ラティリスの毒②
ぬかるんだ地面を通り抜けて斜面を登り始めると背後から「ちょっと!待て」と呼び止める声が聞こえた。
足を止めて白樺の幹に手を添え振り返るとぬかるみに足を取られて動けなくなっている青年が必死の形相でこちらを見上げている。
黒い前髪が汗で額にくっつき、その下で茶色の瞳が焦りと怒りにギラギラと光っているのが見えた。
あどけなさを残す顔は北方の民特有で整っており、白い肌に朱をのぼらせている。
少し派手な白い騎士の制服を身に纏っている青年は名をケイン・パスグラスという。
腰には剣を佩き、鍛えられた肉体なのは服の上からでも分かるが――。
「いったよね?ついて来れなかったら置いてくって」
「ついて行けないのではなく!これは、足が抜けないだけで!」
セシルの確認にケインは負け惜しみと言い訳を口にした。
泥にまみれたブーツとズボンに飛んだ泥水の染み。
重心を取るために中腰の体勢をしている青年を一瞥すると、自力で抜け出すのは不可能だと判断して斬り捨てた。
「ちょっ!おい!待て!」
さっさと斜面に向き直り、白樺を掴んで身体を引き上げる。
この際後ろの怒声は聞こえないことにした。
「ほんと使えない騎士様だ」
呆れながらケインを連れて行けと勧めたルーサラとリディアに今の醜態を見せてやりたいと心から思う。
デュランタに到着してルーサラと侍女のジェンガの出迎えを受けたあと、セシルは別行動することを初めて告げた。
聞いていないと動揺し、怯えたリディアをドライノスに頼まれた仕事があるからとなんとか宥めて説き伏せた。
セシルの旅行費用を出したのはドライノスで、その見返りとしてラティリスに自生している植物を持ち帰ることを約束したのだ。
その植物を手に入れるのにはひとりの方が望ましい。
山歩きなどしたことがないリディアやヘレーネを連れていては時間がかかりすぎるし、危険も多い。
足手纏いがいない方が簡単に仕事を終えることができる。
その足でリディア達を追えば、半日遅れぐらいでラティリスへと入れるだろう。
それを。
「お荷物を押し付けてくれて有難いね」
愚痴を聞く者はいない。
当の本人は斜面下で泥と格闘している。
時折叫び、制止する声が聞こえてくるが森の中で木々がざわめく音だと思えば気にはならない。
デュランタから東にある“冬の森”は途中から山へと姿を変える。
白樺が美しい幹を並べる林を抜けると斜面が現れ、獣道が僅かに道を作っているだけ。
人が作った森の道を行けば歩きやすいが、その分遠回りでまどろっこしい。
人工の道を歩けという決まりがあるわけでもなし。
よって最短距離。
つまり直進を選択する。
濡れた落ち葉は滑りやすいが、セシルのブーツは底が特殊な素材で滑りにくく、どんな場所でも歩きやすい構造になっている。
長旅に慣れている者はなにより靴に拘る。
そして金をかける。
旅を快適に問題なくできるかどうか、靴で明暗が分かれると知っているからだ。
勿論セシルのブーツもかなりの値段がする。
自分の私物の中で一番値が張る物だ。
「さてと。確かこの辺り……」
時間はさほどかかっていないが、騎士と別れて結構な距離を歩いた。
樅の木が密生する木立で立ち止まり、ざっと見渡すと少し先に淡緑色の花が群生しているのが見える。
「あれか」
腐葉土がふかふかと足を包み、黴臭い様な土の匂いが充満している。
むっとした土と植物の匂い。
濃い空気が鼻を刺激して思わず眉を寄せながら花を目指して進む。
「……人?」
自分以外にこんな場所に人がいるとは思っていなかったので歩みが乱れた。
そして濃厚な空気がセシルの動きで流れ、花の傍に膝を着いていた男がゆっくりと顔を上げる。
緑の瞳がひたとセシルの顔を見つめた。
切れ長の美しい瞳に囚われてそこで足を止める。
真っ直ぐの長い髪が白い頬に沿い、細い首を強調して肩に流れていた。
喉仏が震えて酷薄そうな美しい唇が左右に持ち上げられ笑い声を響かせた。
「こんな所で人に会うとは」
弦楽器のように伸びが良く、響くその声は楽しげに歌う。
長い睫毛を伏せてから立ち上がると男は肩を揺らして笑った。
「それはお互い様だ」
「きみはラティリスの人間じゃないね」
「御明察」
