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結城亮が女神であるディアナの元に来たのはつい先ほど。気が付くと、真っ白な天井や壁に囲まれていた。当然、混乱はするわけなのだが、亮が最初に思ったのはある意味で精神科医らしいものだった。
――とうとう僕も、幻覚が見えてきたのかな。
つまりは周囲の変化を亮は幻覚だ、とそう考えたのだ。
記憶がぷっつりと途切れ、気が付いたら見覚えのない白い部屋。普段から、幻覚や妄想を持っている患者と関わっている亮は、その症状が自分にも降りかかっていたのだと思ったのだ。そして目の前には絶世の美少女。ディアナが椅子に座っているではないか。
現実感のないその姿も、幻覚という疑いを色濃くしていく。だが、そのような出来事は興味がないとばかりに、亮は目の前の美少女の姿に興味津々だった。
「何いってんの?」
先ほどまで浮かべていた女神のような笑顔は影を潜め、代わりに悪魔の如き影と憎悪が凝った眼差しを亮に向けていた。
その視線をにやにやとしながら受け止めている亮は、ちいさく鼻で笑うと右手を上げて人差し指を天井に向ける。
「申し訳ない。あまりオブラートに包んで話すということに慣れていなくてね。だから率直に聞いたんだよ。自分を神だと思っている妄想を、いつから抱いているんだとね」
ディアナは亮の言葉を聞いて思わず俯いていた。それは、決して図星を突かれたからだとか後ろめたさからではない。湧き出る怒りを抑えんがために無意識にやっている行為だ。現に、彼女の怒りが目で見えるものだったとしたら、視界に納められる範囲でとどまるものではない。
「もう一度聞くわよ、何言ってんのよ、あんたは」
凄みを利かせた低温は亮の下っ腹に響く。だが、それに臆することなく飄々と返答を返した。
「あれ? 言語は一緒だと思ったんだけどな。通じてない、通じてないかい? なら、なんでさっきまで会話が成り立ってたんだろう。変だなぁ――」
「そういうことじゃないでしょ! この天空の女神であるディアナに何言ってくれちゃってんの? 喧嘩売ってるのかしら? なら言い値で買ってやろうじゃない。どこぞのダフ屋も真っ青の値段で買い取ってやるわよ!」
思わず立ち上がったディアナは顔を上げた。真っ赤にそまった顔につり上がった目。彼女が怒りを抱いているのは明白だ。
だが、亮は相変わらずの態度でディアナに相対する。その立ち姿はぶれることなく、揺るがない。
「別に喧嘩を売って歩く趣味はないんだ。ましてやダフ屋だなんて。誰が好き好んで人の喧嘩を買い取って高額で売りさばくのさ。買う方も売る方も物好きなら、そんな例え話をするあなたも、大分変わっているね」
「どの口が――…………こほん。私としたことが、取り乱してしまいましたね。わけのわからないことを言っている輩には興味はありません。さっさと転生して目の前から去ってください」
文字通り、頭から何かが噴火しそうなほどに怒っていたディアナだったが、突如として仕切りなおすと、再び椅子に座りこんだ。言葉づかいが幾分ましになっているが、その声色には感情が何もこもっていない。
「ねぇねぇ、ちょっと待ってよ。否定したい気持ちはわかるよ? けどね、臨床上、自分を神様だとか創造主だとか言っている人はほぼ間違いなく疾患を持っていて妄想症状が現れてるんだって。君と同じように決して認めようとはしないけど」
「私が、そのものたちと同じように妄想を抱いてここに座っているとでも?」
「その通り。だから、僕は助けたいのさ。妄想を抱きながら生きていくのはつらいものだよ。僕が少しでもそのつらさを取り除く手助けができたのなら、精神科医としてそれ以上の喜びはないんだ。え? 嘘くさいって? 嘘じゃないさ。本当のことだよ」
話を聞きながら、どんどんと表情をゆがめていくディアナを見ながら、亮はすぐさま笑みを浮かべる。
「一度騙されたと思って、いくつか質問に答えてみない? それで何の疑問も抱かなかったら、理論的に僕が間違っていたのなら、おとなしく希望に沿って転生しようじゃないか。どうだろう? 悪くない提案だろ?」
じっと亮を見つめるディアナ。訝しげなその視線の先にいるのは、へらへらと笑みを浮かべている亮がいる。
ディアナは、ここで強引にことを進めるよりも、納得させて転生させたほうが手間がないと考え、亮の提案を受け入れた。
