10 バトンタッチ
「よしっ!」
ヴェイジルの脳天に踵落としを食らわせたピィは、確かな手応えに声を上げた。トドメを刺すことはできないが、逃げ出す隙ができれば十分なのである。ピィは鮮やかに着地すると、クレイスを背負い直して走り出した。
「……ピィ、さ……」
「起きたか、クレイス! もうちょい寝てていいぞ!」
「……ここ、は……」
「まだノマン城だ! 今はヴェイジルから逃げてる!」
ズシンと床が揺れる。振り返らずとも、回復したヴェイジルが立ち上がった音だと分かった。
けれどこの距離なら逃げ切れる。ピィは、突風の速度で扉を目指した。
「――キョオ」
だがそのおぞましい声は、既にピィの真横にあった。
「なっ……!?」
「ピィさん!」
間一髪クレイスが魔法を使ったことで、ピィの体は後ろに跳ね飛んだ。さきほどまで自分がいた場所に、泥の体が倒れ込む。
「キョオキョオ、キョオキョオ」
しかし奴のギョロリとした目は、変わらずピィを追っていた。その目にはもう、さっきまではあった知性は欠片も見当たらない。
再びヴェイジルがこちらに向けて突進してくる。まるで理性を失った獣のような直線的な動きだが、その分――。
(――速い!)
腹部の傷と両手の不自由さが、俊敏な動きの邪魔をする。一瞬の判断で、ピィは今度こそ避けられないと確信した。だから、せめてクレイスは助けようと彼を庇い正面を向いたのである。
「……ッ!」
しかし、何やら耳元で囁かれた。途端に痺れた体は崩れ落ち、入れ替わりにクレイスが前に出る。
「クレイス!」
痺れが解ける。けれどもう間に合わない。
やめろ。魔物ですら、あの攻撃には耐えられない。なのに、それを人間の身で受けようなどと……!
腐臭を放つ漆黒の泥は、壁の如く迫ってくる。そして、その巨体がクレイスを飲み込もうとしたその時。
「よっしゃ来たぜェーーーーッ!!!!」
壁の破壊音と、野太くたくましい声。ほぼ同時に発生した騒音の正体を把握する前に、ピィとクレイスの体は赤毛の腕に掻っ攫われていた。
よく知った温かな魔力に、自分の体が包まれている。そのことに、ピィは安堵で泣き出しそうになった。
「ガルモデ!」
「おうよ! やーっと追いついたぜ!」
魔国軍隊長の赤毛の大犬の魔物は、にかりと歯を見せて笑った。
「早速お知らせなんだがな、ピィ! お前、今魔力を外に出せなくなってるらしいぞ!」
「知ってる!」
「なんだ、知ってたのか」
「この状態でまだ知らないって言ってたら、アホだぞ吾輩!」
ヴェイジルが、不気味な声を上げながら体勢を立て直す。目は、やはりこちらを向いていた。
「……で、あれがヴェイジルの成れの果てか」
そしてガルモデも、呼応するように唸り声を上げる。
「ここは俺が引き受けた。ピィはクレイスを助けてやれ」
「ああ。……なぁ、ガルモデ」
「知ってる。クレイスが回復したら、そのままノマンのとこに行くんだろ」
ズバリと言われ、ピィは躊躇いがちに頷いた。ガルモデは、ヴェイジルからアンバーの目を逸らさずに口角を上げる。
「そうだな。全てが動きだしたんなら、チャンスは今しかねぇんだろう。行ってこい」
「! あ、ありがとう!」
「礼を言われるようなことじゃねぇ。俺ぁオメェの父親じゃねぇんだ」
「吾輩的には、父さんは父さんで、ガルモデはオヤジって感じなんだ」
「なんだそりゃ」
ガルモデが少し笑う。その弾みで、彼の覇気に本能的に動きを止めさせられていたヴェイジルが、天に向けて絶叫した。
「――来るぞ。行け、ピィ!」
「分かった! 死ぬなよ、ガルモデ!」
「俺が死ぬようなタマか!」
ピィが走り出した背後で、ガルモデはヴェイジルの悲鳴に被せるように咆哮を上げた。続いて、激しい衝突音。
「……あの時の決着をつけてやるぜ」
