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◇ milk ◇

「ここのアップルパイ、おいしかったな〜」



ほっこりとした気分で、そうつぶやきながら今出てきたばかりのお店を振り返る。




わたしの名前は、津田(つだ)みひろ。


大学進学のために半年前に地方から1人、京都に移り住んできた大学1年生。



趣味は、カフェ巡り。


京都はおしゃれなカフェやレトロな喫茶店が多くて、わたしの探求心を常にくすぐっている。



わたしの下宿先の学生マンションがある通りから1本裏に入れば、京都らしい古民家の町並みが広がっている。


ここにもカフェがいくつかあって、優雅なモーニングやランチを利用するのを楽しみにしている。



ただもちろん、自炊するよりはお金がかかるため、カフェ巡りのためにバイトをがんばっていると言っても過言ではない。



そして、10月のある日。


わたしの平凡な日々をガラリと変えるカフェと巡り合うこととなる。



ある日のバイト帰り。


バイトから上がって、家に着くころには20時前だった。



グゥ~…



帰りの電車の中から、わたしのお腹の虫が情けない声をもらし続けている。



「…お腹空いた」



早くなにか食べたい。


でも、家に帰ってなにかを作るのは…面倒。



それに、冷蔵庫の中にもあまり食材が入ってなかったような気がするし、なにかを作るなら買い物してから帰らなくちゃ。



こんなときは、カップラーメンで済ませたいところだけど――。


実は、昨日もバイトで帰るのが遅くなって、夜ごはんはカップラーメンで済ませた。



だから、さすがに2日連続というのは…。



――そのとき。



「あ〜、おいしかった」


「うん!それに、お店の雰囲気もよかったよね」



そんな声が聞こえて目を向けると、京町家の建物と建物の間の細い道から女の人が2人歩いて出てきた。



「たまたま入り込んじゃったけど、行って正解だったね」


「まさに、『隠れ家カフェ』って感じだよね〜」



隠れ家――…“カフェ”!?


こんなところに…!?



『カフェ』と聞くだけで、勝手に体が反応する。



でもここは、わたしのマンションのすぐ裏手の通り。


たしかに先になにがあるのか見えないくらいの細い通りがあるなとは思っていたけど、だれかの家に続いているかもしれないから入ろうとは考えたこともなかった。



――だけど。


この奥に…カフェが!?



女の人たちが出てきた狭い通りをのぞき込む。



先まで真っ暗。


でも、奥のほうにかすかな明かりが見える。



わたしはごくりとつばを飲むと、ゆっくりと足を踏み入れた。



京町家でよく見かける鰻の寝床のような造りの先へ先へと進んでみると――。



開けた場所にたどり着いた。



そこは中庭のようで、オレンジ色の外灯が1つぼんやりと灯っているだけ。


その向かいに、古民家があった。



近づいてみると、小さな看板に【 Gemini(ジェミニ)】と書かれてあった。



…本当にあった。


こんなところにカフェが。



窓の格子の隙間からは、温かいオレンジ色の明かりがもれている。


かすかにデミグラスソースのいい匂いもしている。



グゥ~…



わたしのお腹が一層大きく鳴き始める。



…よし!


今日の夜ごはんはここにしよう!