「いいでしょう。さあ、それで何を聞きたいの?」
「いいね。じゃあ、始めようか。その、なんだろう。なんて呼べばいいかな? ディアナって名前だからディアナさん? と呼べばいいかい?」
「別に好きに呼べばいいわ」
「そうか。なら、ディアナさんと呼ばせてもらうね。さて……ディアナさん。一つ目の質問だよ? ディアナさんはこの部屋にいるけれど、普段ほかに関わる人達はいるかい?」
「特には。あなた方のように、肉体を持たない魂とは腐るほど会っているけど?」
ディアナは何を聞いてくるかと身構えていたが、聞いてみれば大した質問ではなかった。関わる存在がいるいないにかかわらず自分は神である。自信をもってディアナはそう言えた。
「そうか、ありがとう。では二つ目の質問だ。あなたは、誰かに神様だ、と言われたことはある? 神様制度がどんなもんかしらないけど、免許を取得するとそんなものは必要ないんだろ?」
その質問を聞いて、ディアナは少しだけ考え込む。
生まれながらにして神であったディアナからすると、亮の質問は些か的外れのように思えた。だってそうだろう。最初から神として生まれた自分に、誰が神だ、と言ってくれるのだろうか。虫は虫、人は人として自然と自分の存在を認識している。それ以外に自分が神だと証明するものは何もない。
そのことを不思議には思わないが、ディアナは思わず唾を飲みこんだ。
「だ……誰にも言われたことはないわね」
「そうか、ありがとう。では最後の質問だ。これは難しい質問だからね。ゆっくり考えてくれてかまわないよ。さて……最後の質問なんだけど、ディアナさん、あなたは自分を神だと言っているが、神とはなんなのだろう。ディアナさん自身が、自分を神だと言える根拠を教えてもらえるかな? それで僕の質問は終わり。ゆっくり考えていいからね。でも、投げやりにならず……しっかりと答えを出してほしいんだ」
ディアナは亮の質問をかみ砕く様に反芻する。そして、目を瞑りながら思考を巡らせていった。
自分は神だ。ディアナは自信をもってそう言えた。
こうして魂の転生先を決める権限を持っているし、やろうと思えば天罰のようなものを人間達に与えることもできる。逆に、人を癒す力ももっており、救いの手を差し伸べることができる。こんな力をもっている存在なんて神しかいない。そして、その力を持っている自分こそが神である。
けれど、亮に聞かれた質問が嫌に胸に残っていた。
生まれてからずっと同じように神の責務を果たしてきた。それに疑問を感じたこともない。だが、誰にも会ったことがなく、誰からも神だと言われたことは確かにない。この責務も、自分が思ってやってきたことだ。そこに、他者が入り込む余地などなかった。
それを指摘されて、ディアナは鼓動が早まるのを感じていた。つまりは、生まれて初めて不安、という感情を抱いたのだ。
「わ、私が神であるのは、神としての力があるからで……」
「その力は、本当に神以外には持てないものかな?」
それを聞いて、ディアナから血の気が引いた。
地上にいるものにも、強い力を持つ者はいる。これから亮を送る転生先の世界などは、年々魔法が進歩しているということだ。であるならば、同じように――神である私と同じような力が存在しても不思議ではないかもしれない。
そんな考えを飲み込みそうになり、ディアナは慌てて頭を左右に振り、亮を睨みつける。
「この力は神だけのものです! ほかの誰にも、扱えるものではありません」
「そう……。それがディアナさんが自分を神だと思う根拠なんだね。じゃあ、神とはなんだろうか? 僕にはよくわからないんだけど、強い力をもったものが神なの? それって強い力をもった人間とかじゃなだめなのかな?」
自分が神である根拠は力。そう断じたディアナだったが、心の中は混沌としていた。
だってそうだろう。力があれば神であるのなら、そんなものはいくらでもいる。ならば、きっとそれ以外に神である根拠があるに違いない。違いないのだけれど、ディアナにはそれがわからない。
自分が持っているのは神としての力とやるべき仕事だけ。誰にも、誰からも神である自分を認めてもらったことなどないのだ。
すると、ディアナの心に、もしかしたら、という疑念が沸いてくる。
――自分は神ではないのではないか。
