ラティリスの毒⑥
村の宿屋で用意された部屋を前にリディアは立ち止まり扉を開けるのを躊躇った。
船の客室よりは広いだろうが一人部屋だと聞いたので、もしかしたらちょっと毛が生えただけの広さかもしれない。
宿屋の基準がよく知らないので、不安が把手を握ろうとする手を邪魔する。
もしもの時は部屋の扉を開けっ放しで寝てもいいかな?
真剣に悩んでいると「どうかしましたか?」と穏やかな声と共に背の高いルーサラが隣に立った。
馬で移動して土埃にまみれているはずなのに、身に着けているゆったりとした白い服は輝かんばかりで、きっと汚れにくい特殊な布で作られているのだろうななんてぼんやりとずれたことを考えた。
「なにか困ったことでも?」
「あ。えっと……」
優しい微笑みを見上げてリディアは心配事を告げようか悩んで迷う。
ついさっき変わらなければと思ったはずなのに、扉を開ける前から不安に押し潰され逃げ道を探そうとしている。これではだめだと解っているのに。
「教えていただけないとなにを悩んでいるのか分かりません。私で良ければ力になりますから」
さあと促され、言葉を発する前に手を伸ばして把手を握った。
もし我慢できない狭さなら相談しようと決めてぐっと力を入れる。
よく手入れされている蝶番は音も無く動き、扉が廊下側に開く。
茜色に染まった掃除の行き届いた部屋には、小さいが寝心地の良さそうな寝台と書き物をするための小さな机、それから背の低い棚が設置されている。
窓の横には緑色のカーテンがかけられ、漆喰の壁によく映えていた。
背の高い家具がひとつも無く、圧迫感が少なくて気持ちよく過ごせそうだ。
勿論船の客室より広い。
怯えていたのがバカみたいで、拍子抜けして笑ってしまった。
「大丈夫ですか?」
応えの無いリディアにルーサラは再度呼びかける。
気遣う様子に心が温かくなって自然に笑顔になった。
だがそれだけでは彼に伝わらないことに気付いて言葉にする。
「ありがとう。心配してくれて。わたしが恐かったものはなにも無かったから。安心して眠れそう」
「……そうですか。リディアが恐れていた物を教えてはもらえないのですね」
思案気に俯くとルーサラがため息を零す。
残念ですと呟いた彼にリディが理由を問うと、次の宿泊予定の街で宿を取る時とラティリスの屋敷での滞在に不都合が無いように配慮ができないからだと答える。
その発想がとても大人で驚き、いつでも他者に気を配り心地良く過ごしてもらいたいと願うルーサラの気持ちが嬉しかった。
もしリディアがラティリスの人間だったらルーサラのような人に領主になってもらいたいなと強く思った。
彼なら領民はみな安らで、穏やかな生活を与えられる。
強かで、狡猾な領主だけが領主ではないのだ。
色んな領主がいて、それぞれの方法で治めていく。
正しい統治の仕方などありはしないのだろう。
その土地にあったやり方で、領民の為に、中には自分の為だけの欲で治めていく。
すごく大変で難しい。
でも、とても魅力的な仕事。
「ルーサラさんありがとう。お陰でわたしの中の世界が広がった気がする」
「はて。私がなにかお手伝いできたことがありましたか?」
不思議そうな表情を浮かべる美しい顔に、再びにこりと笑いかけ白い手を取り握った。
滑々して少し冷たいその指を包み込んで。
「いっぱい教えてもらったよ。ルーサラさんに会えてよかった。まだまだ色々と教えてね」
「教えた、という実感がありませんが。ふふ。私で力になれることならなんなりと」
声を立てて笑うルーサラがリディアの心を幸せな気持ちにさせる。
深い労わりのある、見えないはずの彼の眼差しを感じてくすぐったい。
「準備してご飯食べに行かないと」
主張をし始めた腹を擦りもたもたしている時間が勿体無くて荷物を持って部屋に入る。
ルーサラは「それでは。また後程」と会釈をして自分の部屋へと向かう。
やはり見えているかのように進み、寸分の狂いも無く扉の前で止まり扉を開けて中へと入って行った。
不思議な人だ。
そう思いながら扉を閉めてリディアはくすりと笑った。
翌朝。
朝日が麦を照らし、早起きの村人たちがそれぞれの仕事を始めている気配と姿を見ながら厩舎へと向かう。
ひんやりとした空気が肌寒く感じ、ポンチョを着てくれば良かったかと少し後悔する。
昨日荷物を中まで運んでくれた少年が飼葉を持って厩舎へと入って行く。
その背中に「おはよう」と声をかけると目を丸くしてぎこちなく会釈を返してくれた。
乾燥した敷料と獣の匂いが立ち込めている小屋の中で、デュランタから乗ってきた馬たちが並んで餌を食べている。
ルーサラが乗っていた白馬はパール、ジェンガが乗っている栗毛の馬はメノウ、ヘレーネが騎乗していた葦毛で雄の馬がサファイア、ライカの黒い馬はオニキス、そしてリディアを運んでくれたのは栗毛の雌馬でエメラルド。
どの馬も良く調教されていて美しい。
入口の壁に吊られている棚の中に馬用の櫛を見つけて少年に許可を貰ってから借りるとエメラルドの傍へと近づいた。
「おはよう。エメラルド。今日も一日よろしくね」
飼葉を食みながら黒い目をこちらに向けて小さく嘶く。
耳もこちらへとちゃんと向けられていてリディアの言葉を聞こうとしている姿勢が伝わり嬉しくなる。
「昨日はちゃんとお世話ができなくてごめんね。お詫びに出発前に毛を梳いてもいい?」
