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3/3

◆ cafe au lait ◇

ついこの間、京都の街に初雪が降った。


すっかりコートやマフラーが必要な季節。



不思議と、去年とはまた違った自分になれるような予感のする新しい年。



とはいっても、変わらず勉強をがんばるだけで劇的な変化があるわけではない。


そう思っていたけど――。



年明けから5日後。


さっそく新しい出来事が始まろうとしている。




「…あの、こんな感じでいいのでしょうか?」



わたしはもじもじしながら部屋の奥から現れる。


わたしはコーヒーの香りが漂う店内で、焦げ茶色のエプロンを着て立っている。



「ちょっと大きいかなと思ったけど、いい感じだね」


「ええやん、それで」



そのわたしにまじまじと視線を向けるのは、アイボリーのエプロンを着た遥さんと黒色のエプロンを着た彼方さん。



そう、ここは隠れ家カフェ『Gemini』。



なぜわたしがここで、『Gemini』と刺繍されたエプロンを着ているかというと――。



「それじゃあ今日からよろしくね、みひろちゃん」



にこりと甘く微笑むと遥さん。



それでわかるとおり――。


なんとわたしは、『Gemini』でバイトすることになってしまった…!



こうなったのも、すべては彼方さんのあの言葉。



『まあ、みひろちゃんが俺の出す条件を飲んでくれたら、やけどな』



その“条件”というのが、『Gemini』でウェイトレスとして働くことだった。



彼方さんいわく、最近お客さんが増えてきたのだとか。


おそらく、イケメン双子店主がいると噂になったのだろう。



そこで、バイトを1人雇ってみるのありかもしれないと2人で話していたんだそう。



そうして、その枠に入ることになったのがわたしというわけだ。



条件とはいえ、初め彼方さんにその話を持ちかけられたとき…正直困った。


わたしはすでに、ファストフード店でバイトをしていたから。



しかし、去年末から光一くんの“あの”彼女が新しくバイトで入ってきて、わたしは浮気相手でもなんでもないというのにずっと敵視されていた。


そのせいで空気も悪くなってきたということもあって、わたしはファストフード店をやめて『Gemini』に行くことにした。



そして、年明けからバイトさせてもらうことに。



明日の新年初営業に備えていろいろと教えてもらうため、今日が初出勤となる。



「じゃあ、みひろちゃん。ぼくは買い出しに行ってくるから、あとのことは彼方に教えてもらってね」


「…え!待ってください、遥さ――」


「いってきま〜す」



そう言って、遥さんは行ってしまった。



店内には、わたしと彼方さんの2人だけ。



『こ…こんなところ、もしだれかに見られたらどうするんですかっ…』


『それなら大丈夫。『CLOSE』のプレートに替えたし、それにちゃんと鍵も閉めてるから』



彼方さんとは初対面で2人きりになったときあんなことになってしまったから、わたしは警戒している。



「そんな身構えんくても、なんもしいひんって」



なにかを察したのか、彼方さんがわたしをなだめるように笑いかける。



でも、その笑顔にも…騙されない!



「それやったら、俺が買い出しに行けばよかったな」


「べつに、そんなことは言ってません」


「だって、めっちゃ警戒してるやんっ」



そりゃ…あんなことがあって、何事もなく接するほうが難しい。


彼方さんは平然としているけど。



「ほな、とりあえずこれでテーブル拭いてって」



彼方さんから渡されたのは、絞られたタオル。


さっそくそれでカウンター席を拭きながら、キッチンで作業をしている彼方さんに視線を送る。



「もしかして、彼方さんって…遊び人ですか?」



わたしを惑わそうとする甘い言葉や迫ってくる感じ…。


普段から女の人に対して慣れていないと、あんなことはできないはず。



「自分から“遊び人”って言ったことはないけど、まあどっちかって言ったらそうなんやろな」



…やっぱり!



