【前編】はじめまして、ごきげんよう。
「ふ……ふ、へくしぃっ!」
朝からフル稼働する生体防御反応。働きすぎだ。だから花粉なんぞに毎年悩まされるんだ。
台所からほわりと美味しそうに香っているのに、満足に堪能できないのがこの時期の悩み。
「おはようございます」
「ああ」
「ああ、ではありません。あいさつは基本ですわ! 特に朝のは!」
やや説教口調だが、朝っぱらから屈託のない笑顔のエリ。真っ白なエプロン(ひかえめなフリル付き)がよく似合う。
同居生活において、もはや恒例のやり取りと化している。
「本日はししゃもを焼いて、なめこのおみそ汁も作りましたの」
「ありがとう。いただきます」
初めて目にする四角い皿にかっちりと盛られたししゃもからは、湯気が立っている。
隣に置かれた筑前煮は、にんじんとさやえんどうがほどよく彩りのアクセントに。さらには、玉子焼きとほうれん草のごま和え、おしんこ、海苔まで。それぞれがきれいに盛り付けられていて、旅館の朝飯なみだ。
「ほげー♪ ぼえー♪」
奇っ怪な歌声にあわせて、台所からざぶざぶと音が響く。エリが気分よく作業をしているのだろう。毎朝聞かされるのもあれだし、一緒に食卓についてもいいものだが、誘っても聞かないのだ。
「うまい。相変わらず小魚をふっくら焼き上げるのな。何かコツはあるのか?」
「秘密です」
手を止めてこちらに向ける、朗らかな彼女の笑顔がまぶしい。
歌もとまるから、なおさら。
同居開始当初は、食事もふくめて家事を二人で平等に回していたけれど、今や料理だけはエリに偏っている。俺は他の家事をカバーしているけどな。
本当、エリが単なる下宿人だったら。そう嘆息したのは一度や二度で済まない。
「いつもありがとう。ごちそうさま」
食器を流しに持っていこうとすると、エリが制止する。
こんなやりとりもすっかり日常になりつつある。
「置いたままで構いませんのに。和樹、今日の予定はどうなっていますか?」
「朝から講義が二コマ。午後のは急に休講になったからなぁ、空いてる」
「では……!」
上目遣いでキラキラと目を輝かせる。この顔にはめっぽう弱い。
「ああ、やっておくさ、『例の君』探し」
「お願いしますわ。なかなか手がかりをつかめませんの」
『例の君』とやらは、幼く未熟だったエリが不良に絡まれたとき、機転をきかせて撃退してくれたのだという。そいつがエリのことを覚えているかなんてわからない。
でも、言えなかった。熱心に探している彼女を目のあたりにして、言えるわけがなかった。
三カ月ほど前、自称妖怪退治師のジジイが、エリを連れ帰ってきた。妖怪の被害者で、一時的にかくまういつものだと思っていたが、少し様子がおかしい。
ジジイは俺に彼女を押し付けて立ち去った。彼女へのいたわりの言葉や、俺への注意事項の伝達もなく、だ。
「はじめましてごきげんよう。見てのとおり、わたくし、淫魔です」
「は? ……うそだろ?」
これがファーストコンタクト。笑顔で自己紹介をかましてくれたが、にわかには信じられなかった。
ジジイは妖怪退治師だか、現場を見たことのない俺はリアリストだ。淫魔だと言われたところで、鵜呑みにするわけがなかった。
「失礼ですわ。わたくし、正真正銘の淫魔ですのに」
「いきなりそんなこと言われたってなぁ」
淫魔といえば、蠱惑的に男どもを手玉に取る、というイメージを持っている。だが……。
「目の前にわたくしというものがありながら、淫魔の存在をお疑いですの?」
「おまえのどこが淫魔らしいのか、根拠を原稿用紙二枚程度で説明してくれっ!」
「書いても構いませんが、あなたは淫魔の文字が読めるのでしょうか?」
思わぬ返しに、とっさに反論できなかった。適当に書いたものを淫魔の言語だと主張されたら、真贋を証明する手立てがないから。
「日本語と英語以外はお手上げだ」
「そうそう。わたくしたちの文字は縦横無尽に表現するので、原稿用紙、でしたかしら? あのマス目のある紙にうまく収められません」
得意そうに俺を見やる顔は、相当整っている。人間離れの美貌だ。男が百人いたら、ひねくれ者を除いてそう答えるだろう。
加えて、スタイルだってややスレンダー寄りではあるが、女性らしい、なめらかな曲線を描く体の持ち主だ。
実のところ、好みどストライク。
「それにほら! 正装だってしていますのよ」
「まあ、衣装に関してはそちら系とは言えなくもない、か?」
胸の谷間が大胆に見え、太もももあらわ。一般的な女性の服より、肌色の面積が大きめだ。まして雪がちらついている中、ご苦労なことだ。
「角とか翼とかしっぽの類はないのか?」
「あれをヒトにさらすのは、変化もままならない低級の仕業でしてよ」
だが、な……。
「じゃあ、それについては言わん。だか、おまえには決定的に色気が欠けている。なんだよ! いかにも清らかですと言わんばかりのまぶしさは!」
地面に刺さりそうなストレートな黒髪、俺をまっすぐとみつめる瞳、屈託のない笑顔……何というか、清らかそのものだった。露出度の高い服を着ていても、侵しがたい。
やまとなでしこ、純粋培養、聖域、そんな単語が似合う。
「そんなことありませんわ。今までだって、殿方を手のひらの上でコロコロっと転がして」
