ラティリスの毒⑨
名を呼ばれた気がして眠りの中からゆっくりと覚醒した。
感覚からまだ夜明けより早いと判断し、こんな時刻に誰かが自分を呼ぶなんてきっと勘違いだろうと寝返りを打つ。
くすりと笑う気配がしてノアールは眠い目を擦って暗闇に目を凝らした。
闇の中に浮かび上がる柔らかな髪。
襟から覗く長い首から流れる肩の線は細いのに、しなやかさと強靭さを感じさせる美しく長い手足はまるで猫のように柔軟で、ぞくりとするような妖艶さを持っていた。
「お姫様。迎えに来たよ」
魅惑的な声で囁いて影はそっと寝台へと近づいてきた。
その歩き方がまるで誘うような動きをしている。
横向きのまま半身を起してノアールは目を瞬いた。
「セシル……?」
ノアールの掠れた声に影はまたくすりと笑う。
からかう様な笑い声に既視感を感じて身構えると、それすらも彼女には逆効果だったようで。
「色っぽいって前にいったよね?」
「夢……じゃない?」
あまりにも突然の出来事に夢かもしれないと懐疑的だったので、つい口について言葉が飛び出した。
セシルは暗い中でも分かるほど嬉しそうに微笑んで寝台の縁に腰かける。
そして眼鏡をかけようと伸ばしてかけたノアールの手をきゅっと握った。
「なあに?夢で逢いたいぐらいあたしに夢中なの?」
「そうじゃなくてっ」
「命を狙われてるってのに、ひとりで帰っちゃうからさ。文句でもいってやろうかと思ってリディより先に来ちゃった」
「それ――どうして知ってるの?」
命を狙われているとルーサラがいったのだろうか。
本来ならば早くて今日の朝の鐘が十回鳴るぐらいに到着するはずのセシルがここにいるなんてどうにも信じられない。
「それよりどうやってこんなに早く着いたの?どんな魔法を使ったのか教えてよ」
「問題を先送りにしてもなにも解決しないけど、ま、いいか。あたしはリディとデュランタで別れて別行動したんだ。んで、ちょっとリアトリスまで足を延ばしてからラティリスまで来た」
「え?リアトリスまで行ったのに、リディア達より早くラティリスに着くってどんな方法を使えばできるのか分からないんだけど?」
「道なんか無くても進めるからね」
なんでもないことのように答えセシルは琥珀色の瞳を輝かせてノアールを見つめてきた。
甘い色を含んだ視線にたじろぐと「ノアールのためなら道なんて関係ない」と切ない声が耳を擽る。
「セシル、僕をからかって遊ぶのはいいかげん止めてほ」
「フィリエスはなにか企んでる」
「!?」
セシルがリアトリスに行った理由はフィリエスに関すること以外に外に考えられないことに気づいて己の愚かさに息を飲む。
企んでいると断言するからには、リアトリスでなんらかの情報を手に入れてきたのかもしれない。
期待を込めた視線を注ぐと魅惑的な笑みを浮かべて握っていたノアールの手の甲にそっと唇を寄せる。
柔らかな感触と、肌を擽る呼気に羞恥心を煽られ勢いよく振り払う。
「あれは全てを諦めている眼だ」
「フィリエス兄さんがなにをしようとしているのかセシルには分かる?」
「…………分からないけど、覚悟は決めてるね。あれは」
「なんの覚悟だろう」
もしかしたら損失を出したことによる責任を取る覚悟だろうか。
昼間にフィリエスは役目に対する責任と義務についての話をしていた。
それはノアールを諭していたのではなく、その責任を負って処罰を受け入れようとしていると伝えたかったのか。
ノアールを護ることができないという発言も、ラティリスから去るということを匂わせて自覚を促そうとしていたのか。
「フィリエス兄さんはわざと損失を出して、後継者候補から降りようとしてるんだ。証拠はないけど」
「損失って具体的になに?」
「五ヶ月前にリアトリスで羊や牛が病気になって沢山死んだんだ。最初は出産間近の牛と羊が立て続けに。突然死だったから流行り病を疑って火で焼いて焼却したんだけど、それからも被害は拡大して止まらなかった。焼却するのも追い付かないほどで、フィリエス兄さんは死体を一旦雪の中に埋めて対処するように指示した」
帰ってきた次の日に面会した父から聞いたリアトリスでのフィリエスの失態。
淡々とした口調で語られる全てが信じられず、受け入れがたかった。
「雪で冷凍された死体を畏れてリアトリスの人達は、もし人に感染するような病気だったらどうするんだって、原因を早く突き止めろって」
罵り、責め立てられフィリエスはどんな気持ちだったのか。
「兄さんはなにごとにも手を抜かない完璧主義なところがあるんだ。だからリアトリスを父上に任された時に家畜の病気の事や対処法を学んでる。誰よりも知っているはずで」
現にフィリエスは専門家を数名呼び寄せ、朝から晩まで教授されていたのをノアールも知っている。
専門家たちが驚くほど短期間で知識を身につけたことも。
「そんなフィリエス兄さんが病気を見逃し、対処を間違えるなんて考えられない」
「フィリエスも人間だから間違いも犯すこともあるよ」
「間違いで人を殺すのも許されるとでも?」
「――ということは謎の病気は人にも感染したってことか」
普通は家畜のかかる病気が人に感染することはない。
全く無いとは言い難いが、かなり少ないのは確かである。