「訛りのない綺麗な言葉だ。でも綺麗すぎて、この国の人間でないことまで雄弁に語っている」
「そ。流れ者だから」
言葉は会話のための道具。
旅人には必要な技術のひとつ。
セシルには故郷と呼べる物も、祖国と心を支えてくれる物も無い。
だからどこの言葉を喋ろうとも訛りようがないのだ。
別に隠すつもりも無いので肩を竦めて笑顔を浮かべる。
「ラティリスでも、フィライト国民でもないきみがなぜここへ?」
「友達を困らせてやろうと思って」
“ここ”がラティリスではなく、今いる場所を指しているのが分かっていてとぼける。
男は秀麗な顔をほころばせてセシルを正面から見つめた。
その瞳には強い光。
警戒と不信、そして値踏みするかのような色。
人が近づかない山の中。
そして男の足元で薄緑の花を咲かせる植物。
セシルを何者かと判じようとする行動。
「誰か殺したい人でもいるの?」
男の瞳が僅かに細められた。
笑顔が凍っていくのを見ながら、己の推測があながち間違いでは無かった事に満足する。
「それ。無害そうに見えるけど毒草だから」
「……詳しいんだね」
男の言葉は目の前の植物が毒草だと知っていることを暗に告げている。
見知らぬ通りすがりの人間に隠す必要は無いと思ったのか。
今更知らないとしらばくれても遅いと判断したのか。
「不本意ながら植物学の権威に扱き使われてる身なんでね」
「それはそれは」
「だから。殺したい人がいるんなら手伝ってあげてもいいよ」
にこりと微笑むと男が苦笑して緊張を解く。
そして「初めて会う男に、殺しの手伝いをしようかと持ちかけるなんて。きみは変わっているね」と再びしゃがみ込み優しく植物を地面から引き抜いた。
懐からハンカチを取り出すと包んで、また懐へと仕舞う。
「ありがとう」
「褒めてはいないのだけどね」
くすくすと声を残して居住まいを正すと男は綺麗な会釈をし「神の気紛れがあればまた会うこともあるかもしれない」と呟いた。
「残念だけど神は信じない」
「私もだ」
流し目をくれ男は背を向けると慣れた足取りで樅の木の向こうに去って行く。
その腰に長い剣を差しているのに気付き、毒殺よりもその剣を使った方がよほど簡単に相手を弑することができるのにと苦笑する。
それが解るほど男の動きは無駄が無く、歩いている時も隙が無かった。
白い制服の騎士よりよほど剣の腕は確かだろう。
「……今頃?」
はあはあと肩で息をしている騎士を振り返る。
遅いと文句をいおうかと思ったが、青年が青い顔で男が去った方を見ていたので呼吸が治まるのを待つ。
その間に花に近づき背負っていた荷物からドライノスに持たされた油紙と麻布を取り出す。
手で根元をそっと掘り起し土の付いた根ごと麻袋に入れる。
更に荷物から水筒と革袋を引っ張り出し、水筒の水を麻袋に掛けて油紙で包むと革袋に入れて口を縛った。
それを腰のベルトに括り付けてから立ち上がると、ケインが恨めしそうな顔で睨んでいるのを確認する。
「で?さっきの知り合い?」
「……知ってるから話してたんじゃないのか」
「聞いてるのはこっちなんだけど?」
仏頂面で騎士は男が去った方向にもう一度視線を向けて「恍けるな」と吐き捨てた。
「あの方がフィリエス様と知っていて、殺したい人がいれば手伝ってもいいといったんだろ!?」
「フィリエス様?って確か」
ノアールの兄の名前だったはず。
それよりもこの騎士はいつから会話を聞いていたのか。
思っていたよりは根性があったのか、意外と速く追いついてきたようだ。
「ふ~ん。そうなると殺したい相手って誰なんだろう」
「だから!ルーサラ様かノアール様に決まってるだろ!」
「ノアールかルーサラか……」
「おい!ルーサラ様を呼び捨てにする奴がいるか!」
「だって友達の兄さんだから」
「伯爵の御子息様だぞ!」
「知らない。関係ない。ノアールだって伯爵の息子だし」
「そんな訳にはいかないだろ!もっと敬意を払え!」
「そんなに苛々してたら禿げるよ?」
「禿げるか!」
「継ぎたくないノアール、盲目のルーサラ。…………よし。ちょっと足を延ばしてフィリエスの治めてる領地に行ってみるか」
「は!?お前なにいって」
唐突に行き先を変更するとケインは凛々しい眉を跳ね上げて首を振って拒絶する。
その顔の前に掌を上に向けて差し出した。