ガルモデの言葉と、魔力と魔力がぶつかる波動を受けて。それでも、「絶対に絶対に後ろを振り向くな」と。走りながら、ピィはそう己に言い聞かせていた。
一方、ダークス達はノマン王国軍と相対していた。
「降伏してください……! 奴隷の数は、ノマン王国兵の数より断然多い! これ以上、無駄な血を流させないでください!」
「愚か者が! 奴隷に高貴なるノマン王国軍が下れと!? バカも休み休み言え! ノマン様に反乱して、無事でいられると思うなよ!」
「そのノマンも今日滅びる! あなた方は、我らと何ら変わらぬ肩書きの無い人間に戻るのです!」
「クソッ……!」
兵士が剣を振り上げ、ダークスを叩っ斬ろうとする。が、巨大な骨の魔物の肋骨に阻まれた。
「にゃ。ちょっと痛い気がする!」
「っていうか何なのだ、この鎧は!」
「鎧じゃありません。元魔王のブーニャさんです」
ダークスは、ブーニャの骨の中に入って身を守っていた。盲目で老体の為、戦場においては当然の措置である。
しかし、兵士長はそれをいたく気に入らないようだった。
「出てこい、ダークス! こそこそと隠れておらず、私と直接剣を交えよ!」
「盲目の剣士とあらば格好もつくのですが、残念ながら今の私はただの老ぼれ奴隷です。しかもそれも今日限りですので、間も無くどこにでもいる余生を楽しみたい爺さんになります」
「にゃ。だそうだ!」
「だから何なんだよ、お前は!」
「……正直、私はノマン王国軍と戦う今日という日に命を捨てる気でいました。ですが、私に甥っ子と姪っ子がいると知ってからは、俄然生きてしまいたくなった。……あの弟の子です。絶対可愛い……!」
「分かるぞ、ダークス殿! 吾輩も、ピィに子供ができたら抱っことかしたい!」
「何の話?」
「要するに、我々も、奴隷軍も、ノマン王国軍も、そしてあなたも。皆、それなりの自由の下で生きてみたいと考えていると思うのですよ」
近くにいた奴隷が、別のノマン王国軍の兵士に斬られそうになる。それをブーニャが手を伸ばして阻み、足を掴んで遠くの茂みに放り投げた。
「私は、皆に助かってほしい。勿論、あなたにも」
「……ノマン様が滅びるものか。我らの自由は、彼の下につくことでのみ達成される」
「何事にも終わりがあるものです。それが、彼の場合は今日であるだけで」
「……」
沈黙が落ちる。その間も、奴隷が、ノマン王国軍が、倒れていく。
喧騒の中で、二人の人間と一匹の魔物が向かい合っていた。
「……そうできれば、良いのだろうがな」
兵士長はため息をつくと、剣を下ろす。
「だがな、今更都合のいい奇跡を信じられないぐらいには、俺は臆病者なのだよ」
しかし、もう片方の手は懐に伸びていた。何が起きるか悟ったブーニャは咄嗟に魔力で壁を作るが、そのナイフには魔力を無効化する術がかけられていた。
「ダークス殿、かがみたまえ!」
「!」
魔力の壁が割られる瞬間、ブーニャはあるだけの骨でダークスを守ろうとした。訪れるだろう痛みに身を縮めるダークスであったが、ナイフは突如現れた影によって阻まれた。
「……臆病は、誰しも同じだよ」
ナイフの落ちる音と、低い声がダークスの耳に届く。それは聞いたことがないはずなのに、どこか懐かしい声だった。
顔色の悪い、ギョロ目で痩せぎすの男が兵士長の前に立つ。男は、ヨロ国の紋章が描かれた鎧を着ていた。
「しかしそれだからこそ、臆病者同士で取り合うことのできる手があるのだと、私はそう思う」
ダークスはハッと息を止めた。彼は、直感的にその人物が誰であるかを理解したのである。
「……マリパ」
零れるように呟く。
兄に名を呼ばれたヨロ国の王マリパ=ヨロロケルは、彼を振り返ると嬉しそうに笑った。
「……はい。久しぶりですね、兄さん!」
「ぶふぉあ」
数十年ぶりの再会に感極まったダークスは、ブーニャの骨に捕まり、身が崩れないようにするのがやっとだったのである。