「これまで付き合ってきた人とかも多そうですもんね」


「ゆーて俺、今まで付き合ったやつはおらんで?」


「え?そうなんですか?」



意外――。



「みんな、遊びやったし」



訂正。


全然、意外でもなんでもなかった。



「俺、本気で好きになったコとは付き合えへんみたいやし」


「またまた〜。彼方さんかっこいいんですから、そんなわけ――」


「ほんまやで。そういうコに限って、遥に取られるから」



ほんの一瞬だけ、彼方さんの表情が切なげに見えた。



「やから、どうせ遥に取られるなら本気やなくて遊びでいいやって」



…なるほど。


この話が本当なら、彼方さんが遊び人になったのにも納得がいく。



「やけど、久々に“いいな”って思った」


「…え?」



顔を上げると、カウンター越しに彼方さんと目が合った。



「みひろちゃんのこと。一目見てそう思った。久しぶりに“本気”になってみよっかなって」


「なっ…。急になにを言い出すんですか…」


「ほんまやで」



…ほんまやでって。


そんな真剣な顔して言われても。



「…それなら、普通はいきなりあんなことしませんよ」


「ん〜…、せやなぁ。そこは謝るわ。ちょっと攻めすぎたかなって」



やっぱり…。


それは自覚あるんだ。



「でも、さすがの俺でもいきなりあんなんするんは好きなコにだけ」



そう言って、キッチンから手を伸ばした彼方さんがわたしの頬に手を添える。



…か、彼方さん。


今…、わたしのこと…“好きなコ”って言った?



「もう…彼方さん、さっきから冗談ばっかり」


「冗談ちゃうし。イタリアにいる間、遥に電話するたびずっとみひろちゃんの話してきて。そんな話されたら、会ってみたいなって思うやろ」



それで彼方さんは、遥さんから聞かされた話をもとにわたしのことを想像しながら帰国して――。



「先に遥に取られるくらいなら、先に奪ったらええやんって思った」



初対面で、あんなことに。



そういえば彼方さん、あのとき――。



『みひろちゃん見て、遥が惹かれるのもわかった。やから、奪ってみたくなった』



遥さんから奪いたくなるほど、わたしに対して…本気?


遊び人の彼方さんが…?



「あのことを遥には秘密にしてって言われたとき、しょーみ妬いた。だから、そんなみひろちゃんいじめたくて、あんな条件つけた」



あんな条件とは、遥さんには黙っておく代わりにここで働くというもの。



「あのときは“条件”なんて言ったけど、みひろちゃんをここのバイトに誘ったのは、初めから下心があったからに決まってるやん」



わたしの頬をなでる彼方さんの手がゆっくりと唇に移動してきて、愛おしそうになぞってくる。



「なあ、遥やなくて俺にしてや」


「…ですから、わたしと遥さんは付き合ってるとかそういうのじゃないので。それに、彼方さんは遊び人ですし…」


「やから、本気で好きになったコには一途やで?こう見えて」



…と言われても、まったく説得力がない。



彼方さんが、好きになったコには本当に一途かどうかなんてわたしにはわからないし、本気にしちゃダメダメ!



「彼方さん、テーブル拭けましたよ」


「ちょ…、みひろちゃん。今、わりと大事な話を――」


「今は勤務時間内です。お給料が発生しているので、無駄話をするのはやめましょう」



わたしは仕事モードに切り替えて、なんとかこの2人だけの空気感を打破した。



その日から、わたしは隠れ家カフェ『Gemini』の一員として働くことに。



まかないが出て、休憩のときは好きなドリンクを遥さんか彼方さんが作ってくれる。


だから、わたしはいつも遥さんに甘々カフェオレをお願いする。



だけど、遥さんがいないときは彼方さんにお任せする。



そういうときは、決まって苦めのカフェオレを出してくる。



「彼方さん。作っていただけるのはありがたいのですが、わたし…もっと甘いカフェオレのほうが――」


「遥が作るのはカフェオレとちゃう」


「でも…」



とつぶやきながら、ひと口。



…苦い。


だけど――。



「あれ…?いつもと味が違うような…」


「わかる?みひろちゃんが飲みやすそうな豆で挽いてみた」


「えっ、わたしの?」


「せや。豆にもたくさん種類あるしな」



それで彼方さんはわたしに合ったコーヒー豆を選んでくれて、わざわざ――。



「砂糖とミルクたっぷりのカフェオレが好きか知らんけど、ほんのり苦さが残るカフェオレも好きになってや」



彼方さんはわたしの頭をわしゃわしゃとなでると、休憩室からお店のほうへと戻っていった。



さっきの言葉…、どういう意味だったんだろう。



ただのカフェオレの好みの話?


