ラティリスの毒⑦
ノアールは子供の頃から父が苦手だった。
セレスティア伯爵であるヴィンセント=セレスティアは、厳格で多くを語らず己の息子にでさえ心の中でなにを思い、行動しようとしているのかもちらりとも零さないような人物だ。
笑っている顔を見たことが無いのも理由のひとつだが、その腕に抱かれた記憶が一切ないというのも原因のひとつだと思う。
ノアールが生まれた時には長兄のルーサラは八歳で、次兄のフィリエスは五歳だった。
後継者問題があったからなのか分からないが、父は幼いノアールを可愛がるより兄たちと同じように扱ったので甘えたくても甘えられない雰囲気があったのは確かだ。
政略結婚だった母を愛してはいないが大切にしていたのはまだ幼かったノアールの目に明らかだったけれど、唯一愛した女性であるフィリエスの母には一人の男として心の内をさらけ出し弱さを見せることはできていたのか――。
残念だがそれを尋ねることはできない。
ノアールの母が原因不明の病で死んでから半年後にフィリエスの母もまた帰らぬ人となったから。
死因は伏せられているけれど、毒殺であるという噂が実しやかに囁かれた。
周りに関心の無かったノアールの耳にでさえ入って来たのだから、父にもそして兄たちにも届いていたはずだ。
肯定も否定もされない噂はやはり真実なのだとみなが思っているのは間違いない。
あの日。
悲しみの鐘が鳴り響き、しんしんと雪の降る中。
フィリエスの母の葬儀は行われた。
ノアールの母の葬儀は花咲き誇る夏だったのに対して、彼女が亡くなったのは暗く切りつけるような寒風が吹きつける冬だった。
あまりにも雪深く早朝から雪掻きをしていたはずなのに、墓所へと向かう道は降り積もる雪で足を取られた。
棺を支えて進む男達がなんども足を滑らせて転びそうになる中、長い時間をかけて辿り着いた墓所にも雪が積り埋葬される為に掘られた地面が黒く湿って目に焼きついた。
宗教の無いラティリスには祈りの言葉など無い。
男達が棺を慎重に運び、穴の中へと入れられるとすぐに黒く重い土が入れられる。
ふとフィリエスの顔を見ると冷たい双眸で睨むように男達を見ていた。
別れを惜しんでいるのだと思ったが、その視線が少し下を見ていることに気付いて凍りつく。
兄は。
フィリエスは死んだ自分の母を見ていたのだ。
凍てつくような冷たい瞳で。
その横顔がノアールは忘れられない。
雪の白と黒い土と昏い緑の瞳が目に焼き付いて今も離れないのだ。
「ノアール様」
テレサの声に我に返り一瞬寒さに震えたが、厳寒ともいえるラティリスの冬の寒さとは異なる柔らかな風を肌に感じて戸惑う。
記憶と現実の季節の差が激しすぎてついて行けない。
ゆっくりと瞬きをしてから身体に現実を受け入れる。
「またぼんやりとされて。まだ今朝の出来事が心を悩ませていらっしゃるのですか?」
「……そうじゃないよ」
久しぶりに暗殺されようとしていたという事実は確かに衝撃が大きかったが、一年前までは頻繁に敵意や殺意を向けられていたことを思い出せば、ずるずると引きずって悩むというほどのことでもない。
「私は生きた心地がしませんでしたよ。お願いですから御独りで行動されるのは自粛していただかないと。いつでもフィリエス様がお助けしてくださるという保証はどこにもないのですから」
「……分かった」
新鮮なハーブを数種類混ぜ合わせて柑橘の果物を入れたポットに湯を注いでからテレサは眉を弓形に上げる。
「いつもいつも分かったと仰いながら、目を離すと御独りでいらっしゃるじゃありませんか。護衛をつけても部屋から追い出し、侍女も必要な時以外は傍に寄りつかせもしませんし」
「自分の部屋にいる時ぐらいは誰にも邪魔されずにひとりの時間を満喫したいんだよ。人がいると勉強も読書も集中できないから」
「まったく……ノアール様は本当に学園で生活なさっているのかと首を傾げたくなります」
首を振りながらカップにも湯を注いで、黄金色に焼かれたビスケットが乗った皿をノアールの前にそっと置く。
テレサの疑問に苦笑して、安心させるためにも反論する。
「できてるよ。ここより随分楽しいし、息も楽にできる」
「学園は沢山の方たちが一緒に生活をされていらっしゃるはずです。それなのにお屋敷では人がいると勉強にも読書にも集中できないとは。理解できませんよ」
「学園ではみんなが勉強してるんだから気にならないよ。ここでは見張られてるって感じがして気が散る」
「見張っているのではなく、気を配っているのです」
几帳面にノアールの言葉を訂正し、蒸されて良い香りのするハーブティを温めていた湯を捨てたカップに注ぐ。
ビスケットとお茶が揃った所で手を伸ばしてまずは一口ハーブティを飲んだ。
