第一話 月下の警護員
大森パトロール社の新米警護員である河合茂を中心とする、ガーディアンたちの物語。
彼らは拳銃も持たず、そして物語には爆弾も悪の組織も登場しません。
地味で静かな、どこにでもいる人間たちの、大いなる愚かな、そして少しだけ命がけの、ストーリーです。
第一話 月下の警護員
一 前夜(金曜日)
会社帰り、河合茂は最近は先輩の飲み会の誘いを適当に断り、ひとりでバーへ行くことを覚えた。特に酒に強いわけではないが、なんとなくすごく大人の男になった気がして、気分がいい。日が暮れかかった駅前の雑踏を歩きながら、学生の集団を見送り、
「若いねえー。群れてるねえ。」
と優越感に浸る。茂自身も、ほんの少し前まで同じような学生だったのだが。しかも、結局あまり渋い大人の男になりきれているわけでもない。実際の渋い大人なら、やはり渋いマスターがひとりでやっている穴倉のようなバーへ行くのだろうけれど、茂が行っているのは、明るい商業用ビルの上層階に入っている明るいバーで、そしてしかも、
「いらっしゃいませ♪」
髪をうしろできりっとまとめた、にこにこした女性のバーテンダーがふたりもいるバーだった。背の高いほうの女性バーテンダーが茂に近づき、おしぼりを出し挨拶した。
「こんばんは、河合さん。今日はどういたしましょう?」
「んーっと・・・・モスコミュールください。」
茂の、単独では無理そうだがグループのアイドルなら3番人気メンバーくらいならなれそうな爽やかな童顔が、たちまち全女性から「男ってだめよね」と思われるほかない、だらしない笑顔になる。奥のほうにいる男性バーテンダーが、「かわいそうに、ルックスはそんなに悪くないのに会社でもてないタイプだな、キャバクラとかでごっそりもっていかれるのはああいうやつだよな、でもうちで健全に飲んでいるだけなら楽しいだけだし、よかったよなうちみたいな店があって」という憐憫の情を商業用笑顔に覆い隠して見守っている。
「河合さん、今日は早いんですね。プロジェクトは順調なんですね。」
背の低いほうの女性バーテンダーがおつまみを置き笑顔で話しかけた。
「次のプロジェクト、僕はサブリーダーから外されて。時間ができてしまいました。」
「まあ。」
茂は上昇志向はあまりないが、仕事がラクならそれだけで嬉しいと思うほど堕ちてもいない。しかも今回は珍しく、少し競争心が傷つけられていた。サブリーダーに新たに選ばれたのが、あの三村英一だったからだ。ただ、同期入社だからライバル視しているわけではないし、女性に異常に人気があるから嫉妬しているわけでもないし、妙に頭がきれるからうらやましいわけでもない。茂が英一を気に入らないのは、奴が「片手間に仕事をしている」からだ。
「いらっしゃいませ。」
「4人です」
「テーブル席でよろしいですか」
開店したばかりで茂のほかには1組しか客がいなかった店に、いきなり華やかな空気と複数の女性の声が入口から流れ込み、茂はカウンターから振り返った。
自転車で、障害物にぶつかりたくなくて、避けようとすればするほど、その障害物に向かって行ってしまうというが、会いたくない人間ほどなぜか会ってしまうもののようだ。
三村英一は少し抜けたような、ぽかんとした表情で茂を見た。決して小さくはない茂よりさらに高い身長、カラスのように真っ黒な髪、ぴしっと伸びた背筋。4名様のうち男性は三村英一ひとりだけ。女性3人のうち2人は茂も会社で顔を見たことがあった。名前はわからないが。そしてもう一人の女性は顔も知らない。英一に促されて女性3人は先に店の奥のテーブル席へ向かった。英一がゆっくり茂に近づく。
「河合、ひとりか?どうだ、よかったら一緒に。うちの部の優秀な女性陣だよ。」
それが完全な社交辞令であることは、なんの感情も浮かべていない顔からよくわかる。いや、たとえこいつが全力で愛想を振りまいたとしたって、なんでこんな奴が女子にきゃーきゃー言われるのか茂には理解不能だ。確かに目鼻立ちは不気味なほど整っているけれど、全然「今風」じゃない。古い。昭和の時代のモノクロ映画のスターならぴったりだろうけど。役柄は・・・・そう、時代劇の、剣豪なんかが似合う。髪ぼっさぼさで、ほつれたような着物を着て、風にびゅーびゅー吹かれている感じの。そんな古風な顔立ちのくせに、その真っ黒な髪は、女性のショートカットくらいの長さに伸ばしていて、しかも無造作に見えて実は手入れが行き届き、同様にさりげなく見えて配慮のされつくしたその服装と併せて、軟弱である。ただし髪については、女性の長めのショートカットくらいでしかも母親譲りとはいえ子供みたいなサラ艶の茶髪の茂が言えることではない。
また、英一に着物が似合うのは、当然と言えば当然である。
「なんであんなに女性ばかりつれてるんだよ」
「今度の舞台を観たいって言ってくださっているんだ。大事なお客さまに誘われたら断れない。」
「はあ。じゃあごゆっくり。俺はすぐ帰るし」
英一は口だけでちょっと微笑み、すぐに奥のテーブルへと去った。
茂が会計を済ませてカウンターのスツールを降りようとすると、背の低いほうの女性バーテンダーが近づいてきて茂を呼び止めた。
「河合さん、あのかたと・・・三村様と、お友達なんですね」
彼女が奥のテーブルの英一のほうをちらっと見ながらにっこりして言った。
「ええ、まあ、はい。」
「すごい!うらやましいです。これ、もらっちゃいました。お父様と一緒に、三村様も出演されるんだそうですね!」
彼女が嬉しそうに茂に見せたチケットとちらしには、「三村流四代目家元襲名披露公演」と書かれ、英一によく似た目鼻立ちの中年男性の顔写真が大きく載っていた。
茂は電車に乗る直前に、携帯電話に呼び止められた。
「もしもし」
電話をかけてきた相手の声は明らかに苛立っていた。
「河合!電話はすぐ出ろと言っているだろう。何度コールしたと思っている。お前に久々のおいしい仕事だ。すぐ来い。」
「すみません、酔ってて無理です。」
「は?まあいい、今日は俺と打ち合わせだけだ。酔っててもかまわんよ。経費でメシ食わせてやるからとにかく来い。」
茂が英一を気に入らないのは、日本舞踊の家の次男坊で、(長男が優秀らしいので家元は継げない見通しらしいが)少なくとも師範として踊りだけやっていればよいしそれが本業だと自他ともに認めているのに、趣味のようにサラリーマンをやっているところである。
「でも」
茂はそう英一を内心非難するたびに、多少後ろ暗い気持ちになる。
「俺もおんなじなのかもな。」
茂も、「副業」を持っている。
と言うと、読者諸氏は誤解されるかもしれない。昼間は平凡なサラリーマン、しかし実はすごい裏の顔が・・・と。
ドラマや漫画であれば、そういうこともあるかもしれないが、現実は厳しい。茂はちゃんと会社に副業許可をとっているし、そして、副業の場でも、やっぱり平凡である。
線路を越えて駅の反対側にあるビルの、2階の事務室へ入る。ビルの壁と2階の入口には
「大森パトロール株式会社」
の看板が控えめにかかっている。事務室の入口脇の表示板には、さらに次の表示が。
「許認可 ○○公安委員会第××××××××号認定
設立 20××年4月
代表取締役 大森政子
加盟団体 公益社団法人 ○○特殊暴力防止対策連合会
主たる業務
身辺警護 企業 送迎・移動時の安全確保
身辺警護 個人 送迎・移動時の安全確保
身辺警護 著名人・芸能人 送迎・移動・イベント時の安全確保
DV被害 近親者における暴力の抑止及び解決
ストーカー対策 つきまとい・いやがらせ等の抑止及び解決
離婚調停時の安全確保
その他身辺警護業に付随する業務全般」
自動ドアの正面入り口ではなく脇の従業員用入口をカードキーで開け、給湯室の前を抜け小さな事務室へ出る。誰もいない。
いや、いる。応接室からテレビの光と音が漏れている。
「波多野さん、河合です。」
茂はテレビに負けない大声で声をかけた。応接室から返事があった。
「おう、河合、冷蔵庫から麦茶持ってきてくれ、麦茶。」
今通り過ぎてきた給湯室の冷蔵庫を開けに戻る。茂がピッチャーに入ったお茶と、ガラスのコップ2つを持って応接室に入ると、ソファに座ってテレビを見ていた波多野が振り返り、テーブルの上の弁当二つを指差した。
「とりあえずメシにしよう、メシメシ。」
「経費で食事って、これですか~。」
「文句を言うな。やっとまともな、しかも土日の仕事を見つけてきてやったんだから。この波多野営業部長に感謝してほしいね。」
営業部長は4人もいるが・・。
「ありがとうございます。引き続き平日夜でも大丈夫ですが。」
「お前の良いところは、平日昼間は絶対仕事できないかわり、夜か土日の仕事はどんな仕事でも絶対断らないところだな。おかげで、ホモのおっさんの通勤警護は無事契約完了したよ。付きまとっていた常連客に別の恋人ができたそうだ。」
「よかったですね。」
「ほんとにな。お前がクライアントに襲われないか、皆これでも心配してたんだぞ。お前は女にはもてなさそうだが、男好きがしそうだ。」
「俺は女の子が好きです。」
「だから喜べ、今度は女性の警護だ。やっぱりストーカー対策はストーカー対策だけどね。」
波多野営業部長は、坊主頭に近い短髪の堅そうな髪に不似合なメタルフレームのメガネの縁にちょっと触れながら、反対の手で大型封筒をテーブルの弁当の横へ置いた。
英一は駅前で3人の女性たちを笑顔で見送り、ほっとした表情で、電車には乗らずまた別の店へ向かった。
「飲み直しだ。」
少し離れたところにある、マスターがひとりでやっている穴倉のようなバーへ降りていく。
英一がちょっと会釈してカウンターに座ると、マスターが何も言わずに水割りを手早くつくり始める。
店には誰もいない・・・・が、ほどなくもう一組の客が入ってきた。カップルだ。
「今日はひとりになれない日らしいな」
「三村さん、なにか?」
「いいえ。今日は1杯飲んだらすぐ帰るよ、マスター。」
となりのカップルの女性のほうが、しきりにこちらをちらちら見ている。男性のほうがなにか女性に話しかけ、女性が小声で説明している。しばらくして、女性のほうが遠慮がちに英一に話しかけてきた。
「あのう・・・・・三村流の・・・先生でいらっしゃいますよね。」
中肉中背の、これといって特徴もない女性だ。鼈甲色の縁のメガネをかけ、セミロングの髪が無造作に額と頬を覆っている。
「貴女は?」
「あ、すみません、吉田と申します。三村蒼風樹先生のところで、お稽古させていただいております。」
「ああ、美樹の・・いや、風樹先生の、お弟子さんですか。」
「先生はたしかお家元のところの・・・」
「三村蒼英です。」
「やっぱりそうですよね!こんなところでお目にかかれるなんて・・・舞台拝見したことがあります。感動しました。今度のお父上様のお家元襲名公演も楽しみにしております。」
英一は、口と目で笑顔をつくった。
「風樹先生に、よろしく。いつもいろいろご心配いただいてありがとうございますと、お伝えください。」
二 土曜日
翌日、土曜の朝まだ早い時刻に、茂は波多野営業部長とともに新しいクライアントの女性宅を訪ねた。
クライアントはたいてい「そこそこ」裕福な・・・運転手つきの車を雇うほどではないが、時間あたり数千円の対価をパトロール会社に毎日数か月間支払うことくらいならなんでもない・・・といった家だが、今回もそうだった。両親と本人同席で打ち合わせが終わり、お茶菓子が出て雑談になった。
「河合さんは、どうして今のお仕事はじめられたんですか?」
クライアントの女性が尋ねた。よく聞かれる質問である。
「学生のとき、当時の彼女がストーカー被害に遭って、こういう人たちを守りたいって思ったんです。」
半分本当である。
「平日は別のお仕事されているそうですね。大変ではないですか?」
これもよく聞かれる。答えは簡単、警護員業だけでは給料が安すぎて生活が成り立たないからである。もちろん答えず笑って済ませる。
しかし聞かれそうで聞かれない質問もある・・・・河合さんは武道とかできるんですか?という類の質問である。これは、身辺警護の業務内容を具体的に説明した後は、まず聞かれない。腕力は警護業務の1%程度の重要性もないことが無事理解された証拠である。
軽めのストーカー対策のため、警護員は茂だけの一人体制に決まり、今日の夜からの業務開始を約束して茂と波多野営業部長はいったんクライアント宅を後にした。これから茂は、打ち合わせで提供された情報をもとに、警護ルートの下見や調査を昼間のうちに済ませておかなければならない。
玄関を出たとたんに、波多野営業部長の携帯が鳴った。茂が会釈して別れようとすると、波多野が携帯で話しながら「ちょっと待て」というしぐさをした。
「うん、うん、わかった。すぐ行かせる。待ち合わせは?了解。」
電話を終え、波多野は茂のほうを見た。
「河合、女性の警護はまたお預けだ。すまんが、怜とのペアに入ってくれ。」
「誰ですか?」
「そうか、お前は知らなかったな。葛城怜、うちの有能なガーディアンだ。怜と組むはずだった奴が急にだめになった。今日打ち合わせで明日から警護のクライアントに、どうしても今日担当警護員二人そろって会わなきゃならない。河合、お前ピンチヒッターで入ってくれ。」
「ええええ!!こっちはどうするんですか?」
「かわりの警護員をたてる。こっちの条件は厳しくないが、怜の相方はクライアントからいろいろ条件が出ていて、行けそうな奴の中ではお前しかクリアできないそうだ。」
「条件って・・・」
「時間がない。とにかく行ってくれ。今度経費でフランス料理食わせてやる。」
「わかりました。」
波多野から言われた待ち合わせ場所、私鉄××駅の改札へ茂がたどりついたのはそれから40分ほど後のことだった。道々、さっき波多野から新しいクライアントについて何も情報がなかったことよりも、ガーディアンと呼ばれた葛城のことのほうが気になった。大森パトロール社で、警護員ではなくガーディアンと呼ばれるのは、一定以上の経験と実力の持ち主だけである。
改札を出てきょろきょろしている茂の後ろから気配がして、テノールくらいの、しかし妙に迫力ある男性の声が茂を呼び止めた。
「大森パトロールの河合さんですね。葛城です。」
振り返ると、そこにいたのは、大森パトロールの社員証を手にした、ものすごい「美女」だった。
いや、美女ではない。美形だ。全身の毛が逆立つような。
「あ・・・・。」
茂は断じて男色家ではない。ストレートだ。女の子が大好きだ。しかし思わず、真っ赤になった。漫画に出てくるような、女と見紛うような美青年というのは、この世に現実に存在するものだったのだと、茂は生まれて初めて認識した。葛城は、初対面の相手にこういう反応をされるのは、慣れっこらしい。さっさと行こう、という様子で茂を促して歩き始めた。
「とりあえず、こちらで」
近くの駐車場に止めた車の中で二人は超高速の事前打ち合わせに入った。葛城は運転席に座るなり鞄の中から大型封筒を取り出し、中の書類から何枚かを選び始める。助手席の茂はついその横顔を注視してしまう。どんな美女も嫉妬しそうな完璧な鼻筋から唇の線、透き通る滑らかな白い頬。天然のアイシャドウをしたような切れ長の目。いったいなんなのだろう、この人間。これだけ美しいのに男性だなんて、なんという無駄な美貌であろうか。罰が当たるのではないか。それともなにかのたたりか。とにかく彼の周囲だけあきらかにまぶしい。ただの地味なジャケット、ただの地味なスラックス、何の変哲もない服装、無造作に伸ばして後ろでひとつに縛った髪、こうしたものすべてまでが、この世のものとも思えない神の作品に見える。3時間かけておしゃれした美女が束になってもかなうまい。美とはなんとアンフェアなものであろうか。などと哲学的な思考にふけっている場合でもないとやっと茂は気が付いた。
「・・・葛城さん。」
「はい?」
大型封筒からようやく必要なものだけ取り出しながら、葛城が茂のほうを見た。
「警護のとき、目立ちすぎて困らないですか?」
「女みたいな容姿が悪目立ちすることは、確かに私の問題点です。でも、伊達メガネをかけるとわりと大丈夫です。それに・・・」
葛城は書類の一部を茂に差し出した。
「今回の条件はむしろおあつらえ向きです。そして、河合さんも大丈夫そうですね。」
書類に目を落とした茂の顔色が一気に変わった。その原因はふたつだった。
十分後には、茂を乗せ葛城が運転する車は、車のまま門から敷地内へ入り、玄関前へ乗り付けた。駅から少し離れているとはいえ、市内ではいまどき珍しい広い敷地と大きな日本家屋。これまで見たどのクライアントの家よりすごい。
茂が顔色を変えた理由のひとつめは、この巨大家屋の陰気な和室の客間で、茂がクライアントの顔を見たとき少し和らいだ。相手がさっきの茂のさらに何倍も顔色を変え、さっき茂がしたよりさらにイヤそうな顔をしたからだ。
