二、「そう思いたいってだけだ」
昼休みの始まりを告げるチャイムが鳴り響き、愛知は逃げるように教室を飛び出した。
もちろん荷物は全部持って出てきた。
あそこに置いておいたら何をされるかわからない。
廊下を全速力で走り、階段を駆け上がる。
走って、走って、走って…。
愛知は屋上にたどり着いた。
「はあ、はっ…はぁ…」
乱れた息を整えて、固いアスファルトに足を踏み出す。
嗚呼、今日も空が青い。
このまま空に溶けてしまいたい。
空に溶けて、消えて無くなってしまえたらどんなにいいだろうか。
少し高めのフェンスに指をかける。
この外に飛び出してしまいたい。
飛び出して、いなくなることができるならば、の話だけれども。
「お?安曇野じゃねぇか。昼はいつもここか?」
背後から声をかけられ、びくり、と肩を震わせる。
後ろを振り向くと、そこには男が立っていた。
黒髪、眼鏡、スーツと、いかにも教師らしい風貌の、顔立ちの整った男である。
それは愛知にとって馴染みのある男だった。
「羽黒…先生」
羽黒玄武。今年入ってきた24歳の新米国語教師。2年生の国語の授業を担当しているので、当然愛知は羽黒の授業を受けている。
故に互いが互いを知っているのは当たり前なのだが、何せ2年全体で6クラスあるのである。
そんな中で羽黒が自分のことを覚えていてくれていたことが、愛知にとっては意外だった。
「安曇野は昼は弁当か?それとも購買?」
「いえ、ここに来る途中にコンビニで買ってきました」
「ん、そっか。俺は弁当男子だ」
にっ、と笑みを浮かべて、羽黒は手に持っている弁当らしき包を掲げる。
「自作、ですか?」
「ああ。毎朝作ってる」
そういえば一番最初の授業の時に一人暮らしをしているって言ってたっけ。
羽黒は一番最初の授業の時に、個人情報から思想まで、自身の一切のことを包み隠さず教えてくれた。
一見普通のことに思えるだろうが、なんというか、その内容が問題なのだ。
羽黒は見た目こそ美青年だが、中身が少しズレているのである。
そう、愛知が進級して初めての国語(現代文)の授業の時である。
羽黒は教室に入ってくるや否やいきなり黒板に「人」という字を書きだした。
思わず見惚れてしまうような綺麗な字だった。
大きく二つの曲線を書き終えた羽黒は、くるり、とスーツの裾を翻してこちらに向き直った。
「いいかお前ら。人という字は人と人が支えあってできてるってよく言うよな?」
羽黒は急に語りだした。
突然のことに驚いた愛知たちをよそに、羽黒は自論を展開する。
「でも、その話に疑問を持つ捻くれ者もいるはずだ。「弱者の上で楽してる強者の絵にしか見えない」ってな」
にやり、と羽黒が口角を上げて意地の悪い表情を見せる。
愛知達の口は依然開いたままだ。
「確かに、実際そんなもんだよ。誰かが苦労してる横では誰かが楽してるもんだ。苦労してる奴は苦しいだけだし、楽してるほうは罪悪感も何も感じてねぇからたまったもんじゃねぇよ。それを考えると人なんか助ける価値あんのかって話だ。でもな、この「人」って字…」
す、と羽黒が「人」という字に目をやる。そして、先ほどとは違う柔らかい表情で微笑んだ。
「今にも倒れそうな人を誰かが支えているっていう図にも見えないか?」
苦しみに倒れた長い棒を、短い棒が支えている、そんな図に。
「思いやりとか、優しさとか、人のために何かをしたいとか、そういうのが人間の根底、奥の奥にあるって、俺は信じたいよ」
まあ、「人」って字は人の立ち姿から出来上がった漢字なんだけどな?と羽黒が茶化すように笑う。
「そんなわけで、出席をとるぞ!元気よく返事しろよお前ら!」
「先生、」とここで教卓から見て左から3列目、前から2列目の女子が手を挙げる。
「ん?どうした?坂巻」
坂巻と呼ばれた女子生徒は驚いた表情を見せた。初対面であるにも関わらず名前が知られていることに驚いたのだろう。
だが、坂巻はそれには言及せずに、本題を告げる。
