六月の小雪
蒲公英様の「かたつむり企画」参加作品です。
(「雨の中を、傘を差さずに歩くシーン」を入れるという、浪漫もとい妄想広がるテーマです!)
さらさらと。
静かに文字が綴られる。
ぽつぽつと。
雨が硝子を叩く。
先生はとても古風な人で、この21世紀にありながら筆を使う。だから雨音は、いやにはっきりと聴こえる。
八畳一間の正方形の書斎で、私のすることといったら、本を読むか、ヘッドフォンを着けて音楽を聴くか、あるいはときどき、ごくたまに先生に珈琲を差し出すこと。
退屈。
「雨、ひどいですね」
私はついに音を上げた。先生は書き物を続けながら応える。
「ん、そうかな。こんなものだろう。梅雨だしね」
私はやれやれと肩をすくめる。そうして暫く待ってから、
「ちょっと退屈です」
単刀直入に切り出す。先生はふっと微笑む。
「下行って電子遊戯してきていいよ。今日はお休みだし」
そうじゃなくって。
でもそうは云えない。
「じゃあ、先生。私、リビングに居ますね」
私は立ち上がる。
「あ、そうだ、小雪くん」
先生が唐突に呼び止める。私は期待に胸を膨らませる。
「これ、ごちそうさま。ついでに持って行ってくれないかな」
やっと振り返った先生は、満面の笑みで空の珈琲カップを差し出した。
※
階段の踊り場にある姿見で、私は容姿を確認する。黒髪、白い肌。大きすぎず、小さすぎない、眼、背、胸。自分で云うのもなんだけれど、先生の好みのはずなのに。
もう少し違うふうに化けたほうが良いのかしら、などと私は溜め息を吐く。
いやいや。
先生が冷静すぎるのだ。
それと、あの書斎よ。古書に囲まれたあの場所にあっては、私なんて珈琲カップを上げたり下げたりするだけの女給ですわ。せめて外出できればこちらにも分があるというのに。
そうして私は窓の外を見つめる。庭先では紫陽花が誇らしげに雨に打たれている。あなたは良いわね、と横目でやり過ごし、カップを流し場に置くと、胸ポケットの紙を取り出す。
小雪。
私の名前が書かれている。
几帳面な先生の文字をなぞる。心臓に触るような、ぞくぞくとした感触。
この文字が消えたとき、私の魂は現代日本から離れ、冥府に還ってしまう──らしい。
らしいというのは、もちろんそんな体験をしたことが無いためだ。しかし、何はともあれ、そんな理由で、私のような式神は、雨の日に外出しない。
せっかくの休日ですのに。
これでは、仕事しているときのほうが楽しいと私は思う。部屋を見渡しながら、私は逡巡し、そしてついにゲーム機のスイッチを入れた。
※
「この、この」
ブラウン管の中で、屈強な戦士がキックをかます。そうさせているのは私、式神の小雪だ。操られる者が操れるのは、彼くらいなものだ。
「やった」
辛うじて敵をKOする。そうして一瞬の達成感。しかしすぐに淋しさが忍び寄る。投げ出されたもう一つのコントローラーが私の視線を吸い付ける。はあ、二人で遊んだら、もっと面白いのに。私はソファにのけぞり、ぐったりする。
「小雪くん」
は。
気付くと、先生が階段から降りてくるところだった。
私は赤面し、すぐに姿勢を正す。いけない。だらしないところを見せてしまった。
「ちょっと出かけるけど、君も来るかい。傘を差せば大丈夫だろう」
「はい、お供します」
私は即座に応える。
「そんなに張り切らなくても、仕事じゃないよ。ちょっと電気屋さんまで」
「え」
私はゲーム機の電源を切りながら続ける。密かに、新しいソフトを買ってくれることを期待している。
「珍しいですね。何を買われるんですか?」
「何、ちょっとしたものだよ」
先生は微かに笑いながら、着物の帯に財布や御札を仕舞っていった。
私は少し気になったが、何はともあれ、嬉しさの方が勝る。
「ほら、行くよ」
「はいっ」