なのに。
リアトリスでは家畜だけでなく人も原因不明で突然死した。
数は十名に満たず少ないが、人が感染して死んだという事実は衝撃的で、混乱と恐怖で街は騒然となった。
「それってほんとに病気?」
「病気以外になにが」
セシルは眉を寄せてなにかを考えているようなので眼鏡をかけてから、枕元の洋灯へ顔を近づけると魔力を込めてふっと息を吹きかける。
大気中に漂う魔法の源と自分の魔力を合わせて火種を作ると芯にぽっと火が灯る。
部屋が明るくなって初めてセシル以外に人がいる事に気付いた。
白い騎士服を着た黒髪に朗らかな茶色の瞳をした爽やかな顔立ちの若い男が扉の前に立っている。
目が合うと男は胸に手を当てて頭を軽く下げた。
「デュランタの騎士……。ルーサラ兄さんの」
白い騎士服はデュランタの騎士隊の物だ。
ルーサラの指示で動き、領民の為に働く。
白はルーサラの色。
清廉潔白なルーサラの。
「押し付けられた、お荷物の騎士様だよ」
「お荷物って、そんな言い方したら失礼だ」
「失礼?」
片眉を上げてセシルは騎士をちらりと見る。
なぜか騎士は目を反らし小さな咳払いをした。
別行動を取るセシルの為に一緒にここまで来た道中でなにかあったのだろう。
まあセシルの性格を思えばなにがあったのかなんとなく分かるようで騎士に同情の目を向けた。
「ノアール。病気の症状を教えて」
「症状?確か嘔吐と下痢を繰り返して、足が立たなくなって痙攣。呼吸が減少して徐々に弱って死に至る」
「嘔吐、下痢、手足の痺れ、痙攣、呼吸の減少……」
もしかしたらと呟いてセシルは腰に結び付けていた革袋を外す。
開けて中から油紙に包まれた物を取り出し、上部の紙を退けてノアールの前に差し出した。
淡緑色の花が茎の先に円錐状に多数ついている植物。
茎を抱くように葉が生えている普通にその辺りに自生しているような野草だった。
「これは?」
「毒草。ドライノスに採取してくるように言われて“冬の森”に行った。そこでフィリエスと会ったよ」
「兄さんが、どうしてそんな所に」
到着予定より半日遅れてラティリスに着いたフィリエスは“冬の森”に寄り道していたのか。
だがどうして“冬の森”に――?
リアトリスからラティリスまでは街道がまっすぐ伸びている。
その道は東から北へと一直線で、馬で一日の距離だ。
“冬の森は”リアトリスからデュランタを繋ぐ西へと向かう街道沿いにある。
わざわざ遠回りして“冬の森”へ行く理由はなんなのか。
「これ、あちこちで生えてる植物なんだけどラティリスのは変種らしくて毒性も強い。本当はもうちょっと高く成長するんだけど、雪深いせいかそんなに草丈も伸びないし。持って帰るには楽だけど、その分誰にも気づかれずに持ち込める危険な毒草でもある」
「飲んだらどうなる?毒性が強いってことは死ぬ?」
「症状は嘔吐と下痢。それから手足の痺れと眩暈。心臓が弱って呼吸が減少し……痙攣を起こして体力を失いやがて死ぬ」
「それって!」
「同じだよね?」
セシルが顔を顰めて毒草を油紙で包み革袋に戻す。
再び腰に結び付けるとそっと立ち上がってノアールの目を覗き込む。
「普通は苦みがあるから動物も人間も食べない。でもラティリスに自生している物には苦みも匂いも無い。餌に混ぜれば動物も気づかずに食べるかもしれないね」
ノアールは首肯する。
野生動物は口にしないかもしれないが、生まれてからずっと人に飼われ護られた状態の動物ならもしかすると警戒せずに食べるかもしれない。
「これは証拠にはならない?」
「それは」
フィリエスが病気を装って毒草で家畜を殺し、リアトリスの人を数名毒殺し後継者候補から逃れたかったという証拠に――。
青くなったノアールとは逆にセシルは頬を緩ませて微笑む。
その笑顔の意味が理解できずに軽く睨むと「愛されてる、証拠だよ」と噛んで含めるようにゆっくりと呟く。
なにがどうなって愛されている証拠になるのか。
「この植物ラティリスの毒ってドライノスは呼んでた。ぴったりの名前だと思う」
「ラティリスの毒」
「リディももうすぐ来る。あの子はノアールに、がめつい領主にはなって欲しくないっていってたよ。次はわたしの番だって張り切ってたから。覚悟しておいた方がいいかもね」
「会えるのは嬉しいけど……ちょっと怖いや」
「あの子真っ直ぐだからね。あたしでもちょっと戸惑うくらい」
セシルが戸惑うほどの真っ直ぐさ。
そしてノアールが怯むほど自分の感情に素直で。
「だからおやすみ」
「セシルの部屋は用意してあると思うけど、ちょっと早く来すぎて対応できないかも」
「伯爵家の使用人はみんな優秀みたいだ。さっき案内してもらったからそこで寝る」
あっさり身を引いて扉へと歩いて行く。
白い騎士はセシルが近づくと大袈裟なぐらい離れ、扉の向こうに出て行ったのを確認してからノアールへ姿勢を正して一礼すると退出していった。
「愛されている証拠」
繰り返してもセシルがいいたかった事の本当の意味は分からない。
睡魔はどこかへ消えてなくなったのか、寝台に横になっても眠れそうも無いので枕元に置いていた本を手に取ると表紙を捲って知識の海へと逃避した。