そう思って、お店の引き戸に手を伸ばすと――。


ちょうど引き戸が開いて、人の気配を察知したわたしはなぜかすぐそばの物陰に隠れた。



なぜ隠れてしまったのかは自分でもわからない。



中から出てきたのは、アイボリーのエプロンを着たマッシュヘアの男の人。



その男の人は、引き戸にかけていた【OPEN】と書かれたドアプレートをひっくり返して、【CLOSE】を表にした。



…あっ、閉店。



スマホの画面を見ると、【20:05】と表示されていた。



お店…20時までだったんだ。



せっかく見つけたいい感じの雰囲気漂う古民家カフェ。


ちょうどお腹も空いていて、楽しみだったのに…。



…仕方ない。



わたしはその場で肩を落とす。



そのとき――。



グゥゥゥゥゥウウウウ〜…



とんでもない低い悲鳴がお腹から聞こえた。


おいしいごはんにありつけると思ったらお預けをくらって、どうやら限界だったようだ。



慌ててお腹を押さえるけれど、そんなことはお構いなしにお腹の虫は鳴き続ける。


だから、気づかれないはずがなかった。



「…あっ、えっと…。もしかして、お客さん…ですか?」



わたしが隠れていた物陰に、さっきの男の人が顔をのぞかせた。


いろいろと恥ずかしくて、わたしは苦笑いしながらペコペコと会釈する。



「お店が20時までって知らなくて…。さっきたまたま見つけて入ってきたんですけど、…また改めますねっ」



とっくにラストオーダーは終わっているであろう閉店間際のお客なんて迷惑だし、とっさに隠れて怪しすぎだし、それにお腹は鳴り続けるしで…穴があったら入りたい。


『また改めますねっ』なんて言っちゃったけど、恥ずかしすぎてもうこれない。



家からも近いし、せっかくよさそうなカフェだったのに…。



とぼとぼと、もときた暗くて狭い通りを戻ろうとしたとき――。



「…ちょっと待ってください!」



なぜか後ろから呼び止められた。



「よかったら、中どうぞ」


「…え?でも、もう閉店なんですよね?」


「本当は20時までですけど、お腹を空かせてきてくれたお客さんを帰らせるわけにはいかないですからね」



その男の人は、わたしのお腹に視線を向けながらにこりと笑った。



ここが暗がりだからよかった。


今のわたしは、腹ペコなことを見透かされて顔が真っ赤になっているから。




「狭いですけど、お好きなところに座ってください」



男の人に招き入れられ、お店の中へ。



キッチンを囲むようにして、6つの丸椅子が並ぶL字型のカウンター席。


窓のそばには、2人掛けのソファが向かい合わせで並ぶソファ席。



10人で満席になる小さなお店の天井には、立派な太い柱がむき出しで見えている。


古民家を改装して作られた、昔の家屋の造りが残されている。



和と洋、旧と新が絶妙なバランスで入り混じっている店内。



おしゃれな雰囲気が漂いつつ、まるで田舎のおばあちゃん家にきたような、そんな不思議な感覚だった。



わたしはメニューに【今夜のオススメ】と書かれてあった、煮込みハンバーグのセットを注文した。



カウンター席から見えるキッチンで、男の人が手際よく調理している。



ミルクティーベージュの明るい髪色のマッシュヘア。


両耳には輪っかのピアス。


ぱっちり二重の整った顔。



気づいたら、ぼんやりとその横顔を見つめていた。



「お待たせしました。煮込みハンバーグのセットです」



プレートに乗って出てきたのは、ツヤツヤと光る米粒のご飯と小鉢に入った2種類の副菜。


そして、ソースといっしょに煮込まれてくたくたになった玉ねぎやきのこがふんだんに入った煮込みハンバーグ。



デミグラスソースの匂いで、口の中のよだれが一気にあふれ出す。



「いただきます…!」



手を合わせて、ナイフとフォークを握ってハンバーグを切ると、中からジュワッと肉汁が流れ出てきた。


ハンバーグを食べやすい大きさに切って、ひと口。



「ん〜!おいしぃ〜…!!」



お腹がペコペコだったということも相まって、頬が落ちそうなくらいおいしかった。



「よかった。これでお腹の虫も泣き止んでくれるかな?」



カウンター越しに男の人と目が合って、わたしは頬を赤らめながらうなずく。



「でも、素直に『おいしい』って言葉が聞けてうれしいな。最近は、食べる前に写真を撮る人がほとんどだから」


「…あっ。いつもならわたしも写真を撮るんですけど…、あまりにもおいしそうだったので撮るのも忘れて食べちゃいました…」



そうやってカフェ巡りの記録を残しているのに…不覚。



「写真を撮ってもらってSNSに投稿してもらったら宣伝にもなるけど、一番おいしい状態で料理を提供しているから、ぼくは今みたいに真っ先に食べてもらうほうがうれしいかな」



