6.精一杯の償い
古めかしい公営団地の中、その一角にある小さな公園は陽にとっても馴染み深い場所だった。というのも、雪希の家はその団地の中にあり、その小さな公園は彼等が幼い頃によく遊んだ場所だったからだ。
その為か、陽は学校からの帰り道にこの公園を横切る事が習慣化していた。
それは雪希と疎遠になってしまった今でも同じで――
「陽! 待って!!」
陽は大声で呼び止められて立ち止まる。声だけで誰か分かったため振り返らない。
夕暮れ時で既に薄暗いのに、シルエットだけで陽であると迷いなく呼び止める相手も大概だろう。
「これも元幼馴染がなせる技かな?」
陽は呆れを呟いた。
「待って!!」
雪希は再び静止を叫んで陽の横を駆け抜ける。そして、彼女は両手を広げて陽の行く手を阻んだ。
彼女は破れたブラウスと開けた素肌をぶかぶかのジャージの見頃を閉めて隠していた。その様は何とも不格好だ。
「そんな姿で追いかけてきて、そうまでして自分の不幸をアピールしたかったの?」
「違う……陽、私は……」
「あと、さっきも言ったけど、僕達はファーストネームで呼ぶ関係じゃない。やめてもらえないかな?」
「私……フレンドリー……つい、下の名前……呼ぶ……許してほしい」
「もっと後悔していればよかったのに。また不快な顔を見る羽目になってしまったじゃないか」
「ごめん、なさい……」
雪希は息を切らす。彼女の額からは汗が吹き出て目元を伝った。
雪希はそれでも陽に視線を向けて決して逸らさなかった。
「なぜ追いかけてきたんだい?」
(なぜ? そんなの決まってる)
「謝りたくて……ちゃんと、償いたくて……」
(本当は陽と恋をしたい。ううん、その先だって望んでいる。でも……)
その先が叶わないことを雪希は知っていた。
(だから、まずは謝ろう。陽の傍に戻ることを許してもらおう)
――そして、幼馴染に、親友に戻ろう……
「まだ、諦めてないから……このジャージが勇気をくれたから」
「学校指定のただのジャージだよ。意味なんかない。そんなに気に入ったのなら餞別代わりにあげるよ」
「いや、返す。そして、また借りたい。それを繰り返したい。そんな関係に戻りたい」
「ジャージの貸し借りって……君のフェチを押し付けないでくれないかな」
「幼馴染なら当然。親友なら当たり前」
「その論理は理解不能だよ。あと、さっきも言ったけど、『元』だ」
陽は決別済みを強調した。
それでも、雪希も怯まなかった。
「陽に不快な思いをさせてるという認識はある。でも――」
雪希は眦に力を入れて次の言葉に想いを込めた。
「お願い。償うための時間を、猶予を、チャンスが欲しい」
これは雪希にとってイチかバチかの懇願だった。
いや、賭けにすらならない無謀なおねだりだったかもしれない。
それでも――
「チャンスを貰うまで諦めない」
(何度でもお願いしよう)
――今日が始まりだ。
(どれだけの時間がかかっても追いかけよう)
――振り向いてもらうまで追いかけよう。
(そして、チャンスを貰おう)
――チャンスを貰うまで諦めない。
(1回でもチャンスを貰えたら――)
――貰えたら?