客間で大森パトロール社の警護員ふたりを迎えた人間は全員葛城の美貌にあっけにとられて見つめていたが、英一だけは苦虫をかみつぶしたような顔で茂を見つめたまま固まっていた。
自転車で・・・・・、以下同文。
「英一、どうした?」
英一の隣に座っている日本舞踊三村流次期家元の三村蒼陽が、息子の様子に気づいて尋ねた。ちらしで見た着物姿は貫禄があったが、ポロシャツ姿だと割と普通のおじさんだ。
お茶を出した態勢のまま葛城にみとれて静止していたお手伝いさんが、その声に我に返ってようやく部屋を出ていった。
「いいえ。・・・なんでもありません。」
英一は、茂が知り合いだとは言わない。蒼陽氏が正面を向き、茂と葛城にお茶を勧めながら口火を切った。
「この度は、急なお願いで、無理言ってすみません。ご対応感謝します。」
波多野ほどではないが、葛城もそれなりの営業スマイルをつくり、書類を取り出した。
「無理などとはとんでもないことです。ご利用ありがとうございます。営業部長の波多野が伺いました内容から、警護計画は先にお届けしご了承いただいたところですが、今日は警護員との顔合わせと、明日からの警護内容の最終確認になります。私がメイン警護員の葛城怜です。そしてこちらがサブ警護員の河合茂です。サブ警護員は恐れ入りますが予定と変更となっております。」
スケジュール表を指しながら、葛城が警護計画の概要をおさらいしていく。確かに一日を除いて見事なほどに土日夜間限定プランだ。英一も平日昼間はサラリーマンやっているから当然と言えば当然である。葛城が顔をあげ、クライアントの二人・・・警護対象と、警護依頼者とを交互に見た。
「その後、新たな不審な出来事や脅迫状等はございませんか?」
依頼者である蒼陽氏が、英一と顔を見合わせた後答える。
「今のところ、先にお伝えしたこと以外はまだありません。」
「今日この後も、警護開始までになにかあればすぐにお知らせください。」
「わかりました。・・・それから・・」
「はい」
「繰り返しになってすみませんが、警護はくれぐれも、目立たぬようにお願いします。とにかく三村流のお家騒動などという変な噂になることだけは、避けたいので・・。」
「承知しております。英一様に警護がついていることが周囲に悟られることはありません。」
「頼みます。そして、その・・・」
「はい、ご指定の、具体的な潜伏方法も間違いなく全日程で対応いたしますので。」
英一が初めて口を開いた。
「そちらの・・・・河合さん、変装しても女性に見えますかね。」
茂はひきつった顔を無理やり笑顔に変え、不自然なほど明るい声で答えた。
「大丈夫ですよ、実績ありますから。」
本当である。そしてこれが、車の中で茂が顔色を変えた理由のふたつめである。蒼陽氏が豪快に笑った。
「はっはっは、頼もしい。よろしくお願いしますよ。英一の周りに一番多いのはどんな人間ですかと波多野さんに聞かれて、すぐに思い当りました。女性ファンだなと。波多野さんに褒められましたよ、このアイデア。大森パトロールさんはそういうニーズにこたえる人材も備えておられるのが、すごいですな。」
「では最後に」
葛城が書類を鞄にしまいながら言った。
「顔合わせの仕上げのほうを。」
「ああ、そうですね。隣の部屋をお使いください。真木さん!真木さん!」
蒼陽氏がお手伝いさんを呼び、彼女が茂と葛城を隣室へと案内する。ご丁寧に大きな姿見がふたつ用意されている。二人は手早く着替えを始める。身支度しながら、葛城が茂のほうを見て、申し訳なさそうに声をかけた。
「河合さんは、変装を伴うロープロファイル警護はまだ経験が少ないと聞きましたし、特にこういうのは抵抗があるでしょう。しかも今回は急な代理で、本当に申し訳ないと思っています。」
「葛城さんが謝ることないですよ。それに俺は、そうじゃなくとも土日夜間しか仕事できないんですし、さらに仕事を選んでいたらなにもできなくなりますから・・。それにしても、事前に変装の実演までしてるのは、うちの会社くらいじゃないですか。」
「警護本番のとき、警護員がいるかどうかわからないのが不安、とおっしゃるクライアントが多いので、始まったサービスなんですよ。」
「まあ言われてみればもっともではありますけど。」
十分ほどで「変装」をそれぞれ済ませ、互いにチェックしあう。葛城はそのままでも女みたいなので女の格好をしたところである意味なんの違和感もない。そして葛城が茂を見て、少し困った顔をした。
「葛城さん、俺やっぱりあまりうまく化けてないですよね・・・」
「あ、いえ、そうじゃないんです。さ、とにかく早くクライアントにご覧いただき、顔合わせを終わらせてしまいましょう。」
さっきの客間に戻ると、蒼陽氏と英一は一度客間を出ていて中におらず、お手伝いさんの真木さんに呼ばれ、茂と葛城より後から入ってきた。茂と葛城を一目見て、蒼陽氏の表情がみるみる安堵に包まれた。
「いやあ、まったくもって問題ありませんな!大したものです。」
お手伝いさんの真木さんは、またみとれて静止していたが、今度は葛城ではなく、茂のほうを見ていた。茂の髪はもともと女性の長めのショートカットくらいなのでそのままで、スラックスも履き替えていない。上半身だけ着替えて女物の濃紺のブラウスを着ている。胸には詰め物。そして顔は、薄化粧にマスカラ、頬紅に、唇は薄いピンクの口紅。
「可愛い・・・・」
言葉にしたのはお手伝いさんの真木さんだけだったが、その場にいた全員の感想だった。身長170センチの立派な男子の茂が、どう見ても、ボーイッシュな女性にしか見えなかった。英一が、ついに吹き出した。
「驚きましたね、河合さん。先ほどは失礼しました。」
明らかに侮蔑の表情。茂は憮然とした顔をしたいのを必死でこらえた。
「重い変装ではありませんので、たぶん遠目でもお客さまには見分けがつくとは存じますが・・・」
葛城が鞄からいくつかのものを取り出して示した。
「わたくしはこのトートバッグを、河合はこのリュックを携帯いたします。また、両名ともスマホを手にいたします。英一さまを撮影するようなしぐさをするためです。スマホケースの色は、わたくしが赤、河合はピンク色です。こちらです。」
「芸が細かいですなあ。了解しました。」
クライアントは満足そうだ。茂はいろいろきわめて不満ではあったが。
化粧を落として車に乗り込み、そのままふたりは警護ルートの下見へ向かう。
「河合さん」
「はい?」
「警護対象の三村英一さん、河合さんの会社の同僚ですよね。しかも同期。」
「知ってたんですか。」
当然といえば当然である。
「あの後電話で波多野さんに聞きました。心配しましたが、波多野さんが言っていました。警護員は、肉親以外は誰でも警護できなければならないから、特に問題はないと。本当でしたね。」
「はあ・・。」
「下見ですが、まず稽古場、それから明後日予定されているおさらい会会場、そして来週の襲名披露公演会場です。事務所で詳しくお話ししますが、警護のポイントはもちろん最後の公演会場です。」
「カルテにあった、脅迫状ですね。」
「しかし同時に、最近起こった何件かの不審な事件は、警護対象の自宅から稽古場の移動中または会社から稽古場への移動中に起こっています。そのルートも全部下見します。」
「あんなに家が広いんだから、自宅で教えればいいのになあ」
「家元や次期家元はそれができても、それ以外の人間は外で教授活動をするのが三村家のルールみたいですね。」
「めんどくさいものなんですね。」
「しかも」
葛城は小さくため息をついた。
「会社から稽古場、そして稽古場から家までは、今までもこれからも絶対車を使わないそうですからね・・・。それで、我々も電車と徒歩で道々警護というわけです。」
「あの意地っ張り・・・。」
「大丈夫、私が当日のプレチェックはできますので。河合さんの会社のお仕事が終わったところで毎日合流します。」
その日夕方までかけて、二人は、警護対象の通るルートをくまなくチェックした。茂は、経験豊富な警護員とペアを組んで警護をするのは初めてではなかったが、途中から葛城の容姿以外の点にも感銘を受けている自分に気が付いた。葛城はもちろん、いかに今回の依頼が急なものであったとしても、今日よりは前から準備を始めていたはずで、今日来るのは初めてではないはずであり、その証拠によく勝手を知っていた。が、「自分は二度目だから、今回は茂を案内することが主な目的」という感じではまったくない。携帯端末で表示されたルートマップに、すでにすべての曲がり角に警護のポイントが葛城自身によって注記されているのに、さらに葛城はまるで地雷原を進むようにひとつひとつの家、壁、置いてあるもの、建っている施設、すべて頭に叩き込みながら進む。そしてそのすべてを、ひとつひとつ茂に口頭で確認しながら、端末へ入力していく。実際はそこまで遅くはないだろうが、体感的に10メートル歩くのに10分かけているくらいの感じだ。
「情報はすべてルートマップに入力しておきますが・・・」
葛城は振り返って微笑んだ。
「でも、それをなるべく見ずに済めば理想ではありますね。」
大きくはないが小奇麗な日本家屋の、明るい8畳間で、三村蒼風樹は背筋を伸ばして座り、目の前の弟子が畳に手をつき礼をするのを受け、一礼した。
「お上手になられましたね・・・こんなに短い間に。」
「それが取り柄ですので。」
弟子の女性はいかにもぱっとしない。特にこれといった特徴もない中肉中背の体を包んだ江戸小紋も、簡単に結った髪も、鼈甲色の細い縁のメガネも、そしてその平凡な顔立ちも、すべてが地味でぱっとしない。その地味さに唯一不釣り合いなのが、その静かな微笑みだった。蒼風樹は、このぱっとしない風采の弟子の、この微笑みがいつもとても意外だ。
もっとも、地味とかぱっとしないとかいう意味では、蒼風樹も決して他人のことがいえるわけではない。別に美人ではないし、背が低い上に痩せすぎていて、貧相な体型だ。だが、こうして稽古場にいるときの彼女は、踊りの師範というだけあり、若いなりにぴりっとした風格を漂わせている・・・雰囲気でいうならばちょうど、仕事がすごくできるけどすごく怖い先輩女子社員とか、うるさい義姉とか、そういう感じだ。小さな体も、和服だとかえって迫力が出るようでもある。
弟子は部屋を出ようとして、ふと振り返った。
「夕べ、蒼英先生に会いました。」
「えっ。」
「蒼淳先生に雰囲気が似ておられますね。」
「・・・そうでしょう。血がつながっていないとは思えないくらい。」
「そして、噂通り、大変な人気。」
「そうね。」
「でも実力はやはり・・・」
「ええ。私の許婚だから言うのではないけれど、蒼淳のほうが上ね。ちょっとの差ではあるけれど。でも最後まで気は抜けないわね、蒼淳も。」
「本当に後継者を家元が決めて指名するのは、名実ともに次のお家元襲名披露公演の、そのあとだからですね。実際このことは、よく知られていることなのですか?」
「どうかしらね・・。出来レースだと思っているファンのかたも多いかもしれない。それでも多くのかたがその指名を目当てにお越しくださるのは、おもしろいわね。儀式のように思ってくださっているのか・・。吉田さんはファン心理ってわかりますか?」
「わかりません。でも、想像はできます。」
三村蒼風樹の稽古場から出てきた吉田は髪のかんざしをするりと抜いた。セミロングの髪が肩まで落ち、額と頬を覆う。しばらく歩き、角を曲がると、一台の車が待っていた。
「今日も行かはるんですか?」
運転席の男がのんびりした関西弁で尋ねた。助手席に体を滑り込ませた吉田は、するすると半幅帯を解き、江戸小紋を脱ぐと、中に来ていたTシャツとスカートだけの姿になり、後部座席の女性に帯と着物を手渡した。受け取った後部座席の女性はそれらを丁寧に畳む。
「その質問に答えなくてはいけない?」
「いいえ」
男は苦笑に近い笑顔になった。
車が静かに走りだし、吉田は携帯端末の地図を開いた。
「これが脅迫状のコピーです。」
日が暮れてから事務所に戻った茂と葛城は、そのまま小さな会議室で打ち合わせに入った。
ワープロで打たれた手紙には、英一が次の家元襲名披露公演へ出演してはならないこと、もしも出演した場合には、本人に重大な危害が加わるだけではなく、周囲の彼のファンにも迷惑がかかる、という旨が書かれていた。
「警察に届けていないんですね、クライアントは。」
「はい。」
「お家騒動だという噂になると困る・・と言ってましたけど、ほんとにお家騒動なんじゃないですか。」
葛城は憎らしくなるほど艶な両目を細めて笑った。
「そうかもしれませんし、そうじゃないかもしれません。たしかに、2時間ドラマだとしたらベタな展開ですね。次々期家元の指名が行われる次期家元襲名披露公演へ、三村流のプリンスの出演を阻む敵。でもまあ、そのことは考えても仕方がありません。」
「そうですか?」
「可能性はひとつではありませんし、我々は犯人探しのプロでもないし、それが仕事でもありません。可能性が複数あるならそのすべての可能性からクライアントを守り、そして、ミッションを完成させることです。それだけです。」
「必ずクライアントを危害から守り、」
「そして、無事に公演にご出演いただく。」
三 日曜日
茂は日曜の早朝から仕事に入った。
日曜日、嫌になるほど朝早くから三村流の稽古は始まる。英一が副業を持っているからというより、流派全体の慣習らしい。幸い、会社を経由しない場合自宅から稽古場の間は英一は車を使ってくれるので、茂と葛城も車で警護できる。
英一の車が稽古場に着き建物脇の駐車場へ車を停めると、建物の中から弟子か助手といった感じの二人の和服姿の男性が出てきて英一を迎え、荷物を受け取る。茂たちは少し離れてそれを見守る。今回の警護の条件のひとつは、クライアント以外には警護の事実を知られてはいけないことであり、それは英一の弟子たちであっても例外ではなかった。
助手席で大あくびして慌てて茂は運転席の葛城に見られなかったか確かめた。大丈夫そうだ。夜明け前から、茂は稽古場周辺を、葛城は自宅周辺を、歩いてチェックもしているので、非常に眠い。
そして驚いたことに、何人もの和装洋装の若い女性たちが、稽古場に入っていく。
「たしか、稽古はマンツーマンのはずですよね、葛城さん。」
「つまりあれは全部、ほぼ、見学生さんたちですね。ははは。」
「信じられない。こんな早朝から。」
「でもよかったじゃないですか。では河合さんも、がんばってくださいね。」
葛城は多くの同情と少しの愉悦が混ざった表情で茂を見た。こういうシチュエーションでさえなければ、同性も必ずどぎまぎするであろう、艶な笑顔。本人の責任ではないが事実として艶なのだ。しかし茂は今日はシチュエーションに関わりなく、比較的どぎまぎしなかった。一つには葛城の美貌に慣れてきたということもあるが、なにより、今日ももちろん女の格好をしていることが憂鬱だからであった。
茂が稽古場の建物の入口の自動ドアから入ると、奥の和室との間に和装の男性がひとり立っていて、「受付」をしていた。
「三村蒼英の稽古の、ご見学でいらっしゃいますか?」
茂はちょっと咳き込んだふりをして、かすれた声で返答する。
「はい。」
「ご予約はされていますか?」
「あ、いいえ。」
「ではこちらの用紙にご記入ください。」
住所、氏名、メールアドレス、稽古歴や見学動機等の記入欄があり、最後に「三村流からのお知らせをお送りしてもよろしいですか?」という欄まである。商売上手である。
広い和室に入ると、もう10数人の見学者が部屋の片側に固まって座っており、稽古も始まっていた。見学者は全員女性だ。
茂は見学者コーナーの一番後ろに座った。そしてわざとゴホゴホと何度か咳をし、風邪気味のように装ってリュックからマスクを取り出し、さりげなくかけた。顔を少しでも隠すためと、話しかけられたときに備えてである。
稽古をつけてもらっているのは女性の弟子だった。弟子か助手といった感じの和装の男性が、伴奏(地歌というらしい)の音源を操作している。音に合わせて弟子の女性が舞い、ときどき止められてあれこれと指示をされる。教える英一は部屋の反対側の奥にちょうどこちらを向いて正座している。曲が最後まで終わったらまた最初から。これを延々と繰り返す。
茂はもちろん日本舞踊の稽古どころか舞っている人というものを見ることさえ初めてである。まったく興味がわかないのを幸いに、念入りにその場にいる人間たちを一人一人観察した。見学者たちは皆興味深そうに前を見ているが、その種類は二通りだった。お稽古中のお弟子さんを見ている5~6人の人たち。和装の人が多く、お弟子さんの動きに合わせて手を動かしたりしている。もう一種類は、英一を見ている人たち。洋装が多く、そして、お弟子さんの動きに全然関係なく、ひたすら英一のほうを見ている。残りの全員がこちらのグループである。
