第1話 江戸の裏切り
ある昼下がり、江戸の藩邸の長屋で善三郎は槍を振り回していた。
朝は剣術道場、昼からは長屋の庭を借りて日ごとに違う武術を納める。善三郎はそれが楽しくて仕方なかった。
齢17にもなって跡取りでもなく、また仕えるような身分でない厄介が江戸の藩邸の長屋に住めるのは、単に自身の剣術がお国でも優れていると認められているから。
形のよい唇からフウと息をつくと、槍を片付け、井戸に向かう。
兄との約束だ。勉学もすることは。
真面目に約束は守るが、武術に比べれば面白くない。いつの間にかうつらうつら。春の陽気ならば当然船を漕ぐ。昼寝は大変気持ちがよいのだ。
いや、それより、通い道場の先達が貸してくれた読本の続きでも読もうか。あれはあれで面白い。読本もよいが、馬術の稽古もしたい。弓術や柔術もよいな。
「おい、歯抜け。ほんと綺麗な面だよな。まだ幼子のようだ」
唐突にかけられた声に向かって刀を振り抜いた。
「おっと、歯抜け、お前殺す気じゃろ」
「お主か。お主なら大丈夫だろ。それに私はもう幼子じゃないし、歯抜けなんて名じゃない。というか、お国言葉」
「あははっ。おっと失礼」
首をこてんと傾げながら刀を戻す。口を尖らせ、横に座った彼を睨み付けた。確かに歯抜けと言われたら歯抜けだ。
10になるかならないかの齢、彼との取っ組み合いの末、一本奥歯が抜けた。見た目なんかじゃ見えないから、彼しか呼ばない。
にやにや笑う彼の面をみている内に、見てろよ、と拳に力が入る。
彼、伊織には同い年であるけれども未だに勝ったことはない。
近しい年齢の中で剣の強さを比べれば一に伊織、二に善三郎といわれる。
善三郎からすれば、そういわれるのは今だけだ。今の自分では叶う相手ではないが、近いうちに絶対勝ってやるといつも意気込んでいる。
「何か用?」
「いや、お前が呑気そうでな、からかいにきた」
「は? あ、そうか。奥方様ご懐妊されていたな」
「ああ。産まれ月も近づいていてな、お前以外はピリピリしておる」
伊織の皮肉げな笑みへ、善三郎は思わず顔を歪めた。
伊織は悪い悪い、と善三郎を撫でる。子供じゃないと、手を振り払った。
「しかし、跡取りはどうなるだろうな、善三郎」
「まだ産まれてない。おなごかもしれぬだろ」
「男ならば。お国もとの御方が産んだ喜一郎様かどうか分からなくなるだろう」
「何を言う。あの方は10の齢ながら利発で活発な方と聞いている。それに先に産まれたのだ。まだ赤子が跡を継ぐわけにいくまいし、才のある方が継いだ方がよかろう」
「こればかりは分かり合えぬか」
伊織は首を降り、ため息をついた。
善三郎も苦々しく思う。幼子のころから、国許の剣術道場で競いつつも喧嘩仲間である伊織とは最近話が合わない。
派閥が違うがゆえであろう。それでも会えば戯れに稽古をしたり、暇さえあれば江戸の町へ遊びに行ったり、仲が悪いわけではない。
それはそうと、と伊織が話を変える。
「しかし、また腕をあげたんじゃないか」
「いや、まだまだ。お主には勝てん」
「はっ。じゃ、来月の御前試合の対決、俺が勝つってか」
ニヤリと笑われ、無償に腹が立った。
「勝った方が剣術指南役の声がかかるかもしれないんだろ。いや、国許の指南役の跡取りがいないから、養子の声がかかるかもしれないんだったけな」
「お前じゃまだまだだろ」
「いや、今度こそ私が勝つ。選ばれたならば、あの指南役直々指導していただけるだろうしな。腕がなる」
「確かに、な。考えるだけで気分が上がるな。まあ、お前と手合わせできるの、楽しみにしておくよ」
去っていく背に苛立ちを覚えつつ、睨み付ける。軽軽と浮き立つような背は昔と違って隙だらけだ。卑怯な真似はできないが、今、刀を振るえば。
善三郎はため息をつき、もう一度木刀を握る。伊織の幻に刀を振り下ろした。
一ヶ月後の御前試合、伊織の幻影に毎日切りかかっていたがゆえか、はたまた、彼が手を抜いていたのか。彼が刀を振り抜く直前、からだが揺れる。
わずかな揺れへ、沈んだ善三郎の刀が吸い込まれるように突っ切った。
善三郎は勝った、と力を抜いた。伊織はその背にほの暗い瞳で睨み上げた。
