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第三話 スプリット

一 大森パトロール社


 河合茂は、今度こそ金曜の夜を少しでも有意義に過ごそうと、平日昼間仕事をしている会社の、最寄駅の商業ビルに入っている、行きつけのバーへやってきた。先週は会社が終わってすぐに、「副業」の打ち合わせがあったので来られなかったが、今日を逃すとまた来週も来られなさそうなのである。

 髪を後ろできりっとまとめた、りりしくも可愛い女性バーテンダーがふたりもいるバーである。

 茂がカウンターに座ると、いつもは、ルックスはそれほど悪くないのに女性にもてなさそうな茂への憐憫の情を営業スマイルに隠した男性バーテンダーがちらちらとこちらを見るのだが、今日は、りりしく可愛い顔見知りの二人の女性バーテンダーたちが、こちらをときどき見ながら真剣な顔でなにか話し合っている。

 もしかして、ふたりのうちのどちらかが、自分に惚れたので告白の相談か?と期待した茂のところへ、背の低いほうの女性バーテンダーが意を決したようにしてやってきた。

「・・・こ、こんばんは、河合さん。今日は、何になさいますか?」

「えっと、いつもと同じ・・・モスコミュールで。」

「かしこまりました。」

 一度奥へ戻った彼女が、再び、少し遠慮がちにこちらへ戻ってきた。

「あ、あの、河合さん・・・・」

「なんですか?」

「ちょっと、立ち入ったことを、お尋ねしてもいいですか・・?」

「はあ。」

「河合さん、この間、すごーい美人を連れてらっしゃいましたよね。」

「?」

「ほら、珍しく、土曜の夜にお見えになった、先週。」

「あ」

「みんなで心配してたんです。河合さん、結婚詐欺にだまされてるんじゃないかって。」

「は?」

 茂は二〇秒ほど女性バーテンダーの心配そうな顔をぼんやり見ていたが、やがて、2トーンほど音程が下がった声で、きっぱりと答えた。

「・・・・あれは、仕事の先輩ですし、それに、男です。」


 平日昼間をしている会社と同じ最寄駅だが駅と反対側のビルの二階に入っている、大森パトロール社の事務所に、その後茂は一〇分後には到着していた。もちろん、大変不愉快なのであれから一杯飲んだだけでさっさとバーを後にしたからである。

 カードキーで従業員用出入り口から入ると、応接室からテレビの音がしている。波多野営業部長かと思ったが、部屋を覗くと、先輩警護員の高原晶生がテレビを見ながら麦茶を飲んでいた。

「やあ、河合。そういえば明日から出張だったね。京都だっけ?」

「はい・・・」

「どうした?なんか顔がこわいよ。」

 高原はすらりと背が高く、爽やかな短髪と快活で人好きのする笑顔に知的なメガネがよく似合う、高校の科学の人気教師のような容貌だ。しかし得意技は、鼻からストローでコーヒーを飲む一発芸である。そして、とてもそうは見えないが、茂と同じ、大森パトロール社の警護員であり、しかもさらにそうは見えないが大森パトロール社きっての有能な先輩警護員である。

 茂がバーでの不愉快な出来事について高原に話すと、高原はしばらくの間顔をゆがめて笑いをこらえていたが、すぐに限界となり、ソファにひっくりかえるようにして笑い転げた。

「あっははは。河合、お前注意したほうがいいよ。俺も、怜と一緒にうっかり外出すると、ひどい目にあう。とりあえず、全然女にもてないし。」

「はあ・・・」

「男だと言うと、まず最初は信じてもらえないし、信じてもらえた場合も、やはり恋人だと思われ、その誤解も解くのは至難の業だしだんだん面倒になるんだ。」

「彼女ができる道がどんどん閉ざされていくわけですね。」

「そうなんだよね。まあ、それ以上に、怜自身が女性に全然もてないから、まあ皆で公平に不幸だけど。」

「男だと知ってる女性にも、もてないんですか?」

「俺の数少ない経験から言えることは、女は恋人から綺麗だといわれたい生き物らしいってことだ。なのに、自分より段違いに”美人”の彼氏がほしいと思うか?普通。」

「なるほど。」

「あいつが、もしも女に生まれていたら、さぞや幸福な人生を送ったろうになー。」

「あんなに綺麗な顔に生まれたのに、自分も不幸で他人にも迷惑をかけるなんて、やっぱりなにかのたたりでしょうか。」

 そのとき、高原の視線が茂を越えて応接室の入口に向いた。茂が振り返ると、グラスふたつを持った葛城が立っていた。

「茂さん、なに晶生につられて色々他人のせいにしてるんですか。」

 固まった茂のかわりに、高原が答える。

「今、葛城怜被害者の会を結成したとこだからね。」

 葛城は高原を軽くスルーし、茂をたしなめるような目で見降ろした。

「もてるもてないと、ちゃんとした彼女ができるかどうかは、全然別の問題ですよ。」

 高原と茂は反論できなかったため、話題を変えた。

「怜、河合は出張警護は初めてだから、色々教えてやってくれよな。」

「わかってるよ。」

 葛城怜も大森パトロール社の先輩警護員だが、彼が高原に肉薄するような有能な警護員であること以上に、彼を特徴づけているのはその容貌だ。初めて警護でペアを組んだとき、茂は葛城の、文字通り美女と見紛うような、この世のものとも思えない美貌に慣れるまで数日を要した。髪を肩の下あたりまで無造作に伸ばしているのはおそらく顔を隠すためであろうが、顔を緩やかに覆う柔らかそうな髪も、結果的にその線の細い絶世の美貌をさらに引き立ててしまっている。なぜ彼のような人間が警護員をやっているのか、茂にはいまだにわからない。

 ただし茂自身が、なぜお前は警護員をしているのかと聞かれても、やはり答えはよく分からない。新米警護員の給料だけでは食べていけないので平日昼間は普通のサラリーマンをやっているが、そんな二重生活をしてでも、なぜやりたいのか、と聞かれたとしても。

 葛城はテーブルのピッチャーから、持ってきたふたつのグラスに麦茶を注ぎ、ひとつを茂に渡す。

「腕も脚も、もうすっかり大丈夫みたいだな、怜。」

「お前こそ」

「はははは、俺は切り方がうまいからね。」

 前回の警護で高原はクライアントを守るため自らの左腕を自傷し、また前々回の警護では葛城は襲撃現場の事故で左腕と左脚を骨折した。いずれもペアを組んでいたのは茂だが、これらのことは、二人の先輩警護員の、異常ともいえる仕事熱心さを茂に強烈に印象づけた。しかしそれ以上に、この二回の出来事の持つ意味が、別にあった。

「先週の最終打ち合わせと顔合わせで、確認事項はひととおり網羅してはいますが、そのほか、なにか今のところ、不明なこととかはありますか?茂さん」

 今日は本当は事務所に立ち寄る予定がなかった茂であるが、念のために葛城が聞いてくれる。

「出張は京都までの往復移動の警護だけということで・・・・現地を下見していないことは、問題ないんですよね。」

「そうですね。明後日の復路も京都駅のホームで待ち合わせですから・・・。京都でずいぶん時間が空いてしまいますが、臨時の警護依頼がある可能性もありますので、念のため心づもりはしておきましょう。」

 高原がもの言いたげな顔で見つめているのをしばらく葛城は無視していたが、根負けしたように苦笑して高原の顔を見返した。

「わかったよ、説明するから、そんなに見るな。」

「さすが怜。話が早いね。」

「本当はだめなんだからな。」

 高原は後輩警護員の茂が今回どんな警護をするのか知りたいのである。本来、クライアント(警護依頼人、警護対象者)のプライバシー保護のため、警護内容は担当する警護員以外は同じ大森パトロール社の人間でも不必要に共有することはしない。しかし新米警護員の茂の育成熱を前面に押し出す高原に迫られると、前回の警護でもその茂に色々逆に助けられた葛城としてもあまり邪険にできない。また、高原くらいの上級の警護員となると、前回同様にいつメイン警護員として自分のピンチヒッターに入ってもらうかもわからないともいえるし、そもそも高原はおおむね大方波多野部長に聞いて知っていそうである。

「クライアントは、今回は、警護依頼人と警護対象者が別の人間だ。警護対象は宇目田女学園理事長の笈川比沙子氏。警護依頼人はその息子さんの笈川光男さん夫婦。比沙子氏は一人暮らしだが、一か月ほど前から、電話での脅迫が比沙子氏の携帯電話宛てに三回あった。最初の二回は本人が出たが、二週間前の三回目は息子さんの光男さんが比沙子氏の携帯に出たとき確認。三回とも女性の声で、内容は同じ。”○月○日までに、あなたを、再起不能なまでに傷つける。”」

「○月○日・・・一週間後だね。」

「三回目の脅迫の後、うちに警護依頼があり、月曜日から移動時警護を開始した。自宅と学園との間。通勤は車だから、メイン警護員が同乗するかたちだ。サブ警護員の茂さんには基本的には毎日オートバイでの並走をお願いしている。今日は明日の出張の準備もあり、学園は休んでおられるので警護はなかったが、明日と明後日は、京都本校での式典のため一泊で京都へ行かれる。クライアントのご指定により、明日の自宅から新幹線の京都駅までと、明後日の逆行程の、同行警護になる。」

「京都本校と京都駅との間は、学園関係者が大勢随行するそうで、警護は無用とのご指定です。」

「ふうん・・・じゃあ、土日の出張が無事に終われば、あとは来週の月曜から・・・金曜までで、おしまいということだね。」

「はい。もちろん、いつものように葛城さんが水も漏らさぬルートマップを作ってくださっていますし、しかも今回のクライアントは予定外のコースは絶対にとらないので、非常にスムーズです。」

「脅迫者に心当たりはあるのか?クライアントは。」

「依頼人の光男さんご夫婦はもちろんまったく心当たりなし。警護対象の比沙子さんに尋ねたそうだが、本人もなんのことか全然わからないそうだ。」

「その○月○日という日付に意味は?」

「それもないそうだ。設立記念日が近いがそれは明日だしね。」

「なるほどね・・・」

 茂は今回のケースは単なるいたずらなのではないか、と思う面もあったが、二人の先輩警護員の口からはそういう言葉は一切出ない。これは警護員の暗黙のルールなのか、あるいは、本当にこれは犯人に犯意があるという、先輩警護員の勘なのか。

 高原が、おもむろに話題を変えた。

「そういえば河合、今日は例のバーでろくなことがなかったが、三村英一には会わなかったのか?」

「あ、そうですね、そういえば。」

「ならよかったじゃないか。それだけでも、幸運といえるんだろ?」

「そうですね!」

 茂は確かにその通りだと納得し、麦茶を飲んでしまうと二人の先輩警護員に挨拶し、事務所を出た。

 茂が帰った後、応接室のテレビを消し、高原が少し葛城を斜に見ながら言った。

「怜、お前最近よく、用もないのに事務所に来てるよな。」

「なんだよ、いきなり。」

「それは、最近よく河合が、用もないのに立ち寄ることが増えたせいだよね?」

「・・・・」

「あいつに、色々期待し始めてるんじゃないか?怜。」

「・・・そうかもしれないね。」

「もちろん、あいつには十分な素質があると思う。ただし、忘れるな。過去の・・・・厳然たる事実をね。」

「わかってるよ。でも茂さんは、大丈夫だと、思う。きっと。」


 茂は大森パトロール社の事務所が入っているビルを出ると、すぐ近くの駅へと向かう。二筋歩き、横断歩道の階段を上がろうとしたとき、後ろから若い女性の声で呼び止められた。


 一時間ほど前に茂が不愉快な扱いを受けていた、駅前の商業ビルに入っているバーのカウンターに、長身の美男子がひとりで座った。女性バーテンダーがふたりともやってきて、争うように注文をとる。

「三村さま!しばらくぶりですね!今日は何になさいますか?」

「いつもの水割りでよろしいですか?」

 三村英一は昔の映画俳優のような整った顔に、端正な笑みを浮かべて、頷いた。背の低いほうの女性バーテンダーが飲み物を準備し始め、もう一人の女性バーテンダーがさらに話しかける。

「先日は、また公演のチケットをいただいてしまって、すみません。とっても良かったです!」

「それは、ありがとうございます。楽しんでいただけて、何よりですよ。」

「今日はちょっと遅いお越しですよね。残業ですか?」

「そうなんですよ。」

「同僚の河合さんが、またなにかやらかしちゃったとか。」

「あはは・・・」

 英一は茂が平日昼間に勤めている会社の、入社同期の同僚である。そして入社年次だけでなく、会社以外に仕事を持っているということも、その業界はまったく異なるものの二人は共通していた。

 二人の女性バーテンダーを適当にあしらいながら、英一は左手の、大きなガラス窓に目をやった。天井から床までガラス張りになっていて、6階建ての商業ビルの最上階であるここからは地上の景色がよく見える。線路を挟んだ、駅の反対側に、小さな雑居ビルの二階に小さく控えめに「大森パトロール社」という看板が出ているのが、よく見るとわかる。