茂は自分がどちらのグループに混ざるべきか悩んだ末、後者のほうにした。英一は基本的にずっと正座したままで、扇を持った手をちょっと動かすだけであとは言葉で指示を出す。稽古をつけてもらっている弟子はかなり上級者のようで、言葉だけで英一の指示の意味がわかるようだ。しかし茂には、指示前の弟子の踊りと指示後のものの違いが、あまりよくわからない。もともと上手なのに、なにをこまごま直しているのだろうと感じる。そうこうするうちにその弟子の稽古時間が終わり、休憩になる。とたんに、周囲の「英一のほうばかり見ていた組」の人間たちが一斉に携帯端末やカメラを取り出し、英一に向け始めた。稽古中以外は撮影オーケーなのだ。
慌てて茂も、ピンクのケースのスマホを取り出し、撮りたくもない英一の御姿を撮影する。英一は扇を片づけ立ち上がって控室へ去っていったが、なんとなくその動きがもったいぶっている。絶対、硬派に見せかけた軟派である。茂はいろいろ心で批判の言葉を並べつつ、スマホをしまう。
隣で、デジタル一眼レフカメラで撮影していた二人連れの女性たちが話しかけてきた。
「蒼英さま、今日は引っ込んでしまわれるのが早いですよねえ。なんだかご機嫌斜めな感じ。」
「ごほごほ、そうですか?」
「あら、もしかして今日が初めて?」
「そうなんです、ごほごほ。」
「いつもは助手さんたちとこの部屋で雑談したりするのよ。見学者のところまで来てくださることもあるんだから。でもやっぱり、安全を考えないといけないのよね。」
「インターネット上で変なファンからのメッセージが出ていることですか?ごほ。」
「そうそう。悪質ないたずらで、別に気にしない、とおっしゃっているけれど、我々正当なファンとしてもやっぱり心配よね。」
「実際、怪しい出来事とかって起こってるんですか?ごほごほ」
「インターネットのメッセージとおんなじ言葉を書いた紙が、ときどき貼られているのよね。」
「ごほ、”引退か、死か”・・・というやつですか」
「ええ、気持ち悪いわよねえ。あなたよく知ってるわね。」
「ごほごほ、ネットでこの見学会のことも知りましたので、そのときたまたま。」
「そうなんだ、ねえあなた、蒼英さまのファンクラブに入らない?いろいろ情報が入りやすくなるわよ。」
街の中心部にある大きなコンサートホールで、昼間の演奏会が開かれ観客が出入りする中、少しゆっくりめの足取りで吉田はロビーを歩いていた。出口付近に来ると、昨日後部座席で着物を畳んでいた女性が近づき吉田に小声で話しかけた。
「お疲れ様です。」
吉田は静かに笑顔をみせた。
「ありがとう、和泉さん。入力は完璧でしたよ。お掃除までさせてごめんなさいね。」
「ありがとうございます。また何なりとお申し付けください。」
「酒井に言っておいてほしいんだけど」
「はい?」
「マスターキーくらい簡単に入手するから、余計なことするなってね。」
吉田と別れ、和泉が携帯を取り出すと、かけようと思っていた相手が向こうから近づいてくるのが見えた。
「酒井さん、いらしてたんですか。」
「恭子さんは今日でここの下見もやっと終わりやな。入力内容は合っとった?」
「はい。」
「で、マスターキーなんか余計なお世話や、とか言うてはったんとちゃうか?」
「あ・・・はい。」
「はははは」
酒井は長身を揺らして笑った。
「そうやろうな。確かに、恭子さんには基本的に、助けはいらん。我々はただ、彼女の指示に従っておればええ。それで全部うまくいく。そうなんやけどな。」
午前の稽古がやっと終わり、茂と葛城は英一が自宅へ入るのを見届けてから一旦警護状態を解除した。
「今度は自分が家元・・・つまりおじいちゃんの指導を受けるんですね。一日中踊りばかりでよく飽きないなあ。」
「英一さんはまだ普段の日はサラリーマンですから、全然ですよ。さ、食事に行きましょう。」
「昼飯より昼寝したいなあ・・」
「食事のあと一旦事務所に戻りますので、そこで仮眠できますよ。」
「夕方は三村流宗家の集まり・・・。蒼久というのは、家元の弟さんなんですね。」
「蒼久さんの家で食事会が済んだら、今日のスケジュールはおしまいです。お家元と蒼陽さん、蒼淳さん、そして英一さんはまた車で移動されますから警護は比較的ラクです。」
茂は手元の携帯端末の資料を開き、おさらいする。
「蒼久さんは息子さん夫婦と、孫娘との4人暮らし・・・。息子さん夫婦は踊りをしないんですね。」
「その代り孫娘さんが師範です。三村蒼風樹さん。蒼陽さんの長男つまり英一さんのお兄さんの・・蒼淳さんの、フィアンセですよ。」
「ハトコ同志って結婚してもいいんでしたっけ。」
「すみません、昨日説明し忘れました。蒼淳さんは養子ですから、三村家の人々と血のつながりはありません。」
「???」
「英一さんって、次男なのにどうして名前に一の漢字がつくんだろうと思いませんか?」
「う、た、確かに・・・。」
「蒼陽さんご夫婦は長くお子さんに恵まれず、次々期家元にするために、養子をお迎えになった、それが淳さん・・・蒼淳さんなんだそうです。」
「なるほど、そのあとで英一が生まれたんですね。」
「そうです。英一さんのお母さんは、どうしても英一さんを長男として育てたかったようで、命名について譲らなかった。病弱で先行き長くなかった奥様に、蒼陽さんは押し切られたようですね。でも結局次々期家元は蒼淳さんになるようですが。」
「三村流は実力主義だということであれば、もちろん力の差なんですよね。」
「そうですね。家元は今度の公演後の公表時までぎりぎりまで考えるとのことですが・・・。」
「英一のあの人気ぶりなら、英一を家元に、という声も大きそうですね。」
「はい。」
日も暮れかかったころ、茂と葛城を乗せた車は、英一の家を出た家元一行を乗せた車を追いながら走り、蒼久家の日本家屋から少し離れた一角で停まった。家元の家を出るときと同様、降りてきた蒼淳と英一は会話もしないし目も合わせない。家元と蒼陽氏が談笑しているのと対照的だ。
「葛城さん。」
「はい」
「蒼淳さんは英一と血がつながっていないんですよね。」
「そうですが」
「でもなんとなく、あの二人、似てますね。」
「ええ。外見は全然違いますが・・・」
長身の美男子の英一に対し、蒼淳は身長は普通だが体型はがっちりしていて、頭も坊主頭・・・波多野営業部長よりもっと短い。全体の雰囲気としては、柔道の選手のようだ。たぶん真性の硬派だ。特に女性にもてそうな要素はないところに茂は好感を覚えた。
が、英一と蒼淳のふたりが並んで立っていると、なぜか近い空気が流れている。
葛城はにっこりした。
「外見は似てませんが、中身は似てるのかもしれませんね。同じ道を行く人ですし、同じ家の人ですし。」
「似た者同士だから、仲悪いんですかね。」
茂の問いに、葛城は一瞬戸惑い、そして再び笑顔になった。
「どうなんですかね。」
「あの、葛城さん」
「はい?」
「あんまりにっこりしないでもらえませんか・・・?まだ女性の扮装のままなんですから。」
待つこと3時間。ようやく玄関が開き一行が出てきた。
蒼久氏と、孫娘の蒼風樹らしい女性とが、見送りに出ている。双眼鏡を覗いていた茂は、英一の目が何度も蒼風樹を追った気がして、その小柄な女性の姿を素早く記憶に留めた。
四 月曜日
終業後、会社と同じ最寄駅だが駅の反対側にある事務所で大急ぎで着替え、茂は葛城と落ち合って会社の入っているビルまで戻った。英一は会社を出るときにメールをくれる約束になっている。葛城宛に、だが。
一階ロビーで待っていると程なく葛城の携帯が鳴りメール着信を伝えた。目を落とした葛城が苦笑しているのが、伊達メガネ越しにもわかった。
「葛城さん?」
「さ、行きましょう。」
茂は今日はマスクをしている上にロングヘアのウイッグをつけ、さらに女装の完成度が増している。エレベーターを降りてきた英一が茂のほうを一瞥し、嘲笑を浮かべた気がして茂は怒りを理性で抑えた。
ビルから地下道、そして駅。二人は数メートル離れて、足の速い英一を追う。ラッシュ時間の始まりの人ごみの中で、英一は稽古着が入っているらしい少し大きめのバッグを持っているのでなんとか見失わずに済んでいる感じである。改札から発車ベルの鳴るホームへ、そしてすぐに電車が発車する。茂は扉に挟まれたウイッグの髪を必死で引っ張りなんとか成功した。
「くそっ少しは俺たちに気を遣えよあの野郎・・・」
「河合さん、声が大きいですよ」
隣に立っていた乗客がぎょっとして茂のほうを見、葛城が慌てて茂に囁いた。
英一の稽古場は電車の駅からとても近いため、降りた後は二人は英一を見失うことなく到着できた。
「月曜ですし、ほんとに見学者なんかいるんですかね」
「心配なさそうですよ」
昨日茂が入った自動ドアから、洋服姿の女性たちが何人も建物へ入っていった。
「それでは、行ってきます」
今日は葛城が「見学」する番だった。茂は携帯端末を取り出す。
「よろしくお願いします。俺はまず周辺のチェック、そしてすぐに警戒待機に入ります。えっと、以前、月曜夜の稽古後に張り紙と刃物がみつかったのは・・・」
「あそこの、稽古場脇の、階段下です。プレチェックは済んでいますが、再度建物周辺全体をよろしくお願いします。」
葛城はそのまま稽古場へと入っていった。茂は建物脇の小道へ入り、携帯端末の写真を呼び出し、確認する。「脅迫ビラ」と、一緒に置かれていたという刃物の、両方の写真がクライアントから提供されていた。A4サイズのコピー用紙に黒々とプリントされた「引退か、死か」の文字と、よく切れそうな肉切り包丁。
「しゃれにならないよな。なんで警察に届けないんだほんとに」
建物周囲を念入りに点検し、少し離れたところで待機に入った。稽古場は入口が自動ドアであることを除けば、洋風のしゃれた豪邸という感じだ。昨日はずっと中にいたし昼だったので、日が暮れた後に監視するのは初めてだが、周囲の人通りもまあまあで、特に危険な感じはしない。実際に英一に危害を加えようとしている者がいたとしても、ここを犯行場所に選ぶとは考えにくい。やはり危険なのは移動中だろう。
もちろんだからといって警護をおざなりにはしない。茂はヘッドホン型ビデオカメラのスイッチを入れ、時折周辺の状況について小声で録音していく。人目につかないように路上で長時間立っているコツも最近だいぶ身についてきた。
待つこと二時間、ようやく終わり時刻となり、見学の女性たちが表に出てくる。そのうち数人はそのまま帰らず、入口で待っている。出てきた葛城が、斜向かいの建物前から監視していた茂のところへ来て、苦笑した。
「出待ちみたいですね。」
「はあ・・」
「あの人たちは、着替えた英一さんを待ってるんですよ。」
「げ」
葛城は自分のヘッドホン型ビデオカメラをセットした。
「すみません、では河合さん、お願いします。」
「は、はい・・・。」
カジュアルな服装に着替えた英一が出てくると、出待ちをしていた女性たちが本当に近づいていき、カメラや携帯端末で撮影していた。茂はあきれながら彼女たちに混じった。こいつら信じられない。英一は芸能人か。ツーショット撮影にまで応じている。
とりあえず無事に誰も英一に危害を加えないことを確認し、またとりたくもない英一のお姿をピンクのスマホで撮影していると、建物から弟子兼助手たちが出てきて、女性ファンたちに撮影時間終了を告げた。英一は女性たちに満面の笑顔で会釈し、駅へ向かって歩いていく。茂は反対側へ向かって去るふりをして、目立たない場所まで行ってから踵を返して英一を追う。
先に英一を追い始めていた葛城に改札で追いついたが、再び英一は恐ろしい早足でホームへ降りていくところだった。
「え、このホーム・・・」
英一の自宅へ向かうならば反対側のホームのはずである。
「聞いてないですよね!」
「とりあえず追いましょう」
英一に続いて電車に乗り込む。しかしその後さらに信じがたいことが起こった。英一がひとりで次の駅で降りてしまったのだ。茂と葛城は慌ててその次の駅で降り、思わず顔を見合わせた。
「まかれましたね」
「なんなんだよ、あいつ!」
葛城は携帯を取り出し、茂に見せた。今日、会社を出るときに英一から来たメールだった。
『普段通りの生活に支障のないよう警護をお願いします。あなたがたもプロでしょうから。』
「我々に特に配慮はしない、ということですね。」
「うううう・・・・」
葛城が携帯端末のファイルを開く。
「さっきの駅で乗り換えたら、意外と、振り出しに戻る、かもしれません。」
英一はほっと息をついて、マスターから静かに出された水割りに口をつけた。
「三村さん、今日はなにか良いことがあったんですか?」
マスターが声をかける。英一は目だけでちょっと笑顔になる。
「いえ、面倒なことばかりですよ。いつものとおり。」
このバーの静けさに若干そぐわない足音がして、バーの入口の扉が開き、そちらを見た英一が今度は口も含めてくすりと笑った。
茂が、いや、茂が扮する可愛いくてボーイッシュな女性がずんずんと店に入ってきて、カウンターに座った。
「いらっしゃいませ」
マスターがおしぼりを出す。茂は思いっきり咳をしてから、しわがれ声で言った。
「コーラください。」
地下のバーへ降りていく階段の前で、葛城は建物の周辺をさりげなくチェックしていた。全力疾走してきたため額から汗が流れ落ち、伊達メガネをちょっと外して髪をかき上げる。とたんに通行人たちの視線を感じ、慌ててまたメガネをかけた。
英一は二杯目の水割りを飲んでしまうと、マスターへ会計の合図をした。
「あちらの女性の分も一緒に。」
「はい。」
茂は顔を極力動かさず目いっぱいの横目で英一を睨みつけた。英一がカウンターを降りながら茂へ会釈した。
「貴女のような魅力的な女性がこんなところでお独りとは。またお会いできるとうれしいです。」
英一が出て行ってしばらくして、茂がすごい勢いで出て行った。
「あああああああの野郎・・・・!!!!!」
茂は猛烈な勢いで天丼をかきこんだ。
「河合さん、怒りながら食べると消化に悪いですよ。」
その日の深夜、事務所の応接室でテイクアウトの天丼を食べながら茂と葛城は今日のレビューと明日の予習をしたが、茂の怒りはまあ当然ではあった。
「お怒りはもっともですが・・・まあ落ち着いてください。」
葛城は茂のコップに麦茶を注いだ。
「葛城さんはよく落ち着いていられますよね・・・。あんなに非協力的なクライアント、信じられない。」
「英一さんのよく行く店を調べておいてよかったですが、確かに、発信機でもつけたい感じですね。」
「たった一週間のことなのに、なんだあの態度は・・・。親が勝手に警護を頼んだからか?反抗期か?子供か?」
「協力的ではない警護対象というのは、たまにありますが、理由は様々です。」
化粧を落としてもやはり艶な笑顔で、葛城は麦茶を一口飲んだ。
五 火曜日
火曜日、茂は残業する英一をロビーでカロリーメイトを食べながら待った。セミロングのウイッグとフレアスカートという姿は、英一の女性ファンたちの平均的な服装を既に完璧に反映している。
葛城が携帯を確認しつつ茂のとなりに座る。
「河合さん、今日はさらに気合入ってますね。」
「腹減ると余計にイライラしますから・・・。そして、今日は絶対にまかれないぞ。」
「ははは・・・我々、そのことが目標になってしまっているのは困ったことですね・・・。火曜日は本当は稽古は休みの日だそうですが、明日のおさらい会のために、希望するお弟子さんだけをみてあげるそうです。さすがに今日は稽古のあと飲みに行ったりされないでしょう。」
「いくら内輪の発表会でも師範が二日酔いじゃまずいですよね」
「というか飲んでいる時間がないですね。今日の臨時稽古の終了予定は二十三時ですから。」
「げっ」
茂は携帯端末のカルテのファイルから資料を呼び出してみた。合計四十人。・・・英一の弟子の人数である。直接の師範が別にいる孫弟子が半数以上であるが、これらの人数に、少なくとも月1回、多い場合は週に二回、教授しているのだ。明日のおさらい会に何人出るのか知らないが、確かに深夜にもなろう。
「見学者が多いということは弟子も増えるのも当然ですけど、サラリーマンやりながらよくこれだけ面倒みれますね。」
「そうですね。あ、メールが来ました。」
稽古の見学者は日曜日よりはるかに多く、茂は二度驚いた。茂のような洋装の一般人も多いが、同じかそれ以上に和装の、いかにも日本舞踊の世界の人間という感じの女性たち、そして男性たちも、全部で十数人いた。短時間で受講者が入れ替わる稽古を、みな食い入るように見つめている。
