四、「何も覚えてない」
何も覚えてない。
一瞬だけ記憶が飛んだような気がする。
愛知が気がついた時には数人の教師が愛知を取り押さえていて、周りの人々は皆、怯えた目で愛知を見ていた。
愛知の手にはまだその感触がありありと残っていた。
一乗谷の首を締めた感触が。
「え…?なんで…?」
「安曇野!職員室まで来なさい!」
自分を取り押さえていた教師にずるずると引きづられて、教室を後にする。
後ろを振り向くと、一乗谷が泣いていた。
こちらを恐怖の眼差して見ている。
本当に何が起きたのか分からない。
確か、一乗谷にカッターで切りつけられそうになって、それから、それから…?
一乗谷の、首を、締めた…?
大変な事をしてしまった。
これは一見、正当防衛の様にも見えるだろう。
発端は一乗谷がカッターで愛知に危害を加えようとした事なのだから。
だが、一乗谷はそれこそ自身の(正確には親の)権力を使って自分が危害を加えようとした事を隠蔽してくるだろう。
つまり、愛知が一方的に一乗谷の首を締めた事になる。
正当防衛が転じて一気に殺人未遂だ。
愛知は戦慄を覚えた。
まさかこんな形で現代社会から離れることになろうとは思っても見なかった。
一体何なの?
家で邪見にされて、学校で虐められて、挙げ句の果てには刑務所行き…?
意味が分からない。
この人生のどこに救いがあると言えるのだろうか。
職員室についた。
中には数人の職員がいる。
ふと視線を横にやると、羽黒が心配そうな顔でこちらを見ていた。
きっと失望されただろうな、と愛知は思う。
期待されていたわけでは無いのだろうけれど。
どうしてだろう。
それが何よりも辛かった。
*
「もしもし?ああ、俺だ。」
学校の薄暗い廊下で、電話をする人物がいた。
「ああ。何とか足止めしておいてくれないか?後は俺が何とかするよ。ああ。頼んだよ。悪いな」
通話が終わったのだろうか、彼は携帯電話をポケットに仕舞った。
かつ、と靴の踵を鳴らして、彼の姿は闇に消えた。
*
警察にお世話になるものだとばかり思っていたのだが、先生方からお叱りを受けただけで済んだ。
今日は帰ってもいいとの事だったので、愛知は大人しく帰路についた。
だが、楽観視は出来ない。
明日になれば警察が来るだろう
そして、愛知は刑務所行きだ。
正当防衛という事実が揉み消されるわけだから、執行猶予はつかないだろう。
だが、邪見にされ、虐められる現状を考えると、案外刑務所の方が安全なのかもしれない。
どうせ、愛知に心休まる場所など、どこにもないのだから。
マンションに着いた愛知は階段を使って自宅のある11階を目指した。
少しでも家に着くまでの時間を稼ぐためにも、エレベーターは使わない。
11階までの道のりを、一歩一歩踏みしめる。
足が疲れても、息が上がっても気にしない。
とにかく階段を昇り続ける。
ああ、この階段を昇るのもこれで最後なんだ。
そう思っても、別に感慨はなかった。
どうでも良かった。