「あの」

 今度は英一が女性バーテンダーに話しかけた。

「はい!」

「河合はよくこの席に座ってるんですか?」

「そうですよ。決まってここですねー。」

「なるほど。」

 ここからは、大森パトロール社の事務所の明りがついているかどうかが、ちょうど見える。

「そういえば」

 背の高いほうの女性バーテンダーが言った。

「今日も河合さま、おみえになってましたよ。三村さまにだけ残業させて、ひどいですよねー。」

「そうですか・・・」

 英一の言葉が途切れた。

 線路の向こうの、横断歩道の階段の前で、一旦階段を上ろうとした茂がおもむろに振り返り、ひとりの女性と立ち話をしたかと思うと、すぐに脇道へと入っていった。

 英一は一瞬考えた後、さっと立ち上がり、カウンターへ現金を置くと足早に店を出て行った。



 茂が振り向くと、ブラウスにカーディガン、フレアスカートという格好の、一人の若い女性が右肩にトートバッグを持ち、茂を見つめていた。

「河合茂さんですね。私、和泉と申します。」

「なにか・・・御用ですか?」

 和泉という女性は、ふんわりとした微笑みを浮かべた。目線がほぼ水平に合う。身長一七〇センチの茂とあまり背丈が変わらないから、女性にしては背が高いほうだ。

 そして彼女は、容貌的にも、なんとなく茂を女性にしたような感じだった。長めのショートカットの髪が少しの風でもなびくような絹糸のような茶髪であることも、取り立てて顔立ちが美しいということはないが愛らしい童顔で、そして目が透き通る淡い琥珀色であることも。

 しかし茂との大きな違いは、全然日焼けしていない茂と違い、夜目にもわかる健康的な小麦色の肌をしていることだった。

「大森パトロール社の警護員でいらっしゃる河合さんに、ひとこと、今、申し上げたいことがあるんです。」

「・・・・・」

 茂は答えない。

「明日から、京都へご出張で、ご準備もおありでしょうからお時間は取らせません。貴方がたのクライアントの笈川比沙子さまを、貴方が本当にお守りできるかどうか、そのことについて、ちょっとお話したいだけです。」

「・・・・」

「ここは人目につきます。こちらへ、いらしていただけますか?」

 和泉は後ろの路地裏を差した。茂は頷き、和泉の後ろからついて歩き、脇道へと入っていった。

 雑居ビルに囲まれた狭隘な三角形の公園の、小さなブランコの前で、和泉は立ち止まった。変わらぬ柔らかい微笑みのまま、振り返った彼女はそのまままっすぐに茂を見つめ、言った。

「お伝えしたいことは、ひとつです。・・・・大森パトロールさんには、笈川比沙子さまのような人は、守れません。」

「どういうことですか?」

「笈川さまを傷つけようとしている人間は、合法的な方法で、それをしようとしているからです。」

「・・・・?」

「そのことが、まもなく明らかになります。そして、大森パトロールさんは、笈川さまを見捨てるでしょう。」

「なにを言っているんだ?」

「見捨てる、と申し上げたんです。」

「!」

「それが合法的な方法であっても、違法な方法と同じかそれ以上に、笈川さまに致命傷と言ってよい傷を負わせます。笈川さまを、お守りする必要があります。でもそれができるのは貴方がたではありません。私たちです。」

「どういう意味だ・・?」

「大森パトロール社さんは、すべての、違法な攻撃の対象となる人間をクライアントとし、そして、クライアントを違法な攻撃から守るために、違法なこと以外はなんでもやります。」

「・・・・」

「でも、笈川さまは、このいずれにもあてはまりません。ですから、お守りできるのは、そのために手段を選ぶことがない者・・・私たちです。」

「・・・・」

 茂の脳裏に、前回の警護で高原を組み伏せクライアントを脅迫し罪を自供させた人間たちのことが蘇る。その前の警護で、英一を襲撃犯から一〇〇%守るために彼を欺罔し監禁した人間たちのことが、蘇る。

「私たちは、必要ならば、殺人もします。」

 茂の両目が大きく見開かれるのと同時に、和泉はトートバッグのキーホルダーの留め金を右手で切り、ペンを回すように滑らかに回転したその手に、一瞬で銀色のバタフライナイフが光る刃をむき出しにした。

 茂は反射的に身構えた。

 和泉の透き通るような琥珀色の両目に、似合わぬ凶暴な光がよぎったのは、ほんの一~二秒間だけのことだった。

「必要ならば・・・。例えば、病的な連続殺人犯からお客様をお守りするために、犯人を殺すほかない場合が、あります。」

 和泉はすっかり穏やかさを戻した目で、微笑み、ナイフを畳んでもとのキーホルダーの留め金にもどした。

 茂は構えを解きながら、さっきよりもさらにもう一段硬い表情で和泉を見つめている。

「今日、お話したいことはこれだけです。お時間をくださいまして、ありがとうございました。次は、京都でお会いしましょう。」

 和泉は一礼し、歩き始めた。茂の横を通り過ぎ、振り向いた茂にしばらく背中を見せた後、自分も振り返り、去り際に言った。

「京都では、たぶん、もう少しきちんとしたご挨拶ができると思います。」

 和泉は踵を返して、表通りのほうへ歩き去った。

 茂はずいぶん長い間、そのまま公園にぼんやりと立ち尽くしていた。ほんのすぐ近くで、会社の同僚の仲の悪い男・・・三村英一が、自分たちの話を立ち聞きしていようとは、もちろん気づく由もなかった。茂は警護員として基本的な注意力は有しているが、英一が気配を消すことが異常に上手いのは、高原の前回警護のときに証明済である。それは、英一が日本舞踊の名手であるからか、あるいは剣道の有段者であるからか、または別の理由によるものなのかは、よくわからない。

 しかし英一自身にもっとわからないのは、なぜ自分があの後すごいスピードでここまで来て、茂たちの話を盗み聞きしようと思ったのか、だった。物陰に隠れて。基本的には嫌いな人種であるボディガードたちの、真似事までして。



二 京都


 翌土曜日の朝、笈川比沙子の自宅へ葛城が到着すると、門の脇に、既に茂が待っていた。

「おはようございます。」

「おはようございます、茂さん。」

 タクシーが既に門の前に待っており、インターホンから笈川光男氏の声がする。

「今、行きますので。少しお待ちください。」

 クライアントを待ちながら、葛城は、茂の言葉数が少ないことに気がついた。

「茂さん、体調が悪いですか?もしかして」

「あ、いえ、そんなことは・・・。そうではなく・・・」

「・・・?」

 葛城が、常人離れした美しい両目を少し大きく開いて、茂の顔を見る。茂はすんでのところで夕べの出来事を全部話してしまうところだったが、思いとどまった。

 数分後、白髪の女性と、中年男性が玄関から階段を下りてきた。比沙子氏と、息子の光男氏だ。比沙子氏はよく整えられた白髪のせいでかなり高齢に見えるが、近くで顔を見ると意外にそれほどの年齢でもないようにも見える。光男氏は比沙子氏によく似た、細見の大人しそうな男性だ。

 タクシーは二台呼んである。一台目に、後部座席に比沙子氏を挟んで葛城と光男氏が乗り、二台目は助手席に茂だけが乗る。個人レベルの警護を行う場合の、基本的な位置取りである。それは新幹線でも同様に守られる。グリーン車の最前列窓側に、座席を回して比沙子氏と向き合って光男氏、二列目窓側に比沙子氏、その隣に葛城、そしてさらにその後ろの三列目の窓側に茂が座る。光男氏と茂のそれぞれの隣の席も指定席をとってあり、空席にしてある。

 光男氏は、ななめ向かいの葛城に時折話しかける。

「母は、京都は久々なんですよ。本校所在地なのに意外でしょうけれど、現地スタッフがしっかりしてますからね。」

「そうなんですね。」

「今回は設立三十周年式典ということで、本校側からどうしてもと言われましたが、特にこういう状況でもありますし、代理で済まそうかとも思いました。」

「遠出はやはり不安ですよね。」

「でもおかげ様で、安心して出かけることができます。あと一週間・・・何事もなく早く過ぎてほしいです。」

 ときどき、窓際の比沙子氏が、息子をたしなめる。

「光男、あまりおしゃべりばかりしているんじゃありませんよ。警護のお邪魔になります。」

 早い時間のグリーン車は、乗客はあまり多くない。場が静まり返るたび、茂は、耳のすぐそばで昨日の和泉の言葉が蘇る気がして、その都度強く頭を振って警護へ集中しようと努めた。

・・・・「京都では、たぶん、もう少しきちんとしたご挨拶ができると思います。」・・・・あれは、どういうことなのか。京都での大森パトロール社の警護の目的は、昼前に行われる式典へのクライアントの出席だが、なにかその式典の場で、起こるとでもいうのか。警護時間の空白で。警護員がいない隙に。

 社内アナウンスが、京都への到着を告げた。静かに京都駅のホームへ新幹線が滑り込む。一同は光男氏を先頭に、茂を最後尾にして、ホームへ降り立つ。

 ホームのかなり先で、迎えに来た学園関係者らの代表らしい二人の中年女性がきょろきょろしている。光男氏は彼女たちに手を振る。

 光男氏が笑って葛城を振り返る。

「もう、○○号車だって言ってあったのに、あんなところで待って・・・」

 しかし葛城の顔は、光男氏を見てはいなかった。茂は背筋に冷たいものが走るのを感じた。

 一瞬の隙に、比沙子氏が姿を消したのだ。

 どこへ?

 目の前のエレベーター、小型店舗、階段、瞬時に目を配った茂の左手を、葛城が強くつかんだ。

「えっ!」

 葛城は茂を無理やり引っ張るようにして、扉が閉まりかけた新幹線へ再び飛び込むように乗り込んだ。

 光男氏が振り向いたときは、新幹線はゆっくりとホームを滑り出していた。さっきまで座っていた車内の様子は、窓のブラインドが下ろされているため見えなかった。ホームに残された光男氏と二人の学園関係者は、何が起こったのか理解するまでにあと1分程度を要した。

 閉まった扉に挟まれた髪の毛を必死で引っ張って外し、茂は葛城の後についてグリーン車の車内へ戻ろうとしたが、自動ドアのはずの扉が開かない。

 車内の光景が、ドアのガラス窓越しに、葛城と茂の目に入ってきた。

 乗客は、誰もいない。いや、一人だけ、見える。向かって右側、こちらから二列目通路側の席の、通路側の肘掛に、長身の男性がスツールにでも座るように腰かけていた。服装は普通のプライベートな旅行者のそれであるが、不審な点が三点あった。サングラスタイプのスポーツゴーグルのために、目がほとんど隠れていること。両手に、緋色の旗のようなものを持ち、反対側の席に向かって広げて見せていること。そして、無精ひげに囲まれ煙草をくわえたその口元が、楽しくてたまらないというように笑っていることだった。

 茂たちには見えなかったが、無精ひげの男の視線の先には、もとの窓際の席に戻った笈川比沙子氏が座っていた。

 男は比沙子氏に話しかけていた。

「すんまへんねえ。俺は、交代した警護員やありまへん。」

「・・・・では、誰ですか?」

「ちょっと、ごあいさつに伺った者です。」

 緋色の旗は、校旗だった。そこに、○月○日、と日付が黒く書かれている。比沙子氏がわずかに顔色を変えた。

 男が、ゆっくりと、旗を半分に引き裂いた。同時に、ドアのほうから何かを強打する音がして、最前列の席の上で持ち手がドアを押さえていたスーツケースが大きな音とともに床に落ち、扉が開いた。

 次の瞬間、葛城は男とクライアントとの間に左半身を滑り込ませ立っていた。

 男は、感心と興味が混ざり合ったような、楽しそうな表情で目の前の葛城を見た。葛城はゴーグル越しにわずかにうかがい知れる、男の不敵な目を見返す。

「グリーン車は、禁煙ですよ。」

「それは失礼。」

 ゆっくりと床に両足をつけて立ち上がり、葛城のほうを見たまま、男が煙草を肘掛の灰皿へ押し付ける。葛城が身構える。茂も援護の態勢を整える。

 男はさらに楽しそうに、笑った。

「そう慌てなさんな、大森パトロールの葛城さん。」

「あなたは、どこの誰です?」

「なんでそんな怖い顔しますねん?俺、なんも悪いことしてまへんで。ただの通りすがりの、旅行者や。ちょっと退屈やったから、このオバはんと面白い話したかっただけですがな。」