という疑念がだ。決して受け入れられない、受け入れたくないその事実を、ディアナは必至で拒んでいた。だが、脳裏から離れない。それがだんだんと深部に浸食していくかのごとく、ディアナは不安に満ちていく。
もしかすると自分は、神だと思っているだけの、力を持っているだけの何か、なのではないだろうか。そして、自分が神ではなかったのなら、本当は何者なのだろう。そんな考えが脳裏をよぎり、思わず寒気を感じていた。
一度不安を感じると、今まであった自信が途端に虚ろになってくる。自分が神だと疑わなかった自分とは、違うディアナがここにいた。ゆえに、ディアナは亮を見ることができない。思わず、視線を避けるよう俯いていた。
「神は……神は……」
ディアナが言いよどんでいると、亮はゆっくりとディアナに近づき顎に手をかけた。そして、俯いていたディアナの視線を無理やり自分に向けると、満面の笑みを浮かべる。
「それは何かな?」
「それは……その……」
「僕が教えてあげようか? 僕は答えを知っているよ?」
その言葉はディアナの心に光をさした。亮が言うことが真実だとしたら、彼女の心にあふれてくる不安を消し去る希望の光となりえるのだ。
ディアナは、どこかすがるように亮を見つめる。そして、少しだけ前のめりになりながら、亮に懇願した。
「お、教えて! 教えなさいよ!」
「うん。教えてあげる。答えはね――」
亮は口角を上げる。心底楽しそうに笑うその様は、まるで悪魔の微笑みだ。
――ないんだ。
ディアナはその言葉を聞いて凍りついた。
「答えなんかないんだよ。最初からね。僕が君を神じゃないと証明できないように、君も自分を神だと証明できない。それは、自分の存在を証明するっていうことであって、どこか哲学的なものになっちゃうからね。だからないんだ。君の湧き出てくる不安を抑える特効薬は、ここにはないよ」
茫然とするディアナ。
生まれて初めて感じる、不安と言う感情に心は完璧に支配されていた。
だからこそ、この男の言葉が心に染みてくる。不安の代わりに与えられる、誰かの承認という甘い罠。
「でもね、ディアナさん。一つだけ言えることがあるんだ」
「……何?」
「それはね、あなたが僕の目の前にいるっていうことだよ」
ディアナは亮の言おうとしていることがわからず訝しげな視線を向ける。
「あなたは確かにそこにいる。神だとか神じゃないとか、そんな些細なことは関係なしに、僕の前にいる。ほら、手を握ってごらん? 感じるだろ? 僕の体温が、手のひらの感触が」
そっと、亮の手をとるディアナ。その手は、すがる何かを見つけたかのように、力強く握られている。
「あなたが何者でもいい。こうして温もりを感じあえるってことだけが重要なんだ。だから、もう神だとか神じゃないとか、そんなことにとらわれなくてもいい。自由になっていいんだよ」
「私が……自由?」
「そうさ! 自分が思い込んだこんな狭い世界から抜け出して、もっと広い世界を見に行こう! いろんな感情にふれて、うれしいことも、悲しいことも、つらいことも、全部だよ! それを感じることが生きるってことなんだ。君は……今から生まれ変われるんだよ」
ディアナの瞳から涙が零れ落ちていた。
それは、初めてだれかに存在を認められたからなのだろう。自分が何者でも、こうして認めてくれた、自由にしていいんだと認めてくれた、その事実がディアナの心に響いていく。
「いいのかな……自由になっても」
「いいのさ、したいようにしてごらん」
亮がそう告げた瞬間、白い部屋に光が満ちて、亮は意識を失った。
◆
亮が気が付くと、そこは白い部屋ではなかった。どこまでも続く草原の真ん中に、亮は倒れていた。
ゆっくりと身体を起こすと、隣にはディアナが倒れている。胸のあたりが上下しているから生きてはいるのだろう。
亮は草の感触を確かめるように手で撫でた。
土の匂いを感じようと、力いっぱい息を吸い込んだ。
遠くの鳥の声に耳を澄ませ、とりあえず近くに落ちていた木の枝を思いっきり噛みしめた。
「まっずいな……」
木の枝とともに口にはいった砂をぺっぺと吐き出すと、亮は立ち上がり大きく伸びをした。そして、ようやく自分の状況を理解したのか大きくため息をついていた。
「さっきの部屋……幻覚じゃなくてもしかして本当のこと?」
こうして異世界に、思い込みの激しい精神科医と、巻き込まれた女神が降り立った。