私はついていく。玄関の門を開くと、湿気を帯びた薄明かり差し込んだ。
相合傘としゃれ込みたいところだが、それは我慢。先生の和傘と、私のビニール傘が並んで歩く。雨が降り、薄暗いけれど、開けた景色は私の心を晴らしてくれる。
私はちらりと先生の顔を見上げる。先生は何も云わずにまっすぐ前を向いて歩いている。丸眼鏡の横から覗く瞳は、綺麗だった。
しばらく行くと、ローカル線の駅があり、私たちは電車に揺られて街に向かった。車内の人影はまだらで、私たちは難なく椅子に座ることができた。少し湿った起毛の感触。
ふと、私は、斜め前に座った少女を視て、驚いた。
「ねえ、先生。あの子」
「うん?」
先生は伏せていた顔をゆるりと上げ、眼鏡を少しずらしてそちらを視た。紫色の影が、少女の足首を覆っていた。
「ああ、そうだね」
「どうします?」
尋ねる。
「小雪くん。今日は休日と決めたんだ。僕は聖人君子じゃないんだよ」
先生は再び目を伏せる。
「まあ、それに、あまり成長していないし、きっと大丈夫だろう……」
諭すような口調が付け加えられた。
「はい」
しかし私は、しばらく少女の脚にかかった靄から目を離せないでいた。するとついに、少女はこちらに気づき、怪訝な視線を送ってきた。私は慌てて目を伏せる。
先生の仕事は不思議だ。
俯きながら、私は考える。
ときどき誰かを助け、ときどき誰かを見捨てる。その基準は私には分からない。先生のように永く生きれば、そういうさじ加減も分かるようになるのだろうか──。
※
少々説明が遅れたが、私がこの人間の祓魔師を先生と呼び慕うには、きちんとした理由がある。もちろん、私が先生の式であることは一つの大きな理由だ。身もふたもない話をすれば、私のような式神は、主を好くように造られている。
だがそれを差し引いても、私は尊敬している節がある……と思いたい。
先生は、文字通り私より先を生きていることが、他の誰とも違うところだ。
通常、ヒトの寿命はアヤカシよりも短いことが多い。
「昔、遠い国を旅したときに、ジプシーに呪いをかけられてね」
一度だけ、先生はそう説明した。夏の夜、縁側でのことだった。
「死にたいと思うまで、死なない呪いさ」
都合が良いよね、と先生は笑った。
どう都合がよいのだろうか、と私は考えた。だいいち、そんな呪い聞いたことが無い。
実は、今でもよく分からない。
ただ、そんなふうに何も分からないで考えているいる私のことを、先生は目を細めて眺め、そして美味しそうに西瓜を頬張った。
大人なんだか子供なんだか。
なんだか余裕だな、と私は思った。
※
私は横顔を覗き込む。先生は丸眼鏡の奥で瞼を閉じ、一切の闇を視ないようにしていた。
しばらく揺られて街に出ると、人の数は一気に増えた。もちろん、それに合わせて影の数も。こんな雨の休日だと云うのに。いや、雨の休日だからだろうか。
人の世は忙しい。先生がうんざりするのも、無理もないのかもしれない。
先生は無言で人波を横切り、電気屋に向かって行った。途中で何人もの人が私たちを視ていた。先生の和装は良く目立つ。けれど、そんな視線もすぐに波に紛れて消える。それが現代日本なのだ。
「ねえ、先生」
私は足を速めながら尋ねる。
「ん?」
「帰りにあのカフェに寄りましょうよ」
云うと、先生はそっと笑った。
「甘味か。そうだね」
ミツケタ。
突然、背後からぞっとする声が私たちに降りかかった。私たちはぴたりと足を止める。先生にも聴こえたようだ。先生は大きく溜め息を吐き、眼鏡を外した。
私たちが振り返ると、そこに広がっているのは、もう駅前の喧騒ではなかった。
建造物は同じ。
しかし、あまりに昏く、冷たい。この世とあの世の、狭間の世界。過ぎ行く風は叫びの声だ。
私たちの前に、巨大な影が立ちはだかった。