短い休憩時間中に、茂は隣の洋装の女性に尋ねてみた。
「あの、着物着た人がたくさんいますが、お弟子さんの関係者なんでしょうか・・・?」
「ええ?三村流の先生たちよ、基本的に。」
「そうなんですか。」
「蒼英さまは、三村流のプリンスだもの。どの先生だって注目してるわよ。」
「なるほど・・・でも、英、いや、蒼英先生はとってもお若いですよね。ほかにももっとベテランの先生が三村流にはたくさん・・」
すると、斜め前に座っていた和装の中年の女性がこちらを振り向き、茂たちに話しかけてきた。
「確かに、お若いし、まだまだご経験は浅いわ。でもわたくしを含め師範たちがここに足を運びたくなるのは・・・・蒼英先生に、そうさせるものがあるからなのだと思いますよ。」
茂は改めて和服の人々を順に観察した。性別も年齢も様々だ。そして、彼らが英一を見つめる目つきは、同じ流派の仲間とか師範同士とかのものでもなく、師弟関係のそれでもない。かといってもちろん敵同士のそれでもない。例えるならば、古典作品を見つめる芸術家のような感じだった。
英一を自宅まで見届け、午前様となった帰り道、茂がそのことを話すと、葛城は興味深そうにうなずいた。
「蒼英さんの舞は、くせがありすぎると言われているそうです。しかし言い換えれば、それだけ独特の魅力があるということなんでしょうね。」
「稽古をつけてもらっていた弟子さんたちも、それぞれ、十分個性的だったと思うけどなあ・・・」
「お、河合さん、なんだか舞を見る目が早くも肥えてこられたのでは?」
「そうですかね」
「蒼淳さんの舞はそれに比べて、抑制が効いていて、一見退屈なくらいなんだそうですよ。流派を正当に受け継いでいくには、蒼淳さんのようなかたが家元を継ぐのがやはり基本のようです。でも、蒼英さんの舞の圧倒的な魅力も捨てがたい、というのが、三村流のつらいところでしょうね。」
「家元制度っていうのも、めんどくさいなあ。」
「そうですね。英一さんがなぜ副業をやめないのか、ちょっと想像できる気がします。」
「え?」
「英一さんにできる唯一最大の抵抗なんじゃないでしょうか。三村流の身内で彼を家元に推す人々は、彼の舞の個性を抑制したがる。彼の舞の個性をよしとする人々は彼を家元に推さないか、素人でよくわかっていないため家元になって当然と思うか、どちらか。」
「はあ・・・」
「彼がいちばんしたいことを、わかっている人間は、いないのかもしれませんね。」
「葛城さんは、すごいですね。」
「え?」
「犯人探しもクライアントのプライベートも興味ないのに、その上で、なんというか・・・・・あのクソクライアントも、ちゃんとあったかい目で観察してあげている。」
「はははは・・・。ちょっとひねくれた感じのクライアントを、何人も見てきましたからね。」
葛城は眠そうな目をこすりながら、照れた笑顔になる。茂はもう葛城に、至近距離で微笑むのをやめてくれませんかと頼むのはあきらめた。・・・と、急に葛城の表情が硬くなった。
「でも、舞の個性ゆえの魅力こそが、問題なのかもしれませんね。彼を家元に、と思う、熱狂的なファンがいたとしたら、それは本当に、熱狂的でしょう。」
六 水曜日
水曜日の朝、茂は久々に朝から大森パトロールの事務所へ顔を出した。会社はもちろん有給休暇をとった。昨日までと違い、曇り空から小雨が落ちてきている。
「おはようございます」
「あ、河合さん、おはようございます」
もう葛城は来ていた。冷蔵庫から麦茶を出している。
「おう、河合も来たか。お疲れさん。」
奥の応接室から波多野営業部長の大きな声が聞こえた。葛城につづいて茂が応接室へ挨拶に行くと波多野は二人も座るよう促す。
「どうだ?調子は」
葛城が三つのコップに麦茶を注ぎ、困ったように笑った。
「河合さん、すごい忍耐力を発揮しておられますよ。」
「ほほう。精神力を鍛えるのは、警護員にとって大切なことだな。」
「今日は、市民ホールでのおさらい会です。土曜日の公演とは会場は違いますが、それに続く重要なポイントです。」
携帯端末の資料と会場平面図などがテーブルに並ぶ。現地の構造と、立ち入りの可否や困難度合など、葛城の下調べのまとめは完璧だった。茂が今すぐ潜入して何か盗んで来いと言われてもまったく支障なく成功できそうだった。
「今日は基本的にインカムを使いますが、外からわからないようにご注意ください。ロープロファイル警護時に、劇場なんかで、録音機器と間違えられて没収されそうになった、笑えないケースもありますので。」
「はい。・・・」
「河合さん、もしかして、今日は葛城は女の格好しなくていいからうらやましいなあとか、思っておられます?」
「え、いえ、その、はい少し」
「では、交代してもいいですよ?控室から舞台裏まで、ずーーーーっと英一さんと一緒・・・」
「すっ、すすすすすみません、うらやましくないです、女装うれしいです!」
がははは、と波多野が笑い、応接室に事務員の池田さんが現れた。
「にぎやかですねえ。はい、朝食ですよ。」
ゆで卵とトーストがテーブルに置かれる。
「おお!ありがとうございます!」
「今日は長丁場なんだそうですが、がんばってくださいね。」
おさらい会は昼の部が午後1時、夜の部が午後6時に始まる。英一の弟子の大部分が出演するらしい。午前中のリハーサルから、警護は始まる。
英一の自宅から英一が運転し父親の三村蒼陽氏を乗せた車が出発し、茂と葛城の乗る車が少し離れて追い、会場の市民ホールまで十分程度で到着した。新しくはないが本格的な多目的ホールだ。茂は車を降り、ビニール傘越しにしげしげと建物を見上げた。
「下見に来たときは気づきませんでしたが、なんだかモダンな普通のホールですよね。日本舞踊の発表会とかって、もっと和風なところでやるのかと思っていました。」
「国立劇場とか能楽堂とかのイメージがありますよね。三村流は、流派として決して歴史が長いわけではない、そのためかどうかは分かりませんが、割とこういう感じの会場を好むようです。土曜日の公演もそうですしね。」
「そんなものなんですね。それじゃ、俺はこのまま客席でファンの方々に混じっています・・・・・・もう来ていれば、ですが。」
「確実に来てますよ。それでは。」
三村蒼英様、と表示された楽屋で、英一の弟子兼助手のふたりの男性が室内の冷蔵庫に飲み物を準備したり、師匠のために環境を整えていると、扉がノックされて聞きなれた声がした。
「朝からご苦労さん。入りますよ」
現れたのは三村蒼陽だ。二人は直立不動の態勢で一礼した。
「おはようございます!ご機嫌よろしゅうございます!」
「いつも蒼英がお世話になっております。今日はちょっと急なことですまないけれど、私の知人の息子さんをご紹介しておきたいと思いましてね。」
蒼陽氏は後ろに控えていた和服姿の長髪の青年を二人に引き合わせた。長い前髪にやや大きめの黒縁メガネ、頬にはそばかす。美貌を化粧で最大限覆い隠した葛城である。
「加藤君だ。舞台周りの経験を積ませたいとのことで彼の父親から頼まれまして。今日とそれから土曜日の公演で、蒼英のそばにつかせます。あなた方の仕事は基本的に変わりませんが、ちょっとこの人が蒼英について行動することをお許しいただきたい。加藤君になにをさせるかは都度蒼英が判断して指示しますので。」
「かしこまりました。」
普段着姿の英一が舞台上に現れ、客席で待機する弟子たちが助手に順に呼ばれ、リハーサルが始まった。英一は舞台の袖に立ち、じっと見守っている。リハーサルを終えた弟子たちは英一のところへ行き、ひとりずつコメントだかアドバイスだかをもらっている。客席から見てもわかるくらいに、英一の表情は硬く、厳しい。
「あれじゃあ弟子さんたち余計に緊張するよなあ。」
茂は客席で髪のボリュームの多めのウイッグにインカムのイヤホンとマイクを隠しながら呟いた。
ロビー、客席、トイレ、廊下。ひととおり見て回ったが、不審物も不審人物もなし。葛城も裏手側のチェックを済ませているころだろう。茂はあの張り紙と刃物のことを思い出していた。そしてもうひとつの写真も。英一の自宅へ送りつけてこられたという、刃物で切り裂かれた着物。葛城が、あれは相当研ぎ澄まされた刃物を使っていると思うと言っていた。
英一もあのように刃物で切り裂かれるぞ、という脅しであろうが、葛城は「眠りの森の美女方式をとります」と言っていた。つまり、オーロラ姫の父王が国中から針を排除したように、英一の周囲から刃物を排除してしまうということだ。
この会場へ入る人間も、会場の安全確保という説明の上で、厳しく荷物チェックとボディチェックが行われている。どんな人間も例外なくである。
昨日見たものをほぼ全部もう一度見せられた感じで、リハーサルが終わるころには何人かのお弟子さんはすっかり顔も覚えてしまった茂だったが、わずか3日とはいえ死ぬほどたくさん観たせいか、なんとなくすでに自分なりに舞い方の「好み」が生まれてきた感じがする。昨日葛城が言ったことも少しあたっているのかもしれない。
・・・と、急に周囲の女性ファンたちにざわめきが起こった。何事かと、ファンたちの見ているほうに目をやると、リハーサルが終わっていったん暗くなった舞台が、再び明るくなり、いつのまにか和服姿になった英一が立っていた。
英一がマイクを持ち、話し始めた。
「今日のおさらい会へ、リハーサルの時間からお越しいただいているみなさま、本当にありがとうございます。あと30分ほどでおさらい会の本番が開始となりますが、予定にはございませんでしたが私からのささやかな御礼のしるしに、短いものですが舞わせていただきます。」
女性ファンたちのみならず、たまたま席に残っていた弟子やその家族らしき人間たちの間からも、歓声と拍手が起こった。
?
いざや行きましょ住吉へ 芸者引き連れて
新地両側華やかに沖にちらちら帆掛け舟
一艘も二艘も 三艘も四艘も五六艘も おや追風かいな ええ港入り 新造船
障子あくれば 差し込むまどの月明かり
とぼそまいぞえ蝋燭の 闇になったらとぼ そぞえ
一丁も二丁も 三丁も四丁も五六丁も
おやとぼそぞえええ蝋燭を しょん がいな
茂はもちろん歌詞の意味はまったく分からなかったが(というより何を言っているのかさえ聞き取れない)、たった一人の人間が扇ひとつを持って舞うその舞台以外のものが、世界から消え失せてしまったように、自分がここで何をしているのかもその数分間の間忘れていたことに、葛城の声がインカムから聞こえ始めてかなりたってからやっと気が付いたとき、やっと気が付いた。
「河合さん、河合さん、どうしました?大丈夫ですか?」
慌てて立ち上がり、客席後ろの無人のところまで移動する。
「河合です、すみません。ちょっと舞台に見・・・・」
「み?」
「いえその、なんでもありません。こちらは異常なしです。」
「こちらもです。本番まで私が引き続き見ていますので、短いですが河合さん休憩に入ってください。」
「了解です。」
通信を終え、茂は大きくため息をついた。言いようのないイライラ感が理性を超えて襲ってくるのがわかる。
「なんだよなんだよ、あいつ・・・」
あの舞。あれはなんだ、いったい。
華麗で、軽快で、楽しげな、別世界が急に出現し、たちまち飲み込まれた。そして自然の植物がそこにあるように、人間をやめているかのようななめらかさ。にも関わらず、伝わってくるあの強靭な意志はどうであろう。どのような軽妙なしぐさをしているときでも、洒脱さとなぜ同居できるのかわからないような闘争心が、ほとんど攻撃的と言えるレベルで見る者を貫くのだ。
そしてなぜ、奴は、あそこまでして毎日毎日ファンサービスをするのだ。もう十分な数の弟子がいるというのに。
なんなんだ、いったい。
長い長いおさらい会が無事に閉会したのは、予定よりやや遅れて午後九時をまわったころだった。葛城は英一の運転する車に「見習いの加藤」として同乗し、茂は今朝と同じ車で少し離れてそれを追う。英一が自宅に車を乗り入れ、茂が外でしばらく待っていると門から「変装」を解いた葛城が歩いて出てきた。
車に乗り込んできた葛城は、助手席から茂の顔を見て尋ねた。
「河合さん、なんだか浮かない顔ですね。」
「え・・・・あ、そうですか?・・ものすごい長時間、踊りばっかり見て疲れたかもしれません。ははは。」
「そうですよね。あれ全部見るのはかなりの苦行でしたよね。土曜日の公演はもっと短いですから大丈夫です。そして今日は、良い予行演習にもなりました。」
茂は車を発進させる。
「葛城さんこそ、ずっと英一の付き人状態で、疲れたんじゃないですか?」
「はい、でもなかなか面白くもありましたよ。今日わかったことは、とにかく英一さんは私以上に仕事に細かいということですね」
「えええ???」
「舞台袖で弟子の演技を見ながら、全部のお弟子さんについて、手元に細かく記録をとっておられるんですよ。あまりじろじろは見られませんでしたが、ひとりひとりの、カルテみたいになっていました。そのひとりあたりのページ数がすごいんです。」
「はあ・・・」
「業種は違えど、思わずライバル意識を感じてしまいましたよ。」
葛城はくったくなく笑った。が、すぐにその笑顔が消え、声の調子が変わる。
「それから、英一さんと今日話してわかったこともあります。」
「?」
「今、彼にとってやっかいな人間は、お兄さんの蒼淳さん以上に、その許嫁である蒼風樹さんのようです。」
七 木曜日
夕方、プロジェクトチームの定例会議が終わり、サブリーダーの英一が次回開催日時を告げリーダーとともに席を立った。
他のメンバーたちが三々五々会議室を出ていく中、茂はアルバイトの女性とともにプロジェクターを片づける。サブリーダーの座を英一に取って代わられたためということもあるが、メンバーの中でも若手の茂は、会議も含めこうした雑用をよく引き受けている。
部屋を出かかって、英一は茂のほうを振り返った。
「今日の議事録、今日中によろしく、河合。」
茂は英一のほうを見ずに答える。
「わかってるよ。」
機材を持ってアルバイトの人も出て行ってしまうと、会議室は妙に広く、そして気まずい雰囲気が流れる。
英一は声を落としてさらに話し続ける。
「昨日、帰りがけにもうひとりの警護員・・・葛城だっけ、彼に言われたよ。目立たずに警護をするためにも、警護員があなたを見失わないようご協力ください、と。」
「その通りだよ。プロと神は違うからな。お前、床屋で頭ぶんぶん振り回して、プロなんだから上手にカットしろって言うか例えば。」
「俺は、俺の行動を制約してまで守ってほしくはないよ。」
「警護依頼人はお前じゃない。お前の父親だ。」
茂は初めて英一の顔を見て、そして睨みつけた。会社での英一は、相変わらず唯我独尊を絵に描いて額で飾ったような奴だ。
英一は答えず、会議室を出て行こうとした。今度は茂が英一を呼び止めた。
「土曜日の公演、出られなくなってもいいのか?」
「・・・・」
「危害が加えられる危険が一番大きいのは、移動中だ。相手は殺人をほのめかしているんだぞ。」
「・・・人間、死ぬときは死ぬ。」
「はあ!?」
「三村流宗家で俺の心配をしている人間はいない。心配されているのは家の評判だけだ。」
英一はそれだけ言うとさっさと会議室を出て行った。
茂が議事録をプロジェクトメンバーに送信し、終業時間を5分ほど過ぎて退社しエレベーターに乗った所で携帯に葛城から電話がかかってきた。
「はい、河合です。」
「すみません、葛城です。英一さんに、まかれました。」
「えええええっ!」
「行方不明です。」
ビル一階のロビーまで降りた茂のところへ、葛城が走ってきた。珍しく息を切らせている。
「英一さんから、会社を出る、というメールをいただきましたが、この階ではなく地下から出ていかれたようです。エレベーター二台待っても姿が見えないので会社へ電話しましたがとっくにお帰りになったと。」
「あああああのや・・・」
「稽古場に問い合わせたところ、以前から今日の稽古は助手の代講が決まっていたそうです。我々は聞かされていませんでしたが。」
「計画的じゃないですか!」
「困りましたね」
「警護なんかもうできないですよね」
この状況ではたしかに大森パトロール側に警護契約の解除権が発生する。
「そうですね・・・。波多野部長に連絡しましょう。」
茂はうつむいて一瞬考えた後、意外なことを言った。
「あの、もう一度だけ、探してみてもいいでしょうか。部長の許可が得られたら。」
「・・・かなり手間暇がかかるかもしれませんから、経費上許されるかどうかわかりませんが・・。」
「今日あいつ『人間、死ぬときは死ぬ。』と言っていました。だから、えっと、その、自殺の恐れがあるから人道的理由で・・とかなんとか。」
