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全ては終わった事でした。

作者: 凛蓮月

 

 俺は婚約者――……いや、婚約破棄になったから元婚約者だな。

 今、とにかく元婚約者の部屋に来ている。


 玄関から入り、通常であればメイドが気付き執事が挨拶をして来るのだが、俺有責の婚約破棄だったからか、あいつらは無視しやがった。

 使用人の教育がなっていない、と忠告してやりたかったが、婚約破棄後俺は口にするのもおぞましい程の酷い目に遭い、俺も少しは成長したんだ。

 だからここはぐっと堪えて長年婚約を結んでいた仲だから、と勝手に入った。


 案内も無しにやって来たのはいつも交流で使われていた元婚約者の部屋だ。ノックをしても返事もしない。

 仕方ないからそのまま入った。


【なんだ、いないのか】


 元婚約者の姿は見当たらず、適当に時間を潰す為室内を見て回る。

 婚約していた時と変わらない質素な部屋。あいつらしいと思わず苦笑いがこみ上げる。

 あいつはくそ真面目で、地味で、つまらない女だった。

 いつも小言ばかりで、俺は家庭教師か乳母と子作りをしなければならないのかと辟易したものだ。

 だからあの日――貴族学院の卒業の賑やかな晴れの舞台で堂々と婚約破棄を宣言したのだ。


「セレシア・フォーゼ公爵令嬢! お前の悪事が明るみになった。もうお前は未来の王妃に相応しくない。

 私、イクシオ・デュランダルは今この時を以て婚約破棄を宣言する!」


 こんな日にも地味な装いだったセレシアは、顔を青くしながら目を見開いた。

 かさついた唇は震え、落ち窪んだ瞳は潤んでいた。

 パサパサの白髪が肩からぱさりと落ちるのも構わずに俯き、手を胸の前で握っていたのを思い出す。


「理由を、お聞かせいただけますか……?」

「はっ! 理由など、心当たりも無いと言うのか?」

「申し訳ございません……」


 小さな肩を震わせながら頭を下げる。

 か細い声は周りのざわつきに消えそうな程だった。


「お前は平民特待生であるリリー・ブロッサム嬢に嫌がらせばかりしていただろう?