その時、陽はふっと息を吐いた。
「じゃあ、どうやって償うと言うんだい?」
「えっ?」
「君が言ったんだろう? チャンスが欲しいと。気持ちを汲んであげようと言ってるんだ」
雪希は「うっ……」と言葉に詰まらせた。
自分で頼んでおきながらあっさりと譲ってくれるとは思っていなかった雪希は、手に入れたチャンスの大きさに戸惑った。
「それで? 何をしてくれるんだい?」
「それは……うぅ……何でも、する……」
「何でもとは?」
「……何でも……は、何でも……」
「答えになってないなぁ。もしかして、何も考えてなかったの?」
慈悲のない言葉と値踏みする様な眼差しが雪希に突き刺さる。
(償いたいという想いばかり暴走させて、その中身すら陽に甘えていた。本当に恥ずかしい)
しかし、このままたじろぐわけにはいかなかった。
雪希は己の想いを即興で言葉に変えた。
「もう……陽を一人にしない」
「何を言ってるのさ。君が何をしようと僕の孤独は変わらないよ」
「そんなこと……ない」
陽を孤独にしたのは――
陽から親友を奪ったのは雪希自身だ。
(だからこそ、私には陽の孤独を癒やす義務がある)
「私が陽を孤独から解放する」
「出来もしないことを言うのは感心しないね」
「そんなことない」
(出来るか出来ないかじゃない)
「じゃあ聞くけど、どうやって僕の孤独を癒してくれるんだい?」
(革新的なアイデアを持っている訳じゃない。それでも――)
「毎日、お弁当を作る。私、料理上手」
「いらない」
「肩を揉む。気持ちいい」
「おじいちゃんの世話みたいだ。いらない」
「鞄持ちをする」
「舎弟はいらない」
「身の回りのお世話もする」
「家政婦もいらない」
「毎朝謝る……毎晩謝る」
「ただ重くて気持ち悪い。いらない」
雪希とてふざけている訳ではない。大真面目だ。
しかし、彼女の思いつきの提案は陽によって悉く却下された。
それでも、彼女は思いついた端から口にすることを止めず――
「さっき言ったの全部する。ずっとずっと――そして、ずっとずっと傍にいる。私は陽を救いたいから――」
「あのさぁ――」
陽の声が一層低くなる。
「『救いたい』だって? そもそも、僕は助けて欲しいなんて一度でも言ったかい? 君の助けがないと駄目なほど僕は軟弱に見えると?」
「陽は弱くない。強い。でも……」
「でも何? いい加減、君の偽善を押し付けないでくれ」
「偽善かもしれない。それでも――」
それでも、雪希は譲れなかった。
「今度は何があっても陽を守りたい。陽を傷付けてしまったから」
「今度は陽の信頼に応えたい。陽を裏切ってしまったから」
「今度は陽の心を癒やしたい。だから――」
――だから、陽の傍にいさせて。
しかし、雪希の想いは陽には響かない。
「傍にいることが不快だと言ったはずだよ。付き纏われると思うだけで気が狂いそうだよ」
「よぉ……」
(よぉ……)
(よぉ…………)
(よぉ………………)
「はぁ、はぁ、はぁ……よぉ……」
次第に上手く呼吸が出来なくなり、雪希は酸素を求めて肩を荒く上下させた。
(どうすれば……どうすれば、この気持ちを受け取ってくれる?)
(この気持ちを受け取って欲しいだけなのに……)
(陽の為だったらなんだって出来るのに……)
(私は何をしたら……)
(私は何を捧げれば……)
そして、酸欠で脳をバグらせた雪希は――
「陽の傍にいさせてくれるなら、私は……私のハジメテを陽に捧げる」
この期に及んで色仕掛け――
どこまでも頓珍漢な願望――
雪希がしたのはロマンもデリカシーも無い閨の誘いだった。
言った途端、雪希は「あっ」と声を漏らして顔を真っ赤に染めた。
「はぁ、答えになってないじゃないか……それで? それをすると、君はどうなるの?」
「ファーストキスも捧げて……幸せになる?」
言葉にして想像すると、雪希は幸せな気持ちになった。
陽は再び嘆息をついた。
「君のキスなんか……身体なんかに興味はない。そもそも、なぜ、君の身体にそれほどの価値があると思ったのかも謎だね?」
艶やかで神秘的なシルバーブルーの髪、瑞々しく適度に厚みのある唇、着込んでも隠しきれない豊満な胸に、恐らくは脱いだらそれ以上に魅力溢れているであろう美女――雪希を知るものならば、彼女から想いを寄せられ、ましてやその先を誘われるなど垂涎モノのシチュエーションに違いない。