ミツケタ、ミツケタ。
そうして、影が咆哮する。老婆のような、赤子のような、奇妙な叫び声。炎のようにゆらめく牙と、隻眼が視える。
「やれやれ。今日は休日なのだけれど」
先生はそっと腰の霊符を抜き取る。しかしそれよりも先に、影の太い腕が、先生の細い躰を鷲掴みにした。
「先生!」
私は叫ぶ。
「小雪くん。傘を放してはいけないよ。ここには雨が降っているんだからね」
おぞましい怪物に自由を奪われながらも、先生は呑気に私の事を心配して云う。
「先生……」
私はもどかしさで傘の柄を強く抱き締めながら、先生の闘いを見守る。
どれほどの時間が経っただろうか、先生が辛うじて指先で放った霊符が、怪物の脚を貫いた。灰と水の腐ったような臭いが迸る。
グォオと、まるで獣のような咆哮が響く。それは決定的な始まりの合図だった。私は思わず耳を塞ぎ、目を瞑った。再び目を開けるまでの間、それはほんのわずかな時間だったはずなのに、次の瞬間、先生はアスファルトに放り投げられていた。
「先生!」
先生はよろめきながら立ち上がる。視えない雨粒に打たれて、着物の藍色が深くなる。
そこへ、すぐに追撃が襲いかかる。怪物の腕は、無数の蟲からできているかのように蠢き、伸びて、先生の肩を貫いた。しかし先生は、やはり冷静に、和傘に霊力を込め、それで怪物の腕を切り落とす。
「残念だけど、僕は死なないんだ」
先生はにやりと笑う。
しかし、怪物も嗤う。
「え」
そう、確かに、嗤ったのだ。
私は背筋を冷たいものが這い上がるのを感じた。こいつは、今までのやつとは違う。アヤカシだから解かる。瘴気の臭さ。
オマエハ、コドクダ。
怪物は息も切れ切れにそう云った。その瞬間、確かに先生の瞳が微かに揺れたのを、私は視た。
「先生、気をつけて!」
ナニモノモ、オマエヲ、ユルサナイ。
怪物は再生させた太い腕を大きく振りかぶり、横なぎに先生を打ち払った。それは先生の動作よりも紙一重で速かった。
「うっ」
先生は人形のように弾き飛ばされ、ベンチに叩きつけられてしまった。
とても、痛そうで。
どうして、そんなに。
先生。
気づくと、私は傘を放り出し、怪物のほうに歩み寄っていた。揺らめく赤い瞳が帯を引きながら、私のほうを振り返る。
躰が熱い。燃えるように熱い。牙が伸び、体毛が伸びる不快な感触が私を包む。
こゆきくん!
先生の声が雨音に歪んでいる。
ごめんね、先生。分かっています。けれど、私、コレを赦せない。一分、一秒でも早く、殺してやりたい。
それに、あまり見ないで。恥ずかしいから。
私は獣の躰に戻って、怪物の腕に噛みついた。黒い血が飛び出し、饐えた匂いが顔に吹きつける。臭い。けど、放すものか。このまま引きちぎってやる。
重力が私を左右に振り回す。私は歯茎の痛みに耐えながら、怪物を見据える。黒い血の間から、苦悶の表情を確認する。
雨と血が私を濡らす。だんだんとぼやけていく感覚。ああ、これが、式が融ける感じなのか、などと、私はどこか冷静に考えていた。
でも後悔はない。だって今まで、退屈だったんですもの。
閉じかけた瞼の向こうで、強烈な蒼い光が走った。
私は驚いてそれを見つめる。わずかに視える長方形の輪郭。一枚の霊符が貼り付けられていて、それが怪物の肉を焼いていたのだった。先生が弾き飛ばされたあのとき、一瞬の隙を突いて貼りつけたのだろう。ぼんやりと耳に届く、断末魔と詠唱。私の背後、つぶれたベンチの隣で、先生が霊符を活性化させているのだ。怪物は見る見るうちに沸騰し、蒸発していく。
なんだ、大丈夫だったんだ。
さすが、先生、ね。
私が脱力するのと、敵の影が大気に融けきるのは、ほぼ同時だった。
※
「小雪くん」
呼びかける声と、雨の音。
あれ、私、まだ残っていたんですね。
