羽化⑧
フィリエスの住まう離れは本館の一階、左翼奥にひっそりと通路で繋がっていた。
従者も侍女も連れずに行動するせいか離れには人気も無いので、案内してもらおうにもそれもできずリディアはヘレーネと二人廊下をのんびりと進んだ。
離れの窓は中庭に面して不自然なほど窓が無く、その代わり小さな箱庭のような可愛らしい高い塀で囲われた庭の方へ窓と部屋が面している。
部屋数も多くは無い。
通路を出て直ぐに階段があり、その前にあるのが客間、その隣が居間で食堂、厨房と続く。
一階はそれが全て。
厨房まで行った所で漸く中で働いていた料理人にフィリエスについて尋ねると、二階の執務室にいると教えてもらった。
結局戻り階段を登り教えられた三つ目の扉の前に立ちノックをすると近づいてくる足音が聞こえサッと扉が開く。
「なんだ?ノートンお茶の時間には早いだろ?――おっと。失礼」
書類を手にこちらを見ずに話しかけるフィリエスは、やはり美しく隙が無い。
そして訪ねてきた相手がリディアとヘレーネだと気づくと少しだけ驚いた顔をしたあとで微笑んで謝罪する。
「あの。初めまして。わたしノアールの友達で、リディア=テミラーナといいます」
「ヘレーネ=セラフィスです」
たどたどしく名乗ったリディアとは違い、ヘレーネは花のように可憐に微笑むと優雅にお辞儀をして見せる。
初めて会った時は名字を教えてくれなかったヘレーネだが、ラティリスに着いてからはセラフィスと家名をつけるようになった。
どんな心境の変化があったのかは解らないが、信用してもらえるようになったのかもしれないと思えばちょっと嬉しい。
そんな単純な状況ではないのかもしれないところが少し恐ろしいが。
「こんなに可愛い女性を友人に持ててノアールは幸せ者だね。申し訳ないがこの部屋はお嬢さん方をお招きするのに相応しくない。よければ下の庭が見える居間へとご案内したいな」
「お仕事の邪魔をするつもりは全く無かったのに、取り次いでくださる侍女もいらっしゃらなかったから、こんな所まで勝手に入ってきてしまって」
ヘレーネが笑顔のままで言外に申し訳ありませんと伝える。
多くを語らず、失礼の無いように接するのはリディアには難しい。
ヘレーネについて来てもらって本当に良かったと思う。
もしひとりで来ていたら、通路を抜けた所で誰もいない事に動揺し、フィリエスに会うことを諦めていただろう。
「気にならさずに。ここにはノートンしか置いていないので逆に気を遣わせてしまったね」
執務室を出てフィリエスは扉に鍵を閉めてから階段へと歩き出す。
身に纏っている黒く長いコートの裾を翻して歩く姿は颯爽としている。
伸びた背筋に真っ直ぐの紫紺の髪がそのまま下され、動くたびにさらさらと音をたてて流れた。
硬質な印象を漠然と受ける。
ルーサラは穏やかで柔らかい印象だしノアールはふわっとしていて、なんだか見ていてハラハラするから、三人が三人とも違った印象を与える兄弟である。
階段は途中で曲がり踊り場を経てまた階段になる。
手摺は飴色で素朴な中に繊細な彫りの横木と、捩じれた縦木で丁寧に作られていた。
古風だが古ぼけた感じは全く無い。
やはり芸術的な感覚が優れているのだろう。
「リディア」
感心しながら眺めていたら途中で足が止まっていたらしい。
名を呼ばれて慌てて残りを下りると急いでヘレーネの元へと向かう。
フィリエスはもう居間に入ってしまったようだ。
中は丁度いい広さで二人掛けのソファと寝椅子が向かい合って置かれ、間にオークで作られた細長いテーブルがあった。
右壁に硝子の嵌め込まれたキャビネットが据えられ、中には美しい硝子の杯と酒類が飾られている。
左側には大きな鏡と書棚、飾り棚。
庭に面した窓からは青々とした木々と、三色菫やジニアが色とりどりの美しい花を咲かせ、奥の方にはミントやバジル、ローズマリー等のハーブも見えていた。
「ゆっくりしていてくれるかな。ノートンにお茶となにか甘い物を用意するように言づけてくるから」
「どうぞおかまいなく」
「そうもいかないよ。お嬢さん方を持て成さずに帰したらノアールに叱られてしまう」