「扉を開かないようにして?」

「ん?あれえ、おかしいなあ。新幹線が揺れて、スーツケースが倒れてもうたんやな。」

 男は葛城の顔から目線を外さずに、その後ろにいる比沙子氏に話しかけた。

「おばはん、ほな、なんか邪魔が入ってもうたんで、これで失礼しますわ。でもなんか、おばはんも色々、大変そうでんな。」

 比沙子氏が座ったまま口を開いた。

「いいえ、大変なことなど、なにもありません。」

 数秒の沈黙のあと、くっくっくっと男がさっきとは違う笑い方をした。

 改めて、今度は葛城に向かって、男が言った。

「それにしても、やっぱり大したもんですな、大森パトロールさん。まさかもう一度乗ってきはるとは、思いませんでしたわ。」

「車内へ戻ったとしか、あの場合考えられませんから。」

 ひゅっと短く口笛を吹くと、男はそのまま車両後方、つまり葛城と茂が入ってきた扉とは反対側の扉へ向かって、ゆっくり歩き始めた。

 ドアの少し手前まで来て、振り返り、首を少し傾けておどけた表情をする。

「ああ、そう、さっき葛城さん、お尋ねでしたな・・・俺が、どこの誰や、って。」

 葛城は黙って男のほうを見つめている。

「もしかしたら・・・お宅のお客さんを狙うとる人間の、使いかも、しれまへんな。もしもそうやったら・・・・・」

 男の、薄い皮手袋をした右手が、ゆっくりと上がり、胸の前から左肩の前へと、位置を変える。

「気いつけはったほうがええですな。ケガするかもしれまへんで。・・・次回は、ね。」

 左肩の前から、流れるようにその右手が弧を描いた。何かが弾丸のように空を切り、とっさに左側によけた葛城の頭がそれまであった場所を貫いて、細い銀色のものが前方の扉のガラス部分にぶつかって、床へ落ちた。

 細く華奢につくられた、ダガーだった。刃ではなく柄のほうを先にして投げられていた。しかしそれでも、葛城の右耳の横をかすめたとき、その刃が切り落とした髪の毛数本が、宙を舞い床へ落ちていった。

 葛城が再び態勢を整えたとき、もう男の姿はなかった。

「葛城さん!大丈夫ですか?」

 茂が駆け寄る。

「大丈夫です。」

「追いましょうか?」

「無駄でしょう。まもなく新大阪に着きます。終点です。みつけることは、不可能でしょう。」



 上りの新幹線が京都駅に到着し、電話連絡してあった笈川光男氏と学園関係者に笈川比沙子氏を引き合わせると、式典後に今回のことをホテルに説明に行く旨約束して茂と葛城はいったん警護業務を終えた。

 自分たちが宿泊するほうの、駅前のホテルに歩いて向かいながら、茂は葛城が何も言わないので話しかけることができずにいる。不思議なことに、昨夜あの茶髪の可愛い女性から聞いた不穏な話とさっきの出来事とがどう考えてもつながっている、その事実よりも、目の前の葛城がずっと押し黙っていることのほうが、茂を不安にさせていた。

 ホテルのフロントで茂がチェックインの手続きをして、二人が同じフロアの別々の部屋へ入るときも、向かいの部屋のドアを開けた葛城は茂に「では、一時になったら出ましょう。」と言っただけだった。


 土曜日の昼時は、雑居ビルに囲まれた狭隘な三角形の公園にも、子供の姿が見える。少しだけその前で立ち止まった後、再び表通りに戻り、通りに面したビルのひとつに入る。英一は初めてアポイントをとって大森パトロール社の事務所へと向かっていた。

 二階入り口のインターホンを押すと、英一とほぼ変わらぬくらいにすらりと背の高い、メガネをかけた好青年が出迎える。

「いらっしゃいませ、三村さま。」

「急にお電話してすみません。」

「いえいえ。さあ、どうぞ。」

 高原が英一を応接室に案内し、ソファに座るよう進め、テーブルの上のグラスふたつにピッチャーから麦茶を注ぐ。

「腕の傷はもう大丈夫なんですか?」

「ありがとうございます。ずいぶん派手に血が出たんで、切った自分もびっくりしましたけどねー。あっはっは。」

「聞いていたこちらもびっくりしましたよ。」

 高原は、人柄の良い科学者のような、理知的なのに愛嬌のあるアーモンド形の両目で、ちょっと顔を傾けながら目の前の映画俳優のような美青年の顔を見る。メガネの奥のその目が、さて今日はなんのお話ですかね、と興味深げに訊ねている。

「電話でも申し上げましたが・・・もちろん、警護のお願いの話ではありません。その点お許しください。」

「はい。」

「河合茂は、今、警護業務をしていますね。おそらくは、葛城さんと一緒に。京都で。」

「なぜそう思われたんですか?」

 一応型どおりに高原は尋ねる。

「河合が言ったからじゃありません。あと、葛城さんと一緒、というのは単なる俺の推測です。」

「では残りは誰から?」

「昨夜、聞きました。・・・・前回の警護で、貴方が負傷する原因となった、あの人間たちの、ひとりからです。」

「・・・・・?」

「その前に・・・。今日、三村蒼風樹のところで、彼女から話を聞いてきましたが、そのことからお話ししなければなりません。彼女のことは口外されない約束で、この話を聞いてくださいまか?」

「・・・・はい。」

 前々回の警護で、葛城と茂が英一を警護したとき、蒼風樹の依頼で英一を監禁した人間たちがいたことは、もちろん高原も知っている。葛城が瀕死の重傷を負ったこの警護のことは、ひととおり波多野営業部長から内容を聞いていた。

「蒼風樹が知人の紹介で、ある探偵社に相談したとき、そこから説明に来た人間が、言った言葉は・・・こういう感じだったそうです。”お客さまの大切なご親戚を、お守りするには、今ご依頼されているという大森パトロールさんでは、たしかにちょっと不足かもしれません。”」

「・・・・」

「”・・・あの人たちは、どんな場合も、絶対に、違法なことはやらないからです。でも我々は、お客さまをお守りするために真に必要なことであれば、違法なことも実行します。そして、お客さまには、絶対にご迷惑はおかけしません。”」

「・・・・」

 高原はもちろん覚えている。前回警護で、守る価値もないようなクライアントをなぜ守るのかと聞かれ、自分が英一に言った言葉・・・「我々は自分たちの責務は、なにかを判断することだとは思っていません。」「一人ひとり、正義は違うということです。ですから我々が基準にするのは、法であり、それ以上も以下もありません。」「違法な攻撃の被害に遭いうる人間は、すべて我々のクライアントになりえます。そして我々は、クライアントを守るためには、違法なこと以外はどんなことでもします。」・・・。

 しばらく黙って高原の顔を見てから、再び英一は口を開いた。

「昨夜、このビルのすぐそばで、河合に、ほぼ同じことを・・・蒼風樹が言われたこととほぼ同じことを・・・言っている人間がいました。」

 高原の表情が初めて変わった。

 英一は、昨夜自分があの公園で見聞きしたことを、正確に全て話した。

 聞き終わった高原は、英一の予想をさらに上回るほど長い間、黙っていた。英一がしかしそれ以上に意外だったのは、高原がやがてなにか合点がいったような顔で、英一の顔を見たことだった。

「なるほど・・・」

「高原さん?」

 高原は、一旦自席に戻り、携帯端末を持って戻ってきた。メールボックスを開き、既読メールのいくつかを表示させ、そして驚いたことにそれらをそのまま英一に見せた。

「ご迷惑でなければ、これを見てください。」

 葛城からついさっき高原宛てに届いたばかりのメールだった。そこには、京都駅に着いた新幹線で起こったことが、正確に報告してあった。



 茂は三十分ほど我慢した後、どうにも不安に耐え兼ね、ホテルの自室から廊下に出ると、向かいの葛城の部屋のドアをノックした。すぐに返事があり、ドアが開く。

「どうしました?」

 葛城の表情はさっきよりは少し穏やかになっているように見えた。

「いえ、あの・・・ちょっとお話、いいですか?」

「はい。」

 茂の部屋と左右逆だが同じつくりの、狭いが小奇麗なシングルルームは、ベッドだけで部屋の面積のかなりが占められている。茂が部屋に入ると、葛城はちょうど湯を沸かしていたポットで二人分の緑茶を入れて、ひとつを茂に渡してテレビの前の椅子をすすめ、もうひとつを自分が持ち自分はベッドの上に座った。いつもならば茂が何か話があるときはこの後じっと茂の顔を見るところだ。しかし今の葛城は、左足をベッドの上でまっすぐに伸ばし、右足のひざを立てその上にのせた右腕で湯呑を持ち、湯呑の縁あたりを見つめたままじっとしている。

 茂は、思い切って口を開いた。

「今日、新幹線にいたあの男、俺たちの前々回の警護のとき、英一を監禁して拘束していた奴です。」

「・・・・」

「はっきり覚えています・・・今日はゴーグルをしていましたが、見間違いの余地はありません。そして葛城さんも、あのマンションの廊下で、声だけはお聞きになってますよね。」

「・・・はい。覚えています。」

「ということは、おそらく、前回警護で高原さんのクライアントを危険に曝し、高原さんを負傷させた人間たちとも、同じ奴らということです。」

「そうですね。」

「なんとかして、奴らの正体をつきとめることはできないんでしょうか。あんなに露骨に、挑発してきている、あいつらの。」

「挑発。まさに、そうですね。」

 葛城は茂のほうを見ずに少し顔を曇らせた。

「葛城さんや、高原さんの邪魔ができるような奴は・・・今までいなかった。奴らのほかには。でも、それはつまり、奴らならこの先も・・・」

「そうです。」

 小さく鋭い声で答え、葛城が茂のほうを見た。茂は、葛城の表情を、なんと理解してよいか分からずその目を凝視した。穏やかさに包まれた、かすかな苛立ち、不満、そして・・・少しの自虐が、しかし確実に混じっていたことが茂を驚かせた。



 高原が、ソファにもたれ、ため息交じりの微笑みを漏らす。

「後から考えれば、何も特別なことはしていない・・・ちょっとしたことしかしていない。それでも、厳然たる事実は、奴らが大森パトロール社の敏腕警護員を欺いたということです。」

「たしかに、後から考えれば、ですが、非常に普通というか・・・」

「普通で、そして古典的な、手法ですね。奴らは比沙子氏に、息子の光男さんのメールアドレスからの発信を装った偽メールを、数日前から毎日送っていた。新幹線の中にも、そして京都駅のホームにも襲撃犯が潜んでいる可能性を考え、京都で降りるふりをして、自分だけ新幹線に戻るようにと。自分が頼んでいるもう一人の警護員が車内で待っているからと。」

「そういうことって、意外に信じてしまうものなんですね。」

「やり方によりますけれどね。息子さんの言うことは、わりと聞いてやるタイプのお母さんなんでしょう。そういう、相手の特徴を細かく考えた上での、シンプルな仕掛け。そして・・」

「京都駅のホームに降りたところで、警護はいったん終了する。そのほんの少しの心の隙を、最大限についた。」

「そうです。大胆で、かつ、芸が細かい。京都駅のホームで待つ学園関係者に、奴らのうちの誰かが、到着車両の場所を誤って認識させた。ホームに降りた一行の注意をひくとともに、学園関係者から一番みつかりやすい比沙子さんを彼らの目から遠ざけた。さらに、グリーン車のあの車両の、京都駅以降の座席を全部買い占めた上で検札係の足止めをしたなり、あるいは買った席を直前にリリースするなりして、あの瞬間あの車両を無人にしたんでしょう。・・・こういうことを、たったひとつの目的のために、やったということですね。」

 英一は、息をのむ。

「たったひとつの・・・・」



「クライアントの心理と、警護員の心理とをよく考えた、しかけです。完全に欺かれました。」

 葛城はさらに顔を曇らせる。

 茂は心配になり、言葉を挟む。

「でも、葛城さんは完全には欺かれませんでした。ちゃんとそのしかけに気付いて、車内に戻られました。」


「タイミング的には完全にアウトです。もしもあの男が本気でクライアントを狙っていたら、簡単にやられていました。」

「・・・・あの短時間で、あの男は窓のブラインドを降ろして入口のドアをスーツケースで固定した・・・わけですね・・。」

「そしてもっと恐ろしいことは、彼らが今日のことを準備するその時点で、もう、クライアントを脅迫している犯人をつきとめていたことです。」

「・・・・あの、日付の入った、校旗ですね・・・」

「脅迫犯の指定の日付でした。そしてそれを校旗に書き、さらに二つに裂く、このことが、クライアントに犯人が誰か認識させると、彼らは知っていた。つまり彼らが犯人を知っているということです。」

「どうして・・・」

「必要な作業は、単純です。ただその量が、天文学的です。クライアントの経歴を全部調べ、膨大な可能性の中から最後におそらく学校設立の経緯に焦点をあて、ある人物にたどりついた。そして脅迫の動機と犯人の意図を分析した。長くともわずか二週間程度で、これらの作業をやってのけた。」

「なんのために、そこまで・・・・」

 言いかけて、茂はぎょっとして言葉を詰まらせた。葛城は茂の様子に気づき、その顔を見た。

「茂さん?」

「いえ・・・その、そんなエネルギーをかけてまで、なにをしたいのかと・・奴らは。」

「普通に考えれば、我々からクライアントを奪い、自分たちが受注しようとしている、ということになるのでしょう・・・。」

「しかしそれにしては、先行投資が高くつきすぎています。」

「そうですね。」



「それがなんであるかは、明らかですね。」

 高原は抑揚のあまりない言い方で、しかしはっきりと言った。

 英一は高原のメガネの奥の理知的な目を、じっと見ていた。高原が言葉を続ける。

「我々への、露骨な威嚇です。それが一番の目的なんでしょう。それはつまり、我々の有能なガーディアンを目の前で欺き、さらにはクライアントを脅す犯人を指し示して見せ、自分たちの存在を、デモンストレーションしたということ。」

