9.毒
「いいね」だって、嬉しいんですよ♫
陽はボロボロになった己の身なりを見て溜め息を吐いた。
(こんな身なりだと、見られただけで問題にされそうだね)
彼は人気のない校舎裏に潜む。
そこは視界の影が多く身を隠すのに適した場所だった。普通は見つからないはずだが――
(跡をつけてきた人間を撒くことは出来なかった、か……)
「陽っ! 大丈夫!? 傷だらけ!」
「如月……」
(何ともヒロイックに登場するものだ)
陽は執念深く付き纏う雪希を内心皮肉った。
「後を追ってきて何のつもり? 別れの言葉なら言ったはずだよ」
「陽は自分からは近付かないと言った。だから、私から近付くことにした」
(そういうことを言っているのではないのだけれど)
「『今すぐどこかに行ってくれ』と言ったら?」
「もっと大騒ぎになる?」
「脅しかい?」
「脅し……かもしれない。私には脅してでも陽の傍にいなければならない理由がある」
「……」
今は状況が悪い。
陽は仕方なく、雪希が傍に控えることを許すのだった。
雪希は濡れたハンカチで陽の傷を拭おうとして手を伸ばす。しかし彼に触れず、結局はハンカチを差し出すのだった。
陽は受け取ったハンカチで血や泥を拭って返した。
「陽、ごめんなさい。すぐに陽に伝えられればよかったんだけど、信用してもらえないと思って……でも、堂島達に襲われるのを見て、自分じゃどうしようもないから羽海さんを呼んだんだけど、こんなにも傷つくことになって……」
「廣瀬を呼んだのは君か」
「そう」
「じゃあ、あの場所にカメラを設置したのも?」
「っ!?陽も気付いていた! そう、私が設置した!」
雪希はぱぁっと表情を明るくした。
「あいつらの暴行現場も撮影できた。これであいつらの悪事を暴くことができる。先んじれば陽の汚名を雪ぐこともできるはず!」
雪希はビデオカメラを戦利品とばかり掲げて見せた。
それはサッカー部のビデオカメラで、今回の謀略を知った雪希は部室からビデオカメラを持ち出して犯行現場に設置し、遠目からではあるが堂島達の悪事をそのレンズに捉えたのだった。
「その映像をどこに公開するつもりなんだい?」
「学校や陽の家族――陽に疑いの目を向けている人達に……陽の悪事とされていることに嘘が含まれていることを知れば、彼等の対応も変わるはず」
陽は「あのさぁ……」と言って、あからさまな溜め息を吐いた。
「見せる相手が学校?家族? 相変わらず愚鈍だね。そいつ等は敵だ。敵にそんな映像を見せたところで意味がない。寧ろ、情報提供するだけ有害だ。余計なことをしないでくれないか」
「でも……」
「やはり君は何も分かっていない」
「えっ?」
「僕がしたいのは名誉挽回なんかじゃない」
「あっ……」
彼が見せるのは憎悪だ。
そして、目論むのは復讐だった。
己の尊厳回復など二の次なのだ。
あらゆる者から貶められた彼は、復讐者となることを――その身を削ってでも貶めた者達を地獄に叩き堕とす道を選んだ。
(私はこんなにも憎悪を抱かせることをしてしまったんだ)
陽に「復讐は何も生まない。やめてほしい」など言える訳がなかった。加害者である雪希に言う資格などあろうはずがない。
(でも貶めるなら、私から貶めてほしい)
それで彼の溜飲が下がれば、この後悔も少しは癒えるだろうか。
「分かった。学校や陽の家族に見せない。私は余計な事はしない」
「……」
「でも、傷の手当はさせて。この程度で私の罪が許されないことは理解している。通りすがりの人でも怪我人の介抱はする、そういうものだと思って」
「何とも過保護な通りすがりの人だね。保健室は騒ぎになるから嫌だな」
「では、私の家に。私の家が嫌ならば、陽の家でもいい。早く手当しないと」
「通りすがりの人が手当をするためにお互いの家に行くのかい?」
雪希の言っていることは支離滅裂だった。
それでも――
「お願い」
雪希の仄暗い瞳を見て、陽は了承した。
* * * * *
