ラティリスの毒⑤
夜遅くまで歩いて清水の流れる川の畔へ出ると水を飲み、傍の石の少ない地面に座りリアトリスの街で手に入れた卵とハムを挟んだパンを頬張る。
火を熾して焚火をするのは後片付けが面倒なのと、乾いた木材を探す手間を考えたら無くても問題はないので止めておいた。
灯りは無くとも空には星と月が輝き、目の前の川面に反射して十分に視界は効く。
「随分嫌われてるみたいでちょっとびっくりした」
咀嚼して飲み込んでからリアトリスで聞き込んできたフィリエスの評判についての感想を述べた。
成人男性の食事としては物足りなかったのだろう。
ケインはあっという間に食べ終えて、木に身体を齎せて鼻を鳴らした。
「……しょうがないさ。あそこはステフィラム子爵が治めていた場所だったからな。フィリエス様を快く思わない人が多いのは仕方が無い」
「ステフィラム子爵って誰」
「ルーサラ様とノアール様のお母上の生家だ」
「ってことは、やっぱりノアールとフィリエスは腹違いの兄弟だったのか」
二人ともいい男はいい男だが、顔立ちと作りが全く似ていなかった。
外見だけではなく人間としての魅力が。
そこはまだまだ成長途中なので、育ちようによってはフィリエスやルーサラ以上の人物になる可能性はあるので気に病む必要はない。
押しが弱いのはちょっと物足りない所だが、気を許した相手に見せる隙だらけの顔はセシルには堪らなく可愛く見える。
だからからかいたくなるのだけど。
「そりゃ正妻の生家の力が強い場所に、妾の息子がやって来たら反発は大きい。逆に不憫すぎて同情するね。セレスティア伯爵は一体なにを思ってフィリエスにリアトリスを任せたのか……」
「ルーサラ様も伯爵様には御進言申し上げたみたいだが。結局お心は分からずじまい」
長時間歩いて張った脹脛を揉み解しながら騎士はため息を漏らす。
跡を誰に継がせようと考えているのか伯爵ははっきりと態度でも言葉でも表していない。
もうずっとこの状態が続いていてルーサラ様もフィリエス様も倦んでおられるようだと浮かない顔で呟く。
「ま。考えても分からないし。直接聞いてみた方が早い」
「伯爵様をルーサラ様やノアール様と同じように思ってるんじゃないだろうな」
「思ってるけど?」
半眼の騎士は怒りを通り越して呆れ「これだから子供は」とか「無知は恐い」等とぶつぶつ文句をいいながら、これ以上の会話は無意味だと判断しマントに包まるとごろりと横になった。
「ちょっと。見張りはしないの?」
「火の番必要ないだろ」
もともと焚火をしていないので確かに必要は無い。
「妙な気配がしたらちゃんと起きる。安心して寝ろ」
「……安心ね」
ほとんど休みなく、かなりの速度で歩き通し身体を酷使した状態だ。
目を閉じた途端に深い眠りへと入ってしまうのは目に見えているが、この騎士様は危険が来れば飛び起きて対処してくれるらしい。
セシルは久しぶりに長距離を移動したのでそれなりに疲労感を感じてはいるが、慣れている徒歩での旅でまだ余力はある。
寝ても浅い眠りでいられる自信はあった。
「それだけ平和だって認識で大丈夫ってことか」
荷物を抱いて横たわる。
目を閉じてゆっくりと呼吸すると、穏やかな眠りが間もなく訪れた。
夢を見ないギリギリの深さで眠り、動物が水を飲みに来る気配で時折目が覚めたが、金品を奪う目的の気配が近づいてくることも無く無事に朝を迎えることができた。
身を起こすとまだ明けきれていない空と、水辺にかかる霧で視界が閉ざされていた。
隣で眠っているケインを見ると、すやすやと心地よさそうにあどけない寝顔をしている。
起きそうにも無いのでセシルは荷物を持って立ち上がった。
