矜持
昨夜の決心が揺らいだ。
目の前に立つ興奮気味の紅蓮を見上げて己が二人いればいいのにと呪ったのは仕方が無いことだった。
ベルナールがリディアに働いた破廉恥極まりない告白と、学園を辞めるという事態を招いてしまったことを謝ろうと決意して教室へ行けば、彼女は欠席という素っ気無い答えをリディアの担任から言い渡された。
それならば放課後バイト前に家へと行こうと三限目を終わるのを待っていたら、鐘と共に紅蓮が走り込んできたのだ。
「双清が事務所に来たらしい」
授業終了後に渡されたレットソムからの伝言に紅蓮は居ても立ってもいられずノアールを迎えに来た。
もちろん友人のこれからに関する事柄だけにノアールも不安と心配で胸がいっぱいだったので一緒に事務所へと行きたい。
行きたいが、リディアのことも気にかかる。
迷っていると痺れを切らして紅蓮が「おれ、行くわ」と言い出したのでつい「僕も」と答えてしまった。
正直な所リディアになんとて詫びたらいいのか解らなくて逃げてしまった感は否めない。
「ごめん。リディア」
心の中で謝ってノアールは紅蓮と共に教室を後にした。
背も高く身体能力も高い紅蓮の後を追うのは簡単なことではない。
ただ早足で進んでいるだけの紅蓮に追いつくためには小走りでついて行かねばならないからだ。
言い訳をさせてもらえるならば決してノアールの身長が低いわけでも、足が短いわけでもない。
紅蓮がただ大きいだけなのだ。
一年留年しており、同級生は一歳下だと考慮しても紅蓮の背の高さとがっしりとした体躯は規格外だった。
だが圧迫感や威圧感を感じないのは紅蓮の明るい人柄のお陰だろう。
朗らかな笑い顔と声には温かさを、逞しい腕と肩や背中には安心感を、話し方には素朴さを、そして青い瞳には愚直さを。
目の前の背中を追いながらぐっと喉を詰まらせた。
ノアールの自慢の友人が行ってしまう。
遠くへ。
行かないでくれといっても紅蓮は困ったように笑いながら近所に出かけるかのような気軽さで「行ってくるな」と出立するだろう。
今すぐ別れが来るわけでは無いが、確実にその日はやって来るのだ。
そう思うと切なくて。
旅立ちを見送るのが最後になるかもしれないのだという恐怖が頭から離れない。
「眉。寄ってる。険しい顔してるな」
登校用魔法陣に辿り着いた所で足を止めて、ノアールの顔を見るとにやりと笑って眉間を突いてくる。
眼鏡をかけているからそこを狙って指を伸ばすのはちょっと難しいのに寸分違わずに触れてくる紅蓮が忌々しくて唇を尖らせた。
「……誰がこんな顔にさせてるの」
「ん?もしかして、おれか?」
紅蓮は鈍いのではなく細かな所を気にしないのだ。
はははと笑い飛ばして移動を終えた陣から出るとさっさと歩き出す。
振り返ると創設者グラウィンドの像が杖を掲げ厳しい表情でノアールを見ている。
お前になにができる?
そう問いかけられているような気がして息が止まりそうになった。
ノアールができる事など高が知れていて、友人のために協力することも、謝ることも、護ることもできない。
旅立つ紅蓮を励まし、勇気づけて笑顔で送り出すこともできないのだから。
全ての現象は突然起こり、そしてノアールを翻弄しながら流れていく。
なにもできないノアールを嘲笑うかのように目の前で煌めき、手の届きそうな所で渦を巻いているのに、どうしようかと悩んで迷っている間に最悪の方向へと進んで行くのだ。
そして後悔する。
あの時行動していればと。
「ノアール、行くぞ?」
追って来ないことに首を傾げながら紅蓮が呼びかける。
だがまっすぐに見据える創設者の目前でノアールは動けずにいた。
向かい合っているとその像はただの作り物では無く、本物の大賢者であり大魔法使いと相対しているような気持になる。
もしかしたら過去と現在が魔法で引き寄せられているのかもしれない。
そう思わせるほど、その瞳は真摯にノアールを見つめている。
試されているのだ。
魔法を志す事を決めたノアールが周りの人達とどのように関わり、問題にどうやって取り組んで行くのか。
そして魔法を発展させ、国のため、人々のためにどんな行動を起こし、選んでいくのか。
自分はまだまだ基礎を学んでいる学生に過ぎないが、きっといつかは自分だけの魔法を構築し生み出したいと思っている。
ならば迷っていてはいけない。
悩むことはいいが、戸惑いなにもしないのでは生み出すことなどできないのだ。
色んなことを経験して、乗り越えて、悩み苦しんだ後にきっと“なにか”を生み出すことができるのだから。
起きてしまったものは変えられない。
それならばどう行動すれば最悪を回避できるか考えればいいのだ。
「迷って逃げてばかりいちゃだめだ」
後悔は嫌というほど味わったはずだ。
故郷に戻ってノアールは家族と向き合って自信と希望を手にした。
ディアモンドへと戻る船の中でラティリスに帰って本当に良かったと思ったのは他でもないノアール自身。
それならば戦乱の只中にある故郷に帰ると決めた紅蓮に協力してやらねばならない。
きっと乗り越えて帰って来てくれると信じて。
「行こう。紅蓮」
今はまだ素直に別れはいえないが、その時が来たらちゃんと笑顔で行ってらっしゃいといえるように自分のやれる事を精一杯するしかないのだ。
「行こうって、あそこで固まってたのはノアールだろ」
「いいから」
照れ隠しに顔を背けて鉄の門へと歩き出すと、呆れたような紅蓮の声が追ってくる。
「本当に魔法好きだなー。ただの像を前に恋焦がれるような顔で見つめてんだから」
「恋焦がれるって……そんな変な顔してた?」
「してたしてた」
「嘘だ!」
あっという間に追いつかれ、しかも追い抜かれてしまう。
その瞬間に手を伸ばして紅蓮が髪をくしゃりと撫でていく。
その手は大きくて温かい。
自分の手を見下ろせば細くて長いだけの薄い掌で。
勉強好きの証のように中指にペンだこができている。
紅蓮の手は剣を持つ掌で、ノアールはその手にペンを持つ。
用途が違うのだから仕方が無い。
それでもいつかはなにかを生み出す可能性のある掌なのだと矜持を持って握り締めた。