葛城はしばらくちょっと間の抜けたような顔で茂の顔をみつめていたが、理解したように、例の禁断の笑顔を見せた。
「確度の高いところから順に行きましょう。事務所の車が使えると思います。」
「ありがとうございます!」
「いえ、犯人に脅されて拉致された可能性もありますからね。」
いたずらっ子のような顔で葛城は片目をつぶってみせた。
英一が最初に立ち寄ったのは、三村蒼久氏の家だった。蒼風樹が玄関先で驚いた様子で英一を迎えた。
「こんばんは。」
「どうしたの?まあとにかく入ってちょうだい。」
「いや、ここでいい。大事な公演も近いので、風樹先生のご機嫌をうかがわねばと思ったんだ。」
「稽古のときじゃないんだから、美樹と呼んでよ。いつも水臭いわね、幼馴染なのに。・・・たしかに、最近、会う機会は多いけどふたりきりでしゃべる機会がぜんぜんなかったわね。」
「ひとつだけ確認させてくれよ。美樹は、兄さんが・・・蒼淳が、実力で後継者の地位を勝ち取ることができると、信じているか?」
「・・・もちろんよ。確信してる。」
「それならいい。」
英一は背を向けて門へ向かって歩き始める。
「英一、ちょっと待って。」
振り向いた英一は彼女が何を言おうとしているかよくわかっているというふうに、眉間にしわを寄せた。
「なに?」
「例の悪質ないたずらの後、脅迫状まで来たんでしょう?公演への出演をやめるわけにはいかないの?やっぱり。」
決して美人でもないし背も低い蒼風樹の、額に落ちた後れ毛を微風が揺らし、その顔が月に照らされて不思議な迫力を持って、はるかに背の高い英一を圧倒するように見つめていた。
「大丈夫だよ。親父が警護をつけてくれたしね。」
そのわずか数分後、弟子を装った葛城からの電話が蒼久氏の家にかかってきたが、英一は帰ったあとだった。
茂と葛城はそのあと二時間かけて、三村家に関係のある場所を車で七か所まわり偽名で九か所電話で問い合わせた。茂は葛城のカルテの精密さを心から称賛しそれを言葉に出した。葛城は運転席で前を向いたまま笑ったがすぐ厳しい表情になった。
「でも、みつからなければ仕方ないですからね。」
二人が英一をみつけたのは次の八カ所目でだった。ただし車はすぐに降りなければならなかった。
「暗い・・・狭い・・・急だ!」
「河合さん、そうこう言いながら結構速いじゃないですか。待ってください。」
小さな懐中電灯の光だけではよけきれない小枝が顔にかかり、石のごろごろした急坂が足をすくう。女性ものから男性ものの靴へ履き替えたとはいえ革靴ではかなりきつい。
坂を上りきり時計をみると、三十分以上「登山」をしていたことがわかり、二人は大きくため息をついた。
目の前に大きく夜空と下界の街の灯が広がった。
「なるほど・・・この崖から飛び降りたら確かに確実に死ねるかもしれませんね。」
「葛城さんがそういう冗談を言うとは思わなかったです!」
二人ともゼイゼイ息があがって、全身に小枝や土や葉っぱがついて、ズボンは泥だらけ。通行人がいたら警察へ通報されそうな風体だ。
左手に、さらに坂を上る短い階段があり、その上に小さくお堂が見える。
葛城が声をあげた。
「英一さん!いらっしゃいますね?」
あっさりと、英一が階段を下りてきた。余裕のジーパンとスニーカー姿だ。茂はスーツのズボンをまくり上げ革靴が泥だらけになった足を恨めしそうに払いながら英一へ歩み寄る。
「三村流の菩提寺は市内の富貴寺だが、もうひとつ、羽多古山に初代が建てた分骨堂がある。」
「ああ、それがここだ。」
英一は葛城のほうを見る。
「いることがわかっているような、呼び方でしたね。」
「坂に、新しい足跡がありましたから。」
「大森パトロールさんは、かなり儲かっておられるんですね。こんな鬼ごっこにつきあう時間と予算があるとは。」
茂はさらに英一に近づいた。細い分骨堂周辺の明りと月明りだけでも、睨みつけた目がわかる距離だ。
「俺たちのミッションは、お前を無事に襲名披露公演に出演させることだ。もちろん、警護への協力が不十分な場合、担当者として判断し警護を終了してもいい。だが俺はミッションの遂行を目指す。」
「なんのために。もっと良い客はいくらでもいる。」
「お前が生きようが死のうが俺にとってはどうでもいいことだが、お前の舞がなくなると、困る人がたくさんいる。警備会社は社会貢献が究極のミッションなんだよ。知らないと思うけどな。」
その場の空気が、形勢が、逆転したことがその場にいた全員にわかった。英一は初めて表情を変え、なにか言おうと口をひらいたが、言葉は出ない。
眉間にしわをよせ、苛立つ様子を隠そうともせず、英一は二人の横を通り過ぎて下山口へ向かって歩き始めた。
葛城が振り返り英一に呼びかけた。
「英一さん、明日の移動時警護では、我々があなたを見失わないよう、ご協力ください。」
英一は振り返らずに、答えた。
「わかりました。」
八 金曜日
金曜日の早朝から、蒼風樹のところには弟子が稽古を受けに来ていた。稽古が終わると、蒼風樹はいったん稽古場の和室を出て、すぐに湯呑と急須を持って戻ってきた。
「お茶をどうぞ」
「ありがとうございます」
地味な江戸小紋のすそをちょっと持ち上げて、吉田は立ち上がり蒼風樹の目の前まで来て座った。
「明日の公演の資料はひととおりお渡ししてあるけれど、何か足りないことはありますか?・・・貴女を蒼英に改めて紹介したほうがいいかしら。」
「いいえ。きっと覚えておいででしょう。わたくし、それはあまり良くないことではあるのですが。」
「はい。」
蒼風樹が入れた煎茶を飲みながら、吉田は鼈甲色の縁のメガネ越しに師匠の顔を少し厳しい表情で見つめた。
「先生。なにか迷いや不安がおありでしたら、今日のうちにおっしゃってくださいね。」
「迷いはないわ。不安はやっぱりあるけれど。それはわかってくださるわよね。」
「わかります。初めてのお客様は、おおむね皆そうおっしゃいますから。わたくしどもは、お客様の目的を達成することは、必ず保障いたします。ただし・・・」
「合法であることは、保障しない、でしたね。」
「ええ。もちろん、お客様に絶対にご迷惑はおかけしません。くれぐれも、ご安心ください。なにより、結果をご覧いただくのが一番ですが。」
「不安、というのは、そういうこともあるけれど、一番は・・・・英一に、一生許してもらえなさそうな、ことかな。」
「やはり、ご自分が依頼したことを、お話なさるつもりなのですか?」
「告訴されるかな」
「それは大丈夫だとは思いますが・・・・でも、我々としては、おすすめいたしません。」
「そうよね。」
吉田はバッグから携帯端末を取り出した。
「あと、お時間どのくらい大丈夫ですか?」
「祖父も両親も昼まで帰ってこないから気にしなくていいわ。」
「では、明日の流れの全体を、確認させていただきます。」
狭いが小奇麗なワンルームマンションのベランダで、酒井は喫煙しながらのんびりと景色を眺めていた。室内では体格の良い男ふたりが家具を動かしたり電気コードをひいたりしている。扉がノックされ、女性の声がした。
「和泉です」
酒井は振り返り男たちに命じた。
「開けてやってくれ。」
和泉が部屋の雑多なものをまたいだりよけたりしながら、ベランダの酒井のところまで来た。
「酒井さん、また煙草吸ってますね。」
「ちゃんとベランダに出て吸ってるんやから、許してくれや。」
「吉田さんのご指示どおり、レンタカー手配しておきました。」
「おおきに。この部屋のしつらえも、吉田さんの指示どおりや。」
「段取りは・・・」
二人は同時に、バッグから携帯端末を取り出した。酒井が苦笑して、画面を表示する。
「完璧やな。見取り図も、スケジュール表も。」
「吉田さんって、いったいいつ寝てらっしゃるのか・・・。」
「寝だめできるって言ってはったな、恭子さんは。」
酒井は吉田を名前で呼んだ。
「私たちにももう少し仕事を分担させてくださったら、寝る時間も増えましょうに・・・」
和泉は不満そうにつぶやく。
「吉田さんの下についたもんはだいたいそう言うんや。俺もそうやった。けど、すぐあきらめることになる。それは無理な相談やからな、”吉田さん”にとっては。」
「そうなんですね」
「あの人の予想が外れたことって、いっぺんもないんよ。だから、ほかの人間が頭使うことせんでもええ。吉田さんひとりが考えるのが一番合理的なんやから、ほかにやりかたなんかない。そういわれたら誰が反論できる?」
「はあ・・」
「もちろん。」
酒井は煙草の火をもみ消した。
「俺かて、それでええと思ってるわけやないけどな。・・・・一番わからんのは、」
「・・・・・」
「なんであそこまで吉田さんが身を粉にしてひとりで働かはるんか、やな。」
「そうですよね。」
「まあ、こんな話しててもしゃあないな。そろそろ行こか。」
二人はマンションの近くに停めてあった車に乗り込む。
「でも」
酒井がエンジンをかけながらめずらしく苦さの混じらない笑顔になった。
「今回は、あの大森パトロールさんと初めてのガチ対決やから、もしかして、何かが起こるかもしれへんな。」
「なんか酒井さん、嬉しそうですね。」
「なんでやねん。」
車に乗らなくても良いほどの距離を走り、酒井と和泉を乗せた車は駅前の坂を上りきったところにあるコンサートホールの裏手に回った。
そこは意外にも広大な人口の池になっている。
そのほとりに、地味な江戸小紋姿の女性が佇んでいた。
和泉が声をかける前に吉田は振り返り、特段の表情もなしに二人を見る。
「部屋はきれいになってる?」
「ええ。先週から借りてますからね。ええ感じや。明日いっぱいで解約なんてもったいないくらいやで。」
「左右と直下の3部屋、全部違う名前で借りるのはやりすぎじゃないかって、あなた言ってたけど、気兼ねなく作業できたでしょ?そのほうが。」
「そうですな。それは認めますわ。」
「和泉さんが清掃員として歩き回ってくれたおかげで、ホールの内部のことはほぼ分かった。あとは、蒼風樹の弟子だって言ったら楽屋から非常口まで全部見せてもらえた。警報装置のありなしと、マスターキーの動作確認を反映した図面は、関係者の顔写真と一緒に今朝全部送ったから見たわね?ルートはふたとおりに決めたわ。今日あとやっておくことは・・・」
「お部屋までのご案内ルートの、実地確認やね。」
「そうよ。」
三人は池のほとりからまわり、ホールのトラック用搬入口の前を歩いてそこから裏手の道路へ出る。
「これがひとつめ。最初から最後までホール側からも住宅地側からも、ほぼ死角。だけど、少し距離がある。」
吉田はホールの逆側を指差した。
「こちらが使えなくなったときは、ロビーから一瞬だけど丸見えになってしまう、通用口から駐車場をつっきるルートを使うわ。危険は大きいけれど、距離は近い。」
初めて和泉が口を開いた。
「つまり通用口まで車をつけるのですね。それは・・・」
「そう、万一だけど、抵抗された場合のことよ。」
「安心せい、和泉。恭子さんがプランBを使うはめになったことはこれまでいっぺんもない。」
「プランBといえば・・」
ふと足を止め、吉田がふたりをもう一度見た。
「今日、先生と話していて、ひとつ急なことなんだけど、準備しておきたいことが増えた。」
吉田は憂鬱さの混じった、静かな微笑みを浮かべた。
九 土曜日
茂は今回の警護業務が始まってから初めて朝スムーズに目覚めた。昨日の金曜日は、英一は約束通り移動時に勝手な行動をすることもなく、(終始不機嫌な、というかふてくされた顔をしていたが)警護に協力的で、茂も葛城も常識的な時刻に業務を終えることができた。
今日は一番乗りだろうと思って事務所に顔を出すと、もう葛城は来ていた。
「おはようございます、河合さん」
「おはようございます。あ、朝食・・・」
「もうすぐできますよ」
卵をゆでる湯の泡の音や、トーストのいい匂いがする。
「すみません、俺がやらないといけないのに」
「いえいえ。今日は本件警護の最終日です。こんな急な案件に対応してくださり、感謝してます。」
「・・・じゃあ俺、麦茶持っていきます」
応接室で卵とトーストを食べながら、茂は改めて葛城の顔をしげしげと見た。しかし今回はその美貌ゆえではなかった。
「葛城さんって、どうして警護員をやっていらっしゃるんですか?」
「ええ?」
葛城はパンをほおばりながら、少し楽しげに茂を見返した。こういうことを聞かれるのも慣れっこらしい。
「す、すみません。」
「いいんですよ。よく聞かれます。でも河合さんはどうしてそう思うんですか?」
「葛城さんくらいの調査能力があればなんだかほかにいろいろもっと・・・」
「もっと高収入な仕事ができそうと?」
「はい。それに、なんというか・・・・そんなにルックスも良いのに・・・」
「もっと派手でラクな仕事ができそうと?」
「そ、そんな感じもしてしまいます。」
「私が警護の仕事をしているのは、河合さんが、副業を持ってまで警護の仕事をしているのと、理由がもしかしたら似ているかもしれませんね。」
「えっ」
「なんとなくですけど。」
「そ、それは、なんか・・・・光栄です!」
「そうですか?」
葛城は、なんとなく、と言ったあとはどことなく茂をからかっているようにも見えた。
ふたりが食事を終えたころ、葛城の携帯が鳴った。波多野営業部長からです、と言いながら葛城が電話に出る。
波多野の大きな地声が茂にまで聞こえてくる。
「はい、葛城です。おはようございます。はい、ふたりとも問題なく、これから最終日の警護にあたります。・・・え?波多野部長、今日は非番ですよね・・・・はい・・・あははは。はい、わかりました。ありがとうございます。」
「どうしたんですか?」
「・・・・波多野営業部長が、河合さんの普通の警護デビュー完了の姿を見たいので今日の公演のチケットを自費で買ったんで楽しみにしておられるとのことです。」
「普通の警護って・・・」
「初心者向きの軽めのストーカー対策でもなく、ホモのおじさんの警護でもないもの、なんだそうですが」
「なんだそりゃ」
「まあ、よかったじゃないですか。部長は河合さんに期待してるんですよ。今回の件を任せられたのもその証拠です。」
「そんなもんですかね。確かすんごいテキトーに代役にされたような記憶も・・・」
「さ、そろそろ準備して行きましょう。」
二人はそれぞれの「扮装」をして、事務所の車でまず英一の家へ向かう。英一の家の門から少し離れて停車し、クライアントの車が出てくるのを待つ間に、葛城が茂に、インカムを手渡す。茂はプログラムのデータを携帯端末で閲覧しおさらいする。
「公演は十時半開演、終演は午後五時。主な名取、師範たちの後、・・・・さすがに、おさらい会とは違って演目数が少ないのに長時間ですね、えっと、最後が宗家関係者・・・蒼風樹、蒼久、蒼英、蒼淳、そして新家元・・・。英一の出演予定時刻は、午後三時半くらいか・・・」
「舞台の上にいるのはひとり二十分から三十分というところですね。英一さんは本番前の控室入りが三時。打ち合わせ通り、河合さんは客席側に集中するかたちで、よろしくお願いします。私は英一さんが会場入りしてから最後のレセプションまで基本的に英一さんに随行しますが、移動のたびにお知らせします。」
葛城は車を降り、英一の家の前の門まで行く。この先は彼は「見習いの加藤君」となり、インカムで会話できるとはいえ、茂は警護の終わりまで別行動である。水曜日のおさらい会もそうだったはずだが、茂は妙な心細さを覚えた。
家元、次期家元、蒼淳、英一、そして葛城を乗せた車を追い、少し遅れて茂もコンサートホールの駐車場に入った。
リハーサルは宗家の人間たちも含めほとんどリハーサルともいえない簡単なもので、舞台の立ち位置確認などだけだった。三村蒼英ファンクラブの確保した座席の一角はすでに老若の女性たちで占められていたので、茂は表側のチェックを済ませてからその一列後ろに遠慮がちに座った。ロビーではまえのおさらい会同様、ホールに入るすべての人間の荷物チェックと金属探知機でのボディチェックを行い、どんな小さなものでも刃物はすべてクロークに預けてもらう体制がしかれている。
舞台リハーサルは、ちょうど蒼風樹が出て、燭台の位置などを確認していた。茂はしばらく考え、インカムのマイクに手を伸ばしかけて一度やめ、やはり決意したようにマイクのスイッチを入れた。
「河合です。今大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ。」
茂は手元の携帯端末に表示した各出演者のスケジュール表に目を落とす。
「あの、この後本番開始時刻までの間、特定人物のマークをしたいんです。」
「・・・・蒼風樹さんですか?」
「すみません急に。それにセオリー違反であることも承知しています。」
「客席のチェックは終わっていますか?」
