烏有への瞋恚
何人も琢磨された真直を貫いて仕舞えば健全であり、そこに燃える炎が潰える事はない。彼の敬慕した彼女もまたその内であり、彼女の場合はいつまで経っても真夏の少年のような心を持っていた。
自分というものは実に近すぎるもので、"私が私"であっても"私の全容"を知り尽くす事は出来ない。まして"私"に潜む未開を覗こうものなら無名の動揺に視界が歪む。故に全容を静観できる他者に憧れを抱いてしまうのだろう。
彼もまたその一人であり、今は亡き﨟長けた彼女に惹かれていた。
内輪の変わらぬ昼夜を繰り返す者がいれば、そうでない者もいる。例の如く陰気な白い少女の傍で、彼は黴のように鬱陶しく纏わりつくカルマの規則を掃い、彼女が残した遺産を受け入れるべく支度をしていた。それが彼女の願いだったからだ。
「君にはいつも振り回されてばかりだよね、ヒガ。そろそろだ。」
塵の舞う乱雑とした一室に一人、段ボール箱に座り、ホオズキは開かないロケットを手持ち無沙汰に指の腹で撫でていた。
彼はこれから死ぬ準備をしていた。…………正確には表で自身の名前を消し、カルマの眼の外、無関心に身を置く準備をしていた。
***
ヤナは塞ぎ込み、生きたまま腐乱するような日々を送っていた。
可哀想だと思い、何かしなくてはと責任を負っていたこの時間は、何だったのだろうか。どれだけ訓練してももう右肩が胸より上がる事も無い。それに今も縫合した跡が生々しく残っている。鏡に映る体を見るたびに純真だった心が荒む。
しかし分からないわけでは無い。スズ改めマシロもまた、辛かった思いをしているのだから。話を聞いてでしか彼女の過去を知り得ないけれども、目の前が見えなくなるほどの貧血の辛さ、劇薬を体内に入れられる苦しさ。
…………否、やはり正直現実味を帯びない苦痛には、一般人である彼女には分からないものの方が多い。
ぽっかりと胸が空いたようである。虚しい風が涼しく通り抜け、その肌寒さから再び延々と、円を描いて不穏な事ばかりを考えてしまう。認めたく無い事、整理の追いつかない脳内は散り散りに漂う星のようになっていた。
そうして少し惚けてしまったような彼女に、所長をはじめ彼女の同僚や仲間が気づかない訳も無い。
「あんまり考えすぎて前に進まない事もありますよ。」と後輩に誘われ、今日ヤナは喫茶店にいた。
後輩の名前はマツ。ヤナと同じく特殊部隊として前線を駆けていた、まだ若い少女だった。
二人が知り合ってから4年ほど経つ今、生死を分つような世界に幾度も飛び込んだからであろう。姉妹のようにじゃれあっては笑い、背中を預ける仲にある。
「なんだか心配かけさせちゃてごめんね。」
「いいんですよ。ウチも先輩に迷惑かけるときはかけまくってますし。この前も、お恥ずかしながらリーダーにめちゃくちゃお世話なったばかりですし。」
「また?今度は何やらかしたの?」
久しぶりの雑談に身を緩め、ヤナは羽を伸ばす。思えば、数ヶ月マシロとともにずっとあの部屋にいた訳である。街並みも何となく変わっていて、それに通い慣れたお気に入りの喫茶店のメニューも少し変わっている事に気付いた。
気づけばあちこち変わっている。けれど彼女は彼女一点のみ。まるで全てから忘れられてしまったかのように何も変わる事なく、常に移り行く周囲を見渡して生き続けるのだろうか。
それは、少し寂しい。
そう思う反面で、どれだけ寂しい人であろうとも人を、増して親友を殺した彼女を簡単にはやはり許せないのである。
彼女へ対するこの憐れみと親友を殺した事に対する怒りはどこかベクトルが違い、相反するわけでも無いが噛み合いもしない。
なるほど、愛憎的な二つの念が同時に彼女に向いているのだろう。
マツが食べているパンケーキを眺めながら、ヤナは考え込む。
「先輩?考え事してる目してますよ。」
