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峡谷の底の恐怖

作者: 黒森牧夫

 春が、大峡谷の上で大爆発を起こそうとしていた。禍々しい紫に侵蝕されつつある真ッ赤な天空は、だぶついた血を腹の中で揺らしているかの様に不穏な動きを見せ、ぴりぴりと乾いて、微かに花粉を混じらせた大気にブラック・ジョークの様な挨拶を投げ掛けていた。谷には見渡す限り人っ子ひとりおらず、餌を求めてうろつく鳥さえ一羽も飛んでいなかった。私が躊躇いつつもすっと息を吸い込んで思い切って大きな声を出して呼び掛けると、途端にわっと云う巨大な谺が、不規則な余韻で私の声を弄ぶかの様にあちらへこちらへと不吉にスウィングを繰り返し、只消えるのではなく、何処か私の知覚の及ばぬ物陰へ底意を持って隠れて行く様に、こそこそと静まり返って行った。谷の底は見通しが悪く、完全な闇が広がっている訳ではなくて、寧ろ赤茶けた岩肌の凹凸が極く微かにぼうっと判然としない儘浮かび上がっていたのだが、それが却って何か有らぬ想像を惹き起こし、不気味な空と一緒になって秘めやかに企み事を企んででもいるかの様に、奇妙な対照を成して地獄の奈落めいた相貌を曝け出していた。

 幾ら私が待ってみても、澄ませた耳に(いら)えは届いては来ず、眼下からは、果たして何ものの気配も漂っては来なかった。足下を覆い尽くす手で触れられそうな程の質感を持った闇、と云うよりも、寧ろ向こうからこちらに手を伸ばして来そうな闇からは、蛹の様に固くなった沈黙が響いて来るばかりで、先程私をあれ程得体の知れない恐怖に陥れた、人とも、猫とも、豚とも、何物とも正体の掴めぬ鳴き声の出所は、杳として知れぬ儘だった。だが私の脳裏には閃いた不快な直観が有った。それは、あの声に次々と付き従った、水潜りの波紋が徐々に広がって行く様な静かな余韻は、この硬い岩々に反響して出て来たものとは全く異なるものなのではないか、と云う疑念だった。確かに、たった今私が発した声が呼び起こした谺は、先程聞こえたものとは明らかに違っていた。位置関係に依って響き方に違いが出て来ることは有るだろうが、先程聞こえて来たのは、それまで私が聞いたどんな谺をも思い起こさせる点を、微塵も持ち合わせてはいなかった。それはまるで私が見たことも聞いたことも無い法外な空間に、永劫を単位として響き渡っているかの様な音だった。

 突然、寒気が来るぞ、と云う確かな予感があり、その一瞬後、何分かの一秒後に、実際に寒気が襲って来た。それはチリチリと肌を焦がして行く様なこの押し殺した陽気の中にあっては酷く場違いなものに思われたが、大地の底で〈絶望〉が呼吸して瘴気を吐き出している様な冷たい感触は、私を新たな恐怖の毛布でひたひたと纏わり付く様に(くる)んで来た。私はこの情景から一歩身を引き、後になって思い出のとひとつとして語れるようにその場の全体の印象を何とか纏めようと言葉を探した。だが私が何か思い付こうとする度に、この大峡谷の天地の余りの巨大さが明白な圧力と成って、私の思考を千々に乱した。

 私は、何か確かな手触りを探し求めるかの様に、傍らに突っ立っていた驢馬の背に片手の掌をそっと押し当てた。薄い毛皮に覆われた大きな筋肉の塊はしっとりと汗ばんでいて土臭かったが、何故かまるで彫像にでもなったかの様にピクリとも動かなかった。もどかし気に掌に神経を集中させてやっと、それが生きて血を通わせて呼吸しているのだと云うことが感じられた。何故そんなことをするのか、と云うこれまた場違いな疑問が数瞬私の頭を占めたが、それは直ぐに、続く警戒の念によって打ち払われた。

 薄い雲間に隠れて化膿した火傷の様な無残な躯体を長々と横たえていた陽の光が、肉眼でその動きが追跡出来る程の速さで、奇妙な変容を始めた。赤が紫の束の中に侵入し、混じり合い、毒々しい色彩を所々に作り上げ乍ら、奇妙に心騒がせられる予感を孕みつつ、ゴツゴツした隆起に覆われた地平線を埋め尽くして行ったのだ。空は巨大な眩暈を起こして正常な焦点を失い、地は禍々しく古々しい踊りを踊る影達によって蹂躙されて行った。体の芯からゾッとさせられる様な冷たい熱を放つ幾つもの光条が私の視界を飛び交い、その様はまるで世界を切り刻む為に大陽から差し伸べられた何本かのナイフが、ビュウビュウと物凄い音を立て乍ら次元に切り傷を作って行く様であった。

 私は訳も分からず逸ろうとする心臓を何とか鎮めようと深く静かに呼吸を繰り返し乍ら、とにかくも下へ下りてみようと崖から振り返った。ざっと見たところ、道と思しきものは三本通っている様だった。右へ二本、左へ一本、右の崖の外側の道は険しく、驢馬を連れていてはとても下れなさそうだった。内側の道はややなだらかではあったが、下五十メートル程の所で大きな岩塊をぐるりと更に内側へ回り込んでいて、もっとその下はどうなっているか分からず、ひょっとしたら可成り遠回りになるかも知れなかった。左側の道は直ぐ迫り出した岩場の陰になって見えなくなってしまい、下の様子は判らなかったが、略垂直に近い崖が続いているところから推測すると、途中で切れてしまっているか、或いは難所ばかりで休める所も無い恐れも十分に有った。私は右後ろから回り込んで行く道を取ることにした。

 妙に力の入らない体を動かして私は徒行を再開したが、驢馬が何故か仲々言うことを聞いてくれず、その場に釘付けにでもされた様に、一歩も動かずに凝っとしていた為、私はそいつを歩かせる為に何度も叩いたり怒鳴ったりしなければならなかった。驢馬の歩みは如何にも気が乗らないと云った風で遅々として進まず、内心の焦りとも相俟って私は屢々癇癪を起こしそうになった。

 約三百メートルの高さの崖を下り切るのに凡そ二時間を要した。幸いにもその路は途中何度か細くなったり上に向かったり迂回しなければならない大岩に塞がれていたりはしたが、ずっと下まで続いていて、他の道は探さなくても済んだ。傾斜は大体十五度から三十度程度で、これでも一応は人の通る道らしく、もうすっかり掠れて殆ど読めなくなっていたが、人や騾馬の足跡が所々に付いていた。だが足下の赤茶けた砂利は、一足進める毎に、ジャリジャリとまるで何かの獣が固いものを食べているかの様な不快な音を立てて沈み込んで行き、一寸でも歩みを止めてしまえば、その儘蟻地獄の罠に掛かった蟻の様にずぶずぶと地中深くへと引き摺り込まれてしまうのではないかと云う気味の悪い妄想を掻き立てた。乾いた、風ひとつ無い空気の中で、全てが、余りにはっきりしていた。目に見えるもの全ての輪郭が、まるで誰かが絵筆でなぞったのかの様にくっきりと浮かび上がり、曖昧なもの、不明瞭なもの、鮮明でないものは、全て排除されてしまっていた。だからだろうか、荒涼とした一面の情景には生けるものの徴候は殆ど無く、僅かに、所々申し訳程度に、名前すら碌に判らない奇怪な姿をした草花が散らばっていると云った程度だった。光か、影か、或るものかそうでないかが截然と区別され、ひとつの影が別の影を押し退けてぎっしりと犇めき合っているこの世界に於ては、生命――この生成し、形をぼやけさせ、作り上げ、時間の経過と不可分に絡み合って存在を成立させている過渡的な現象は、恐らく居場所を見付けるのが難しいのだろうと思われた。ここは峻厳たる全か無かの領域なのだ。

