船旅⑥
食事を済ませた後はヘレーネは部屋に戻り三人で大部屋へと戻る。
船内で食べられる食事は簡単な物で野菜に鶏肉の入ったスープとパン。
食堂もあるが折角なので星空を見ながら甲板に並んで座って食べた。
夜の海はどこまでも広く、黒々として恐ろしかったが、耳に心地よい波の音と甲板には魔法の灯りが灯されていたので船縁に寄りさえしなければ安全だ。
それにひとりではない。
それがとても心強い。
「セシル寒くなかった?」
リディアは魔法を練り込んだポンチョを羽織っていたので寒さは全く感じなかったが、麻の衿付きシャツに細身の黒いズボン姿のセシルはあまりにも軽装すぎな気がする。
シャツは長袖だが、麻は通気性が良く風を通す。
しかもゆったりとしたシャツが風にそよいでいたのを覚えている。
「全然。問題なし」
「ほんとに?」
細い綱で編まれた空中に浮いているベッドを快適になるように調節しているセシルの背中に再度尋ねると低い笑い声が返ってきた。
「リディと違って筋肉だから。あたしの肉は。寒さなんてちっとも恐くない」
「筋肉だと寒くないの?」
「そう聞いたことがある。でもリディは体温高そうだから気持ち良さそう」
セシルにならって荷物を枕にし、毛布をその上に置いてから揺れるハンモックに乗ろうと四苦八苦していると後ろからぎゅっと抱きしめられた。
寒くないといっていた通りその手は温かく背中から伝わる温かさと、しなやかな柔らかさが優しく包み込んでくる。
いつだってセシルは爽やかな草原の匂いがする。
朝露に濡れた草の濃い空気と吹き渡る風のような心が安らぐ香り。
口を開けば安らぐどころか、心を乱すことしか言わないのに。困ったり怒らせたりすることを愉しんでいるくせに。
「消灯時間になったら灯りは入口以外消されて真っ暗になるけど。大丈夫?」
どうしてこんなに優しいのだろう。
「これ以上は我儘言えないから。努力する」
「今日は一緒に寝る?あたしとリディの重さぐらいは支えられるよ。ハンモック」
甘い囁き声にリディアは頷いていた。
眠れなくてもセシルが横にいてくれるなら恐怖も薄れる気がする。
今日だけは甘えて、明日からは独りでも眠れるように頑張るから。
「じゃあリディの荷物はライカに任せた」
毛布をリディアに手渡して離れると、荷物を隣のライカのハンモックに投げやる。
既に荷物を枕に横たわっていたライカが「おい」と抗議の声を上げるが、セシルは我関せず決め込むとリディアを自分のハンモックに乗るのを手伝ってくれた。
「ちょっと狭いけど我慢して」
ハンモックの端に膝をかけて難なく乗り上げると座っているリディアの隣に横たわり毛布を広げた。
その身のこなしの軽さが羨ましい。
捕まる所も不安定なのに軽々と動けるとは。
旅慣れているだけではない天性の運動神経。リディアには無い物だ。
まあリディアの鈍臭さも天性の物だが。
「……やっぱり理不尽」
そうっとセシルの方を向いて横になり毛布に包まる。
「なにが?」という声がすぐに追いかけて来たのでちょっと違うなと思い直して訂正した。
「理不尽というよりも不公平、かな」
「なに?また自己嫌悪のぐるぐる迷子を繰り返してんの?」
セシルが笑うと隣で寝ているリディアにも漣のような振動が伝わってくる。
悔しいが当たりなので黙ってうなずいた。
セシルは天井を見たままで「バカだね」と自嘲に似た笑みを浮かべる。
それはリディアに向けて放たれた言葉では無いように聞こえた。
でも確かめる術はない。
こういう時のセシルはいつも以上に頑なで、なにを尋ねてもはぐらかされる。
問い詰めさせる隙を与えないような雰囲気を出すから。
そこを乗り越えて本心を聞き出すことは困難で、またその勇気も無い。
「……他人を羨むんじゃなくて自分のことをしっかり見なよ。リディはリディにしかなれない。他の誰にもなれないんだから。無理して他の者になろうとしてもそれは偽者。紛い物だ。そんなのにどんな価値があるってのさ?」
横目でこちらを見たセシルの瞳には自信の無い不貞腐れた自分の顔が映っている。