「はい。」
「ならばかまいません。ただし途中こまめに連絡をください。」
「ありがとうございます!」
インカムのマイクを口から離し、葛城は一瞬微笑み、すぐに英一のいる控室を振り返った。窓のない、迷路のような舞台裏。不審者の侵入は不可能であるし、届く花束も中身を全部チェックしてから弟子たちが控室まで運ぶことになっている。葛城のここでの仕事は英一から目を離さないことのみだ。
ノックして入室を許されたひとりの地味な江戸小紋を着た女弟子が、大きな花束を抱えて英一の控室に入っていくところだった。
吉田はとおりいっぺんの挨拶をして、英一が自分を覚えていることを確認すると、にっこりしながら花束を差し出した。そこには桜色の封筒に入った手紙が添えてあった。
吉田が出て行った後も、何人もの弟子たちが入れ替わり立ち代わり花や贈り物を届けに来た。宅配業者のような弟子たちの流れが一段落すると、英一が控室から出てきて、葛城に声をかけた。
「加藤君、ちょっとトイレ行ってくるよ。」
「ご一緒します。」
「また?いいよ、女子中学生じゃあるまいし。」
「いえいえ、蒼英先生はよく手を洗うのをお忘れになりますから。」
男子トイレに入っていった英一を、葛城は前の廊下で待つ。トイレも全て事前チェックしてある上、楽屋側のものは窓がないので安全だ。
しかし五分後、葛城は顔面蒼白になってトイレの個室のドアを破っていた。中はもぬけの空だった。
「これはルール違反だろう・・・・」
隣の清掃用具置き場との間の壁が、蝶番で開くようになっており、用具置き場の壁はホール改装前に非常口だったものをふさいであったが通れるように細工が施されていた。
もちろん計画的であるし、しかもこれは、今回は、英一が計画したものではない。
古い非常扉を出た英一を、吉田が出迎えた。
「どうぞ。こちらです。」
二人はそのまま建物内の通路を抜け、ホール裏手に出た。
「あなたは、誰です?」
「は?」
「これだけ大勢の人間のいるコンサートホールで、誰にもみつからずに、人間をひとりこれだけスムーズに連れ出すのは、普通は絶対に不可能だ。何者です?貴女は。」
「先生はご心配なく。絶対に、悪いようにはいたしません。」
吉田について裏門から出ると、横道に入り、しばらく歩いた目立たない所に車が停まっていた。吉田が初めて振り返った。
「さあ、お乗りください。ご案内いたします。」
英一が促されるままに後部座席に乗り込むと、体格の良い男ふたり左右から乗り込んできて、英一を挟むように座った。吉田は助手席に座り、運転席の酒井が静かに車を発進させた。
茂は尾行は研修で訓練を受けたことはあったが、実践は初めてだった。その割には良いデビューだと自分でも思った。私服姿の蒼風樹はちょっとした拍子に見失いそうな小柄な女性だが、彼女がホールから5分ほど歩いたところにあるマンションに入っていくのを確認し、エレベーターの停止階もわかった。
インカムで現状報告をしようと茂がマイクに手を伸ばしかけたとたん、先にイヤホンから葛城の声が飛び込んできた。
「葛城です。すみません、英一さんに、まかれました・・・・いえ、正しくは、英一さんを拉致されました。」
「えっ!?」
「河合さんのほうはどうですか?」
こんな状況でも葛城は冷静さを失っていない。
「はい、蒼風樹さんを尾行し、彼女が駅の裏手にあるマンション四階へ行ったのを確認しました。今位置情報を送りましたが、わかりますか?」
「確認できました。部長の許可をいただいた上で、私も合流します。少し待っていてください。」
茂はもちろん待ちきれずにマンションの周囲をチェックし始めた。マンションが面する道路はどれも人通りがなく、雑居ビルが立ち並ぶ中、どの方向からの見通しも悪い。茂は入口で適当な部屋の番号を押し、出た住人に宅配便事業者を装ってオートロックを開けてもらい、四階へ上がった。縦に細長いマンションで、一つのフロアに三部屋しかない。階段室から上がった茂が4階に着いてしばらくのち、エレベーターの着く音がして、茂は女性ひとり男性三人と一緒にワンルームマンションの一室に入っていく英一の姿を階段室の壁の影から確認した。すぐに、英一の両脇にいた体格のよい男性二人は再び廊下に出てきて、ドアの前に立った。門番というところだろう。
酒井は、一礼して英一に近づく。
「すみません。悪いようにはしません。公演が終わるまで、この部屋で過ごしていただくだけで、けっこうです。ご承知いただけますか?」
「断ったら、どうするんですか?」
「実力で、そうしてもらいます。」
酒井は華奢だがよく切れそうなナイフと、ロープを手に取り、愛嬌のある笑顔でこたえた。
「蒼風樹と話をさせてもらうことは、できますか?」
「あの手紙が本当に蒼風樹さんからのものだと、思てはるんですか?」
「残念ながら、手紙は本物です。」
「筆跡をまねるなんて、簡単なことでっせ。」
「申し訳ないが、俺は、子供のころからあいつを知っている。これは、あいつが仕組んだことだ。だから来た。」
酒井は答えず、英一の手足をロープで拘束した。
「猿轡をする前に、ひとつだけ質問させてほしい。」
「なんでしょうか。」
「一連の脅迫事件も、あいつの指示か?」
酒井が少し表情を変え、吉田が代わりに答えた。
「違います。我々の信用にかけて、違うと申し上げます。我々は、貴方を100%お守りするとともに、脅迫犯を今日確実に押さえます。」
「まるで警察ですね。」
「もしも本当に警察だったら、こういう方法はとってはいないですけれどね。」
茂は、ボーイッシュな女の子によく似合うデザインのリュックを開き、先月から波多野部長に携帯を許された警護員の7つ道具のうち三つを確認し二つを取り出した。スチール製の伸縮スィック、そしてビニールテープ。
吉田はドアの外に異様な気配を感じたように、玄関のほうを振り返った。
耳を劈くような金属音が響いたのはわずか数秒のことで、すぐに静かになり、玄関の鍵が外側から破壊されキーボックスごとタイルの床に落ちた。
スラックスのポケットに銀色のスチールスティックを差し、小型電動ドリルを右手に下げた茂が、ドアを足で開き部屋に一歩踏み込んできた。開いたドアから見えた廊下には、体格の良い男ふたりが昏倒して床に倒れており、ふたりの両手両足はビニールテープで拘束されていた。
茂は酒井と吉田に反応する時間を与えず、左手の携帯電話を示して言った。
「その人を、解放してください。そうでないと、警察に連絡しなければなりません。」
酒井はロープで椅子に拘束した英一にちょうど猿轡をかませようとしていたところだったが、手を止め、茂をまじまじと見た。その目は、驚きよりも、興味深さが勝っているようにみえた。
「大森パトロールさんですな。なんや、手荒なことしますなあ。一流の警備会社さんは、武闘派やないはずやけど。」
廊下に倒れている男たちのほうに視線を投げながら、皮肉な笑みをみせる。茂は表情を変えない。
「武術は警護の要素のうちわずかでしかありませんが、要素でないわけではありません。では、もう一度言います。その人を解放してください。」
吉田が鼈甲色のメガネ越しに厳しい目で茂を見返した。
「お言葉ですが、大森パトロールの新米警護員さん、事を警察沙汰にしたくないのは、あなたがたではないかと思っていましたが。」
「もちろんです。それは警護の上で非常に重要なことです。でも、一番大切なことは、クライアントの安全を守り、無事に公演に出演していただくことです。」
吉田の表情に、軽蔑と冷笑とわずかのいら立ちが混じった。
「出演することで、安全の保障が100%でなくなるとしたら?」
「この世に100%ということはないです。でも我々は99%の保障はできるつもりです。」
「・・・お話にならないわね・・・。説明するのもバカバカしいけれど、でも、その強引な腕っ節に免じて教えてあげる。英一さんを狙っている人間の性質を考えれば、ロープロファイル警護で守り切れる確率は6割程度。仮にこの公演を守り切ったとしても、負傷者が出る可能性は高い。さらに、後日再び襲撃される可能性はほぼ100%。犠牲者を出さず、本気で守りたいなら、公演に出るのをあきらめることと、今日かならず犯人を押さえることが必要であり、それをやるのもできるのも我々だけ。わかりますか?」
茂が思わず答えに窮したとき、英一が口をひらいた。
「100%守りたい、というのは、傲慢でしかないよ。」
その場にいた三人の、誰のほうも見ず、英一は低い、しかし部屋の隅々までその場にあるもの全部を突き通すような声で、言った。
「俺の仕事を封じて、俺を守るというのは、それは俺の体を守ってはいても俺という人間をなんら守っていない。」
数秒間の沈黙の後、吉田が英一のほうを振り向き、硬い声で言った。
「英一さん、ではなぜ、我々と一緒に来られたのですか?」
英一は悲しみの色の濃くなった目で、吉田を見た。
「なりふり構わず、俺の身の安全を考えてくれる人間は、たぶんこの世であいつだけだ。ばかなやつだが、でも、あいつだけだ。そして・・・」
「万一にも、それが裏切られていないことを、確認したかった。」
「そうだ。そして、やはりあいつは全く変わっていなかった。俺を守りたい、それしか考えていない。それは、わかる。でも、それは、甘えだ。」
「・・・・。」
「俺は今日、どんな結果になってもそれは俺の責任とあきらめる。が、ひとつだけ確かなことがある。」
「・・・それは・・・?」
「俺の仕事は俺自身であり、そしてそのことを理解しているのは、ここにいる、河合茂だということだ。」
聞いた吉田は眉ひとつ動かさなかったので、吉田が初めて動揺したことに気付いたのは酒井だけだった。
酒井がなにか言おうとしたとき、玄関の茂の後ろに、人影が現れ、茂の横をすり抜けて部屋の中へと入ってきた。蒼風樹だった。さすがに驚いた茂がなにもできずに見守る中、蒼風樹は吉田の前まで来て、立ち止まった。
「蒼英を・・・公演に出演させてやってください。私との契約はここで打ち切りにしてください。もちろん、費用は全額受け取ってください・・・吉田さん。」
吉田は、不思議な表情をした。理解でも無理解でもない、快でも不快でもない、例えるならば、ずっと片思いだった相手についに告白してみたけれどやはり駄目だったときのような、期待通りの失望というような、そんな表情だった。
蒼風樹は吉田に向かって深々と頭を下げた。
「申し訳ありません。本当に・・。」
そして今度は茂のほうを向き、やはり一礼した。
「河合さん。隣の部屋のモニターで、お話ぜんぶ聞きました。私は、間違っていたようです。」
吉田は酒井のほうを向き、頷いた。酒井は苦笑とともに、やはり頷く。酒井の右手の華奢なナイフが瞬時にロープを切り裂き、英一の手足の拘束が解放された。英一が、自由になった両手で靴の紐を結びなおして立ち上がり、ほんの少しだけ蒼風樹のほうを見て、そのまま玄関の茂のほうへと歩いた。茂は酒井と吉田から終始目を離さず、英一をかばうように一緒に部屋を出た。
二人を見送り、酒井がつぶやいた。
「あの新米警護員さん、なかなかやりはりますなあ。・・・というか、ある意味いちばん、やっかいなタイプですな。」
吉田は答えず、傍らの蒼風樹のほうを向いた。
「蒼風樹先生。お許しをいただけるならば、最後まで蒼英先生の警護を、我々にも手伝わせていただけませんか?」
茂と英一が廊下に出ると、私服姿の葛城が待っていた。
葛城が英一に一礼し、自分より背が高い英一の顔を見上げながら、少し硬い表情で言った。
「蒼英先生、ホールを勝手に出られては困ります。」
三人は階段から降り、マンション前に葛城が停めてあった車で、目と鼻の先のホールへと向かった。車内で、運転席の葛城が後部座席の英一のとなりにいる茂に声をかける。
「河合さん、ずいぶん無茶されましたね。インカムがつながっていたとはいえ、はらはらしました。」
「す、すみません・・・・・・。警護マニュアルにいくつ違反したか、自分でももう・・・・。」
「でも」
葛城が前を見たまま微笑んだのがバックミラー越しにわかった。
「ありがとうございました。河合さん、あなたのおかげで、ミッションを継続することができました。」
茂がどぎまぎしながらもう一度運転席の葛城のほうを見たとき、ハンドルを切る右手の手首にリスト・スリングがはめられていることに気付いた。リスト・スリングは、非常に細いスリングロープを巻尺のように収納してある、太めのブレスレットのようなものだが、手首から手のひら、中指まで薄い金属でつながっている。スリングロープは先にフックがついていて、投げたロープの先端をひっかけたり外したりできるよう、手のひらのスイッチで開閉できる。高いところから安全に降りたり、また慣れた者ならこれを使って高いところへ登ったりする道具である。
葛城は、最悪の事態になったとき、そして警察も間に合わないときは、リスクを冒してバルコニー側から踏み込んでくれるつもりだったのだ。茂は、あらためて自分の無謀さを恥じた。
髪のボリュームの多めのかつらをつけ直し、客席に戻った茂は、吉田の言葉を思い出していた。・・・英一さんを狙っている人間の性質を考えれば、ロープロファイル警護で守り切れる確率は6割程度。仮にこの公演を守り切ったとしても、負傷者が出る可能性は高い。 さらに、後日再び襲撃される可能性はほぼ100%。犠牲者を出さず、本気で守りたいなら、公演に出るのをあきらめることと、今日かならず犯人を押さえることが必要であり、それをやるのもできるのも我々だけ。わかりますか?・・・・・
彼女は、具体的に理解しているのだ。どんな人間が、英一を脅迫し、そして狙っているのかを。でも、でも、大丈夫のはずだ。英一には葛城がぴったりついている。それは公演中から、レセプションが終わり帰宅するまで、全行程を通じてである。しかも凶器を持ち込む隙は一切ない。
ただ、この先も、犯人は英一を狙い続けるのだろうか。だとすると、自分にできることは、いったいなんなのか。なにもないのではないか。
いや、余計なことを考えるな。業務に集中するのだ。それだけしか自分にできることはないのだ。
午後の、宗家とその関係者の部となり、華やかな衣装の蒼風樹が舞台に現れた。演目は「鐘ヶ岬」とある。
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鐘に恨みは数々ござる 初夜の鐘をつくときは 諸行無常と響くなり 後夜の鐘を撞くときは 是生滅法と響くなり 晨朝の響は生滅滅為 入相は寂滅為楽と響くなり 聞いて驚く人もなし 我も五障の雲晴れて 真如の月を眺めあかさん 言わず語らずわが心 乱れし髪の乱るるも 情無いは只移り気な どうでも男は悪性者 桜桜と唄われて 言うて袂のわけ二つ 勤めさえ ただうかうかと どうでも女子は悪性者 都育ちは蓮葉な者じゃえ 恋のわけ里 数え数えりゃ 武士も道具を伏編笠で 張りと意気地の吉原 花の都は唄で和らぐ敷島原に 勤めする身は誰と伏見の墨染 煩悩菩提の撞木町より 浪花四筋に通い木辻に 禿立ちから室の早咲き それがほんに色じゃ 一イ二ウ三イ四ウ 夜露雪の日 霜の関路も共に此の身を 馴染み重ねて中は円山ただまろかれと 想いそめたが縁じゃえ
舞台化粧にかつら、衣装をつけているとはいえ、ほんの少し前に見た私服姿の蒼風樹とあまりにも違う空気に、茂は何度も双眼鏡で舞台の彼女を確認した。確かに同一人物である。舞がかなしみをこれほど美しく表現できることを、茂は初めて知った。また我を忘れそうになったが、理性で業務を思い出した。
「蒼風樹さんは、英一のことが好きなのかな・・・」
油断すると、つい業務とは関係のないことを考えてしまう。いけないいけない。そんなことは自分の仕事には関係のないことだ。全然関係のないことだ。
舞台は続いてひとのよさそうな老人の蒼久、次に英一・・・蒼英が舞った。茂が英一の舞を見るのは二回目だが、前回よりはるかに長いその演目の間、理性で舞台から目をそらし、客席の観客たちの様子に神経を集中した。舞台上の英一の警護は葛城の担当、そして客席は茂の担当だ。
観客たちに不審な動きをする者はない。そしてほぼ全員、今この客席に来たばかりのように夢中で舞台に見入っている。茂もつい舞台をちらちら見る。蒼風樹の舞はしっとりと可憐だったが、蒼英の舞は悪魔のように甘美な暴力性があった。劇薬か麻薬のようだ。英一が扇を閉じ正座して一礼すると、二十数分間凍りついたようになっていた客席から、嵐のような拍手が起こった。
蒼淳の出番となった。少しほっとして、茂は舞台にもう少し多めに目を向ける。英一が彫刻のような完璧な長身の美男子だったため、舞台に出てきた兄の蒼淳はひどく平凡な人間に見えた。
演目は「融」だ。なんと読むのだろう。
?