「最後に、葛城さんに向かってナイフを投げたのも・・・」

「謀略と、調査の物量的能力と、このふたつだけではなく、実力行使もできる。三つを兼ね備えているという、アピールなんでしょうね。」

「するとこの次は・・・」

「はい。おそらく、クライアントに、接触してくるでしょう。」



 約束の時間に、茂と葛城はクライアントの宿泊しているホテルに到着した。ロビーへ迎えに出た光男氏が二人を案内し、広々としたスイートルームへ三人が入ると、部屋着に着替えた比沙子氏がソファから立ち上がって出迎えた。

 部屋の中は、花のよい香りが立ち込めていた。大小のおびただしい数の花束が窓下に置かれている。式典のお祝いだろう。

 ルームサービスのコーヒーがテーブルに置かれる。光男氏はソファに座るなり、口火を切った。

「わざわざありがとうございます。実は今日の新幹線でのことについては、あの後、母から聞いた話で状況は私もよく把握できました。・・・母がすっかり騙されてしまったために、葛城さん河合さんには大変なご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありません。」

 比沙子氏と光男氏は一緒に頭を下げた。

 茂と葛城は恐縮して、さらに深く頭を下げる。

「いいえ、あれは我々警護員の、至らなさが原因です。我々のほうこそ、お詫びしなければなりません。」

 窓の外は、昼過ぎの強い日差しを遮るものもない、青空が見えている。少し前の、不審な出来事が、まるでフィクションの世界のことだったように、日の光がまぶしい。

 しかし、光男氏の青ざめた顔は、彼が新たな問題を、それも重い問題を抱えたことを物語っていた。

「すみません、新幹線の件のご説明をいただくというお約束でしたが、ご足労いただきました機会をいただいて、別のお話をしてもかまいませんか?」

「はい。」

「実はついさっき、ここに二人の・・・女性がみえたんです。」

「?」

 光男氏は、言いにくそうにしながら、言葉をつづけた。

「そのとき、その女性たちがここへ訪ねてきたことは誰にも言わないでほしいと言われたんですが・・・・大森パトロールさんを信頼して、お話させてください。」

「はい。」

「その人たちは、結論から言えば我々を守る仕事を自分たちに任せてほしい、と言ったんです。」

 茂はこれほど予想通りの展開にこれほどやはりショックを受けてしまう自分に驚きながら、ちらりと葛城の横顔を見た。葛城の表情からはその感情は読み取れなかった。

「・・・・」

「そして、その・・・・」

 葛城は端正すぎて今は人形のようにさえ見える目をじっと相手の目に向けながら、相手の話を促す。

「どうぞ、我々のことでしたらお気になさらず、お話になってください。警備会社の守秘義務についても、どうぞご信頼ください。」

「はい、その、・・・ですね・・・。母さん、いいよね?」

「いいわ。」

 母親に念のための許可を得て、意を決したように光男氏が話を進める。

「その女性たちは、探偵社のかただそうで・・・。我々が今回の脅迫をきっかけに何社か警護や調査の見積もり依頼をしたんですが、それらのうちのひとつで。我々の希望が第一に警護、第二に調査となっていたけれど、失礼ながらセオリー通り少し調べさせていただいた結果、これは通常の警護で解決する問題ではないと。そして事前調査の結果を見せてくれたんです。その内容はこうでした。・・・・母の、とある、三十年ほど昔の知人がいるんですが、ええ、もう長い間音信不通ですが・・・その人間が、母を、物理的にではなく社会的に傷つけようとしている、というんです。」

「・・・・」

「母への脅迫電話をした際の、通話記録も調べてありました。ぴったり一致していました。」

「・・・・」

「脅迫の動機は、異性関係・・・結婚にまつわることだ、と彼女たちに指摘されました。わ、私の亡き継父が、その、母と結婚する前に交際していた相手だとのことです。・・・母を脅迫している人間は・・・。三十年前のことですよ、でも、母は、そのことを確かに、そのとおりだと、認めております。」

「お心あたりがおありだったのですね。」

「あの日付は、○月○日は、次の金曜日ですが、それは・・・その脅迫犯が継父と母の関係に気づき、継父と破局した日だと。そこまで、調査をしてしまっていました。」

「学園とのご関係もあるのですよね」

「はい。その人間は、母とともに学園づくりを目指した人間で・・・母が学園を設立した後、未来の校長として学園で教鞭をとってもらうつもりだった人だそうです。母さん、全部、あの女性たちの言ったとおりだね?」

 比沙子氏は息子のほうを見て、頷いた。

 ゆっくり瞬きをして、一瞬瞼を伏し目にした後、再び葛城がまつ毛を上げ相手をしっかりと見た。光男氏だけではなく、比沙子氏の顔も見て、それからもう一度光男氏のほうを見る。

「では、脅迫の言葉にあった、”傷つける”、その手段もわかったのですね?」

 光男氏は、床の自分のカバンから、封筒を取り出し、中身を出して茂と葛城に見せた。探偵社の女性たちが持ち込んだものであろう。写真付きの履歴書のような人物情報だった。

「××予備校理事長兼それを経営する(株)△△社長の、余湖山史江。彼女が本気である証拠は、彼女が今年になって急に、会社と予備校での役職を引退したことなんだそうです。そして、つまりそれは、社会的に彼女も一定のダメージを負う覚悟をしているのであると。・・・当時の、余湖山と母とのいきさつを、宇目田学園三十周年を飾るスキャンダルとして公表するつもりなのであると。」

 茂はつい口をはさんだ。

「そんな昔の、それもプライベートなことが、この有名な宇目田女学園を脅かすようなスキャンダルになるんでしょうか・・・。」

「有名な、しかも女学園の理事長だからこその、ダメージです。そしてその方法は、当時母が継父に出した手紙・・・それを余湖山が入手したことで二人の関係が発覚したもの・・・その実物であろう、ということです。」

 茂は危うくコーヒーカップを取り落すところだった。これはもう、営業活動のための事前調査などといったレベルの話ではない。

 比沙子氏は、表情をほとんど変えずに、補足した。

「お恥ずかしいことですが、事実です。わたくしは、自分が身ごもったことを書いて、亡夫に、決意を迫ったのですから。」

 確かに、雑誌社に持ち込まれたら、想像するだけで恐ろしい。茂はようやく事態が呑み込めて小さく身震いしたが、葛城の声の調子はさっきからまったく変わらない。

「・・・その探偵社の女性たちは、どのようにして、比沙子さまを守ると、言ったのですか?」

「自分たちに任せてもらえたら、公開される前に必ずその手紙をこの世から消滅させる、と。」

「・・・・」

「そして、依頼主・・・お客様には、絶対にご迷惑をおかけしませんと。彼女たちは、そう言ったんです。」

「・・・なるほど。」

 全部話して、逆に少し肩の荷が降りたのか、光男氏は身を乗り出して葛城の顔を直視した。

「大森パトロールさん、私は、その手紙が公開されることを、なんとしても阻止したい。それは、母ひとりのためではありません。」

 光男氏は、窓の下のおびただしい数の大小の花束に目をやった。

「母は、まだまだ、学園にとって不可欠な存在です。学園の人間たちは、母を経営上のみならず、精神的な支柱にしているんです。三十年間、母は、学園のためだけに、ほぼすべての時間を使ってきました。母が社会的に傷を負うことは、学園にとって不可欠な人を失うことになります。そして、母のプライバシーのために、母が心血を注いだ学園そのものが傷を負うことにもなります。」

 光男氏の表情は、恐ろしいほど純粋で、そして静かな確信に満ちていた。

「しかし私は、今日我々のところに来た、あの探偵社の女性たちに、母を守ることをお願いするのは、なるべくならば避けたいと感じました。あの人たちは、言ったんです・・・絶対にお客様にはご迷惑はおかけしない、ただしその代わり、手段・方法については全てお任せいただきたいと。」

「・・・・」

「これは、つまり、依頼主にも言えないようなことも含めて、彼女たちがあらゆる方法をとる・・・・言い換えれば、手段は選ばない、ということですよね。」

「そうでしょうね。」

「できれば、いくら学園を守るためとはいえ、不穏当なことが行われることは避けたいのも事実です。わがままな望みではありますが・・・。それに、それ以上に、やはり彼女たちを本当に信頼してよいかどうか、確信だってありません。」

「はい。」

「なんとか、大森パトロールさんのお力を、お貸しいただくことはできないものでしょうか。」

「我々の・・・?」

「防止していただきたい・・・・いえ、阻止していただきたいのです。余湖山史江が、手紙を持ち出し、公開するのを。具体的には、彼女の身辺の徹底した監視・・・そのことを、お願いしたいのです。」

 光男氏の視線を受け止め、まっすぐにそれを返しながら、葛城はしばらく黙っていた。

 次の葛城の言葉を、茂は両目を閉じながら聞いた。

「それは、できません。」

「・・・できませんか・・・?」

「申し訳ありません。」

 予想通りの言葉を聞いて、自分がこれほどショックを受けるということに、茂は非常に驚いた。

 いや、正確には、予想通り、ではない。「予告」通り、である。

 そしてそのショックの理由は、予告が当たったことではなかった。

 葛城が光男氏に頭を下げ、もう一度顔を上げた。

「ここまですべてお話くださいましたのに、申し訳ありません。・・・我々にできることは、違法な攻撃からお客様を合法的な手段でお守りすることだけです。」

「この場合は名誉棄損などにあたるかどうかは、確かに、微妙というか・・おそらく犯罪ということには、ならないでしょうね。たしかに。」

「それに光男、悪いことをした証拠もない人を、勝手に監視するのは、悪いことですよ。」

 比沙子氏が言葉を挟んだ。

「母さん・・・母さんひとりの体じゃないんだからね・・・。葛城さん、どうしても、無理ですか・・・?」

「はい。どうか、お許しください。」

「・・・・わかりました・・・。急に、このようなことをお願いしてしまいましたこと、こちらこそ、お許しください・・・。」

 光男氏が葛城と茂に向かって頭を下げた。

「今お話ししたことは、もちろん、絶対に口外なさらないと約束してください。」

「はい。お約束します。」

 答えた葛城は光男氏の次の言葉を待った。もちろん、明日の警護を予定通り実施するかどうか、についてである。

 光男氏はそのことに気付いて、茂と葛城を見ながら言った。

「明日の、帰路の警護や・・金曜日までの警護は、予定通りお願いしてよろしいですよね?まだ、彼女たちの話が真実と決まったわけではありませんし。」

「もちろんです。では明日、時間通りに、京都駅のホームでお待ちしております。」

 クライアントのホテルを後にし、地下鉄への階段を下りながら茂は横にいる葛城に、京都へ出発する前夜にあの可愛い茶髪の女性から聞いた不穏な話について、打ち明けようと決心した。しかし先に葛城が足を止め、茂のほうを見て言った。

「すみません、茂さん。先にホテルへ戻っていてもらえませんか?夕食までには戻ります。」

「・・・・はい。」

 茂は言われたとおり、ホテルの自室へ先に戻り、そしてベッドに寝っころがりながら夕食の時刻までには頭を整理しようと努めた。



 葛城はクライアントのホテルのロビーへいったん戻り、フロントで一通りの用を済ませると、近くのカフェに入り、携帯端末からメールの入力を始めた。送信後、驚くような速さで携帯電話に着信があり、電話に出た葛城の耳に高原の急いた声が飛び込んできた。

「メール見たよ、怜。河合は一緒か?」

「いや、先にホテルに戻ってる。」

「怜、今すぐホテルに戻れ。」

「え?」

「河合から目を離すな。すぐ戻るんだ。説明は途中でする。」

「・・・・わかった。」

 葛城はカフェの前でタクシーを拾い、携帯電話で通話したまま乗り込んだ。

 タクシーの中で高原の話を数分で聞き終わった葛城は、電話を切りすぐに茂の携帯電話をコールした。電話には、誰も出なかった。

 ホテルに戻ると、葛城の部屋のドア下にメモが入っていた。茂からのもので、「すみません、夕食、一人で食べてきます。今日中には戻ります」と書かれてあった。



 川べりに停めた車の運転席で、和泉は改めて非礼を詫びた。

「先日といい、今日といい、突然のことばかりで申し訳ありません。」

 助手席の茂は前を向いたまま黙っている。

「でも、いらしてくださり、ありがとうございます。」

「京都での挨拶とは・・・なんのことですか?」

 茂が、和泉に少し似ている琥珀色の淡い色彩をした目を、和泉のほうへ向ける。

「新幹線では、私たちの仲間が、ちょっとやりすぎたようです。興が乗ると悪乗りするタイプの人間で・・・お恥ずかしいことです。」

 前を向いたまま和泉が、艶やかで健康的な小麦色の肌によく似合う、香しい花のような微笑を浮かべた。茂は心臓を突かれたように押し黙った。

「そして・・・」

 和泉は、ようやく、茂のほうを見た。あの夜と同じ、不穏な光を、わずかに両目に湛えていた。

「笈川さまたちに、聞きましたでしょう?私たちが、今日、あの人たちに話したことを。」

「・・・聞きました。」

「大森パトロールさんが、守れないものが、あります。それは、第一には、”合法な”攻撃にさらされるひと。第二には、”違法な”ことをしないかぎり、守れないひと。」

「そうです。」

「そして・・・笈川さまが、守られるべき人ではないと、誰にいえますか?」

「・・・そうです。」

 茂の、葛城ほどではないが和泉よりずっと白い肌をした頬が、さらに青ざめたようにみえた。

 和泉は、表情を和らげ、夕暮れが迫った空を指差した。

「今日は、ずっとお天気がよさそうです。このまま少し、ドライブしませんか?」

「・・・・・・」

 茂の答えを待たず、車は静かに発進した。



 京都の街の少し外れにある静かなホテルの一室で、酒井はヴェランダ際のリクライニングチェアに体を預け、丸テーブルの上の携帯電話につながったスピーカーから聞こえる音声に耳を傾けていた。和泉が車を運転しながら、ときどき茂に他愛のない言葉をかけているのが、明瞭に聞こえてくる。

