第二話 サクリファイス
一 バーとカフェ
河合茂は、金曜の夜を最も有意義に過ごすべく、駅前の商業ビルに入っているいつものバーへ向かった。
「いらっしゃいませ♪」
いつもの、髪を後ろにきりっとまとめた、ふたりの女性バーテンダーが可愛い営業スマイルで迎える。
「こんばんは」
茂はカウンターに座り、きょろきょろと周囲を見回す。
「河合さん、どうかなさったんですか?」
「いえ、なんでもありません」
「今日は何になさいますか?」
「えっと・・・やっぱり、モスコミュールにします。」
身長一七〇センチ、やせ形、子供のようなサラサラ艶々の茶色の髪、そして爽やかな童顔。これで、もうすこし締まりのある表情をしていればちょっとしたアイドルくらいならなれそうなのに残念な奴だ、と、カウンターの奥でグラスを拭きながら男性バーテンダーが憐憫の情でカウンターの茂を見ていた。
「もしかして、会社のお仲間と、お待ち合わせですか?」
「ちがいます!」
茂は大きく否定し、そして念のためもう一度周囲を見回す。やはり問題ない。これは縁起がよいぞ。
「もしかして、三村英一さんが、今日ここにみえるんですか?」
「は?」
「河合さん、お友達なんですよね。最近三村様、お見えにならないから、淋しくって」
茂は自分が珍しくこの店で遭遇せずに済んで喜んでいた人間の名前をもろに出され、大きくため息をついた。
金曜の夜が街を包み、酔客が終電を逃し徘徊する時間帯も過ぎ、夜から朝への密かな揺らぎが支配している地上の様子とは無縁のように、駅から少し離れた古い高層ビルの一室には、朝日を待ちかねるように静かに光が灯っていた。
いくつかのパーテーションに分かれたオフィスの、隅にあるテーブルでは、コンピューターのモニターを前にして、Tシャツとジーパン姿の長身の男性が足を組み座っている。
お盆に載せたコーヒーを持ってきた女性が、男性のすぐ後ろで立ち止まり、声をかける。
「酒井さん、コーヒー飲まれますよね?吉田さんに淹れるついでに淹れましたので、どうぞ。」
「ついでてなあ、和泉お前。たまには恭子さんより俺を優先せい。」
酒井はゆるやかな関西弁で答え、振り向く。和泉と呼ばれた女性は笑いながら湯気のあがるカップを置いた。
コーヒーを一口啜り、ななめ後ろの応接セットに座りやはり手にカップを持ちながらテーブルのスピーカーへ目を落としている女性のほうへ、酒井が目をやる。
女性は、外見上、特になんの特徴もない。中肉中背、平凡な顔立ち。白い地味なシャツにベージュの地味なスカートをはき、鼈甲色の縁のメガネをした顔をセミロングの髪が覆っている。
テーブルの上のスピーカーは、携帯電話につながっていた。
「そろそろですかね、板見くんは。」
「そうね。」
応接セットのソファに座っている吉田恭子が答えるのとほぼ同時に、スピーカーに男の声が入った。酒井より高く、そして不思議な透明感のある声だった。
「板見です。現場へ到着しました。店主の到着を待ちます。」
吉田がヘッドフォン型マイクから答える。
「お疲れ様。予定通り、よろしく。」
酒井が吉田のほうを見てなにか言おうとしたが、ふっとため息をつき、思いとどまる。
携帯電話の先の、板見と呼ばれた男は、雑居ビルの二階にある小さな個人営業のカフェの客席に座り、両肘をテーブルにつき両手を顔の前で組んでいた。身長はあまり高くないが、まっすぐな背筋やしっかりした肩とともに、宝石のような冷たい輝きかたをする大きな目が、彼に野生動物のような隙のなさを与えている。
店は閉店後・・・開店前で客用入口にはシャッターが降りている。二〇分も待たないうちに、ビルの内側のスタッフ用入口から、小柄な男が両腕に大きな荷物を下げて店に入ってきた。
男は店に明りがついていることに、続いて、店のテーブル席に見慣れぬ男が白いマスクをして座っていることに、驚いて一瞬立ちすくんだ。板見が宝石のような目で微笑み立ち上がる。
「おはようございます。はじめまして、マスター。素敵なカフェですね。」
マスターは踵を返そうとしたが、次の瞬間には喉元に板見の左手の細いナイフの刃が冷たく当てられていた。
「金庫の中の、携帯端末を、いただきたいだけです。言うとおりにしていただければ、お怪我はさせません。」
高層ビルの事務所では、スピーカーから流れるカフェ店内でのやりとりに、吉田がじっと耳を傾けていた。酒井が窓際の机で椅子だけ回して吉田のほうを見たまま、やはりスピーカーからの音声に耳を澄ましている。酒井が一言、言った。
「恭子さんの予想が外れたらええのにって、ちょっと思ってしまいますわ。」
マスターが金庫から出した携帯端末を、板見は指示してカウンターの上に置かせた。そのままカウンター内側のスタッフ用の椅子に、マスターの両手両足をガムテープで拘束する。暗証番号を聞き、端末のファイル内容を確認する。マスターが手足をもぞもぞと動かしながら板見をじっとにらむ。
「ここにバックアップをとっておられたことを調べるのに、ずいぶんかかりましたよ。データ消去に回しますが、まずは物理的に破壊もさせていただきますね。」
板見がナイフの歯を端末の接合部分に当てようとしたとき、マスターが声をあげた。ガムテープの拘束のまま、上体を無理にねじり、厨房の業務用ガスコンロによりかかるようにしてこちらを見ている。
「火花をあげると、爆発するぞ!」
業務用ガスコンロのつまみが、開かれていた。口で開けたのだ。ごく狭い店内にはすでにガス特有の異臭が満ち始めていた。ガス警報器が鳴り始める。さらにマスターは身をよじり、右腕の先を動かした。煙草の箱が床にポトリと落ちた。ガムテープに手首を拘束されたままの右手に、ライターが握られていた。
「端末を置いて出ていけ。一〇数えるうちにだ。そうしないと、心中だ。」
「・・・・」
「そうこうするうちに、警報器を見にガス屋が来るぞ。」
板見は、目を細めた。笑っているのだ。
「ガス警報器、よく点検しておられますね。」
そしてヘッドホン型マイクに小声で話しかけ、吉田の指示をあおぐ。
吉田は低い声で答える。
「証拠の破壊を優先しなさい。」
和泉が驚愕の表情で吉田を見た。次に酒井のほうを見る。酒井は和泉と目を合わせようとしない。
「わかりました。」
カフェのシャッターから朝焼けの光が漏れ始めていた。板見はナイフを携帯端末に当てた。
マスターの金切声が事務所のスピーカーから響き渡った。
「やめろおおお!!!!」
吉田がマイクに向かい、制止の指示を出した。
吉田の変更指示に従い、板見は端末のその場での破壊を中止し、店を後にした。警報器は激しく鳴り響いていたが、爆発は起こらなかった。
高層ビルの事務所ではその後もしばらくの間、和泉があっけにとられてスピーカーを見つめていた。酒井が苦笑した。
「あのマスター、ガス自殺未遂の前歴があるんよ。行動パターンってのは変わらんもんやな。」
「ひとつ間違えば本当に・・・」
「恭子さんは、あのマスターは死ぬ気はないと踏んでおられた。けど、板見っちゅう男・・・・あの状況で、平然とあそこまで恭子さんの指示通りに行動するとは、思わんかったな。」
「これは、もしかして・・・」
「そう、奴の恭子さんとの初仕事であると同時に、恭子さんからの洗礼やで。」
事務所の窓の外が、緋色の朝日に変わっていた。
和泉は、数日前に板見を初めて見たときのことを思い出していた。長身で猫背でちょっとだらしない風体の酒井をいつも見慣れているせいか、板見は、優等生のように端正な男に見えた。吉田に引き合わされた板見は、もともと尋常ではない輝きを持つ両目の光を、さらに強くして、自分とあまり身長の差のない吉田を見つめ、深く一礼した。そして恥ずかしげもなく、こう言った。
「吉田さんに憧れて来ました。」
その後、酒井はあきらかに機嫌が悪かった。和泉は尋ねてみた。
「これからすぐに、板見さんは吉田さんの下で仕事をするんですよね。ということは酒井さんと一緒ということですよね?」
「それは、初仕事の結果次第やろな。」
あのとき酒井が言っていたのは、このことだったのだろう。そして今回、彼は、それをクリアしたということになるのだろう。和泉は酒井がさらに不機嫌になっているのではないかと心配しながら彼の様子をうかがう。
酒井は、和泉の内心を察したように、天井をあおいで、言った。
「あいつはたぶん、恭子さんが死ね言うたらその場で自分の喉をかき切りよるな。でも、第二の洗礼はどうやろな。」
二 事務所と児童館
土曜日の朝、茂は平日昼間働いている会社の最寄駅の、駅と反対側のビルに入っている、大森パトロール社の事務所へ顔を出した。土日夜間限定で彼が警護員として働いている警備会社である。
従業員用入口からカードキーで入り、事務所内を覗くと、奥の打ち合わせコーナーに人影が見えた。
「おはようございます。河合です。」
「おはようございます。」
人影は、椅子に・・・いや、車椅子に、座っている。小型だが電動のものだ。車椅子の向きを変え、人影が茂のほうを振り向いた。それは、息が止まるような美女だった。
いや、美女ではない、美形だ。肩の少し下くらいまで伸ばした柔らかそうな髪が、美と愛の女神の芸術作品のような額、頬、顎にそって顔を縁取り、天然のアイシャドウをしたような艶めいた切れ長の両目、鼻筋、唇、すべてがこの世の常識を超絶した美しさである。頬に小さな赤い傷跡があるのも、一層表情の色香を増しているようだ。しかし残念なのは、この美貌にもかかわらず彼が女ではなく男であることと、その天上世界のもののような容姿には、その服装・・・オーバーサイズのひざ下まであるロングシャツ・・・が、さすがに興ざめであることとである。
大森パトロール社の先輩警護員、葛城怜だ。
茂は葛城に会ってからその美貌に慣れるまで数日かかったが、今も不思議なのはなぜ彼のような人間が警護員などしているのかということだった。
「葛城さん、今日もリハビリなんですよね。車で送る人間はいますか?」
「ありがとうございます、大丈夫ですよ。明日に変えてもらいました。今日は河合さんは初日ですし、やはり私も一日事務所で待機していたいので。」
葛城は前回の仕事で事故があり、左腕と左脚を骨折し、治るまでの間は車椅子を使っている。二人は打ち合わせコーナーのテーブルに置いてある携帯端末を囲み、今日からの業務内容の資料を最終確認した。相変わらず葛城の資料は精密だ。茂は感嘆を正直に口に出した。
「葛城さんの事前調査があると、仕事でどんなミスもする気がしないです。」
「ははは・・・。今回、私が実地でペアを組めなくなり、残念です。」
「葛城さんの代わりの高原さんは、確か前からのお知り合いなんですよね。」
「私が警護員になった日からのつきあいです。彼が一年先輩ですが。」
噂をすれば、従業員用入口が開くベル音がして、高原が早足で事務室に入ってきた。
「おはようございます。怜、こちらが河合茂くん?」
「そうだよ。河合さん、今噂をしていた、高原晶生警護員です。」
よろしく、と言いながら高原は茂へ右手を差し出した。茂は握手を交わしながら、この、葛城が新米警護員だったころからの付き合いだという高原をまじまじと見た。すらりと背が高いが、想像していたような屈強そうな男ではなく、むしろ全体のイメージは腕の良い外科医とか敏腕の科学者とかいった感じだ。清潔そうな白いシャツ、すっきりした短髪、そして波多野営業部長の百倍はよく似合っているメガネ。特にすごくハンサムというわけではないが、明るい表情と優しそうなまなざし。高校で科学の教鞭をとったら女子高生からたちまち大人気になりそうである。
「河合くんのことは前から波多野部長に聞いていたけど、聞いていたとおりの人だな。新鮮というか、斬新というか・・」
「???」
葛城が持っていた空き封筒を片手で丸めて高原の頭を叩く。
「いきなり失礼だぞ、晶生。」
「いいじゃないか、久々に新人に会ってうれしいんだ、俺は。」
「今度はこっちで叩くぞ。」
葛城はギプスをした左手を持ち上げて見せた。高原と葛城がちょっとの間互いを見合い、そして我慢しきれずに笑い出した。
携帯端末の画面を今度は三人で、確認する。
「河合くんがサブ警護員で入ってくれるのは、今日、明日、そして来週の土曜と日曜だね。クライアントのご趣味に、全部おつきあいする。俺は社員に扮しているが、河合くんは今回は基本的に建物周回警護と、俺の補佐だから、変装なしのロープロファイル警護だ。気楽にやってくれ。」
「連絡方法は携帯電話です。こちらです。」
葛城が茂に、高原が装着しているのと同じ、ヘッドフォン型のマイクのついた携帯電話を渡す。
「あと、念のためにこちらは予備の携帯電話です。服の中の目立たないところに装着しておいてください。携帯は事務所の私の机のスピーカーに24時間つながっています。私も今週は事務所に泊まり込んでいますので、時間帯に関係なく、必要なときは連絡してください。」
事務所の車で茂と高原は警護現場に向かって出発した。運転席の高原が茂に声をかける。
「さっき言い忘れたけど、今回のクライアントの例の事件については、大体読んだ?」
「葛城さんが事前に送信してくださったファイルにありましたので、目を通しました。気の毒な出来事でしたが・・結局事件性は無しとされたんですよね?」
「そうだよ。遺族側は告訴したが負けている。民事訴訟も係争中だが原告側の勝算は薄いそうだ。」
「法が裁かないならば自分の手で・・・ということなんですね。」
「同情するかい?」
「・・・・・そんなことはありません。」
二人は市の児童館に到着し、駐車場から受付へと向かう。受付にいた初老の男性と中年の女性が、もう始まっていますよと言って部屋番号を教えてくれた。階段を上りながら茂が高原に尋ねる。
「クライアントは我々の警護がしやすいようにこちらに来ておられるんでしょうか。」
「いや、もともと、現場にできるだけ立ち会う主義らしいよ。土日でも仕事があるときはね。大きな会社じゃないから人手を補う意味もあるだろうし。もちろん、あの事故よりも、前からそうだ。」
茂は手元の端末のスケジュール表を表示させる。午前は児童館で母親学級と合同の踊り教室。午後からプライベートだ。