 例えば、取り巻きと共に大勢で囲んで誹謗中傷したり、昼食を摂るのを邪魔したりしていた」

「わ、私はそんなこと……」

「私は貴族学院の学生会の長としていつもリリー嬢から相談を受けていた。公爵家令嬢、しかも王太子である私の婚約者から害されていると聞けば他人事ではないからな」


 ――あのとき、リリー嬢の表情は真っ白だった。

 身分の高い者から高圧的に寄られてさぞ怖い思いをしたのだろう。

 誰しもそんな場面を思い返せば体も震える。

 俺はそっとリリー嬢を抱き寄せた。


「イクシオ様、私は神に誓ってそのような真似は致しません。周りの皆様に証言いただいても構いません」

「そんな事を言って、口裏合わせているのだろう?」

「そんなこと……」


 セレシアの絶望した表情が俺の中の何かを刺激する。だがもう遅い。

 俺は未来の国王となる者として、身分の高低関係無く平等に接しなければならない。

 高位貴族が平民を虐げるなど、あってはならないのだ。

 セレシアに何かを言える者は少ない。

 だから俺が代表して発言する。


 なかなか罪を認めないセレシアは、悔しさからか唇を噛み締めた。


「……分かりました。謹んで、婚約破棄を賜ります」


 震える声で言うと俺の胸の内がざわつく。

 何かが警鐘を鳴らすが、ごまかすようにリリー嬢の腰を引き寄せた。



 その後、セレシアとの婚約は破棄された。

 代わりの婚約者はリリー嬢とはならなかった。

 当然だ。

 彼女は平民だ。

 優秀でも、何の素養も無い、令嬢でもない、平民だった。


【……あの日からもう、三年が経つのか……】


 婚約破棄の断罪が終わり、騒然となった為パーティーは中止となり生徒たちは強制的に帰宅となった。

 陽も暮れた頃、俺は父に呼び出されて執務室へ出向いた。


「フォーゼ嬢に婚約破棄を言ったそうだな。

 貴様……よくもやってくれたな」


 怒気を孕んだ目は俺を睨みつけている。

 執務室のソファに腰掛けていた母からも冷たい目線を向けられた。

 今日のことは既に報告に上がっているのだろう。

 一瞬心臓がざわついたが未来の国を統べる者として臆してはならない。


「お言葉ですが、いくら公爵令嬢と言えど善良な一市民を虐げてよいとは思いません」


 王太子の婚約者ならば尚更だ。国民の模範的存在でなければならないだろう。

 それを分からせる為にあえてきつく言い渡したまでのこと。

 だが父ははぁー、と長く息を吐いて項垂れた。


「――市民と貴族の最高位の令嬢、どちらの言い分も聞いたのだろうな」

「被害者市民の声を聞くべきではないのですか?」

「……ではお前は公爵家令嬢の行動の裏取りもせずに断罪したのか?」


 その目は先程よりも強く怒気を含んでいた。

 今思い出しても竦んでしまう。父があれだけ怒りを顕にしたのは、幼い頃に一度見たきりだった。


「し、しかし、被害者のリリー・ブロッサム嬢はとても辛そうにしておりましたので……」

「影の報告によると、リリー嬢が婚約者のいる高位貴族令息のみに話し掛けていたからセレシアが代表としてルールを教えたと聞いたのだけれど」


 母のよく通る声が響く。

 ……その話は初耳だった。リリー嬢は


『女性とは気が合わなくて……。話しかけてもいつも無視されるんです』


 と、肩を震わせていた。

 言われてみればいつも俺とその周りの令息に話し掛けていた。

 はっきりと思い出せば、気安く名を呼びさり気なく体に触れ、上目遣いで見てきていた。


「まあ、まるで娼婦じゃない。ほら、ここに書いてあるわ」


 母から手渡された筆記用の魔導具には、リリー嬢の行動が書かれていた。


 俺の友人でもある学生会副会長の公爵家令息と二人きりで密室に入っていったこと。

 学生会の会計である侯爵家令息と伴も付けずに街中を歩き回ったこと。侯爵家の護衛たちは撒かれて咎めを受けたこと。

 書記の伯爵家令息二人とは仮面舞踏会に行ったそうだ。


 いずれも婚約者がいて、貴族学院を卒業し、俺とセレシアの婚姻後にみな結婚する予定だった。

 ……だが、最近の彼らは婚約者を蔑ろにしているな、と感じていたが……そうか、そういう事か、と苦虫を噛み潰したようになる。


「改めて問おう。お前は公平な判断のもと公爵令嬢に罪を問うたのか?」


 父の射竦めるような目線に思わず目をぎゅっと瞑った。

 物事を片面しか見ず、それで正義ぶって罪を暴くなど国王になる者として相応しくない行動だった。

 セレシアの意見を聞く耳も持たず一方的に罪を擦り付けた。あのとき少しでも聞いていれば……と思ったが俺は何度時を戻っても繰り返すだろう。


「……いえ、セレシアは……フォーゼ嬢は……当たり前の対応をしただけです」


 婚約者が自分を蔑ろにし他の異性と仲良くしていれば何もなくても疑いたくなるだろう。

 セレシアは俺の将来も考えて諌めてくれていたのだ。それを俺は……加害者の言い訳だと決め付けてしまったのだ。


「イクシオよ、此度のお前の行動は間違いだった。王太子という頂点に立つ者が間違えれば周りは右に倣うだろう。だからこそ常に俯瞰して物事を見なければならなかったのをお前は怠ってしまった。

 ……人は常に変化する。ときには過ちもあるだろう。事が小さければ穏便に、反省している事が伝われば次に活かす事もできるだろうが……今回は場所と相手が悪かった」


 父はふーっと重く息を吐いた。


「侍従や護衛以外、誰も見ていない場でセレシアと二人で話し合い、穏便に解決するならよかった。だが、大勢の貴族令嬢、令息が見ている間での断罪劇は不信感を生む。更に根も葉もない冤罪だった。

