学生の本分④
予習復習を終えて風呂に入り、引きこもって本を開いていたノアールの部屋にノックもせずに入ってくる人物は限られている。
いつもならその瞬間をなによりも愛し、幸せを感じるノアールだったが、今日ばかりは内容がちっとも頭に入ってこず解消されない鬱屈した感情を抱えて悶々とするばかりだったので諸手を挙げて歓迎して本を閉じた。
「いらっしゃい、紅蓮」
青い目を軽く瞠って本とノアールの顔を交互に眺め「腹でも痛いのか?」と尋ねてくる紅蓮の思考回路をすごく残念に思う。
「違うよ。たまには紅蓮とゆっくり話すのもいいかなって思ってさ」
「どういう心境の変化か分からないが、いい傾向だ。明日登校用魔方陣が壊れるかもしれないけどな」
「そんな簡単に壊れるような軟な魔法陣じゃないよ!あれは初代学長で大魔法使いのグラウィンド様が構築し、作り上げた上級魔法なんだから!」
大魔法使いグラウィンドといえばよちよち歩きの子供ですら知っているほどの有名人だ。
フィライト建国にも力を尽くし、王の右腕として法の整備にも携わった。そして優秀な人材を育てるための学び舎フリザード学園を創設したのだ。
学園のあちこちに肖像画や像が飾られ、今でもなお尊敬と憧憬を集めている大人物。
そして現近衛騎士団団長の祖先というのだから、その血と能力は素晴らしい物であるといえる。
「近衛騎士団の団長って四十過ぎても結婚できない脳みそまで筋肉って噂はほんとだと思うか?」
「ちょっと!失礼だよ。グラウィンド様の血を引く方なのに。しかも智も武も両方兼ね備えた素晴らしい方だという噂の方が断然多いんだからね!」
「相変わらず盲目だな。ノアールは」
声を上げて楽しげに笑い紅蓮がぐいと手を伸ばし、ノアールの頭を鷲掴みすると軽く揺さぶる。
その拍子に眼鏡がずれて慌てて押えた。
「それに近衛騎士団の団長になるには家柄もだけど、それなりの武勲と人柄と人脈が必要で、幾つもある位をひとつひとつ昇って行かなきゃならないんだから時間がかかるし。だからご縁が遠くなっても仕方が無いんだよ」
「顔も知らない奴の名誉を護ろうとするノアールの律義さは、オレにはさっぱり理解できん」
肩を竦めて紅蓮は頭を解放した後でベッドへと腰を下ろす。
風呂上りなのか短く切られた赤い髪はしっとりと濡れ、半袖のシャツから覗く腕と首にはうっすらと汗が浮いている。
開けている窓から風が入って来るが、潮を含んだ空気は少しべたついて心地良さとは程遠い。
「……もうすぐ夏休みだな」
窓の向こうには海と夜空しか見えない。
その海も夜の闇に暗く沈み、時折波頭が月明かりに輝くだけだ。
満天の星空は何処までも続くかのように果てしなく広がっている。
「紅蓮はどうするの?」
「夏休みか?そりゃもちろん所長に扱き使われて、あちこち走り回るんだろうさ」
ノアールは?と聞かれ「実家に帰省しようと思ってる」と伝えた。
勉強と魔法が好きで進学を認めてもらったが、面倒な後継者問題から逃げ出すように故郷を後にした手前、帰るのはちょっと――いや、かなり勇気がいる。
それでもリディアが逃げずに闘った姿を見て、自分もと奮い立ったのは三ヶ月前のことだ。
でも時間が経ってぐらついている自分がいるのもまた事実で。
「いいよな。オレは帰れる距離じゃないし」
「紅蓮の故郷までは確か三ヶ月はかかるんだよね?」
「そ。ディアモンドから船で三ヶ月。それから馬で十日かかるらしい。ベングルは遠いな」
明るく笑い紅蓮はその距離を他人事のように簡単に語る。
それもそのはずだ。
記憶を失った紅蓮には故郷の景色や匂い、思い出などの感慨を抱くことができない。
東の大国ベングルからディアモンドへ来るまで確かにその距離を旅してきたのだろうが、その間出会った人のことも、船での暮らしも、乗り換えた時に降りた港の風景も、食べ物の味も覚えてないのだから実感は無いだろう。
紅蓮は家族の顔さえも知らない。
「なんて顔してんだよ。逆に覚えてないから、色んなことを新しい気持ちで経験できるんだぞ?オレって得してるんだって」
朗らかな笑顔には嘘は無く、本心からいっていることが分かるから余計切ない。
どうしてそこまで悲観せずにいられるのか。
それこそ理解ができない。
「……きっと、強いってことなんだろうな」
「鈍い、の間違いだろ」
「――紅蓮。自分でいって悲しくならない?」
「いや。別に。ホントのことだしな」
いつかは紅蓮も卒業して自国へと戻る日が来る。
そうなるともう二度と会うことはないのだと思うと辛くて、苦しくて現実から逃げ出したくなる。
故郷も家族の記憶も無いのだから、いっそこの国でずっと暮らせばいいのに。
そんな自分勝手な想いが湧いてくる。
自分だっていつかは北にある故郷に帰らなければならないくせに。
「どうも、また戦が始まるらしい。いや、始まってんのか」
「……なに?」
昏い思いの中を漂っていたから聞き間違えかと思ったが、目を合わせた紅蓮の顔にはもう笑みは浮かんでいなかった。
どこか沈鬱な表情にも見える顔でため息を吐き「弟から手紙が来た」とベッドの縁に手をついて後ろに体重をかける。
ギシッという音がなんとも不吉な響きを残した。
「しかも半年以上前に出された手紙だ。普通ならこんなに時間はかからないだろ?二カ月も遅れて届いたってことはもう開戦しているとみて間違いないだろうから」
「紅蓮」
「ま。焦ってオレが行ったところで弟の顔も分からねえし、家も分からないから途中で完全に迷子だな。戦いに巻き込まれて知らないうちに親戚や家族を殺しちまうってこともあるわけで。それならおとなしくここでいつも通り夏休みを過ごすほうがいいだろ」
「……紅蓮」
さきほど彼が口にしたノアールの故郷は帰れる距離で「いいよな」といった言葉が胸にぐさりと刺さった。
それ以上に帰らずにこのままここにいればいいなどと自分勝手な欲望を抱えていたことに罪悪感が増す。
自分がこれほど愚かで罪深い人間だとは思っていなかった。
「っ……ごめん」
「ノアール?なんで謝るんだよ」
「……いえない。けどごめん」
「よく分かんねえな。いえないってなんだよ、いえないって」
知られたくない。
汚い心の想いなど。
だから首を振って「それより。夏休みの前に期末テストがあるよ。勉強しなきゃまずいんじゃない?」無理矢理会話を変えて机の上に置いていた教科書の表紙をポンッと叩く。
日常に戻された紅蓮は渋面で「また嫌な季節到来か」と項垂れた。