「あの、号令はかけないんですか?」
しん、とあたりが静まり返る。
羽黒は目を丸くしたまま、こう答えた。
「あれ?高校って授業の最初に号令かけるっけ?」
回想終了。
とにかく、羽黒は変わった人物なのだ。
少なくとも、愛知に羽黒の事は理解できなかった。
特に、羽黒の自論は。
「先生、前に言ってましたよね。人間の根底に思いやりがある、って」
愛知は依然として、屋上から見える風景を見つめながら尋ねた。
「お?ああ、そういえば言ったな。最初の授業だっけ」
あの話を6回もするのは疲れたぜ、と羽黒は自作の卵焼きを頬張りながら笑う。
愛知が過去の思いでに浸っている間に、羽黒は弁当を食べ始めていた。
因みに弁当の中身は、鮭に卵焼きに野菜炒めと、なかなかおいしそうだった。
「じゃあ、先生。先生は権力にものを言わせて、他人のことなんかおもちゃ程度にしか思ってなくて、人が苦しんでいるのを見て楽しんでいる、そんな人でも根底に思いやりがあるっていうんですか?」
一気に捲し立てる。
羽黒は一瞬きょとん、とした表情を見せた。
「それ、もしかして一乗谷のことか?」
一乗谷とは愛知をいじめている金髪の女子のことだ。
どうしてわかったのかと一瞬疑問に思ったが、よくよく考えたら権力にものを言わせている奴なんてそいつぐらいしかいない。
愛知は「誰だって、いいじゃないですか」と蚊の鳴くような声で言った。
固く握られた拳と強張った肩が小刻みに揺れている。
…ああ、そうか。
こいつも「悪」に苦しめられているのか。
羽黒は悟った様な顔でふう、と息を吐いた。
「いや、実際は知らん。一乗谷の事も、その他の奴も、お前も例外なく、根底が思いやりだなんて実際はわかんねぇし、やすやすとそんな事は言えねぇよ」
そこまで言ったところで、愛知が勢いよく羽黒のほうを向いた。
泣きそうな表情をしていた。
「嘘…嘘を吐いたっていうんですか!?」
「嘘なんかついてねぇよ。ただ…」
「ただ…?」
「そう思いたいってだけだ」
羽黒は愛知に笑いかける。
柔らかい笑顔を、向ける。
「どんなに悪いことしてる奴でも、下種い奴でも、クズでも、どっかにいいとこがあるって思わねぇと、やってけねぇよ。ただ単に、それだけさ」
羽黒は立ち上がり、愛知との距離を縮める。
その距離が少し腕を伸ばせば届くところまで縮まったところで、羽黒は愛知の口に卵焼きを突っ込んだ。
「えい。」
「ふ…!?」
突然のことに驚いたが、愛知は何とか卵焼きを咀嚼する。
口の中にふんわりとした甘みが広がった。
美味しい。伯母の焦げた卵焼きより、美味しい。
ははは、と羽黒は声をあげて笑い、ごつごつした大きな手を、愛知の頭に乗せた。
そして、ぐしゃぐしゃと髪の毛をかき乱す。
「何があったかは知らねぇけど、何かあったら俺に言えよ?別に俺じゃなくてもいいけどな。一人で抱え込んでたら潰れちまうぜ?あんまりため込んで、どうしようもなくなって、そこから飛び降りられてもたまんねぇからな」
愛知は黙り込む。
というか、髪の毛が乱れるからいい加減やめてほしいのだが。
その思いが伝わったのか、す、と手が離れ、羽黒は屋上の扉のほうへと歩いていく。
「じゃあな。相談だろうがなんだろうがいくらでも乗るから、辛くなったら頼れよ?あ、授業には遅れるなよ」
ひらり、と後ろ手に手を振る羽黒。
愛知は「…はい」と小さく返した。
なんだろう、心が軽くなったような気がする。
でも、結局はこの人も助けてはくれないんだろうな、と愛知は思う。
今までも教師に相談したことはあるが、まともに扱ってはくれなかった。
学校の品格が落ちるのを恐れてか、一乗谷のことを恐れてか、わからないけれど。
だがそう言ってくれるのは素直にうれしい。
変わった人だけれども、いい人だ。
人間の根底に思いやり、か。
本当にそうだったらいいなぁ…。
ぼんやりと愛知は思った。
その考えが10分後に裏切られることも知らずに。