 彼らは将来社交界を背負う……お前の治世に深く関わる者たちだった。少し不快な思いをさせたら断罪されると思われてしまえば誰もついては来るまいよ」


 貴族家は信頼関係で成り立っている。

 婚約もその一つだ。

 伴侶になる、家族になる者すら大切にできないようでは他人などどうなるか分からないと思われてしまう。

 信頼関係を築くのは時間がかかるが崩れるのは一瞬だ。


「申し……訳……ございません」


 震える声は掠れ、どうにもならない事態に脂汗が滲む。

 セレシアは案じてくれていたのに。


「イクシオ、今日この時を以て王太子の座を剥奪する。勿論継承権もだ。

 セレシアとの婚約はお前が有責の破棄。お前の周りもおそらく婚約が無くなるだろう。そうすると政変が起きるやもしれん。

 その責任を取って北の塔に幽閉、王太子の座は第二王子のセオドアとする」

「……かしこまりました。処分を受け入れます」


 俺は頭を下げて父からの言葉を受け入れた。

 北の塔は高貴な罪人が行く場所だ。辺りは木々が鬱蒼と生い茂り苔生した塔壁は手入れもされない。下は蔦に絡めとられ、上を見上げれば重苦しささえ感じる場所。

 王城の敷地内にはあるが、北にある為か寒々しく、一応貴人用の牢とはいえ室内は灯り取りの小さな窓とベッド、木の机と椅子がある。

 部屋の隅には不浄場、洗面が仕切りが無く設置されているせいか何とも言い難い臭いが充満している。

 一歩塔内に入れば内側からは開けられず、勿論暖炉も無い。


 だからだろうか。

 ここに入れられた者は二年と生きられた記録は無い。

 今回の処分を重いと感じる者もいるだろう。

 愛に溺れたわけでも、恋に狂ったわけでもないのにあんまりだ、と思われるかもしれない。

 だが、本人にその気は無くとも周りから見れば疑惑を向けられるような行動はすべきではなかったのだ。

 王太子とはそういう存在だ。


「こちらが殿下……イクシオ様の部屋でございます」

「ありがとう。……罪人なのだから呼び捨てで構わない」


 案内の騎士に言うと、何か言いたげな顔をしたがそのまま室内に足を踏み入れた。


「このあと食事をお運び致します。一日に三回運ばれて来ます。では、失礼致します」


 騎士が一礼して去ると、ベッドに横になった。

 パーティーからまだ数時間しか経過していないのにまるで何日も過ぎたような疲労が襲ってくる。目を瞑れば走馬灯のように浮かぶ昼間の光景。

 なぜかセレシアの悲しげな表情が脳裏に焼き付いて離れない。


(少しでも耳を傾けていたら……)


 リリー嬢に対して恋慕など抱いた事は無かった。

 ただ言われた事を鵜呑みにして可哀想だと思っただけだ。

 俺以外はそうではなかったようだが……


(彼らはどうなったのだろうか)