しかし、今の陽には雪希の一途など邪魔でしか無かった。
「そ、それじゃあ……」
「もういいよ。この際、僕の孤独なんてどうでもいい。それで君の願いは何? 君は何をしたいんだい?」
「私は……誠意を見せたい。言葉だけじゃなくて態度で陽に反省していることを示したい。そして、仲直り……したい」
誠意とはいかにも大仰な言葉だが、裏切り者の雪希には最もしっくりくる言葉だった。
「それで? 仲直りはともかく、先程までのが君の考える誠意なのかい?」
「誠意……じゃないかもしれない」
雪希は漸く己の過ちに気付く。
「じゃあ、誠意って何?」
「それは……」
「はぁ……」
陽は三度ため息をついた。
「誠意というのはね――」
――誠意とは、条件を付けず見返りを求めずその全てを相手に委ねることだ。
「自分を貶めてでも全てを曝け出す。それが誠意だよ。辞書で調べてみたら?」
「自分を、辱める……」
それは破滅への道に違いない。
誠意の定義とは何とも自虐的なものだった。
雪希はスカートの裾を握りしめた。
「私は誠意を、自分の貶める姿を……私の裸を、今ここで見せる。私の痴態を撮影して。それで私を強請って」
(私だって、陽と肌を重ねる関係になるのは大賛成。でも、見せしめで肌を晒したい訳じゃない)
――それでも……
(それでも、一度は失った陽との繋がりを再び得られるのであればと、またとないチャンス)
「それが君にとっての誠意?」
雪希は一拍置いて頷いた。
そして、彼女は傍のベンチにふらふら近づくと着込むジャージを名残惜しそうに脱いだ。
「どこまで脱いだら……見せたらいい?」
「逆に聞くけど、君はどこまで誠意を見せたいの?」
雪希は眉間にシワが寄るほどきつく目を瞑った。
それから、彼女はスカートのファスナーに手をかけた。
「長くなっても……いい? ただ脱ぐだけじゃなく……貴方への想いも乗るから長くなる」
陽は答えない。何も言わない。
だから、雪希は――
――ストン……
雪希のスカートが地面に滑り落ちた。
「胸も……見てほしい……」
雪希は続け様に破り裂かれたブラウスも脱いだ。それから、ジャージをぎゅっと抱きしめると、雪希は脱いだ衣服をベンチに畳んで置いた。
純白のブラジャーとショーツが露わになる。それらには雪華の刺繍が施されており雪希によく似合っているが、今は彼女の熱で溶けてしまわないかが心配だった。
それほどに白さが際立つ雪希の肌は熱を帯びて赤く染まり、汗でしっとりと濡れていた。
雪希は視線を反らし、強く主張する己の胸と聖域を両手で隠した。
「どう?」
雪希は熱の籠もった視線を陽に向けた。
雪希は自分磨きに励み続け、艶やかで魅力的な身体を獲得した。
シミ一つないすべやかな肌を見て綺麗だと思ってくれるだろうか?
起伏の大きなこの身体に興奮してくれるだろうか?
(陽に少しでも興味を持って欲しい。欲情のままに触れて欲しい)
自分磨きの全ては陽を魅了する為だった。
しかし――
「それって、汚点を晒すことになってるの?」
陽の反応は雪希への罵りだった。
「え? あの、その……」
雪希は今度は羞恥で顔を赤らめた。
しかし勿論、雪希とてこれで終わりにするつもりはなかった。彼女は煽られてムキになって、更なる恥晒しを敢行した。
「本当の私を見せる。本当は恥ずかしい私を白状する」
雪希は隠す手を下ろし、自身の胸を手で示した。
「身長は164センチで体重は49キロ……あと、スリーサイズを言う。上から91・58・87で……ブラのサイズはGカップ……これだけ大きいとお店で選べるランジェリーが少なくなる」
「ただのグラビアアイドルの取材だね」
「うぅ……胸は中学3年生位から……その……自分で慰める様になってから……急に大きくなった。最近、慰める回数が増えてる……」
雪希の顔はもはや煙が見えそうなほど真っ赤だ。
「私は性欲が強い。特定の人を思い浮かべて……いつもしている。どうやっているか……これから見せる」
雪希はそう言ってブラジャーのカップに手を添えた。
(私は何をしているのだろうか)
普段この時間、この道に人通りはない。だからといって誰も来ないという保証はない。
しかも、ここは団地の中だ。暗いと言っても雪希を知る近隣の住人に己の露出を見られてしまうかもしれない。
(それに、これで陽は満足してくれるのかな?)