 やがて酒井は、ふと気づいたように、ツインルームのふたつのベッドのうち、入口に近いほうに座っているあまり背の高くない青年が、なにか言いたげにしているので促してやった。

「なんや、板見。なんか質問か?」

 板見と呼ばれた、宝石のように大きく硬質に光る目をした青年は、その両目を酒井のほうへ向け、背筋を伸ばして言った。

「まさかとは思いますが、和泉さん、なにか身持ちの悪いことをさせられるわけでは、ないですよね?」

 酒井は無精ひげに囲まれた口から、思わず煙草を落としそうになった。が、すぐにその長身を揺らして笑い出す。

「あほか、板見おまえ。恭子さんがそんなことさせるわけないやろ。お前、京都まで来て恭子さんと会われへんかったから、頭おかしゅうなっとんとちゃうか。」

「そうですよね。すみません。」

「まあ、京都駅でも新幹線でもよう働いたから、許したるわ。」

「・・・・酒井さん、気のせいかもしれませんが、吉田さんからの指示以上に、派手な感じでしたね。」

「はははは。・・・って、なにいうとんねん。俺は地味好きなんや。」



 車は京都市内から小一時間走り、京都の東北、琵琶湖の西にあるドライブウェイを上っていく。

 すっかり日が暮れ、観光シーズンを外れているせいか、すれ違う車もまばらだ。

「私は、仕事で関西に来ると、時間があればよくここに来ます。街中もいいですが、遠くから街を見下ろすのも、よいものです。」

 大きなカーブを曲がると、驚くような美しい夜景が広がった。

「それは、大津市です。綺麗でしょう?ここを上がると、下りて京都を見下ろす場所がありますよ。」

 ほどなく、車はドライブウェイの途中にある駐車場に入って止まり、和泉が運転席から降り、助手席の扉を開けた。

 茂が和泉について歩いていくと、目の前に、暗い木々に囲まれた鮮やかな街の灯が広がった。

「あれが京都市内の明りです。ここから見える景色が、私は一番好きなんです。」

 ホテルでクライアントから聞いた話。葛城の表情。今日の記憶が茂の中で街の灯のように混じりあい、混沌とし、しかし目を閉じても瞼の裏に残る光のあとのように全身を包囲する気がした。

 和泉の声が、遠くから聞こえるような、穏やかさと圧力とで茂を取り囲み響く。

「私たちは、法に触れることなどの汚い部分はすべて引き受け、お客様のために尽くします。」

 夜に冷え始めた空気が、微風とともに辺りに満ちていく。

「そしてエージェントは、組織に命を預けて、全力で働きます。危険は常につきまといます。でも、我々はどんなリスクも・・・犯罪者と呼ばれることも、もちろん・・・厭わずに、働きます。なぜだかお分かりでしょうか。」

 冷たい空気が肺に入り、小さく咳き込みながら、茂は和泉のほうを見た。彼女は少しだけ茂の目を見て、また街の灯のほうへ視線を戻す。

「我々が、どんなときも、お客様の利益を絶対に優先し、そのために必要なことを実現する、このシンプルなことへのプライドがあるからです。」

「・・・・」

「そしてもうひとつ。うちの探偵社は・・・我々の組織は、忠誠をつくすエージェントを絶対に見捨てません。しかも、同時に、脱退は自由です。裏切られて困るような組織運用はしていないからです。そして脱退しても裏切り行為をする者はほぼいません。たとえ仕事が失敗し逮捕されても、家族は守られ、本人のその後の生活は保障されます。組織のために働いて倒れた者は、組織が一生見捨てることはありません。」


 ホテルの部屋で、酒井が楽しそうに笑い、板見は不審そうにこの関西出身の先輩の顔を見た。

「酒井さん、なにか面白いことでもありますか?」

「いや、そうやないねん。」

「・・・?」

「和泉、ほんまに、本当のことしか言わへんなあと、思ってな。」

「まあ、確かにそうですが。それがなにか・・・」

「こういう当たり前のことを、割とこういう風に丁寧に説明せなあかんというのが、おもろいなあと思うんや。俺らみたいな仕事してるとこって、やっぱり、映画に出てくるようなブラックな組織やと思われるんやなあ・・ってな。」

「確かに、そうなのかもしれませんね。」

「失敗したら殺されるとか、裏切者は消されるとか、組織を抜けることは許されへんとか、そういう非現実的なイメージなんやなあ。あほな話やで。」

「そうですね。・・・・いつか和泉さんがおっしゃっていたことが端的です・・・”上司に命を預けることと、部下を使い捨てにすることとは、まったく違う”。」

「恐怖で組織が保てるのは一瞬や。人を大事にしない組織が、長続きすることもないし仕事でうまくいくことも、絶対にない。」



 和泉が茂のほうを再び見た。今度はそのまま目をそらさず、そしてきっぱりと言った。

「うちにいらっしゃいませんか?河合茂さん。あなたはきっと、良いエージェントになれます。」

 茂は和泉に少し似ている、色の淡い琥珀色の目を大きく見開いて、長い間和泉の両目を見返していた。

「お返事はすぐにとは申しません。考えておいてください。」

「・・・・・」

「もしもお返事がイエスなら、こちらにご連絡ください。」

 和泉は茂に電話番号の書かれたメモを手渡した。

「ただしそのときは、テストを兼ねて一つのお仕事をしていただくことになります。新しく我々の仲間になるエージェントは皆そうです。そして、もしも一両日以内にお返事いただけた場合は・・・・」

 茂よりさらに明るい色の目を優しく細め、最後に和泉は言った。

「その場合は、笈川さまをお守りする仕事を、最初の仕事として、やって頂けます。」



 夜が更けて茂がホテルへ歩いて戻ってくると、狭いロビーで葛城がソファーに座っていた。

 茂は少し驚いたが、すぐに葛城に近づき、一礼して詫びた。

「・・・申し訳ありません・・・勝手に出歩いて・・・。」

「業務中ではありませんから、外出は自由です。ただ、携帯電話はいつでも出てください。」

「はい。」

 ようやく茂は、葛城が、クライアントのホテルを出てきたままの服装であることに気がついた。

「・・・葛城さん、もしかしてあれからずっとここで待って・・・・?」

 葛城は答えず、茂を促してエレベーターへと向かう。

 茂は立ち止まる。葛城も立ち止まり、振り返る。

「あの・・・・葛城さん・・・・」

「・・・なんですか・・?」

「あ・・・・」

 二人はしばらく顔を見合ったまま、黙っていた。

 そのまま言葉に詰まった茂に、葛城が言った。

「庭に、行きましょうか。」

 ホテル入口を出て建物の裏手に回ると、小さいが小奇麗なホテルに似つかわしい瀟洒な中庭が広がっている。吹き抜けになっている上層階のレストランから明りが落ちてきている。

 先に立って歩いてきた葛城は、いくつか並んでいるベンチのひとつに腰かけ、立ったままの茂のほうを見た。庭の芝生に埋め込まれたいくつもの明りが、辺りを柔らかく照らし、木々に反射したかすかな光が葛城と茂の互いの表情を辛うじてうかがわせている。

「すみません、こんなことを、サブ警護員の俺がお尋ねしてはいけないということは、わかっています。」

「クライアントの依頼を、私が断ったことですか?」

「はい。うちの・・・・大森パトロールの業務として、どうしてもやっては、いけないことなのでしょうか。笈川さまのような、ああいった依頼に応えることは・・・。」

「いけないというより、我々のできる範囲を、超えている。それだけのことです。」

「もちろん、クライアントの望みをすべてかなえることはできないとしても・・・。監視業務など、一部でも、できることはあるのではないでしょうか。このままでは、確実に・・・」

「・・・確実に、学園は危機に曝されると?」

「はい。」

「そうかもしれませんね。」

 そのきっぱりとした口調と同じくらいに動かし難い目で茂を見上げながら、葛城が答えた。

 茂の声と表情が、懇願に近くなった。

「それでも・・・なにも・・・・・?」

 葛城が小さく、しかしはっきりと、頷く。

「警護員にできることは、わずかです。私たちは、自分で、そのことをよく理解する必要があります。」

「・・・・・」

 茂は、下唇を噛み、足元の芝生に目を落として沈黙していたが、やがて、泣きたいのをこらえている子供のような大きな目をしながら、うつむいたまま、言った。

「奴らが・・・夕べと、それからさっき、俺のところに来て、言ったんです。あなたたちには、お客様を守ることは、できないと。」

「!」

 葛城が驚いたことに茂はもちろん驚かなかったが、その理由が茂の思ったものとは異なっていることは、もちろんまだ知らなかった。

 茂が再び葛城の顔を見たとき、葛城は、穏やかでありながら、これまで茂が見たことのないような硬く厳しい色をその端正な両目に湛えて、座ったまま、目の前に立つ茂をじっと見上げていた。

 茶色の絹糸のような茂の髪が、かすかな夜風に揺れるのを合図にしたように、葛城が言葉を返した。

「それで、どうされるんですか・・・・茂さんは。」

「葛城さん・・・・」

 茂は、自分がなにを求めているか、葛城に分からないはずはないと思った。しかし、それが葛城から戻ってはこないことを、長い沈黙のあとの次の葛城の言葉が、宣告した。

「いえ、それは、私がお尋ねすることでは、ありませんでしたね。」

 泣くのを我慢している少年のようだった、茂の大きな目に、その瞬間、失望の色が満ちた。

「失礼します。」

 それだけ言うと、茂は踵を返し、一人で先にホテルの自室へ戻っていった。

 


三 事務所


 火曜日、移動時警護を終えて戻ってきた葛城が事務所に入ると、遅い時間に似つかわしく、暗い事務室内はもちろん無人だった。

 明りをつけ、自席でしばらく携帯端末とパソコンをチェックしていたが、そのまま背もたれに体を預け、ぼんやりと宙を見つめる。

 しばらくして、事務所の入口をカードキーで開ける音がして、葛城ははっとして入口側を振り返った。入ってきたのは、高原だった。

「今日は遅いお帰りだね、怜。」

「晶生・・・。」

「河合じゃなくて、がっかりしたって顔だな。」

「そんなことはないよ。」

 高原が台所の冷蔵庫から麦茶のピッチャーとグラス二個を持って戻ってくる。先に応接室に入って、手招きする。

 麦茶を入れたグラスの縁を唇に当てたまま、再びぼんやりと静止している葛城を、高原はしばらくの間見ていたが、いつまで待っても葛城のほうから言葉がなさそうなので、自分から口火を切った。

「河合のやつ、日曜も月曜も、そして今日も、こっちに立ち寄ってないんだね。」

「まあ別に、用もないからね。警護は順調だし。」

「比沙子さまをご自宅前でお見送りしたら、そこで解散。でも先週までのあいつなら、その後この事務所で麦茶を飲みながらお前や俺と無駄話してるはずだよね。どんなに遅い時間になっても。」

「・・・・」

「そろそろ白状しろ。京都であの後、あいつに何を言った?」

「メールに書いたとおりだ。茂さんが、奴らから接触されたことを言った。俺は、俺たちにできることは限られていると言った。それだけだよ。」

 葛城は、自分のことを俺と呼んで話す、数少ない相手である高原に、正面から目を凝視されてたまらず目をそらした。

「いいかげんにしないと、俺が河合に直接聞くよ。」

「・・・・わかったよ・・・。」

 観念したように、葛城は土曜の夜に京都のホテルの中庭で、自分が茂に言ったことを全て正確に高原に話した。

 聞き終わった高原は、予想通りだという顔で、頬杖をついた。

「怜、お前さ・・・・・、ちょっと言葉足らずなんじゃないか?・・・それって、ものすごく中途半端だよ。誤解されてるよ。最悪だ。」

「わざわざ言うようなことでもないだろう。茂さんは、わかってくれると信じているよ。」

「それだけか?」

「・・・・」

「お前が河合にそんな言い方をした理由は、それだけか?」

「どういう意・・・」

「”彼ら”の迫力に、圧倒されてないか?」

「そんなことは・・・」

「そうか。俺は、圧倒されてるよ。」

葛城は不意を突かれたように唐突に顔を上げ、目の前の高原の、愛嬌が消えると刺すような知性だけが底光りする両目を見た。このときはじめて、自分が慰めの対象ではなかったことに気がつき、背筋を少し伸ばして、高原のメガネの奥の目をじっと見たまま、何か言おうとした。が、言葉が出ない。