笑顔で退出したフィリエスを見送り、ヘレーネは庭側に向いているソファに腰かける。
リディアもその隣にそっと座り、陽の光に照らされた庭を眺めた。
屋敷の中庭と違って随分庶民的な花を植えている。
馴染のある花たちはほっとさせ、また心を温かくしてくれた。
「セシルが言う通り、手強そうね」
ため息交じりに囁いて大丈夫かとヘレーネが視線を送ってくる。
大丈夫もなにも、リディアの未熟な人間観察眼でフィリエスのような腹芸のできる相手と対等に渡り合おうなどと思ってはいないのだ。
ただ喋ってみた感触で大雑把な為人が分かればいいなという軽い気持ちで訪ねてきた。
単なる好奇心である。
「でも、ここにはフィリエスさんとノートンさんの二人しかいないんでしょ?」
「そういっていたわね」
それがなんだと聞かれリディアは苦笑して庭を指差す。
「二人しかいないんだったら、あの庭の手入れはフィリエスさんかノートンさんがしてるんだよね?」
「その可能性は高いかしら。でもその時だけ庭師を雇うのかもしれないし」
「庭師を雇うのならもっと凝ったお庭になってると思うけど」
一般市民が愛でるような花を庭師が敢えて選んで植えるとは思えない。
それなりの金額を出して雇うのならば、それなりに見栄えのするような庭にさせるだろう。
個人的に好きな花を時期だから選んで花壇に植えた――そんな庭だった。
だからきっとフィリエスかノートンという人物が庭を造っていて、飾り気のない可愛らしい風情を醸し出しているのだと思う。
こういう庭を好んでいる人たちが悪い人だとは思いたくない。
「お待たせして申し訳なかったね」
「いえ。突然押しかけたんですから仕方ないことよね?」
「うん」
フィリエスが戻って来て二人の正面にある寝椅子に座る頃には扉からワゴンを押して厨房にいた料理人が入って来た。
甘いミルクの匂いとチョコレートの匂いが漂ってきて思わず瞳を輝かせる。
「ノートンの作るチョコレートムースは最高に美味しいよ」
「お褒めの言葉、有難く受け取っておきます」
料理人はがっしりとした体に白いエプロンをつけた中年男性だが、眉が太く鼻も大きい少し厳つい顔だが声は豊かでまるで包み込むような安心感があった。
捲られた袖から覗く腕には筋肉がついていて、肩も横に張っているから料理人というよりも武人のような容姿をしているが恐くは無い。
「美味しそう!」
ミルクティーと一緒に出されたチョコレートムースはしっかり焼かれたタルト生地の上に滑らかなチョコムースが乗っている。
飾りはホイップとラズベリーにナッツの刻み。
そしてミントの葉。
「食べても……いい?」
「どうぞ」
尋ねると笑顔で勧められフォークを掴み差し入れると、最初は抵抗無くすっと入り、タルト生地に到達すると手応えがあり少し力を入れてから掬い取り口に運ぶ。
口の中で蕩けるチョコレートムースとザクザクという食感が楽しいタルト生地。
甘い味を惜しんでいる間に、噛み締めるタルトの香ばしさと仄かな甘さがくどくなくいくらでも食べられそうだった。
「おいしい……」
「有難うございます」
料理人ノートンが恭しくお辞儀をする。
フィリエスはその仕儀を楽しそうに見つめて、自身もチョコレートムースに手をつけた。
そこには信頼という目には見えない空気感があり、他の者を離れに寄せ付けないフィリエスが心を許す唯一の人物なのだとリディアにでも分かった。
「ノアールは学園でどんな生活を送っているのか聞いてもいいかな?」
長い脚を組み寛いだ表情で寝椅子にもたれ掛かるフィリエスが緑の瞳をキラキラと輝かせてリディアを見つめる。
「どんな?ええっと図書塔で本を読んだり、授業の予習復習をしてたり。ずっと本を手に夢中になってるかな」
「ここでも似たような生活だったけれど、学園に行ってからも同じようなことをしているのか。せっかく王都に行ったのだから、もっと開放されてもいいのに。まあ、わざわざラティリスまで来てくれる友達ができただけでも変化があったといえるかもしれない」