そう云おうとして、失敗した。口から出てくるのはもはや人語ではなかった。懐かしい子狐の姿になって、私は抱えられていた。
私たちの間には、私の式。雨に濡れないように、強く抱き締められている。
「あんまり無茶をしないでくれよ」
先生は背中を丸め、足早に帰路を行く。からんころんと下駄の音。アスファルトから伝わる振動に、触覚が呼び戻される。
私はゆっくりと先生を見上げる。細い顎の上、唇の端が切れ、陶器のような肌に赤が差しているのが視える。
先生。
「ん?」
私、お役に立ちたかったんですけど。
「分かっている」
先生はすぐに応え、そうして続けた。
「でもね、どうか信じてくれ。僕はこんななりでも、それなりに強いんだよ」
私は黙って頷き、ごわごわした着物の感触に顔を埋める。式を通して感じる。人間の鼓動。
でも、とても、とても痛そうだったんですもの。
「まあね。今日のは、ちょっと大物だったなぁ……」
そんなことを笑って云いながら、先生は玄関を開く。畳の匂いが私たちを迎える。
戸が閉まると、世界から切り離されたような静寂が、そこにあった。
「でもね」
ぽつり、と。小さな声だった。
「君が消えたら、僕は哀しくて死んでしまうよ」
え。
あまりに唐突な言葉に、私は驚く。そして、雨とは違う、温かい雫が一つ。先生が涙を落としたのだ。
それは氷雨よりも、怪物の血よりも、私の式に染みた。心がばらばらになりそうなくらい、切ない感触だった。
※
部屋に戻ると、先生はドライヤーで私の式を乾かし、一晩中抱き締めて霊力を送ってくれた。
布団の中で私は、ここぞとばかりに色々と訊いた。人の姿ではないからか、先生はあまり恥ずかしがらずに、ぽつりぽつりと話してくれた。
昔、先生の助手を務めた式の話とか、式に名前を付けるのはとても覚悟がいるとか、そういうお話。
霊感があるのも大変ね、と私は答え、偉そうにそんなことを云えるようにまで回復すると、朝になっていた。
朝日の中、私はやはり美女の姿に変身した。この姿も、いつの日だったか頑張って聞き出したものだ。これは私が先生を慕っているという証。まあ、自己満足なのだけれど。
弱いのか強いのか分からない、人間の先生。
もう少しお供させてね、と呟きながら、私は服を着る。
「あれ、小雪くん。おはよう」
先生が眼を醒ます。それはとぼけた、いつもの本の虫で。改めてそんな表情を視ると、むしろ私のほうが気恥ずかしくて消えてしまいそうになる。
「おはようございます。先生。──ところで昨日、電気屋さんで買いたかったモノって一体何だったんですか? 結局買えませんでしたよね。今日は晴れているみたいですし、一緒にお出かけしましょうか?」
私はまくしたてる。そしてさりげなくカフェに誘ってみる。
「ああ、あれね──」
先生はよろよろと立ち上がり、書物机に向かって行く。私はついて行く。
「先日、甘味処で見かけたんだけどね、式をこういうふうにできないかなってね。──ああ、これは無理云って貰って来たのだけど」
そう云って先生が差し出したのは、カフェのメニュー。私は首をかしげる。
「ほら、この透明の薄膜だよ。こうすれば、濡れても平気でしょう」
ラミネート……。
私は絶句する。
厭だった。何としても厭だった。ぴちぴちしていて、とても気持ち悪そうだし、どこか変態的だし。
「い、厭です! 私、ラミカになんてなりません!」
私は即答する。
「え、何で?」
「絶対厭ですからね! 珈琲淹れてきますっ!」
私は渡り廊下へと逃げ出す。
歪んだ硝子の向こうで、ししおどしの水面に青空が映っている。
もうじき夏だ、と私は思った。
END
お読みいただきありがとうございました!
今回は普段書かない作風に挑戦してみましたが、いかがだったでしょうか。お気軽な評価・感想お待ちしております。