 不意に、孤独の隔絶感が私の体を固く、熱く凍り付かせる瞬間が何度か有った。この風景は私を歓迎してはいない、と云う身を削られる様な直観が、ぎしぎしと音を立てて憂鬱に沈む私の脳の血管の中を黒く濁らせた。この途方も無く巨人的な無人の世界が、私と同じ性質を共有する存在の次元に在るとはどうにも信じられなくなった。果たしてこんな非人間的な凄みの有る寂しい大峡谷の全てが、私と同じ法則によって動き、私と同じ物質によって組み立てられ、私と同じ理法をその身に感じているなどと云うことが有り得るものなのだろうか? 私はこの見渡す限りに広がる厳格な世界が、私と一体であるなどとはどうしても思えなかった。勿論その感情の背後では、私の裡に眠っていた生命体としての長い長い何億年にも亘る記憶の集積が影響しているのに違い無かった。確かに、こうした荒々しい自然環境の中では、大多数の生命体が生き延びる為に有用なものは殆ど提供されないので、こうした環境に対して反撥や嫌悪、敬遠したい気持ちが生まれて来るのは当然のことではあるのだろう。この場所は私と云う一個の生命体に、その連綿たる厖大な歴史を通じて敵対しているのだ。………だが、そこには確と口には出来ない乍らも、何かそれ以上の恐怖が潜んでいる様な予感がしてならなかった。単に私の生存に無関心と云うだけではなく、もっと積極的に、私に害を為そうとしている何かが、そこに居る………。あの禍々しい色彩を流している空が、この私と連なっている(、、、、、、)と想像しただけで、酷く穢らわしいものを腹の中に無理矢理に詰め込んでしまった様な吐き気が込み上げて来て、その時、その陰に陰気な笑いを浮かべる何者かが、姿は見えないまでも何処かに隠れている様な気がした。

 私が不安定な足場にばかり気を取られている間にも、流血を起こした空は益々奇怪な文様を描いてのたうち回り、そこに何か生命に成ろうとして成り切れなかった混沌とした動きを現出させ乍ら、やがて夕闇が訪れる前の一時の悍ましい法悦を貪っていた。照らし出された岩ばかりの大地はくぱっと硬い内臓を一面に打ち撒けたかの様に醜悪な美をも窺わせ乍ら鋭利に輝き、私はその不気味に変幻する様子に時々ちらりと心奪われ乍らも、自分が丁度スクリーン一枚で隔てられているかの如くに、その大パノラマが私の生とは関係の無い所で営まれていることを意識していた。景色は痛々しい位に沈み切っているのに、私の視界には何故か奇妙な靄が掛かった様になっていて、私自身は何処か全く別の所に居て、私の眼球をカメラとして送られて来る映像を、遠くからぼんやりと眺めているかの様だった。私は何度も足下を掬われたが、どれも大事には至らず、実害と云えば一瞬肝を冷やし、騾馬がまた先へ進むのを嫌がった位だった。何れにしろこんな険しい崖の途中で立ち止まったところでどうにかなる訳でもない、私は一歩一歩慎重に谷底へ向かって下降して行った。

 もう後五十メートルばかりと云う所になって、私と騾馬は影の領域に入った。余りにも急に真っ暗になったものだから、慣れるまでほんの数瞬だが何も見えなくなった。それから前方にぼんやりと赤茶けたゴツゴツした塊が朧気にその凹凸を暗示しているのが見えて来た。陽の当たっている部分と当たっていない部分との差が余りにも激しいので、夕闇の時刻を素っ飛ばして一瞬で深夜になってしまったかの様な錯覚を覚えたが、辺りにまだ残っている乾いた熱気は、そこがつい先刻までは日に照らされていたことを物語っていた。だがその熱気も下に下りて行く内にはっきりと肌で感じ取れる程に薄れて行き、この季節にしては信じられない位の冷気が谷底に沈殿していて、それが地表を這う様に漂い昇って来るのが判った。

 不図周囲を見回してみると、その冷気の原因が解った。丁度上方に大きな岩塊がぐいっと危なっかし気に迫り出していて、その儘大きな影を下方世界に対して投げ掛けており、その他にも左右前後からまるで巨大な手が谷の空虚を埋めようと、或いは何かを掴み取ろうとでもしているかの様に岩塊が迫り出し、谷底の空間を囲い込み、恐らくはこの辺を半ば洞窟の様な状態にしているのだった。影に影が重なって判別し難いので、上から見た時には判らなかったのだろう。私と騾馬は今やその幾重にも天蓋を架けられた光の差し込まぬ広大な岩の回廊の内側に入り込んでいたのだ。

 私は何だか熱に浮かされた様にぼうっとなって、谷底へ降り立った。ぐいっと手に持った手綱が引っ張られたので振り返ってみると、騾馬が怯えた様にひと声大きく嘶いた。滅多に鳴かない大人しい騾馬だったのだが、そいつはその儘後退りを始め、私がそれを許さないと分かると、その場で足踏みを始めた。こんなに落ち着かない様子を見るのは初めてだった。私は鼻面を優しく叩いてやって何とか宥めようとした。数分間鼻面を撫で続けてやっていると、まだ完全には怯えが抜け切ってはいない様で、時々足踏みを繰り返しはしたが、私が手綱を引くと、諦めたのか大人しく歩き出した。

 谷底の足場は道と呼ぶには些か隆起が激しく、前進は困難を伴った。私は取り敢えず少し高めの所に立って周囲の状況がどうなっているのか確認しようとした。所々隙間からまだ高い日光が差し込んで来てはいたが、それは空の色を反映しているかの様に何やら赤剥けた皮膚の様な無惨な色彩を岩の上に貼り付けていて、どうにも薄気味が悪かった。ものの形はぼんやりと影の中に浮かび上がっていて、何とか大雑把に見渡せる程度だった。距離感や位置関係が掴み辛かったものの、凡そ次の様なことが分かった。半洞窟の回廊は左右二手に伸びており、左手は地面の盛り上がりが続いた後、更に深い闇の中へと溶け込んでいた。右手は三、四十メートルばかり先へ行った所で右手に折れており、その先から、仄かな鬱血した様な光が差し込んで来ていた。右手の方が行手を塞ぐ岩も少なく、歩き易そうだったが、私が右の道を選んだのはそれよりも、少しでも光の近くに居たかったからであった。自分からこんな暗い所へノコノコと降りて来ておいて、矛盾している様だが、私はその闇に魅かれつつ、同時に非常に恐れてもいたのだ。それは破滅のスリルの快楽の様なもので、この両義的な感覚は先程から益々強くなって来ていた。このざわざわと生きて蠢いている様な闇に触れてみたいとは思ったが、すっぽりと闇の中に入り込んでしまうことは御免被りたかった。闇の近くに居乍ら、直ぐ逃げられる様な余地を残しておきたかったのだ。

 手綱を握り直してゆっくりと歩き出すと、足下から転げ落ちた小石がカランカランと乾いた高い音を立ててもっと下の岩の影の中に溶け込み、岩の赤さが闇の中で光点の様にチカチカして見える大回廊一杯に、何度も何度も谺を転げ回らせた。一歩足を踏み出す度に、靴が砂利や小石を踏み躙る音、騾馬の蹄が硬い部分に撥ね返ったり柔らかい部分に減り込んだりする音が、まるで谷の精霊達が目紛しくキャッチボールでもしているかの様にころころとあちこちから不規則に反響して来て私達を取り囲み、お前は今たった独りなのだ、助けも呼べず訴えを訴えることも出来ず、お前の言語を解してくれる可能性の有る他の全ての知的存在から切り離されて、ここにこうして無力で矮小な只の染みか何かの様な詰まらないものとして投げ込まれているのだ、と云うことを、再三再四私に叩き込もうと威嚇の声を上げた。私は身ぬちで刻々と強くなって行くこの宇宙的な疎隔感を同定することに暫く躊躇いを覚えていたが、やがて知性による弱々しい抵抗は白旗を揚げ、この恐怖を私の一部として、また私をこの恐怖の一部として受け入れることを決断した。それは物理的な時間にして僅か数秒間の経緯だったが、私にとっては実に重く、暗く長い、自嘲位せずにはおれない不愉快な時間だった。

