一、「意味が分からないくらい救いのない人生」
安曇野愛知が目を覚ましたころには、デジタル時計のディスプレイが6:53を表示していた。いや、目を覚ましたという表現は正確ではない。彼女は眠っていなかったのだから。
昨夜、いや、今日だ。夜ベッドに入ってから一睡もできていない。依然目は冴えたままだ。
愛知は上体を起こし、緩慢な動作でベッドから降りると、クローゼットから自身が通う高校の制服を取出した。
ごくごく普通のセーラー服だ。
最近クリーニングに出したばかりだからか、やけに綺麗だ。
その異様なまでの白さが、まるで自分のものではないかの様な感覚に愛知を陥らせる。
だが、いちいちそんなことを気にしていても仕方がない。どうせすぐに汚れる、いや、汚されるのだ。
そんなこと、何ら問題ではない。
スローペースの着替えを完了させると、愛知は勉強机に置かれた写真立てに手を伸ばした。そこに映っているのは3人家族。優しげな表情で笑う父母と、真ん中で無邪気に笑う少女。
愛知はそれを愛おしげに見つめた。
「お父さん、お母さん、おはようございます。」
身支度を一通り終えた愛知がリビングへ繋がる扉を開くと、そこには台所に立つ伯母と、テーブルについて朝食をとっている従姉妹の姿があった。
「おはようございます、伯母さん」
愛知は台所の伯母に声をかけた。伯母は少しだけ顔を顰めたような表情を見せたが、すぐに洗物をしている手元へと目線を移した。
「朝ごはん、用意してあるから、早く食べて学校行きなさい」
目線を手元に向けたまま、愛知のことを見もせずに伯母は言った。
愛知は「はい」と返事をしてリビングの真ん中に設置されたテーブルにつく。
誰がどこに座るかは大体決まっていて、愛知が座る場所は中学2年生の従姉妹である十日町冬華のすぐ前だ。
愛知は席に座ると同時に、「おはよう、冬華ちゃん」と目の前の少女に声をかけた。
だが冬華はそれに何の反応も示さない。ただ朝食として出されたトーストを頬張っているだけである。
いつものことだ。
愛知は中学1年の時に両親を交通事故で亡くしている。
それからは父の兄である十日町重矢の家でお世話になっているのだが、重矢の妻、つまりは愛知の伯母の樹里が愛知を受け入れるのに最後まで反対していたらしく、愛知が十日町家でお世話になることが決定してからも、愛知に陰険な態度をとり続けているのだ。
樹里の娘である冬華もそれをなんとなく察しているのか、愛知の事をあからさまに無視したり、悪態を吐いてきたりする。
最初は自分がこれから暮らしていく環境を不安に思ったりしたものだが、もう慣れてしまった。
愛知は、何事もなかったかのように、トーストに口をつけた。
*
葉桜高校、それが愛知が通っている高校の名前である。
偏差値は標準、部活動は活発、至って普通の公立高校だ。
愛知がこの高校を志願した理由はそれこそ単純で、歩いて十分程度のところにあったからだ。
それ以上に公立高校というものが大きい理由ではあったが。
だが、今となってはその判断をとったことを後悔せざるを得ない。
そんな状況に愛知は今陥っている。
たくさんの生徒が希望にあふれた表情でくぐる校門を重たい足取りでくぐり、生徒玄関へと向かった。
生徒玄関にはそれこそ明るい表情の生徒がきゃあきゃあと騒いでいて、「おはよー」「宿題やってきたー?」「えー?やってなーい」などと楽しそうに会話をしている。
その中で一人、愛知は暗い表情で下駄箱の前で深呼吸をした。
この中で何が待ち受けているかを考えると、明るい顔で登校などできるはずがない。
愛知は覚悟を決めた表情で、下駄箱を一思いに開けた。
中に入っていたのは、彼女の上履きと、カマキリの死骸だった。
「ひっ!」
愛知は短く悲鳴を上げて、その場に尻餅をついた。
「クス、クスクス」