そう言って、にこりと男の人は笑った。



その表情がとても自然で柔らかくて――。


思わずドキッとしてしまった。




食べ終わり、お金を払って外へ。



「もう遅いけど、…1人で大丈夫?」


「わたしの家、すぐそこなので」


「そっか。それでも気をつけてね」


「はい、ありがとうございます」



わたしはペコッとお辞儀した。



「あの…、またきていいですか?」


「もちろん。メインはランチだから、今度ぜひ」


「次は、営業時間内にきます…!」



わたしがそう言うと、男の人はクスッと笑った。



「それじゃあ、失礼します」


「うん。おやすみ」


「お…、おやすみなさい」



店員さんからは『ありがとうございました』と言われて見送られることがほとんどだけど、『おやすみ』と言われたのは初めて。



まるで、デートが終わったあとに彼氏に見送られるような。


そんな感覚と近かった。




それからというもの、わたしは隠れ家カフェ『Gemini』に頻繁に通った。


一番の理由は、家から近いから。



でもそれ以外に、お店の雰囲気と料理の味、そして感じのいい店員さんにすっかりハマってしまっていた。



お腹を空かせたわたしを閉店時間後のお店へ快く招き入れてくれたあの男の人は、友禅遥(ゆうぜんはるか)さん。


わたしよりも5つ上の24歳。



その特徴的な名字からでもわかるとおり、生まれも育ちも京都なんだそう。


でも、東京の大学に通っていたことでそっちの会話に馴染んで、あまり関西弁が出なくなったとか。



話している感じや語尾は標準語だけど、所々イントネーションが関西弁だったりするから、地方出身のわたしからしたら関西の人だなぁと思う。



カフェ『Gemini』は、今は1人ですべてをまわしているのだそう。


だから、席数10席がちょうどいいらしく、あまり人気になるのも困るからひっそりと営業している。



気まぐれで休むこともあり、また鰻の寝床のような造りの場所にあって表からは知られないため、まさしく“隠れ家カフェ”だ。



ランチだからといって混み合うこともなく、お客として通うわたしにとってもゆったりできて居心地がいい。


けっこうな頻度でリピするから、初めの印象もあってすぐに遥さんに顔を覚えられた。



「みひろちゃん、今日もいつものやつでいい?」


「はい!お願いします」



名前も覚えてもらい、『いつものやつ』で注文できるほどの顔なじみに。



『いつものやつ』とは、カフェタイムのときにメニューにあるスイーツセット。


好きなドリンクを選ぶことができて、わたしはいつもホットのカフェオレを頼んでいる。



コーヒーは遥さんが丁寧に淹れてくれて、わたし好みの味に砂糖とミルクで特別甘く仕上げてくれる。


スイーツは日替わりで、今日はなにかな?と行くたびに楽しみ。



「お待たせしました」


「わ〜!ありがとうございます」



今日のスイーツは、ガトーショコラだった。


それといっしょに、カフェオレを楽しむ。



「はぁ〜…、幸せ」



このあとのバイトもがんばろうと思える。



「ほんまにみひろちゃん、いい顔してくれるよね」



1人だけの世界で幸せに浸っていたとき、すぐ隣から声が聞こえた。


すぐさま目を向けると、わたしの隣のカウンター席に遥さんが座っていた。



手には、カフェオレの入ったマグカップ。


遥さんは他にお客さんがいないときは、こうしてわたしといっしょにカフェオレを飲んで休憩したりする。



店主の遥さんではない、オフモードの遥さん。


わたししか知らない素顔を垣間見ているようでドキドキする。



しかも遥さんが飲むカフェオレは、ほぼミルク。


聞くと、わたしよりも苦いコーヒーが苦手なんだとか。



髪色もそうだし、柔らかい口調や穏やかな性格は、それこそ例えるならミルクのよう。



『Gemini』にくると、そんな遥さんに癒される。



「あっ…。みひろちゃん、ついてるよ?」


「…え?」



わたしがキョトンとしていると、急に遥さんが顔を近づけてきた。


不意に顎に手を添えられ、親指で唇をなぞられ、わたしは驚いて目を丸くする。



「ほらっ」



遥さんはわたしの唇をなぞった親指の腹を見せる。


そこには、白い粉がついていた。



ガトーショコラにかかっていた粉砂糖だ。



「うん、甘い」



そう言ってわたしに視線を向けながら、自分の親指についた粉砂糖をペロリと舐める遥さん。


どこか色っぽいその仕草に、思わず胸がドキドキした。



たまに、遥さんは無自覚でこういうことをしてくるから、そのたびにわたしは戸惑ってしまうことがある。



他のお客さんからは、『小動物みたいですね』と言われているのを何度か聞いたことがあるから、こんなふうに獲物を狙う肉食動物みたいな表情もあることにギャップを感じている。