 高原が先に言葉をつづけた。

「三村英一さんの話と、土曜日のお前たちのクライアントからの話を聞いた当初、俺は、あいつを止めることだけしか頭に浮かばなかった。」

「・・・・」

「だが、今は、ちょっと自信がないよ。俺たちのことを、そもそも、わかってほしいというような・・・そういうことを、あいつに求める資格があるのかと、疑問に思う。俺たちに。」

「晶生・・・・」

「・・・・・ごめん、」

「・・・・」

「自分でも、何言ってるのか、よく分からない。」

 葛城はこの旧友から、確か過去に一度も”自信がない”という言葉を聞いたことがなかった気がしたが、それより驚いたのは、これほど他人と思いが一致してなおかつこれほど身の置き所がない感じになることが、あるのだということに、だった。




 翌水曜日の正午過ぎ、珍しく人がやや多めに出入りしている大森パトロール社の事務室の、自席で電話していた高原の脇に、事務員の池田さんがやってきた。彼女が机上に置いた電話メモには、走り書きで「至急お会いしたいそうです。三村英一さんより。電話番号・・・・」とあった。

 折り返し電話をかけた高原に、英一は駅から少し反対側に行ったところにあるコーヒー店を指定してきた。事務所と、彼の勤める会社との中間あたりだ。

「河合が、今週、会社に出てきてません。」

 高原がテーブルに座るなり、英一が言った。

 高原がその視線に愛嬌を湛えるのを忘れて、メガネの奥の目をかすかに泳がせたのを、英一はその整った真っ黒な目でしっかり見てとった。

「おそらく、大森パトロールさんの事務所にも、来ていないでしょう。」

「はい。」

「あれから、実際に何か、ありましたね?」

「・・・三村さん。貴方は、ずいぶん、お友達思いでいらっしゃるんですね。」

 英一は意外そうに少しだけ微笑んだ。

「ありがとうございます。そうですね、俺は河合警護員のもとクライアントですしね。」

「・・・・・」

「それに・・・・これは、蒼風樹の、意思でもあります。彼女の、罪滅ぼしです。ご迷惑かも、しれませんが。・・・俺の話に、もう少し、おつきあいくださいますか?」

「はい。」

「河合を、彼らが・・・”奴ら”が、どうしたいかは、高原さんたちはもう確信されておられるのでしょう?」

「そうですね。」

「彼らとか奴らとかではなく、もう名前で呼びましょう。阪元探偵社の人間たちはつまり、手間のかかった、しかもこれ見よがしなリクルート活動を、しているわけです。あんなボケの新米警護員ひとりをターゲットにして。」

「・・・まあ、そうですね。」

「その目的も、きっと、わかっておいででしょう?」

「そのつもりです。」

「立ち入ったことをお尋ねしてすみませんが・・・・、高原さん、このことについて貴方がたは、なにか対応策をとっておられるんでしょうか?」

「・・・・」

「もしもこのまま、阪元探偵社の目的が達成されたら、貴方がたが失うのは、第一にひとりの将来ある警護員、そして第二に・・・・」

「河合警護員を、引き止めよとおっしゃるのですか?」

「うちの会社でさえ、社員の引き抜きが来たら何らかの対抗措置はとりますよ。」

「三村さん、貴方は、河合が大森パトロール社にいることが、本人にとって本当に一番よいことだという確信が、おありですか?」

「え・・・?」

「三村さんは、我々の仕事のやり方を、あまりまともじゃないとおっしゃったし、我々もそれは一部認めるところです。それでもあなたは、友達の河合がこれからも、我々のやり方に・・・・巻き込まれることを、よしとされるんですか?」

 英一はまじまじと、この知的な、そつのなさを絵に描いたようなプロのボディガードの、初めて見る表情を見つめた。それは疑問や不安とともに明らかになにかの”訴え”を含んでいた。

「よしとする?」

「・・・・」

「よいことかどうかなんて、俺に分かるはずがないでしょう。俺が蒼風樹の意思とともに自分の意思を、貴方がたにお伝えする理由は、単純です。俺が、貴方がたの仕事に、少なくともその一部に、敬意を払っているということ。そして我々が、河合茂警護員に、大森パトロール社の警護員として、また仕事をお願いしたいと思っていることですよ。」

「・・・・」

「蒼風樹は、阪元探偵社を非常に信頼し評価しています。それはこれからも変わらないでしょう。しかしそれでも、彼女が知っている彼らの情報をすべて、貴方がたにお伝えしてほしいと言っていました。それは・・・」

 黙って英一の顔を見つめる高原を、英一の言葉が畳みかけるように追いかけた。

「・・・それは、彼らには絶対にできないことが、あるということも、同時に蒼風樹が理解しているからだと思います。」

 時計が午後一時を回り、人がほとんどいなくなったコーヒー店の静けさの中で、さらに高原はずいぶん長い間、黙っていた。

 コーヒーカップを一度持ち上げ、そのまますぐにまたソーサーに戻し、高原がやがてもう一度英一の顔を直視した。

「三村さん、つかぬことをお尋ねします。」

「はい。」

「もう一度、貴方が、金曜日の夜にあの公園で見た、女性の特徴をおさらいさせてください。」

「・・・はい。」

「身長は河合とほぼ同じくらい。髪は耳下くらいのショートカット。非常に明るい茶色のストレート。顔色はよく日焼けして、童顔。声は女性にしては低め。」

「そうです。」

「これは・・・・京都で葛城たちのクライアントの・・・笈川さまを、ホテルに訪ねてきたふたりの女性のうちのひとりの、特徴です。」

「・・・クライアントが、教えてくれたんですか?しかし・・・」

「そんなことはできません。クライアントと別れた後、ホテルのフロントで、葛城が自分を彼女の雑誌社の記者の同僚と偽って聞き出したものです。」

「阪元探偵社は実際に貴方がたのクライアントに、接触してきたんですね。」

「はい。そして、その日のうちに、河合をどこかへ連れ出しました。」

「河合がなにを言われたか、想像はつきますか?」

「つきます。」

 高原は、テーブルにコーヒー代を置き、ゆっくりと椅子をひいて立ち上がった。

「三村さん、今日は、ありがとうございました。」

「いいえ。」

「また後ほど・・・ご連絡いたします。」

 英一は狭いテーブルの下でやや窮屈げに、長い脚を組みかえ、高原が静かに立ち去った後をしばらく見つめていた。



四 マンション


 水曜の夜も、木曜の夜も、大森パトロール社の事務所に茂は姿を見せなかった。夜だけではなく、昼も茂はいつもいるべきところにはいなかった。

 まだ暗い空は晴れてはいるが不穏な湿った空気が漂う金曜日の未明、街の中心部にある高層マンションの正面入り口から一本脇道に入ったところにある小さな駐車場に、一台の軽自動車が停まっていた。

 運転席には明るい茶髪の健康そうな小麦色の肌をした若い女性が、隣の助手席にはそれと少し似たイメージの青年が、それぞれに時計を見てしばらく黙っている。

 和泉が、茂のほうを見て、穏やかな口調で言葉を出した。

「お仕事の内容は極めてシンプルですし・・・打ち合わせ通りに、やっていただければ、特に問題はありません。ただ常に、これが、テストを兼ねているということを、心に留めておいてください。」

「・・・和泉さん。」

「なんですか?」

「和泉さんが、上まで一緒に来られるのは、無駄なリスクではありませんか?」

「そうですね。はっきり言って、監視役を兼ねています。ごめんなさい。」

「俺が、途中で裏切ったりしないように、ということですね。」

「ええ。我々は、裏切者を・・去る者を、追うことも制裁を加えることもありません。ただし、業務途中でそうした行為があった場合、その者の無事の逃走だけは、積極的には支援できなくなります。このこと、覚えておいてください。ご自身の安全のために、途中の裏切りは極めてデメリットが大きいことであると。」

「そして、もうひとつ、ありますね。」

「・・・・・」

「このマンションの警備を請け負っているのが、俺の同僚だから。・・・大森パトロール社が警備しているから、ですよね。」

「・・・・・」

「そこまで心配されなくても、大丈夫です。俺は新人だから誰も知り合いではないし。それに、そんなことで俺は仕事がやりづらいと感じる程度には、初心じゃありません。」

「そうですね。」

 和泉と茂の装着しているインカムに、酒井の楽しそうな声で、スタートの合図があった。

 先にマンション内に入っていた板見と酒井とが、茂と和泉をオートロックの二重の入口の内側まで案内する。二台のエレベーターに別々に乗り込み、茂と和泉は最上階の三十階へ向かう。

 板見はそのまま、第一のオートロックの内側にある無人のコンシェルジュ・デスクへ向かう。

 そして茂と和泉は、最上階の三十階に三部屋しかない広いマンションの、そのうちの一室のドアの前まで来て、簡単な道具を取り出した。必要な作業を終えると、階段室の目立たぬ一角で、あとはひたすら待ち時間となる。

「手際がいいですね、河合さん。」

「そうですか。」

「大森パトロールさんの新人教育は、とてもしっかりされているようですね。」 

 茂は表情を変えない。


 朝日が昇りその高さを増してきたはずだが、雲に遮られまだ朝靄の続きのような空が広がっている。午前八時四十五分、余湖山史江は、身支度を済ませ、いくつもあるクロゼットのひとつの、奥の引き出しから、用意した封筒を取り出した。マンションの玄関にはすでにいつもの会社のタクシーを呼んである。

 あれから何度、携帯電話をチェックしたことだろう。ついに、着信はなかった。それが安堵であるようでもあり、そして同時にあきらかに、失望でもあった。

「行ってくるわね。」

 ケージの中の、白い二匹の猫に向かって手を振る。外出するときはいつもこうしている。いつだったか、地震のときにマンションの管理人が頼んであったとおり猫を助けにきてくれたのだが、マンションの部屋が広すぎてみつけるのに大変な時間がかかったことがあるからだ。


 酒井がインカム越しにたいくつそうな声で無駄話をするので、板見は閉口して抗議した。

「酒井さん、おしゃべりには極力おつきあいしますが、今の状況を考えてください。万一、住人や通行人に聞かれたら・・・」

「すまんすまん。ほら、もうすぐ予想時刻や。そろそろ和泉からも発言があるやろ。」

「その和泉さんと、それから河合さんのお仕事の邪魔にもなってるんですよ。」

「はいはい。」

 インカムの声は関係者四人に常時筒抜けである。

 酒井は、河合に聞こえていることがわかっていて、わざとしゃべっている。和泉も板見もそのことがわかっていたが、仮にも緊張感ある業務の現場で、引き続きリクルート活動に余念がない酒井のゆとりには、まだまだついていけない自分たちを実感するほかなかった。

「河合さんも、聞こえてますよね。」

「はい。」

「今日は、阪元探偵社のポリシーを、実感してほしいんですわ。手紙ひとつ処分するのに、普通は四人も動員しまへん。」

「そうですね。せいぜい二人で、凶器を持って部屋に押入り、強奪するか、あるいは」

「あるいは、ちょっと乱暴な奴らやったら部屋ごと燃やして、入れ物を特定してしまいますわな。その部屋にあるということさえ、わかってたら。」

「はい。」

「でも我々はね、ターゲット以外の、一般の皆様に、なるべくご迷惑をおかけしない主義なんですわ。」

「はい。」

「こういう高級マンションは、警備システムもご丁寧にできてはる。しかも警備は大森パトロールさんやしね。マンションのドアも、勝手に開いたら警報。部屋の中にも、非常を知らせるボタンがありますわ。無粋なやり方したら、マンション中の、関係ない善男善女さんたちを、お騒がせしてしまいます。しかも・・・」

「マンションのどこに手紙を隠してあるか、たとえターゲットを脅迫しても、探すのに手間取る可能性も高い。」

「そうですわ。こうしたことを考えたら・・・」

 マンション最上階の三十階にある余湖山史江の部屋のドアが、がたっという音をたてた。しばらく静かになり、再び、今度は続けざまに、がたがたがたっと振動する。

 中から、小さく、女性の声がする。

 インカムから今度は和泉の低い声がした。

「板見さん、準備お願いします。コンシェルジュは遠ざけられていますね?」

「はい。」

 酒井が、楽しそうに続ける。

「・・・こうしたことを考えたら、全部、ターゲットにやっていただくのが一番ということに、なりますわな。」

 板見の声がインカムから届く。今度は仲間に向けたものではない。

「はい、コンシェルジュ・デスクです。・・・はい、余湖山さま、おはようございます・・・どうされましたか?・・・・・」

 コンシェルジュ・デスクのガラス窓から見える空は、さらに暗くなり、遠くから雷鳴が聞こえ始めた。

 板見の声が続く。

「・・・わかりました。すぐに作業員を行かせます。ええ、まれにありますよ。申し訳ございません。緑の作業帽を被った、うちの関係会社の常駐の者ですので、ノックしましたらご指示ください。」

