いけぬま。
――夏の牛丼屋には……麦茶が出てくるゥッ!
※ ※ ※ ※ ※
「こらぁ、池沼っ!お前、何やってんだ!何度も同じことを云わせるなっ!さっさとやり直せ!!」
「はぁ、すみません」
「お前、何年ここで仕事やってんだ!
「あのぅ、課長――」
「なんだっ!」
「ボクは池沼ですが…」
「それがどうしたっ!さっさとやり直せ!!!」
「――はい……(おなかすいたなぁ)」
また、仕事でミスをしてしまった――
どうにも仕事がウマくいかない。
後輩に割り振った仕事。
チェックミスでそのまま上司に上げてしまい、しこたま叱られた。
ボクは何度も見直したんだ。
ただ、思い込みが勝ちすぎてしまい、ミスを見抜けなかった。
このウマなら今日はゼッタイ勝てる、脳内にキラリと輝くそのイメージ、心にトキメくナニか…競馬でほぼ確実に負けてしまうような泥沼に足を踏み入れてしまう、そんな思い込み。
そういや、ボクは競馬で勝ったことがない。
塞ぎ込んでいても仕方ない。
――こんな日は、ウマいモノでも喰うに限るッ!
だが、なんてこった。
金が、ないッ!
給料日前の、恒例の、案の定、いつものように、云わずもがな、金がない。
ストレス発散とグルメ志向がボクのサイフを圧迫する。
給料が振り込まれた、はじめの一週間で、ボクは束の間、貴族になる。
その貴族なボクは外食で豪遊、間もなく、庶民。
やがて貧民となり、空腹に怯え、餓狼と化す。
繰り返し――
その繰り返し。
分かってはいるが、繰り返す。
この迷宮から抜け出すことは困難必至。
だが、ボクは薄給界の攻略組。
抜け出せこそはしないが、攻略法はすでに見つけ出している。
――それがッ!!
『牛丼屋』
給料日前、ここはボクの憩いの場。
そこは魅惑の食料宝庫、雄大なる常貧の国。
ボクは天から舞い降りた食通。
無論、社員食堂もある。
しかし、アレはダメだ。
同僚や後輩、おまけに上司もいる。
彼らの存在は、不要なレシピ。
メシがマズくなる。
そう、だからこそ今日の昼飯は、牛丼屋で決まり。
昼食には少々早いが、重い雰囲気の社内からは一刻も早く解放されたい。
昼休みの時間になるや否や、早々に席を立ち、会社からちょっと離れたいつもの牛丼屋に向かう。
孤独なグルメのはじまり、だ!
ランチタイムの早い時間、まだ、店内は混み合ってはいない。
店に入るなり、店内を一瞥、客の配置を確認する。
OL2人組に学生風の若者3人組、作業服の男性と年配の男性が一人ずつ。
牛丼屋の攻略は、まず、その席取りからだ。
――見えた!
ここ、だ。
ボクは入り口付近、作業服と年配の男性の間、席を1つずつ空けて座る。
ベストポジションをキープ、最善手だ。
カウンターしかない狭い店内、その中で座る位置は重要。
両隣が最低でも1つずつ空席であることがパーソナルスペースを確保でき、リラックスできる。
複数人で食事にきた連中はペチャクチャと話をする為、距離を取るのが肝要。
男性客単体での来店は立ち去る時間も早く、近くにいてもさして問題ない。
注意しなければならないのがスマホを覗き込む者。
この手の輩は、居座る時間が長いので邪魔だ。
入り口付近の席を選んだのは、戦場と化す混み合う時間帯に突入した時、すぐに店を退去する為。
店内で押しくらまんじゅうなんて無粋な真似、したくはない。
ここまでは素人でも気付くこと。
しかし、牛丼屋のプロであるボクはひと味違う。
客だけではない。
カウンターの状況も一瞬で確認済み。
アルバイト店員によって適当に拭かれたカウンターには、残飯や汚れの類がついていることがある。
特に紅ショウガがこぼれていたり、七味が撒き散らされていたりしないことにも注目しなくてはいけない。
まず、これを確認しなければならない。
箸置きの蓋が開きっぱなしもダメ。
不衛生だ。
そして、水差し。
こいつが着席した時、手を伸ばさずに取れる位置になくてはならない。
もし、隣の席の前にあった時、他の客に座られてしまうとそいつに独占されてしまう。
特に夏場の麦茶、こいつの存在は死活問題。
こいつだけは死守しなければ。
注文は、すでに済ませた。
牛丼並、汁ダクダクとキムチ。
そして、ビール。
勤務中の昼飯にビール。
この背徳感、たまらない。
上司に叱られた時、決まって昼食にはこいつを頼む。
これはボクの細やかな反骨精神だ。
――なんだって?
ダクダクを頼むなんて、素人丸出しじゃないか、って?