三階まで階段で上がり、右手奥の引き戸を開け、大きな和室になっている部屋へ茂と高原はそっと入った。子供たちのざわめきが満ち、日本舞踊の曲が流れている。高原はサラリーマンの扮装にふさわしい白いワイシャツの襟をちょっと正しながら、ふと後ろの茂の気配がおかしいことに気づき、振り向いた。
「河合くん?」
茂が顔をひきつらせて硬直した理由は、もちろん、舞の講師が三村英一だったからだ。
自転車で、障害物をよけようとして障害物を気にすればするほど、そちらへ向かっていってしまうという。茂はこの法則を朦朧とした頭の中で再認識していた。
高原が茂の肩をつつき正気に返らせていると、部屋の隅に立っていた背広姿の小柄な中年男性がこちらへ歩いてきた。高原と茂の脇まで来て、小声で挨拶する。
「やあ、週末も引き続きお世話になります。」
「どうも。こちらが、土日の警護に加わります、サブ警護員の河合茂です。」
「河合さん、お世話になります。中央保育サービス(株)代表取締役の豊嶋謙司です。」
今回の、茂たちのクライアント、警護依頼人兼警護対象者である。背が低いのでよく見える頭頂部の髪がかなり薄く、老けた印象だが、顔をみるとそれほどの歳でもないようにも見える。
「土日はプライベート中心ということで、朝のご自宅から最初の用務地までの移動時警護はしていませんが、四日ともそのかたちで大丈夫ですか?」
高原が念のために尋ねる。
「大丈夫です。行きは息子の車で送ってもらっていますのでね。その後から帰宅までの間で、引き続き大丈夫です。」
「わかりました。今日も児童館のイベントは盛況ですね。平日よりすごいですか。」
「土曜だと、母親学級にお父さんたちも来て、家族イベントみたいになるんですよ、最近は。ボランティア希望者も急増しています。ただし、需要と供給のニーズがなかなかマッチングしない面もありますが・・・。ここの児童館さんは、でも素晴らしいボランティアさんを確保しておいでです。」
高原と豊嶋のふたりは、小声で話しながら、部屋の奥のほうへ行ってしまった。豊嶋の部下社員に扮する高原と、遠巻きの警護をする茂は、基本的に少し距離を開けての警護活動となる。
気が付くと日本舞踊の曲が止み、畳の床から出口側の土間へ降りてきた英一が茂の姿を見つけ、さっきの茂以上に顔をひきつらせてしばらく硬直していた。休憩時間にトイレに行く幼児連れのお母さんお父さんや子供たちが、そんな英一と茂の脇を抜けてどやどやと廊下へ出ていく。
着流し姿の英一は、相変わらずその完璧に整えた黒髪も、茂より高い身長から見くだす、文字通り上から目線の表情も、いつもどおりの感じの悪さだった。その顔立ちは不気味なほど整ってはいるが、現代風ではなく時代劇に出てくる剣豪そっくりだ。
「み、三村お前、なんでここにいるんだよ。」
「なんでって、舞を教えているだけだ。」
「児童館のボランティアでか?日本舞踊三村流宗家の御曹司のお前が、タダで児童館で教えてるってか?」
英一は師範も含め四十人の弟子を持つ身である。しかも平日昼間は茂と同じ会社でサラリーマンをしている。
「悪いか。」
なにも悪くはない。個人的に茂が不満なだけである。会社での英一は、絵にかいたような唯我独尊人間だ。仕事ができるので誰も文句は言えないが、同期入社の茂も顎でこき使う。そんな英一が、プライベートでなにかいいことをしているという事実は、茂にはあまり愉快ではない。しかも、女性ファンたちの姿が見えないところをみると、本当にお忍びでやっているようだ。
「お前こそ、こんなところで何をしている。」
訊きながら英一の顔にはいつもの不敵な笑みが戻っていた。茂の答えなど聞かずともわかっている、と言いたげだ。英一は、(本人の意思によるものではないが)茂の警護のクライアントだったこともあるのだ。
「仕事だよ。じゃ、俺は忙しいから、これで。」
「待て河合。警護しているのは、あそこにいるおっさんか?」
「業務上の秘密です。」
「じゃあ、隣にいるあのメガネの男は、大森パトロールの警護員だな。」
「だから業務上の秘密だってば。」
「なるほど・・・・」
英一はしみじみと高原を観察し、それから頷いた。
「大森パトロールさんは、葛城さんといい、あの警護員さんといい、お前以外は実に頼りになりそうな人材が揃っておられるようだな。」
茂は目いっぱいの横目で英一を睨みつけた。
休憩時間を挟み、舞の教室の後半も終わると、高原と豊嶋は高原の車で移動し、茂は公共交通機関で次の警護ポイントへ向かう。変装を要しないとはいえ、警護員の存在が目立たないことに越したことはない。スケジュール表を開く。今日土曜日の午後のプライベートは、知人の訪問と買い物だけだ。明日の日曜日は舞の公演鑑賞とギャラリーと絵画教室。次の週は・・・土曜が茶会、日曜はギャラリーのオープニングセレモニーか。
優雅なもんだ、と茂はふと思い、自分の頭にもあの「事故」のことがかなり影を落としてきたことに気が付いた。
吉田は彼女にしてはわりとめずらしく、優しい目で相手を見つめていた。相手が泣いている、ということもあるだろう。
「鈴木さま、最初にお会いしたときに、お話は全部わかったのですが、また訪問してしまってすみません。」
「いいえ・・・・」
鈴木と呼ばれた、泣いている女性は、ハンカチも持たずに両手を膝の上で握りしめ、なんとか声を出した。
狭い和室で鈴木と向き合い、吉田の隣に座っている和泉は、さっきからもらい泣きしそうになるのをなんとか堪えていた。これでも吉田の部下である。仕事において精神的な動揺をコントロールするくらいは、最低限のことである。
「そして、つらいことをまた思い出させてしまって、すみません。」
「いえ、いいんです。もう何千回、何万回、反すうしたかわかりませんから・・・」
「今日は最終のご確認が目的です。なるべく早く終わらせますので、ご辛抱くださいね。業務は、お約束の日、お約束の場所で、必ず決行をします。が、必ず、今お話ししたとおりの手順でご覧をいただきたいこと。ここまでは大丈夫ですか?」
吉田は相手をせかさず、ひとつひとつ進めていく。
「はい。やはり、豊嶋の頼んでいるボディガードは強力なんですか?」
「そうです。だからこそ、我々は、十分な準備をしています。決行当日は我々が確実に警護員を排除しますから、お客様はまったくご心配いりません。ご自分の動き方に集中なさってくださいね。覚えておいていただきたい人間は、こちらです。」
吉田に促されて、和泉は写真を二枚取り出し、鈴木に向けて机に置いた。板見の顔写真と全身写真だった。
「この者が、実際に決行をいたします。若いですが、優秀なエージェントです。」
「ちゃんと、やってくださいますよね。」
「はい。やり遂げる覚悟では、鈴木さまにも負けないと思います。」
鈴木は淋しそうに微笑んで頷いた。
「それから、決行後の、注意事項です。・・・・」
吉田は丁寧に、最後まで説明した。
鈴木さやかの家を出て、吉田と和泉は大通りに面した曲がり角で軽自動車に拾われた。二人が乗り込むと、運転席の酒井が静かに車を発進させる。
「大丈夫でしたか?女性だけで行ったほうが相手が落ち着くから、ってことでしたけど、あのお客様ほんまになんか、精神的に心配ですな。」
「心配になるのは、お客様のことに立ち入りすぎている証拠。酒井、あなたこの仕事何年やっている?」
「そうですな。すんまへん。・・・」
「まだ、なにか?」
酒井は信号待ちをしながら、ちょっと天井を見て、またすぐ前に視線を戻した。
「板見は、ほんまに、人を殺せますかね。」
三 クライアント宅と事務所
茂にとっての初日である土曜午後の警護は、短時間のクライアント知人宅訪問を除いては、骨董屋めぐりで終わった。豊嶋は古い浮世絵や西洋画、茶道具や書画を集めるのが趣味とのことである。
高原と豊嶋を乗せた車が豊嶋宅の車庫に入り、先に着いていた茂が道路の斜め向かいの電柱の陰から手をふる。
車から降りてきた高原と豊嶋が手招きしている。茂が走っていくと、豊嶋が笑顔で「お疲れ様でした、これから高原さんとうちでお話するんですが、よろしかったらご一緒に。お夕食も用意してありますので。」と言う。警護終了時刻を過ぎても一緒にいたがるクライアントはしばしばいる。大森パトロール社では基本的にそうした場合、断らないことになっている。
豊嶋の自宅はそれほどの豪邸ではないが細部まで神経の行き届いた、贅沢なつくりだった。細君が出迎え、客間に高原と茂を案内する。お茶が出され、細君が部屋を出て行ったのと入れ替わりに豊嶋が入ってきた。二人にお茶を勧める。
「今日も本当にありがとうございました。三十分ほどでお食事の用意ができますので。それまでの間、高原さんに今日は特別レクチャーを受けられるんだそうで。」
「?」
よく見ると豊嶋はすでに部屋着に着替えている。
テーブルの上に豊嶋がノートを広げ、高原にペンを渡し自分も手にした。茂がぽかんとして見つめる中、本当にレクチャーが始まった。
「5点お話しましょう。まず、腕をつかまれたときの外しかた。次に、体を後ろから羽交い絞めにされたときの抜け方。そして、鋭利な武器を向けた相手への対応。それから、ロープで縛られたらどうすれば抜けられるか。最後に、車が水中に入ったらどうするか。」
「ふむふむ」
豊嶋はノートに項目を箇条書きにしていく。
茂はあきれた。護身術の講義だ、これは。
テーブルを客間の隅によけ、高原は立ち上がり、同じく立ち上がった豊嶋の腕をとり、文字通り手取り足取り教えはじめた。腕をつかんだ相手の手を見て、どちら側にどう抜くか。腕のどこをどうすると相手の力が抜けるか。豊嶋に、自分の腕をつかませたり、自分に後ろからつかみかからせたり、ペンをナイフに見立てて切り付けさせたりして、ゆっくり見本を見せていく。茂の専門分野ではないが、たぶん合気道の動きを、ごく単純化したもののようだ。茂は、豊嶋が、高原と対峙すると身長差が大きく電柱とセミのようであるが、不器用ながらなかなかよく真似しているのでちょっと感心もした。
気づくと二人は今度はテーブルでノートを挟み話している。さっきの組み合い(?)の絵を豊嶋が描いているが、なかなか絵心があるようだ。そして豊嶋が描いた両腕の絵に、高原がロープの絵を描き加え、だいたいこういう風に結ばれますからここをこうして・・・と図解している。そのうち今度は自動車の絵が登場し、水中に車が入ったとき、その水没度合いに応じてどこをどういう手順で操作し脱出するか、順を追って解説が書き込まれていく。
茂は警護員研修を思い出した。こうした内容の研修は、それ以外のあらゆる警護員の技能と同様、今も定期的に受講している。
しかしもちろん、こうした物理的な護身術は、警護員に必要とされる技術・能力全体に占める割合は、ほんのわずかでしかない。ボディガードという仕事から世間一般の人々が想像するであろう、力技は、警護の実務では九十九%登場しない。登場させないことこそが、成功した良い警護であるからである。
ましてや、クライアントに、物理的な護身術をレクチャーしている警護員など、みたことがない。
「ふうー。なんだか、気持ちが落ち着いてきました。ありがとうございます。」
豊嶋は何度か護身術を高原を練習台にして実践してみた後、汗だくになって畳の床にあぐらをかいて座った。細君が現れ、お食事をお持ちしましたよと声をかける。
元の位置に戻されたテーブルに、夕食の皿が並ぶ。
「ささ、どうぞご遠慮なく。明日は午前は絵画教室とギャラリーです。午後はお楽しみの公演ですな。その後、今日のお礼に、お二人の肖像画を描いて差し上げますよ。」
茂と高原はその日の夜遅く、大森パトロール社の事務所に戻った。携帯で連絡したのでわかっていたが、葛城は本当に事務所に泊まり込んでいた。三人は今日の警護内容のレビューと、明日の予定を確認する。特に問題は何も発生しておらず、翌日の予定の変更もなかったため、三十分程度で確認は終わり、高原は「明日もよろしく」と言い残して先に帰っていった。
葛城と一緒に打ち合わせコーナーのパソコンの電源を切ったり書類を片づけたりしながら、茂は遠慮がちに声をかける。
「今日も泊まり込まれるんですね?何かお手伝いすることありますか?」
「大丈夫ですよ、車椅子で動くのにもずいぶん慣れてきましたし。」
「そうですか・・・。あ、麦茶飲みますか?」
「ええ、・・・ああ、そうですね。」
茂が持ってきたグラスふたつに、ピッチャーの麦茶が注がれるのを見たあと、葛城は茂の顔を見た。
「河合さん、今日は初めて晶生と・・・高原と組んでの警護でしたが、なにか気になることがありましたか?」
茂は言い出そうかどうか迷い、やめようかと思ったが、やはり訊いてみることにした。
「あの、今日、最後にクライアント宅に寄ったときに・・・」
高原の護身術のレクチャーの話を不安げに茂が話すのを、葛城はじっと聞いていたが、最後まで聞くなりちょうど口に含んでいた麦茶を飲み込もうとして、誤って気管に入れて激しく咳き込んだ。
「だ、大丈夫ですか?葛城さん!」
葛城は右手を挙げ、大丈夫というしぐさをした。顔を見ると、頬を真っ赤にして、笑っている。
「すみません、大丈夫です・・・・。なるほど、あいつがそんなことを。」
茂は葛城が苦しそうに咳き込みながらも、明らかに可笑しそうに笑っているのを見て、理解できずにいる。しかしそれと同じくらいに、葛城が他人を「あいつ」と呼ぶようなこともあるのだと、新しい発見をした感じもしていた。
「高原さんには・・・、よくあることなんですか?」
「たぶん、今回のクライアントが、かなり強い不安を感じておられると同時に、凝り性な性格のかただからでしょう。もちろん河合さんのご心配どおり、警護員がクライアントに護身術を教えるということは、普通はありえないことです。第一に、武術は警護員の役目でありクライアントの役目ではない。第二に・・・」
「第二に、クライアントが中途半端な護身術を行使することは、かえってクライアントの身を危険にさらす。」
「そうです。警護員マニュアルのイロハのイですね。しかし、高原は、クライアントが絶対にその護身術を使うような場面にならないという自信があるからこそ、そんな講義をしたんでしょう。」
「はあ・・・」