 彼らは婚約者がいながら裏切っていたのだ。相応の咎めはあるだろう。

 政略結婚で愛が無いなど問題にならない。

 婚約者を優先し大切にし義務を果たしてから愛人を作ることは黙認されている。

 だがそれは義務を果たした後の話だ。

 義務も果たさず夫婦関係を構築してもいない段階からの愛人は眉をひそめられる。

 不快な思いをさせる男など……見限られても仕方がないだろう。


「んで……んなことに……」


 うとうとしていたら、小さく声が響いた。

 ぼうっとする頭を起こすとそれは聞いたことのあるものだと理解する。


「ユリア……ごめん……ごめん……許して……」


 それは気付けば一人ではなく、四人分あった。

 ああ、彼らもここに来たのか、と。

 北の塔は重い罰だ。

 五組の婚約が解消されたことでおそらく政変が起きたのだろう。

 国の基盤が覆るかもしれない。

 愚息の責任は親が取るものだから――


「父上、母上、申し訳ございません、申し……訳……ございません……」


 絞り出すような声は公爵令息だ。セレシアも含めて幼馴染で、一番付き合いが長い。

 彼の父親は宰相だ。俺の父の右腕とも言われている。


「ユリア……ユリアーナ……」


 元婚約者の名を呟くのは会計だった侯爵令息。

 気弱な彼は婚約者にコンプレックスを抱いていたようだ。だからリリー嬢に褒められて嬉しそうにしていたのを思い出す。


「ふざけるなよ! ここから出せよ!」

「そうだ! 何も悪いことしてないだろう?」


 伯爵令息二人はまだ怒る気力があるらしい。

 牢の格子をガシャガシャと揺らしている。


「失礼致します」


 彼らの声を聞いていると、騎士が入って来た。

 騎士の持つトレイには丸パンが二つ、湯気の立たないスープが置かれていた。


「これだけか」

「申し訳ございません。これが北の塔の食事だそうです。有志の方の差し入れなどありましたら多少は変わるのですが……」


 仕方がない。罪人と同等なのだから。


「こんなんで腹が膨れるかよ! 肉は無いのか!」

「俺を誰だと思っているんだ!」


 彼らの醜悪な様を目の当たりにすると今まで自分が如何に恵まれた環境にいたのかと自覚する。

 俺は文句を言わずに食事をたいらげた。



 翌日、翌々日も質素な食事が運ばれて来た。

 一週間が過ぎる頃には伯爵令息たちは文句を言う力も無くなったようだ。

 他の二人の呟きも次第に聞こえなくなった。

 ここではする事が何も無い。

 ただぼうっと時間が過ぎるのを待つばかり。

 灯り取りの窓からかろうじて日中か夜かが分かるが、何もする事が無ければ昼だろうが夜だろうがどうでもよかった。


「イクシオ殿、差し入れだよ」

「差し入れ……?」


 二週間が過ぎた頃、騎士が食事と共に差し入れを持って来た。

 それは以前セレシアと読んだことがある本と、その続刊だった。


「誰から……」

「そいつは秘密だ。だが有志の方の差し入れだよ」


 腹が膨れる物では無いのが不服だったが、退屈しのぎにはちょうどいいか、とページを捲った。

 随分前に読んだそれはもうだいぶ内容を忘れてしまっていた。

 勇者が魔王を退治する王道ファンタジーで、公爵令息やセレシアと共に読んでいたっけ、と思い出す。

 困難な状況でも仲間と共に立ち向かい悪を滅する。

 そんな勧善懲悪の話でも、セレシアは魔王の言い分も聞くべきだと言っていたっけ。


『本当に魔王だけが悪いのかしら? 彼にも理由があるから悪さをしているのかもしれないわ』


 それを聞いた瞬間、男二人は吹き出した。

 人々に不安を与え続ける魔王がいなければ世界は平和になるのに何を馬鹿なことを、と。

 その後続刊が出たのは知っていたが、王太子教育が増えたことで自然に読まなくなってしまった。

 今手元にあるのは全部で十冊。

 読み終えたら魔王側の言い分も何か分かるだろうか。



 牢に入れられてひと月が経過した。

 本は三巻まで読み終えた。

 ここまでは以前読んだことがあるのでスムーズに読めた。

 忘れている部分はあったが概ね覚えていた通りでなんなく思い出した。

 これからは読んだことがない新たな部分になる。


 四巻は魔王の過去が描かれていた。

 かつては人間と共存していた魔王だったが、仲間を人間に殺された。

 理由は「魔王の仲間だから」だった。

 そんな理不尽なことがあるのか、と憤ったが何とか話し合いをしようと試みた。

 当日、一人で来いと指定された場所へ行ってみれば、大勢の人間に取り囲まれた。

 そして何の理由もなく、ただ、魔王だからと、八つ裂きにされたのだ。


「酷い……」


 話し合いさえできず、一方的に嬲られ、魔王は人間との共存を止めた。

 反撃すれば「弱い者いじめだ」と叫ばれた。

 始めに大勢で魔王たった一人を攻撃したのは人間なのに。

 最初に殺された魔王の仲間も何もしていなかった。危害を加えたわけでもなく、ただひっそりと過ごしていただけなのに。


 俺は何も言えず本を閉じた。

 まるでこれがあの日の光景に重なったからだ。

 魔王がセレシアで、人間たちが俺たちだった。

 何もしていないセレシアを、罪も無い彼女を寄ってたかって冤罪に陥れた。

 これを差し入れしたのが誰かは分からない。

 何かの意図があるのか、あるいはたまたまなのか。

 積み上げられた本は机の上に無造作に置かれたままになった。


 それから更に三月程過ぎた。

 辺りは随分と静かになった。

 伯爵令息たちはもう叫んでいない。


 そんなある日、侯爵令息がおかしな事を言っていた。


「ユリア……ああ、ユリア、迎えに来てくれたんだね……。これでようやく出られるんだな……」


 まさか、と思った。

 ここに幽閉されて出られるんだ、と驚いた。

 翌日、牢が開く音がした。

 迎えに来たんだ、と思った。

 どうすれば? どうしたら牢から出られる?

 期待に胸を膨らませ、食事を持って来た騎士に聞いた。


「……恩赦が出るか、被害者の気持ち次第だ」


 騎士の表情は硬かったが、いずれにせよ希望があるならば縋りたい。

 恩赦ならば俺のあとに王太子になったろう弟の結婚式だろうか。

 それとも弟に後継ができた時だろうか。

 ……被害者の気持ちというならば、セレシアは俺を許さないだろう。

 しかし、そこまで悪い事をしたか……?