あの籬が島の松蔭に 明月に舟を浮かめ 月宮殿乃白衣の袖も 三五夜中の新月の色 千重ふるや 雪を廻らす雲の袖 さすや桂の枝々に 光を花と散らすよそほひ 此処にも名に立つ白河の波の あら面白や曲水の盃 受けたり受けたり遊舞の袖
あら面白の遊楽や そも明月のその中に まだ初月の宵々に 影も姿も少きは 如何なる謂はれなるらん それは西岫に 入日の未だ近ければ その影に隱さるる 喩へば月のある夜は星の淡きが如くなり 青陽の春の始めには 霞む夕べの遠山 黛の色に三日月乃 影を舟にも喩えたり また水中の遊魚は 釣針と疑ふ 雲上の飛鳥は 弓の影とも驚く 一輪も降らず 萬水も昇らず 鳥は月下の波に伏す 聞くともあかじ秋の夜の 鳥も鳴き 鐘も聞こえて 月もはや 影かたむきて明方の 雲となり雨となる この光陰に誘はれて 月の都に 入りたまふよそほひ あら名残惜しの面影や 名残惜しの面影
さっきの英一のときのような客席の恍惚とした緊迫感ではなく、なにも変わったことがないのにいつの間にか、周囲に清浄な青空がひろがっていくような、不思議な安堵感が観客を包み込むのが茂にもわかった。
別に派手でも可憐でも華麗でもないのに、これはなんだろうと茂は考えながら舞台に注目した。短期間とはいえ死ぬほど大勢の人間の舞を見させられた茂は、ひとつだけわかった気がした。蒼淳は、「なにもしていない」のだ。舞台に、そこにいるのは、蒼淳ではなく、この世の美と芸の結晶としての「舞」それだけであり、同時に、舞で語られる登場人物のありのままの姿、それだけなのである。
・・・・英一さんの舞は、くせがありすぎるといわれているそうです・・・・
葛城が言っていたことの意味が、かなり分かった気がした。茂は、家元を継ぐべきはこの蒼淳だと確信した。
そして葛城のもうひとつの言葉も、脳裏によみがえった。
・・・英一さんが本当にしたいことを理解しているひとは、いないのかもしれませんね・・・・・
蒼淳が舞い終えて一礼し、さっきの英一のときのような熱狂的な拍手ではないが、豊かに湧き起こるような、幸福感に満ちた拍手が会場を包んだ。
次期家元つまり三浦蒼陽の舞が終わると、茂はとりあえず一息ついた。これで、公演中の襲撃は起こらずに済んだ。
インカムから葛城の声が入ってきた。
「河合さん、客席警護お疲れ様でした。三十分後にホール五階のレストランでレセプション開始です。お疲れかと思いますが、あと少しです。がんばって、女性ファン色満載でよろしくお願いします。」
「ははは・・・。」
控室で髪を直したり袴のほこりを払ったりしながら、英一は助手を兼ねているふたりの弟子に、ドア近くに控えている「見習いの加藤君」と代わるように指示した。
「レセプションでは加藤君に付き人をしてもらうから、君たちは今日くらいはゆっくり飲食してくれ。」
「かしこまりました。ありがとうございます。」
「じゃあ、ここはもういいよ。帰りに車を運転してもらうから、加藤君はここで洋服に着替えるし。」
「はい、失礼いたします」
二人の弟子が部屋を出ていくと、葛城はドアを閉め、内側から施錠し、奥の畳張りになっている少し高い床の上に上がってそこに吊るしてあったジャケットやら靴やらを取る。
着物と足袋を脱ぎ、レセプション会場にふさわしい、少しきちんとしたジャケットとスラックスに着替える。
「お借りしたお着物は、こちらに置いておきます。」
着物を手早く畳み、葛城は英一のほうをちらりと見た。英一は相変わらず不機嫌そうにあさってのほうを向き、葛城と目を合わせようとはしない。しかし葛城はもう「警護にご協力ください」とは言わなかった。
二十分後、英一は他の宗家の人間たちと並んでホール五階のレセプション会場入口で、来客たちを迎えていた。後ろには葛城つまり見習いの加藤君が控えている。
茂は受付で、ピンク色の封筒に入った「レディース特別ご招待券」を見せた。茂の後ろに並んでいた若い女性たちがうらやましそうに茂に声をかける。
「それ、私たちファンクラブのゲットする入場券より、もっともっと競争率高いんですよね。すごいわあ。」
「く、くじ運が良いもんで・・・げほごほ」
レセプション参加者たちはすでに全員、ホールに入るときに所持品チェックを受けている上、レセプション会場には刃物と呼べるものはバターナイフさえなかった。立食形式の料理はすべて一口大のオードブル形式か箸で食べられるもの。ここからは分からないが、厨房からも、調理が終わった時点で包丁やナイフのみならず鋭利な道具はすべて撤去してあり、さらに会場スタッフも全員身体検査を受けている。
立食式のレセプションが始まった。やはり蒼淳と蒼英の兄弟は、それぞれ来賓との会話が忙しいのか、ひとことも言葉を交わさない。
蒼風樹は舞台化粧を落とし訪問着姿になってやはり来賓たちと談笑している。蒼風樹から少し離れて、地味な江戸小紋を着た目立たない女性が立っていることに、茂はずいぶんレセプションが進行してからやっと気が付いた。
気になるが、しかしだからといって茂にどうこうできるものでもない。茂は警護に集中した。
主な招待客たちは、宗家の古くからの関係者だから、まず大丈夫だ。怪しいのは、今日だけの招待券で来ている一般客たち・・・茂が扮しているような・・・・、そして、会場スタッフと、あとはあえて言うならマスコミ関係者だ。
実際にマスコミ関係者は、怪しかった。酒井は家元にインタビューしながら、改めて自分の演技力に自信を深め、ひとりごちた。
「和泉は、酒井さんは演技力があるんじゃなくて、怪しげな風采に似合った扮装しかしないからですよとか言っとったけど、今度はほめてもらお。」
しかし客観的にはもちろん、どこから見ても怪しげな風采の似合う新聞記者だった。
レセプションは早くも終盤となった。
「皆様、そろそろこの会もお開きとなります。三村蒼陽あらため三村蒼の、家元の襲名のご披露ができましたことに改めて御礼申し上げますとともに、ここで、次期家元を発表いたしたく存じます。」
三村蒼陽が家元を襲名したことで今日から「前」家元となった、もと三村蒼氏・・・今日で引退し、名前はなくなる・・・が、奥の金屏風の前に立ち、次期家元の発表を宣言した。会場内は静まり返り、屏風側から見て左手にある窓の外から、5階下の地上にある池の噴水の音が聞こえてくるほどだった。屏風側から見て右手の厨房と会場との間を出入りしていたスタッフたちも、ワゴンやトレイを運ぶ手を休めて金屏風前の「前」家元に注目した。
屏風の脇に、蒼風樹、蒼久、蒼英、そして蒼淳が並ぶ。
「三村流次期家元は」
蒼風樹が目を閉じた。
「三村蒼淳といたしたく存じます。」
会場から歓声と拍手が沸き起こった。カメラのフラッシュがまぶしくひらめき、記者たちは携帯端末に思い思いに入力したりメモをとったりしている。その後レセプションの閉会が宣言されると、参加者たちが宗家の人間たちを取り囲みしきりに挨拶を交わし、葛城も茂も神経をとがらせて警護にあたった。
そんな中でも、茂は英一が蒼淳に話しかけるところを初めて見て、少し高揚感を覚えた。
「おめでとうございます、兄さん。」
英一の表情にあまり祝福感はなかったが、悔しそうな感じもなかった。
「ありがとう。」
蒼淳の無骨な顔に、意外なほどの優しくあたたかな微笑みが浮かんだ。
マスコミ関係者、そして来客たちが順に会場を後にする。宗家の人間たちは会場の出口付近に一列に並び、目の前を通る来客たちひとりひとりに頭を下げて見送る。
宗家の人間たちが背にしている、天井から床まである大きな窓からは、夜空に静かに、しかし大きく照り輝きながら月が上がっているのが見えた。
茂は少しだけほっとしながら、しかし英一と彼に近づく人間から最後まで目を離さないようにして、英一を撮影する女性ファンたちに混じった。その女性ファンたちも帰り、残った茂を、蒼陽氏、いや、蒼氏が、にこにこしながら手招きした。
いったん会場を後にした酒井は、歩く足をゆるめながらレセプション会場を振り返った。吉田はまだ蒼風樹のそばにいる。吉田が今日、英一たちが去ったあとのマンションで、蒼風樹に言った言葉がよみがえる。
・・・・「犯人は、狂信的なファンでしょう。犯行は、もっとも効果的なタイミングで行われるでしょう。そして、脅迫状の後は動きがないことから、警護が行われることを予想できる普通の頭脳の持ち主です。そして、自分の警告を無視しておめおめと公演に出演し、みっともなくも次期家元の座を正面から逃した裏切り者を、ゆるさないでしょう。そして・・・」
蒼風樹も、傍らにいる吉田が、今日マンションの部屋で言っていた言葉を思い出していた。
・・・「そして、もっとも効果的な場面で犯行におよぶということは、自身も逃げられないということ・・・。それなりの覚悟でやるということでしょう。犯人と思われる人間はわかっています。でもこれまでの脅迫行為の証拠がありません。本当なら、蒼英さんが急きょ出演できなくなったことがわかったとき、犯人が必ず反応しますから、そこで押さえる予定でした。しかしこうなってしまった以上は、犯行現場で押さえるしかありません。」
酒井は吉田の用意周到さに感心するのは今回が初めてではなかったが、やはり感心していた。新聞記者に扮して酒井がレセプション会場へ紛れ込むのは、彼女の「プランC」だった。
宗家の人間たちが挨拶を終えてその列が少し乱れたとき、会場にいたスタッフのひとりが声をあげた。
「あっ!すみません!!!うわあっ!!!」
ワゴンを運んでいた会場スタッフのひとりが転倒し、その勢いで、一番出口近くにいた英一のさらに左横あたりに向かって、ワインボトルとグラスを積んだワゴンが突進した。ワゴンは天井から床まである窓ガラスに激突し、窓のガラスと、ワゴンのボトルやグラスが激しい音をたてて砕けた。
「あぶない!」
英一の近くにいた別の会場スタッフが英一をかばうようにその前に出てきた。
茂の目に、その会場スタッフが白い手袋をした右手で、床のガラスの破片をつかみ、振り向きざまに英一の喉元を狙って振り下ろすのが映った。
その手は葛城の左手に手首をつかまれ、わずかに軌道が変わって、英一の着物の襟もとと袴の紐に鋭い切れ目を入れた。
同時に酒井が会場内に走り込み、ワゴンを激突させた会場スタッフが厨房のほうへ逃げようとするのをつかまえ、頸動脈への一撃で失神させていた。
英一に切りつけた男は葛城の手を振り払い、絶叫しながらワゴンを持ち上げて窓ガラスを叩き割り、そして「三村蒼英は、終わった!」と叫ぶとそこから身を躍らせた。
蒼風樹の脳裏に一瞬でマンションでの吉田の最後の言葉がよぎる。
・・・「犯人の自殺は、防げないかもしれません。そのときは申し訳ありません。ひとりのけが人も死人も出さないことが、大切でしたのに。」
茂はもちろん飛び降りを止めようと駆け出したが、間に合う距離ではない。
酒井は次の瞬間、信じがたい光景を目にした。
葛城が、窓から飛び降りた犯人を追って窓の外へ飛び出し、左手で空中の犯人の胸のあたりを抱え、右手のリスト・スリングを会場入り口ドアのノブに向けて投げたのだ。
投げられたスリングロープのフックはドアノブにからみつき、ドアが大きくこちら側に開いた。そこへ茂が飛びつくようにしてぎりぎりドアに手が届き支えたが、大人二人分の体重を如何ともしがたく、一度は止まったロープの先端は、ドアのノブがボルトごと外れ解放されそのまま、茂の伸ばした手をあざ笑うかのようにすり抜け、飛ぶように窓の外へ滑り落ちた。
夜空に、月の光を反射して、ガラスの細かい破片が輝きながら舞っていた。
五階下の人工の池から、激しい水音がした。茂は狂ったように割れた窓のところまで駆け、ようやく我に返った他の会場スタッフたちに止められなければ自分も落ちていたのではないかと思われるほどに、身を乗り出して下を見た。
「葛城さん!!」
ライトアップされた池は噴水のために波打ち、そして向こう側に犯人がうつぶせに、手前のほうに葛城が横向きに、池の中に倒れていた。
犯人は頭を動かし、浅い池から顔を出しているが、体を強く打ちそれ以上動けないようだ。手足から血が出ているのがわかる。
そして葛城は、水中に横向きに倒れたまま、まったく動かない。
吉田は携帯電話をかけていた。
「もしもし。救急車をお願いします。○○市○○町○丁目○番地の○○ホール裏手の池に、ふたり五階から転落しました。はい、少なくともひとりは生きていますが、重症です。もうひとりは心肺停止か・・・即死です。」
電話を終え、近くにいた会場スタッフに声をかける。
「警察も、呼んだほうがいいですよ。それから救急車の誘導に人を出したほうがいいですね。」
会場スタッフは慌てて携帯を取り出した。
「救急車の誘導をしろ!」
何人かのスタッフが走り出ていった。酒井は吉田のほうを見た。彼の目が「救命処置、したほうがええですか?」と言っていたが、吉田は首をふった。「そのくらいは、彼らにまかせましょう」ということだった。
茂は恐ろしい速さで階段を駆け下り、池に向かったが、茂より先に着いた者が既に救命処置を始めていた。波多野営業部長だ。池から助け出され池のほとりにあおむけに寝かされた葛城の呼吸の有無を確認し、胸に耳をあて、「畜生・・・!」と叫ぶと、心臓マッサージを始めた。茂が傍らに到着すると、心臓マッサージを続けながら茂に声をかける。
「河合、手伝ってくれ。首、うごかさないようにな!」
「はい!」
会場スタッフがAEDを持って走ってきた。電気ショック、胸骨圧迫、を繰り返す。途中で心臓マッサージを茂も交代し、続ける。
葛城は硬く目を閉じたまま、既になんの反応もしなくなっていた。AEDが電気ショック必要なし、の表示に変わる。
濡れた髪がかかった顔は月のように白く、わずかに開いた唇は水のように青かった。
「葛城さん!葛城さん!」
五分ほどの後、救急車が到着した。肩を借りればなんとか歩けるようになっていた犯人が、続いて葛城が、救急車に運び込まれた。
波多野営業部長が同乗した。部長が救急車に乗り込むときに何か言っていたが、もう茂の耳には入っていなかった。池の水と、汗とで、ぐっしょりになった茂は、茫然自失のまま救急車を見送った。
レセプション会場から降りてきた英一は、暗がりのせいで誰にもわからなかったが、茂よりも血の気の引いた顔で、池のほとりに座り込む茂と、まだ葛城の血の跡があざやかな地面を見つめていた。
十 日曜日
夜間の、救急窓口しか開いていない病院の暗めの照明の待合室で、茂はじっと座っていた。自分が何時間前からここにいるのかよくわからない。
日付は日曜日になっているはずだが、今何時なのかもわからない。頭がはたらかない。
看護師さんが自分に向かってなにか言っているが、何を言っているのかさえわからない。
わずかな頭の隅の記憶から、波多野部長から携帯電話で病院の場所を知らされ、タクシーに乗ってやってきたこと、着いたら手術中だったこと、そして集中治療室に移ったあとも誰も入ってはいけないけれど波多野部長だけはゆるされたこと、葛城の家族を呼ぶように言われたが、身内親族の連絡先がまったくわからなかったこと、などが少しずつ、よみがえっては消える。
どうして、こんなことになってしまったのだろう。どうして葛城はこんなことにならなければいけなかったのか。そう、この河合茂が、余計なことをしたからだ。木曜日、普通に警護をあきらめていれば、土曜日の警護はなかった。あるいは、土曜日の公演の本番前、英一が半ば自分の意志で会場を後にしたとき、探したりしなければ、レセプションでの犯行機会もなかった。
人を守るはずの警護員が、人を殺してしまうというのは、どういうことなのか。
待合室に入ってきた英一の目に、看護師さんに肩をゆすられ椅子から立ち上がり、支えられるようにして茂が奥の集中治療室へ向かうのが見えた。
英一も足がすくむのを感じたが、恐怖心に鞭打って、救命救急センター受付に向かった。
「葛城怜さんの、友人です。彼に会うことは・・・・できますか?」
受付の看護師が手元の手書きの書類とコンピューター画面とに目をやり、再び英一のほうを見た。
「少しお待ちください。」
受話器を取り、指示を仰いでいる。電話を終えて、英一に向かって早口で答えた。
「意識が回復するにはおそらくあと丸一日はかかるそうです。それでもよろしければ・・。」
「え?」
「あ、でも二日以上、意識障害が続くケースもあります。」
「それは・・・つまり・・・・助かるということですか?」
「ああ・・・・はい、それは。危篤状態は先ほど脱したとのことですので。・・・会社の上司と同僚のかたが、そばについておられますよ。」
英一はしばらくそのまま佇んでいたが、看護師に一礼し、そのまま病院をあとにした。看護師は去り際に英一が向けた笑顔で、初めて彼が非凡な美男子であることに気づき、頬を赤らめながら見送った。
日曜日の朝早く、吉田は師匠のところで最後の稽古を受けていた。
「ありがとう、吉田さん。本当に、お世話になったわ。そしていろいろ、ごめんなさい。」