「亡くなった園児の命日が迫り、クライアントの緊張は、外からはそれほどわからなくても、相当なものになっているはずです。特に神経質な性格の、豊嶋さんのような方であれば、なおさらでしょう。いざというとき、自分ひとりでも身を守る道もある、ということを知ることだけでも、気持ちが落ち着くものだと、高原は判断したのでしょう。」
「そうなんですね」
「それに、実際に手や体に触れて指導したとのことですが、不安なときは、誰かに手を触れてもらうだけでも、安心するものです。」
「そうかもしれないですね。」
「ただ・・・」
葛城は、我慢しきれないように、再び顔をほころばせ、それをごまかすように麦茶をもう一口飲んだ。
「高原・・・あいつらしいです。普通はそれでも、いくらなんでもここまで破天荒なことはしません。しかも新人警護員の河合さんの前で。相変わらず酷い警護員です。」
「なんだか個性的なかたなんですね、高原さんは。」
「そうですね。」
葛城は何かを思い出すように、ちょっと窓の外の夜空へ目をやった。酷い、と言った言葉とは裏腹に、その目は少し嬉しそうにさえ見える。
「高原の、クライアントへの配慮は、すごいですよ。最近入った警護員仲間からは、ちょっと異常と言われるほどです。」
「葛城さんと高原さんは、大森パトロール社ができた最初のころから、いらっしゃるんですね。」
「はい。」
ふっと時計を見て、葛城は、時間まだ大丈夫ですか?という顔をした。茂は頷いた。
「当初からいる警護員は、高原と私と、あと二人だけです。四人の中で高原は一番年上で警護員歴も最長です。私は、晶生を・・・高原を、ガーディアンの見本としてきました。ずいぶんあいつには怒られたものです。」
「欠点が特にない葛城さんを怒るって、どうやってそんな」
・・・ガーディアン。大森パトロール社の警護員の中で、ガーディアンと呼ばれるのは一定以上の経験と実力を持つ、一部の者だけだ。葛城もそうである。
「警護員は、クライアントを、違法な攻撃から合法に守ること、それだけを考え、行動する。ほかのことは考えない。たったこれだけのことが、最初はなかなかできませんでした。」
「・・・・」
茂は、前回の警護で、自分がクライアントのお家事情を不必要に想像したりクライアントの性格を非難したりしてしまったことを思い出し、心の中で赤面した。
「合法に守る、ということが、特に最初は難しかったです。思わず、先手必勝、をやろうとしてしまったり。」
「へえー・・・葛城さんも駆け出しのころは血の気が多かったんですね。」
「高原は、これまでのおびただしい警護歴の中で、法に触れる行動や、触れそうな行動をしたことは、一度もありません。これは、警護員としては、実はかなり珍しいことです。誰しも普通は何度かは、過剰防衛や誤想防衛をしてしまうものです。」
「なるほど・・」
「しかも、クライアントが実害に遭ったことも、実に、一件もないんです。」
「ええっ!」
このことのすごさは、茂にもわかる。高原の警護歴で実害〇件というのは、なにかの奇跡以外の何者でもない。警護の現場では、クライアント自身の落ち度で警護が破たんすることも多いが、そうしたケースも含め無失点の全勝だということなのだ。
「すごいですね・・・・」
「とんでもないやつです。」
「葛城さん、なんだかうれしそうですね。」
同僚にここまですごい実績の持ち主がいるという事実は、同じ警護員としてプレッシャーには感じないのだろうか。
「そうですか?」
「俺だったら、同期入社の人間があまり人間離れしていると、自分が比較されそうで落ち込んでしまいます。」
「ははは・・・。あいつは、人間離れしているわけじゃありません。人間の持っている非常に良いものを、最大限に発揮する能力がある、そういうことなんだと思っています。」
葛城は柔らかい笑顔で茂に答えた。
四 児童館と公演会場
日曜日の午後のお楽しみの公演・・・とクライアントが言っていたのは、むろん、日本舞踊三村流地唄舞の公演である。
茂は無念無想の境地である。
茂が無念無想で午前中の警護会場である絵画教室兼美術ギャラリーへ向かっていたころ、前日の土曜日のボランティア講師をしていた児童館で、英一が受付のカウンターにいた。午後の公演前のあわただしい時間帯に、忘れ物に気付いてやってきたのだ。
「あの、これ、もしもまだ間に合うようでしたら・・・」
児童館の受付の老人と中年の女性に、午後の公演のチケットを手渡す。
「いつもお世話になっているのに、お渡しするのを忘れていてすみません。確か今日の午後、お時間大丈夫とのことでしたよね?」
受付のふたりは感嘆の表情で英一を見上げていた。
「三村さん、出番は・・・あ、最後から三番目だねえ。」
「夕方四時ごろですから、ここを三時に出られても間に合いますよ。ぜひお待ちしております。」
中年女性がにこにこしながら受付窓口越しに英一を見る。
「三村さんはこんな有名な踊り手さんなのに、こんな児童館でボランティアしてるなんてほんとに偉いね。」
英一は、ほかのどこでも見せないような、恥ずかしそうな顔をした。
「いえ・・・・俺が、その、楽しいですから、・・・」
「子供が、好きなんだねえ。あんたは。」
老人が目を糸のように細くしながら言った。英一の顔がさらに居心地悪そうになる。
「たくさんの子供たちの前で、あんたは、いつも極楽にいるみたいな顔してるからね。」
「い、いえ、未来の弟子を開拓したいだけですよ。それだけですよ。」
老人と中年女性は顔を見合わせて笑う。中年女性が英一を手招きした。
「ちょっとお茶でも飲んでいきなさい。五分だけ五分だけ。」
「は、はい。」
受付カウンター横のドアから英一を招き入れ、小さなテーブルの横の椅子に座らせ、中年女性はポットから急須に湯を注ぐ。
「豊嶋さんも、少しは三村さんのあったかさを手本にすりゃいいのにね。」
「そうだよねえ。あっちは子供相手の商売なら本業なのに。」
「誰ですか?」
「うちによく園児を連れてきている、保育所の業者さんですよ。なんとか・・・保育サービスの、社長さん。」
「うちの市の保育所とか、市立病院の託児所とか、あちこち手広くやっておられるけど、あの事件のこと、もうみんな忘れてきちゃってるんだかね。」
「何があったんですか?」
社交ダンス教室帰りの高齢者の集団が受付窓口の前を通過し、中年女性は少しだけ声を低くした。
「市の施設にいっしょになってる保育所があってね。そこで、園児が亡くなったのよ。そう、ちょうど・・・二年前の今頃だったよ。豊嶋さんの会社はね、そこの請負の業者だったの。園児が死んじゃって、市役所の人が園児のお父さんお母さんに色々説明をしたらしいけどね。でもやってたのは豊嶋さんの会社でしょ。なのに張本人の保育士さんは辞めて連絡つかなくなるわ、社長も全然出てこないわ、ほんとひどいほっかむりだったんだって。」
「園児が亡くなったのは、保育士さんの不注意とかなにかだったんですか?」
「わかんないのよ。検死っていうの、そういうのもやったみたいだけど。あ、解剖だっけ。でも、なんで亡くなったのかわからなかったみたいね。」
「裁判にはなったんですか?」
「警察に訴えたらしいけど、えっと・・・罪にはならないって、裁判所に言われたみたいよ。今は、別の裁判始めたらしいけど、豊嶋さんが仲間と話してるの聞いたことあるわよ・・・豊嶋さんたちが勝てることは間違いないんだってさ。」
「そうなんですね。」
英一は昨日遭遇した茂が警護していた背の低い中年男性のことを思い出していた。
「もしかして、昨日の日本舞踊教室も、見にこられてました?その社長さん。」
「ああ、来てたよ。最近はいつも若い社員さんつれてるね。」
「あの、立ち入ったことをうかがってもいいでしょうか・・・?」
「なに?」
もうさっきから話が十分立ち入っているが、英一は遠慮がちに訊いた。
「園児のご遺族は、豊嶋さんに復讐する、というようなことを言ったんですか?」
老人と中年女性はきょとんとした顔をした後、目をまるくして首をふった。
「そういうのは、聞いたことないよね?」
「ないね。」
街の中心の、ギャラリーが多く軒を連ねる通りで、茂は時間より少し早く到着し、路上でクライアントと高原を待った。絵に興味を持つ若い社員を一緒に連れてきた、ということで、絵画教室も高原を連れて受講するらしい。高原が茂の後ろから歩いて現れた。肩をたたかれ、振り向いた茂は朝から無念無想を早くも破られた。
「た、高原さん・・・」
高原はベージュの大きなエプロンをつけている。
「おはよう、河合くん。」
有能かつ快活な外科医か科学者のような高原の容姿に、あまりにも似合わない巨大エプロンの意味がやっと茂にもわかった。
「高原さん、絵を描く気まんまんですね。」
「もちろんだよ。」
高校で科学の教鞭をとったら生徒から勉強のことだけではなく、その他色々な相談もされそうな、あたたかく、人好きのする笑顔で高原が答える。
息子さんの運転する白い車に乗った豊嶋が到着した。降りてきた豊嶋は高原の姿を見て満足そうに大笑いし、ふたりは仲良くギャラリー兼絵画教室へ入っていく。息子さんの車が走り去るのを見送りながら、茂は自分も絵画教室に誘われないことだけを祈った。
ギャラリーの右隣も左隣もギャラリーだ。間口が狭く、奥行きが深そうである。葛城の事前調査資料で隣接する施設の構造もほぼわかっている。茂は、警護員研修で学んだことを頭によみがえらせながら、集中して建物まわりに目を配る。・・・襲撃されたときに防ぐのではなく、襲撃できる機会をつくらないこと。それは当たり前のことばかりであり、同時にまさに「言うは易し」な事々・・・・たとえば、物陰の近くに寄らないことであり、人目の届かない場所に長居しないことであり、そして・・・。
そういえば、初日にクライアントの買い物に同行したとき、茂の記憶になんとなくひっかかるものがあったが、それがなんなのか、今日になってもちょっとよく分からないでいた。が、ふと気づいて、もう一度葛城のつくったルートマップをよく見返してみる。
「ん・・・・」
1時間後、二人の絵画教室仲間と談笑しながら豊嶋と高原が出てきた。高原は絵具だらけのエプロンを外しながら豊嶋以上に笑顔で今日会ったばかりの年配の生徒二人としゃべっている。
これから四人で近所の喫茶店でコーヒーを飲んだあと、舞の公演を見に行くことになっているはずだ。茂は少し距離を開けて四人に追随する。茂はさっき開いたルートマップをそのままにして、高原と画面を交互に見比べた。
「えっ」
几帳面な葛城が完璧に入力したルートマップには、すべての曲がり角、置いてあるもの、隠れる影になりえるもの、何かを落とす落下点になりそうなところ、つまりはリスクのあるポイントが、数メートルおきレベルのメッシュで表示されている。今回の警護は半年前から依頼がされていたというから、前回警護のときよりさらに情報は細かい。そして、高原は、そのポイントポイントの全てにおいて、必ず危険ポイントの方向が、クライアントと自分と三角形の関係になるような位置取りをしていた。数メートルおきに現れるすべてのポイントにおいて、である。
「高原さん、ルートマップ全部記憶しているのか?」
そこまでなら、しかし葛城もやっていた。ただし葛城は、クライアントから離れた位置での警護だったこともあろうが、自分の位置取りをクライアントに合わせて常に調整するということまではしていなかった。しかも、今回の高原は、クライアントと談笑を続けながら、それをしているのである。
クライアントの横に立ったり、ちょっと話に興奮した様子で二、三歩前に出て振り返ったり、クライアントの後ろを回って絵画仲間の老人の肩をたたいたり、あの自然に見える動作は、すべてたったひとつの目的のために計算されたものなのだと、やっと茂は気がついた。
襲撃できる機会をつくらないこと。言い換えるならば、襲撃ポイントと自分との間にクライアントを入れないこと、自分の前方の視界の範囲にそれらが必ず収まっていること。これらを、三人の人間と大笑いしながら、バカ話をしながら、完璧に満たしているのだ。
「警護の仕事は、小さな完璧を積み重ねることです」・・・研修講師が、確かそう言っていた。茂は、今日、そのひとつの具体的な見本を見ているのだった。
喫茶店での滞在時間中、茂は四人から離れたテーブルに座りジンジャエールを飲みながら、警護以外のことをつい考えそうになる自分をコントロールするのに苦労した。豊嶋と高原を盗み見しながら、どうしてもシミュレーションしたくなってしまうのだ。・・・自分が犯人だったら、どうやって、豊嶋を襲うだろうか。あの高原の警護の壁を、いったいどうすれば、破ることができるだろうか。仕事上の必要からではなく、純粋な挑戦心で、考えてしまう。
・・と、四人のテーブルから激しい大笑いが沸き起こり、茂ははっと我に返る。見ると、高原が、ストローを鼻に指してアイスコーヒーを飲んでみせていた。
「・・・・・・。」
あれは、警護には関係なさそうだと、茂は確信した。
深呼吸し、無念無想に戻ってホールに入った茂の目にも、ロビーで三十人ほどの女性客に取り巻かれチラシにサインをする英一の姿は、どうしても目に入った。そして、英一も茂を見つけた様子で、女性たちに笑顔で一礼し、ずんずんこちらへ歩いてくる。茂はぎょっとして逃げ場を探したが、英一は茂ではなく豊嶋のほうへ歩いていった。
「すみません、ときどき児童館にいらっしゃっているかたですよね?そこでお世話になっている、三村です。児童館のかたにうかがったのですが、わたくしの教室をご覧くださって、今回チケットを買ってくださったのだとか・・・。おっしゃっていただけたら、差し上げましたのに・・・。ありがとうございます。」
英一にこんなに礼儀正しいしゃべりかたが出来るとは知らなかった茂は、あきれながら見ていた。豊嶋は愛想のよい笑顔で英一を見上げる。
「三村蒼英さんからこんなお言葉をいただくとは、光栄ですなあ。改めまして、豊嶋と申します。私は舞と能に目がなくって、ずいぶん拝見しておりますが、三村流はなんといっても気品が違います。別格ですよ。」
「身に余るお言葉です。」