「コロコロ言ってる顔がもはや清純派じゃねえか!」
顔だけじゃない。箱入り娘のような、少し尊大さのあるやわらかな言葉遣い。虚空にとけそうな、はかない声。ボディラインを強調しない、慎ましささえおぼえる控えめなしぐさ。
とにかく、俺のイメージする淫魔はコレジャナイ感が拭えなかった。
一瞬の沈黙。彼女の肩が震える。泣き出すのか? それは面倒な……。
「清純、ですって!? よくも、わたくしを侮辱してくれましたわね!」
「怒りスイッチが入ったようだな。つまりは、図星、なんだろう?」
杞憂だった。面白い。
女の武器である涙を使わず感情をあらわにするあたりがまた、ウブさを感じさせた。だが、指摘したらまた怒るだろう。だからツッコまない。
「おまえさ」
「エカチェリーナです」
「あ?」
ふくれっ面はまさに子どもそのもの。愛らしいけれど、色気はかけらもない。
「わたくしの名前です」
「名前までチグハグかよおまえは」
ツッコミどころの多さに、ウンザリしてきた。
「ですから、わたくしはエカチェリーナですって!」
「あー、おまえなんざエリで十分だ」
「もう! わたくしの名前を何だと思って!」
彼女は片眉を跳ね上げた。左右非対称の表情もまたかわいらしい。
「おまえの顔はともかく、名前はここだと浮いちまうからな。それに人ならざるモノなら真名を秘するものだろう?」
この辺はジジイからの受け売りだ。いたぶって、真名を吐かせて消し去る。それが妖怪退治師というもの、らしい。
「ご期待に添えず申し訳ないですが、エカチェリーナは偽名ですわ。当然、真名は伏せていますの」
「それならなおさら、エリでよくないか?」
カタカナでもひらがなでも、適当に漢字を当てはめたっていい。日本人の顔立ちに近いのだから、エリの方が似合う。
「仕方ありませんわね、あなたの熱意に負けました。採用しますわ。エリは、まあ、悪くない響きですしね」
エリはため息をついたあと、目を細めて笑んだ。カスミソウを背景に背負うと似合いそうだ。
何度見ても、淫靡とか蠱惑とか、そんな単語とは無縁の清らかさ。
「で、だ。エリ。おまえにいくつか聞きたいことがある」
「何でしょうか?」
「まずは、妖怪退治師のジジイが、なぜおまえを退治しなかったか」
ジジイから過去の仕事として、淫魔に退場願ったこともあるも聞いている。エリが本当に淫魔だとすると、ジジイのターゲットになるのが自然だ。
「わたくしがヒトに害をなす気がなかったから、それに尽きますわ。むしろ、先ほどまでいらした妖怪退治師さんを助けて、別の妖怪を成敗いたしましたの。その報酬で、しばらくの居住権を求めて、認められまして」
この家の決定権はジジイにある。学生の俺は居候に過ぎない。だから、ジジイがこいつを住まわせると言ったのなら従うまでだ。
まあ、ヒトなら老若男女、一時的に住まわせたことがあるからな。たまたま今回が人外なだけで。
「……なるほど。そこまでは納得した」
「他にもなにかありますの?」
他にもというが、どう考えたって聞きたい核心に触れちゃいない。
「ヒトに害をなす気はないそうだか、それならどうして人郷に降りてくる必要があるんだ? 伝説どおりなら、食事のときだけ接触したら十分、だろう?」
「食事だけならそうですわ。でも今回、わたくしがここにいるのは、それだけではありませんわ」
「差し支えなければ教えてくれないか?」
見た目が好みだからって、得体のしれない女を長くそばに置いておく趣味はない。手伝ってでも、とっとと本来の彼女のテリトリーにお帰りいただきたいから。
「まあ! ひょっとして、わたくしを手伝ってくださいますの?」
「淫魔だと主張するヤツを長期間置いておきたくないんだよ。手短に済んだら、それに越したことはないだろう?」
「なるほど、理に適っていますわ。案外慎重なお方なのですね」
右手をあごの下に添えて思案顔のエリ。サマにはなるが、やはり妖艶さはない。さっきも思ったが、服の露出度をもう気持ちだけでもひかえてくれたら、理想そのものなのだが。エリが淫魔のアイデンティティを確立する以上、期待できそうにない。
「案外は余計だ。もったいぶらず、さくっと明確に述べてくれ」
「そうおっしゃられたら、仕方ありませんわね。申し上げますわ。ずばり、人を探していますの。一言、お礼が言いたくて」
意外だった。
見た目によらず尊大なエリが、誰かにお礼だって?
「で、覚えている限りの相手の情報は?」
「お会いしたのは十年前、この街の一番大きな駅で、ですわね。当時は少年だったので、今は……そうね、ちょうどあなたくらいの年頃なのかしら?」
イヤな予感。
けれども片足を突っ込んじまったからな。この問いを投げざるをえない。
「他には何かないのか? その……名前とか、身体的な特徴とか」
「印象的ではない顔立ちでしたが、笑顔がとても愛らしかったのですわ。名前は存じ上げませんの。お聞きできなくて口惜しかったですわ」
人探し。しかもこれといって大きな手がかりはない。腕組みする自称淫魔という女の記憶だけがたより。
長丁場になりそうな案件に、頭を抱えたのは言うまでもない。
そして予感は的中し、現在も手がかりすら見つかっていない。
ありがとうございます
中編は本日の12時を予定しています。