへ歩いていく。

「あ、そういえば今朝家を出る前、吉田さんからメールがありました。」

「そうか。なんやて?」

「次の仕事ですが、酒井さんと板見さんが組んで、私は調査担当でとのことです。遠方への出張になりますから、予備のメンバーもつけてくださるそうです。」

「了解や。」

 和泉は事務室内を見回し、昨日からカップやグラスが置きっぱなしになっている机からそれらを回収して、パントリーへ持っていく。

 灰皿を片づけて新しいコーヒーカップを探している酒井のとなりで、和泉が洗い物を始める。

「・・・・酒井さん、夕べちょっと、私、心配だったんですが」

「ん?」

「吉田さんのことです。」

「ああ」

「私が何度失敗して、落ち込んでも、いつも吉田さんは最後までフォローしてくださいます。でも、私は、結局いつも、吉田さんになにもしてあげられません。そんなこと思うほうがおこがましいのかもしれませんが・・・・いつも、なにもできません。」

「まあなあ・・・・ええんとちゃうか。なにもできへんことかて、あるわな。でも、そのことをわかってるだけで、ええ場合もあるやろ。」

「そうでしょうか・・・」

 和泉は洗い物を終え、パントリーから事務室へ戻り、ふと、カンファレンスルームの扉が半開きなのを見て、中のテーブルもチェックしに入った。

 カップやグラスの置き忘れはなかったが、テーブルの上に、カップの底のコーヒーの跡がついており、そして、足元の絨毯に煙草の灰が入口まで続いて落ちていることに、気がついた。

 しばらく考え、そして和泉は、パントリーでまだ探し物をしている酒井のほうを見た。和泉はそのまま、自然と自分の顔が笑顔になるのを感じた。



 茂の退院の日、高原も葛城も仕事を入れずに病院へ手伝いに来てくれた。それほど長期間の入院ではなかったが、荷物が思ったより多く、高原の車で茂のアパートまで運んでくれることになった。

 駐車場に車を入れて高原が病棟へ上がってくると、茂の病室から一人の女性が出てきた。手に茂の荷物のひとつを持っている。

 高原が病室の茂のベッドへ行くと、茂はほぼ荷物をまとめ終わったところだった。

「おい河合、あれは誰だ?」

「え?」

「今、病室を出てった女性だよ。お前のボストンバッグを持ってた人。」

「ああ、あれですか。あれは姉ですが。」

「なんだと!すっごい美人じゃないか!紹介しろ紹介しろ」

「姉は既婚者です。」

「なーんだ。」

 病室に入ってきた葛城が、あきれて声をかける。

「晶生、他人に頼らず自分の力で幸せはつかめよな。」

「不幸の星は黙ってろってば。怜、俺の車へ先にそこの荷物持って行っててくれ。」

 高原が葛城にキーを渡す。

 残りの荷物をまとめながら、高原が声をひそめて茂に話しかける。

「葛城怜の不幸の話、俺の最新情報によると」

「はい」

「たまにうまく彼女ができても、必ず一か月で破局するんだそうだ。」

「なんでですか?」

「あいつの美貌を気にせずつきあう女ってのは、基本的に、自分の容姿にそれなりの自信を持ってる女だ」

「ふむふむ」

「で、つきあって一か月もすれば、共に寝床で朝を迎えることにもなるわな」

「そうですね」

「朝が弱いあいつが寝坊してる姿ってのは、朝日に照らされた寝顔が、そりゃもう天使なんだってさ。」

「そうでしょうね・・・・。って、それって、なにか問題あるんですか?」

「それを見た後でだ、顔を洗おうと洗面所の鏡で自分の顔を見たとき、どんな美女も、自分が世界一の不細工に見えるんだそうだ。」

「あはははは!なるほど!」

 高原の顔が突然ゆがむ。

「く、く、苦・・・・!」

 背後から音もなく現れた葛城が、スリングロープで高原の首を絞めていた。

「なに話に尾ひれをつけている、晶生。」

「し、締めるならせめて気管じゃなく血管にしてくれ」

「安心しろ、一番苦しい方法で逝かせてあげるよ。」


 なんとか葛城に絞殺されるのを免れた高原が運転席でエンジンをかける。

 助手席の茂は、後部座席の葛城を振り返る。

「すみません、お二人とも、お時間をいただいてしまって・・・」

「いいんですよ、茂さん。今日は仕事は入っていませんから。」

「お前のアパート、事務所から割と近くだったよな」

 車が駐車場を出て走りだす。

「はい。」

「午後、気が向いたら事務所へ顔を出せ。俺たちも行く予定だからさ。」

「晶生!茂さんは病み上がりなんだから。」

「あ、大丈夫です、葛城さん・・・先生も退院後はなるべく歩いたほうがいいっておっしゃってましたし。」

「ケーススタディは大分できてきたから・・・・」

「はい」

「次は、鍵の開け方を色々教えてあげるよ。」

「はい、ありがとうございます。」

「俺はこの世に存在する鍵は、だいたい開けられるからねー。」

「そうなんですね。」

「開け方のバリエーションも色々お好み次第だ。開けたことさえわからない方法、ちょっとばれる方法、力ずくで破壊する方法。」

「・・・・・」

「茂さん、適当なところでやめておいたほうがいいですよ。」

「そうなんですか。」

「鍵屋を目指していないのであれば、晶生の技術を全部学ぶ必要はないです。こいつは、世界一の鍵マニアですから。」

「うるさいよ、怜。」

 車が明るい日差しの下、大森パトロール社のあるいつもの街並みへ向かって滑るように走っていった。


(第四話 おわり)

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