いやいや、分かってないな。
まずは、こうするんだ。
イヤァオ!
出された牛丼の中央、ここに箸を突っ込み、おもむろにサイドに開き、大穴をうがつ。
すると、まるで火山湖のように盛られた飯と肉の中央に汁の池が現れる。
ビールを一口。
ゴクリ――
――ぷは~!
ここ、だッ!
牛丼の具を火山湖の如き汁に浸し、それをつまむ。
そう、牛肉とタマネギをつまみにビールを飲むんだ。
――はむっ。
ゴクッ――
(おぅふっ、ぅぅんまぁぁーーっ)
――はむぅ、はぐぅっ。
ゴキュッ、ゴキュキュッッ――
(んんふぁっ、おふっ、んっ、んぉぉうふん、んまぁーーーふっ)
一心不乱。
汁にわずかに溶け込む米がツナギとなって、露と肉がよくからむ。
濃いめのタレのおかげでビールとの相性もバツグン。
体内を流れる血流が早くなるのが分かる。
恐らく、顔も紅潮しているだろう。
――んぐぅ、んぐぅ~っ。
ゴッ、ゴッキュ、ゴククゥ――
「んま・・んまふぅ・・・んふっ、んふふぅうぁぁん・・・うみゃぁぁあいっ!」
牛丼の具を全て平らげ、その丁度の頃合いにビールも飲み終える。
「ぷはぁぁぁ~~~~!!!!」
満足。
肝心要の最初、取り敢えず満足。
目の前には、具のない中央が窪んだ米だけの丼。
窪みには、まだひたひたと油の溶け込んだ汁が覗く。
うん、丁度いい。
空席を1つを挟んで両隣に座る作業服と年配の男性がボクの食べ方を見ていた。
驚いているな?
そうだろう、そうだろう。
こんな食べ方、常人では思いも付くまい。
いきなり、牛丼の具だけを食べてしまう、このスタイルに度肝を抜かれているな?
分かる、分かるよ~。
でも、真似できないだろ?
ボクは牛丼の専門家なんだ。
蕎麦の食い方に、ぬき、ってのがある。
天ぬきや鴨ぬきと云えば、蕎麦を入れない状態で楽しめるオーダー。
酒を楽しんでいると蕎麦が伸びてしまう、また、かえしの味をからめた具を堪能したい、そんな通な頼み方。
勿論、チェーン店の牛丼屋でそんなオーダーの仕方、できるわけがない。
だから、これを生み出した。
――なんだって?
牛皿を注文すればいいじゃないか、って?
いやいや、分かってないな。
素人は、これだから困る。
理由は、これ。
イヤァオ!
「すいません、お茶ください。熱いお茶、お願いします」
店員がお茶を持ってくる。
これでは、ダメ、だ。
もっと熱いお茶じゃなければ。
「もっと熱いお茶、お願いします。ホット!ベリーホット!ホットホッターホッテスト!あっついヤツ、お願いします。」
外人の店員は首をかしげながらも入れ直す。
キタ!
あっつ!
コレ、だ。
この火傷しそうな熱さがイイ。
具のない丼飯、その米の中央にうがつ汁の池、その穴に生卵をころりと滑り込ませる。
紅ショウガの容器を持ち、大量のショウガをさらさらと丼にぶち込む。
七味を振りかけ醤油を垂らし、ここに熱々のお茶を投入。
――完成!
これぞ、ボク名物の牛汁紅ショウガ茶漬け、爆誕である。
箸を再び中央に差し、最初と同じようにサイドに拡げる。
生卵が割れ、汁と茶と混じり、毒々しくも甘美な色合いへと変貌する。
ウマさへの予感。
これはもう、かっ込むしかあるまい!
――ズズ…
かっ、かっ――
(んほぉぉぉおぅ!うまぁぁぁっ)
――ズゥッ、ズズゥ…
ちゃっ、ちゃっ、ちゃぐぅっ――
「おほぉうぉぉおぅふ!んまっ・・んまぁぅふっ・・・んまぁぁぁんぅふっ」
無我夢中。
ダクダクで頼んだ脂を含んだ牛汁と爽やかなお茶の風味、紅ショウガの鮮烈な汁との黄金比が生む、茶漬けのスペクタクル。
とろける生卵のまろやかさに醤油と七味がきりりとアクセントを加え、紅ショウガのしゃくしゃくとした食感が脳髄を刺激、柔らかな米が喉奥を所狭しと駆け込んで行く。
満たされる腹、鼻腔をくすぐる香り、心地良い食感。
なんて、ウマさだ。
味わいへの感動に目頭を熱くし、わずかな涙が頬をつたう。
ボクは今、生きている!
その幸せが、涙をつたい、鼻をゆるくする。
真の感動は、涙と鼻水を誘発する。
それがどうだっ、今こうして実感している。
ありがとう、牛丼、アイ・ラブ・牛丼。
――見ているなッ?