茂は三村流は相変わらず商売上手だと感心しつつも、やはり英一の様子が多少不自然に思われ、高原のほうを見た。高原はさっきまで鼻からコーヒーを飲んでいたとは絶対に信じられない、快活かつ知的な表情で、にこにこと二人を見守っている。
「今日は私の茶道教室仲間と絵画教室仲間も、何人か来ているかもしれません。この公演は絶対観るべきだと、かなり強く勧めておきましたからね。」
「それはありがとうございます。それにしても豊嶋さん、多趣味でいらっしゃるのですね。」
豊嶋は褒められて顔を紅潮させてはっはっはと笑った。
「仕事のストレスもきれいに発散できますし、新しい活力をくれますよ、趣味というのは。今度の週末も茶会に、日曜日は美術ギャラリーのオープニングセレモニーですわ。恥ずかしながら私の作品も展示されることになりまして。」
「それはすごい!」
気が付くと英一と豊嶋は、高原にシャッターを切らせてツーショットの記念撮影までしている。
三村流の定期公演を最初から最後まで観たあと、茂はようやく英一関係の場所から解放されるとほっとしたが、ヘッドフォン型携帯電話に、高原から電話がかかってきてどきりとした。数メートル前の客席にいる高原が、こちらをちらっと見て、すぐに目をそらし、申し訳なさそうに電話越しに茂に言った。
「すまん、河合くん。今日も警護時間延長だ。クライアントが、三村蒼英と、これから食事することになった。」
「・・・・っ!」
「大丈夫、レストランはこのホールの庭の離れだ。すぐに終わるよ・・・・きっと。」
ホールを出ていく観客たちに混じって、和泉はかなり焦っていた。吉田がみつからないのだ。前回はどこにいても、仕事を終えた吉田をすぐに発見できたのだが。
「吉田さん、まさかなにかあったんじゃ・・・」
そんなはずがないことはよく分かっていても、少し心配になってしまう。
しかしその直後、ようやく上司の姿を発見したとき、和泉は今までみつけられなかったことに大きく納得した。
出口側であるこちらへ向かって歩いてくる和服姿の中年男性と、並んで歩いてくる女性。あれが「たぶん」吉田のはずだ。中年男性は背が高くがっちりとしていて、粋な着流しがよく似合っている。そして隣にいる女性は、和泉がきいていたとおりの服装、髪型をしているが、予想とまったく異なる点があった。
和泉が見ても、いったい誰だか、まったくわからないのだ。
「酒井さんが言ってたのは、このことなんだ・・・・。」
事務所での酒井との会話を思い出す。
・・・「和泉、なんか不安なことでもあるんか?さっきからなんべん鞄の中身出し入れしとんねん。」
「だって、前回の仕事でからみのあった三村流の関係者がたくさんいる場へ、わざわざ行かれるなんて・・・。吉田さんとはっきり面識のある蒼風樹さんはさすがにいないとしても、危険すぎます。」
「そのくらいのリスクは、恭子さんにとってなんでもないで。そんなことより、一分一秒でも長く準備時間を確保することが、百倍重要や。」
「それはそうですけど・・・」
「心配いらんよ。まあ百聞は一見に如かずやけどな。今日の恭子さんは変装してはる。恭子さんみたいに、外見にあんまり特徴のない人間は、そりゃもう、化けるで。」
背の高いがっちりした中年男性との談笑を終え、彼がホールの外に出ていくのを見送った吉田は、ゆっくりと和泉のほうを見て、そして目で和泉を促し一緒にホールを出た。
間近で吉田の顔を見た和泉は、どきりとした。きれいな色のポイントメイクをし丁寧に化粧した吉田の顔は、同性でも引き付けられるほどの色っぽさである。たっぷりした黒髪のウイッグ、黒のツーピースに青い石のチョーカー。色っぽいが下品ではなく、魅力的なやり手の女性という感じだ。
「お疲れ様でした、吉田さん。」
しばらくしてやっと和泉がそう言うと、吉田はいつもの静かな微笑みで部下の顔を見ずに答える。
「ありがとう。今日はわりと時間がかかったわ。お待たせしちゃったわね。」
「あの、ほかにも何か、お手伝いできることがありましたら・・・」
「そうね、それじゃあ・・・」
「はい」
「酒井の乗ってきてる車で、自宅まで送ってもらえる?今日は朝から喋りづめで、さすがに疲れたわ。」
「酒井さんが来てるって、ご存じだったんですね。」
「あれの行動パターンは、シンプルすぎるもの。」
和泉はリアクションに迷いながら、近くの駐車場で待っている酒井に電話を入れた。弱い風が通り過ぎ、吉田の黒い衣装からほのかな香水の香りがした。
小ぢんまりとしたコンサートホールを夕闇が包む頃に、緑の中の小さな離れになっているレストランは豊嶋の一行のほかはあと一組だけ客が入っていた。
着替えや挨拶があるので遅れてくる英一を待ちながら、豊嶋は高原と斜向かいに座りすでにビールを飲んでいる。ノンアルコールだったが。茂は豊嶋がさんざん誘ったが、警護業務に差し障ると言って(実際そうである)なんとか固辞することに成功し、レストランの外で待機している。
レストランに三組目の客がにぎやかに笑いあいながら入ってきた。豊嶋が「蒼英先生は来たかな」とそっちを見たとき、高原は反対方向へ顔を向け滑らかに立ち上がり、足音もなく近づいていた英一とテーブルの豊嶋との間に現れ、英一へあたたかい微笑みを向けた。
「お待ちしておりました。社長が蒼英先生はまだかまだかと大変で。ささ、こちらへ。」
「よく、俺がこっちから来るのがわかりましたね。」
「・・・・」
「ホールと反対側にあるあっち側の入口は、このホールをよく使う関係者以外は、普通は気が付きません。」
「ははっ。蒼英先生のオーラを感じたんですよ。」
笑顔を崩さず案内する高原に連れられ、英一が豊嶋の向かいの席についた。高原が英一の前で一発芸をしないことを祈りながら茂が外から見守る。
食事が始まり、遠目にも、話が盛り上がっていることがわかる。英一はこちらに背中を向けていて表情はよく分からないが、驚異的な愛想のよさでいちいち豊嶋の話に相槌を打っているようだ。
一時間ほど経った頃、高原がなにかを落としたふりをしてちょっとテーブルから体を外し、素早く茂に携帯で連絡してきた。
「河合くん、もうすぐ豊嶋さんの息子さんが来るけど、心配ないよ。」
本当にやってきた。駐車場からの階段を上がってきて、走ってレストランへと入っていく。両手で紙袋を抱えている。茂ももうよく覚えた、大学生らしい感じの息子はそのままテーブルの残りの席に座り、紙袋からさらに個別に紙袋に入れられた小さな絵画らしいものを二枚出している。絵は食事の終わったテーブルの上でお披露目をされているようだ。
そして豊嶋は英一にそのうちの一枚を選ばせ、英一は一枚を選び感謝して受け取っている。絵をもらったようだ。
その後しばらく豊嶋と高原は何度か言葉をやりとりし、高原がついに押し切られたような様子で立ち上がり、豊嶋に一礼した。豊嶋が会計をする。再び高原から茂へ連絡が入る。
「息子さんの車で、今日はこれで帰るから、本日の警護はこれで終了してほしいそうだ。」
「そ、そうなんですね。了解です。一応駐車場まで俺が見届けます。」
豊嶋親子が車で出発するのを見届けて茂がレストラン外の同じ場所に戻ってくると、高原と英一はなぜかまだ店の中で、立ち話をしていた。仕方なく茂はさらにそのまま店の外で待つ。
二人の立ち話が始まった理由は、レストランを豊嶋と息子が出たとたんに英一が顔から笑顔を消し、高原のほうを振り向いていきなりの質問を浴びせたからである。
「大森パトロールの、警護員さんですよね?」
「ええ?」
「百もご承知とは思いますが、俺は貴方と同じ警備会社の、葛城さんにお世話になったことがあります。今回も貴方と一緒に警護をしている、河合にも。」
高原は肯定も否定もせず、優しい表情のままじっと聞いている。
「俺は、ボディガードという仕事を、それまで軽蔑していたんですよ。カネさえもらえば、どんな人間のクズも、何も考えず腰ぎんちゃくのようにお守りする。」
「なるほど?」
「でも、河合も、葛城さんも、そういう類の仕事をしているわけではなかった。」
「・・・・」
「俺は正直、尊敬しました。しかし・・・」
「しかし、今回のこれは、いったいなんなのだろうか、と?」
英一の言葉に高原は初めて普通に言葉を返し、英一が頷いた。
「豊嶋の事件について、過去の新聞記事と市役所のインターネット公開文書を、ざっと読んでみました。・・・あなた方も当然やっておられることでしょうけれど。」
「三村さんは、勉強熱心なんですねえ。」
高原の、人好きのするあたたかい笑顔は少しも変わらない。
「昨日も今日も、貴方の警護は、まったくの隙なしです。さきほど俺の接近を阻んだのもそうでしたが、貴方は、相当に技術の高い警護員ですね。たぶん・・・あの葛城さんよりも、さらに上でしょう。」
「・・・・」
「貴方がたが・・・大森パトロールさんが、豊嶋のような人間を警護する理由は、何ですか?」
「・・・・」
「それともやはり、貴方がたも結局は、カネがもらえるなら何でもやるんですか。」
よく似合うメガネを右手で少し直し、英一の目をじっと見て、高原は答えた。
「悪人を、懲らしめたら、世間から褒めてもらえることでしょう。たしかに。」
「懲らしめよとは言っていませんよ。」
「私も、葛城も、大森パトロール社の始まりからのメンバーですが、我々は自分たちの責務は、なにかを判断することだとは思っていません。」
「・・・・?」
すっかり日が暮れた庭の森に、風ひとつない夜が訪れて、頭上で回転するシーリングファンの音が大きく響いて聞こえてくる。
「三村さん、貴方は、正義が何であるかを、判断しておられます。しかしそれは、貴方の価値観によるものです。」
「間違っていると言うんですか。」
「いいえ。一人ひとり、正義は違うということです。ですから我々が基準にするのは、法であり、それ以上も以下もありません。」
「・・・・」
「違法な攻撃の被害に遭いうる人間は、すべて我々のクライアントになりえます。そして我々は、クライアントを守るためには、違法なこと以外はどんなことでもします。」
英一は黙って高原の顔を見ていた。
その表情からは、彼が納得したのかしないのか、あるいは話すのをあきらめたのかは、わからなかった。
「何を話していたんですか?」
ホールから最寄駅まで徒歩で移動しながら、茂は声を張り気味にして、横を歩く高原に訊いてみた。
道路を行きかう車の音で、互いの声はかなり聴きとりにくい。
「河合くんの噂話だよ。前の警護のとき、活躍したんだってね。」
「絶対ちがいますよね。」
「もっと自信持ちなよ。」
「葛城さんや高原さんを見ていると、俺が自分に自信持つなんて永遠に無理そうです。」
「はははは。」
高原はこっちから行こう、と、道路を渡る歩道橋の階段を駆け上がり、茂もついていく。上がりきると、橋の上は地上の歩道よりずっと静かだ。
「怜も・・・葛城も、最初は酷いもんだったよ。信じられないかも知れないけどさ。」
立ち止まり、橋の上から下の道路をちょっと眺めて高原が言った。
「奴は、俺と一緒に大森パトロールに入ったんだが、俺はすでに一年くらいは経験があったが、奴はまったくの初心者だった。事前調査の細かさは今と変わらなかったが、その細かさをクライアントにも強要していた。移動時警護では、歩道を歩くときのスピードから車道からの距離、電車で乗る車両とドアまで指定して、当然のごとくクレームになってた。」
「へえー」
「襲撃犯と思われる人間を、実行行為に着手する前に取り押さえてしまい、俺に怒鳴られた上に社長から大目玉を食らったこともある。」
「ははは・・・・」
「そんなあいつも、今ではいっぱしの警護員だもんな。」
「有能なガーディアンだ、と波多野部長もおっしゃっていました。」
「仕事も場数を踏んでくると多かれ少なかれ惰性が出てくるのが普通だが、怜は・・あいつはいつもこれが最初で最後の仕事みたいに、空気を呼吸するみたいに、自分の全部を捧げるんだ。いつも、いつも。」
地上の道路から目を離し、ビルの隙間の夜空へ視線を移しながら、高原はあたたかさよりうれしさが勝ったような微笑みを浮かべて、言った。
茂は幸福な空気が胸に満ちるような思いで高原の横顔を見つめる。
「怜をみていると、自分も今よりもっと、真摯な仕事をしたいと思うよ。毎回、そうだよ。」
やはり自分が自信を持てる日はかなり遠そうだ、と、茂は思い、しかしそのことがひどく満足な自分が不思議でもあった。同時にまた、別の意味で、この二人の先輩警護員を、とても羨ましいと思った。
五 保育サービス社と阪元探偵社
翌日の月曜から、高原は再び単独での警護に戻り、茂は平日昼間に勤めている会社での仕事だけになる。引き続き高原の後方支援は大森パトロール事務所に詰めている葛城が担当している。
つまり茂は次の土曜日までは警護の仕事はオフなのであるが、なぜか毎日仕事帰りに事務所に顔を出していた。他の警護員仲間がいるときは席で、いないときは応接室で、その日の昼間の様子を葛城が話してくれる。夜になると高原が一度は事務所に戻ってくる。特段の予定外の事項や予定変更などがない限り、高原は簡単なレビューをすると三十分もたたないうちに帰っていく。そして月曜も、火曜も、水曜も、高原は二十分ほどで帰っていった。
木曜日は、会社で茂は珍しく(しかも英一関係ではなく)残業があり、事務所に着いたときは高原は帰ったあとだったが、やはり警護は特に問題なく順調とのことだった。
「なんだか張り合いがないくらいな感じですね」
茂はつい口に出してそう言ってしまう。小さなアクシデント類も含めここまで何事も起こらない警護は、見習いとしてではあるが過去の茂の乏しい警護経験では少なくとも記憶にない。
「これが、高原警護員の仕事、ということですよ。」
葛城は自分のことのようにうれしそうに言った。
児童館の入口から少し離れたところに軽自動車を停め、板見はハンドルに両手をかけたままじっと考え込んでいた。
となりに酒井が座り、遠慮もなしに喫煙している。
換気口が吸いこみ切れない白煙を、しかし気にする様子もなく、大きな宝石のような目で板見は酒井のほうを見て、先輩の意見を求めた。
「豊嶋についている警護員・・・・大森パトロール社所属の高原晶生。すごいですね。彼がついている限り、どんな襲撃も不可能だ。」
「そうやな。」
