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「ほんっーーーーとーーーに、あんた馬鹿じゃないの!」
草原の真ん中に怒声が響き渡る。木々に止まっていた小鳥たちや、近くにいた小さな獣が一斉にざわめいた。
声の主は、天空の女神――だったディアナだ。すでに天界から降りてきてしまい、神としての権限を失ってしまったらしい。目つきは恐ろしいほど鋭く、地面に座っている亮を見下ろしていた。当然、亮は正座だ。
「いや、最初は妄想だって本当に思ったんだって。まさか、転生とか異世界とかが本当に起こるって思うわけないじゃない? 自分もとうとう発症したのかな、くらいにしか思ってなかったんだよ。いや、ほんと、申し訳ない。この通り」
そういって、亮は額を地面にこすり付ける。視線が低くなりディアナの太腿が近くに来るが、それにかまけている暇はない。ディアナの怒りは収まらない。今にも、亮の頭に食らいつかんばかりの圧力を放っていたからだ。
「あんたのせいで! 女神だった私は! ただの人間なっちゃったのよ! 人間に! あんたに! 騙されて! 洗脳されたせいで! わかってんの!?」
「僕も思ったんだよ。妄想があんな簡単に訂正されるなんて、普通はないからね。なんてちょろいんだろうって思ったぐらいだもん。ほんと。ちょろいんって君のことを言うのかな?」
「この期に及んで、まだ私を馬鹿にしてるの?」
うっかり口を滑らせた亮の視界にうつったものはまさに鬼だった。絶世の美少女である女神は、地上に降り立ち鬼と化したのだ。
圧倒的な冷気にさすがの亮も軽口が叩けない。再び額を地面にこすり付ける。
「してません。滅相もありません。申し訳ありません。ほんと、馬鹿になんかしてないんだ。少し頭が弱いのかなって思ってるくらいで」
「……殺す」
その刹那――、草原に雷が落ちた。
文字通り、雷が落ちた周囲は真っ黒に焦げている。その真横にいた亮も例外ではなく、髪の毛やら服やらが部分的に焦げていた。
命まで奪わなかったのは、女神であった時の良心が残っていたからだろうか。顔面蒼白になった亮をみて溜飲が下がったのか、ようやく近くに転がっていた石に腰を掛け落ち着いた。亮は、というと、その姿を見て足を崩し地面に胡坐をかいていた。
「さ、さささ、さて。それにしても――」
「余計なこと言ったらもう一発お見舞いするわよ?」
「あ、ああ。わかってるさ。わからないこと言うね、ディアナさんは。僕がいつ余計なことなんていったかな。僕は必要なときに思っていることを正直に述べているだけなんだ。嘘偽りのない言葉は時に人の心を抉るけど、それを乗り越えてこそ――」
「うん。それで?」
「こほん……。あ、ああ。うん。そうだね。話題を戻そう。僕が話そうと思ったのは、これからのことさ。僕のせいで、ディアナさんも僕も異世界へと降り立ってしまったわけで。そしてこの異世界は剣や魔法が存在するファンタジーな世界であって、僕らはここで生きていかなきゃならない。そういうわけだね」
「そういうことね。あ、そういえば。ディアナさんとかじゃなくていいわよ。そんなきさくに呼ぶなんて私は許した覚えはないし。『崇高なるディアナ様』とかならぎりぎり許容できるかしら?」
「え? それってさん付けをやめていいって流れじゃなくて? まあ、いいや。崇高なるディアナ様は神であったときの力が残っているのかな?」
「ええ。まあ」
「そうか。で、あるならば。崇高なるディアナ様はその力を使って、なにができるのかな?」
亮から投げかけられた質問に答えようとしてディアナは言いよどむ。先ほどは質問のせいで馬鹿をみたのだ。警戒するのも当然だ。だが、答えても支障がないと思い、ディアナはおもむろに口を開いた。
「えっと、私は女神だったから……、天罰を与えるための雷の力や邪なものを浄化する力だとか人を癒す治癒の力とか……そういうのかな?」
「それって魔法ってこと?」
「ここだとそう言うわね」
「へぇ。魔法なんて初めて見たよ。まさか、自分に襲いかかってくるものを見るとは思わなかったけどね。と、そんな話は置いておいて、崇高なるディアナ様はそれだけの力がある。対して僕は? せいぜい、精神科医としての知識と経験、ちっぽけな人間風情の肉体くらいだ。そこで聞きたいんだけどね。最初に言っては力を授けるって、あれは何?」
「ああ、あれね」
ディアナはどこか呆れたように小さく息を吐いた。そして、足を組むとどこか偉そうに口をひらく。
「あれは、こっちに転生する人間に一つだけ、特別な力――固有能力っていうのを授けることにしてるのよ。ほら。すぐに死んじゃったら寝覚めが悪いじゃない? だからあんたにも、こっちに来るときに一つだけ力を授かってるはずよ……っと、なになに? えっと――」
ディアナが亮をじっと見ながら何かを読み上げる。その視界に見えているものは亮にはわからないが、授かった力を見る方法があるのだろうと亮は結論ずけた。