 不意に考えが汚染されて頭を振った。


「俺から見れば何ともない事でも、セレシアから見れば将来を奪われたも同然だものな……」


 セレシアの悲しげな瞳が蘇る。

 最後に笑顔を見たのはいつだったか。

 それを思い出せないうちはきっと許されない。



 牢に入って半年が経過した。

 王太子が婚約したから、と食事に小さな肉片が出た。


 更に半年が経過した。

 伯爵令息二人の声が完全に潰えた。


 この頃から記憶は曖昧で、生きているのか死んでいるのか分からなくなった。



「イクシオ、聞こえるか」


 ある日、公爵令息が話し掛けてきた。


「ダミアンか。お互いしぶといな」

「違いない」


 公爵令息――ダミアンと俺とセレシアは幼馴染だった。幼い頃はいつも互いを呼び合っていたのに、いつの間にか「殿下」と「セレシア様」になってしまった。

 今は身分も関係ないせいか、昔のように呼び捨てに戻っている。


「なあ、リリーがどうなったか、分かるか?」


 ダミアンはリリー嬢と密室に入るまでに親密だった。婚約者といるよりも、リリー嬢といる方が多かった気がする。


「いや、分からない。食事を運ぶ騎士に聞いてみたらどうだろう」

「聞いたさ。だが教えてくれないんだ。なぁ、リリーのお腹に子がいたんだよ。俺の子なんだ。こんなところにいる場合じゃないのに……」


 正直驚いた。そこまで深い仲だったのか、と。


「かわいいだろうなぁ。父様だよ、って教えてやらなきゃ……」


 翌日、ダミアンは牢から出たようだ。

 牢の扉が開く音がして、叫ぶ気力も無くなったはずの伯爵令息が「俺も連れて行ってくれよ……」と力無く言っていたから。

 だからその後食事を持って来た騎士に聞いた。


「リリー・ブロッサムは確かに身篭っていました。しかし父親が誰か分かりませんでした。彼女が肉体関係を結んでいたのは一人だけではありませんでしたので」


 それを聞いて背筋が寒くなった。

 ダミアンは牢から出たが、真実を知ったらどうなるのだろう、と。

 せっかくここから出られても、望んだ元の世界が待っているとは限らない。


 いや、ここから出られるはずがない。

 しかし、侯爵令息やダミアンは出て行った。

 迎えに来たじゃないか。

 本当に迎えに来たのか?


 嫌な考えが鎌首をもたげる。

 首の周りにへばり付いてじっと見てくる魔物のようだった。


 正気を保とうと部屋をうろうろすると、机の上に埃を被った本が積み重なっているのに気付いた。

 放置したままだったそれを夢中で読み始める。

 そうすれば自分は物語の登場人物で、これは夢なのだと錯覚できる気がしたからだ。



「王太子殿下に後継が誕生されました。恩赦としてこの牢を解放します」


 本を読み終えたあと、騎士が最後の食事を持って来た。

 柔らかい白いパンと、温かな野菜のスープ。そして柔らかい肉と白身魚のステーキ。

 食後のスイーツもある。

 なんて贅沢なんだ、と涙が出た。


 食べ終えたら牢から出られる。

 だから俺は真っ先に謝ろうと思ってここに来た。



【なのに、いないなんて……】


 セレシアは不在だった。

 とはいえ帰ってくるまで何日も待つつもりだ。

 幸い俺にこのあとの予定なんか無い。

 泣き暮らしているわけではないようでホッとしたが、セレシアが笑っている様も想像できない。


 必死に思い出そうとしていると、扉が開いた。

 振り返るとセレシアがいた。



【セレシア!】


 じっと俺を見つめ、ゆっくりと近付いてくる。

 空よりも濃い青のドレスがよく栄えて、彼女の美しさを際立たせている。

 記憶にある彼女よりも大人びた表情に思わず胸が高鳴った。


 セレシアはソファに腰掛けると、ふぅ、と息を吐いた。


「……イクシオ様……」


 名を呼ばれどきりとする。俺もセレシアに向き直るようにしてソファに腰掛けた。


「今日、王太子殿下のお子様がお生まれになりました」

「……えっ、つい先日成婚したばかりでは……」

「第一子は男児です。きっと立派な後継となる事でしょう」

「けど俺は北の塔に幽閉されたし……」

「私は本当は最初から許していたのですよ」


 えっ、と口が動いた。

 セレシアの言葉に口だけが。


「ユリアーナ様は元婚約者の方の冥福を祈りながら後を追われました」


 侯爵令息は……牢を出てから死んだのか?


