きっと大切なモノから順番に
手招きをするように海から突き出す無数の岩の柱を眺めながら、藤崎マドカは心の中で舌打ちをした。
(深追いしすぎ……よね)
背後に迫る魔海の気配を感じながら獣を睨む。
東の空に出現した捕食者を含むD級の群れを相手にする間はなかった。なぜならその後ろから優先すべき大型のファージが現れたからだ。
今までに感じたことのない程の強い魔力をまとい、翼を生やした四足の獣が二頭、つがいの様に寄り添って、じっとこちらの様子を伺っている。その内の一匹、角の生えている方は明らかに別格な力の持ち主だった。
(……最悪。こっちの調子は最低だってのに)
研究の進んでいない種類のファージに対して無闇に突っ込むのは分が悪い。どこにどんな危険があるか分からないのだ。そうして躊躇しているうちに、巧みにマドカ達の背後を取った一組のつがいは、見事な連携を取りながらじりじりと彼女達を魔海の方へと追い込んでいく。
(確実に一匹ずつ? それとも二頭まとめて片付けられる? ……こんな魔力で?)
イメージすることが重要な魔法使いとしては、自信を失うのは一番ダメな事はわかっている。それでも、感じずにはいられないのだ。彼我の力関係を。
左手にかき集めている力が随分寂しい。
これであの魔力の塊みたいな奴を落とせるの?
じりじりと背後に近づいてくる魔海の暗い気配への焦りが、更に集中力を乱していく。
「カナ? どう? 狙いどころはありそう?」
視線を外さないまま、後ろでゴーグルを使って魔力の流れを見ていたカナに尋ねる。
「うーん……強いて言うなら首筋と頭ですねぇ。思いっきり吹き飛ばせばチャンスありかもですよぉ」
「角付きも?」
「そうですね。特に角が魔力の源ってわけじゃなさそうですねぇ」
間の抜けたカナの声が途絶えるのと同時に、角無しが空に向かって鳴き声を上げた。
鼓膜をつんざく高音が直接脳を震わせるように響き渡り、思わず耳を塞ぎたくなる。
「藤崎、有沢、聞こえるか?」
今宮隊長の声が響く。
「前衛を有沢と交代だ。できるだけ時間を稼いで藤崎は思いっきり強烈なヤツをぶつけろ――藤崎マドカが、最終ラインだ。そいつは絶対、後ろにやるな」
「了解ですぅ」
いつもの通りのカナの返事に、マドカは唇を噛みしめる。
藤崎マドカが、最終ライン。
いつもと変わらない状況で、いつもと違うことが一つだけ。
有沢カナ。
決して前衛向きの能力を持たない彼女が、最前線。
指示は単純。
時間を稼げ。藤崎マドカを守れ。
つまり今、軍の中で命の天秤が明確に傾いたのだ。
「……駄目よ、そんなの」
ユイさんの回線を通して、カナに伝える。それは、命令違反がどっちなのか、隊長にもはっきりと分かるように。そうしてゆっくりと、体中に力を巡らせていく。
理解はしている。アンチバイラスに所属している以上、一瞬の遅れが全体の危機に関わってしまう戦場で上官の決定は絶対だし、一々論争している時間などありはしないのだと言うことも。
藤崎マドカという、戦力の重みも。
その背後の、多くの命も。
それでも、やっぱり。どうしても。その命令には従えなかった。なぜなら藤崎マドカは、最高に気まぐれで、最高に我侭で、そういう自分であるために、それだけのために最強にまで上り詰めた魔法使いだったから。
たとえ世界中の命が平等だとしても。
どうしたって、有沢カナの命は他の連中よりも重いのだから。
気に入らない命令なんて、全部。あのファージごとボッコボコに打ち砕いてやるんだから。
「あんたは後ろにいりゃいいの」
「んー? 無理ですよぉ。今確実にあたし達でやらないと、後ろの人達は全滅ですよ、これ?」