それとも――。




* * *




『Gemini』でのバイトもすっかり慣れてきた。



「みひろちゃん、お疲れさま」


「お疲れさまでした」



店内の片付けもして、お店を出たのが20時半ごろ。


北風が吹き抜け、身を縮めながら家へと急ぐ。



――そのとき。



コツ…コツ…コツ…



後ろから足音が聞こえた。



初めはとくに気にすることはなかった。


でも――。



コツ…コツ…コツ…



なんだか、わたしのあとを追いかけてきているような気がする。



『Gemini』から家まではすぐの距離。


わたしは慌てて家へと戻った。



さっきの…、いったいなんだったんだろう。



昨日、テレビでホラー映画を見てしまったから、その影響なのかもしれない。



それからは、この前のようなことはなかった。



――だけど。



コツ…コツ…コツ…



『Gemini』にラストまで残っているバイトのときは、たびたびあの不審な足音を耳にするようになった。


しかも、マンションの掲示板に、不審な男が目撃されたという貼り紙もされていた。



それを見て、背筋に冷たいものが走った。




「みひろちゃん、…どうかした?」



キッチンでぼうっとしていたわたしに、遥さんが声をかける。



「…あっ、すみません。なんでもないです…!」



バイト中なのに、不審な男のことを考えてしまっていた。



なぜなら、今日の上がりもラストだから。



「…なにか悩み事?」



遥さんがわたしの顔をのぞき込んでくる。



「悩み事…といいますか。そうですね…、悩み事になるのかな…」


「なんやねん、それ。悩みとかなさそうなみひろちゃんでもあるんや、そうゆうの」



遥さんの向こう側から、デミグラスソースを煮込んでいる彼方さんが顔を出す。



「…アハハ、そうですよね。こう見えて、悩みの1つや2つくらいあるんです」



心配かけさせまいと、とっさに笑ってみせた。



「おっ、もうこんな時間。今日はもうお客さんはこなさそうだから閉めよっか」


「せやなー」



――『Gemini』、本日の営業終了。



このあと、1人で帰るの…いやだな。



でも、わたしの家はすぐそこ。


わざわざ送ってもらうほどの距離ではない。



それに、わたしは片付けをしたら上がりだけど、遥さんと彼方さんはこのあと明日の仕込みなどがある。


わたしよりも忙しい2人に、まるで子どもみたいに「こわいので家まで送ってください」なんて言えない。



「お疲れさまでした。お先に失礼します」


「「お疲れさま〜」」



そうして、わたしは『Gemini』を出た。



その日は、月が雲に覆われた薄暗い夜だった。


足早にマンションまで歩いていたけど、わたし以外の足音は聞こえない。



…よかった。


やっぱり、この前からのはなにかの勘違いで――。



コツ…コツ…コツ…



そのとき、あの足音が聞こえてきた。



恐怖で一気に体がこわばる。



だけど、もしかしたらわたしと同じただの通行人かもしれない。



気にしないフリをして歩く。



しかし、わたしが止まったら向こうも止まって、わたしが走ったらあとを追うようにして走ってくる。



…こわいっ!!



マンションはすぐ目の前。


逃げるようにマンションのエントランへ駆け込もうとしたとき、だれかに後ろから手首をつかまれた。



振り返ると…、そこにいたのは全身黒ずくめの人。



「…きゃっ……」



叫ぼうとしたけど、恐怖で声が出ない。



「や…やめてくださいっ…!」



なんとかして抵抗してみるも、振りほどくことができない。


ずるずると物陰のほうへ引きずられていく。



…いやっ、こわい…。


離して…!



泣きじゃくりながら、心の中で叫んだ。


――そのとき!



「なにしてんねん!その手、離せや!」



そんな声が聞こえて振り返ると、黒ずくめの人の背中目掛けて飛び蹴りする人影が――。


それは、彼方さんだった!