「あの警護会社が、なぜあんな人間をあそこまで手厚く守ろうとするのか、理解できません。」
「手厚く、というのは言い得て妙やな。有能な警護員に担当させているだけやなくて、その警護員の真剣さも、すごいわな。」
「はい。」
「お前、もしかして、俺らの仕事がほんまにうまくいくか、心配しとる?」
「いいえ。」
「なんやそうか。」
「不思議なだけです。」
大きな目を再び正面に向け、板見は続ける。
「僕は・・・尊敬するひとが、尊敬する仕事をしているから、自分も全身全霊でそのために行動できる。しかし彼らは、何をよりどころに、あそこまで仕事をすることができるのか。不思議なだけです。」
「相手の考えていることが理解不能というのは、不気味なもんやろ?」
板見が素直に頷き、酒井はこの生意気で第一印象も最悪だった後輩に、初めて少し親切心を覚えた。
「大森パトロールさんは、ちっちゃい会社やけど、そういう意味で、業界ではちょっと有名な会社さんなんよ。ようわからんけどなんや面倒な人たちやて、言われてるわ。お前も今回、ええ勉強になるかもしれへんな。」
「はい。」
タバコを灰皿に捨て、新しいタバコに火をつける。
「心配いらんよ。恭子さんが、罠を張り巡らしてはるわ。お前は、恭子さんの指示を、きちんと守ることだけ、考えることやな。」
「そうですね。ご指示の内容を、全部間違いなく、やってみせます。」
「気いつけや。失敗したもんは、消されるで。」
「・・・・」
「冗談や。」
「・・罠について、古典的な方法だ、と吉田さんがおっしゃっていましたね。」
「同意や。じつに古典的や。」
翌日の金曜日は、茂は午後、有給休暇を取り、昼過ぎから大森パトロール社の事務室に自主的に詰めていた。連日一人で泊まり込んでいる葛城の手伝いがしたいとの名目だったが、本音は、リアルタイムで高原の警護を少しでも体感したいと思ったからだった。
葛城が使っている窓際の長机には、二台の携帯電話が置かれ、いずれもスピーカーにつながっている。基本的に使っているのは一台のほうだけで、高原も茂もヘッドフォンとマイクがセットになったハンズフリーのものとして使っているものだ。そしてもう一台の携帯は、予備のもので、葛城が茂にも「どこか目立たないところに装着しておいてください」と言って渡したものである。メインの携帯電話に不具合があったときなど、万一のときのためのものだ。
メインの携帯から定期的に高原から報告が入ってくる。スピーカーから聞こえる声に茂も耳を澄ます。たいていは高原が話始める前に、バックの豊嶋の話し声や笑い声が聞こえてくる。
「楽しそうですねえ」
茂があきれたように言うと、葛城は困った顔で笑った。
「高感度の集音マイクつきですから、どうしても周囲の音を拾ってしまいます。」
続いてようやくスピーカーから高原の声。
「通常通話。今日はこれから茶道教室です。俺も習ってみないかと誘われ中。」
「通常通話。やってみてはいかがですか?」
葛城がまじめな顔で答える。「通常通話」あるいは「通常通信」というのは、文字通り、普通の電話であるという意味である。この前置きがない場合、話し手に何か非常事態が発生していることを意味する。警護の状況によっては省略することに決めることもある。が、茂はそうでない場合もいまだによく言い忘れて、よく怒られる。
「高原さんは、児童館での仕事のあと、茶道教室もおつきあいしてるんですね。」
「明日はお茶会だそうですから、それにも高原は同行するわけですから、今日のうちに茶道教室仲間にも紹介しておいてもらうつもりなんでしょう。」
「そして明後日はギャラリーのオープニングセレモニーか・・・。こっちは前の日曜日の絵画教室で既に会っている人々なんですね。」
茂は絵画教室仲間の前での高原の一発芸をまた思い出し、笑いをこらえるのに苦労した。
「今日の連絡は、この後の、警護終了報告でおしまいになりそうですね。」
「全て予定通りですね。・・・あ、そういえば、高原さんは場所が移動するたび連絡してこられるのかと思いましたが、時々、してこられないことがありますね。どういう場合にそうなるんですか?」
「・・・すみません。私にも・・よくわかりません。」
「・・・・・」
茂と葛城は顔を見合わせ、しばらく沈黙が支配した。
「彼独特の感覚みたいです。」
葛城の警護スタイルは職人的だが、高原のそれは芸術家的だと、茂は思い、道のりの遠さを思って心の中で大きなため息をついた。
茶道教室と今日の警護の終了の連絡があった後、高原は茶道教室で土産にもらったらしい和菓子を持って事務所に戻ってきた。
「お、河合くん、ついに今週皆勤賞か。偉いなあ。これ食べる?俺甘いもの苦手だからさ、持って帰ってきちゃったよ。」
「いただきます。」
茂は甘いものはかなり好きだ。箱を開けると、なぜか高級そうな生菓子が8個も入っている。
「お茶の先生と意気投合しちゃったんだよね。そんなにたくさんくれた。お点前も覚えたから、教えてほしかったら言ってくれ。」
「はあ・・・」
高原が、給湯室の冷蔵庫から麦茶のピッチャーを出して、グラス3個とともに葛城の机に持ってきて、順に注ぐ。
三人は明日の警護現場の資料をパソコンに映し出し、確認する。
「今回の警護で、初めて少し遠出になる。大丈夫、ケータイの電波は届くらしいから。」
「美術館に併設された・・・ここの茶室で、十一時に始まり、終了は十五時ごろですね。」
「四時間も正座したら、二度と立てなくなりそうですね。」
「大丈夫、途中で一度茶室の外に出て待つ場面があるらしい。河合は庭をはさんだ、この位置から周回警護をするが、現地には先乗りしてプレチェックを済ませたら、茶会開始後は基本的にこの定位置にいてくれ。」
「わかりました。」
「・・・河合。」
「は?」
「菓子と茶を交互にじゃなく、菓子を一気に食べてから茶を飲むのが正しい作法らしいぞ。」
茂は麦茶と生菓子を交互に口に入れていたが、思わずむせそうになった。
この分だと、明後日の美術ギャラリーのセレモニー前は、絵のうんちくを深夜まで語られそうだ。
「高原さんは、俺を斬新だっておっしゃいましたけど、高原さんのほうがずっと面白いと思います。」
「はははは。そうか?・・・あ、それじゃ俺はそろそろ帰るわ。そうそう、その生菓子、本日中にお召し上がりくださいと言われたので、よろしくな。」
「ええっ!」
高原はいつもの人懐っこい笑顔とともに去って行った。
「・・・・葛城さん、お菓子食べるの、手伝っていただけますか・・・・?」
「・・・実は、私も、甘いものは苦手なんです・・・」
「・・・・。」
六 茶会
土曜日、茂は茶会(正午の茶事というらしいが、始まりは十一時だ。)の会場である、美術館の庭に建てられている小さな一軒家のような建物・・・茶室へ、参加者たちより先に到着し、高原の指示どおり周辺のチェックをした。不審物、不審人物、ともに問題なしである。茶会が始まったら、茶室の周囲は関係者以外立ち入り禁止になるので、知らない人間が入ってくる恐れもない。
茂にとって少し残念なのは、茶会の間じゅう、高原はクライアントとともに茶室の中にこもってしまうし、もちろんさすがに静かな茶会の最中に携帯電話で話すわけにもいかないので、警護の様子を今日はまったく知ることができないことだ。
茶室の中からは数人の人の気配がする。高原は、これは茶会の中でも正式なもので、準備も運営も手間がかかると言っていたが、確かに忙しそうだ。
今日の警護で、茶室内の様子が外から見えないことは、不安材料ではない。亭主役も手伝いの人も、そしてクライアントとともに席入りする4人の客も、みな茶道教室でのクライアントの昔馴染みである。
さらに、供される食品はすべて、毒物混入の余地がないよう、当日の関係者以外の手を介さない手筈になっている。
茶室の構造ももちろん把握しているが、人が隠れるようなスペースはない。茂の主な役割は、外部から立ち入り禁止を破って茶室に近づく人間がいないかを監視し、いた場合は排除することである。
チェックを終えた後も、茂は茶室を囲む庭を何度か周回してみた。様々な、茂にはよく種類がわからない大小の樹が植えてあり、白い良い香りのする小さな花を無数につけているものもある。頭上には穏やかに晴れた空がひろがっている。小高い丘の上の広大な土地に建てられた平屋建ての美術館と、木々の緑のほかは視界を遮るものはなにもない。何度か深呼吸し、プライベートでこういう場所に来て、茶会ではなくピクニックをしてみたいと思いながら、茂は気持ちのよい空気をたっぷりと吸い込んだ。
茶会の開始時刻少し前、高原からの電話連絡で一行の到着を知り、茂は茶室の出入り口から見づらい庭の奥の樹の影に定位置を占めた。茶室の客用の入口から隣の寄り付き、庭を挟んだ美術館、そして庭の門まで全体が見渡せる場所だ。
程なく、五人の人影がしずしずと歩いてきた。ジャケットとスラックス姿の高原以外は、全員和服で羽織を着ている。狭い部屋で四時間もの正座を好き好んでする人種たちを、茂は興味深く見つめた。先頭は豊嶋である。
一行は寄付に入り、しばらくすると外のベンチのようなところに座り、そうかと思うとおもむろに立ち上がって皆で亭主役の人と黙って挨拶したりしている。茶室の外にいるときからもう茶会は始まっているらしい。そして全員、小さな入口から小さな茶室へもぐりこんでしまうと、茂はヘッドフォン型携帯電話から事務所の葛城へ電話をかけた。
事務所のスピーカーにつながっている携帯はオート着信設定がされており、ワンコールでつながる。
「通常通話。河合です。今、全員茶室へ入りました。」
葛城から了解の返事が来る。
酒井は、軽自動車の運転席で、やや遠慮がちに喫煙していた。助手席の和泉が、窓を開けておおげさに咳き込んで見せる。
「酒井さん、今日何本目ですか。受動喫煙の健康被害も考えてくださいね。」
「和泉お前最近だんだん、恭子さんばりに俺にきつうなってないか?」
「吉田さんみたいになれるなら、嬉しいです。・・・今回もやっぱり、あんまりお手伝いできてませんけど・・・。」
「そんなことないで。恭子さん、連日の営業活動でほんま神経すり減らしはったやろうけど、その日の仕事が終わるたびに迎えに行って、こまごました事務処理ひきうけたり食事用意したりしてくれるお前に、大分癒されてはったと思うで。」
「それならいいんですけど・・・。」
「今回の仕事も、明日の日曜日、お嬢さんの命日で完了や。明日は頼むで、和泉。」
「はい。」
「そして今日は、板見がちゃんと使命を果たすこと・・・それに尽きるな。」
ずいぶん長く待った後、一同がいったん茶室から出てきて、またベンチのようなところに座る。昨日の高原の説明では、食事が終わりデザートを食べて、あとはコーヒー、いや、茶を飲むのを待っているという状態だ。やがて鳴り物が鳴り、客たちはしゃがんで耳を澄ましている。本当に、おもしろい儀式だ。高原が一瞬こちらを見て舌を出したような気がしたが、茂は目を合わせないようにした。
再び携帯へ連絡。
「通常通話。懐石が終わって、これから濃茶・薄茶です。時間はだいたい予定通りに終わりそうです。」
茶室の中では、足のしびれと、折り曲げ続けられた膝の痛みとで、高原がいつもの愛嬌のある笑顔ではなく硬い表情になり、若干冷や汗もかいていた。豊嶋はにこにこしながら高原のほうを見て、小声で「緊張されてますなあ。まあ、初めての茶会の、最後のメインの茶席は、みんなそうですからねえ。」とささやいた。高原の左隣の客も、ほほえましげに笑いながら、「まあ、もう濃茶も終わって、あとは薄茶ですから、リラックスリラックス。」と高原に声をかけた。
土曜の午後の静まりかえった大森パトロール社の事務所を訪ねてきた長身の美男子は、ばつが悪そうに少し周囲を見回した後、意を決したように呼び鈴を鳴らした。返事がないのをなぜか喜ぶようにして帰りかけたが、インターホンから「はい、どなた様ですか?」という声がして、あきらめたように再び入口へ向かった。
事務室へ客を迎え入れたのは、車椅子に座った葛城だった。英一は一礼する。
「お仕事中に、お邪魔しましてすみません。父からの預かり物をお持ちしました。」
「三村蒼先生から?」
「はい。」
英一が左手に持っていた紙袋を手近な机の上にちょっと置き、中身を取り出す。薄い箱と、厚い箱が入っている。
「お送りするほうがお邪魔せずに済んだとは思うのですが、父がどうしても、葛城さんのところへ俺から直接お持ちするようにと。」
「お父様には、色々お気を遣わせてしまってすみません。本当にもう、お気になさらないで頂けたらと思うのですが・・・。」
「そうですよね。俺からも言っているんですが、聞く耳持たずで。今までどれもどうしても受け取って頂けなかったから、せめてこちらの品くらいは是非にと申しております。」
「こちらは・・?」
英一はまず薄いほうの箱を差し、言いにくそうに言った。
「こちらは、この間の襲名披露公演の、DVDです。」
「はは・・・ありがとうございます。是非拝見させていただきます。」
「それからこちらは」
次に大きいほうの箱を差す。
「父の愛用の老舗和菓子屋の、一番人気の生菓子だそうです。」
葛城は理性を総動員して微笑んだ。
「受け取って頂き、ありがとうございます。これで父もさすがにもう満足すると思います・・・。」
前回の警護での葛城の働きに感銘を受けた三村蒼氏は、葛城の入院中から、個室代金や車椅子レンタル料の負担、家政婦の手配まで申し出て、もちろんことごとく葛城に固辞されていた。
「ありがとうございますと、蒼先生によろしくお伝えください。」
「はい。お邪魔しました。それでは」
英一は踵を返したが、ちょっと振り返った。
「今日も、河合は警護業務ですね。・・・あのメガネの警護員さんと一緒に。」
「・・・・」
「先日の公演にお越しいただき、お話する機会がありました。メガネの警護員さんは、恐ろしく有能だ。それは技術的にもそうですが、それ以上に・・・・・。」
「・・・・」
「業界は違えど、あなたがたに、大森パトロール社に、改めて興味がわきました。色々な意味で・・・これからも、よろしくお願いします。」