『Gemini』でほっこりして、わたしは夕方にシフトを入れていたバイト先へと向かった。



バイト先は、大学から近いファストフード店。



学校終わりにそのまま行く分には楽だけど、今日みたいに休みの日となると、わざわざ大学近くまで行かないといけないから少し面倒だったりもする。



まあ、バスで30分くらいだし。


それに『Gemini』に行って充電してきたから、がんばるぞっ。



ここのバイトもこっちへ進学にきて始めたから、かれこれ半年。


すっかり慣れて、今日もそつなくこなしていく。



――ただ、1つだけ困ったことを除けば。



「みひろちゃん、お願いがあるんだけどさ。『人権論』のノート、貸してくれない?」



休憩時間のときに裏でわたしに話しかけてきたのは、同じ時期にこのバイトを始めた同期の光一(こういち)くん。


しかもわたしと同じ大学に通う同い年で、下宿しているところも近いから利用しているバスも同じ。



困ったことというのが、この光一くん。



授業はサボりがちで、よくわたしにノートを見せてほしいと頼んでくる。


今みたいに。



初めは、同じ授業を取っているしと思って軽い気持ちでノートを貸したら、そこから毎回毎回頼まれるように。



「また〜…?べつにわたしじゃなくたって、他の友達に見せてもらえばいいじゃん」


「周りで人権論取ってるやついないんだよね〜。みひろちゃんは前期、人権論取ってたよね?」


「取ってたけど…」



本当はノートなんて貸すつもりはなかったけど、代わりに今度のわたしのシフトを光一くんが替わってくれることに。


どうしても休みたい日で、でも他に替わってくれる人がいなくて困っていたから…正直助かった。



「今回で最後だからねっ」



そう念押しして、わたしは光一くんにノートを貸すことにした。




そのバイト帰り。



わたしの家は通り道だからと言って、ノートを借りにいっしょについてきた光一くん。



雨も降り出し、傘をさしながら夜道を歩いていると――。



「…ちょっとあんた!あたしのコウちゃんをどこへ連れていく気!?」



そんな声が聞こえて振り返ると、花柄の傘をさした女の子が立っていた。


そして、そのコはわたしに向かってずんずんと歩み寄ってくると――。



パァァアアン!!



しとしとと降る雨音の中に、弾けるような音が響き渡る。



その反動でわたしの傘は吹っ飛び、わたしは濡れた地面に尻もちをついた。


一瞬なにが起こったのか理解できなかったけど、徐々に左頬に痛みが伴い熱を帯び始める。



どうやらわたしは、いきなりビンタをされたようだ。



でも…、なんで?



「おっ…おい!なにやってんだよ…!」



さらにわたしに近づこうとしたその女の子を光一くんが止める。



「なにって…コウちゃんのためでしょ!この女がコウちゃんをたぶらかして…!!」



話の内容からすると、どうやらこの花柄の傘の女の子は光一くんの彼女。


どういう経緯でそうなったかはわからないけど、わたしは浮気相手と思われていたようで、バイト先からわたしたちをつけてきたようだ。



それで、わたしが光一くんを家に連れ込もうとしたと勘違いしたみたい。



「あたしのコウちゃんに近づかないで!」


「あ、…はい。なんか…すみません」



…あれ?


でもこれって、…わたしが悪いの?



