【後編】加減なくいただいてしまいました。
むなしくても腹はへる。今がまさにそう。無性に肉じゃがを食べたい気分だ。
そういえば、エリも作ってくれたっけ。あのときは、豚肉と牛肉をミックスしていた。ほくほくじゃがいもに甘い玉ねぎ、白滝、彩りにみどり色の豆も入っていた。
塩味は控えめだったけれど、ショウガとだしが香ってうまかったんだよな。
けれども、そんなうまい肉じゃがを口にする機会なんて二度とない。スーパーの総菜コーナーのしょっぱいやつが関の山だ。
「まっ、もともとそんなの食っていたんだし。舌が肥えてしまっているだけだよな」
強がりだ。分かっている。そうでも言わないと今を過ごしていけないから。
この先、食べ物について考えるたびに、あいつの影がちらつくのだろう。
脳裏にしっかりと住みつきやがって。だから、長引くのは嫌だったんだ。
「あー、外に出ると鼻がむずむずしそうだしな、マスク、マスク」
独り言が多いが、気にしない。鼻水と涙で散々な顔も洗って、とにかくスーパーに行こう。
土間で靴を履いていると、玄関の引き戸が開いた。そして、カツンとヒールが鳴る。こんなときに、だれだ? 空腹のあまり、見上げるのも面倒になっている。
「ごきげんよう、わたくし、淫魔ですの」
「ウソツケ」
降ってきたのは、昨日までさんざん聴いた声。むなしさや空腹が余計な仕事をしてくれて、ついには幻聴や幻覚の類が襲ってきたのだろうか?
そういや、エリとは初対面のときにこんなやり取りをしたっけ。
……って、落ち着け俺。エリは痕跡ごと家から消えていたじゃないか。しかも、今頃真司と会っているはずだ。こんなところにいるわけがない。
「本当でしてよ。それは和樹がよく知っているのではなくって?」
「俺から見たエリは、どう見ても(音痴だけど)清純派だ! 淫魔だとは認めない!」
幻影の中のエリはぐっと言葉をつまらせた。
そうだ。結局あいつの淫魔らしいところを、ほとんど知らないままだっけ。本物ならもう少しそれらしく振る舞ってくれてもよかったのに。ラッキースケベの一つや二つくらいあっても、バチは当たらなかっただろう。
そんなイベントもなく終わったんだよな、チクショウ!
「……これでも、そんなことをおっしゃいますの?」
視界に飛び込んできたのは、やや暖かくなってきた今の季節でも、少しばかり肌寒いだろう服装の体が、前かがみになったんだ。
白いブラウスから透ける、濃い色のランジェリー。タイトなスカート。そして少しばかり脚の色がのぞくストッキングにピンヒールまで。いつものエリみたく露骨なやつよりは、ぐっとくる。
「幻でこんなサービスショットを見せられるなんてな」
「かず……き?」
最後に目に入ったのは、頭部。フレームの細いメガネ越しにのぞく上目遣い。乱しつつアップされた髪と、少しばかり上気したほほは非常にあざとい。見慣れたようで知らない表情の女が目前にある。
わずかにちらつく隙に、思わず心臓が跳ね上がった。
「エリ……なのか?」
幻影ではなく、本物の。
そっと頬に触れてみるとあたたかい。なまなましい感覚だから、やはり本物なのか。
「そうでしてよ。ですから、先ほどから何度も申し上げているでしょう?」
「何か忘れ物でもしたのか? 今から夕飯の買い出しにいくから、出るときに戸締まりだけはしっかりして」
これ以上、言葉を続けられなかった。全体重をかけて、玄関先に倒れ込んた俺に覆いかぶさってきたエリに、マスクごしに口をやわらかいものでふさがれたから。視界いっぱいに広がるエリの顔で、今キスをされているのかと実感した。
「んぐっ、ぷはっ」
「和樹、酸欠になってカワイイです。こういうときは、恥ずかしがらずに、鼻で息をするものですわ」・
耳元でささやかれた声にぞくりとしたら、また唇をふさがれる。今度はマスクをずらされた。
エリの目はしっかり閉じられていて、まぶたの裏側はうかがい知れない。教えられたとおり、鼻で息をする。花粉症でずるずるなのに、やさしく香る吐息がほんのり甘くてクラクラする。
……なんて生易しくはない。花粉症の盛りで、口をふさがれているんだ。エリの顔(なぜかかけているメガネも含めて)に汚いものをかけるわけにはいかないから、必死にこらえた。
みずみずしさを増した彼女の唇が、ようやく離れた。
よかった。大惨事はまぬがれた。
「もうっ 息は鼻でと言いましたのに」
「花粉症で鼻がやばかったんだよ! それに何しやがるんだ、お、お!」
言葉が続かない。自慢じゃないが、彼女いない歴イコール年齢なものだから、エリとのこれがファーストキスなわけ!
それにしたって様子が変だ。ひどく疲れて、体に力が入らない。根こそぎ体力を奪われた感覚は、酸欠のせいだけではない気がする。
思わず玄関にへたり込む。
「でも、和樹。あなた、キスは初めてではないのです。わたくしの食事のために、夜な夜な和樹から頂戴していましたので」
「は、はい?」
なんですと?
ひょっとして、ときどき襲われていただるさの原因ってこれだったのか?