 曲がり角までは緩やかな登り坂になっていて、そこから先はまた少し下がって、概ね水平な道が続いていた。曲がり角の所に立って前方に目を凝らしてみると、成る程確かにその一帯は上方の岩の切れ目から日光が差し込んではいたが、その先はまた影が幾重にも重なっていて闇の領域が続いており、所々思い出した様に右斜め上空から光の矢が細く切り込みを入れている位だった。陽の当たる場所からの照り返しで何となくまだ目は利くものの、回廊は、本当にここは谷なのかと思う位にじっとりと、闇自体が実体を持っているかの様に暗かった。曲がり角の先は略真っ直ぐだったが、はっきり見通せるのは二十メートル位先までで、その先は不分明な暗がりの中に沈み込んでいた。正直に言ってしまうとその儘先へ進むことには逡巡を覚えた。が、光の量はやはり左の道よりは幾分か多そうだし、それに他に選べる道が有る訳でもなく、私は前進を続けた。

 折り重なる様に予測不可能な渦を描く谺と、濃くなったり薄くなったり、ぼんやりと赤剥けた地肌を隠したり照らしたりする影と光の入り乱れるカーテンの中を、私は進んだ。何度か、この情景、この岩場の中をこうやって騾馬の手綱を引き乍ら歩いて行く場面を、私は知っている(、、、、、)、と云う既視感が襲って来た。無論そこを通るのは初めてだったし、その場所に似た様な場所を通ったことも無かった。単なる錯覚なのだと分かってはいたが、その既視感が去った後でも、奇妙に胸騒がされる漠然とした不安がしこりと成って残り続けた。谷の両側の壁面を、所々変則的な凹凸を挟み乍らも、滝の様に美事に流れ落ちている岩の線の束は、まるで墓所に眠る王の周りで立ち続ける警護の彫像めいた厳格な沈黙を守り続けてはいたが、若しそれらに口が有ってその無言が破られる様なことが有れば、さぞかし奇怪な証言が飛び出して来るのではないかと思われた。他よりも暗い影が有ればその中に何かが潜んでいるのではないかと疑い、谺が撥ね返れば、その音を何物かが聞き付けてしまうのではないかと心配し、数多有る死角の陰にこちらを窺っている眼差しが在るのではないかと不安がる………そんな原始的な警戒態勢の齎す恐怖が、何処かおかしな具合に不自然な実体を持った底知れぬ異界感と結合して何重にも私を取り囲み、纏わり付いて、私の体の表面で静かに結晶化して行った。物憂い疲労がそれに萎びた無力感を加え、私はそのことを自覚しつつも、徐々にその中に溺れて行った。

 赤み掛かった光によって切り取られた直線の空間には塵の類いは殆ど無く、何万年も磐石として動かざる岩々との対比によって蜃気楼か幻覚染みた印象を与える大気のゆらめきは、意味有り気にゆっくりと、まるで或る帝国の一大興亡史がその中に抱懐されているのかと思わせる位にゆっくりと勿体を付けて、何処とども目的地を定めずゆらゆらと立ち込めていた。緩慢なその動きは、私が近付くと急に掻き乱されて拒絶反応でも示すかの様にぴくりと引き攣り、私が通り過ぎた後は無言の絶叫でも響かせる様にわあんと棚引き、また静かな倦怠の中に沈み込んで行った。動きは有った。音もうるさい位に有った。だがそれらも私の孤絶感を埋めてくれる様なことは無く、却って一層粛々と深めてしまうだけだった。光と影の織り成す明暗のはっきりした視覚的な交響楽は、音の回廊に大伽藍(カテドラル)めいた荘厳さを与えていたが、そこには天上の神聖さと云うよりは寧ろ、秘められた生命の、知覚することは難しいが活発な息衝き、力を求めて生長する無際限の欲望の発露、全てが隠された意図の下に或る一大野心を企み、がっちりと手を組んで共犯関係を結んで堅く黙秘の誓約を守っている様を思わせる、何か邪まな気配に満ち満ちていた。手綱を外された求心力の暴発と云おうか、戒める者を持たぬ子供のあどけない暴虐と云おうか、とにかくそれは私にとって危険なものであると云う気はしていた。

 暗がりが濃くなる曲がり角の先に差し掛かると、そこは更に影の支配する領域が大きくなっていた。回廊の上に覆い被さる岩の数と大きさが増して来たからなのだが、そこは本当にびっくりする程暗かった。募る不安を抑えて先へ進むと、心無しか徐々に傾斜が大きくなり、どんどん下降して行く様に思われた。体中にずっしりと重く沈殿する疲労感とは裏腹に、私の足取りには何故か得体の知れない浮遊感が付き纏っていたのだが、そうしてどうにも確かな現実味に乏しい私の動く足の下で石が前方へ転がって行く様からすると、二十分も歩かない内に傾斜は十度位まで大きくなって行った様だった。行進は冥界下りめいた様相を呈し始めていたが、その内谺が前方へ前方へと反響を繰り返して行く様になった。私は段々とその闇の内奥へと誘い込まれて行く様な心持ちがして来た。益々弱く、か細くなって来る日の光は、一層毒々しい膿汁めいた色彩を濁らせ、照らされた岩肌はまるで生皮を剥がされた巨大な牛の腹の様だった。音も無くその色彩は変化を続けて行き、私を夢幻の世界へと引き込もうとするかの様に、不気味な変容を黙々と繰り返した。私は既に、この悪夢の中を踠き進む様なこの行軍に終わりは来ないのではないかと思い始めていた。

 時間の感覚が曖昧になって来ていたので実時間にしてどれ程の時間が経過したのか判り難ねるのだが、恐らくは更に一、二時間、主観時間で一星霜とも思える間、何度も曲がりくねった道無き道を歩いて行く内に、本格的に頭上が岩ばかりで覆われている所へ行き当たった。もう日の差し込む様な余地は全く無く、天井部分が上から見た時の実質的な谷底を成し、完全に洞窟状に成っている所だ。影は折り重なって入り口の所から急に暗くなって何も見えなくなっていたが、恐らくその先は更に傾斜が険しくなっているのではと思われた。そこは地下世界への入り口だったのだ。私はその手前で一旦足を止めたが、それは引き返したり別の道を探したりする為ではなく、懐中電灯の用意をする為だった。電池の残量はまだ十分に有る筈だったが、気が付くと電灯の状態を確認する私の両の手は震えていた。私は一度逆療法でパニックを故意に助長させて押し流してしまい、落ち着きを取り戻そうとしたが、生理反応の方ではどうやら私の思惑に上手いこと乗ってやる積りは無い様だった。私はカーッと頬や耳に集まった血を怒りで誤魔化そうとしたが、効果が現れるまでには数分から十数分は待たねばならないだろうと予測された。

 騾馬は明らかに酷く怯えており、宥め賺して何とか前へ進ませるのもそろそろ限界に近付いている様だった。迷いが無い訳ではなかったが、騾馬はそこへ置いて行くことにした。私に万が一のことが有った時のことを考えて自由にしておいてやろうかとも考えたが、それも運良くまた私が戻って来た時に何処かその辺をふらふらされていたのでは困るし、どの道ここからこの騾馬独りで抜け出すのは先ず無理だろうと思われた。朝から何も食べさせていないのを気の毒には思ったが、何しろ餌として遣れそうなものが何処を見回しても全く見当たらないのだからどう仕様も無かった。私は手綱を手近の岩の尖った部分にきっちりと結わえ付けて状態を確認すると、鼻面を叩いて二言三言励ましの言葉を掛けてやった。だが騾馬の怯えはそこから立ち去ろうとはしなかった。私はせめて少し休ませてやろうと騾馬に背負わせていた荷物を解いて、近くの岩の陰の纏めておいた。携行して行くものは極く僅かだったので、手持ちの荷物の殆どだ。

 懐中電灯の光以外は頼れるものの無い真の暗闇の中に入って行くのだ、用心して用心し過ぎると云うことは無い。私はその闇の恐怖への覚悟を固めて足を踏み出したが、その面持ちには一種の悲壮さが無いでもなかった。

