有野柚月2
柚月にとって、家は落ち着く場所でもあり、休まらない場所でもあった。
「ゆづー、今日は学校どうだったの?」
母親は専業主婦で常に家にいる。家の外で起きたことを知りたいからか、おしゃべり好きだった。ことあるごとに柚月や父親に今日の出来事を聞いてくる。
「今日の授業はグループで考えるようなのが多くて、初めて話す子も多かった!4月だしコミュニティ広げる目的もあるのかもなぁ」
「あら、そうなの!良かったじゃない、お友達になった?今度ウチに連れてらっしゃいな!お母さんも会ってみたいわぁ~」
「んー、まぁ仲良くなったらね」
母親は高校生の親にしては少し過干渉。中学での地味女の雰囲気と今家での雰囲気はたいして差がないので真帆なども家に呼んだことがあったが、人気者の柚月ちゃんで通している高校生活の友達を家に呼ぶのはリスクでしかない。
おしゃべりな母親が何を言い出すか気が気でないだろう。
「ゆづ、分かっていると思うけど、友達を呼ぶときは俺が居ないときにしなさい」
父親は人見知り。家族の中ではお買い物好き、甘い物好きと可愛いところがある父親だったが、初めての人の前では硬直する。本当に仕事が出来ているのか心配になるくらい人見知りだった。
真帆を急遽家に呼んだ時、父親がものすごいスピードで自室に引きこもったエピソードは忘れられない。
柚月は両親にあれこれと今日の出来事を話し、母親が楽しそうに話を聞く。そしてこの土日に家族で何をしようかと話し合う。それが有野家の日常だったが、最近、柚月は土日の予定が家族で埋まっていくことに疑問を抱き始めていた。しかし、まだ断るなど行動に起こす気はなかった。
柚月は母親に報告をする時、その時自分が何を思っていたのか振り返りにもなるが、一緒に居る相手によって思考回路が大きく変わっている為、端折る部分、少し誇張する部分など、伝え方を考えなければならなかった。
例えば今朝、通学している時に満員の電車でご老人が立っていた時など、柚月は何も考えず席を譲って、ご老人から感謝をされていた。席を譲る事に対して打算など無かった。
席を譲る時も、何かをしてくれた店員にお礼を言う時も、質問されたとき笑顔で対応する時も、ちゃんと柚月本人の意思で行動している。
高校生の柚月は人と関わるのが楽しくて仕方ない、という感情が大きくある。
でも、中学時代の地味女を演じた時、席を譲ったことがあっただろうか。目の前にご老人が立っていても「きっと隣の人は次の駅で降りるハズ」「他の人が…」と目をそらしていた。
店員がお水を持ってきたときも「ありがとう」も言わなかった。だって、当たり前じゃない?彼らは仕事をしているのだから。そう思うのも柚月本人だった。
今日のカラオケでもそうだったが、地味女をしている時は人との関わり方が分からなくなる。
多分、今日紹介してもらった真帆のお友達に対しても高校生の柚月だったらもっとうまく立ち回っていただろう。
家にいる時は柚月の性格や発言、行動に疑問や後悔を持つことが多く、ネガティブになりがちである。
昨日の夜だって、高校生活を楽しんでいるのに、わざわざ地味女を演じてまで明日真帆と会うのは面倒くさいから断ってしまおうかと何度思案したことか。
そして同時に「明日からはアレをやろう」「これをやろう」と、とてつもないポジティブも生まれてくるのである。
こういう思考回路に陥ると、一気に疲れが襲ってくる。柚月は何も考えたくない、とお気に入りのぬいぐるみに抱き着いて布団をかぶった。
明日は高校生の柚月だけでいいはず。今日よりも疲れないだろう。
***
朝、よく晴れた青い空の下、柚月は通学路を歩いていた。相変わらず風は強いが、もうコートは必要ないくらいポカポカとした陽気だ。
「有野さんおはよう!」
「柚月おはよ〜」
最近、特に高校の最寄駅から歩いている時は多くの人に挨拶で声をかけられる。
主に同じ学年の人や顔見知りになった先輩だが、時々知らない人が混ざっている事がある。柚月はかけられた挨拶には笑顔で返すようにしている。どこで名前を憶えられたのだろうかと少し怖くもなるが、これが早くも柚月の日常となっていた。
「あー!ゆづちゃんだー!おはよう、今日も眠いねぇ」