「帰るよ!コウちゃん!」


「えっ…。でも…、ノート――」


「いいからっ!!」



そうして、光一くんは無理やり彼女に引っ張られていった。


まるで嵐のような彼女だったから、圧倒されたわたしはぽかんとその場にへたり込んでいた。



そのとき――。



「…みひろちゃん?」



わたしの名前が呼ばれて顔を上げると、そこにいたのは傘をさした遥さんだった。



「みひろちゃん、…どうしたの!?」


「え…えっと。ちょっと…修羅場って?」


「修羅場?…とにかく、こんなところにいたら風邪引くから!」



遥さんはわたしの体を抱き起こすと、『Gemini』へと連れ帰った。




22時の閉店後の『Gemini』。



「体…、冷えたでしょ?」



そう言って、遥さんがわたしの前に出してくれたのはホットミルク。


丸みのあるマグカップからは、温かい湯気が立ち上っている。



「…すみません、なにからなにまで」



吹っ飛んだ拍子に傘の骨が折れてしまって、ここまで遥さんの傘に入れてもらった。


そのせいで、遥さんまで雨で濡らしてしまうことに。



びしょ濡れのわたしに、ふわふわのバスタオルまで貸してくださって。


からの、ホットミルク。



ひと口飲むと、体にじ〜んと染み渡った。



「おいしいです。とっても温まります」


「よかった」



そう言って、遥さんもタオルで髪をわしゃわしゃと拭きながら、ホットミルクの入ったマグカップを持ってわたしの隣へ。



「ぼくは久しぶりに1人で飲んでた帰りだったんだけど、みひろちゃんは…?バイト帰り?」


「あっ…、はい」


「それで、“修羅場”っていうのは…?」



遥さんに聞かれたから、わたしはさっきの浮気相手に勘違いされた話をした。



「…いきなりビンタだなんて。それはひどいね」


「びっくりしました。ドラマとかで見る光景が、まさか自分の身に起こるなんて」



ぶっ飛んだ勘違いすぎて、逆に笑えてきた。



すると、ふとすぐそばに気配を感じた。


慌てて振り返ると、眉を下げて心配そうにわたしを見つめる遥さんの顔が間近にあった。



「…ほんとだ。よく見たら、左頬…腫れてる」



遥さんは、細くて長い指でわたしの横髪をすくい取って耳にかけると、ガラス細工を扱うかのようにそっとわたしの左頬に触れた。


まじまじと見つめられ、自分の顔が徐々に熱くなっていくのがわかる。 



「は…遥さんっ、大丈夫ですから…」


「大丈夫なことないよ…!あとが残ったら大変だ」



遥さんは慌ててキッチンへ戻ると、冷水で絞ったおしぼりを持ってきてくれた。



「ちょっと冷たいけど我慢してね」



そう言って、わたしの左頬にやさしく押し当てた。



「…ひゃんっ」



思っていたよりも冷たくて、無意識に変な声が出てしまった。



恥ずかしくて、とっさに両手で口を塞ぐ。



そんなわたしを目を細めて見つめる遥さん。



「今、素のみひろちゃんを見たような気がした」



わたしはキョトンとする。



「みひろちゃんって芯がしっかりしてて、隙なんて見せない真面目な女の子だと思ってたけど、そんな…だれにも聞かれたくないようなかわいい声も出すんだって」


「か…、かわいいって…」


「かわいいよ。なんなら、その声聞きたくて、もっといじめたくなっちゃう」



遥さんは意地悪く微笑むと、冷えたおしぼりで今度はわたしの首筋に軽く触れた。



「…あっ。そこはダメです…、遥さん」



首筋は冷やす必要なんてまったくないのに、わたしの反応を見たいからって…。




そのあと、ホットミルクを飲み干したわたしを遥さんが家まで送ってくれた。


『Gemini』からすぐなのに、夜遅いからと言って。



「ここがみひろちゃんのマンションか〜。ほんま、ウチから近いんだね」



遥さんは、わたしのマンションのエントランスを興味深そうに眺める。



「そうなんです。わざわざ送ってもらうのが申し訳ないくらいの距離で…」


「気にしんといて。ぼくが送りたかっただけだから」



そう言って、遥さんはわたしの頭の上にぽんぽんっと手を乗せた。



「みひろちゃん、またウチきてくれる?」


「…え?もちろんですよ、お気に入りのカフェですから。でも、どうしてそんなことを?」


「いやぁ…、ちょっとさっきいじめすぎちゃったかなって」



“いじめすぎ”…というのは――。



『なんなら、その声聞きたくて、もっといじめたくなっちゃう』


『…あっ。そこはダメです…、遥さん』



思い出しただけで、顔から火が出そうになる。



「ぼく、今日はちょっと酔ってるからさ。あんなことしちゃって…反省してる」


「いえ…、そんな」


「お詫びに、今度きてくれたときにナイショでサービスするね」



遥さんは口元で人差し指を立てると、わたしにウインクしてみせた。


そのかわいくも、どこか大人の余裕がうかがえるアクションに、わたしはドキッとしてしまった。




遥さんにとって、わたしなんてよくきてくれるお客の1人にすぎない。



だけど、雨の中抱き起こしてくれたり、お店に連れ帰って介抱してくれたり、家まで送ってくれたりなんかしたら――。


勘違いしちゃいそうになるから、…お願いですからやめてください。

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