「理不尽とか不公平とか文句いう前にちゃんと自分を見てみなよ。リディにしか無い物はたくさんある。それを大事にしなきゃ」
「あるのかな?」
「あるよ。それを磨いて素敵な女性にならなきゃね」
「なれるかな?」
「なにいってんの。なるんだよ。なれるかじゃない。自分で努力しなきゃ。そして世の中の男どもを魅了して恋の駆け引きを楽しみなよ」
“なれるか”ではなく“なる”。
それは自分に自信の無いリディアには難しいことだ。
でもその力強い意思の力は確かに必要なことだった。
今の自分にはそういい聞かせて、己を奮い立たせなければならない。
受け身でばかりではいつまでたっても堂々巡りの卑屈な人生を送るしかない。
逃げずに立ち向かえば望む物は少なからず手に入る。
それは実感済みのはずだ。
「分かった。頑張る」
「楽しみだね。男達がリディの前に傅いて言葉を尽くして気を惹こうとするんだよ。それに気付いていながら気付かないふりをして微笑んで袖にする。そうされれば男の独占欲が煽られて更に」
「も。いいから」
まだ続きそうだったのでそれ以上は断った。
残念そうな顔で「そう?」首を傾げるので「ごちそう様でした。お腹いっぱいです」と返答する。
一体どんな女性にリディアをしたいのかとこっちが首を傾げたくなった。
大体男が沢山言い寄ってくる状態になるほど自分が魅力的な女性になれるとは思っていない。
普通の恋愛をして普通に結婚できればそれでいい。
母と父のように大恋愛の末に駆け落ちして、他人を不幸にするような結婚など絶対にしたくなかった。
「普通が一番だよ」
「まあ。リディの場合は気付いていながら気付かないふりはできないだろうしね。あまりにも鈍すぎる。口説いてるのに気付かない可能性の方が高い」
これもまた正論なので黙認する。
「あ。時間だ」
鐘の音が上の方から微かに聞こえてきた。
これは消灯を報せる音で、これを合図に自動で船内の灯りが消えるようになっているらしい。
残されるのは船長室と操舵室。
そして船員の詰所と廊下。
それから甲板。
いきなり消えることはなく、徐々に暗くなっていくようになっている。
急に消えると視界が奪われ、その隙に悪いことを考える人もいるからだろう。
「フィリーの言葉を思い出して」
鼓動の音が聞こるのではないかと思うほど大きくなって息を止めているとセシルがそう促してきた。
フィルの言葉?
いつ、どこの物だろうか。
冷静に物事を考えられる状態ではないのが恨めしい。
指を握り込んで必死に心臓を落ち着かせようとするが、逆に呼吸が乱れて苦しくなってくる。
「目に見えなくても光は闇の中に存在してる。いつだってリディは魔法の力でその光を灯すことができるんだよ。怯える必要なんてない。闇はもうリディの敵じゃない……違う?」
「あ……!」
そうだ。
フィルが教えてくれた灯りの魔法。
あの時初めて成功した光の球。
実技の試験の時にも直ぐに消えてしまったが、ちゃんと出現させることができた。
いつだって闇の中で光を生むことができる。弱々しくても、小さくても。
胸が温かくなる。
「敵じゃない。恐くない」
恐怖を打ち砕くのは魔法と希望の光。
そして小さいけれど確かな自信と誇り。
「ありがとう。セシル」
気付かせてくれたことは感謝の言葉では足りないぐらいにリディアを強く励まし、勇気を与え暗闇を払拭してくれた。
鼻が痛い。
視界が歪む。
でも泣いてはいけない。
懸命に涙を飛ばして瞬きをする。
「……お礼はフィリーにどうぞ」
「そうする」
洟を啜るとセシルがくすりと笑って腕の中に抱き寄せてくれる。
そして「今夜はあたしがついてるから。安心して眠って」優しい声が頭上から囁いた。
「おやすみ。セシル」
「おやすみ。リディ」
喜びに震えながらリディアはセシルの温もりと匂いに包まれてそっと目を閉じた。
安心できるセシルの腕の中は気持ちよくて、初めての船旅に興奮し緊張していたリディアはゆっくりと眠りに誘われる。
こんなに穏やかな気持ちで夜に眠れるのは六年ぶりで、そのことがまた自分の自信になるのだなと頭の端っこで思いながら身を委ねた。