「…彼方さん!」


「大丈夫かっ!?ケガない…!?」



わたしに顔を向けた彼方さん。


しかし、その彼方さんの死角から黒ずくめの人が襲いかかるのが見えた。



「彼方さん!…危ない!」



わたしの声に反応して、すぐに彼方さんが構える。



わたしを庇うようにして戦う彼方さん。


わたしは緊迫した空気の中、ただその背中を見守り続けることしかできなかった。



「彼方!大丈夫か!?」



そこへ、遥さんも駆けつける。



「警察には連絡しておいた!」



遥さんのその言葉を聞くと、黒ずくめの人は一目散に逃げていった。




そのあと、遥さんが呼んでくれた警察が駆けつけ、わたしたちは事情を聞かれることに。



警察署から帰ってきたころには、日付をまたごうとしていた。



「…彼方さん、遥さん。ご迷惑をおかけして…すみませんでした」



わたしは、マンションまで送ってくれた彼方さんと遥さんに頭を下げる。



「なんでみひろちゃんが謝るん」


「そうだよ。悪いのはあいつなんだから」


「…でも、2人は明日の仕込みとかもあって、それに朝も早いっていうのに――」



「もしかして、そんなこと心配してたん?」



低い声が聞こえて顔を上げると、彼方さんが目を細めてわたしを見ていた。



「なんで自分の心配しいひんの?あんなことがあったってゆうのにっ…」



その表情は、…なんだか怒っているような。



「ほんまは、前からあとつけられてたりしたんとちゃうん?」


「…えっと、それは…」



わたしは、ごくりとつばを飲む。



「今日ぼうっとしてるのが気になったから、追いかけてみたら…。一足遅かったら、あんなんで済まへんかったかもしれへんねんで!?」



突然彼方さんが怒鳴ってきたものだから、わたしは驚いて目を丸くした。



「…まあまあ彼方、落ち着いて。もう夜遅いし、近所迷惑だから」



遥さんが彼方さんをなだめる。



「これが落ち着いてられるわけないやんっ」


「す…すみませんでした。家まで送っていただいたので、わたしはもう大丈――」


「大丈夫なわけないやろ」



そう言って、わたしを睨んだ彼方さんがぐいっと顔を近づける。




* * *




――どうしてこんなことになったのだろうか。



わたしは『Gemini』の2階にある、遥さんと彼方さんの家にきていた。



「ごめんね、みひろちゃん。とりあえず、彼方の部屋使ってくれる?」


「あ…、はい!…えっ、でも……」


「彼方はぼくの部屋で寝るから大丈夫。それじゃあ、おやすみ」



手を振ると、遥さんは部屋のドアを閉めた。



黒ずくめの人は未だ逃走中。


わたしのマンションも知られているから危ないということで、遥さんと彼方さんが家にくるようにと言ってくれた。



「本当にいいのかな…。使わせてもらっても」



遠慮がちに彼方さんのベッドの布団をめくる。



ど真ん中で寝るのはなんだか申し訳ないから、一応ベッドの端に寄って小さくて丸くなってみた。



それにしても、…本当にこわかった。


彼方さんたちが駆けつけてくれなかったと思ったら…ゾッとする。



『なにしてんねん!その手、離せや!』



自分の身を挺して戦ってくれた彼方さんの姿を思い出したら、なんだか胸がドキドキした。



ただの従業員をあんなに必死に守ってくれるものなのだろうか。



『本気で好きになったコには一途やで?こう見えて』



あの言葉って、…本当なの?




次の日から、友禅家での同居が始まった。



「おはようございます」



わたしが彼方さんの部屋から出ると、リビングのキッチンで遥さんが朝ごはんの準備をしていた。



「おはよう、みひろちゃん。よく眠れた?」


「…そうですね。まあ…」


「あ…、ごめん。昨日、あんなことがあったあとで、しかも他人の部屋でなんてゆっくり眠れないよね」



遥さんの言うとおり、正直あまり眠れなかった。



もちろん、こわい思いをしたからというのもある。


だけど、それよりも眠れなかった原因は――。



布団から彼方さんの匂いがして、それが気になって眠れなかった…!


