夜間臨時便
終バスを逃したのは、私のせいではない。そう思いたい。
残業を終えて駅前に着いたとき、バスはちょうどロータリーを出ていくところだった。赤いテールランプが角を曲がって消えるのを、私はただ見送った。時刻は零時十五分。次のバスは、朝の六時十分までない。
歩けば一時間。タクシー乗り場は空っぽ。仕方なく、バス停のベンチに腰を下ろした。すぐに立ち上がって歩き出せばいいものを、体が動かなかった。七月の夜気はぬるく、汗のひいた背中に、それでもかすかな風が触れていく。
街灯に照らされた時刻表をぼんやり眺めていると、書かれていない時間に、バスが来た。
古い型のバスだった。今どき見ない、丸みを帯びた車体。行き先表示には「まわりみち」とだけある。そんな路線は知らない。プシュー、と音を立てて扉が開き、車内の橙色の灯りがこぼれた。
「お帰りですか」
白髪の運転手が、帽子のつばを少し上げて言った。
「終バス、行っちゃったでしょう。方向が同じなら、乗っていきませんか」
怪しい、と思うべきだった。でも車内の灯りはこたつの中みたいに暖かい色で、疲れた体はもう、疑うことを面倒がっていた。私は乗った。
「運賃は」
「着いてから、眠りで払ってください」
意味はわからなかったが、運転手は笑っていた。
乗客は三人いた。一番前の席で、看護師らしい制服の女の人が舟を漕いでいる。真ん中あたりに、風呂敷包みを抱えたおばあさん。一番後ろには、パジャマ姿の男の子が、虫かごを膝にのせて座っていた。かごの中で、小さな光が点いたり消えたりしている。蛍だ。
バスは走り出した。エンジンの音は低く、揺れはゆりかごのようだった。
窓の外を、見慣れたはずの町が流れていく。でも、少し違って見えた。シャッターの下りた商店街には昼間は気づかない古い看板が浮かび上がり、金物屋の軒先で風鈴がひとつ、誰のためでもなく鳴っていた。
バスは大通りを外れ、海のほうへ曲がった。私の帰り道とは違う。けれど不思議と、焦る気持ちは湧かなかった。
港が見えた。岸壁に並んだ漁船が、ゆっくりと上下している。沖には漁火がいくつか、星の続きみたいに浮かんでいた。潮の匂いが開いた窓から入ってくる。どこかの家の風呂の匂いも、少しだけ混ざっていた。
「このバスはね」と、運転手が前を向いたまま言った。「終バスに乗り遅れた人が、本当にくたびれてる晩だけ走るんです。急がば回れって言うでしょう。疲れた晩ほど、まわり道がちょうどいい」
病院の裏門の前でバスが停まると、看護師さんがぱちりと目を覚ました。「ありがとう、生き返った」と運転手に言って、白い建物の灯りのほうへ歩いていく。これから夜勤らしい。眠りをいちど預けて、利子をつけて返してもらったような顔をしていた。
おばあさんが降りたのは、坂の途中の小さなバス停だった。停留所の名前は、なぜか読めなかった。目の前の平屋の窓に、灯りがついている。おばあさんは風呂敷を抱え直し、「ただいまって言うのは、何年ぶりかしらねえ」と誰にともなく言って、深くお辞儀をして降りていった。玄関の戸が開く音が、遠くで聞こえた。
男の子は、田んぼの真ん中で降りた。バス停すらない場所だったが、運転手は当たり前のように扉を開けた。男の子は虫かごの蓋を開け、蛍を夜に放した。光はふわりと浮かんで、田んぼの上に散らばる無数の同じ光に混ざり、どれだかわからなくなった。男の子は満足そうにうなずいて、あぜ道を駆けていった。蛙の声が、いっせいに高くなった。
私はいつのまにか、うとうとしていた。
会社のこと、返しそびれたメールのこと、冷蔵庫に何もないこと。考えなきゃいけないことは、たしかにあったはずだ。でもエンジンの低い唸りと、緩いカーブのたびに体がかしぐ心地よさが、それらをひとつずつ、そっと窓の外に置いていった。
「お客さん、着きましたよ」
声に目を開けると、バスは停まっていた。窓の外に、見慣れた玄関灯。私のアパートの、部屋のすぐ前だった。バス停なんてない、ただの路地なのに。
「あの、運賃……」
「いただきました」運転手は帽子のつばに指を当てた。「いい眠りでしたよ。おつりに、朝までのぶんも付けておきます」
降りると扉が閉まり、バスはゆっくり走り出した。テールランプが角を曲がる。あとには蛙の声と、生ぬるい風だけが残った。
翌朝——というより同じ日の朝、私は目覚ましより早く目が覚めた。体が軽い。何年ぶりかというくらい、深く眠った感じがした。
駅前で時刻表を確かめたが、「まわりみち」なんて行き先はどこにもなかった。バス会社の路線図にもない。当然だ、と思う一方で、少しだけ確かめたくて、ズボンのポケットに手を入れた。
指先に、固い紙が触れた。
小さな整理券だった。印字はかすれていたが、こう読めた。
「夜間臨時便 まわりみち経由 ——おやすみのお客さま専用」
私はそれを、定期入れの奥にしまった。
いつかまた、終バスを逃す晩のために。