 洞窟の傾斜は明らかにきつくなり、十五度、所に依っては二十度以上にまで下がっていた。慎重に、慎重に、石が多くて不安定な足場から足を踏み外さないようにゆっくりと足を運び乍ら、私は前方の左右上下へ照明を当て、中の様子を確認した。懐中電灯の光は辛うじて二十メートル位先までは何とか照らすことが出来たのだが、前方は無論のこと、私の左右や上の方にも光の届かない領域が多々広がっていた。日光の照射による大気の攪乱は当然乍ら全く無く、少しゾクッと来るほどの寒気が無言で陰気に淀んでいたが、湿度は相変わらず低そうなのにこれ程冷たい空気が生まれていると云うことがどうも解せなかった。先刻までは膚をピリピリと焦がす様な熱気が、今は膚をチクチクと刺す様な冷気に変わっているのだ。熱を吸収する何かが、或いは冷気を発散する何かが、この闇の奥に在るのかも知れなかった。道無き道を形作る岩石の質が少し硬くなった様に思われた。細かい砂利は相変わらず足場を不安定にしていたが、動かず固定している部分の頑丈さが上がっていたのだ。色も外の赤茶けたものとは違い、黒っぽくなっている様だったが、その表面はよく磨かれた黒曜石の様につやつやとした輝きを放っていた。谺の間隔がより長くなり、反響の数が少なくなって行った。それと共にひとつひとつの音がより硬い実体を備えたものになり、漠然と四散して行くのではなく、何処か或る一点を目標と定めて撥ね返り乍ら突き進んでいる様な感じになった。私はどうとは言えぬ不吉な感触を全身に感じ乍らも、心細く頼り無い下降を続けて行った。

 下り坂は一向に終わらなかった。その傾斜角度が余りにも一定だったので、恐らくこの辺一帯が大きく斜めに地盤沈下を起こした結果ではないかと私は推測した。だがそれは若干の蛇行を挟み乍らも、全体的にはまるで人為的に設計された通路の様に真っ直ぐで、私はあらぬ妄想を抑えることが出来なかった。巨大な岩の怪物の内臓を思わせる長い長い洞窟の表面は、濡れてもいないのにつやつやと輝き、時々ぎょっとさせられる程綺麗に光を反射した。それはまるで周囲の何万年もの沈黙を一身に凝集させて錬成した様にぎっしりと高密度で静まり返り、そのニスでも塗ったかの様な隙の無い表面は、恐る恐る岩の足場を踏み締める私の足音を峻拒して、奥へ奥へと投げ込んでいた。自分の息遣いや鼓動までもが、やけにはっきりと感じ取られた。私は努めて定常性を保とうとはしたのだが、足下で石が転げる度に、或いは何も無い時でも不意に乱れる私の呼吸の音は洞窟に大きく響き渡って行き、まるで岩そのものが秘かに息衝いているかのような不穏な印象を醸し出しているのが実に恐ろしかった。懐中電灯の光を動かす度にさっと遠のいたり隠れたりする影また影は、恰もそれ自体が独自の生命を持っているかの様にこちらの予測を超えてあちこちへと飛び回り、幾度も私の心胆を寒からしめた。岩肌に反射する光は闇に潜む未知の獣の瞳を連想させ、それらがちらちらと消えたり現れたりする度に、理性や自己暗示では抑え難い原始的な恐怖が、今直ぐにでも絶叫を上げて自由になりたい、荒々しく鎖を引き千切って飛び立ちたいと暴れ出すのだった。

 苛々する程に遅々とした歩みを初めて十五分が過ぎ、三十分が過ぎ、一時間が過ぎた。道程(みちのり)は耐え難いまでに単調だったが、はっきりこれと云った理由も無く高まる一方の私の恐怖は既に息苦しさを覚えるまでになっていた。一瞬の恐怖ならばまだしも、持続する恐怖と云うものは実に性質(たち)が悪い。それは私の魂を疲弊させ、消耗させ、身動き出来ないように長いこと縛り付けておき乍ら、何時訪れるとも知れない決定的な破局の時をずるずると勿体を付けて先延ばしにし、その破局への絶望と無力感と共に、それで全てが終わるのだと云う期待感を徒らに高めて行った。私の通常の感情はその大いなる圧迫の下で悲鳴を上げてやがて麻痺して行き、一種の痛覚にも似た無感覚と成った。それは骨の髄にまで染み入って私の精神をとろけさせ、間断の無い不安で動揺させ、次の瞬間の訪れを酷く重苦しいものにした。文字通り先の見えない不透明感は私の目から活力を奪い、耳を鈍磨させ、意志を自動人形のそれへと仕立て上げた。私はその行軍の間ずっと、悪夢の深海の中をゆっくりとたゆたい、唯ひたすらに待っていた。時間が永劫にまで引き延ばされ、そして一瞬にして凝集した。

 突然に前方に、岩のものとは違う反射が見えた。不意に時間がまた異なるリズムで流れ始め、私は我に返った。慌てて懐中電灯の光をその辺りに巡らせ、少しばかりパニックに陥った後、それが右手前方凡そ四、五十メートル先の地面に位置していることを突き止めた。その照り返しは明らかに周囲の輝きとは質を異にしていた。もう少し明るく、そして一様だった。私は歩き続け乍らその周囲を入念に照らし出し、特に変わった様子が無いことを確かめた。逸る心を抑え乍ら、私は成可く歩調を乱さないようにそこへ近付いて行った。

 それは最大直径一メートル程の水溜りだった。静かな、漣ひとつ立っていない水面がぐっと盛り上がる様にして電灯の光を反射し、白々と輝いていた。その周囲の岩の様子には他の所と変わったところは見られず、地面に幾つも在る窪みのひとつにふっと何かの拍子に水が溜まってしまった、そんな感じだった。周囲何キロメートルにも亘って湿り気ひとつ無いこの荒野の真っ直中に、こんな水溜りが在ると云うのは如何にも不自然だった。水源は不明だった。何処からか流れて来た形跡も無いし、地下から湧き出ているなら水は何等かの動きを見せても良い筈だ。私は水溜りの傍らに膝を突き、近付いてしげしげと観察してみたが、水面はぴくりとも動いてはいなかった。私はそっと片手を伸ばして指先で軽く表面に触れてみた。少し重い波紋が広がって、やがて消えた。二、三度叩いてみると、それは確かに水の様ではあったが、まるで原油か何かの様に重い反応が有り、指を引くと恰もそれを離すまいとするか意思を持っているかの如くに皮膚に纏わり付き、重い水滴と成ってまた元の集合体へと還って行った。恐る恐るその指を口元に持って行って舌先で舐めてみると、ひんやりとした透明な感触が、指先から舌先へと流れ込んで来た。害は無さそうだった。

 私は今度は掌で掬って、その水を飲んでみた。冷たさが心地良かったが、奇妙なことに殆ど味らしい味がしなかった。嗅ぎ慣れている筈の新鮮な水の匂いさえしなかった。どうにも曰く言い難いものだが、それは感触だけが水の様で、他は全く別物の、何か全く未知の流体の様であった。取り敢えず飲めることは飲めそうなので、私は残り少なくなった水筒の中身を補充すべく蓋を開け、残っていた可也り生温かい水を最後まで飲んでしまった。それから水筒を斜めに持って水溜りの中に沈め、ごぼごぼと泡が水面に浮いて来るのを無心に眺めていた。水に沈む手に感ぜられる液体の感触は妙にこそばゆく、ぺたりと膚に貼り付いて来る様だった。

 その後、私が水底がどの位か知りたくなってもっと深い所に腕を突っ込んだのは、不図した気紛れからに過ぎない………少なくとも、私はそう理解している———いや、そう理解しようとしている———。光を反射する水面の下はどうなっているのか、全く判らなかった。周囲の岩の窪み方から、薄く水が張ってあるだけではなく、それなりの深さがあることは判っていたが、それらが五センチなのか五十センチなのかそれとももっとあるのかまでは判断出来なかった。私は水筒を持っている手をゆっくりその儘下へ突っ込み、水底がどの辺りになるか探ろうとした。驚いたことに、私が腕を一杯に伸ばしてもまだ底には当たらなかった。その場で腹這いになり、水筒を目一杯先まで伸ばしてみても同じだった。水筒の底は空しく水の層を掻き混ぜるばかりで、固形物の手応えにはとんと出会さなかった。これはひょっとしたら表面には現れていないだけで、深い所に水源が在るのかも知れないと重い、私は暫し凝っとして手や腹の皮膚感覚に神経を集中させ、動いていては気付かない極く微かな水の流れが在るかどうか確かめようとした。私が手を止めると、水はまるで元の位置を覚えていてきちんと整列するかの様に直ぐにまたひっそりと静まり返った。冷たい水の固い感触があるばかりで、そこには何等動きらしい動きは感ぜられなかった。私はその儘目を閉じ、更に集中を深めようと試みた。