茶室の茶道口から、亭主役の女性が薄茶点前の道具を持って入ってくる。メインゲスト・・・正客である豊嶋の分の薄茶がまず点てられ、作法通り豊嶋が正座のまま両腕のこぶしを畳につき、にじって薄茶の茶碗を取りに出る。ななめに客のほうを向いている亭主役の女性と、目が合った豊嶋の、表情が凍りついた。
それは、鈴木さやかだった。
他の客からは鈴木の顔は見えないらしく、亭主が入れ替わっていることに気付いたのは豊嶋以外には高原だけだった。
高原が立ち上がろうとしたのと同時に、他の三人の客が一斉に高原にとびかかり、床に組み伏せた。
高原に他の客たちがとびかかったタイミングとコンマ数秒ずらして、茶道口から音もなく茶室内へ現れた人影が、まさに影のように豊嶋の背後に回り、座ったままの恰好の豊嶋の両手を後ろから拘束し、抵抗する豊嶋に「大丈夫です、どうかお任せください」と声をかける。マスクの上に宝石のような両目を光らせた、板見だった。
うつ伏せに組み伏せた高原の両手両足も、ロープで拘束され、さらに口には猿轡がかまされる。客たちの手際は非常に良いとはいえなかったが、事前に練習をした、確実な行動だった 客たちは次に高原の首にかけてあったヘッドフォン型携帯電話一式を奪った。
板見が客たちに目で合図し、一礼した。三人の客たちは手早く室内にふたつある窓を閉じて中から施錠し、躙り口から茶室を出て行った。
軽自動車の運転席で三本目の煙草に火をつけようとして、酒井は和泉の鋭い視線に気が付き、踏みとどまった。
ヘッドフォンからの音声に耳を澄ましていた和泉が、スピーカーに切り替えた。
「始まりました。・・・予定通り。」
「そうやな。」
事務所経由で転送されてくる音声はやや音質が悪かったが、会話の内容は十分聞き取れる。
「茶事の客たちは、誰もまったく、疑っていませんでしたね。」
和泉は感心したような声を出し、すぐに少ししまったという表情になる。
「当たり前や。お前、恭子さんの力量を信じてなかったな、さては。」
「そ、そんなことは・・・。でもやはり、驚きました。三人がかりとはいえ、素人が、あの敏腕の警護員を本当に取り押さえてしまうなんて。」
「昔からの仲間ばっかりしかおらん茶室で、よそ者が入ることがありえない空間で、どんな人間も、やっぱり油断するわな。」
「はい。」
「あの三人のお客さんたち、ようやってくれはったわ。まあ、漫画とか映画とかやったら、客に変装しとった俺らの仲間が、ばっとマスクかなんかはぎ取って変装を解くっちゅうシーンなんやろうけど、現実の世界で、知り合いにもわからんくらいに他人に化けるなんていうことができるわけないからな。」
「そうですね。」
「あの三人さんは、あ、亭主の女性も入れたら四人は、間違いなく全員、豊嶋の旧知の友人たちや。その人間たちを、恭子さんは、ひとりひとり、落としたんやからな。」
「酒井さん、語弊がありますよ。」
「高原が、豊嶋を襲おうとしている犯人で、でも証拠がなくて、豊嶋も高原を完全に信頼して騙されている・・・・。言ってみたらこれだけのことやけど、このことを、完全に四人に信じ込ませた。」
客たちが出て行ったとたんに、板見はロープで豊嶋の両手を後ろ手に、足とつなぐようにして、動けないようしっかりと縛った。豊嶋は声をあげることもできないでいる。
板見は、縛った豊嶋を、点前座にいる和服姿の鈴木さやかと斜めに向き合うように座らせ、自分は豊嶋の真正面に移動した。床の上の高原からは、向き合う豊嶋と板見の横顔と、その奥に板見の影にかくれて鈴木の姿が少しだけ見えた。
豊嶋の喉元には、細いがよく光る、手術でも使えそうな華奢なナイフを、板見の右手がしっかりとあてていた。ようやく、豊嶋の体ががたがたと震え始めた。
高原は極力体を動かさないようにしながら、まず猿轡を緩めにかかる。素人が猿轡をするときは、される側の頭やあごの角度の工夫で、外しやすいかませかたをさせることができる。客たちにあまり経験がなかったため、すぐに顎から上は自由になった。胸ポケットのペンを前歯で噛み、そっと引き抜く。服の中の、予備の携帯電話に、音もなく発信スイッチが入った。
板見は大きな目で豊嶋をまっすぐに見つめて言った。
「このかたがどなたか、ご存じですね。」
豊嶋は汗のにじんだ顔でうなずいた。なにかしきりに声を出しているが、言葉になっていない。
茶室から客が三人だけ出てきたのを、美術館側から歩いてきた黒いスーツの女性が出迎え、水屋側の出口から出てきた女性も合流し、五人は美術館側へ向かって歩き始めた。
それらは極めて自然な様子で、茂が一瞬、問題認識が遅れたほどだった。
英一が別れの挨拶とともに一礼して葛城に背を向けようとしたとき、事務室奥の長机にあるふたつのスピーカーのひとつから、高音のコール音が二度鳴り、オート着信で通話状態になったのがわかった。
葛城の顔色が変わった。
「・・・・どうされました?」
「すみません、仕事がありますので、これで」
車椅子を回して机のほうへ戻る葛城を見送り、英一は入口ドアのほうへ向かった。
葛城が長机前まで戻ると、高原の、予備の携帯電話とつながっている携帯のほうのスピーカーから、暗騒音がしばらく流れた後、人の声が入った。低く抑えられてはいるが、高原の声だった。
「侵入者あり。河合は入れるな。」
葛城は黙ってスピーカーに耳を澄ます。こういうとき、相手が求めるまでは、こちらからは絶対に話してはいけない。警護の基本である。
予備の携帯電話の集音マイクが拾った、室内の会話が聞こえてくる。葛城はさらにスピーカーの音量を上げる。聞き覚えのない、若い男の、抑揚のない声が聞こえてくる。
「豊嶋さん。覚えておいでですね、ここにいらっしゃる鈴木さんが、一年前に貴方に言った言葉を。」
「うう・・・・」
「言ってみていただけますか。」
かなり時間がかかったが、豊嶋の絞り出すような声が聞こえてきた。
「”娘の・・・次の命日より後に・・・・貴方は生きてはいない。”・・・」
「そのとおりです。」
「お前は、わ、わたしを、ころすのか」
「その前に、こちらの鈴木さんが、お尋ねしたいことがあるそうです。」
鈴木さやかが両手を握って膝に置いたままの姿勢で、豊嶋の顔を見て、口を開く。細いが芯の明快な声は、高原の携帯の小型集音マイク越しにも十分に葛城のスピーカーへ届いた。
「娘が亡くなった日、保育士さんは、二十分おきに娘のことを見てくれていたんですか?」
沈黙があとに続く。若い男の乾いた声。
「豊嶋さん、答えていただけますか?」
「し・・・・市役所からの、説明のとおりです・・」
大森パトロールの事務所の、長机に設置された、茂の携帯からのスピーカーに着信音が入った。
「通常通信。不審なことが起こりました。茶室から客が三名と亭主役の女性の計四名だけが出てきて、美術館方面へ向かいました。迎えに出た未知の女性と一緒にです。」
茂の早口の報告が入ってくる。
茂のヘッドフォンに葛城の声が入った。
「了解しました。高原から別途連絡を受けています。河合さんはそのまま予定通り警護を続けてください。」
「は、はい、わかりました。」
・・・・警護業務中の警護員が、ペアを組んでいる人間より後方支援の人間に先に連絡をする、ということが、今のケースにおいてどれほどの異常を意味するか、まだ茂は気づいていなかった。
「貴方にお尋ねしているんですよ、豊嶋さん。」
「・・・見ていました。」
鈴木が板見のほうを見る。板見がうなずく。板見は、首をちょっと傾けて、豊嶋を侮蔑するように目を細めて、言った。
「大変申し訳ないのですが、我々は専門の探偵社です。御社の、ご退職した保育士さん三名から、お話をうかがっております。現役の社員のかたからも。」
「それが、どうだというんですか」
「書類を処分される前に、コピーを手元に残していたひとが、二人もいました。」
再び、さっきより長い沈黙。
「豊嶋さん。真実を言ってください。証拠で真実がわかっても、なんの意味もないのです。貴方の口から、お聞きしないことには。貴方に、地獄に堕ちていただきたくはありませんしね。」
板見の右手が、ナイフをさらに強く豊嶋の喉元へ押し付ける。
豊嶋の額から汗が吹き出し、流れ落ちる。
「保育士は・・・・二度目の見回りを、し、失念・・・しました。」
「そうなんですね。」
「でも」
豊嶋は懇願するように顔を上げて、少し声を大きくした。
「でも、それはよくあることなんです。大したことじゃない。別に大したことじゃない・・・」
板見の宝石のような両目が、硬く冷たい光を帯びる。
「普段から、よくあることだった?」
「現場は、人手が足りない。保育士はすることが多い。いちいちマニュアル通りの見回りをしていたら、それこそ・・・」
「それこそ、現場はまわらないと。」
「どこでもやっていることです。それに、問題もないはずなんだ。マニュアルは厳密すぎるし、不必要に・・・実際の必要以上の、内容になってるんです!」
鈴木が再び口を開いた。
「どうして、本当のことを言ってくださらなかったんですか?」
「・・・・」
「市役所の人の説明では、マニュアルは守られていたということでした。」
「・・・・」
「請負業者のあなたたちは、保育士さんがたった一度、うちに謝りに来ただけで、社長のあなたは一度も来なかった。市役所の人しか来なかった。」
「あ、あの託児所は市の施設で、うちはただ・・・」
「保育士さんも、それから二度と来なかった。会ってもう一度話を聞きたいと頼んだけど、市役所の人が、保育士さんたちは精神的に参っているからもう来られないって・・・。精神的に参ってるって。じゃあ、親の私の精神って、どうすればいいんですか。」
「・・・・」
「もう一度調査してほしいって頼んでも、なにもしてくれなかった。解剖の結果が問題なかったって、それだけだった。」
「あれは本当に原因不明の突然死なんです!見回りに行かなかったこととは関係ない!」
鈴木はうつむいた。
「・・・・そんなことは、わかっています。」
「え・・・」
「そんなことはよくわかっています。ちゃんとこちらが理解するまで、ちゃんと責任もって、説明してさえくれたら。調査に協力さえしてくれたら。私の望みは、それだけだったんです。それだけだったんですよ。どうして、たったこれだけのことを、してもらえなかったんですか。」
「・・・・・」
「子供が亡くなった親に、真実を知る権利って、ないんですか。うそをつかないでくれって言う権利って、ないんですか。」
「・・・・・面倒が、嫌だった。」
豊嶋の、声のトーンが、一段下がった。
「ただただ、面倒が、嫌だった。親は、子供が死ぬと、なんでも保育園のせいにする。そういうもんだから。面倒が、いやだった。」
「なるほど。マニュアルを守っていなかったことがわかれば、そのせいにされかねない。そういうことだったのですよね、豊嶋さん。」
板見の乾いた声が響いた。
「そうです・・・」
「貴方は、家族を守らなければならないし、会社も守らなければならない。」
「そうです」
板見はふーっと息をはき、胸ポケットから小型録音機を取り出した。
「高音質で、録音をさせていただきました。ありがとうございました。なお、中継でうちの事務所にもつながっていますので、バックアップもばっちりです。」
中腰になっていた豊嶋が、そのまま床にぺたりと座り込んだ。
高原はすでにわからぬように両手両足のロープの弛緩もほぼ完了していた。
板見は、録音機を胸ポケットに戻し、鈴木のほうを向いた。鈴木を見た板見と高原は同時に顔面蒼白となった。
鈴木が、どこからか取り出した細い刃物を、自分の喉に向け、立ち上がり一歩下がったのだ。
「鈴木さん!?」
葛城の目の前のスピーカーに、コール音が鳴り、再び茂の声が・・・さっきよりトーンが上がった声が入ってきた。
「葛城さん、教えてください、中でなにか起こっているんですよね。」
「・・・・」
「豊嶋さんと高原さんしかいない茶室から、高原さんが俺に直接連絡してこれないはずがありませんし、さっきから一〇分以上経過しています。」
「・・・・」
「葛城さん!」
「・・・わかりました。でも河合さん、クライアントの生命を守るため、私の指示に引き続き絶対に従うと約束してください。」
「なっ・・・」
「室内に侵入者があり、高原は身体を拘束されている模様です。そして、クライアントの安全のため、外部からの干渉を避けねばならない事態にあります。これは現場の高原の判断です。」
緊急事態が想定され、情報が不確実な場合、現場にいる警護員の判断が何よりも優先される。警護のこれも基本である。
隣の、高原の予備用携帯につながっているスピーカーから、鈴木の金切声が聞こえた。葛城側からの発信は集音マイクではなく通常の通話口のためスピーカーからの音が茂に聞こえるこはまずないが、葛城は早々に茂との通信を切った。
鈴木が自らの喉に刃物の先を強く当てながら、今度は横向きに・・・豊嶋の背後へと、さらに移動をした。首に強く刃物が当たり、血がにじんでいる。
「ありがとう、探偵社さん・・・。これで、もういいです。」
「鈴木さん!」
高原は鈴木の表情をじっと見る。鈴木の目から、涙がどんどん、どんどん、流れ落ちてくる。
「この人を、殺して、私も今日、娘のところへ行きます。すみません。」
板見が床を蹴ろうかどうか迷ったのを、高原が止めた。
「距離がありすぎだ。この人、本気だよ。」
板見は高原を振り返り、そしてもう一度鈴木のほうを見た。まだ、とびかかる隙をうかがおうとしているようだ。
「来ないでください。一歩でもこちらへ来られたら・・・私ひとりで、今、死にます。」
ヘッドフォン型の携帯電話で指示を仰いできた板見に、吉田は美術館の広い窓から茶室を眺めながら、一言、答えた。
「お客様の生命を、優先しなさい。」
板見は鈴木を再び見た。彼女の首にきつく当たった刃物の先から、既に一筋の血が伝わり落ちている。
「わかりました、鈴木さん。そちらへは行きません。」
「そこから、出て行ってください。出て、扉を、閉めて。」
鈴木は板見の背後の躙り口のことを言っているのだ。水屋側の出入り口は内側から施錠してあり、躙り口から出るともう茶室内に潜む方法はなくなる。
「わかりました。」
後ろ向きに板見が一歩下がる。床にまだ伏せたまま手足のロープを外していない高原の、横をゆっくりと過ぎる。