陽の家に向かう一路、雪希は陽から少し離れて彼の後をついて行った。
そして、彼の家に上がろうとする時、今度は疚しさで雪希は胸の軋みを覚えた。
(彼の優しさにつけ込み図々しく家に上がり込む悪女。それが私の本性……)
雪希は未だ陽にしがみつく己の醜汚な姿を彼の家族に見られたくなかった。
しかし、家人はおらず、雪希はそっと安堵の息を吐いた。そして、久しぶりに彼の部屋に入って更にホッとした。
独特の安心する香りに満ちているのは相変わらず。
そして、壁に掛けられたフォトフレームは――隅々まで貼られていた想い出の写真は今は全て剥がされていたが、それでも雪希の求めるモノがまだそこに残されていた。
(よかった。陽の部屋はやっぱり陽の部屋だ)
再びそのフォトフレームを彼との想い出で埋める――それは雪希が陽の傍に戻れる可能性だった。
「それじゃあ、救急箱を持ってくる!」
雪希は目を輝かせ、道中密かにウェストを折って少し短くしたスカートをひらめかせながら陽の部屋を出て行った。
そして、勝手知ったる様子でリビングの戸棚から救急箱を取り出し、すぐさま陽の部屋に戻る。
少しでも可愛い自分を見せたくて、忠犬の様に彼の前に正座して――
そこで雪希は伸ばす手を止めた。
「どうしたの? 手当をしてくれるんじゃなかったの?」
「う、うん……」
「なに?」
「陽に触れてもいいのか悩んだ」
「先程もそうだったけど、触らなくてどうやって手当をするの?」
「う、うん……ありがとう」
「それは何のお礼?」
「わ、分からない……」
何とも要領を得ない感謝の言葉だった。
雪希はシャツを脱いだ陽の身体に手を添えて泥や血を拭う。
そこで雪希は気付く。
確かに傷だらけだが、その傷は擦り傷程度のものだった。蹴り上げられた胸も骨が折れている様子はなかった。
それは堂島達に負けず彼等の狂拳をいなし続けた証左だった。
傷であれば、むしろ気になるのは左手首の――
雪希は傷を消毒して絆創膏を貼り、狂拳を受け止め続けた患部に湿布を貼って包帯で固定した。雪希による手当はあっさりと終わってしまった。
(彼は強い。身体だけでなく心も。これだけの暴力を受けても折れず、逆に復讐の気持ちを抱ける。私とは大違い)
そして――
(私は陽にとって必要ない存在……)
陽にとって今の雪希は赤の他人なのだろう。
その証拠に、彼に触れても『幸福』を感じることはなかった。
彼は触れる者に『幸福』を与えることができた。
しかし、それは彼に触れれば必ず得られるものではない。陽が相手の『幸福』を願う必要があるのだ。
そして今、陽は心を閉ざしている。雪希を求めず彼女の『幸福』を願ってもいなかった。
それは当然のこと。彼にだって『幸福』を恵む相手を選ぶ権利があるということだ。
(残念がるな。陽の傍に戻るために償い続けよう。もっともっと尽くそう。そのためにも――)
「陽、話がある。もう少しだけ時間を頂戴」
そして、雪希は居住まいを正した。
雪希は昨晩知った堂島の策略を語りだした。
「堂島達は名無し君への暴行を理由に陽を退学にするつもりだった」
ちなみに、陽が名無し君に反撃するか否かは余興でしかなく、いずれにしても二人一緒にリンチにした上で、全ての責任を陽に押し付けようとしていた。
「陽が逃げても一緒。後から名無し君に暴行を加えてそれも陽のせいにするつもりだった。名無し君と陽が争っている姿は監視カメラに残っているから」
「そこまで行くと何でもありだね」
陽は思わず嗤ってしまった。
薄ら寒いのは、堂島の企みに学校側も全面協力していることか。
「でも、教師の羽海が干渉してしまったため、堂島の計画は頓挫してしまった、と」
「事が起こる前に言うべきだった。ごめんなさい」
雪希は地面に頭を擦り付けて謝った。
「事前に如月に言われても信じなかっただけだよ。結果は変わらない」
雪希を信じない――その言葉は雪希の心を痛めつけた。
しかし一方で、陽の言うことも尤もだった。未だに雪希は堂島の恋人の身分であり、いわば敵対勢力の彼女の言うことなど陽が信じられる訳がなかった。