 三分後、板見からインカムにゴーサインが入った。茂は緑の作業帽に白いマスクをつけ、余湖山の部屋のドアをノックする。

「コンシェルジュ・デスクからの連絡がありましたので参りました。こちらのお部屋ですね?」

 部屋の中から女性の声が答えた。

「ああ、そうです。いったいどうしたのかしら・・・・押しても引いても、全然だめなのよ。」

「ごくまれにですが、このタイプのドアロックでは起こる場合があります。余湖山さま、お急ぎでいらっしゃいますか?」

「急いでいるわ。今からどうしてもでかけなきゃならないの。」

「では、直ちに作業しますので、ドアから少し離れてください。」

 茂は、数時間前に自分で装着した、ドアが開くのを防ぐ留め具を、少し大きな音をたて、二~三分かけて取り外した。器具をそのままドアのキーボックスに当て、再度部屋の中に声をかける。

「余湖山さま、もう一度開けてみてください。」

 ドアが内側から、外開きに廊下に向かって開き、外出の準備をした黒髪の中年女性が現れた。地味だが高価そうなスーツを着て、ブランドものの大きめのバッグを抱えている。笈川比沙子より若く見えるのはややふくよかな体型のせいかもしれないが、顔立ちも、余湖山のほうがはるかに美しかった。余湖山は安堵の表情で扉と茂を交互に見た。

「ああよかった」

「鍵は取り替えたほうがよいですね。あ、すみません、ドアの警報を解除していただけますか?」

「ああ、そうね。」

 余湖山が玄関ホール脇のタッチパネルまで行き、操作する。

「どうもありがとう。私、急ぐんで、鍵の取り換えは改めてお願いします。今日はドアチェーンでしのぐわ。」

「行先は、雑誌社か、郵便局ですか?」

「・・・・?」

 瞬時に近づいた茂の両腕が、余湖山を抱きかかえるようにその背後に回り、魔法のようなスピードで余湖山の両手を後ろ手にビニールテープで拘束していた。

「すみません、失礼します」

 そのまま両足首も縛られてようやく何が起きたか理解した余湖山が、床に座り込んだまま声を出そうとしたとき、やはり白いマスクをした和泉が音もなく玄関に足を踏み入れ、銀色に光るバタフライナイフをターゲットへ向けた。

「しばらくの間、お静かに願います。我々、こちらを・・・・いただきたいだけですので。」

 和泉は薄いゴム手袋をした左手で、余湖山のバッグの中の封筒を指差した。その後ろで、玄関ドアが低い音をたてて閉まった。

 余湖山が体を小刻みに震わせながら、横に片膝をついている茂と、目の前に立っている和泉とを交互に見る。

「あなたたち・・・・手先なの・・・?・比沙子の、手先なの・・・・?」

「信じられないかもしれませんが、そうではありません。でも、そんなことは、どうでもよいことですね。」

 和泉が穏やかに笑った。

 茂がやはり薄い手袋をした手で、余湖山のバッグから封筒を抜き取った。そのまま立ち上がる。

「こちらを、いただくことで、多くのかたが救われます。どうか、おゆるしください。」

 取り出した小さなナイフで封を開け、中を確認する。和泉がライターを取り出すと、玄関ホール奥の一番近い部屋に入り、バルコニーに出るガラス戸をひとつ開け、さらにキッチンの換気扇のスイッチを入れる。万一にも火災報知器の発動を防ぐためだ。

 余湖山の声のトーンが下がった。

「比沙子じゃないわね。」

「・・・・?」

「たしかにこれは、比沙子の命令じゃないわ。」

 その声は、ようやく物事を冷静に考えられるようになったことを示すように、静かでなおかつ芯の強いものだった。

「比沙子は、あの三回の脅迫電話が、私からのものだと、よく理解していたはず。だから私は、比沙子からの連絡を待った。」

「・・・・」

「連絡はなかった。比沙子は、三十年かかった私たちの結論を、出すことに、同意したのよ。彼女以外の全員が反対したとしてもね・・・・全てを公開することに。私には、わかった。」

「・・・・」

 キッチンから戻ろうとした和泉が、異様な気配に気が付いて玄関ホールを凝視した。

 茂が、立って封筒を手にしたまま、そのまま動けずにいる。

 茂の記憶の中に、比沙子氏の言葉が蘇る。

・・・・「いいえ、大変なことなど、なにもありません」・・・・新幹線の中で、国旗を引き裂いた酒井に向かって、言った言葉。

・・・・「お恥ずかしいことですが、事実です。わたくしは、自分が身ごもったことを書いて、亡夫に、決意を迫ったのですから。」・・・自らの醜聞を、赤裸々に語った言葉。

・・・・「それに光男、悪いことをした証拠もない人を、勝手に監視するのは、悪いことですよ」・・・監視業務を、してほしくないという言葉。


 茂の手から、封書が滑り落ち、玄関ホールの大理石の床の上に落ちた。

 窓の外から、雨の音とともに、次第に激しくなる雷鳴が聞こえている。

 すぐ近くにいる和泉が、叫びたいのをこらえて、インカム経由で低い声で茂を促す。

「河合さん、どうされたんですか?早く手紙を・・・」

「・・・できません。」

「河合さん!」

「本当に、すみません。」

 茂が、もう一度床に片膝をつき、顔を俯けてうなだれた。驚いた顔で、余湖山が茂の顔を見た。余湖山に、茂がかすれた声で、話しかけた。

「俺は、手紙を燃やすことが、多くの人を助けるために不可欠なことだと思っていましたし、今も、思っています。・・・でも、・・・守られるべき人が誰なのか。本当に、本当の意味で、守られるべき人は、誰なのか。そのことが、俺は、結局わからない・・・。」

 和泉がたまりかねて玄関ホールに駆け込み、手紙を拾った。そのとき、余湖山が茂の脇をすり抜けて、タッチパネル下の赤い警報ボタンを、額をぶつけるようにして押下した。

 部屋中に警報音が鳴り始めた。

 茂は片膝をついて座ったまま動かない。余湖山は、警報ボタンの下に座り込んだまま、再び茂のほうをじっと見ていた。

 ドアを大きく開けて、酒井が入ってきた。和泉から封書を受け取り、自分のライターで、火をつけた。

 手紙が、捻れるように燃えつき、黒い塊になって、玄関ホールの床に落ちていった。

 インカム越しでない、大きな声で酒井が茂に向かって言った。

「一般用エレベーター三台はこの階で足止めした。業務用エレベーターで降りる。階段は二か所あって閉鎖は無理や。まもなく警備員が上がってきますで。まだ今なら、間に合います。手荒なことせんでも逃げられます。この程度やったら我々の寛大な上司は許してくれはるでしょう。一緒に来てください。新人さん。」

 和泉と板見は息をのんだ。茂の行為は明らかに”業務途中での裏切り行為”である。この場合、茂を置いて他の者だけが逃走することが、正しい。

 茂は、酒井を見上げ、そして、首をふった。

 酒井は、一瞬唇を噛み、そしてその数秒後にようやく、この部屋にいた人間たちの中で最初に、バルコニーのある部屋の人影に気が付いてそちらを見た。

 人影はバルコニーから窓のカーテンを持ち上げるようにして部屋に入り、こちらを見て、微笑んでいた。

 玄関ホールから、酒井が呼びかける。

「大森パトロールの、メガネの警護員さん。こんなところで、なにしてますねんな」

 バルコニーから部屋に入ってきていたのは、高原晶生だった。

 ライダー用ヘルメットを被り、雨で全身ずぶ濡れになっている。開いた窓から、激しい雷鳴が室内に轟く。

「窓を開けておいてくださり、ありがとうございます。おかげで、破る手間が省けました。」

「いつからそこにいはったんです?お人が悪いですな。」

「窓を開けていただいてすぐですよ。それにしても阪元探偵社さん、相変わらず今回も、見事なお手並みですね。」

「それはおおきに。」

 茂は、目の前の部屋の奥に立っている先輩警護員の姿が、本物だとはにわかに信じられず、ぼんやりとその姿を見つめていた。

 酒井はいつもの興味深げな視線に戻り、改めて高原の顔を見る。

「どうやって、入ってこられました?いやそれより、今日のこと、なんでわかりました?」

「ここは三十階つまり最上階ですから。屋上からだと、すぐなんですよ。そして今日のことは・・・考えれば、わかることです。○月○日。脅迫犯は、自らのダメージを覚悟しているとはいえ、少なくとも秘密保持そして確実な実行のため、共犯者はつくらないでしょう。ひとりで行動するということです。その当日に、自らの手で、持ち込むなり発送するなりするはずです。ですから、必ず自宅に手紙はあります。そして手法は、あなた方の組織のポリシーを考えれば、わかります。最も、他の関係のない人間たちへの影響が少ない方法を選ぶでしょう。そうなれば、出かけ際を狙うとしか、考えられません。」

「その予想、大当たりですわ。兜を脱ぎます。そしてそれ以上に、兜を脱ぐのは・・・」

 酒井は楽しそうではない笑い方をした。

「・・・それは、あんたが、我々の予想を裏切ったことですな。まさか大森パトロールさんが、同僚が守っているマンションに住居侵入しはるとは、夢にも思いませんでしたで。」

「これ以上は侵入しませんよ。」

 茂のほうを見て、高原が恐ろしい大声でどなった。

「おい、そこの新人警護員!」

 茂ははっとして、高原を見た。

「立ち上がって、こっちへ来い。」

 玄関の酒井とバルコニー際の高原に前後を挟まれた格好になっている茂が、ふらふらと立ち上がり、高原のほうへ足を進め始める。

 高原が、手に持っていたもうひとつのオートバイ用ヘルメットを、茂へ向かって放り投げた。

「ないよりマシだ!それを被れ!そして・・・」

 大きく両手を広げ、後ろ向きに窓からバルコニーへと一歩下がりながら、高原が続けて茂に向かって叫んだ。

「そして、ここにハグ!」

 インカムを投げ捨て、ヘルメットの顎紐をかけながら茂が高原へ向かって走る。高原の右手が大きく弧を描き、茂と入れ違いに、何か光るものが茂の脇をすり抜け酒井の脳天めがけて閃光のように空を切った。

 顔をそむけて避けた酒井の左耳横をかすめ、銀色の細長いものが酒井の後ろの玄関ドア激突し、大理石の床に落ちた。

 京都から新大阪に向かう新幹線の中で、酒井が葛城に向けて投げた、あのダガーだった。柄を先にして投げられていた。

 茂が高原に正面から抱きつくようにし、高原は腰につけたロープの先のカラビナを茂のベルトにつなぐ。

「河合、六秒間だけ、俺に命を預けろ。」

「はい!」

 そのまま高原は、茂に正面から抱きつかれたまま後ろ向きにバルコニーの手すりから飛び降りた。

 茂は、とりあえず目を開けないでいることにした。

 一秒。二秒。ほぼ正確に、スリングロープの巻き取られる音と伸びる音とが、耳の傍で交互に響く。高原は、両手首に装着したスリングロープ二本を交互につかって、マンションの三十階から一〇〇メートル下の地上へ、滑るように降りていった。

 地上に降り立つと、茂のベルトからカラビナ付きロープを外してその手をつかみ、高原は猛スピードで脇道へ駆けこんだ。見慣れぬ車が待っている。高原に促されて後部座席へ乗り込む。運転席にいたのは、葛城だった。二人が乗り込むなり車が発進し、激しい雨の中を、裏道から静かにマンションを離れた。

 後部座席のびしょ濡れの二人に、運転しながら葛城が、助手席に置いてあったタオル二本を後ろ手に手渡す。

「晶生、相変わらず、スリングロープを使わせたら世界一だな。」

「ふふふ、ロープだけじゃないよ、俺が世界一なのは。」

「この雨の中、一度もフックのコントロールを誤らなかったみたいだね。」

「当たり前だ。」

 茂は高原にタオルを頭からかぶせられて、ようやく我に返った。

「高原さん、葛城さん・・・。」

 ヘルメットを脱ぎタオルで顔をふきながら高原が茂のほうを見た。

 茂は前を見たまま、頭を垂れるようにして、うつむく。

「助けに・・・俺を、助けにきて・・・くださったんですね・・・・・・俺は、あいつらのところへ、行ったのに・・・俺は・・・・」

 顔がさらに下を向き、くしゃくしゃになった顔の、両の目から涙が止め処もなく流れだす。膝の上に涙の滴があとからあとから落ちる。

 高原が複雑な表情をしながら、茂の頭に手を置く。

「泣くなよ、河合。」

「すみません、すみません・・・・・俺は、高原さんと葛城さんの、気持ちも知らずに・・・・俺は生意気なことばかり・・・」

「気持ちなんてのはさ」

 タオルの上から右手で茂の頭をぐしゃぐしゃにしながら、高原が言った。

「わからないのが、あたりまえなのさ。皆、そうじゃないか。」

「そうかも・・・しれませんけど・・・・」

「それに河合、お前は、土壇場で、俺たちのことを、考えてくれたんじゃないか?」

「・・・・」

「さっきマンションで、どうして、手紙を燃やさなかった?」

「比沙子さまが・・・クライアントが・・・それを望まないのではないかと、急に思えたからです・・・・」

 さらに大粒の涙が茂の鼻先をつたって膝に落ちていく。

 高原が、運転席のほうを見る。

「おい怜、さっきから黙っていないで、メイン警護員として何か言え。」

 葛城は、前を向いたまま、そして少しためらった後、少し小さく聞こえる声で言った。

「望まないと、なぜ、思われましたか?茂さん。」

「・・・確信はありません。ただ、望んでおられない可能性があると、思いました。これまでの、クライアントのご様子を、全体を、考えると・・・。」

「はい。」

「それに、もっと大事なことは・・・今回の”攻撃”が、違法なものではない、そのことが、意味するのは・・・そして同時に、クライアントの意思が明確でないこと、それはもしかしたら、真に合法なことで、友に破滅させられることが、本人の望みである可能性さえある。だとするなら・・・」