 水の動きの代わりに大気の動きが有った。閉じた瞼の裏にパッと赤い稲妻が幾筋か走ったのと、緊張し張り詰めた額に微かだが素早く叩き付けて来る様な風を感じたのと、どちらが先だったのかは判らないが、突然の動きに私はハッとなって顔を上げ、前方の暗闇の中に瞳を凝らした。懐中電灯の光は水溜りを照らしていたが、洩れて拡散した光はその周囲を照らすこと無く、あっと云う間に闇の中に吸い込まれて行っていた。視界には茫漠たる黯黒が広がるばかりで、何かの動く気配も、何かが居る気配も感じられなかった。と、その次の瞬間また二度、三度と、同じ様な、微かだが断固とした風が、闇の奥から吹き付けて来た。それは酷く冷たい風で、まるで氷の微粒子の流れが流れ込んで来たかの様だった。そこには何かゾッとさせられる要素が有り、生命の、熱の有るものを全て凍り付かせてやろうと云う悪意が漲っている感じがして、私の全身に緊張が走るのが分かった。

 それから暫く、数十秒か、数分か、私は凝っと身動きせずに次の動きが起こるのを待ち構えていたが、やがて何かの息遣いの様なものが暗闇に谺していることに気が付いた。始めの内それが何なのかは分からなかったが、不図それが自分自身の呼吸音であることに思い至った。自分ではずっと息を止めていた積もりだったのに、何時の間にやら荒い呼吸を繰り返していたのだった。意識し始めると、それは途端に激しさを増し、私の意に反して、どんどんと浅く、速くなって行った。危険な兆候だった。谺がどんどん大きくなって闇の中へ吸い込まれて行った。私は過呼吸に陥る前に何とか意識の一点を足掛かりにして、そこから意図的にパニックを増幅させて行った。するとそれは明確な焦点を持とうとしたが結局持てずに空回りしてしまい、幾つかの候補がバラバラになってしまった後、オーバーヒートして私の中を素通りして行ってしまった。呼吸が落ち着いて行く間、私はわざと恐怖感を煽る様に自分の心を掻き乱したが、これは謂わば暴れる馬の手綱をピンと張る様なもので、やがて心の動きを自分の統御下に置くことに何とか成功した。黒々とした恐怖は意識の表面から底の方へ潜って行ってしまい、もっと具体的な対策を手に入れるまでの間、浅い眠りに就くことになった。

 火照った耳朶(みみたぶ)がまだじんじんと小さく痺れているのには気付いていたが、呼吸が深く静かに落ち着いたことを確認すると、私は再び暗闇の中に目を凝らした。目玉が痛くなって来る程に闇の中を凝視したが何も見えて来なかったので、私は空いていた方の手で懐中電灯を握り、自分でも滑稽な位に音を立てないように気を遣い乍ら、光条を光届かぬ暗い領域へと振り向けた。光の届く距離は精々二十メートルがいいところで、断片的に暗闇の中から切り取られた様に浮かび上がる岩肌は、不安を掻き立てる長く巨大な影達を洞窟の奥へと投げ掛けた。どれもがそれぞれに特色を持ち乍ら、総体として見ればどれも同じ様な黒い岩の隆起や陥没が延々と上下左右を取り囲み、地質学的な歳月の没人間的な沈黙を湛えて、素知らぬ顔で存在を続けていた。人間の営みとは全く懸け離れた秩序が整然と闇の中で脈々たる大伽藍を築き、ほんの一瞬の闖入者たる光の筋が表面を撫で回るのに些か不愉快そうな顔を見せ乍らも、超然とした威厳を崩さずに、謎と神秘を孕んだ実体を構成していた。

 不意に、高い金属的な音が谺した。私は一瞬びくっと怯えて危うく水筒を落としそうになったが、それが割合耳慣れた音であることと、音のしたのが極く近くらしいことから、直ぐに平静を取り戻した。それはポケットに入れておいたアーミーナイフが落ちた音だった。腹這いになっていたのでずり落ちてしまったのだろう、分かってしまえばどうと云うことはないのだが、それにしても、微かな自分の息遣いしか聞こえぬ静寂の中に突然硬い甲高い音が響き渡るのは何とも肝を冷やさせられる体験ではあり、私は再び呼吸を整えねばならなかった。

 懐中電灯の先の方が弱々しく拡散して行く光を空しく宙に彷徨わせた儘、ゆっくりと、私は水溜まり———いや、井戸と言った方が良いのかも知れないが———から水筒を持った腕を引き抜いた。水はまるで私を放したくない様にしっとりと肌に吸い付き、水から出た部分からは名残り惜しそうにぽた、ぽたと水滴が滴り落ちたが、水にしてはやけにその量が少ない気がした。滴り落ちると云うよりは寧ろ必死にしがみ付いていたものが、力が続かなくなって振り落とされると云った感じだった、滴が水面と接触する時のぽつ、ぽつと云う音は、ぶつかるのではなく吸収されて行く様を思わせた。

 慎重に立ち上がって水筒の栓を閉め、私は闇の中へと全身全霊を傾けて神経を集中させた。何か異常なものがそこに現前していると云う強い予感が有ったのだ。何故とは言えないものの、それが私の妄想や気の迷いでないと云うはっきりとした感覚が有った。私はどんな些細な異変も見逃すまいと、その場に立ち尽くした儘五感を研ぎ澄ませた。そこに何かが在るのは分かっている、後はそれをはっきりと認識することだけだ。

 不図気が付くと、私の瞬きとは別の間合いで、闇の中に更なる闇が時折不規則に仄めいているのが見えていた。洞窟の中は私の持っている懐中電灯の光の他には一筋の光明も無く、既に辺りには墨一色で塗り潰した様な闇が立ち込めていたのだが、その闇より更に深い、それ自体確かな実体と手応えとを持っているかの様な異様な闇が、その中から現れて来たのだ。それは黒い小さな拳大の染みの様なもので、空中に幾つか浮かんではまたパッと消えた。始めの内は、余り暗闇を見詰め過ぎた為に眼が錯覚を起こしたのだろうと思い気にも留めなかった。だが暫く見ている内、それらの現れ方や位置が、こちらの眼球運動とは全く何の関係も無いことから、その不自然さが私の注意を引いた。それは一、二秒程不規則的に現れては消え、同じ所には二度と現れなかった。それは擦りガラスを通して見た日光がキラキラと屈折して光の点を撒き散らすのに少し似ていたが、もっと疎らで、ひとつひとつの点ももっと大きかった。形は円形だが輪郭はぼやけており、滲み易い紙の上にインクを一滴零した時の染みにも似ていた。それは空中で弾ける水泡の様に次々と出現と消失を繰り返していたが、試しに懐中電灯の光をそちらに向けてみても、その周囲の黒い岩肌が照らし出されるばかりで、その暗点自体の正体はさっぱり判らなかった。向こう側は透けて見えてないので、一応不透過性のものらしかったが、かと云って光を反射したりする訳でもなく、それが物理的な実体を備えているものかどうかは不明だった。

 暗点達の存在に気が付いたのと略同じ頃、耳元でサーッと云う薄いノイズが聞こえているのに気が付いたのだが、今鳴り始めたのかそれともずっと気付かない儘だったのか、それとも私の五感が変化して、先刻までは聞こえなかった音を聞き取れる様になったのかは分からなかった。まるで壊れたテレビの画面を一心に眺めている様なものだった。だが、その故障の原因が外界に在るのか私の頭の中に在るのか、この時点では何とも言えなかった。

 やがて暗点達の明滅が活発になって来た。互いの暗点の距離が狭まり、ひとつの暗点が消えるとその後に直ぐまた新しい暗点が現れると云った具合に、時間的密度がどんどんと高まって行った。そしてその中から、他の暗点よりも大きなサイズの暗点がちらほらと姿を現す様になったが、それらは他のものよりも持続している時間が若干長く、中には三、四秒位凝っとしているものもあった。漆黒の闇を押し潰す更に暗い闇達の乱舞をどう言い表せば良いのか、私には分からない。とにかく今目の前で起こっているこの奇怪な現象が、私の貧弱な知性の埒外に在ると云うことだけは解った。この様な異常な闇のことなど私は見たことは勿論聞いたことも無かったし、それに対して如何なる異論が可能なのかさえ、筋の通ったものはひとつとして思い付かなかった。