「リアトリスだったよね。地図ある?」
「必要ないから持ってない」
騎士は憮然とした顔で顔を背ける。
本当に持っていないのか、持っていて無いといっているのかまでは分からない。
無ければセシルが諦めると思っているのかもしれないが、別に地図が無くても変わらないのだ。
普通の道を行くわけでは無いのだし。
「……使えないね。ま、いっか。方向は分かるし、多分道がある」
「ちょっ。待て!」
「いいよ。ついて来なくても。お荷物なだけで使えない騎士は」
「お荷物!?」
いい加減にしろと顔を赤くして怒り心頭のケインを置いてセシルは男が去った方向の北ではなく東へと向かう。
デュランタから“冬の森”を経て東にリアトリスはある。
それさえ分かっていればいい。
それに。
「あった」
フィリエスはここに何度も足を運んだのだとセシルに勘付かせるほど慣れた足取りで迷うことなく進んで行った。
領地から度々訪れていれば、おのずと道ができる。
それを辿ればリアトリスへとセシルを導いてくれるはずだ。
睨んだ通り東へと向かう細い道があり、有難くその道を使わせてもらうことにした。
“冬の森”を抜け街道へと出ると、それを横断して正面の丘を登る。
丈の高い薄を掻き分けながら進み、背後から聞こえてくる「疲れたので休憩しよう」の言葉を無視して足早に先を急ぐ。
陽が傾き始めているので、のんびり休憩などしていては辺りが暗くなってしまう。
リアトリスには陽が落ちる前に辿り着きたかった。
ラティリスはディアモンドに比べると日が暮れるのが半刻ほど速い。
侍女のジェンガが用意してくれた膝までのマントは薄くて暖かく、雨と風を遮ってくれる上等の物だ。
頬を撫でる冷たくなってきた風を感じながら持たせてくれたルーサラに感謝する。
「見えた」
丘の頂上に立ち下を見晴るかすと、丘と丘の間に広がる草原と放牧されている羊と牛の姿が長閑に広がっていた。
家畜小屋が並び、干し草があちこちに山のように積まれている。
夕日に照らされて作業を終えた住民たちが声をかけながら羊と牛を追って小屋へと誘導していた。
セシルは小走りで牧場へ近づくと狼除けの柵を越えて中へと入る。
この柵にも魔力を帯びた文字が刻まれているのを見て唇を歪めた。
「随分金をかけてるけど、そんなに狼が襲ってくんのかな……」
「……はあはあ。今は、数が少なく、なって……はあ。るが、冬は、まだ。襲われることも、げほげほっ。ある」
息継ぎを失敗して咳き込みながらケインが説明をしてくれる。
疲労困憊の様子で地面に座り込み、柵の向こうにいるセシルを見上げてきた。
「あんた、本当に騎士なの?それとも騎士には山歩きとか、長距離移動の演習とかないわけ?剣さえ揮えればいいの?」
「そんな、わけ……ないだろ。げほ。山歩きも、長距離移動演習も、はあはあ。あるが、休みなく移動する、とか。士気が落ちる、からしない。げほげほ」
気持ちが悪いと蹲るケインの背中を柵越しに手を伸ばして擦ってやる。
白い制服は埃と泥にまみれて汚れているが、騎士としての誇りは汚れていないらしい。
吐き気を堪えて脂汗を滲ませている青年を見下ろしてため息を吐く。
「あんたはここで待ってなよ。少しでも体力回復するように。いっとくけど寄り道した分を取り戻すために、すぐに出発するから。あんたのその白い服は目立ってしょうがないし」
「お前……なにしにここに」
「う~ん。ノアールのお兄さんの評判を聞きにかな」
「……なに考えて」
「深い考えはなにもないよ。でももしかしたらノアールの力になれるかもしれないし?」
「友達、思いなんだな。意外と」
「意外とね」
「……それを、少しは俺にも」
「勝手について来ときながら厚かましい騎士だな。駄目。街の様子を見てきたらすぐに戻って来て出発する。あ。戻ってくる必要ないか」
「お前!」
「大丈夫。あんたと一緒にラティリスに着かないとリディになんていわれるか分からないから戻って来るよ。心配しなくても」
がっくりと項垂れ、柵に背を預けるとケインは目を閉じた。
休める時に休むという基本的な技術は備えているはずだ。
諦めたのか体力回復へ集中している騎士を置いて、セシルは牧場の真ん中を突っ切って街へと向かった。




