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自覚

「私、見損なっちゃいました。先輩の事」


 カルテットにバイオリンが加わって高揚を増した音楽の隙間に、カチンカチンとあちこちで品無く突き合わされるグラスの音。笑い声と歓声と、声・声・声。眉間の奥の意識をすませばそこに含まれた感情の色が渦を成す、食事と音楽の店『星月亭』の暗いオレンジ色のダンスフロア。


 隣で僕と同じように壁にもたれていた彼女の脹れっ面に感じた色は、軽蔑と、諦めと、かすかな寂しさ。


「そう?」

 僕は笑って、葡萄色の液体越しに自由な島の人々を眺めながら分かり切った事を口にする。

「それは辛いな。できれば、どうしてだか聞きたいんだけど」


 腿までを覆う長丈Tシャツに身を包んだ有沢カナは腕組み仏頂面で、パーティーを楽しむ人達を見つめたまま。


「もしかして、僕が君のお爺さんの手先になったから?」


 カナはじろりと、切れ長の瞳の端で不躾な男の顔を睨みつけた。


「さすが先輩ですね。カナちゃん感心。でも、なんか生意気です」


 生意気の権化みたいな年下女子に言われた僕は、音楽に合わせてくるくるとジュースの縁を躍らせた。


「はは。でもさ、多かれ少なかれこの島にいる人は元帥の手先なんじゃないのかい?」


 だって、アニー曰く彼はこの西側フロンティアの独裁者なのだから。


 まして君は、彼の――。


 言外の声を瞳に込めて笑った僕を無視する様に、カナは形の良い顎を人込みの方へと真っ直ぐ向けながら。


「……私の父は、アンチバイラスじゃないんです。魔法や政治の才能が無くて、有沢家の恥とまで呼ばれた人なんです。今は、本土との貿易を請け負うおっきな会社の社長をしています」


 あのバスルームの窓越しに聞いた、少し真面目になった声で。


「先輩は知らないと思いますけど、おじいさまと父の確執は内外で有名なんです。確かに有沢カナはお爺様の孫で、父の娘ですけど。カナはカナです。カナちゃんなんです。有沢の孫だからこうとか、有沢の娘だからああとか、そういう目はやめて下さい」


 感情を抑えきれなくなった冷たい声と、カツンと踵が壁を叩く音。


 苛立ちと、怯え。あるいは恐れ。何度も何度も絵具をぶちまけたキャンバスの真ん中に、いつの間にか浮かびあがってくる重たい石。何にも縛られていない自由な身体で、でもその場所を離れる事も出来ず。だからぎゅっとバケツを握りしめて待っている。その石に、不気味な顔が浮かぶ前に。また。


 ほんの一瞬、その気も無く見て(・・)しまった事を悟られない様に。僕は、同じ位の身長なのに足の長さが大分違うなあと思いながら、彼女の腰の辺りに目を落とした。


「今のカナはカナとして、マドカさんを守っています。マドカさんの隣が、カナの居場所なんです。だから、お爺様にも、父にも、勿論先輩にだって。誰にも。邪魔はさせませんから…………以上。カナちゃんの先制攻撃でしたっ」


 いつもの明るい調子の声に戻し、ふざけた様な敬礼ポーズ。ドーンとお花畑を広げる事で、その中心に転がっている惨状を隠すみたいに。


「成程。これは一本取られたよ。分かったような顔をして申し訳ない」


 ふんっと鼻を鳴らしたカナは、持っていたグラスの縁に艶のある唇をつけながら。


「なぁんか、そういうのもムカつきます。全部嘘くさいですよね、先輩って」


 オレンジジュースに反響したその台詞に、僕はあははと苦笑して。


「本土でも良く言われたよ。なんかムカつくって。特に女子には」

「ふ~ん。カナはその子達に賛成です」


 おすまし顔で壁から離れたカナの背中に笑顔を向けた時。ふいに。僕もカナも思わずステージを振り返った。僕達だけじゃ無い。ほんの一瞬、まるでエアポケットに入ったみたいに、誰もが口と心を止めて、ステージの上で歌い出した少女を見つめていた。


 ギターの伴奏と寄り添う様にして頭から胸の奥まで染み込んでくる、儚く、甘く、優しく、強い彼女の歌声に。


「……凄いね、あの子」    ――さっきの僕も、こんな風だったのだろうか。


 静かな熱狂を集める歌姫から目を逸らして、僕は呟いた。思い出したのは、上田隊長の顔と、藤崎の言葉。『さっきの君をみていたら、なんともね』と言った彼の重たく複雑な感情と、『砂糖の甘さを知ってる人間は、しかめっ面で飲む事さえ出来ない』という自己批評。


 すると、誰もが心震わす歌声の中でたった一人冷たい湖を眺めていたひねくれ少女は、ちらりと僕とステージの上の彼女を見くらべて。


「『このみ』さんです。結構有名なんですよぉ。先輩みたいな人のパーティーで歌うのがもったいない位に」


「それはさっきのバンドに失礼だって」


 笑って指摘すると、カナは『知~らないっ』って感じで大げさにそっぽを向いた。


 僕はもう一度ステージの歌声に耳を貸し、それから軽く頷いて。


「そうだな。うん。カナ、僕からも言っておくよ」


 美貌をしかめたカナちゃんに「攻撃されっぱなしも嫌だからね」と僕は微笑み。


「君と同じに、僕も、有沢源十郎じゃないんだ」

「……?」


 探る様なカナの視線に、真面目な顔で頷く。


「だけど君と違うのは、それが能力的にも劣るって事」


 カナはこめかみに指を当てて唇を歪めた。


「……えっとぉ。カナは先輩達と違うんで、全然分かんないんですけど?」


 頷く。


「僕には、他人が考えてる事は分からないよ。分かるのは、その人の気持ち……感情のイメージみたいなものだけなんだ。それもはっきりと感じるようになったのは、本当に最近。周りに言われて、自分が『そういう事が出来る』ってのを自覚してからだよ」


 むむむと難しい顔のカナちゃんの目をちらりと見て。


「なんだか軍の人達は、元帥に出来る事は僕にも出来ると思っているみたいだけど……残念ながら僕はそれ以下だって事」


 笑う僕。腕組みポーズで唇を突き出したカナは、「……ふ~ん」と口の中で呟きながら、『カナちゃん先輩には興味ありませぇん』と言いたげにステージの方を向いてしまった。


「だから――」


 言いかけた言葉を慌てて呑み込む。危ないな。どうも、あの歌は。優しい気分になってしまう。


「……だから?」


 瞳だけ僕に向けて続きを催促した彼女に、僕は笑顔で頷いて。


「うん。だからきっと僕は全能の王になんてなれないし、あとはジュースでむせたくらいでお爺ちゃん扱いはやめてくれって事。1コしか違わないんだから」


 するとカナは、呆れた様に肩をすくめて。


「ハイハイ。じゃ、カナちゃんもう帰りますね。言いたいこと言ったし。これ以上先輩と話してたくないんでぇ」


 もう一度僕に侮蔑の視線をくれてから、長い足を伸ばしてスタスタと出口に向かって歩いて行った。フロアを満たした人達が自然と道を開けている事に気付いているのかいないのか、そんな背中に僕は苦笑して。さっき呑み込んだ言葉を唇の先で呟いた。


 ――だから、安心していい。


 今、この僕がそんな言葉を口にしたら、あの子はちっとも安心できないじゃないかと。優しさの矛盾を笑いながら、飲む気もしない葡萄色の液体をただゆらゆらと揺らしていた。



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