「阪元探偵社を、よろしければまたご利用ください・・・・と申し上げたいところですが、とてもそのように申し上げられる状況じゃありません。不手際の数々、恥じております。」
「どうしても満額受け取ってはくださらないの?」
「成功報酬分の規定の割合分は、お返しさせていただきます。我々、信用商売ですので。」
「わかりました。わたくしから見れば、蒼英にけがはなかったし、犯人はふたりとも逮捕されたし、あなたがたは100点ですけれど・・・。予定外のことはすべて、わたくしが翻意したのが原因ですし・・・。」
「蒼英先生が無傷で済んだのも、大森パトロール社のあの警護員さんが一命をとりとめたのも、幸運というほかないでしょう。運に任せた仕事は我々の範疇ではありません。」
「ご自分に厳しいのね。そう、ひとつお尋ねしてもよい?犯人の可能性のある人間があらかじめ分かっていた、とおっしゃっていたけれど、それはなぜわかったのですか?」
「企業秘密ですが、たとえば・・・最終的には会場スタッフの派遣契約を調べれば、最近入った人間はわかります。そういったことです。」
吉田は江戸小紋のすそを少し持ち上げ、立ち上がった。
蒼風樹が一緒に立ち上がり、玄関まで見送る。
「わたくしの知り合いで、もしもわたくしのように、困っている人がいたら・・・・あなたがたのことを、教えてあげてもいいかしら?」
吉田は静かに微笑んだ。
「・・・もちろんです。私どもは、ご紹介によるお客さまだけ、お受けしておりますから。」
玄関を出てしばらく歩き、吉田は少し意外そうに脇道に目をやった。見慣れた軽自動車が停まっており、運転席から酒井が手を振っていた。
後部座席から和泉が降りてきて、吉田のところまで走ってきた。
「吉田さん・・・・お疲れ様でした。あの、ご自宅までお送りさせて頂いても、よろしいですか・・・?」
「これから事務所に戻ってレポートを作るから、まだ帰れないわ。事務所は電車のほうが早いから、一人で行く。」
「あの、でも、酒井さんが、吉田さんは夕べ寝てらっしゃらないから、一人で会社へ行かせてはいけないと・・・」
車のほうを吉田が見ると、酒井も降りてくるところだった。
厳しい表情で、吉田が酒井を見る。
はるかに背の高い酒井を、吉田が見上げ、なにか言いかける。和泉は普通でない空気を感じ、慌てて先に車へ戻った。酒井が吉田より先に言葉を出した。
「レポート、いっぺん和泉に書かせてやりまへん?彼女も修業が必要やし。それに・・・」
「それに?」
「それに、そんなに恭子さんばっかり責任感じるの、やめてもらえまへんかな。我々立つ瀬がないし。大森パトロールみたいなめちゃくちゃな奴らが、恭子さんの予想外のことするんやったら、こっちも恭子さんの予想を裏切るような生意気なスタッフで対抗するのもええんとちがいます?」
「・・・・・なんだかうれしそうね。」
「そんなわけありまへんがな。さあ、とにかく乗ってください。恭子さんに倒れられたら、阪元探偵社、商売あがったりですがな。」
吉田は渋い顔をしながら、後部座席へ乗り込んだ。和泉が用意した、羊のぬいぐるみのデザインの枕と、毛布がおいてあった。
日が落ち、西日が弱まり、集中治療室の明りが全て灯された。カーテンで仕切られた一番入口から遠いところにあるベッドの上で、葛城はぼんやりと目を覚ました。朦朧とした意識はしかし否応なしに、もう再び失うことを許されなかった。全身が痛い。特に左腕と左脚の鈍痛。そして体のあちこちの皮膚が、切り傷特有の鋭い痛みを訴え、さらに打ち身の痛みが加わっている。頭を動かすと、硬くて軽いマスクが口と鼻を覆っていることに気が付き、目だけ動かしてみる。左腕と左脚にはギプスがされていて、右腕には点滴の針が刺されているのが、見えた。
次に、ベッドの周囲に目をやった。
漫画やドラマなら、ここで、茂とかがベッド脇のパイプ椅子に座り、看護疲れで居眠りなどしているのであろうが、現実は厳しい。看護しているのは基本的に看護師さんたちであるし、そして茂はトイレに行っていて留守だった。
しかし程なく戻ってきた茂はカーテンを開け、葛城と目が合い、数秒間固まっていた。
少し血色が戻り、頬の切り傷に小さな絆創膏をして、酸素マスクをつけられた葛城が、茂のほうを見てかすかに微笑した。マスクのためよくわからないが、動いた口は
「河合さん」
と言ったようだった。
茂はなんとか金縛り状態から抜け出すと、ベッドにもう一歩近づき、両膝をついて両手をベッド柵に乗せ、葛城の顔をじっと見た。
「葛城さん、意識が・・・・戻ったんですね・・・・大丈夫ですか、気分は・・・・」
葛城が小さくうなずくと、はっと気が付いて茂はすごい勢いで踵を返して看護師さんを呼びに行った。ナースコールボタンの存在はもちろん忘れていた。
看護師さんが茂と一緒にやってきて、葛城に話しかける。自分の名前や今日の日付などを聞かれ、小さな声だったが葛城は明瞭な言葉で答えた。
茂はようやく普段並みの冷静さを概ね取り戻し、廊下に出て、波多野営業部長の携帯に電話をかけた。波多野は三村蒼氏の家で今回の警護について総括説明をしているはずだ。
はたして、三村家では初めて茂と葛城が挨拶兼打ち合わせをした客間で、三村蒼陽あらため三村蒼氏と英一が、波多野営業部長と向かい合って座り、最後の説明のやりとりをしていた。
蒼氏は申し訳なさそうな表情で波多野へ念押しした。
「本当に・・・今回は大森パトロールさんにはなんの落ち度もないんですから、代金減額というのはやはり・・・」
「ありがとうございます。しかし契約書にも明記してありますし、未遂に終わった場合も実行行為を防止できなかった場合に該当しますので。」
「そうなんですね。しかし・・・そもそも今回の警護では、本来警護に協力すべきこの蒼英が、警護に非常に非協力的だったと、蒼英本人が申しております。そうだな?英一。」
英一はうなずいた。
「そうです。申し訳ありません。」
「まあ確かにそうした要素もありましょうが・・・いずれにせよ、警護契約解除しなかったのは当方の判断でもありますので。ここはなにとぞお気遣いなく。そして我々も今回のことを教訓にさらにサービス向上に努めますので、よろしければまた次の機会にもご利用くださいませ。もちろん、必要が発生しないことが一番ではありますが。」
波多野は営業スマイルで一礼した。
お茶を勧めながら自身も一口すすり、蒼氏が申し訳なさそうな表情をさらに曇らせた。
「警護員の葛城さん、危篤状態はなんとか山を越えられたとのことですが、まだ意識は・・」
「そうですね、回復まではもう少しかかるようで、うちの河合が付き添っています。」
茂から波多野の携帯に連絡が入ったのはちょうどそのときだった。
電話を終えた波多野は、営業スマイルではない笑顔で蒼氏と英一のほうを見た。
「噂をすればなんとやら・・・ですな。おかげ様で、葛城の意識が戻ったそうです。後遺症の心配もほぼないとのことで。ご心配おかけしました。」
十一 水曜日
集中治療室から一般病棟に移った葛城の病室を、さっきからひとりの長身の美男子が訪ねてきているのを、看護師たち(のうち女性たち)はひそかに情報共有していた。個人情報の適正利用はもちろん遵守しつつ、あの背の高い素敵な人、日本舞踊のプリンス、日曜日の新聞記事、といった用語が飛び交っていた。もしもこれを茂が見ていたら、この世の美の化身のような葛城ではなく、なぜクソ傲慢で憎たらしい昔の剣豪的容貌の英一のほうが女性うけするのか、不条理を訴えたであろう。
看護師に葛城の様子を聞き、お目覚めですよ、との言葉に感謝の微笑みを返し、真っ赤になった看護師に軽く会釈し、葛城のベッドへ向かう。
「失礼します。今、大丈夫ですか?三村英一です。」
こちらを見た葛城が右手でベッドを起こすスイッチを押そうとするのを、押しとどめ、そのままでと英一は言った。
「わざわざありがとうございます。会社のほうはよろしいのですか?」
「午後有給を取りました。プロジェクトチームの仕事は今日は河合が代行してくれてますしね。おかげんはいかがですか?」
「おかげさまで、だいぶ楽になってきました。」
「それはよかった。」
英一は、美しい紫色の花束を右手に持ったまま、ベッド脇で葛城に向かって、頭を下げた。
「今回のこと、本当に、申し訳ありませんでした。」
葛城は目をまるくし、しばらく後に困ったように微笑み、そしてゆっくりベッドを操作して少しだけ上体を起こした。
「きっと波多野も同じことを申していたとは思いますが・・・・警護契約継続は我々が判断したことですし、それに、もしも私の負傷のことをおっしゃっているのでしたら、この点は完全に私自身の責任です。」
「・・・・・」
「そしてなにより、私は、少し感謝しているんです。うまく言えませんが。」
「感謝しているのは、俺のほうです。・・・・いずれにせよ、貴方は、俺の命の恩人です。このことは、忘れません。」
葛城は、どうぞ、もう顔をお上げください、というしぐさをした。
英一はわずかな微笑みを両目によぎらせ、傍らにあった花瓶にすでにピンク色の可憐な花がいけてあるのを見て、ここに一緒にいけていいですかと尋ね、持ってきた花束を解いて花瓶に加えた。
長居を避け、立ち去ろうとした英一を、葛城が呼び止めた。
「河合さんは、普通に会社に来ておられるんですね?」
「・・・どうしてですか?」
「いえ、確か日曜日の夜帰られたとき・・・少し様子がおかしかったので。すみません、でも、気のせいでしょう。」
「奴はそんな神経繊細じゃありませんから、大丈夫ですよ。」
「ははは・・・。今日はありがとうございました。あ、でも英一さん」
「?」
「私を命の恩人、とおっしゃっていましたが、あの場に竹刀があったら、私は必要なかったでしょうね。」
「・・・・。」
「英一さんは、剣道の有段者ですよね。それに、あのとき、普通のかただったら、いかに警護員が犯人の腕をつかんだとはいえ、着物を切られただけでは済んでいなかったでしょう。」
英一は口だけで一瞬微笑み、そして一礼して病室を後にした。
十二 日曜日
茂は朝一番の便で飛び立つべく、シャトルバスから降り、空港ビルに到着した。
アパートのあの狭い部屋でも意外なほど荷物が多く、処分に時間がかかり部屋を引き払うまで1週間もかかってしまった。
昨日の土曜日は荷物の運び出しやら片づけやらで一日つぶれた。
故郷の兄夫婦には知らせていないが、多少の貯蓄もあるし、選ばなければ仕事はなにかあるだろう。
茂は、会社と、それから大森パトロール社に、それぞれ辞表を提出してきた。
波多野営業部長と葛城には、個別に手紙も書きのこしておいた。波多野部長には入社した日からさんざんお世話になったことのお礼、そして葛城には、・・・人を守るということを、教えてもらった、お礼を。
茂は、自分にこの業界が向かないことを、早めに悟ることができたのが、今回の最大の収穫だと思っている。大森パトロール社のように、そう、葛城のように、どこまでも人を守る、ということも自分の能力では到底望めない。しかも、吉田らが言っていた、確実に必要な結果を出すためには手段を選ぶべきではない、という問いかけにも、なんの回答もすることができなかった。
自分は、中途半端だ。
そして、仕事をする上で、中途半端以上の害悪はない。
会社にも甘えてきた。すべてを一度一掃して、出直したいと思っている。
深呼吸して、空港ビルに入り、チェックインカウンターへ向かった茂の足が、止まった。
時代劇の剣豪が敵の行く手をふさぐように・・・・・ではなく、背の高い不気味なほど整った容姿のクソ傲慢そうな若い男が、カウンター前の通路に仁王立ちになって、こちらをにらんでいた。
「おい」
その迫力に、茂は正直ひるんだ。立ち止まったままの茂に、英一が数歩近づき、茂は気おされて一歩退いた。
「な、なんだよ」
「お前、ばっかじゃねえの。」
「は!?」
「自分の仕事を放っぽり出して、敵前逃亡をするような奴が、俺に説教したのかと思うと、クソむかつくよ。」
「説教って・・・」
羽多古山の頂上で、茂が言ったことを指しているのだろう。
「会社で、お前の上司から聞いたよ。しかも同じ日に、大森パトロールにも辞表を出していた。」
誰にきいたのだろう。
「同期のお前に、挨拶もしなかったのは、悪かったよ。」
「お前、なんで辞めんの?」
「向いていないからだよ。俺は、警護に向いていない。お前が舞に向いているのとは、全然違うだろ。」
英一はさらに怖い顔になり、低い声でゆっくりと言った。
「河合、お前、辞めるなよ。仕事。」
「な・・・・」
「辞めるな。お前は向いているよ。警護に、向いているよ。会社は・・・まあ・・ともかくとしても、警護員には、向いている。腹が立つくらいに、な。」
茂はなにも言えず、立ちすくんだままだ。
「明日から会社に戻れ。課長には話して、了解をもらってある。大森パトロールの波多野さんからは、これを預かっている。」
英一は、茂が大森パトロール社に置いてきた辞表を取り出した。
「波多野さんから、こうしてくれと、言われている。」
辞表を、茂の目の前で、英一が破り捨てた。
葛城の病室で、葛城と無駄話をしていた波多野営業部長の携帯が鳴り、廊下でひとしきり話したあと再び病室へ戻ってきた。
葛城が不安そうな顔で部長の顔を見上げる。部長はピースサインをして片目をつぶった。葛城の表情に安堵の色が広がる。
「事務の池田さんからだ。三村英一さんから事務所へ、ミッション完了の電話があったそうだ。」
「それじゃあ・・・」
「これからも、あの新米警護員をよろしくな、怜。」
「会社のほうも、ちゃんと戻られるんでしょうか。」
「それは聞いてないが、大丈夫なんじゃないか。うちの給料だけじゃ、ちょっと苦しいだろうからなあ。」
「本当に・・・よく説得できましたね・・・英一さん。」
「そりゃあ」
波多野が帰り支度をしながら楽しそうに言った。
「交渉ってのは、思いの強いほうが結局勝つからな。」
蒼風樹が葛城の病室番号を受付で聞き、大きな花束を持って病棟へ上がろうと歩き始めたとき、反対側の入院受付カウンターでなにやらごねている人影が目に入った。
日曜の午後ということで、人影は少なく、英一のタッパはよく目立つ。
「英一。どうしたの?なにしてるの?」
英一は振り返り、日頃誰にも見せないような、困り切った顔で蒼風樹に訴えた。
「美樹、お前も見舞いか・・・・。ちょうどよかった。なんとかしてくれ。・・・親父が、葛城さんにバスルーム付き個室に移っていただきたいから、本人にわからないように費用を出して手続きしてこいと、俺に命じたんだ。めちゃくちゃだよ。」
さすがに、英一の容姿と笑顔をもってしても、事務員さんを説得できないらしい。
「こういうことは、俺より、兄さんのほうが絶対向いている。美樹、お前から頼んでくれ。俺はもうだめだ。」
蒼風樹は母親のように笑って、首をふった。
「だめよ。自分でなんとかしなさい。それに、困ったときは、最初にご先祖様に相談するって、3人の間では決まっているでしょ。」
「羽多古山へ登っている時間があったらそうしているよ。」
「ふふ、じゃあ私が、偽手紙でも仕込んであげましょうか?」
「あの手紙は・・・偽物じゃなかったじゃないか。正直な、内容が・・・書いてあっただけだ。」
「そうね。きっと、一番強いのはやっぱり、正直さなんだと思うわ。だから英一、交渉がんばってね。」
蒼風樹は子供をしつける母親のように茂を優しく睨むと、さっさと病棟へ向かう。が、一度だけ立ち止まり振り返った。
「英一、・・・・・今回のこと、ごめんなさいね。許してもらえるとは、思っていないけれど。」
英一は答えず、蒼風樹も答えを待たず、病棟へと上がっていった。
十三 月曜日
茂は、仕事帰り、二週間以上ぶりに、あの女性バーテンダーたちのいる健全なバーのカウンターにすわっていた。
「お久しぶりです。なんだか、お痩せになられました?」
「そうですか?仕事が忙しいせいかな。」
「すごい、また新しいプロジェクトですか?」
モスコミュールを飲みながら、茂が微笑む。
「いえ、会社のオフィスの模様替えが決まったんで、机の移動やらカーペットの張り替えやらで大わらわなんです。」
「はあ・・・」
どうフォローしてよいかわからない女性バーテンダーが、話題を変えた。
「そういえば、土曜日の公演、行ってきたんですよ。三村流の。」
「あ、タダ券もらってたやつですね」
「感動しました・・・。河合さんはお友達なんですよね、あの、三村蒼英さんも一緒にここにお越しになることもありますよね?」
「ええ、いや、どうですかね。」
噂をすれば、英一が女性を4人つれて店に入ってきた。
カウンターの茂を見つけて、不敵な笑みを浮かべる。
「河合、今日の議事録、まだ送ってきてもらっていないよ。ほかに存在意義ないんだから、ちゃんとやってくれないかな。」
茂は目いっぱいの横眼で、英一を睨みつけた。
(第一話 おわり)
この後、応募作品ではありませんが第七話以降も連載しております。これからもよろしくお願いいたします。