それから幾ばくも立たない内だ。藩邸は喜びに包まれた。無事、奥方様から男の子が産まれた。優秀な側室の長男か、産まれたばかりの正室の子か。暗い攻防が激化した。
慌ただしく周りが動くなか、善三郎は国許との手紙の往復にてんてこ舞だった。
やはりあの試合で勝ったがゆえに、養子の話が進んでいる。
まだまだ修行がしたいと書けば、指南役が若かった頃世話になった剣客に紹介状を書き送ってくれたり、自身の訓戒を教えてくれたり。自分はまだ弱いと実感しつつも充実した日々だった。
その日々に起きたことはまさかだった。
まさか自分が御家騒動の対立に巻き込まれれ、いきなり襲われるとは。
善三郎は逃げ出した足で、山道を飛ぶように走る。
これで脱藩したと見なされそうだ。いや、そもそも江戸の奥方派から追われているのだから、国許に帰れば助かるかもしれない。
数人切り捨てたが、急所は避けたから死ぬような傷にはならぬはず。すぐ手当てをしているだろうか。
初めて人を切った感触に頭がぼんやりする。真っ赤に染まった刃をぬぐい、ふらふら歩む。
「痛ッ」
気づかぬ内に枝を踏み抜き、足裏から力が抜ける。
フラりと手をついた岩肌の冷たさに身を任せた。この数ヵ月で御家騒動が広がるとは。息を整えながら、服を破る。
思い返せば、一月前の昼下がり、国許から送られ貯めていたお金を使い、憧れの料理屋に入った。別にいつ行ったっておかしくない店であったが、読本を集めたり、武術に夢中だったり、気づけば行ってなかった、そんな店。
奥の部屋へ案内され、暫し待ってから出てきた鮃の煮付け。ふんわりとした白身に舌鼓を打っていたときだった。
たまたまかもしれない。
隣から聞こえてきた話は、奥方様についた江戸家老が国許に暗殺者を送り、喜一郎様方についた人々を一掃すること。
これは我が身も危ういかもしれないし、ただ間違いであってほしい。悩みながらも、たまたま聞こえた会話を国許に送る手紙へ書いた。国許の父に送り、そこから話が縺れて。
足裏の枝を思いきり引き抜いた。頭がくらくらするほどの痛みにうめく。すぐ布できつく縛った。追手が追い付かなければよい。追い付けば。唇を噛み締める。
喜一郎様方と見られたがゆえか。ちょっとした使いで江戸郊外に出た矢先、複数に取り囲まれ、すんでのところで逃げ出した。
ギラギラ光る刀の林の中を当て身しながら逃げ出し、今に至る。
がさりと音が鳴り、身が跳ねた。振り向けば。
「まだ生きていたのじゃな。歯抜け善三郎。さあ、尋常に」
なぜ、が1番に出てきてしまった。昨日まで笑いながら馬鹿話をしていたはずの人。しかし直ぐ派閥が違ったことを思い出す。立ち会え、か。
痛みを踏みしめながら、善三郎は立ち上がった。鯉口を切り、身を低く沈める。伊織は中段に構え、目を怒らせていた。
風が吹き荒ぶ。
まず動いたのは伊織だった。気合いと共に滑るように胸元へ。
金属音が空へ響く。足が踏ん張れぬ。善三郎は思わず木に手をついた。
居合で一発仕留めきれなかったのがその証拠。刀を飛ばされた伊織は恥辱で真っ赤に染まっているが、善三郎ももう限界だ。
「なぜ、だ。なぜ私を。いや、何で、昨日まで共に」
「なぜ?貴様が指を加えて見逃してりゃ、お前の命は盗らなかったわ。じゃけどな、貴様は、貴様、国許になんか送ったじゃろうが。そのせいで、こちら方の計画が頓挫したんじゃが。貴様のせいで」
逆恨みだろ。善三郎が動いたせいなわけがない。自分にはそんな力はない。そう叫びたくても、声がでない。
目の前がくらくらする。脇差しを抜き放った伊織に向き直った。
「ま、それが表の理由。俺が動いたのは貴様が居なくなりゃ、俺が国許で一の剣士になれる。お前に声がかかった剣術指南役になれるかもしれないじゃろ。あの時、貴様が勝ちやがったから、遠退いたのじゃけどな、やっと」
だから邪魔なんだ。静かな声だ。伊織の言葉に体が凍った。昨日まで笑っていたじゃないか。お前、強くなったなって。
右半身へ切っ先が延びてきた。はっと意識を戻す。慌てて伊織の刀を打ち払った。そのまま返す刀で袈裟斬りにする。
無理しすぎたか。足の痛みが強くなり、足下がぐらつく。
踏ん張りきれない。ひっくり返った先は崖だったらしい。山の木々から見える空の青だけしか見えなくて。
地面に激突する寸前、真っ白な光が体を包み込んだ。