「マリアルイーズ様は……ダミアン様のお子なら引き取って養子にするおつもりでした。ダミアン様はいらっしゃいませんでしたが獄中結婚で嫁いでおられましたから。……結局、四人のどの子でもありませんでしたが」


 ダミアンは我が子だと言っていた。父様だよ、って教えてやらなきゃ、と。


「伯爵家のお二人は……引き取り手がおらず、無縁墓地に埋葬されました」


 ひゅ、と息を吸い込む音がする。

 牢を出たあと、奴らは……どうなった? どうなったんだ? 無事に出られたんだよ、な……?


「イクシオ様は……安らかに眠れたのでしょうか……」


【あ……ぁ……ぅ……ぁ……】


 あるはずの心臓は鷲掴みにされたようにばくばくと脈打っている。

 冷や汗と背中にも汗がたらりと滑り落ちる。


 セレシアの言葉の意味を理解したくなかった。

 震える自分の手を見れば白くなり細く消えていく。


「セレシア」


 低い声がして、そちらを見やると知らぬ男がいた。彼はセレシアに近寄りそっと隣に腰を降ろすと肩を抱き寄せた。


「彼はきっと自分のした事を悔いて今頃は楽園で側近たちと反省しながら宴会でも開いているさ」

「まぁ……」


 呆れたように笑うのはセレシアが幼い頃からの癖だった。

 一瞬目を見開いて、細める。その瞬間、空気が和らいでいくのが好きだった。


「あの本、最終巻まで読まれたかしら」

「私の国ではもう完結していたからね。きみの頼みで急いで翻訳させて届けたが、その甲斐があったかな」


 あの本、とは牢に差し入れられた本の事だろうか。だとしたらあれはセレシアが、わざわざ……?


「五年正気でいられれば無罪となる、だったか。

 孤独は老いを加速させる。あんな環境では一年がせいぜいだろう。現に彼の側近たちは一年と持たず遺体となった」


 決定的な事を告げられ、叫び出しそうになった。

 遺体……遺体……!?

 迎えに来たんだ、よ、な? 迎えに……迎えにぃ……!!


「本でも差し入れ、正気を保たせようとしたのか? それとも……」


 セレシアは凪いだ瞳を男に向けた。

 そして伏せがちにスッと反らす。


「殿下は婚約者である私の様子がおかしいなど思いもしてませんでした。

 お気付きになりませんか? 婚約者の体が明らかに痩せていたり地味なドレスを着ていたら、おかしいとお思いになりませんか?」

「確かに。自分と並び立つ婚約者の風貌が衰えていれば気にもなる。美醜などではないぞ。

 ……あまりにも通常と比べて、の話だ」


 セレシアはいつもパッとしないドレスばかりだった。それは好んで着ているものとばかり思っていた。


「私、殿下から婚約者としての贈り物としてドレスをいただいたことがありませんでした。

 王家主催、貴族家主催、時には他国主催に赴く事もありましたが、一度として贈られはしませんでした」

「そんな、まさか……」


 そんなはずはないだろう?

 いつでも俺と揃いの物を用意させていたはずだ。


「それもそのはずですわ。調べてみましたら、全てリリー・ブロッサム嬢のもとへ行っていたのですから」

【そんなはずはないっ!】


 王太子と揃いの物を、婚約者でもない者へ贈るなど、あるはずがない。

 何かの間違いだ。ああ、そうだ、手違いだ。侍従が間違えたんだ。


「手違いかとも思いましたの。けれど……彼はいつもリリー・ブロッサム嬢とサロンに赴き、揃いの物を誂え、私には何も……無かったのですわ」


 セレシアの表情が憂いを帯びる。

 それは嘘を言っているようには見えなかった。


「そんな扱いを受けていた私は、家族から……父から、母から嘲笑されました。婚約者の気持ちを繋ぎ止める事すらできない無能だと」

「セレシア……」


 嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ!!!!

 俺はセレシアを大切にしていた、冗談じゃない!