上流に向かって川を上り十分に離れた所で荷を置き、マントとブーツを脱ぎその上に乗せる。
同じようにシャツもズボンも下着すらも脱いで冷たい水へ入った。
セクト鉱山に連なる山の雪解け水が流れる川は指の先まで痺れるほど冷たい。
豊かな川は中央に行くほど深く、セシルは躊躇わずに進み胸の位置まで水位が来た所で大きく息を吸ってから水の中へ潜る。
驚いて鱗を煌めかせて逃げる魚。
泡立つ気泡。
水の流れが作り出す陰影。
鼓膜を震わせるいつもとは違う音の数々。
綺麗で冷たい水はセシルの中にある余計な思考を流して心を落ち着かせてくれる。
冷静さを取り戻させてくれる。
自然はセシルをありのままの姿へと引き戻してくれる。
あたしは根なし草のレイン。
それ以下でもそれ以上でもない。
安堵感が心を満たしてくれた。
心が穏やかに、自由に解き放たれる感覚が四肢の隅々まで行き渡って行く。
幸せだと歓喜する。
「はあ……。気持ちいい」
水面から顔を出し、頭を振って水滴を飛ばす。汚れも心の淀みさえも綺麗になって満ち足りた気分になる。
東から霧を裂いて太陽が昇る。水の上を光の帯が走ってセシルの冷たさで赤くなった肌を照らし、更に上流の方へと向かう。輝きに目を細め、しばらく朝日が描く軌跡を眺めていた。
「お前――」
気配は無かった。
呟かれた声に我に返り、そちらへ視線を転じると驚愕に彩られた騎士の顔。
「忘れてた」
夢中で自由を満喫していてケインの存在を失念していた。
直ぐに戻ってまだ眠っている騎士を叩き起こして出発しようと思っていたのに。
失敗した。
「…………女だったのか!」
青い顔の騎士は愕然と叫び、一歩後退り、剥き出しの胸を見て、腰へ目を下し、更に視線を下げて赤くなった。
面倒臭くて隠しもせずに水から上がると荷物の中からタオルを出して身体を拭き、下着と肌着を出して身に着けた。
その間もケインは立ち去ろうとしなかったので、流石に顔を顰めて「いつまで見てんのさ」と非難する。
「あ!いや、あの」
「騎士は覗きも平気でするんだね。最低だ。女の敵」
「覗き!?いや、これは不可抗力でっ」
シャツを羽織り、ズボンを穿きながら言い訳を聞くが、年頃の娘の裸を見たという事実は消えない。
別に見られたからといって恥ずかしがるほど純情ではないし、セシル自身痛くも痒くもなかったが、騎士の方はそうではないようだ。
「目が覚めたら、お前がいなかったから!もしかしたら置いて行ったのかと思ってだな。まだその辺りにいるかもしれないと探していたら、水音がして」
必死で言い募り誤解を解こうとしている。
「それで?人影が見えたから覗いたの?」
「だから。女だと思ってなかったんだよ!」
「じゃあ男の水浴びを覗く趣味はあったんだね」
「だから!違う。断じて!」
荷物を背負い、マントを着けるとセシルは首を振る。
採取した野草の入った革袋をしっかりと腰に結び付け、時間が勿体無いのでそのまま出発することにした。
置いて行かれたと判断したケインはすでに荷物を纏め準備は整っている。
「もう。いい。女だと思われないようにしてたし」
ゆったりとしたシャツを着て胸の膨らみが解らないようにし、わざと一人称を使わずに話した。
中性的な顔立ちと手足の長い身体は、それらしい服を着てそれらしく振る舞えば少年にしか見えないのを熟知している。
旅をするなら少女としてより少年としての振る舞う方が遥かに便利で安全だ。
「悪かったと思うなら、次の町で馬の手配してくれる?ぐずぐずしてたらリディアに怒られちゃうからね」
「そんなことでいいのか?」
「……取り敢えずはね」
了承したとケインは頷き、あとは黙って歩いた。




