第5話 魔王 カレーを制す
「……カレーの匂いだ。」
黒田は、オフィスの廊下に漂うスパイスの香りに、思わず足を止めた。
その目は鋭く細まり、まるで敵の奇襲を察知した戦士のようだ。
(まさか……この世界にも、炎帝ガラムの残滓が……)
「黒田さん?」
肩を軽く叩かれ、我に返る。
振り向くと、ミナミがスープ皿を手に、不安げに立っていた。
「えっ、どうしました? 今、すっごい“勇者に睨まれた魔王”みたいな顔してましたよ」
「……すまん。少し、過去の戦を思い出していた」
「戦……って、プレゼンのことですか?」
「いや、もっと血と炎にまみれた戦だ」
「炎!? いや、プレゼンそんな激しかったですっけ?」
黒田は遠い目をした。
「炎帝ガラムの火球が飛んでくる直前、こんな匂いがしたのだ……」
「え、ガラムって……あ、スパイスの“ガラムマサラ”のことですか?」
「……あながち間違っていない。奴は……スパイスの王だ」
「スパイスの王!? 黒田さん、なんか今日すごいファンタジーですね!?」
周囲の社員がチラチラと振り返る。
ミナミは慌てて笑ってごまかした。
「と、とりあえず社食行きましょう! 混んじゃいます!」
⸻
昼休み、二人はいつもの窓際の席に座った。
黒田のトレーには、当然のようにカレーライスが乗っている。
「黒田さん、やっぱり今日もカレーなんですね」
「戦とは腹が減ってはできぬ。業務もまた然りだ」
「“業務は戦”……名言っぽいけど、ちょっと怖いです」
「ふっ、この世界でも同じことを言うのか」
ミナミはくすくす笑いながらスプーンを動かした。
その柔らかい笑顔を見て、黒田はふと胸の奥が温かくなる。
(……笑っておる。あの頃の部下たちも、こうして笑っていたな)
「そういえば黒田さん、この前のプレゼン、部長がすごく褒めてましたよ」
「ほう?」
「“資料が炎のように熱かった”って!」
「炎……!」
黒田の目が光る。
「ミナミ、その言葉を聞いたか! ついに我が力が――」
「いやいや! 多分“気合が入ってた”って意味です!」
「……そうか。比喩か。」
黒田は静かにうなずく。
だがその横顔は、どこか納得していない。
⸻
「そういえば黒田さん、最近ちょっと変わりましたよね」
「ほう、変わった?」
「なんていうか、前より楽しそうに仕事してる感じ。目がちょっと“キラッ”としてます」
「“キラッ”とは何だ?」
「うーん、たとえるなら“魔王が勇者に興味を持ち始めた時の目”みたいな?」
「……それは危険な兆候だな」
「でも悪い意味じゃないですよ。なんか、生き生きしてるって感じです」
黒田はスプーンを止めた。
(……この世界に来て、そんなふうに見られるとはな)
「そうか……それは、悪くない変化だな」
「ですよね。あ、ルー足します?」
「うむ。戦において補給は重要だ」
「またそれ! でも、なんか好きです、そういう言い方」
ミナミが笑いながらルーをよそう。
その拍子に、カレーがシャツにはねた。
「あっ、すみません! つい……」
「気にするな。戦に汚れはつきものだ」
「カレーで“戦”とか言う人、初めて見ましたよ!」
社食に二人の笑い声が響く。
周りが見ても気にならない。
黒田は静かに思う。
(……かつての魔界にはなかった。こんな、穏やかな昼の時間)
そしてふっと、口の端を上げた。
「黒田さん? 急にニヤッとしてどうしたんです?」
「いや……カレーがうまいだけだ」
その日、黒田は初めて――社食のスタンプカードを満タンにした。