どっちへ寝返りを打っても彼方さんがすぐそばにいるような感覚がして。



「…そういえば、彼方さんは?」


「ん?寝坊だよ。ほっといて先に食べよ」


「は、はい」



彼方さんって時間に厳しいイメージだけど、寝坊するんだ。


でも、彼方さんも昨日のことでお疲れだよね。



わたしは、彼方さんが寝ているであろう遥さんの部屋のドアを静かに見つめた。




結局その日、彼方さんは姿を現さなかった。



今日の『Gemini』の営業だって、彼方さんは休みじゃないはずなのに。



「…遥さん。もしかして、彼方さん…怒ってますか?」


「怒ってる?どうして?」


「だって、わたしが彼方さんの部屋を使わせてもらってますし、きっとよくは思われてないような――」


「そんなことで怒るようなやつじゃないよ!彼方、今日は急に用事ができて店にもこれなかっただけだし、みひろちゃんが気にすることなんてなにもないから」



そうかなぁ…。


それならいいんだけど。




しかし、その次の日も彼方さんはお店に出なかった。



朝ごはんのときに一瞬見かけたくらい。


冷蔵庫からエネルギーチャージの飲むゼリーを取り出して、足早に部屋へと戻ってしまった。



遥さんの言うように、怒っている感じではなさそうだけど…。


いつもとなにかが変だ。



お店も、前みたいに遥さんと2人でうれしいはずなのに――。


なぜか、ふとしたときに考えているのは彼方さんのこと。



それに、大好きだった遥さんが淹れてくれるカフェオレ。


変わらずわたしの好みでおいしい。



でも、もう少し苦くてもいいかな。


そんなふうに思うようになっていた。




その日の深夜。



ふと目が覚めた。


喉も渇いたことだし、部屋を抜け出してなにかを飲みにキッチンへ。



すると、リビングの明かりがついているのが見えた。



今は、夜中の1時過ぎ。


きっと、遥さんも彼方さんも眠っている時間。



電気の消し忘れかもしれないと思って、何気なくリビングをのぞいてみると――。



目に飛び込んできたのは、雫が滴る筋肉質の広い背中。



「…あっ……」



予想もしていなかった光景に驚いて、わたしは小さな声をもらしてしまった。



その声に気づかれ、上半身裸のだれかが振り返る。


それは、彼方さんだった。



お風呂上がりだろか。


下は半パンをはいているけど、上は首にタオルをかけているだけ。



「…かっ、かかかか…彼方さん…!」



わたしは頬を真っ赤にして、両手で顔を覆う。



「こ…こんなところでなにしてるんですか…!」


「なにって、風呂上がりに水飲みにきただけやけど」


「それなら、せめて服…!…着てくださいっ」



顔を隠したまま、わたしは彼方さんに背を向ける。



とは言っても、…ここは遥さんと彼方さんの家。


居候はわたしのほう。



だから、2人がこの家のどこでなにをしようと、それはわたしがとやかく言うことではないのかもしれない。


冷静になって考えたら、そう思った。



「…せやな。軽々と服着れたらいいんやけどな」



一瞬、そんな小さな彼方さんの声が聞こえたような気がした。



「なんか悪かったな。ほな、遥の部屋戻るわ」



左手にミネラルウォーターのペットボトル、右手はズボンのポケットに突っ込んだ彼方さんがわたしのそばを通り過ぎる。



「…ちょっと待ってください、彼方さん!」



遥さんの部屋へ入る手前で、わたしは彼方さんを呼び止めた。



「なに?どないしたん?」



振り返る彼方さん。


わたしは、そんな彼方さんのもとへ。



「これ…、どうしたんですか?」



わたしは、ズボンのポケットに突っ込む彼方さんの右腕をそっと手に取った。


その手首には、包帯が巻かれていた。



こんなに目立つようなケガ、ついこの間まではなかった。



…そう。


わたしが黒ずくめの人に襲われるまでは。



「もしかして…、わたしを守ってくれたときに…」



彼方さんは一瞬視線をそらした。


すぐにそれが答えだとわかった。



「…ごめんなさい!わたしのせいで…!」


「べつにみひろちゃんのせいとちゃうって」


「でも…!」



どうして彼方さんがリビングでいっしょにごはんを食べないのか、ようやくわかった。


きっと右手でお箸を持つことができないようなケガだったからだ。



昨日遥さんが言っていた『彼方さんが急に用事ができた』というのも、病院へ行っていたからではないだろうか。



今日もお店に出てこなかったのは、利き手の右手が使えなければ、包丁で野菜を切ることもフライパンを振るうこともできないから。



そう考えると、すべてのことに納得がいく。



「わたしが…あんなことに巻き込まなければ――」


「やから、責任感じてそんな顔すると思ったから隠しててん」



彼方さんはため息をついて、困ったように頭をかく。


そして、チラリとわたしに視線を向ける。