 暗点の動きは一時非常に盛り上がりを見せたが、数十秒程すると沈静化に向かい、ぽつりぽつりと数が少なくなって行って、やがて完全に消失した。再び闃とした静寂が一帯を支配し、闇は只の闇に戻ったが、しかしその闇がたった今まで優位の存在に侵略されていたと云うこと、つい一瞬前までこの世界の常識的理解を超えた現象が現出していたと云う事実の気味の悪い感触が、何とも言えぬ捉え難い痕跡としてまだそこに蟠っていた。

 私は体勢を立て直す為に懐中電灯を持ち直そうとしたが、自分の動作が何故か非常に緩慢に感ぜられた。まるで水の中か、悪夢の中で藻掻いているかの様だった。ところが私がその動作を終えぬ内に、どっと寒気が押し寄せて来た。今度は先刻よりもずっと激しく、重い風だった。肌寒いと云うよりも骨の髄からゾッとさせられるような冷たさが全身を這い回り、包み込み、私はその圧迫感に圧倒された立ち尽くした。衝撃は一瞬で止み、その後は、先程と同じ様な微かな流気が残響の様に切れ目無く漂って来た。悍ましい緊張が頭の天辺からサーッと駆け巡って来て、私はわなわなと震え出しそうになるのを、半ば麻痺した呆然自失の状態でやっと堪えなければならなかった。風は洞窟の奥の奥から真っ直ぐ吹き付けて来ていた。風の音が岩盤に撥ね返って反響をぐるぐると響かせ、大気を切り裂く様な鋭い悲響が洞窟の中を一杯に満たした。風は私の耳元で益々鋭さを増して行く様だった。

 不意に、距離感が掴み難いのだが前方少なくとも三、四十メートル以上の辺りの中空から、どっと闇が洪水の様に溢れ出した。それは強力な波濤と成って一気に私の居る所まで押し寄せた様に見えたが、爆発したかと思うとワッと希薄化して行ってしまい、私の許に届いたのは微かな幽霊めいた霊気の流れだけだった。その間も風の悲響はずっと続いていたのだが、その闇に押し流されてみた後では、何か中に心棒でも入れた様なしっかりした輪郭がそこに加わっていた。それは何処か一定の振動数を維持して何かを狙い定めて吹いているかの様で、揃えられた方向性は間違え様無い力の感覚と成って私の耳に、皮膚に届いた。その後、その流れの延長の様な感じで、私の背後で、はためきの様な、枯れ葉がひらひらと舞い落ちる時の様な音に似た動きが有った。振幅が大きくなって波が拡散したか、或いは私にぶつかって力を乱させられたかしたか様だった。それは気を失って倒れそうなか細い音から、怒った蜂の大群が羽を震わせる様な力の込もった音へと変化し、数瞬持続したかと思うと、また他の流れの中に紛れて行ってしまった。

 少し間を置いて足下の地面が盛り上がる様な感覚が有り、それが私を前方へと押し遣ろうとした。私は慌てふためいたが、ぐらっとふらつく段になって、それが実際に起こった地震や地盤の変化なのではなく、私自身の体感覚の錯覚なのだと判ったが、それは妙に物理的な実感を伴うものだった。それが止むと同時に、前方からまた闇が溢れ出し、今度は本物の洪水の様に地を這う様な感じで、しかし現実の地面とはどうにも微妙に一致していない流れを描き乍ら、私の居る上の方へと流れ出して来た。微かな冷気がそれに伴ってじわりと押し寄せ、私は冷たい悍ましい大群に取り囲まれる形になった。足元を見てみると、地を流れる闇の中からぬっと二本の足が突き出ており、電灯の光はその闇に対しては何等の影響も及ぼしてはいなかった。怖気立つ闇の洪水は十数秒程も続いた後で厚さが薄くなり、私の遣って来た方向へと流れ去って行ったが、傾斜を下って行くのではなく上がって行くので、私の平衡感覚は暫し動揺を余儀無くされた。実際の水平面がぐっと下がった様な錯覚が起こり、私の体は自然、前のめりに倒れそうになったのだ。前に目を遣ると、鐘の余韻の様な流れの残滓の振動が前方に蟠っていて、そこから冷たい意志めいたものが滔々と流れ出しているかの様な印象が有った。

 一定の割合で徐々に、足許を流れる闇の量が大きくなって来たが、それと歩調を合わせるかの様に、ヴーンと云う耳鳴りの音が、重く、低くなって行った。それから闇の流れが或る程度まで多くなってそれからまた徐々に少なくなって行き、音の方はそれに合わせて小さくはなったが、低く地に籠もった儘だった。

 その後、小さく鈴の鳴る様な、古いドアが軋む様な音が一瞬聞こえたが、妙な具合に反響してしまっているので、耳許で聞こえたのかずっと遠くで聞こえたのかさっぱり判らなかった。これは風の唸り以外で私が耳にした初めての固形物らしい音だったが、発生源が何なのかは見当も付かなかった。その音は直ぐまた現れたが、今度は長く尾を引いていて、この世ならざる不可思議な風の音の中へと混じり合って行った。それは感じ取られる世界に一本の線を引いて、薄いナイフでスッと切って行く様にふたつに分離させた。分かたれた上の部分の方は風船の様にその儘上昇して何処かへ消滅してしまい、下の部分の方は水面下に重く沈み込んで行った。

 その不気味なイメージの向こう側で、闇の中の闇がまた大きく膨らんだが、今度は流れては来ずに気体の様にその場を満たし、丁度カメラの焦点を調整する様に、全体が一斉に濃くなったり淡くなったり、くっきりしたりぼやけたりした。それはゆっくりと不規則なリズムで僅かずつ脈動し、洞窟の中全体がまるで真っ黒な血液で満たされているかに見えた。その底下では無言の重低音が陰鬱に真っ直ぐどよめき、痛い程に冴え切った大気と冷厳な対照を成していた。

 それからまた暫くの静寂が有った。はっきりこれと分かる異常な現象はぱたりと止んでしまったが、その沈黙が押し殺されたものであることを私は毫も疑いはしなかった。周囲には今だに怪奇の気配が重苦しく漂い、黙り込んでしまう前の痕跡をそこら中の岩肌にぺたぺたと貼り付けてこちらの隙を窺っていると云うのに、もう安全だ、目の前のこの闇は只の闇以上のものではない、などと信じられる筈が有ろうか? 私は全身にへばり付いている冷気を或る程度振り落とせる様になるまでその場で凝っと待ったが、自分の体がまた自分の意の儘になって来たと感じるや覚悟を決めて、闇の奥の奥への前進を再開するかどうか、決断することにした。

 この先に潜んでいるかも知れない危険のことを考えると、いきなり進むのは躊躇われた。そこで私は念の為に持って来ていた双眼鏡を取り出し、片手で構えた。口の中がねばついていたので、もう片方の手で先程汲んでおいた井戸の水を二口三口飲んでから、懐中電灯を構え、前方の闇の中へと光を投げ掛けた。艶光りする黒い岩肌が光を反射して仄白く照り輝き、ごつごつした起伏を陰鬱にに浮かび上がらせた。静まり返った洞窟はひっそりと光を吸い込んで行き、闇はそれ自身の冷たい熱を孕んで微動だにしなかった。

 私が慎重に一歩踏み出そうとした時、光に照らされた小さな領域の隅に動くものが見えた。私は双眼鏡の焦点をその辺に合わせ、電灯の光をそちらへ向けた。が、そこには只の岩肌が覗いているだけだった。何かは判らないが、極く小さなものが、可視領域の右から左へと素早く動いて消えたのだ。数拍置いてから、また同じ様な動きが、今度は左斜め上から右下へ向かって起きた。それからまた数拍有って、次は連続して真上と左から。その素早い動きと大きさから、私は咄嗟に蝙蝠を思い浮かべたが、こんな所に蝙蝠が棲息しているものだろうかと云う疑問も湧いた。だが遠目ではその形も大きさもはっきりとは判らず、その解釈が正しいのかどうかは判断が付き兼ねた。