「まあ。してたね。」
ごめんとヤナは謝る。
「やっぱり先輩、真面目なんですよ。もしかして自分がどうにかしないとって思ってました?」
下唇を軽く噛み、ヤナは頷く。
「確かに、あの子の事先輩に押し付けちゃってる感じはありますけど。ところで…」
マツは一度周囲を見渡す。何か会話の障害になるようなものが無いかを確認した後で、タブレット型の端末を取り出し、文字の羅列されたデータを開いた。
「2年前の件、あれってどこからあの子の居場所が出たか知ってますか?」
「カルマから漏れた情報から探し当てたんじゃ。」
「確かにそうなんですけど。先日制圧に向かったカルマの施設で見つけたものなんですけど、これ。」
指で弾くように画面をなぞり、マツは端末を操作する。とあるところで指を止め、その画面をヤナに見せた。そこには鍵のかけられていないデータと、カルマ外の回線につなげた形跡が文字の羅列として残されていた。
「漏れてたというより、どうも漏らされてたらしいです、誰かに。記録を見る限りカルマの中で多分裏切った人がいたんでしょうね。」
一度お茶を飲み、口の中の甘ったるさを奥に流し込んでマツは続ける。
「それにウチらが行くまでエリクサーが出来上がってたなんて気付かなかったくらいですし。気になって調べたらあの子やっぱり禁忌を犯しただけあって最高機密でしたよ。」
「それじゃあスズ…マシロを扱えるのはかなり高位クラスの職員なんだろうね。」
「はい。で、先日の手紙もですがカルマの情報の漏洩が今回と前回と二度も起きてるわけなんですけど。」
「もしかしてどっちも同一人物かもしれない、って事?なるほど。」
合点がついてヤナは手を打った。しかし同時に一つの違和感が発生する。
不老不死やキメラはマツの言う通り禁忌中の禁忌であり、故に認知し取り扱える人も厳密に限られる。ある種危険物質を取り扱うのだから、待遇もよっぽど良いだろう。新たな欲が生まれたとしても、カルマは彼らに見合った報酬として、叶えるための権限を与えるだろう事も考えられる。
それにシャルマに寝返ろうと思ったところで、シャルマは一度狂った彼らを受け入れようとは思わない。仮に裏切ったところでカルマの生涯の監視が纏わりつくだろうし、快適な世界から彼らが手のひらを返すメリットがまるで見当たらないのだ。
目的も依然釈然としない。思い出したがあの手紙にはただの一言、"迎えに行くまで保護していて欲しい"とだけ記されていたが。
「…手紙の人と同一人物だとしても、分からない事が多いですね。」
「ふぅむ。なかなか大きくは進展しないね。もどかしい気持ち。」
思わず溜息が漏れる。ヤナの脳裏には、今日までの日にあまり意味が無かったのではないかと不穏な考えが巡るが、それについては考える事をしばらく止めることにしたらしい。疲労困憊な心が甘味の感無量な浮遊感を求めて、ヤナは砂糖を多めに入れたお茶を一気に飲み干した。
***
喫緊なわけでもなく、時間が無限であるのなら話は別であり、加えて"私"について無知であるほどに"私"は見つめるべきものである。
いつかに貰ったノートを開き、マシロは独り床に散らかった本に囲まれて一日一日を潰していた。
そこに何かがあるが目に見えず、さして何をするわけでも無いが常に側にある、陽炎の揺れるような曖昧さ。不明瞭である事が"怖い"のであれば簡単である。暴けばいい。
しかし最中で思い出すのは辛辣に悪意を含んだ眼差しと罵倒の声。一枚一枚と本をめくれば、記憶をめくればその度に黄昏に萎む朝顔のように頭を垂れてしまう。
今日も、ヤナは来なかった。昨日も。知らないところで犯したわたしを許せず。だから明日もきっと来ないのだろう。
「寒い。」
自分を囲む本の海に寝そべり、天井を見上げながら呟いた。そして瞼裏の夜空を見るために、浅い眠りに落ちていく。