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珈琲と獣

 やがて、ズズズッと藤崎マドカの紙パックが音を立てた。

 すると、照れ隠しなのか藤崎はわざとらしく拗ねた声で。


「あーあ、セイのせいで喉乾いた」

 だから当然。

「コーヒーで良ければ、差し上げますが」

 すかさず僕の飲み物を差し出すのだ。

「セイのは甘くないから嫌」

「甘くします!」

 藤崎は笑った。

「どうやってよ、馬鹿」


 口の端に咥えた藤崎のストローが、笑うたびにピコピコ揺れる。


「あはは、ねえ、それにしなさいよあんたの『お願い』。コーヒーが甘くなったような気がする固有現象。あはは、超ダサい。超似合う」


 そう言って喋るたびにピコピコ揺れる棒の先で僕をしゃくってくる。


「……まあ、ダイエットには効果的だね」


 その仕草が妙に鼻についた僕は、藤崎の口からストローを奪い取って手に提げていたビニール袋に放り込んだ。


「ちょっ? 何すんの――って、まさかセイ、持ち帰って変なことに使う気じゃないわよね?」


 長い銀髪を耳にかけ、横顔を丸出しにした藤崎が顔を寄せて睨んできたので、僕は思わず目をそらす。


「するか、馬鹿」

「……あ・や・し・い! 返せ! 自分で捨てる!」


 わしゃっとゴミ袋を掴んできた藤崎に、僕は本能的に抵抗する。


「別に、そういうつもりじゃないって」

「じゃあなんで急にとったのよ? 絶対ダメ、セイは絶対変な事に使うんだから! 早く渡しなさいよ、この変態りっしんべん!」


「変な事って何だよ? 僕には全然思いつかないぞ。藤崎の方が変態なんじゃないか?」


「な、ば、馬鹿! そんな訳無いでしょ? いいからそれを渡しなさいってば! これは上官の命令よ、渡しなさい!」


「駄目です、少尉。ストローをあんな風に咥えるのは不良の始まりです」

「知らないわよ、馬鹿!」

「ですからこのストローはわたくしがきちんと使わせていただきます」

「使うな変態! 返せ!」

「なりませぬ! これも少尉のためでござる!」


 笑いと共に頭上に掲げたゴミ袋を、飛び上った藤崎の手が下から弾き飛ばす。そうして舞い上がった袋に僕の肩を蹴った藤崎のバク宙キックが炸裂し、そのお宝は背後のフェンスをふわりと越えて橋の外へと飛んで行く。


「くそっ、僕のストローが!」

「私のだっつうの!」


 怒鳴り声と共に藤崎が袋をキャッチ。勿論、フェンスの向こう側で。


「つうか、ホント、途中から冗談に聞こえなくなったのは気のせいよね?」

「……役に入り込みすぎたのは認める」


 すると空に浮かんだ藤崎は肩をすくめて、風に流れて唇にかかった銀髪を小指で払い。


「ったく……まあ、これを機に『戦士たる者守る物があるのなら絶対に手を離してはいけない』て言うアンチバイラスの鉄の掟を覚えておくといいんじゃない? 解ったかしら、新人クン」


 澄ました感じで言った彼女の言葉が、その優しさが、僕の胸に染み込んできて。

 僕は笑って頷いた。


「そうだね。じゃあ、まずは藤崎を捕まえられる様に努力するよ」


 君のいる、その場所まで。

 いつか、僕も。

 たなびく銀髪の中の小さな顔が、戸惑ったような色を浮かべた。


「はぁ? え? 何? ちょっ、変な顔しないでよ! い、だっ、ばっ、そ、そんなこと言って、ホントにホントは結局これが欲しいだけなんでしょ!? こ、この能無し性欲馬鹿!」


 結構な捨て台詞を残して藤崎はビューンと詰所の方へと飛んで行った。

 あらぬ誤解を受けたようだが、正直ストローはおしかったので仕方がない。


 熱くなった息を一つ吐いて、行き場の無い高ぶりをトレーニング器具にぶつけてやろうと歩き始めたその時。


「おやおや? ひょっとして少年は振られちゃったのかな?」


 ビクリとして見上げた給水塔に腰かけて、楽しそうに揺れる小麦色の足が目に入った。

 太腿丸出しのビキニみたいなデニムのパンツから、眩しすぎるお腹の上で結ばれたシャツを通り、鎖骨をくすぐる様に揺れる茶色い髪へと視線を移す。うん、これは間違いなく第二小隊隊長笘篠亜矢子さんだ。もう何というか、全体的に布が少なすぎて顔が見られません。


 ていうか、女の人の足首がこんなにアレだとは知らなかった。

 ええと、確か今年で十九歳だって言ってたから……いいのか。いいよな。よし、仕方ない。エロい。エロ過ぎる。十万石だ。


 普段見かける時は防護服に隠されている部分に視線を送っていると、彼女はクスクスと含み笑いを浮かべ始める。


「そういえば、今日は焼き肉サンドじゃないんだね?」


 なんだかとても楽しそうな顔を作り、足をばたつかせて笑った彼女は


「あはは。びっくりした? 鼻がいいんだね、あたしは。いい女ってのは鼻が効くのさ」


 まさか昨日もそこからここを通る僕を見ていたという事だろうか? 

 くそっ! なんてもったいない! だったらこっちももっと見ておくべきだっ……落ち着け、僕。違うぞ、昨日もこんなけしからん服装だったとは限らないじゃないか!


 そんな僕の苦悩にはお構いなしに、笘篠さんはむき出しの肩に手を当ててうーんと唸る。


「しかしマドカちゃんもタイミングが悪いね。こんなときに来ちゃうだなんて……」


 藤崎? 何の話だ? 