ふぁあと涙目で大きな口を開けながらあくびをするのは、高校生活初日で仲良くなった坂倉美桜。お人形みたいなふさふさのまつ毛。ぱっちりとした目。少し身長も小さく、ふわふわとした栗色の髪を揺らしながら近寄ってくる姿は小動物のような可愛さがある。
高校生の柚月もそれなりに男の子に話しかけられるタイプだったが、美桜も美桜で早くも熱烈なファンが出来ていた。2人で並んで歩くと注目の的になる事も多い。
「美桜ちゃん、おはよう。昨日も夜更かししたの?」
「んーん、昨日は早く寝た。3時くらい」
「3時!?それは立派な夜更かしだよ。授業寝ないようにしないとだね」
「だいじょーぶ、ゆづちゃんが助けてくれる」
きらんっと、まんまるな目を向けてくる。さっきまであくびをして涙ぐんでいたからか、瞳がいつもより一層キラキラと輝いていた。この瞳に見つめられると柚月は弱い。
今日のノートは美桜の為にも綺麗に書きとらなければと柚月は心に誓った。
「そういえば、昨日ね?ゆづちゃんが帰ったあと、タカセンが言い忘れたー!って走って教室に戻ってきたの!今日から留年していた1個上の先輩が美桜たちのクラスに入る事になったんだってぇ」
「え、そうなの?」
柚月のブレザーの裾をクイっとつまみながら美桜が教えてくれる。とても可愛い。
それにしても、タカセンことクラスの担任、高山先生はすこし抜けているところがある。
昨日は真帆との約束があったので、すぐに学校を後にしたが、まさかタカセンとすれ違いになっているとは思わなかった。クラスのメンバーが増えるというのは結構重要な事だと思うが、それを言い忘れるのは教師として心配になる。
「すごく微妙な時期に入ってくるんだね」
今は4月半ば。入学から2週間が経っていた。何も前日の、それも放課後に言わなくても良いのに。
「1年生向けの学校紹介とか聞く必要がないから別室で個別授業受けていたらしいよ。なんで留年になったのかはタカセン言ってくれなかったぁ」
確かに、1年生の初めの授業は学校施設の紹介や部活紹介、授業カリキュラムの説明など初歩的な講義やレクリエーションが多い。留年ともなれば2回も同じ内容を聞く必要はないだろう。
高校生の柚月にとって、新しい人と会うのは結構楽しみだった。
同じクラスということで性格の切り替えは必要なく、気が楽だという事もある。柚月は休み時間になったら話しかけに行こうと思っていた。
「ゆづちゃん嬉しそう〜」
「新しい出会いは楽しみっ!どんな人かなー男の子かな?女の子かな?」
「一緒に話しかけに行こぉ。美桜は女の子がいいなぁ」
柚月はニヤける頬っぺたを抑え、美桜は柚月の裾を握りしめながら、2人の女の子は新しい出会いに期待を寄せながら学校へと向かった。
教室に入るとクラスメイト達も少しそわそわとした落ち着かない印象があった。
いつも真っ先に柚月に話しかけてくれる子達も、新しく入ってくる子の噂話で持ちきりである。
ある子はか弱い感じの女の子、ある子はヤンキーの様な風貌の強面男子とそれぞれ真逆の印象を話している。
「有野おはよう。なぁなぁ、昨日放課後居なかっただろ?今日から転校生入ってくるらしいぜ?」
川上悟は柚月のクラスメイトで何か事あるごとに柚月に話しかけに来てくれる。親しみやすいキャラクターで場を和ますムードメーカーだった。
反応がものすごく素直で、男子の中でもいじられキャラをやっている。柚月に話しかけてくれる時はご主人様に尻尾を振る小型犬の様になっており、クラスの子からも川上がまた有野のところに行ってる、と話題になる事もある。
「川上悟。その話は美桜がさっき伝えた。あと転校生じゃなくて留年生。ゆづちゃんに嘘を教えないで」
美桜はそんな悟の事を良く思っていない。美桜はゆっくりとした舌足らずな話し方で、人のことを呼ぶときはニックネームであることが多いが、悟だけは”川上悟”とフルネームで呼び、ピシャリとはっきりした発音で話す事が多い。猫がシャーと威嚇する様に柚月の陰から睨んでいる。
悟は美桜の反応に対して気にした様子が無かったが、柚月に知らせたのが1番じゃなかったことにショックを受けているようだった。
「悟くん、ありがとう。さっき美桜ちゃんからも聞いたよ!新しい子楽しみだね!」