「悪いと思ってるんやったら、責任取ってや」


「…え?」



キョトンとしたわたしは、彼方さんに連れられて再びリビングへ。


そこのソファにドカッと腰を下ろす彼方さん。



「あの…彼方さん、わたしはなにをしたら…」


「これ着せて」



そう言われて渡されたのは、彼方さんの上の服。



「打撲してて、医者には2週間ほどは無理に右手は動かさんようにって言われてる。やから、服を着るのも一苦労やねん」



だから、彼方さんはお風呂上がりに上の服も着ないでリビングに――。


それをわたしに着させろと。



「わかりました」



わたしはさっそく彼方さんの頭を服に通した。


その次に、ケガをしていないほうの左腕。



――だけど。



「…待って、待って。それ、痛いわ」



打撲している右の腕を袖に通そうとするけど、なかなかうまくいかない。


たしかに、これなら彼方さんも手こずるわけだ。



「彼方さん、この角度…いけますか?」


「いや、無理」


「じゃあ、こっちは?」


「無理無理、痛い」



そんな感じで、右腕だけがどうしても通らない。



でも、…実は原因はわかっている。



極力彼方さんの体を見ないようにと、わたしが距離を取っているから。


だから、余計にやりづらいのだ。



すると、彼方さんも同じことを思っていたようで――。



「そんなに距離開けるから、やりづらいんやろ?それやったら…」



そうつぶやいた彼方さん。


その瞬間、わたしの背中に手を回したかと思ったら、打撲していないほうの左手でわたしの体を抱き寄せた。



わたしはバランスを崩し、気づいたらソファに腰掛ける彼方さんの膝の上に。



突然至近距離になった彼方さんに、わたしは顔を真っ赤にして戸惑う。



「ほら、近くなった」



わたしの耳元でささやく彼方さん。


その声はどこか色っぽい。



やはり距離を取っていたのがダメだったようで、彼方さんの膝の上でやると、すぐに左腕が袖に通った。



「で…、できました…」


「ありがとう。めっちゃ助かったわ」



子どもをあやすように、わたしの頭をなでる彼方さん。


膝の上に座っていたら、彼方さんと目線が合う。



「そうや、みひろちゃん。代わりにご褒美あげるわ」


「…ご褒美?」



次の瞬間、彼方さんがわたしの首筋に顔を埋めてきた。



「きゃっ…」



小さな悲鳴を上げたときには、すでにわたしは彼方さんがさっきまで座っていたはずのソファの上に押し倒されていた。



「か…彼方さんっ、やめ…。くす…ぐったいです…」



そのとき、首筋にチクッとした甘い疼きが走る。



それに驚いて目を丸くするわたしを彼方さんが上から見下ろす。



「つけてやったで、キスマーク」



悪びれもなく、意地悪く微笑む彼方さん。



「ちょっ…と、待ってください。今すぐ消してください…!」


「時間がたてば消えるから、今すぐに消すのは無理やな。物理的に」


「…じゃあ、どうして…こんなこと」



放心状態のわたしに、彼方さんは満足げに微笑む。



「そんなん決まってるやん。みひろちゃんがだれのものかってわからせるために」



“わからせるため”――というのは、きっと遥さんに対してのことだ。



「みひろ、好きやで」



不意を突かれた“みひろ呼び”に、わたしは一瞬にして心臓を射抜かれた。



「まだ俺が遊びでゆうてるとでも思ってる?」



彼方さんは再びわたしの首元に顔を埋めると、耳元でささやく。



「こんなにも、みひろのことが好きやのに?」



何度も何度もわたしの首筋にキスを落としていく彼方さん。



「彼方さんっ…。部屋には遥さんもいるっていうのに、こんなところで――」


「もし遥が起きてきたら、見せつけてやろーや。これが俺のみひろやって」


「やめっ…」



彼方さんに上から覆いかぶされて、頬や首筋にキスをされて――。


…わたし、どうなっちゃうの。



「みひろは、どっちのことが好きなん?俺か…遥か」


「そ…そんなこと、言えませんっ…」


「言わなやめへんで?これ以上激しくなるかも」



彼方さんは、決して唇にはしてこない。


だからといって、キスが止むこともない。



「遥のことが好きなら、正直に言ったらいいやん。そうしたらやめるし」



やさしくて、面倒見がよくて、見ていてほっこりする遥さん。



――『わたしは遥さんが好き』。


そう言えば、この甘い拷問からも解放される。



だけど…、わたしはそれを口に出して言うことができなかった。



なぜなら――。


わたしが好きな人は、遥さんではないから。



「どしたん?言わへんの?」



彼方さんの追及にわたしは口をつぐむ。



「あれ?みひろの好きなやつって、遥やないの?」



首を縦に振らないわたしを見て、彼方さんは満足げに微笑む。



「それやったら、みひろが好きなんって…もしかして俺?」



