第2話 魔王、エクセルに敗れる。
午前九時三〇分。
オフィスの蛍光灯が冷たく光る。
魔王――いや、黒田魔雄は机に座り、己の“魔導書”と向き合っていた。
画面に広がるのは、緑の格子模様。
その名は――Excel。
「……これは……禁断の“数式魔法陣”か?」
恐る恐るセルをクリックすると、画面の一角に現れる呪文。
=SUM(A1:A10)
見た瞬間、背筋に電流が走った。
これほどまでに神聖で、理解不能な文字列を、魔界でも見たことがない。
「黒田さーん、何やってるんですか?」
明るい声が背後から降ってきた。
ミナミだ。カップに入ったカフェラテを片手に、軽やかに歩いてくる。
「む……ミナミ殿。この“エクセル”という魔導書、何と恐ろしい代物か……。
我が入力した数字が、勝手に加算されておるのだ!」
「それ、足し算の関数です」
「関数……。つまり“加算の儀式”か。いかなる魔力で作動しておるのだ?」
「……パソコンのCPUです」
「しーぴーゆー? 新手の魔族か?」
「違います! 魔王さん、ほんと基本からダメじゃないですか!」
ミナミは呆れながらも隣の席に腰を下ろし、ノートパソコンを覗き込む。
肩が近い。
魔雄は少し緊張した――かつて千の軍勢を従えた男が、女子社員ひとりに気圧されている。
「まず、このセルに数字を入れてください」
「む……ふむ、では“666”と」
「おい縁起悪い数字入れんな!」
「すまぬ、反射的に……」
「次に、ここをドラッグして……そう、それでSUMを使えば合計が出ます」
「……SUMとは“召喚”の略か?」
「違います。サムは英語で“合計”です!」
「なるほど……つまり英霊の名ではないのだな」
「もうダメだこの人……」
ミナミは額を押さえた。
だが魔雄は真剣だった。画面に映るグラフや関数の数式が、まるで魔法陣のように輝いて見える。
「……これほどの知識体系を、人間どもが操っているとは……侮れぬ」
「そうですよ。社会人の魔力はExcelスキルで決まりますからね」
「む、ならば我も極めねばなるまい」
魔雄の目が赤く光る。
指先がキーボードを叩くたび、妙に勇ましい音が鳴った。
「=SUM……IF……VLOOK……UP……! むむむ、貴様、なぜ我の意に反して“エラー”と叫ぶのだ!」
「セル参照ミスってます!」
「セル参照……? そのセルとは何者だ!? 裏切り者か!」
「違う、そういう概念なんです!!」
ミナミは笑いを堪えきれず、つい吹き出した。
「黒田さん、マジでおもしろい……ほんと天然で異世界人みたい」
「む、異世界人とは不敬な。……いや、あながち間違いではないが」
彼の真剣な顔に、ミナミは一瞬だけ見惚れた。
笑ってるけど、なんか――本気でこの世界を学ぼうとしてる。
――魔王なのに。
――この人、けっこういい人かも。
そう思った矢先。
「ミナミ殿、よい考えが浮かんだ」
「え、なんです?」
「このエクセルなる魔導書、全社員に修練を課す。魔界式“表計算訓練”じゃ!」
「やめてください、ブラック企業化します!!」
昼休み。
食堂でカレーを食べながら、ミナミは笑っていた。
「黒田さん、次はPowerPointですよ」
「パワーポイント……。その名、力強いな。まるで“魔力の書”のようだ」
「まあ、プレゼン資料ですけどね」
「よかろう。我が次なる敵は“パワポ”とやらだ!」
黒田魔雄――元魔王。
いま最も恐れるのは、勇者でも天使でもなく。
――「#VALUE!」の呪い であった。