「ナイフは、そこに置いて行ってください。」
言われたとおり、板見は右手のナイフを床に置き、躙り口を開け、こちらを見たままゆっくりと外に出た。躙り口が閉まる。
茂は、板見の姿を認識したが、葛城へは連絡しなかった。とっくの昔にあの人間のことも葛城は把握しているはずだ。
まだ葛城からも高原からも連絡がない。室内にはあと、誰がいるのか。
鈴木は、予告したとおり、豊嶋の首へナイフを向けた。高原から見て横向きに座っている豊嶋の向こう側に鈴木が立ち、豊嶋の横顔のちょうど目の前に、鈴木の右手に握られたナイフが、まっすぐに豊嶋の喉元へ向いている。
豊嶋は再びがたがたと震え始めていた。
高原は鈴木の表情をうかがいながら、ゆっくりと声をかける。
「鈴木さん、その人を殺しても、意味がありませんよ。」
「・・・・・」
鈴木の目は、既に正気を失っていた。高原は落ち着いて話し続ける。
「社長さんは、後から事実を知って、隠しましたが、事実をつくりだした人ではありません。」
「・・・・?」
「私は、社員です。当時、あの託児所の責任者をしていた者です。」
「え・・・・」
「ひとつ、私の話を聞いてもらえないでしょうか。」
高原が、すっと体を起こし、立ち上がった。緩められたロープが床に落ちる。
「来ないで!」
「ぐわああ・・・!」
ナイフの先が豊嶋の首に食い込み、赤く腫れて血がわずかににじんだ。
高原が両手を上げ、一歩下がってみせる。
「そちらにはいきませんよ。なにもしませんから、安心してください。」
鈴木は汗のにじんだ顔で、カッと目を見開いたまま、高原を凝視している。
「託児所の保育士さんを指導していたのは、直接はこの私です。このまま社長が殺されたら、罪悪感でこの先私は生きていけません。」
「・・・扉の鍵、閉めて。」
躙り口の鍵を施錠するように、鈴木が求めた。高原は鈴木のほうを見たまま下がり、後ろ手に躙り口の掛け金をかけた。
「貴方のせいなの・・・・?本当なの・・・・?」
「そうです。」
そして高原は、即興の自供を、なるべく時間をかけてやり始めた。
ほんの少し、背中をこちら側にずらした豊嶋が、もぞもぞと動きながら、少しずつ腕のロープを緩めようと試みていた。
高原は話の合間に、小さな、携帯電話の集音マイクにだけ拾える低い声で、葛城へ状況を伝えていた。
長机の上のスピーカーにコール音が入り、茂の懇願の声が聞こえる。
「お願いです、葛城さん。中の様子を教えてください!」
「指示内容に変更はありません。」
「どうしてですか!」
「クライアントの安全に、リスクを生じさせないためです。」
「つまり、高原さんの身が、危ないんですよね?助けに行かせてください。クライアントにリスクが及んでも、両方助ける道があるのなら!」
葛城は唇を噛み、両手の拳を握りしめて机の上に置いたまま、応答しない。
そのとき、葛城は普段であればとっくの昔に気付いていたであろう人の気配に、ようやく気が付いて振り返った。
事務室の入口に、英一が立っていた。
「すみません、葛城さん、とりあえず一通り聞きました。」
「・・・・!」
「美術館施設のほうは、おそらく敵の工作で、援助の期待はできない。警察は、あの山中、まず時間的にも間に合わない。一番近くにいるのは河合です。なぜ突入させないんです?」
「突入は危険すぎます。運が良くてもクライアントは負傷、そして高い確率で生命に危険が及びます。」
「それが現場のメガネの高原さんの判断で、そして葛城さんの判断なんですか。」
「そうです。」
関係ない者は事務所から出て行ってくれ、と葛城は言うこともできたはずだが、なぜかその言葉が出てこなかった。
「いずれ豊嶋は縛めを解くでしょう。両手が使えれば、鈴木より豊嶋が強いでしょう。縛めの解き方は、教えてあり、彼はそれを実行できます。しかし少し時間がかかります。それまでの間、時間が必要なのです。」
「高原は、鈴木に、自分を殺させようとしているんじゃないのか!?」
葛城は答えない。
周囲への配慮も忘れてヘッドフォン型携帯電話に懇願していた茂は、やはり、普段であればとっくに気づいていたであろう人の気配に、初めて気づきぎょっとして顔を上げた。
板見が、マスクをしたまま、茂の前にいた。
「大森パトロール社の、河合さんですね。」
鈴木は数分間、高原の話を聞いていた。
「貴方の言うことがほんとうなら、社長さんより先に死んでもらわないといけない。」
「そうですね。鈴木さん、だから社長さんのところではなく、こちらへ来てくださいませんか?」
「証拠をみせて。」
「・・・・」
「そのナイフを拾って。」
高原のすぐそばの、畳の床の上で光っている、板見が置いていったナイフのことである。
「そのナイフで、腕を切り裂いてみて。」
大森パトロールの事務室で、英一と葛城が、顔色を変えていた。
高原は、鈴木のほうを見たまま、ゆっくりと、いつもの人好きのする優しい微笑みを浮かべた。
屋外から夕昏の迫る気配がしている。畳に、窓の隙間を抜ける西からの長い陽光が届き、ナイフが鋭く反射する。細く鋭利なナイフの柄を持ち、高原がそれを拾い上げる。
スピーカーから茂の声が入ってくる。
「葛城さん、許可をください!絶対に両方助けますから!」
「・・・・」
「どうして、警護員が100%犠牲にならなければならないんですか!」
高原の右手のナイフが閃いた。
血がばたばたと畳の床へ落ちた。高原の左腕がシャツの袖ごと大きく切れ、傷口から大量の血が流れ落ちていた。
「たくさんの・・・血ね・・・・・」
「うそじゃないでしょう?」
英一が葛城につかみかかった。
「奴は、子供死なせてばっくれた人間のクズだろう!?なぜお前たちが命をかける!?」
「それが我々の仕事だからです。」
茶室を取り巻く緑の木々にも、夕闇の予感に満ちた温かみのある光が届き始める。風がざわめきながら渡り、白い小さな花びらを無数に散らしていく。
常軌を逸した声で、鈴木が言葉をつなぐ。
「うそじゃないとわかった。じゃあ、死んで。」
豊嶋の腕のロープは既に数本が弛緩し、あと少しで勝敗が決することを示していた。
「河合に指示を出すんだ。ほかに何がある!?」
英一は床に両膝をつき、葛城の両肩をつかみ、揺さぶるように説得した・・・というより懇願であった。
英一の腕から逃れるように体を捻った葛城の、両手首をつかまえてもう一度こちらを向かせようとしたとき、英一は葛城の両手のひらに、赤い血の跡があることに気が付いた。爪にも同じ色。
おそらくは今まで長時間、非常な力で握りしめていた手の、両の爪が手のひらに食い込んで、できた傷だった。
英一は立ち上がり、一言「失礼します」と言うと、ものすごい勢いで右手で葛城の頬をひっぱたいた。
狭い事務室中に響くような音とともに、左頬を平手打ちされた葛城が、車椅子ごと長机にぶつからんばかりによろめいた。
そして、耳をつんざくような英一の怒号が響いた。
「目を覚ませ!」
葛城はよろめいたままの恰好で驚愕の表情をしていたが、やがて真っ青な顔で再び英一のほうを見た。今度は葛城のほうが、なにかを懇願するような目を、していた。
英一が、止めを刺した。
「葛城さん、貴方も高原さんも正しい。でも、あのボケの河合のほうが、まともですよ。」
疾風とともに目の前に白い花びらが舞い、茂が目を閉じたとき、葛城から茂の携帯に連絡が入った。
「河合さん、突入をお願いします。」
「はい!ありがとうございます!」
「豊嶋さんと高原のほかに、女性がひとり室内にいます。点前座と床の間の間あたりのはずです。彼女は豊嶋を殺して自分も死のうとしていますが、その前に高原に自殺を迫っています。女性も高原もナイフを所持。豊嶋さんはロープで縛られていますが、もうすぐ縛めを自力で解けるはずです。高原は時間を稼ぐため、既に自分の腕を切り負傷しています。」
「わかりました。・・・葛城さん。」
「なんでしょうか?」
「突入の方法は、俺に任せてくださいますね。」
「・・・・はい。」
「胸を、突いて。心臓を突き刺して・・・。わたしに、わかるように。」
「わかりました。」
鈴木が求めるままに、ゆっくりとした動作で、高原はシャツの前ボタンを、ナイフを持ったままの右手で開け、肌をあらわにした。予備用携帯が装着されたシャツの左身頃が重みで大きくずれ、血まみれの左袖にからんだ。
スピーカーの前で、葛城と英一が机に両手をつき、立ったまま息をつめる。葛城は、簡易ギプスの左足のままで、右足に体重をかけて立ち、長机に身を乗り出して両手をついている。
もう後は、茂と、天とに任せるほかはない。
英一は、葛城の両手が小刻みに震えているのがわかった。
鈴木の絶叫が響いた。
「刺しなさい!」
茶道口から板見が飛び込み、鈴木の上体に飛びつくようにして羽交い絞めにした。必死で伸ばした鈴木のナイフは、豊嶋の右耳を大きく切り、血が流れ出た。縛めをまさに解いた瞬間をつかれて、豊嶋は両手で右耳を押さえながらうずくまった。
同時に茂は、躙り口を破って室内へ走り込み、高原の背後からぶつかるようにしてその両手をつかんだ。細く鋭利なナイフは空を切り、高原の血まみれのシャツの左身頃を貫いた。
茂は全身から湧き上がるような恐怖とともに、ともに倒れこんだ高原の両腕をつかんだまま、肩で息をしていた。高原の腕の力は、本気で心臓を貫こうとしたものだった。
「た、高原さん・・・・・いったい・・・なに考えてるんですか・・・・!」
板見は、鈴木を後ろから抱きしめるようにして、じっとしていた。鈴木が、激しく泣いていた。板見はなにも言わず、長い間そうしていた。
茂と高原が体を起こし、茂は裂けた高原のシャツの布きれを使って高原の腕と豊嶋の右耳の止血をした。
高原が、板見と鈴木のほうを見て、言った。
「すぐにここから立ち去ってください。警察と救急車の到着まであと数分はあると思います。鈴木さん、あなたはここには来なかった。我々は見知らぬ暴漢に襲われた。・・・そうですね、豊嶋さん?」
豊嶋は汗と血でぐっしょりになった顔を高原に向け、大きくうなずいた。
大森パトロール社の事務所の長机で、英一は全身の力が抜ける思いで、傍の椅子に体を預けた。スピーカーから聞こえた茶室内の会話で、なんとか死人を出すことだけは避けられたことは分かった。これはやはり、幸運と言うほかないのかもしれない。
高原の予備用携帯につながっているスピーカーから、今日初めて、周囲をはばからない高原の大きな声が聞こえてきた。
「通常通信。全員生きてるよ。河合のお手柄だ。・・・・怜、おい、聞いてるか?」
葛城はまだ長机に両手をついた態勢のまま、うつむいていた。髪が顔を覆い隠しその表情は見えないが、肩から背中から腕まで、激しく震えて、嗚咽をこらえるのだけで精一杯という状態だった。
英一は肩を抱いてやりたいような衝動を抑えつつ、スピーカーからの声が止まないので、少し迷ったが仕方がないと判断し、自分が携帯電話を取り通話口から返答した。
「三村英一です。すみません、たまたまこちらにお邪魔しております。葛城さんは、今ちょっと電話に出られないので。でも元気ですからご心配なく。」
予備用携帯を右手に持って通話している高原の顔が、複雑な表情になった。
軽自動車の中に、煙草の煙以上に気まずい空気が流れていた。
「あーあ、やってもうたなあ、あの新人・・・。」
「そんな、他人事みたいに。」
「恭子さんから、奴が言われてたみっつの注意点、覚えてるやろ?」
「ひとつ、本気で豊嶋を殺す気で行け。ふたつ、拘束されていても高原とは必ず間合いをとれ。みっつ・・・」
「みっつ、お客様である鈴木様の様子には終始細心の注意を払え。」
「そうでしたね・・・。」
「録音完了した時点で、明らかに緊張の糸がいっぺんゆるんだんやろうな。ありがちなミスや。」
「鈴木様をご自宅までお送りした後、事務所でたぶん吉田さんから大目玉ですね・・・板見さん。」
「まあしゃあないやろな。」
「吉田さんが怒るとどれだけ怖いか、私も知ってます。」
和泉が青い顔で言った。
板見は鈴木さやかの家を出て、すっかり日の暮れた空を仰いでしばらく立ち止まり、また歩き始める。星はまだ見えない。
車を停めた駐車場へ続く通りに差し掛かり、彼は前方に自分の上司が横向きに車道のほうを見ながら立っていることに気が付いた。
いつもの地味な白いシャツとスカートに着替え、鼈甲色の縁の地味なメガネをかけた目立たない女性はこちらを向いて、近づいてきた。
「吉田さん・・・」
「終わった?」
「はい。鈴木様は・・・」
「いいわ。貴方の携帯のマイクから聞こえたから。」
「はい。」
「行くわよ。」
吉田は先に立ってゆっくりめの歩調で歩き始める。板見は少し躊躇したが、後を追う。
「吉田さん、この度は、申し訳ありませんでした。」
振り向かずに吉田が答える。
「問題点は、わかってる?」
「お客様から、目を離しました。」
「そうね。」
「その結果・・・お客様の生命を危険に曝し、作戦の遂行にも危険と実害が生じました。」
「そうね。」
吉田は、その後少しだけ、隣の自分とあまり身長の変わらない板見のほうを向き、彼の宝石のような大きな目を一瞬見た。
「あと、もうひとつあるわよ。」
「・・・・大森パトロール社の警護員と、共同作戦を実施しました・・・吉田さんの許可を得ずに。」
吉田は前を向いたまま、いつもの静かな微笑みを浮かべた。が、すぐに笑顔は消え、前方へまっすぐな視線を向ける。
「次回からは、ああいうときは、一言事前に伝えなさい。こちらも、それに合わせた支援体制をとることができる。」
「・・・・」
「お客様の生命を優先せよという、私の指示を、あなたは現場のエージェントとして遂行した。私の指示後のあなたの判断と行動は、合格といえる。ただ、阪元探偵社のメンバーで現場にいるのは自分ひとりじゃないということを、忘れていたのが、ふたつめの問題点よ。」
「・・・・はい。」
「わかったら、車を出してちょうだい。私は自宅へ送って。その後あなたは事務所で、必要書類を今日中に全部つくること。」
高層ビルの一室にある阪元探偵社の事務室で、和泉は目を丸くした。
「板見さん、怒られなかったんですか・・・・吉田さんに。」