唇を持ち上げてにこりと微笑む美しい男の顔は見ていてとても落ち着かない。
視線は顔を向いているのにリディアの一挙一動を逃さず見られているという感じがする。
リディアの思考など取るに足らない些末事だから動揺する必要はなにひとつない。
いつも通りに会話をすればいいのだ。
逆に上手く喋ろうとすればするほど空回りして相手や周りを困らせてしまうのだから。
ミルクティーを一口飲んで心を鎮める。
「でもノアールの友達を続けるのはとっても難しいんだから」
「そういえばライカから五人の女の子とリディアが喧嘩してるのを見たって聞いたわ」
「さしずめノアールの奪い合いかな?」
「んー。わたしは変り者、セシルは変人って呼ばれてて。そんなちょっとあれなわたしたちが仲良くなってるのが気に入らなかったみたいで。ノアールも同類なんだろうっていわれてムカついちゃって」
気が付いたら、である。
そういう所が子供なのだと今なら分かるが、あの時は自分の無力と苛立ちで彼女たちに八つ当たりしてしまった。
数で有利に立とうとしていた彼女たちにも問題があるが、感情的になってしまったリディアにも非はあるので痛み分けだ。
「今思えばこんなわたしが友達とかノアールに申し訳ないなぁとかも思ってて」
実際他者に興味が無いノアールとセシルが友人として傍にいるということが、リディアには信じられなくて。
再会の呪いのことが無ければ交わることの無かった三人なのだと思えば、それすらもちょっとだけ感謝したい気持ちがあって。
「リディアもセシルも個性的だからノアールはきっと友達になってくれたんじゃないかしら?卑下することは無いと思うわよ」
「そうかな。わたしみんながいうほど変り者って自覚が無いんだけどなぁ」
セシルからよくリディは変わってて面白いといわれるが、彼女がどこを指して変わっているといっているのか。
人と感覚が少しずれているのかもしれないが、どこら辺が人と違うのか分からなければ直しようも無い。
首を捻るとヘレーネが苦笑し、フィリエスがなんだか生温い目で微笑んでいるので「色々自覚が無いのは自覚してるから!」と慌てると次いで失笑された。
「自覚があるのか、無いのかどっちかな」
「いや、あの。多分こういう所がきっとみんなから見たら変わってるんだろうなぁって」
「そこは長所だと思って」
「無茶いうなぁ」
ヘレーネの無責任な励ましに脱力し、同時に深いため息を零す。
赤いラズベリーの艶々した粒を見ているとディアモンドにいる紅蓮を思い出した。
紅蓮の髪は燃え盛る炎のように赤く、どこまでも力強い。
短く切った髪は寝癖がついていることが多くて、明るい色を湛えた青い瞳は夏の空を映した海のようにどこまでも綺麗で広い。
ノアールの一番仲の良い友人は紅蓮なのに今、ここにいない。
きっとリディアたちが来るよりも紅蓮が来てくれた方がノアールも喜んだはずで。
「……紅蓮にお土産いっぱい買っていかなくちゃ」
せめて紅蓮が好きそうなラティリス土産を沢山買って帰ろう。
「紅蓮?」
フィリエスが繰り返したので、はっと顔をあげる。
どうやら口に出ていたらしい。
隣を見るとヘレーネがやはり苦笑いをしていて、口元を隠すようにティーカップを持ち上げる。
「えっと、ノアールの一番仲良しの先輩で。一緒に来れたら良かったんだけど、バイトが忙しくて来られなくて」
「まさか……東方の魔術師」
「え?」
聞き馴染みの無い言葉に首を傾げた。
だが確かに紅蓮は大陸の東側の大国の出身だと聞いたことがある。
「魔法に執心しているノアールのことだから、きっと分かっていて懐いているんだろうね」
「それだけが理由ではないと思います。紅蓮もまた変わっているからノアールには居心地がいいのかもしれないし」
戸惑っているリディアとは違い、フィリエスの言葉を理解して受け答えしたヘレーネが彼の瞳を受け止めて微笑む。
やはりヘレーネの情報力はすごい。
リディアのことも全て知っているのではと疑ってしまいたくなる。
隠していることなんかそんなにないけれど、なにもかも知られているかもしれないと思うとちょっと警戒してしまう。