やわらかな顔でカナが笑い、二丁の銃の銃把――グリップの部分のカバーを外すと、真っ赤なカンテラが姿を見せた。
「えへっ、マドカさん知ってました? あたしがマドカさんと組んでるのは、あたしの方が速いからなんですよ。こういう時、有無を言わさずぶっちぎれるように」
「……っ!」
飛び出した相棒の背中から獣の方へと視線を移して、唇の内側を噛み締める。
自分の命の重さも。戦力としての有用性も。それを守ると言うカナの決意も役割も。多分、その優しさも。うんざりするほどに知っていたし、わかっているつもりだった。
本当に、理解っている――つもりだった。
実際にその光景を見るまでは。
どうしようもない現実が、胸の内へと染み込んでくる。
嫌。
壊さなきゃ。
守らなきゃいけないの。
トクトクと身体の奥から這い上がってくる感情が、マドカの魔力の波を一段と大きくする。
視線の先では、突如現れたカンテラの魔力に反応し血走った眼の角無がカナに向かって突っ込んで行くところだった。カナはその鼻先に牽制の一撃を放ち、上空へと向けて大きく旋回しながら二発、三発と追撃を放つ。
全弾直撃。
バリバリっという音とともに、悲鳴をあげた角無が体勢を崩して高度を下げる。
イケる!
限界まで溜めた魔力をぶちかましてやろうとマドカが手を伸ばしたその瞬間、視界の端に黒い影が走り、カナのすぐ側まで近づいていた。
――逡巡。
「藤崎! 撃て!」
隊長の声につられるようにありったけの魔力を放つ。紫色の魔力の塊が空気を焦がして突き進み、角無の反応より遥かに速くその身を砕いて海に浮かぶ死骸へ変えた。
カナは?
思うよりも先、左肩に鋭い衝撃を残して、目の前を黒い影が通り過ぎた。
反撃をしようと影の姿を目で追った時、やっと左腕に痛みが走る。
カンテラが真っ二つに割れて、防護服も裂けていた。
残ったのは痺れと虚脱感。溢れるのは緩衝と絶縁を行う液体、その内側から真っ赤な血が腕を伝って足の下に広がる海へとだらだら落ちていく。
「っ……?」
魔力の源たる血液を失い、くらりと空中でバランスを崩したマドカの体を、ふわりとカナが抱き止めた。
真っ赤に染まったマドカの瞳の中、危うい笑顔で彼女は笑う。
「てへっ……すいません、しくじっちゃいました」
荒い息を吐きながら、出しゃばりな左胸から大量の血が流れている。相手の一撃がカナの防御すら貫くことを確認したマドカの背を、冷たい汗が伝っていく。
「角でやられたの?」
「……多分。でなきゃ、牙だと思います」
洒落にならない程の血が、呼吸とともにカナの傷口からトクントクンと溢れ出る。
「……そうね。切り口からしたら、角が有力ってとこか……」
少しの距離を置いたところで唸りをあげる角付きの体のまわりに、力が集中していく。
「……相当、怒ってますね」
「そうでしょ、多分、奥さんを殺されたんだから」
「いいなあ。あたしもそんな風に愛されたいですぅ」
「……あんたが死んだら、私が怒る」
「わあお。マドカさん、素敵ぃ……お友達からお願いしますぅ」
「とっくに友達だっつってんのよ、馬鹿!」
くそっ! くそっ! よりによって利き腕をやられるなんて、本当に馬鹿だ。絶縁液が傷口に染みて感覚が鈍った左手をあきらめて、マドカは右手に魔力を集め始める。強く、強く、イメージする。そこらじゅうの力が右腕に集まる様子を、何重にも重ねた力が連鎖するように爆発して、もっと大きな爆発を生み出す様を。
重力の鎖を断ち切った体で、あらゆるしがらみを無視した一撃を。
来い、来い、来い!
カウンターで迎撃してやる。
この、藤崎円が。壊してやる。
ぎりりと奥歯を強く噛み、マドカは敵を睨みつけた。