祖父の家では馬に乗る前と乗った後は、自分自身で必ず手入れをしなければ乗ることは許されない。
馬にはブラシをかけて、使った馬具は丁寧に拭き上げ、必要ならば油を塗り込む。
幼い頃から教えられ染みついている習慣を昨日怠ったことが酷く心残りだった。
だから朝はエメラルドに会いに行き、謝って少しでも世話がしたかったのだ。
「食事は続けてて大丈夫だから」
首を撫でてから話しかけ櫛を手にゆっくりと体を梳いて行く。
丁寧に十分に時間をかけて。
「こんなとこにいたのか。朝飯の時間になっても下りてこねぇし、部屋に行ったらいねぇしでちょっとした騒ぎだぞ」
呆れた声に我に返り尻尾を梳いていた場所から柵の方へ顔を覗かせるとライカが腰に手を当てて苦笑いしていた。
櫛をかけていたら時間を忘れて熱中してしまったらしい。
「うそ。もうそんな時間なの?」
「朝飯そっちのけで捜索させられた。早く戻って飯食って出発しようぜ」
「でも、まだ掃除が済んでないのに」
敷料を脇に避けて馬房の掃除をしようと思っていたので、思わず呟くとライカは黒い髪をガシガシと掻いて唸る。
「そこの坊主の仕事まで取り上げる気かぁ?」
サファイアの身づくろいをしていた少年を指差し、ライカは柵を越えて中に入ってくる。
持っていた櫛を取り上げて少年に放り投げると、リディアの腕を掴んで強引に馬房から引っ張り出された。
「ちょっと、待って」
「お前がそんなに馬が好きだって知らなかったわ」
「だって、目的地まで乗せてもらうのに、なにかお返ししないと」
「もう充分だろがぁ。お前も食って準備しろ」
「ちょ、分かったから。痛い、もう、手が壊れるっ」
乱暴にぐいぐい引っ張られて肩が痛い。
そんなにお腹が空いているのかと目を白黒させながら必死で脚を動かしてついて行く。
身長の差があるし、足の長さだって違うのにライカの速度で歩かれては走るしかなくなる。
「ちょっと!ライカ、お願い、もう少し、ゆっくり」
「文句いうな。みんな心配してんだ。ちゃんと謝れよ」
「え?そうなの?でも」
朝食に遅れたぐらいでなにをそんなに心配しているのか。
訳も解らずに引きずられるまま走ってぐるりと宿屋の角を曲がって表へと出ると、待っていたのかヘレーネが駆け寄って来てくしゃりと笑った。
「よかった。もう……心配したんだから」
「ご……ごめんな、さい」
息を整えながら謝罪すると、優しく頭を撫でられた。
ちりちりと髪飾りの鈴が鳴る。
「暢気に馬の世話してやがったんだぜぇ?」
「そうなの?てっきり眠れなくて朝の散歩にでも出かけて迷子になったんだと思ってたわ」
「そんな……子供みたいに迷子とか」
見た目通りに子供だと思われていたのかとがっかりした。
大体頭を撫でるという行為自体も子ども扱いされているとしか思えない。
心配はしてくれたのだろうが、なんだか素直に謝りたくない気分になる。
「子供みたいに夢中になって馬と戯れてただろうが」
「いっておくけど遊んでたんじゃないからね。昨日の分のお詫びと今日の分のご挨拶に行ってたんだから」
唇を尖らせ言い返していると、ヘレーネがやれやれと肩を落としてゆっくりと名前を呼んだ。
その口調が有無を言わせない響きで、口を閉じなにを言われるのかと冷や冷やしながら上目遣いで様子を窺う。
「ちゃんと自覚しなさい。貴女は誘拐されたことがあるのよ?ひとりで行動して、万が一なんらかの事件に巻き込まれたらどうするの?ここはディアモンドじゃないのよ。ほとんどの人がリディアを知らない。リディアが危険な目にあっていても誰も助けてくれないかもしれないんだから」
でもあの誘拐は理由があったから起こった事件だ。
ディアモンドじゃないからこそ、ここでリディアを誘拐してなんの得がある?
身代金を要求することはまず難しい。両親に誘拐したのだと報せることも難しいのに。
「リディア」
安堵の声が宿の入り口から聞こえ、そちらを見るとルーサラが眉を下げてほっと息をついた。
その姿を見て気付く。
あった。
今はセレスティア伯爵の息子であるルーサラと行動を共にしている。
リディアが行方を眩ませればルーサラが困る。身代金を要求すればそれを払うだけの能力と責任感を持っている彼はいわれるがまま相手が望むだけの物を渡すだろう。
リディアの両親を強請るより高額な金をセレスティア家から貰える。
そのことに気付き目の前が暗くなった。
浅はか過ぎて笑いさえ込み上げてくる。
みんなの心配は当然の物で、リディアはもっと自覚していなくてはいけなかったのだ。
誰と行動しているのか。
自分の行動が周りにどれだけの影響を与えるのか常に考えておかなければならない。
「申し訳ありませんでした。わたしが至らないせいでご迷惑をおかけしました」
居住まいを正してリディアは素直に頭を深く下げた。
子供扱いを不当に思う資格は無い。
実際に配慮のできない子供なのだから腹を立てる権利すらないのだ。
わたしは無力で無知な子供なのだ。
そう言い聞かせることで今の自分の度量を胸に刻む。
無知なのも、子供なのも恥じることではない。
理解し、受け入れることで成長すればいいだけだ。
無力なままでいることは恥ずかしいから。
変わると決めた。
「無事で良かった。さあ。中で朝食を取りましょう」
白い手がリディアの手を包んでそっと引く。頷いて歩き出す。
これが初めの一歩だと心に刻んで。