 ところが、その不規則で方向性もまちまちな動きは、徐々にこちらへ向かって移動して来ていた。ゆっくりとじりじり歩く様な速度でその何かの動きは闇の奥から、もっと懐中電灯の光が届く所へと接近して来ていたのだ。私は慌てて焦点を調節したが、何度かその所為で動きを見失ってしまった。音で多少なりとも距離感を掴めれば良かったのだが、私自身の立てる音が微かに谺するばかりで、その動きからは何の音も聞こえて来なかった。私は動きの出所か行き先を突き止めようと電灯をあちこちへと巡らせたが、その小さな物体は何処からともなく現れては何処へともなく消えてしまう様で、まるで手掛かりが摑めなかった。

 動きがこちらへ充分近付いて来る前に何とか状況を把握したいと思い、気ばかりが焦った。知ろうとすればする程その不可解さが際立つばかりで、私の足は既に逃げ出す準備に入って行った。その小さな物体はやがて黒い、決まった形の無い塊だと云うことが判明して来た。それは岩の中から突然現れ、目に見えぬ力によってヒョッと素早く空中を横切っては、闇の中にフッと消えて行った。何かの物陰に入ったとか光が当たらなくなって見えなくなったと云う可能性も検討してみたが、目の教えてくれることを飽く迄信ずるならばそれらの推測は外れで、それは文字通り、宙に消えてしまっていたのだ。七、八メートル辺りまで近付いたところで、その物体が複数の石らしいと見分けることが出来る様になった。もっと正確な言い方をするとしたら、複数の岩の薄片だ。どうやらそれらは岩の一部が捥ぎ取られたかどうかしたものの様で、訳の分からぬ力によって表面が剥がされたかと思うと、それが宙に放り投げられている様なのだ。剥がれた跡が窪みとなって岩肌に残っていたのでそれと分かった。周囲の岩盤の頑丈さを顧みれば、元々その部分が欠けていたとは考え難いのに、岩の一部が剥ぎ取られても物音ひとつしなかったし、また投げ捨てられれば地面にぶつかるのが当然なのにその音もしなかった。全てが静寂の中で起こっていた。まるで分厚いガラスの仕切りを通してものを見ている様で、実はその見えているもの全てが私の幻覚ではないかと疑わせる様な奇妙な非現実感が有った。だが双眼鏡を外して肉眼で視認してみても、その飛び交う破片達は紛れも無く可視の現実で、そして私の方へ向かって近付いて来ているのだった!

 岩片達の乱舞が近付くにつれ、それが物理的な実効性を備えた現象ではないかと云う私の疑念は益々強められて行った。信じられない様な静寂と、正常な物質的反応を欠いたその出現と消失は、凡そ私の通常の知識のストックの守備範囲を超え出ていたが、その様子がはっきりと目に見えて来るにつれ、それを疑うことはどんどん難しくなって行った。私はまだその場から動けずにいて、相手にしているのが未知の現象であると云う事実が、次の行動の決定を控えさせていたのだが、その現象が後三メートル少しと云う所まで来ると、出し抜けに、これは危険だ、逃げろ、と云う警告を告げ知らせる、痛い位に鋭い直感が閃いた。私がまだ正常であることの証として、それに対する疑念も同時に生まれはしたが、しかし私は直ちにその警告を真摯に受け取ることにした。仮令杞憂であったと後で分かることになるとしても、こうした声を無視してむざむざ悲惨な結果に陥るよりはずっと良いと思えたのだ。

 私は体の向きを変えて走り出そうとした。が、出来なかった。体中に鍵でも掛けられているかの様に全身ががっちりと固められて動かず、その場から一歩も離れられなかったのだ! 私はまたパニックに陥りそうになる自分の心を何度か鞭打ち、挫けそうになる手前で手許へと引き戻した。息を止めて一瞬全身の力を抜き、それから意図的に筋肉を強張らせてみると、今度は少し動いた。私は息を止めた儘そこから一気に力を入れて振り返ることに成功した。それから弾みを付けて後ろを向き、氷漬けにされたかの様な足を地面から引っこ抜いて、足を踏み出した。まるで鎖帷子でも着ている様な二歩の後で一度足を引き摺ってからようやっと、まだ強張ってはいるものの或る程度思い通りに動かせる様になり、私は焦る心が逸りそうになるのを必死で自制し乍ら、出口目指して駆け出そうとした。すると、足にばかり注意を払っていたのがいけなかったのか、手に持っていた双眼鏡と、腰に緩く結わえ付けてあった水筒とをふたつとも落としてしまった。音から判断するに、双眼鏡はレンズが割れてしまった様だった。水筒の方は一度地面にぶつかってからあの井戸の中へと落ち込んでしまった様だったが、やけに大きな水音が響いてから数秒してから、目の錯覚だったのかも知れないが、水が仄かに青白く光った様な気がした。これについては自信が持てない。急に懐中電灯を動かしたので、光の反射か何かを見間違えてしまったのかも知れない。

 あの奇怪な現象に背を向けたこと自体が恐ろしかった。何しろ音が全くしないので、耳で背後の状態を察知することが出来ないのだ。確認する方法は視覚に頼るしか無いのだが、反対方向を向いていてはそれも出来ない。私はとにかく怪現象の接近する速度よりも速くこの洞窟から脱出するしか無いのだった。

 もう数時間も歩き続けて疲れ切っていたのか、それとももっと他に何かの影響が有ったのか、私の走行は苛々する程遅々としていた。一足一足がまるで水の中に浸かっているみたいに重く、屡々バランスを崩してしまい、何度か実際に倒れそうになった。鉛の重りを付けた様な両足が踏み締める黒い岩盤は下って来た時よりも少し滑り易くなっている様だった。考えてみればこれはおかしなことだった。坂道を登るのと下るのとでは、下る方がずっと危険が高い筈なのだ。まるで別の道を登っているかの様な気がした。振り乱される懐中電灯は不規則にあちこちを照らし出して大体の方向を指し示してはくれたが、足下の状況を明らかにしてくれる程安定してはいなかった。それにどの道、私の頭には血流が逆流してガンガンと頭痛が巣食い、ワーンと耳鳴りがして、そちらに神経を使っている余裕なぞ有りはしなかった。自分の息遣いや脈拍の音がやけに大きく聞こえたが、これは谺の所為なのか私の耳がおかしくなっていた所為なのかは判然としなかった。洞窟内はまだ鳥肌が立ちそうな程寒いと云うのに全身からはどっと汗が噴き出し、恐らくは恐怖による冷や汗も大分混じっていた。縺れる足はまるで私を故意に転ばしてやろうと隙を窺っているかの如くに乱れに乱れ、凹凸の多い道無き道はそれに拍車を掛けた。一度大きく足を滑らせ、私は前のめりに倒れ込んだ。咄嗟に突き出した両手のお陰で何とか地面に激突するのだけは避けられたが、起き上がってみると掌がじんじんと熱く腫れ上がって来て、暗くて判らなかったが恐らくは血が出ている感触が有った。手を突いた拍子にどうやら懐中電灯を落としてしまったらしいことに気が付き、私は忽ち恐慌状態に陥って素早く周囲を見回した。そこで視界の端にまたあの闇よりも暗い闇が広がっているのを捉えた。それは私の背後一杯に広がっていて、一瞬ちらりと見ただけでは接近しているのかどうかまでは判らなかったが、不気味に蠢動していた。岩が剥がれ飛ぶあの怪現象がどうなったのかは、真っ暗だったので何とも言えなかった。私は全身さあっと怖気立って、懐中電灯をまだ見付けていないにも関わらず、再び走り出した。何度か稲妻の様にあの警告の感覚が閃いては消えたが、それは以前よりも強くなっているのがはっきりと分かった。「逃げろ逃げろ逃げろ!」とその声は囁き続けていた。今や切迫した危険が私をその魔手に捕らえる寸前まで近付いて来ていたのだ。