だから、雪希は自らの覚悟を口にした。
「やっぱり堂島と別れる。縁切りをする」
単に堂島と別れるだけでない。雪希は周囲との関係も清算するつもりだった。
「関係ない僕になぜ言うの?」
「それは……」
「……」
「……」
「……まぁ、いいや。せっかくだから堂島と縁を切ろうと考えた理由を聞こうじゃないか」
雪希としても是非に聞いて欲しかった。
彼女は「ありがとう」と御礼を言った。
雪希は堂島に対する悔恨と憎悪を吐き出す。
「今回の出来事でよくわかった。陽が言ってた通り、堂島は毒」
「私に侵蝕するだけでなく周囲も巻き込んで穢してしまう。ううん、既に大切な友人が救えないレベルにまで汚染された」
「堂島は私を脅かす敵、憎むべき害悪。陽を貶める憎悪」
「私はあいつを許すことができない。私もこれからアイツに復讐するから、陽にその宣言をする」
「ぎりっ」という雪希の歯ぎしりの音が室内に響く。
陽は雪希の独白を静かに聞いていた陽は、聞き終えた後に息を吐いた。
「それで? 脅威だの毒だの大袈裟に言うけれど、それは取り込んだ君の自業自得だろう」
陽の反応は雪希の想像以上に冷めたものだった。
「それに、償いとして自身を貶める様を披露してくれるのではなかったのかい?」
「それは……確かに私は逃げている」
「諦めるのかい?」
「ううん、私は諦めたくない。陽に誠意を示したい」
「そう? でも、堂島からは逃げる道を選ぶんだ? 自分の宣言と逆行してるよね」
「それは……」
口籠る雪希に、陽は嘲笑を浮かべた。
「逃げたければ逃げればいいさ。止めはしない。ただ、僕はそんな君を軽蔑するだけのこと」
「っ!?」
「当然だろう? 裏切り者が己の行為を顧みず逃亡を図るのだから。軽蔑するのは当然さ」
「っ! っ!!」
今や「軽蔑」という言葉は雪希にとって恐怖の言葉となっていた。その言葉は弱りきった雪希の心を更に追い込んだ。
(陽に軽蔑されたくない。でも……)
その為には、雪希は自ら破滅の道を歩む必要があり――
(あぁ……私は想い人からも毒を盛られてしまった)
陽はこの毒を盛る為に雪希の接近を許したのだろうか。
(これが私に対する復讐……私はどこまでも救われない存在……)
雪希の心を見透かす陽の視線が突き刺さる。
(軽蔑されたくない。でも――)
雪希はきつく目を閉じた。
そして、次に目を開いた時――
「今一度、私に踏み出す勇気を与えて欲しい」
心弱き雪希は元幼馴染の優しさに縋った。
「自分を貶めるのは君の自己満足の為だろう?」
「……」
「なぜ僕がその手助けをしなくちゃならないんだい?」
「……」
雪希だって陽が簡単に応えてくれるとは思っていなかった。
それでも、黙って俯き彼の続く言葉を待った。
「……」
「……」
「…………」
「…………」
「……君は何を望む?」
垂らされた蜘蛛の糸――
雪希は顔を勢いよく上げた。
(抱きしめてほしい。キスしてほしい。嘘でもいいから、愛してるって言ってほしい)
しかし、陽の仄暗い瞳は雪希の煩悩をも見透かしていて――
(それらを言うことすら憚られる。烏滸がましすぎる。厚かましすぎる……どこまでも図々しすぎる)
だから、せめて――
「嫌いな男と付き合い続けて苦しむ様を見せてくれるなら、君の願い――多少は応えてあげよう」
「そ、それは――」
「償いたいんだろう? 君の贖罪を受け入れるよ」
「っ!?」
陽が提示した見返りは雪希が望んでやまないものだった。
「償いたい。是非、償わせてほしい。それで私は頑張れる」
雪希は酷く歪んだ笑みを浮かべた。
そして――
「私は堂島と一緒に奈落に堕ちると誓う」
彼女は自ら地獄の窯に身を投じたのだった。
拙作を読んでいただき、ありがとうございます。
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作者の今後の執筆の励みになります。