「それは俺もちょっとだけ意外やなあ。」
戻ってきた板見の話を聞き、酒井も和泉ほどではなかったが感嘆の表情をした。
「僕は、怒る価値もない人間ということなのでしょうか。」
本当に不安そうな板見を見て、酒井が一瞬目を大きく開き、そしてすぐに吹き出した。
「あほか、お前。怒る価値もない人間て、そういう人間は、恭子さんは最初から部下にしたりせんよ。」
「そうですよ。板見さん。」
酒井はまだ不安そうな板見の顔を改めて見ながら、もったいぶるように言った。
「これは俺の推測やけどな」
「はい」
「大森パトロール社の連中相手やったから、ハンデくれはったんかもしれへんで。」
「・・・・」
「あそこは、変人みたいなやつがけっこうおるからなあ。お前も実際、今回は色んな意味で、勉強になったんとちゃうか?」
「はい。」
窓の外の夜に、星がひとつ、またひとつと、光り始めていた。酒井がソファーにふんぞり返るように体を預け、手を頭の後ろで組んで、楽しそうに板見を見た。
「お前、それにしても、よかったなあ。」
「?」
「恭子さんの・・・いや、阪元探偵社のエージェントとしての、洗礼は一応クリアしたみたいやで。」
「・・・・」
「まず、仕事のために、自分の命はとりあえず完全に上司に預けることができること。第二に・・・・」
酒井の言葉を、和泉が継いだ。
「第二に、」
板見は和泉の目を見て、わずかに血の気が引いた。
「第二に、仕事のために、いつでもだれでも、必要な場合は殺害できること。」
和泉の温厚そうな容姿に似合う茶色の両目に、似合わぬ凶暴な光がよぎっていた。
酒井が苦笑する。
「まあ、そんなに構えるな、板見。お前にその覚悟があることは今日わかったけど、実際に我々、人を殺すのは最終手段や。そんなしょっちゅうはあらへんで。」
和泉も、目の光を穏やかなものに戻しながら、言った。
「阪元探偵社は、エージェントを大事にします。命を上司に預けることと、部下を使い捨てにすることとは、まったく違いますからね。」
豊嶋を病院から自宅まで送り届け、自身も手当てを受けた左手をぶらぶらさせながら、夜道を高原はのんびり歩く。隣の茂が焦って高原を見る。
「高原さん、そんなに振り回したら、また血が出てきますよ。」
「大丈夫大丈夫。」
「警察の調べは意外に早く終わったのに、美術館の職員さんたちとのお話がすごく時間かかりましたね・・・。」
「なんか大地震のとき向けの緊急連絡網で、関係者が集結したらしいもんな。」
「結局、わかりませんでしたね・・・・」
「豊嶋さんを襲った奴らの正体?」
「はい。」
「鈴木さんに聞くしかないんだろうな。でも、聞いても無駄だろうし、聞く必要もないよ。」
「・・・・・高原さんを縛り上げた三人のお茶仲間さんたちは、全然覚えてなかったそうですね。自分たちを騙した女性の特徴・・・。」
「大したもんだ。プロの仕事だな。まあでも、結果オーライじゃないかな。もしもお客さんたちから奴らの正体が明らかになったら、鈴木さんにもつながって、彼女の犯行が明るみに出てしまうところだったわけだしね。」
「あの大きな目をした奴、つかまえたほうが良かったんでしょうか。」
「はははは。全てを得ようとしても、それは無理というもんだ。少なくとも、そいつと共同行動をとった河合、お前の判断は、正しかったわけだし。あまり考えすぎるな。」
「はい。」
夜空にだんだん数を増す星を、少しだけ見上げ、高原は改めて茂のほうを見た。
「・・・お前には、感謝しているよ。ありがとう。」
「・・・・俺は、高原さんに、あきれてます。」
「はははは。そうだろうな。」
「事務所に戻れるのはすごい時刻になりそうですが、タクシー飛ばしますか?たぶん葛城さんは待っておられるつもりでしょう。」
「そうだな。」
高原は、今日茶室から電話したときに英一が電話に出たことや、葛城が電話に出られなかったことは、茂に話していない。その後病院からと、豊嶋の家を出るときとの電話連絡では、葛城はすでにいつもの落ち着きを取り戻していた。
「俺が死なずに済んだのは、たぶん河合、お前のおかげなんだけど、自分のためと同じくらい、怜のために、俺はお前に感謝したいんだよ。」
「・・・・」
「前回の、怜が負傷したときの警護で・・・あいつが生死の境を彷徨っていたころ、俺は別の警護中で、クライアントとともに海外にいた。帰国して波多野部長から知らせを受けたときは、怜はもう意識を取り戻して一般病棟に移ってた。俺は、すぐに知らせてくれなかったことで波多野部長を責めてしまったんだけど、肉親のことでもない限り、業務中の警護員に余計な連絡をしないのは当然のことだ。」
「はい。」
「本当は、俺が波多野部長に八つ当たりしてしまったのは、別の理由だったんだ。」
「・・・?」
「帰国して、あいつが一時は危篤状態だったことを知ったとき、心底、震えが止まらなかった。死んでいくあいつを見ている自分・・・というものを、想像してね。」
「・・・・」
「自分が死ぬより、数倍恐ろしいものなんだと分かった。大切な、仲間が死ぬというのは。しかし今回、俺はあいつにその恐怖を、もろに味わわせてしまった。リアルタイムの実況中継で。酷い話だよな。だから、俺が死なない道を探してくれたお前に、感謝している。きっと怜に、しつこく頼んで、突入させてもらったんだろう?」
「おっしゃるとおりです。生意気ですが、俺、どうしても高原さんには言いたいです。クライアントの安全を一〇〇%守ることは、確かに正しいけれど、俺は妥当とは思いません。それが八割になったとしても、警護員が生き延びて、次の人もまた次の人も、八割ずつ守ることだって、社会の役に立つことなんじゃないんですか。」
「そうだな。・・・一〇〇%というのは、ある意味、身勝手な俺自身の美学に過ぎなかったのかしれないね。」
「そしておっしゃるとおり、葛城さんのような、貴方を大事に思っている仲間たちも、大迷惑ですよ。」
「そうだな。・・・」
「緊急時・非常時は、現場の警護員の判断が最優先されます。現場で、どうか、これからはご自分が生き延びることを第一に考えて判断してください。約束してください。」
「それは・・・」
高原は人好きのする笑顔で夜空を仰いだ。
「それは、やっぱり、約束できないけどさ。」
「高原さん!」
高原はメガネの似合う明朗な科学者のような顔で、くったくなく笑いながらさっさと歩みを進め、茂は全身で不満と不機嫌を表現しながら慌てて追いかけた。
七 ギャラリーと児童館
日曜日、豊嶋は耳に、つまりは頭に包帯をしたまま、美術ギャラリーのオープニングセレモニーへ予定通り出席して、周囲を驚かせた。
茂と高原の警護は土曜日いっぱいで予定より早く終了でよいとクライアントの豊嶋からは申し出があったが、念のためということで、予定通り日曜日も実施されている。そして豊嶋から、予定にない訪問先について、同行してくれるよう高原に依頼があった。
路上でギャラリーの周回警護をしていた茂に、高原から携帯電話で連絡があり、茂は内容を聞き顔をひきつらせて固まった。
児童館と併設してある市民センターの、小さなホールで、「市民センターカルチャー講座公演会」が行われていた。さすがにファンクラブの情報網を逃れられなかった模様で、嫌になるほどの大量の女性たちが列をつくっている。入場は地元市民が優先のため、彼女たちの座席争いの競争率は熾烈である。
英一は児童館のボランティアを通じた縁で、今回この公演にも無料で出演していた。彼の出番は、市民センターのカルチャー講座で稽古している一般の人々の発表会を挟んだ、最初と最後に盛り込まれている。
狭い舞台袖の入口で英一が最初の出番を終え廊下に出てきたとき、出待ちの女性たちに混じって、見覚えのある男性二人が英一の目に入った。英一は他の女性たちに一礼して詫び、その二人を促して、再度舞台袖に向かい、三人は幕や機材に囲まれた狭隘な空間で向き合った。
豊嶋と高原だった。
「すばらしい舞でしたよ。」
豊嶋が称賛する。英一は一礼する。
「そのお怪我は・・・」
高原が密かに苦笑した。英一が事情を知らないはずはない。
「私のとばっちりで。・・・この人は、警備会社の、ボディーガードです。私の過去の悪行のせいで、私は被害妄想に囚われて、彼を雇いました。そうしたら本当に、襲われてしまいました。全然関係のない、行きずりの暴漢にですけどね。まあ、天罰というやつです。」
「・・・・」
「今日は、本当のことをちゃんと申し上げた上で、これからも、うちの園児たちをよろしくお願いしたい・・・そのお願いに、参りました。」
「・・・・・・」
「私は、園児の安全を守れなかったことを棚に上げて、自分ばかりを守ろうとした人間です。ここにいる、ボディーガードさんたちが、自分より他人の安全を優先しているのとは、まさに百八十度違う人間です。そんな私に、天は、十分な罰さえくれません。でもこの先私にできるのは、やはり、自分の仕事をがんばることだけなんだと、思います。誰かに一生許してもらえないとしても、それしかないんだと思います。これから、園児たちを、大切に保育していくことだけを、がんばります。蒼英先生、貴方のようなすばらしいボランティア講師は、なにより大切なかたです。これからも、ずっとずっと、子供たちのためにここにいてやってください。勝手なお願いではありますが・・・」
英一は黙っていた。高原のほうを見る。高原は腹がたつほど人好きのする笑顔で英一を見返していた。
豊嶋は、はっと我に返ったように、顔を赤くした。
「す、すみません、自分のことばかりこんなに話してしまって・・・・。お時間のないところ、申し訳ありませんでした。では、これで・・・」
豊嶋は深く頭を下げ、先に階段を下りていく。高原が、振り向いて、英一に言った。
「昨日は・・・葛城の手助けをしてくださり、ありがとうございました。お恥ずかしいところを、お見せしたかもしれませんね。」
英一は心から湧き上がるような、彼には珍しいような温かい微笑みを浮かべて、答えた。
「・・・いえ、逆に安心しましたよ。葛城さんも人間なんだとわかりましたから。欠点がない人間なんて不気味ですからね」
豊嶋と高原が客席に入ると、園児たちの一団から一人の幼児が二人に近づいてきて訊ねた。
「せんせい、そのおケガ・・・どうしたの?」
豊嶋が、しゃがんで、答える。
「知らない、悪いひとにおそわれたんだよ。私がうっかりしてたのが、いけなかったんだ。」
「ふうん。」
「でもね、ここにいる警護員さんが守ってくれたから、ちょっとだけのケガで、助かったんだよ。」
「ふうん。ケーゴインさんって、えらいの?」
「すごく、えらい人たちだよ。」
幼児は長身の高原の、自分よりはるか上にある優しそうな顔を見上げた。
「じゃあ、ボクも・・・・大きくなったら、ケーゴインさんに、なる。」
大森パトロール社の事務室で、最終日にもかかわらずいつもどおり二十分で警護レビューを終えた高原がさっさと帰っていった後、茂は後片付けを手伝いながら、葛城におずおずと訊ねてみた。
「あの、高原さんも、葛城さんも、これまで・・・現場で危険な状態になったことって、よくあったんですか?」
「あまりないですね。そういう意味では、実際に危険にさらされたときの経験値が不足しているのかもしれません。」
優秀な警護員ならではの悩みというか、パラドックスなのかもしれない。
「あの・・・麦茶、飲みますか?」
葛城はいつもの禁断の笑顔・・・本人の責任ではないが事実としてあまりにも艶なため業務中に不似合な微笑・・・になり、頷いた。
グラス二つに茂がピッチャーから麦茶を注ぐのを見ながら、電動車いすの上で少し背筋を伸ばすようにして、葛城が茂の顔に視線を移す。茂を見ながら、葛城の顔がいたずらっぽい笑顔になっている。
「河合さん、今日はどんなお話ですか?」
「ははは・・・。えっと、あの・・・今回と前回の警護で、葛城さんと高原さんが予定外の事態や危険な目にあったのは、つまりこれまでにはないようなことだったわけですよね?」
「そうですね。」
「彼らに、彼らの正体に、こころあたりは、ないのですか?」
葛城の表情が、少し曇る。
「前回の警護でも、今回の警護でも、あきらかに、何らかのプロ集団が、我々の行く手に立ちふさがりました。たしかに、そうです。」
「彼らが誰なのかわからないと、この先も同じことになる恐れがあるわけですよね。なんとか、調べる方法はないんでしょうか。」
「方法ですか・・」
「そ、蒼風樹さんや今回の鈴木さんに聞いてみるとか・・」
「無駄でしょう。」
「・・・・」
「まず彼女たちは教えてくれないでしょう。仮に教えてくれたとしても、相手は専門家です。依頼人と、我々のような者とは、簡単に区別してくるでしょう。」
「そういうものなんですね。」
「ああいった類の集団は、無数にあります。技術の高いところからそうでないところまで、色々。今回と前回、同じ相手だとすると、非常に高い技術を持っている人々です。」
「・・・・・・」
「でも、一番こわいのは、そのことではありません。彼らがおそらく、依頼人から、極めて高い信頼を勝ち得ていること。そして集団の結束が非常に強固であるらしいこと。これが、なにより、脅威です。」
「そうなんですね。」
「でも、そのことは、考えても仕方がありませんよ、茂さん。彼らの目的さえ、はっきりしません。敵という確証だってなにもありません。」
「・・・つまり、可能性がいくつあるとしても・・・我々の仕事はそのすべての可能性からクライアントを守る・・・」
「そう、それだけなんですから。」
茂は麦茶をぐっと飲みほし、それからかなりたってから、あることに気が付いた。
「葛城さん、今、俺を名前で呼びませんでした?」
「はい。イヤですか?」
「いえ、光栄です!なんか、晶生って呼ばれている、高原さんに、一歩近づいたみたいで」
葛城はくすくす笑いながら、茂に言った。
「茂さん、まだ気づいてなかったんですね。晶生の、貴方を呼ぶ呼び方も、もう変わってますよ。」
「あ・・・・」
「河合くん、から、河合、に、なっているでしょう?」
茂はくすぐったいような気持ちになりつつも、しかし、葛城を怜さんと呼んでいいですかとは、さすがに言い出せずにいた。
(第二話 おわり)