 高原が、静かに微笑んだ。茂は、タオルでごしごしと涙を拭きながら、続ける。

「だとするなら、結局、我々は、何かを判断すべきではない、ということです。真に、クライアントの意思とか、・・・そう、自由とかを、尊重したいと思うなら。」

 葛城が再び口を開く。声がさらに小さく聞こえるが、明瞭さは増している。

「それでも・・・茂さん、手紙が燃やされたことで、たくさんの人が、救われました。そのことは、確かに、事実です。」

「はい・・・」

「比沙子さまのお考えも、結局は、誰にもわかりません。」

「はい。」

「客観的に考えれば、今回のことは、ほぼ完全に、我々大森パトロール側の敗北です。あらゆる面で、です。」

「・・・・・」

「それでも、私たちと、一緒に来ますか?」

 茂は、バックミラー越しに、葛城の目を見た。それは、京都のホテルのあの中庭で茂を見上げていたときと、とてもよく似た目だった。

 涙が止まった両目をしっかり開いて、茂は答えた。

「はい。俺は、高原さんや、葛城さんに、ついて行きます。」

 高原がもう一度茂の頭をぐしゃぐしゃにして、笑った。

「それはつまり、全然この先も、答えが出ないっていうことだよ。いいんだね?」

「はい。わかっています。」

「あきらめられない人間にとって、それは結構、つらいことだよ。」

「はい・・・」

 茂は目も鼻も真っ赤になった顔で、笑顔になり、高原の顔を見た。

「・・わかってます。」



 高層ビルの一室にある事務所で、板見から一報を聞いた吉田は窓から外を見下ろしながら、部下の帰りを待った。雨は止んでいるが、まだ外の空気が水を含み揺らいでいる。

 最初に事務所に帰ってきたのは、板見と和泉だった。戻るなり、和泉が吉田に詫びた。

「申し訳ありません。一番の目的を、達成できず・・・。」

 鼈甲色のメガネの奥の、穏やかな目を和泉に向け、吉田は「まずコーヒーでもお飲みなさい。」と言って先に応接セットのほうへ行った。

 板見が三人分のカップを持って最後にやってくる。

 地味な白いブラウスに地味なタイトスカートといういつもの姿で、セミロングの髪が額や頬を包み込むように覆っている吉田は、見たところ何の特徴もない平凡な容姿の女性だ。しかし、板見と和泉の様子は、彼女がふたりにとって特別で非凡な存在であることをよく表している。

「お客様の獲得に成功したこと。そのご依頼内容を、途中経過はともかくとしても、完遂したこと。まあ、最低限の成果は出たとはいえる。」

 静かに吉田が言い、板見と和泉がソファに浅く腰掛け、恐縮しながら聞いている。

「ただ・・・大森パトロールのあの新人警護員さん、もう少しのところだったと思うと、残念ね。」

「吉田さんは、成功率は低いだろうとおっしゃっておられましたが、成功した場合のメリットは計り知れない、と、今回わたくしにご許可をくださいました。せっかくチャンスをいただきましたのに、・・・・悔しいです・・・。」

 和泉の顔が青ざめている。

「そうね。私も、ちょっと悔しいもの。」

「吉田さん・・・」

「でもね。今回一番悔しい人は、たぶん・・・」

 事務所の扉を大きく開けて、酒井が入ってきた。



五 事務所


 少し離れた駐車場に車を停め、念のため三人は別々に、それぞれが少し回り道をしてから事務所へ戻った。

 雷雨がようやく収まり、少し空が明るくなっている。

「着替えあったかなー」

 高原が宿直室のロッカーを覗いている。

「これしかないか」

 着替えを二着取り出し、一着を茂へ投げてよこす。いつか葛城が泊まり込んでいたとき使っていた、ひざ下まである長いシャツ型の寝巻だった。

「こ、これですか・・・・?」

「文句を言うな。服が乾くまでの辛抱だよ。」

 葛城が二人の濡れた服を洗濯室の乾燥機に入れている。

 応接室で、茂はピッチャーから三個のグラスに麦茶を注いだ。ソファに座った高原と葛城に差し出す。そして改めて、床に正座をした。

「今回のこと・・・本当に、申し訳ありませんでした。」

 膝に両手をつき、頭を下げた。

「よいよい、許してつかわす。もう頭を上げろよ、河合。」

「そうですよ、茂さん。」

 葛城が立ち上がり、茂の腕をとってソファに座らせた。 

 茂は麦茶を一口飲み、先輩たちの顔を改めて見た。

 頭が冷静になればなるほど、客観的な事実とともに恐ろしい勢いで罪悪感が押し寄せてくる。

「いくら高原さんがスリングロープの名手でも、あの激しい雷雨の中を、俺を連れて一〇〇メートル下の地面まで・・・俺のために・・・本当に、何て言っていいか・・・」

「確かに、ちょっと間違えたら死んでたのは確かだねー。」

「・・・・」

「それに、通行人に大騒ぎされなかったのも、ある意味ラッキーだね。まあ、天気予報が雷雨だったし、大雨のときに上を見上げる人間はあまりいないことを、期待はしてたんだけどさ。」

 高原がメガネの奥の理知的な目に楽しげな色を浮かべて、茂の顔を見ながら、さらに続ける。

「河合、お前、スリングロープの降下訓練は何メートルまでやった?」

「さ、三十メートルです。」

「よかったな、じゃあ今日で一気に体験記録を三倍に更新できたってことだね。」

「は、はい・・。」

「・・・・なにかほかにも、聞きたいことがあるか?」

「あの・・・・あのマンション、大森パトロールが警備を請け負っていたと思うんですが・・・この後、大丈夫なんでしょうか・・・・高原さんたちのことがもしもわかったら・・・・」

 高原は一杯目の麦茶を一気に飲み干し、片目をつぶってみせた。

「大丈夫。俺たちは今日は、非番だ。」

 茂はなにも言えず、高原のグラスに二杯目の麦茶を注ぐと、頭を垂れた。

「俺に比べて、怜は、あまり悪いことはしてないよな。」

「そうだね。」

「葛城さん・・・?」

「はい。私は、晶生が屋上へ出るための、扉の鍵を、ちょっと同僚から失礼したくらいです。」

「・・・・・。」



 高層ビルの一室の事務所の空気が、帰ってきた長身の男性エージェントによって一気に変わる。

「お帰りなさい、酒井さん。」

「ああ、お疲れさん。」

 まだ雨に濡れている上着を脱ぎ、椅子にかけ、応接セットのほうへ歩いてきた酒井を、吉田が座ったまま見上げる。

「酒井、お疲れ様だったわね。」

「恭子さん、今回は、完全に俺の負けのような気がしてますわ。」

「そう?」

 酒井は吉田を名前で呼ぶ。そのまま向かいのソファに腰かけ、背もたれに体を預ける。板見がコーヒーの入ったカップを持ってきて、酒井の前のテーブルに置いた。

「ああ、おおきに。」

 吉田と和泉の空のカップに、二杯目のコーヒーを淹れるために板見がパントリーへ持っていくと、後から和泉がついてきた。

「和泉さん?」

「・・・淹れるの、手伝うわ。」

「・・・・あ、ありがとうございます・・」

「・・・あのね・・」

「はい」

「酒井さんが、”完全に俺の負け”って言うの、私、初めて聞いた。」

「・・・・」

「吉田さんが・・・おっしゃった、とおりだったわね。」

「・・・はい。」

 二人が新しいコーヒーの入ったカップを持って応接セットに戻ると、酒井はあの細身のダガーの柄を持ってもてあそんでいた。

「酒井さん」

 和泉が声をかける。

「ん、なんや?」

「あんまり悔しがらないでください。板見さんが、嫉妬しますから。」

「は?」

 目を丸くして、それから酒井は、長身を揺らしておかしそうに笑いだした。

「そうやな、確かに・・・うちにはもう、すごい新人が、おるもんな。」

「そうですよ。」

 酒井は再びソファにもたれ、頭の後ろで手を組んだ。

「それにしても、大森パトロールさん、なんか変人度にさらに磨きがかかってますな。特に・・・」

 吉田が、メガネ越しにちらりと酒井の顔を一瞥した。

「・・・特に、あの高原っちゅう警護員、かなりむかつくやつやわ。」

 和泉が目を少し見開いて、酒井を見る。

「ほかのやつとは、もう全然、クラスが違うわ。しかも、なんかちょっと俺と、キャラかぶってるやん。」

「そうですかね?」



六 土曜日


 英一の自宅は、門から車が入り、そのまま少し走ってようやく玄関にたどり着く。約束してあった客人が到着したのは翌日土曜の昼過ぎだった。

 父である家元からの舞の稽古を受け終わったばかりの英一が、着流し姿で客人を出迎えた。英一に匹敵するようなすらりとした長身の、メガネが似合う知的な青年が、一人で白い車から降りてきた。

「こんにちは、高原さん。わざわざご足労いただいてしまい、すみません。こちらから事務所へ伺いましたのに。」

「いえ、今回はお礼のご挨拶も兼ねてますから。」

 英一に導かれて、薄暗くてやたらと広い客間に高原が通される。

 家政婦の真木さんがお茶を出して部屋を去ると、高原は両膝に拳をつき、英一に向かって頭を下げた。

「今回も、本当に、ありがとうございました。」

「高原さん、そのようなことは、どうか・・」

 高原はやがて頭を上げ、知性と愛嬌の同居した目を少し緩め、微笑んだ。

「三村英一さんは、我々大森パトロールの大切なクライアント・・・お客様であるだけでなく、我々にとって、かけがえのない人ですね。改めて、実感しています。」

「身に余るお言葉です。でも」

 暗い部屋に、障子越しにかすかに入る日の光が、外がかなりの快晴であることを示している。

「でも俺は、大森パトロールさんから、いつも面白い勉強をさせてもらうのが、実は楽しみなんです。会社の同僚が勤めていることも、自分が顧客であったことも、たぶん、なにかのご縁でしょう。」

「我々などが三村さんに・・・お役に立っていることが、ありますでしょうか・・・」

 英一は昔の映画俳優のように、完璧に整った顔に、意外な笑顔を浮かべた。

「それは・・・あなた方のお役に立ってみたい、と、俺にちょっと思わせてくれることなどが、そうですね。」

 高原が少し目を丸くし、そして目を伏せた。

 しばらくして、高原がふっと顔を上げた。

「三村さん、そういえば、お尋ねしたかったことがあるんですが」

「なんでしょうか?」

「あの日の夜、なぜ、あの女性と河合とが公園で話すことを立ち聞きしようと、思われたんですか?」

 英一は、聞かれることを予想していたができれば聞いてほしくなかった、という感じで、苦笑をした。

「たぶん、あいつは、女性にだまされやすいし、それに・・・」

「それに?」

「俺は、女のことは、だいたいわかります。あのタイプは、一番やばい女のひとつです。」

「男を簡単にだますタイプとか?」

「いえ、男をだますような女はまだかわいい。あれは、強靭で真摯でしかもなにかを強く信じている・・・・つまり、本人も意図せずに、全身で相手の心に本気で入り込むタイプです。」

「・・・なるほど」

「男は、多分ひとたまりもないですよ、ああいうタイプにかかると。」

「・・・三村さん、すごいですね。さすがです。」

「・・・ありがとうございます。」

「あの、今度、うちの河合と葛城に、女性にもてる方法を、伝授してやってはもらえないでしょうか」

「はあ」

「・・・それから、俺にも。」

 高原は理知的な瞳にそれを上回る愛嬌を浮かべて、片目をつぶった。

 そろそろ、長居を避け帰ろうとした高原に、英一が最後に声をかけた。

「高原さん。あまり詳しくはお聞きしませんが、今回、河合は大森パトロールさんの仕事のやり方に、おそらくなにか疑問を持ったのでしょうね。」

「そうですね。」

「でも、今回の仕事で、一番迷われていたのは、多分、高原さんと葛城さんなんでしょう。」

「・・・そうですね。」

「答えは、多少であっても、みつかりそうですか?」

「・・・・無理かも、しれませんね。今回のクライアントのように・・・・長年の、友情のもつれのような、ものですから。我々の会社が、今あるのも、そもそも。」

「・・・・」

 英一は広々とした玄関まで高原を見送り、そのまま、後ろを振り返った。

 和服姿の、三村蒼風樹が、優しい笑顔で、会わずに返した客人の帰った後を見送っていた。

「事情は我々にはわからないけれど・・」

 英一のはとこであり、兄の許嫁でもある痩せた小柄な女性は、静かに言った。

「わたくし、阪元探偵社さんに依頼をしたことがある人間として、なんとなく、あの人たち・・・・大森パトロールさんの、お役に立たなければいけないような、気がするのよ。なんとなく、なんだけれどね。」



(第三話 終わり)

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