ほっと一息ついてから意見する。
「それが仕事だって分かってるけど。僕には息苦しいんだよ」
その瞬間メイド長は表情を固まらせると、すぐに顔を覆う。
肩と声を震わせて同情を誘うかのように訴え始めた。
「私は心配なのです。ノアール様になにか起こって、万が一お命に関わるようなことがあれば……。長年尽くしてきたセレスティア家に申し訳がたちません。私の命などノアール様の命に比べれば取るに足らない物ですが、死んでお詫びするしか他に道は御座いません」
「テレサ……。大袈裟だよ」
「決して大袈裟では御座いません!現に今朝お命が危なかったのですよ?」
きっと顔を上げてテレサは声を張り上げる。
「…………」
「ノアール様後生ですから護衛を近くに置くことを了承してくださいませ」
嫌だといいたくてもいわせない強い瞳が見据えている。
自分の身を護れないノアールに拒否権は無い。
大抵の貴族の子息は一部の例外を除いて武術を習得する。
これは国が他国に侵略されたり、反乱を起こした貴族や国民の鎮圧に対して王からの要請があれば私兵を投じて応えねばならないからだ。
その時に知識も技術も無ければ私兵を率いることなどできない。
よって必須項目となる。
だがノアールはその義務すら放棄した。
優秀な兄達がいるから、自分は伯爵家を継ぐことはないだろうと思っていたのもある。
でもそれ以上に他者を自分が傷つけ、命を奪うことを我慢できない弱さが原因だった。
自分が行うと思えばその行為自体も、匂いも感触も想像するだけで怖気が走る。
「ノアール様」
首肯しろと迫られて怯み、仕方なく頷こうかと思い悩んでいると扉がノックも無く開いてフィリエスが笑いながら入って来た。
「楽しそうだね。廊下まで遣り取りが聞こえているよ」
「失礼致しました」
恥じ入るよりも開き直ってテレサは微笑みながら膝を折って挨拶をする。
フィリエスがぞんざいに頷いてテーブルに近づくと椅子を引き出して座った。
助かったとほっとしていると兄は見透かしたようにこちらを向く。
「テレサの言い分はもっともだと思うよ。護衛をつけられたくないなら、ノアール自身が強くならなければ」
「もっと仰って下さいませ。私の言葉などノアール様には小さな虫の羽音みたいな物で煩わしいだけなのでしょうから」
「そんなこと思ってないよ」
「そうでしょうか?」
ぐっと返答に困るとテレサはやれやれと首を振り、フィリエスは楽しげに笑い声を上げる。
呆れながらもメイド長は新たな客人のためにお茶の用意をして、ビスケットと共に提供した。
「こういうことならちゃんと武術を嗜むように厳しくいっておくんだったよ」
「いわれてても、きっと僕にはできない」
視線から逃れようと俯くと兄の小さなため息が耳に聞こえ、椅子の背に埋もれるように更に小さくなる。
「ノアール。自由には責任が生じることを覚えておいた方が良い。父上はお前を子供としてではなくセレスティア家の子息として扱ってきた。剣を取らなかったことも、領主としての知識を学ばないことも、魔法学園に通うことも、全て父上はノアールの気持ちを優先してくれた。拒絶する権利、選ぶ権利を与えられているということはそれに付随する義務も果たさなければならないということだよ」
後継者候補としての役目を果たせ。
それは父からの手紙に書かれていた物。
フィリエスがいうようにノアールが与えられた拒絶する権利も、選ぶ権利も全てがセレスティア家の子息であるから持ち得た物。
そして同時に義務と役目も否応なく与えられる。
無料奉仕ではないのだ。
「そろそろお前も自分の立場を理解し、父上を支えられるような人間にならなければ」
「…………デュランタもリアトリスも兄さんたちが立派に治めてる。僕の力なんか必要ない」
「立派?」
自嘲の声に顔を上げると秀麗な顔には目を背けたくなるぐらいの歪んだ笑みが浮かんでいた。
「ルーサラは立派だ。だが私は父上から預かった領地に多大な損害を与えたよ。ノアールの方がリアトリスの領民に受け入れられ、豊かで実りの多い街にできるはずだ」
「それは!」
「ノアール。お願いだからこれ以上私を惨めにしないでおくれ」
「兄さんは、僕にとって尊敬できる、信頼できる人だ。だから」
「…………私はノアールにそう思ってもらえるような人間ではないよ。お茶をご馳走様。護衛はつけた方が良い。私はもうお前を護ってあげられないから」
「どういう」
言葉の意味を問う前にフィリエスはさっさと立ち上がり、颯爽と扉の向こうへと消えていった。
残されたノアールは真意を量れずにもやもやとした物を胸に抱える。
漫然とした不安が苦しくてハーブティを飲んだが、一向にすっきりせずに焦りだけが増したような気がした。