含み笑いがどこからともなく聞こえてくる。
クスクスと、まるで耳鳴りのようにあちらこちらから聞こえてくる。
どこから聞こえてくるのかもわからない。
誰が笑っているのかもよくわからない。
愛知は耐え切れなくなって、走って生徒玄関を後にした。
愛知は重い足取りで廊下を歩いていた。
ご丁寧に愛知の上履きの中に入っていたカマキリの死骸が頭からこびりついて離れない。
別に下駄箱に何かが入っているのは今日だけではない。いつものことだ。
前に数十匹の生きたミミズが自分の上履きを這っているのを下駄箱で目撃した事を考えると、これはまだましな方なのかもしれない。
因みに、愛知は家からスリッパを持ってきている。
そのおかげで、靴下で愛知が校内をうろつくことはないのだ。
だが、愛知は『あの日』以来、上履きを履いたことがない。
私の下駄箱が解放される日はくるのだろうか……そこまで思考したところで、愛知は足を止めた。
自分の教室である「2-2」の教室の前に落書きまみれの汚い机と椅子が放置されているのを目撃したからである。
机と椅子には「バカ」「死ね」「学校来るな」など、ありきたりだが辛辣ななことがびっしりと書かれている。
愛知はわかっていた。その机と椅子が自分のものであることを。
愛知は濁った様な表情で机と椅子を持ち上げ、教室のドアを開け、中へ足を踏み入れた。
その場がシン、と静まり返り、教室にいる全員の視線が愛知へと突き刺さる。
愛知は一瞬たじろいだが、自分の定位置である、廊下側の列の一番後ろにぽっかりと空いたスペースに、自分の汚れた机を置いた。
同時に、がたんっ、と大きな音がした。
愛知が机を置く際に立てた音ではない。一人の女子生徒が席を立ったのだ。
髪を金に染め、大きなピアスをした、いかにもちゃらちゃらとした風貌の女子である。
それを皮切りに2人の女子が席を立つ。
そして、3人は愛知の周りを取り囲むように立ちはだかった。
「おはよう、安曇野さん。今日もあんたのマヌケ面を拝むことができて気分が最悪だわ。どう責任をとってくれるの?」
3人のうち、一番最初に席を立った女子が口頭一番にそう言った。他2人もクスクスと笑い始める。
愛知が黙っていると、「ちょっとぉ、何か言いなさいよぉ」と右側にいた茶髪の女子が口を尖らせる。
ふふふ、と金髪の女子が笑ったかと思うと、頭に鋭い痛みが走った。
金髪の女子が愛知の髪を掴んで、乱暴に引っ張ったのである。
「痛い!」と愛知が訴えると、さも愉快そうに3人の女子生徒は笑い声をあげた。
「ねえ、安曇野さん」
ぐい、と髪を引っ張り、愛知の顔を自身の顔に近づける。
「あんた、どうして毎日苛められにここに来るわけ?さっさと屋上から飛び降りて死ねよクズ」
全身から力が抜けた。
髪の毛を掴んでいた手を離し、耳が痛くなるような甲高い笑い声をあげながら、女子3人は去って行った。
愛知はその場に崩れ落ちた。
どうして私はこんな目に合っているんだろう。
別に何をしたわけでもない。
2年に進級して1か月たった頃、愛知はあの金髪の女子から、「今日からお前、私たちのターゲットだから。学校に来なくなるまで苛め抜くから、覚悟しなさいよ?」と言われたのは記憶に新しい。
恐らく彼女たちは学校生活に刺激を求て誰かクラスの一人を苛めるという「遊び」をしているのだろう。
冗談じゃない。
遊びで「死ね」などと言われてたまるものか。
だが彼女はどこぞの大富豪のご令嬢らしく、逆らえる者が誰もいないのが現状だ。
だからこそ、クラスメイトは愚か、教師でさえ彼女には逆らえない。
私を助けてくれる人は誰一人としていないのだ。
家では邪険にされ、学校では苛められる。
意味が分からないくらい救いのない人生。
「さっさと屋上から飛び降りて死ねよクズ」
死ね?貴女、私に死ねっていったね?
だったら、殺してよ…。