「あんたの力は、『どこでも精神科』って書いてあるわ。ねぇ、これって何?」
「僕に聞かれてもわかるわけないじゃないか」
亮はつぶやきながら立ち上がる。どこかすがすがしい表情を浮かべながら大きく伸びをした。
「さて。魔法があって授かった力もあって。これって本当にあの小説みたいな世界だな」
「小説?」
ディアナが亮を見上げながら問いかける。薄い布を巻いただけの肢体はひどく艶めかしいのだが、亮は気づいていないのか淡々と話していた。
「ああ、患者さんから借りたライトノベルってものさ」
にやりと口角を上げて人差し指をディアナに向けた。
「僕らみたいにこうやって異世界に下りたった少年少女の物語だよ。こっから主人公は大概は輝かしい未来と困難へ向かっていくんだけど。なるようになるかな」
亮は踵を返すと、そのまま歩き出す。そんな亮の後ろ姿をみて、ディアナは慌てたように呼び止めた。
「ちょ、ちょっと! あんた、どこ行くのよ!」
「へ? どこって、転生が本当だったからちょっと面白そうな冒険の旅に」
「何、近所のコンビニ行く感覚で冒険にでてるのよ! って、そうじゃなくて私はどうしたらいいの? ここで待ってればいい? それともついてった方がいい?」
ディアナの言葉を聞いて亮は怪訝な表情を浮かべていた。
「へ? 別に自由にすればいいんじゃないかな? それとも何? 崇高なるディアナ様は、僕でもわかるようなやるべきことがわからないなんてことはないよね? それはそうだよね。それはそれは崇高なるディアナ様なんだから? 僕以上にうまくこの世界で立ちまわって生きていくんだろうね。あ、もし有名になったらサインぐらいちょうだいね。僕が言えるのはこれくらい。じゃあね」
「だから待ってって!」
「何? まだ何かある?」
「あるにきまってるじゃない! そ、それはね? ここは、私が管理していた世界よ? 何をやるべきかなんて、知っているにきまってるし、なんなら、あんたに教えてあげないでもないんだからね!」
「結構」
再び歩き出す亮にすかさず飛びつくディアナ。ヘッドスライディングのごとく飛び込んだ様は、プロ野球選手も真っ青だ。
「そこは、苦笑いしながら受け入れてくれる場面じゃないの!? ねぇ、ないの!?」
「ないね。いまどき、そんなツンデレ流行らないよ? それに、きっと崇高なるディアナ様は、僕がこれから行きたいと思ってるギルドとか、やりたいとおもってる薬草採取とか、パーティを組むだとか、そんな異世界テンプレはみんなご存じなんだから。僕は楽しみながらやっていきたいからさ。イージーモードは求めてないんだ」
「へ? ギルド? パーティ? テンプレ?」
「あれ? 知ってるんでしょ? なら今言ったことなんか基本だと思うんだけど」
「え、あ、その……き、基本の『き』ですらないわね! 当たり前じゃない!」
「じゃあ、やっぱり僕なんかいらないね。では」
ズボンにしがみついているディアナを振り落さんばかりに踏み出す亮。だが、それに対抗するのはディアナだ。
「あ、それならこういうのは、ど、どうかしら? この世界はモンスターがいるわ。それもとびきり強い奴がね。私の雷の力を使えばきっと簡単に倒せるわよ! そしたら、あんたもお金が手に入るし、ね! これでどうかしら!?」
「どうって何? 崇高なるディアナ様が求めることが僕にはてんでわからないな。さてさて。日が暮れると大変だからさっさと町を見つけたいんだ。手を離してもらっていいですか?」
さすがに、手を踏みつけて行くほど亮は鬼畜ではない。無言で地面に突っ伏しているディアナを見下ろしながらため息をついた。
「さて。何か言いたいことがあるのかな?」
「ごめんなさい……。何もしらないの。だから一緒に連れてって? 雷もバンバン打つから! 役に立つから! 一人じゃ何していいかわからないし生きていける自信がないのー」
涙ぐみながら叫ぶディアナを見て、亮は苦笑いを浮かべた。
――ただの子供じゃないか。
人付き合いが乏しかったからだろうか。ディアナの成長には、心と身体でかなり解離があるのだと認識しながら亮はしゃがみ込む。
「最初からそういえば良いのに。ま、ついてきたいなら、お好きにどうぞ」
「なっ――!?」
「はいはい。すぐに怒らない。じゃあ、ほら。立てる?」
差し出された手を見つめるディアナ。いまだに、表情はむっとしているが、亮の手をちらちらと見ながら気まずそうに自らの手も伸ばしていく。
そして、握手を交わすと、亮は満面の笑みで告げた。
「では、よろしくね、崇高なるディアナ様?」
「……いい」
「ん?」
「もうそれいいから。普通に呼べば?」
「それって様をとっていいってことかな?」
「好きに呼べっていってるでしょ!?」
「はいはい」
ディアナの低い沸点を感じながら、亮はディアナの手を引き上げた。立ち上がったディアナは、未だに亮をむすっとした表情で見上げている。
「よろしくね」
「ふんっ」
とりあえずは、人里を目指す亮達。かみ合わない二人の旅はまだはじまったばかり。