 リリー嬢に気持ちを傾けたことなど一度も無い!


「私はずっと孤独でした。愛されていないと知って絶望しました。婚約破棄をされた時は悲しくはありましたが……どこかでホッとしてもいました。これで終われるのだと」


 男は慰めるようにセレシアの肩を抱く。

 先程から親密にしているが、セレシアは俺の婚約者だ。何かの誤解があるならば解かねばならない。その為にも二人きりで話したい。

 俺は男の肩を掴もうとして――すり抜けた。


「セレシア、きみの言う通り、もう全て終わったんだよ」


 潤んだセレシアの瞳、見つめ合う男女。

 濡れた唇が残酷な事実を突き付ける。


「イクシオ殿下は北の塔に幽閉されて三年目に命を落とした。最後まで謝罪も無かったと聞く。

 きみの両親はきみの兄上が領地に封じた。もう会う事は無いだろう」


 では、ここにいる俺は……


「ええ、そうね。婚約破棄をされて抜け殻になっていた私の代わりにあなたとお兄様が全て終わらせてくださったのですものね」


 己の手を見ているはずなのに、その先の床が見えている理由は……


「けれど私も……せめて長く孤独で苦しめばいいと中途半端に慰めの本を差し入れたりして……」


 急に視界がぐるぐると回りだす。

 浮遊感と重圧に押しつぶされる様な圧迫感が同時にやってきて立っていられなかった。


「セレシア、あまり自分を責めるんじゃないよ。……お腹の子に障ってしまう」


 男はそっと骨張った大きな手をセレシアの腹に乗せた。

 その瞬間、走馬灯のように駆け巡る己が所業。


 貴族学院に入学して、リリー・ブロッサム嬢と出会い常に一緒にいたこと。


 周りにバレないように、と俺の友人でもある学生会副会長の公爵家令息に変装して二人きりで密室に入っていったこと。

 学生会の会計である侯爵家令息に変装して伴も付けずに街中を歩き回ったこと。王家の護衛たちを撒いて咎めを受けさせたこと。

 書記の伯爵家令息に扮してリリーと共に何度も仮面舞踏会に行ったこと。


 それらが全て彼らの家にバレ、婚約破棄の憂き目にあったことの責任を取らされ廃嫡され北の塔に幽閉となったこと。

 とはいえ彼らも決して身ぎれいではなかったので同時に幽閉されたこと。


 リリー・ブロッサム嬢は最終的に誰にも似ていない子を生み、その子は孤児院へ連れて行かれたこと。

 その後リリー・ブロッサム嬢は貴族家の婚約を破壊したとして処刑されたこと。


 侯爵令息を皮切りに、次々と側近たちが牢で死んだこと、王太子の後継が生まれた日に食べたあれが最後の晩餐だったこと。


 ――あれに毒薬が仕込まれていたこと。



【……そうか、俺は……死んだのか……】


 自覚するとふわりと温かな空気に包まれた。

 優しい、春の光のような空気だった。


 幼い頃、父から怒られたことを思い出した。

 見たこともない表情で、とても怖かったんだ。

 でも本気で心配しているのが分かった。本当にやっちゃいけなかったんだ、って分かった。


 だから、セレシアの小言も、聞き逃さないでちゃんと聞いていたら今とは違う未来が訪れたのかなぁ?


 セレシアを見れば母の顔をして穏やかに笑んでいた。

 今まで見たこともない慈悲深い笑みで優しくお腹に手を当てていた。

 婚約中のセレシアの笑顔は思い出せないが、最期に見た笑顔がこれで良かったと思った。


【ここにいてはいけない……か……】


 自分はもう異物だ。

 ここに来た理由は何かの未練からだろうか。

 けれど、彼女の笑みを見ればその未練すら浄化されていくようだった。


【セレシア……】


 手を伸ばす。けれどもセレシアに触れる前に先から光が消えていく。


 気付いたときには遅過ぎた。全ては終わった事だった。

 もし……もしもきみの忠告を聞いていれば……


 きみと


 ……――――


「セレシア、そろそろ行こう。今日はきみの懐妊の祝にと義兄上がごちそうを用意して待ってくれているんだ」

「ええ、そうね」


 セレシアはつぶやく。消えゆく俺を見てか見ないでか。


「全ては終わった事ですね」


 男の手を取りセレシアは部屋をあとにした。


お読み頂きありがとうございましたm(_ _)m

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