ふと腰の重さを思いだし青くなる。
セシルは誰も気づいていないといってくれたが、ヘレーネの情報収集能力を思えば勘付かれている可能性もなくはない。
急に恥ずかしくなってきてリディアは部屋に戻りたくなってきた。
「そういえば、セラフィスと名乗ってくれたが……あの有名な貿易商のアルガス=セラフィス殿のお嬢さんかな?」
「あら。有名というほどでも。でもご存知頂けて光栄です。セレスティア伯爵の御子息から話が出たと聞いたら父と母も喜びますわ」
ふふと含み笑いをしてヘレーネは優美な動きでカップを下すと、目を丸くしているリディアに視線だけで「内緒よ」と告げる。
なにが内緒なのか分からないが瞬きでそれに応えると皿を掴んでチョコムースを無心に頬張る。
さっきまであんなに美味しかったのに、今では味すら解らない。
「隣国キトラスから遠く離れた海の向こうの東南にある小国ナモレスクまで手広く貿易されている手腕はラティリスまで届いているよ。一度お目にかかってその秘訣を教えていただきたいな」
「父は好奇心が過ぎて母が手を焼いております。フィリエス様にお教えする秘訣などなにも無いと思います」
「いやいや。アルベルティーヌ様に異国の物を献上する名誉を預かるほどの方だ。是非お会いしてみたいよ」
「それはたまたまナモレスクの商品を父が扱っていたからです。アルベルティーヌ様はナモレスク出身ですから、大層喜ばれそれ以来懇意にしていただいているだけで」
謙遜というよりも、なにかを打ち消そうと笑顔で言葉を連ねているように見えるヘレーネにフィリエスは目を細めて小さく微笑む。
「……どうやら王都に流れる噂は真実らしい。貴女にお会いできて大変光栄だよ。ヘレーネ=セラフィス殿」
「どちらの噂か解りませんが、お会いできて私も光栄です」
笑顔での空々しい会話がどうやら終ろうとしている。
ほっと胸を撫で下ろしているとなぜかフィリエスが意味ありげな視線を向けて来た。
ぎくりと身体が固まる。
「君の周りには兎のふりをした狼がいるよ。十分気をつけないと、食べられてしまう」
「兎……?狼?」
「しかも複数ね」
「それは、フィリエスさんもなの?」
「私は兎ではないから」
尋ねたリディアを意外そうに見てからフィリエスは否定する。
だが狼であるということに関して否定はしなかった。
「心配してくれてありがとう。でも大丈夫。わたしはまだ美味しくないから」
親切な忠告と警告に礼をいう。
だが兎の皮を被った狼にとってリディアはまだ利用価値のある人物ではない。
無知で無力な子供を利用しても手がかかるだけで、失敗する危険の方が高いから。
冷静に考えてまだ機は熟していないのだからまだ大丈夫だと思う。
「そうだ。セシルがフィリエスさんになにか失礼なことをした?」
「……失礼な事?」
「そう。最初はセシルについて来てもらおうと思ってたんだけど、自分はフィリエスさんに目をつけられてるからって断られたから」
「そうか。あの子はとても愉快だが、まるで風のようにどこにでも入り込んできて少し困る」
つまり西棟の学生課に忍び込んだ時のように、この離れにも入り込んだということか。
それはとんだ迷惑行為を働いたということで。
「セシルは悪い子じゃないんだけど、ちょっと悪ふざけが過ぎるから。いつもノアールも困ってて。だから代わりに、ごめんなさい」
頭を下げて顔を上げるとフィリエスは初めて柔らかい微笑みでリディアを見ていた。
飾らないその笑みはどこか悲しくて。
きっとあの隙の無い艶然とした笑みは本心を隠すための物で、侮られないように身に纏った鎧で――冷たそうな顔立ちも含めて更に近寄りがたくする。
それを自らが望んでいて。
「ノアールも周りに人を近づけないようにしてた。それは煩わしいのもあるけど、人と関わることで起こる様々なことで衝突したりするのがいやなんだって。恐いんだってわたしには見えた。フィリエスさんも一緒」
「私は違うよ」
一緒に見える。
だがフィリエスは強い眼差しに替え「私はそんなに弱い人間ではないよ」と冷淡に見える美しい笑みでリディアを拒絶した。