視線がボクに向けられている。
作業服と年配の男性だけじゃない。
OL達も学生達も、丁度、紅ショウガ茶漬けを創造した時点で新たに入ってきた派手な輩風の男性も、皆、一様にボクを見ている。
なんてウマそうに食べるんだ、魅力的な食べ方に憧れちゃう、あのサラリーマン凄い、そんな声にならない声が聞こえてくる。
羨望――
ボクの牛丼の食し方への羨望の眼差しが、キラキラと熱く向けられている。
この艶っぽさ、色気、そして、無邪気さのあるかわいい食べ方、しかし、大胆にして挑戦的な食べ方に、皆、注目せざるを得ない。
めくるめくファンタジーにおなかいっぱい、そんな印象。
食事で腹いっぱいにせず、ボクのプロフェッショナルな所作で胸いっぱい、そんなところだろう。
そう、ボクはただ、食べるだけじゃあない!
見せて食べ、食べ魅せる!
ボクが牛丼を食べさせられているんじゃあない。
牛丼がボクに食べられたがっているんだ。
そして、ボクは牛丼を、それ以上に昇華させている。
だがっ!――
こんなぁもんじゃあない。
まだ、だ。
まだ、終わらんよ!
――キムチ。
半分を食べ終えたところでキムチを投入だ。
――完成!
これぞ、ボク秘伝の牛汁紅ショウガクッパ、爆現である。
味をドラスティックに変える。
幾らウマいとは云え、紅ショウガ茶漬けだけで丼一杯喰うには味に飽きがくる。
だからこそ、ここでキムチを投入し、味を変える。
ひつまぶしの技法。
味の変化さえをも楽しみたい、そう願い名古屋めしからヒントを得たボクだけのオリジナル。
キムチの辛さが食欲を増進させ、味にインパクトを与える。
白菜の食感が更なる刺激を与えると共に、カプサイシンが体内を駆け巡る。
――がっがっ…
しゃぐっしゃぐぅ――
「ンんほぉうッ・・ま゛っんま゛ぁ・・・あンぐぅふぅんま゛ぁぁぁーぅっ」
――がふっがふぅぅっ…
あぐぅっあぐぁぐぅぅぁ――
「んほぉうおいひ・・うまァすぐるれすぅぅぅ・・・おいひぃぁぁぁン・・ひぃゃゃぁああン・・あふっあふぅうおぅふっ・・・うまままうみゃひゃーーーん!」
――ふぅ…
ほぼ、イキかけました。
食欲と性欲は、共通するエクスタシーをもたらす。
食事という快楽は、情事のそれに似たものであり、悦楽をもって気怠るさを満喫させる。
満腹感はオーガズムの果てにあり、賢人にまで人の叡智を増し、うつつの幸福感を体感させる。
これぞ、真理。
これぞ、摂理。
これこそ、定理。
陶酔――
白目を剥く程、引き攣る程、味に酔い痴れた。
口をぽかんと開け、涎が垂れる、それ程の余韻。
涙と鼻水と涎の滝。
そう、これこそが真の美味を堪能し尽くした姿なのだ。
ヴィーナスの誕生――
そう、ボクはすでに芸術の域にまで達し、果てたのだ。
もし、これが勤務中でなければ、恐らく失禁さえ厭わなかったことだろう。
それ程、ボクは味を、牛丼を、食べると云う行為を、生きていると云う実感を、体験したんだ。
――神よ…
いや、牛丼屋よ、ありがとう。
そして、ボクの食へのこだわりよ、ありがとう。
げぷっ――
――げぇぇぇ~ふぅぅぅーーーッ!
うん、ボク、満足!
麦茶を飲み干し、満腹感に一応の落ち着き。
腹が満たされ、五感が冴え渡る。
さて、と店を出るとするかな?
「……きめぇーんだよ、ったく」
――えっ?
なんか聞こえた気が――
「気持ち悪い食べ方…」
「…いい若いモンが昼から酒飲んで」
「あのオッサン、きめぇ~w」
「独り言がでけぇーんだよ」
「ゲテモノ喰いじゃねーか」
「ツイートしとこ」
「――くさそう」
え?
えっ!?
なんで?
ボクの食べ方、おかしーの?
うそ、だろっ!!?
ほぼ、完璧だったはず。
ウマく演じきったはず、なのに――
「なんでアイツ、よがってんだ?」
「酔っ払いか?」
「ガチできめぇ~~~w」
「くちゃくちゃ、うっせーんだよ」
「くさそう――」
なんでだよッ!
ネットで見たし!!
ボク、人気あるの知ってるぞ!
グルメランキング1位だろ?
アニメ化決定だろッ!?
おいっ!
どうなってんだよ!
めし○○。!!!!!
――めでたし、めでたし