「お、おぅ。だよな!俺の伝手からの話によると男らしいぞ」
男、と聞いて美桜が眉根を寄せた気がしたが、柚月は見なかったことにする。
「ゆづちゃ…」
美桜が何かを言いかけた時、キーンコーンカーンコーンと始業を伝えるチャイムが鳴り話を遮った。
そしていつもより緊張気味の面持ちのタカセンが教室に入ってきた。
「はいはーい、みんな座って座って~!」
隣にはタカセンより頭1個分背の高い男の子が立っている。俯きがちで長めの前髪。なぜか目を瞑っている為表情が読めない。
「みんな、おはよう!昨日居なかった人もいるかと思うけど、今日からこのクラスの仲間になる子がいます!伝えるのが遅くなってしまってゴメンね。先生うっかりしてて…紹介します。美園蒼君です!彼はみんなより年は1つ上なのよ。美園君、簡単に自己紹介をお願いしても良い?」
紹介された男の子はスローモーションのように顔を上げた。まつ毛を上がるスピードも美しいと感じる。
初めて露わになった瞳は吸い込まれる様な漆黒だった。
「皆さん初めまして、2度目の1年生をする事になりました。美園蒼です。年齢は1個上だけど気軽に絡んでもらえると助かるよ。敬語とかもいらないから。よろしくね。」
蒼はニコッと微笑んだ瞬間、クラスの女子たちが黄色い歓声を上げた。
「あれ…?」
「ゆづちゃんどうしたの?」
隣に座る美桜が眉間に皺を寄せながらこちらを見る。男の子だったことに残念がっているようだった。
「ううーん、どこかで見たことあるような…」
蒼は一周クラスを見渡した後、柚月とばっちり目が合った。
(うーん、やっぱりこの顔どこかで…声も…あぁああ!!!!)
柚月は脳内で昨日の出来事がフラッシュバックした。大変まずい事態になったかもしれない。
(この人昨日カラオケでメロンソーダが切れていることを教えてくれた人だ!絶対そうに決まっている。あの時はキャップを目深く被っていたからもっと大人に見えたけど、一つ上だったの!?)
昨日のカラオケで柚月はこの高校の制服を着ていたが、地味女の恰好をしていた。
せっかく高校生活で最高のスタートを切ったのにこんな所で美園君に暴露されたら終わる、と柚月は焦る。
(お願い、目が合っただけ。バレてないバレてないはず…。)
「じゃあ、美園君は窓際の一番後ろの席で良いかしら。…あら美園君何か笑ってるけどどうしたの?」
「いいえ、なんでもありません先生。にぎやかなクラスで僕嬉しいです。」
「あら、そう?早速授業が始まるけど、みんな仲良くね!」
タカセンが業務連絡を伝えて教室を出ていく。柚月はダラダラと汗をかき、最後の方タカセンが何を言ったのか記憶がなかった。
「ゆづちゃん、具合大丈夫?顔色が悪いよ…保健室行く?」
白い花柄のレースが付いたハンカチで柚月の汗を拭いてくれる。ふわりといい匂いがしたが、柚月にとってそれどころでは無かった。
「美桜ちゃんごめん、大丈夫…なんでもない…勘違いだった」
ハンカチごめんね、と美桜の頭を撫でる。少し美桜の顔が晴れたようだった。
タカセンが教室を後にした瞬間、1限目の先生が来るまでの間、美園君はクラスの女子に囲まれていた。
あまりにも容姿が整っていた為、早速女子のアピール合戦が繰り広げられている。
柚月はチラチラ美園君を気にするそぶりを見せたが、群がる女子の背中と黄色い声しか聞こえてこない。
「ゆづちゃん、美園くんには話しかけなくていいと思う」
「ど、どうしたの急に」
「美桜あーゆータイプ苦手。」
「まぁまぁそう言わずに、もう少し落ち着いたら話しかけに行こう!ほ、ほらいい人かも知れないよ?」
美桜を宥める様にとっさに一緒に声をかけに行こう、といつもの流れで答えたが、柚月は自分と昨日会ったことを覚えているのか、いないのか、その答えが知りたくてうずうずしていた。
だが、その答えを聞いたとき、隣に誰かいる様なら意味がない。
美桜が離れたタイミングで柚月は声をかける必要があった。
覚えてませんように、と何度も心の中で念を送っているうちに気が付いたらお昼休みになっていた。
今日は美桜の為にノートを綺麗に取ると宣言していたが、どうやら柚月が見せてもらう必要があるくらい、酷い出来栄えだった。