 洞窟の傾斜が一様で殆ど一直線に続いているのが幸いした。私は照明の頼りが無くとも、そのまるで人工的に穿たれたかの様な整然とした長い長い通路を何とか走って行くことが出来た。瞼の裏に何度も赤い稲妻が走っては消え、周囲の闇と混じり合って奇ッ怪な踊りを見せたが、それはまるで背後に迫っている筈のあの闇を先導し、私はここに居るのだと陰湿にも告げ知らせているかの様に見えた。鼓動と呼吸の音は今や私の全身を包み込んでこの光ひとつ差さぬ洞窟を更に狭苦しく逃げ場の無いものにしていた。頭がズキズキと痛み出して眩暈がし、胸や喉は激しい呼吸にやられて痛み始め、手足がまるで仕掛けの壊れてしまったカラクリ人形になってしまった様な心持ちがした。その内に視界の端に、あの奇怪な闇の存在が感知せられて来た。それは今や私に追い付き、更に追い越そうとしていた。全身の血と筋肉がもっと速く、もっと速くと逆上し、空しく急いていたが、気ばかりが焦るのみで、まるで泥の中を走っている様だった。私の四方が刻一刻と恐るべき闇に侵食され、呑み込まれて行くのが目に見えたが、私の方では自分の死を、或いは先に待ち受けているのかも知れない、死よりも恐ろしい運命を覚悟する暇さえ無く、唯々圧倒的な恐怖から逃れ去りたいと云う強い血の滲む様な衝動が有るばかりだった。その闇にははっきりとした輪郭も感触も無かったが、勢いと方向性は持っており、それは私と同じ方向に真っ直ぐ突き進んでいた。私の走る速度は今や明らかにその闇よりも遅くなっていて、やがては私は完全にその中に呑み込まれてしまうであろうものと思われた。私は次第に方向感覚を失い、出口の在る方向、自分が今一心に進んでいる方向に自信が持てなくなり、その不安が更なる足の乱れを呼んだ。そしてこの儘走って行った先にはあの闇が待っているのではないか、と云う恐怖が、進むこと自体への躊躇いを生み出して行った。私は惑乱し、蹌踉き、停止する寸前だった。

 その時急に闇が更に深い闇一色に覆われた。到頭私は呑み込まれてしまったのだろうか。だがそれと同時に、不思議な光景が眼前に広がった。いや、それは私の脳裏に閃いた幻覚だったのかも知れない。或いは、目を瞑ってしまった為に瞼の裏に発生した錯覚に過ぎなかったのかも知れない。しかしとにかくそれは不思議な確信に満ち、否定し様の無い明晰な認識として現れたのだ。黒い、巨大な生命の塊が、闇の向こうで蠢いていた。それは我々が通常用いている如何なる意味に於ても生命体と呼べる様な代物ではなく、個物と云うよりもひとつの全体、ひとつの流れ、ひとつの力の発現だった。それは他から区別された形を持たず、また持とうともしておらず、また持つ必要も無かった。それはひとつの貪婪な衝動、飽くことを知らぬ深遠なる欲望であって、途方も無い範囲に亘って岩盤の隙間や自ら抉じ開けた空間を使って複雑な根を持った巣を張り巡らせ、この惑星の外側を巡る強大な諸力と悍ましい共生関係を結んでいた。それは生命を喰らうものであり乍らも通常の生命体からは隔絶した存在であって、我々などには想像することさえ困難な方法によって、その莫大な活動エネルギーを手に入れていた。それは地の底深く巣食った、あらゆる生命体にとって敵対的なものであり、我々のものとは懸け離れた意志と目的を持ち合わせていた。それらは独自の思考や感覚を持ち、絶えず大地の養分を吸収すると共に天空へも触手を伸ばして日の光を喰らい、目眩き一大活動構成体を形成していた。それは酷く古々しく、頑丈でしぶとく、ウィルス並みの繁殖力を持ち、惑星形成時にまで遡る忌まわしい諸力との結託を今でも崩していなかった。それは電撃の一撃であり、雲霞の如き大群であり、変幻する霊であり、あらゆるものを押し流す濁流だった。それは荒々しく且つ精妙で、一寸した隙に付け込む狡知を備えてい乍ら、些細な障害などものともせずに突き進む奔放な暴流でもあった。そのエネルギーが我々生命体に認知可能になる様に採る様々な変種発現体が、壊れた万華鏡の様に、引っ繰り返した宝石箱の様に一気に眼前に打ち撒けられて収拾が付かなくなった。それから我々と切り結ぶ際に不可避的に発生する恐怖や、それらの切り結びを誘発する恐怖の数々がどばっと認知可能領域いっぱいに溢れ出し、私はその流れの中に落ちて懸命に藻掻き乍ら、自分が余りにも矮小な存在であることに改めて気が付き、徹底的な無力感に打ちのめされて為す術を知らなかった。ぎゅうっと詰まった高密度の悪夢が私の深奥に存在する扉を叩き、中に入れてくれと猫撫で声で囁き掛けて来た。錬精の済んでいないタールのようなどす黒い粘着力を持った一群が私を求めて立ち上がろうとしており、私は両目を大きく見開いて凝然とその様を見詰めていた。無数にある塊の層の中からひとつが動き、ふたつが動き、そしてみっつが動いたが、その動きを判別するのに時間差が有った為、時が経つにつれて認識される事実の恐怖は倍加して行った。加速度的に、私の破滅は近付いて来ていた。

 と、突然、一切の幻視(ヴィジョン)が消え、凄まじい旋風が起こって、ひとつの白く輝く円と成った。ハッと気が付くと、それは濃紺の背景を背に中空に浮かんでいる、染みの様な影を幾つか浮かべた満月で、その背後の空は、黒い巨大な影と成ってひっそりと静まり返る岩々の隙間の彼方からこちらを覗き込んでおり、峡谷の回廊全体を青黒い闇がぴっちりと固く包み込んでいた。夜だった。そして私は何時の間にか洞窟に成っている部分の外に出ていた。あの恐ろしい闇の姿は見えなかった。私は暫し呆然と立ち尽くした後、可也りの努力をして恐る恐る後ろを振り返ってみたが、そこには通常の極く有り触れた闇が広がっているばかりで、怪異の影はひとかけらも見えなかった。

 その後暫くまだ何処かに恐怖は残存しているか隠れているかしていて、こちらの出方を窺っているのではないかと云う疑念に苦しんだが、何度も周囲を見回して、先程までの恐怖が何処かへ完全に去ってしまったことを確認すると、私は安堵して脱力した。助かった。何故だかは、そして一体何からなのかはさっぱり解らないが、私は助かったのだ。私はあの恐るべき闇の餌食になることを免れたのだ。

 全てのもの、ここに在る全てのもの、私と共に存在しているあらゆるもの、この健全で歪な影の無い世界の、万物万象に対する感謝の念が、澎湃として湧き起こって来た。私は天に向かって祈りでも捧げたい気分だった。だが私は疲れ切っていて、手足は棒の様で、頭は重く、目は霞んで熱を帯びて痛み、喉はカラカラで、表面がヒリヒリと悲鳴を上げていた。ピリピリと乾き切った肌を潤してくれるものが欲しかったが、水筒はあの井戸の中に落として来てしまったし、この辺一帯には水の湧いている所など他には無い筈だった。私は諦め、休息すると云う観念さえも忘れた儘、殆ど夢でも見ているかの様に、騾馬と荷物を繋いでおいた場所へと足を向けた。

 何かに足を取られてつるっと滑り、私は岩盤の上に倒れ込んだ。上手く受け身を取ることが出来なかった為、左の膝頭を強かに打ち付けてしまい、激痛が走った。暫く凝っとして苦痛の衝撃が退くのを待っていると、手や服が何かで濡れていることに気が付いた。暗くてよくは判らなかったが、感触からして明らかに水ではなかった。もっと粘ついて、錆びた様な臭いのする、どろっとした液体だった。間近に顔を寄せてみてもよく判らないので、私は周りの様子を見てみようと顔を上げた。二メートル程先の大きな岩の上に、何か酷く乱れた塊が在って、液体はそこから流れて来ている様だった。月明かりで目を凝らしてその正体を確かめた途端、声には成らぬ絶叫が私の口から洩れて出た。それはバラバラに引き千切られ、グジャグジャに踏み付けられた、嘗て私の騾馬だったものだった。 

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