 笘篠隊長は何を考えているのか分からない人だ。


「うん? どうしたんだい、少年? もしかして、また初めましてとか言われちゃうのかな?」


 聞かれて僕は、今まで無言でお姉さまの肢体に見入っていた事に気づき胸が焼けそうなほどの気恥ずかしさを覚えた。これじゃあ完全にエロガキだ。


「あ、いえ。訓練の時に、一度ご挨拶させて頂いたので……」


 言葉の途中、給水塔の壁を蹴った笘篠隊長が物理法則を無視した軽さで僕の正面に着地する。


「あちゃー、やっぱりそうなるね? 本当に覚えてないの? 私のこと?」

「は? え?」


 だから、訓練の時にちゃんと「初めまして宜しくお願いします」と挨拶をしたはずだ。あの時は笘篠さんも防護服を着ていたので、目線だってしっかり合わせたと思う。


「あはは。覚えてないなら別にそれでいいんだけど……危なっかしいね、少年は」


 うーん、と笘篠隊長は空に唸り「うん」と、大きく頷く。


「じゃあね、お姉ちゃんからアドバイス」


 言い終わる前に、彼女の頬が僕の頬に吸いつくくらいに寄せられる。すると全身の神経がその箇所に集まるように電気が走って、僕の体は息をすることさえ忘れてしまう。そうして彼女は、硬直した僕の頭に直接流し込むようにその言葉を耳元で囁いた。


「ロビ霧島には気をつけな」


 唾を飲み込む音で思考を止めていた頭が動き、彼女の顔を確認しようと目を見開く。するとくっついてきたときと同じように実にあっさり、すうっと体を離した笘篠隊長はからかう様な笑みを桃色の唇の上に湛え、僕の目を見つめてきた。


「少年がここにいるのは、偶然でも、ラッキーでも無いってこと。君はあいつらに尻尾を掴まれてる。もし何かあったら絶対に力になるよ。少年は覚えてないみたいだけど、私達、姉弟だからね」


 疑問や驚きの声をあげようとした僕の唇に、笘篠隊長の指が触れる。


「ふふ、これは秘密にしてくれるかな? マドカちゃんにも内緒ってことで……ね」


 立ち去ろうとした彼女が、ふいにくるりと振り返り。トン、と額を僕の額に押し当てて。


「……君は、誰かの代用品なんかじゃない」


 湿っぽい吐息混じりの呟きが僕の唇に触れる位に。


「じゃ、またね、少年」


 にっこり笑って飛んで行ってしまった彼女の姿に、僕は何だかいたたまれなくなる。胸の奥を掻き毟りたくなるほどの無機質な不快感、脳味噌の中に異物を捻じ込まれた様な言葉の感触。

 代用品。この島に来て以来、通り過ぎる人が僕を見る目の奥にいたボク。廊下の向こうで囁かれていた僕を示す単語。

 混乱に任せて額に手を当ててみると、自分のものでない体温が確かに掌に伝わってきた。


 そして――彼女が何を言いたかったのか、僕が何を忘れているのかもわからないまま、二度目の出撃が始まった。

 低いサイレンが蜘蛛の巣の中に響き渡り、屋上から慌てて飛び込んだ詰所には異様な緊張感が漂っていた。既に舞台にでたらしい藤崎とカナの姿は部屋になく、机に座って爪を噛む今宮隊長とその脇に立つ不安げな世田谷副隊長の姿だけがそこにあった。


「C級だ」


 ぼそりと呟いた今宮隊長の言葉にも、僕の現実感は追いつかない。戸惑うだけの自分を笑いたくなる。結局一番緊張感が無いのは置いてきぼりの僕だったわけだ。

 何もわかっていないのは、僕だけだったわけだ。

 椅子から立ち上がってスタスタと部屋を出ていく隊長の後を、僕とユイさんも追いかける。ジャングルに取り残された小動物みたいな僕の視線に気がついて、ユイさんが親切に状況を説明してくれた。


「C級は、ファージの中でもその姿から「獣」と呼ばれる種類です。過去数回だけ出現しているんですけど……知能も、戦闘力もD級の比じゃないんです。事実、前回――三年前に現れた獣は舞台を突破して巣に噛みついたんですから」


 そう言って、ふと目を閉じたユイさんは隊長の背へと眼差しを向けた。

 僕は彼女の言葉を頭の中で必死に整理する。

 それは、要するに、藤崎やカナが危ないってことなのか?


「いつもの藤崎なら、多分問題は無い」


 指令室の扉を開けながら、ぼそりと今宮隊長が呟く。


「ただ、今回はタイミングが悪すぎる」


 目が合うと、ふっとユイさんが息をついて


「減退期なの、マドカちゃん」


 減退期。カナが言っていた『月に一度魔力が落ちる』という、あれか。


「しかも、今回は減退率がかなり大きくて。初日でいきなり七割を切ってる位だから」

「まずいんですか、それは?」

「ええ。いつものマドカちゃんなら七割が最低ラインなんだけど……今回はどこまで落ちるか」


 世田谷副隊長の言葉に、頭の上にでかいカンテラを被った今宮隊長がさらりと続ける。


「それでも、藤崎マドカならこれ一回は耐えられる。だがな、減退期のつらいところは出力も総量も減るところなんだ。しかもC級ってのはほとんど情報が無いときやがる。正直に言って、今のあいつが連戦していい相手じゃない」


 当たり前の様に告げた隊長が頬の内側で噛み殺した感情の前で、僕はじっと俯いていた。


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