今の雪希はただ辱めを受けているだけだった。
それでも、雪希は行為を続けた。
「下着の上から輪郭に沿って胸を触って大事な所も擦ったりして……んっ……」
行為は加速していき、雪希の思考は徐々に鈍くなっていった。
「んっ……」
敏感な所を掠って身体が跳ねる。
甘い吐息が思わず漏れる。
ふわふわした気分になってくる。
いつもより鋭敏になっている自分がいた。
それはセクシャルな理由だけではなかった。
(そうか。私は貶められて……陽に貶められて嬉しいんだ)
雪希は想い人に同じ落ちぶれた立場を求められた悦びで身体を震わせた。
(これが償い――)
堕ちていく気持ちに彼女の欲も許容量高を超えて高まっていった。
(触って欲しい……触って欲しい……陽に触って欲しい――)
「はふぅ……♡」
変な声が出るだけで言葉を発することができない。
代わりに雪希は行動で恥ずかしい自分を白状してみせた。
(よぉ……よぉ……よぉ……♡)
雪希は熱のこもった視線を陽に送って――
不意に陽が雪希の眼の前まで近づいてきた。
「よぉ?」
――ぽすっ……
その左手が軽く頭に載せられる。
「もういいよ」
「あっ……」
その時、陽から慈悲をもらえた気がした。
頭に伝わる彼の体温とは異なる温もりは、彼女が求めてやまなかったもので――
陽はかつて、「天使様」という二つ名で呼ばれていた。それは、彼が触れた相手に『幸福』を伝える異能を持ち合わせていたからだった。
その『幸福』は得も言われぬもので――
しかし、確かに感じ取れるもので――
願うだけの安心を、喜びを、そして勇気を与えるもので――
「よぉ……」
それはほんの僅かだった。
ほんの僅かな『幸福』だったが――
雪希の瞳から思わず涙が溢れ頬を伝った。
気が抜けて腰砕けし尻もちをついた。
お尻に痛みが走る。それでも、雪希は満足げにしどけない笑みを浮かべた。
「よぉ……よぉ……」
雪希の瞳のハイライトが仄暗く揺れた。
(私の償い……まだ間に合う?)
そして、雪希は陽からのお褒めの言葉を待って――
「いつまで経っても先に進まない。つまらない」
陽から返ってきたのは失望の声だった。
「誠意とは全てを曝け出すことだと言ったよね。でも、君は隠してばかり――はっきり言ってがっかりだ」
彼の言う通り、雪希がしたことは下着姿のまま悦楽に浸っただけだった。
結局は綺麗なままの自分を彼に見せようとする。陽からすれば、雪希の反省は擬態にしか見えなかったのだ。
「その程度の覚悟だから堂島に騙される、大事な時に何度も判断を誤るんだ」
先程までの恍惚とした雪希の表情は一瞬にして失意で青ざめたものに変わった。
そして――
「さようなら。二度と僕から近付くことはないだろう。そして、君達を決して許さない」
「待っ…! 今、見せっ……!!」
しかし、雪希は腰を抜かして立ち上がることが出来なかった。
「待って!!」
雪希は手を伸ばすが、彼女の懇願に陽が立ち止まることはなかった。
「待って!!」
振り返ることもなかった。
「待って――」
こうして、雪希は見捨てられた。
拙作を読んでいただき、ありがとうございます。
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作者の今後の執筆の励みになります。