キスをやめ、わたしの顔をのぞき込む彼方さん。



「違うんやったら、首振って」



わたしは、彼方さんと視線を合わせないようにして顔をそらした。



だって悔しかったから。


わたしの心を見透かされているようで。



「もう一度聞くけど、みひろは遊び人の俺のことなんて好きとちゃうやんな?」



…彼方さんはずるい。


そんな聞き方されて、…わたしが首を横に振れるわけがない。



だってわたしは、遊び人で、でも自称『本気で好きになったコには一途』で、そのとおり全力で守ってくれる…そんな彼方さんのことが――。


好きになってしまったのだから。



「…みひろ、いいん?ここで首振っとかな、俺…本気にするで?」


「彼方さん…、初めて会ったときに言ってましたよね?わたしに対して、“本気”だって。それなら、改めてそんなこと聞く必要…ありますか?」



わたしは頬を赤らめながら訴える。



自分でも回りくどい言い方だと思ってる。


でも、彼方さんにはそれで十分だった。



「素直に“好き”って言ったらいいのに」



わたしの心情を読み取って、彼方さんの口角が上がった。



「みひろ、好きやで」



その言葉に、わたしははにかみながらうなずいた。



想いが通じ合ったわたしたちは、どちらからともなくキスをした。


もう、このキスからは逃れることはできない。



彼方さんとのキスは、ほんのりコーヒーの苦い味がした。



「お前が俺の初めての彼女」



そう言って、彼方さんはわたしの髪を愛おしそうになでた。



そうして、わたしたちは甘い夜を過ごしたのだった。




翌朝。


部屋のドアを開けてすぐに、彼方さんとばったり会った。



「おはよー」


「お…おお、おおおお…おはようございます…!」



明らかに動揺しているわたしを見て、彼方さんがクスッと笑う。



どうして彼方さんはそんな平然としていられるのだろうか。



…昨日の夜、あんなことして。



それに、遥さんになんて伝えたらいいのだろう〜…。 



そんなふうに悩んでいる間に、あっという間に2週間が過ぎた。



彼方さんの右手首の打撲はすっかりよくなって、昨日からお店で調理を再開している。


久々に、『Gemini』のキッチンに遥さんと彼方さんの姿がそろう。



あれから彼方さんと相談して、『Gemini』に復帰したタイミングでわたしたちのことを遥さんに話そうと決めていた。


だから、今日の夜ごはんのときに。



そう思っていたら――。




「じゃっ!あとのことは任せるね」



なぜかその夜、大きなスーツケースといっしょに玄関に立つ遥さん。


驚いたことに今日から1ヶ月、バリスタの修行でまたオーストラリアに行くらしい。



「…えっ、遥さん。あの…話が――」


「ごめんね!飛行機の時間もあるから、もう行かないと!」



そう言って、本当に出ていってしまった。



玄関に取り残されたわたしと彼方さん。


ぽかんとしながらお互いの顔を見合わせる。



と、そのとき――。


閉まったばかりの玄関のドアが開いた。



「そうだ!言い忘れたことがあったけど…」



そう言いながら、徐々に遥さんの表情が緩んでいく。



「くれぐれも2人とも、“仲よく”するようにっ」



にっこりと笑う遥さん。


そして、今度こそ本当に行ってしまった。



「“仲よく”するように、だって」


「せやな。遥のやつ、空気読んだな」



さすが双子の兄弟。


話さなくても、遥さんにはすべてが伝わっているようだった。



そのとき、わたしのスマホが鳴る。


それは、黒ずくめの人のことでお世話になった警察署からの電話だった。



「…えっ!本当ですか!?」



内容は、わたしを襲った黒ずくめの人が捕まったと。


どうやら、この辺りに出没していた女性を狙うストーカーだったらしい。



「よかったな。これで一件落着して」



電話を切ったわたしに、彼方さんが声をかけてくる。



「本当によかった〜…。これでマンションにも帰れます」


「は?帰る?」



キョトンした表情でわたしを見下ろす彼方さん。


そして、ニヤリと口角を上げながらわたしに顔を近づける。



「帰すわけないやん。せっかく2人きりになれたっていうのに」


「えっ…、でも…」


「右手使えへんくて、ずっとキスで我慢してお預けくらってたからな。今日はたっぷりいじめたるで」



まるで大好物を前にしたかのように、彼方さんはわたしに目を向けながら舌なめずりをする。



…やっぱりこの人、手慣れてる!



でも、そんな彼方さんのことがわたしはどうしようもないくらいに好き。




そして今は、苦みのあるカフェオレが好き。






『milk or coffee? 〜甘く、苦く、溶かされて〜』【完】

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