「量を加減していましたし、和樹にはちゃんと元気になってもらおうと、人間の食事を頑張って作っていたのですよ」
「そうだったのか」
言われてみると、エリが食べている姿ってあまり見たことがない。
後でいただきますと言いながら、それっきりだったことが大半じゃなかったか? 講義の時間が迫っているし、エリにはたっぷりと時間があるだろうからって、特に確かめたりもしなかったけれど。
しかし、異様に体が重たい。まな板に打ち付けられたウナギの気分。まあ、もともとあそこまで跳ね上がれないけどな。
「体が動かないのは、今のキスが原因なのか?」
「ごめんなさいね。どうしても和樹を足止めしたくて、加減なくいただいてしまいました」
心なしか肌がつやつやになったエリ。
ああ、これが彼女の食事なわけか。男を元気にして、その精気をちょっといただく。
まさか、こんな形で『本物』だと実感することになるなんて!
「あれ? エリは真司と会っていたんだろう?」
「はい。お会いして、あのときのお礼はしっかりと伝えてまいりました。気にしなくて良いと仰っていただきましたが、やはりきちんと伝えたくてですね」
「それだけでいいのか?」
エリが目をぱちくりとさせる。
先程まで漂わせていた淫靡さはなりをひそめて、いつものエリだった。
まあ、こっちの方が気楽でいい。
「えっ? 十分でしょう? 謝意を伝えるほかに、何かすることがあるのでしょうか? 粗品が必要ならば後日の用意も検討しますが」
「だからさ、二人っきりでお茶したりとか……デートとか。ずっと会いたがっていた相手なんだからさ!」
「そういうことをするのでしたら、相手は和樹がいいです」
いやさ、エリ、おまえはそんなそぶりを全く見せなかっただろう?
ひょっとして、真司相手に玉砕したとか? おだやかでお人よしだから、ひそかに人気があるみたいだしな。あいつの色恋沙汰は聞いたことはないけど、実は彼女がいるなんて言われても納得する。
エリを慰める分には構わないが、こんな手段を取らなくてもな。
「エリ、真司は駄目だったかもしれんが、相手は俺じゃなくてもいいんだろ? 誰か手頃なヤツをつかまえてさ。淫魔だと伝えずに、美形どころとデートしてきなよ」
「和樹は、わたくしではだめですか? 和樹に好きな人がいるのでしたら、見つからないように配慮しますので。何ならわたくしを相手に練習してもかまいません! 和樹はノーカウントでも構いませんし!」
「いやな、そういうわけじゃなくて」
エリとのデートを練習扱いなんてしない。
ただ、本当に相手が俺でいいのか、そうぐるぐると考えてしまうだけだったんだ。
エリが強く望んでいるなら、本望なのだが。
「真司さんを探している日々はつらくなかったです。見つからなくてもそれはそれでと思いました。昨日の和樹の態度のほうが、わたくし、ずっと堪えましたの」
「いやまて唐突すぎるだろうおまえは」
「唐突なものですか! 気にいらなければ、お代わりで精気を頂戴したりしませんから! わたくし、グルメでしてよ!」
とりあえず、俺の精気とやらが彼女のお気に召したらしい。
なるほど。淫魔なら、そういう基準でヒトを見込むのはありえそうだ。
「ぜいたくはいいません。デートは一度だけ、短時間でかまいませんから! ですから、他を当たれなんて悲しくなること、仰らないでください」
エリがぽろぽろと涙をこぼした。俺とデートしたいとのたまいながら。
涙そのものには焦りつつ、どこか幼い泣き方にほっとしていた。
これは、うぬぼれてもいいのだろうか?
「真司さんに相談して、和樹が好みそうな服だってこうして着てみたのですから!」
あいつは何をエリに吹き込んだんだ……なりゆきで、女教師モノのお宝映像を貸したことがあったからって。複雑すぎる。
次にあいつと顔を合わせたとき、どうすればいいんだよ。
いや、うん、エリによく似合っていて眼福なのは否定しないけどな。
「清純派なんて言って悪かった。エリは正真正銘の淫魔だ」
「わかって頂けて何よりです。ふふ、うっかり和樹を食べすぎないようにしなければいけませんわ」
虚空に溶けそうな、たよりない声質は変わらない。それなのに、理性を侵略にかかる。時折のぞかせる恐るべきエリの変貌に、いまだについていけない。
「それでは早速、付き合っていただきましょうか」
「まて、俺の腹がピンチだわ。栄養が足りないって暴れだしそう」
「ですから、夕食用の買い出しですわ。これも立派なデートでしてよ」
エリの細くてきれいな指が、俺の指に絡まる。腕もとられて、彼女の意志でぴったりとくっつけられる。
近所を出歩くだけだからと、シンプルにジャージ上下しか着ていないのに、リア充とはこれいかに。しかもマスクつき。
「エリがそれでいいなら構わないが。俺、いまさ、すっげぇ肉じゃがな気分なんだわ。前にエリが作ってくれたやつ、うまかったからさ」
「そうだったのですか。では、一品決まりですね」
エリの顔がほころぶ。ああ、こっちの方が落ち着くな。
そんなこと言ったら、またほっぺたを膨らませてすねてしまうから、言えないけれど。
「では、ごきげんのままいきますよ、和樹。ぼげー♪ おぺー♪」
「歌いながらの外出はやめろ、滅びの呪文で犠牲者を出す気か」
叫んで相殺したかったが、体に力が入らないから、声が弱々しくなった。
ご近所のかたがた、なんか、その、申し訳ない。
最後まで読んで下さりありがとうございました。




