学生の本分①
狂い咲きした山梔子の花の濃い匂いが庭から入り込み胸を悪くする。
細く開けられた窓から射し込む弱々しい光と乾いた空気が青白い顔を撫でたのに気付いたのか、痩せた腕をノアールへと伸ばしてきた。
痛々しいまでの白さと華奢な指が縋るように求めるので、そっとその手を握り「母上」と呼びかける。
美しかったその面は病窶れで見る影も無く、罅割れた唇が言葉を発することも少ない。
母が病気を発症して半年が経つが原因も分からないまま、体力が奪われるままにずるずると命の炎は消耗されていく。
医者からは見放され、余命は僅か半月と申告されていた。
「ノア……ル」
搾り出すように喉の奥から息子の名を呼ぶその口元に耳を寄せる。
なにかを伝えようとしていると気づいたのは、その碧色の瞳がいつもよりも強い光を宿していたからだ。
「あ……の。おんな。……む……こに、きをつけ、て」
「なに?」
途切れ途切れの言葉を繋ぎ合わせながら意図を知るのは難しい。
握っていた母の指がもどかしげにノアールの掌を引っ掻く。
指が必死で同じ動きを繰り返す。
文字を書いているのだと理解し掌に集中すると母が顎を引いて頷く。
指が一人の人物の名前を伝えてきた。
「きを、つけて」
「そんな」
母はふうと大きく息を吐き出してゆっくりと目を閉じた。
衰弱した体はたったそれだけの行動ですら母の命を削ってしまうのだ。
そして彼女はその時を最後に昏睡状態へと陥り、目を覚まさないまま永眠した。
* * *
「ノアール」
読んでいた『魔法の系譜』という本から顔を上げると、同級生が不機嫌そうな表情で教室の入口から歩いて来ていた。
その様子から何度も呼んでいたのだと気づく。
「ごめん。なに」
今は二限目と三限目の間の昼休みの時間だ。
一時間あるその休み時間をほとんどの者が学食へ行き空腹を満たした後、思い思いの場所で寛ぐ。
次の授業は移動が無く教室で講義があるからギリギリまで好きな読書ができると学食にも行かずに昨日借りてきた本に没頭していたのが悪かった。
「覚えてんのか?約束」
「約束?」
首を傾げると「とぼけんな!」と机に腕が振り下ろされた。
慌てて本を抱えて腰を浮かせると、その肩を上から左手が押え込んで逃げるのを阻止する。
そのまま抱え込むようにして首に腕を回され「忘れたとはいわせねえぞ」と脅しの言葉が耳に注ぎ込まれた。
「ええっと……なんのこと?」
「こんのっ!お前の頭は友達の約束を都合よく忘れる欠陥品か!」
「欠陥品!?僕の頭が?」
信じられないことを告げられノアールはいたく自尊心を傷つけられた。
優秀だといわれたことはあっても欠陥品だと評されたのは初めてである。
賭け事の好きなこの同級生は同じ寮に住んでいて、しょっちゅう顔を合わせているが約束をするほど気安い仲ではない。
「三ヶ月前の事を忘れてんだから欠陥品だろっ」
「三ヶ月前……」
記憶を遡る。三ヶ月前と言えば丁度春休みで――。
「あ」
思い出したくはなかったが思い出した。
いっそ忘れたままでいたかったが、思い出した以上知らぬ存ぜぬで通すことはできない。
「ようやく思い出したか」
念を押すような問いかけに渋々頷くと、少年はようやく腕を解いてノアールを自由にした。
紅蓮を訪ねてきた相手を聞き出すための交換条件として、上級生の図書委員を紹介すると約束させられたのだ。
三ヶ月間もじっと待っていたというのだから彼も意外と気が長い。
「行くぞ」
「へ?」
「だから行くぞって」
「もしかして……今から?」
「ったりめえだ!」
前言撤回。
強引に同級生はノアールの肘を掴んで立たせると大股で入口へと向かった。
引きずられながら必死で言い訳と、引き止めるだけの理由と、紹介する時の口上を考えたが途中で諦める。
こうなってしまっては言い訳も無意味で、少年の足を止めるだけの理由も見つからず、彼を上級生に紹介するシーンを思い浮かべるだけでも気が重い。
後は成行きに任せるほかないようだ。
本当は運任せの行動など震えが来るほど嫌悪するが、同級生の手を振り解いて抵抗したらきっとあの日朝帰りしたことを言い触らされる。
かなり面白おかしく。
なんら疾しい事など無いのに。
人の恋路など関わって良いことなどひとつも無いのは分かっている。
だがあの時手にした情報は貴重で、それに対する報酬を払うのはノアールの義務でもあった。
だから腹をくくってどうか拗れませんようにと願うばかりだ。
どこをどう通ったのか解らぬまま、あっという間に図書塔の前まで来ていた。
大好きで一生この中で暮らしても構わないと思っていた塔を前に怖気づく日が来るとは思ってもいなかったが脚が竦んで動かなくなる。
だが少年は肩越しに一睨みするとぐいぐいと引っ張り図書塔の扉を開けた。
受付にいるのはいつもの上級生。
同級生に教わったから彼女の名前がローレンという名だと知っている。
入口から入って来た下級生に視線を向けると唇の端を持ち上げていつものように微笑む。
小首を傾げた時に二つに結ばれた金色の髪が優しく揺れた。
ごくり。
唾を飲み込んだ音がやけにノアールの耳に響いた。
「昨日借りた本はどうだった?」
「え?あ、はい。とても面白くて、気付いたら朝でした」
少女が本の感想を聞いてくるから素直に質問に答えると、隣で同級生が「おい」と催促する。
「だめだよ。ちゃんと寝ないと」上級生らしく忠告する少女に曖昧に返事をし、促されるまま一歩前に踏み出した。
「あのっ」
「ん?どうしたの?」
笑顔で問われ、もう一度ゆっくりと息を吐き「あの」と繰り返す。
「セレスティアくん?」
紹介などしたことない。
どうやってするのが正解で、失礼が無いのか。
いくら考えても分からない。
だから普通に自己紹介するかのように彼の紹介をすることにした。
「えっと。僕の同級生のアレスです。勝負事が好きで、社交的な性格をしてると思います。悪い男ではないと信じてはいますが、多少強引な所があって」
「あら。お友達を紹介してくれてるの?」
クスクスと笑いながら少女は同級生アレスを見ると会釈をして「ローレン=モントです。よろしくね」と名乗る。
同級生は背筋を伸ばし「アレス・サブナカです。よろしくお願いします」勢いよく頭を下げた。
これでノアールの仕事は終わりだとほっと胸を撫で下ろしているとアレスがとんでもないことをいい出した。
「もしローレンさんが今度の休みにお暇なら、街まで出て一緒にお茶でもいかがですか?」
ここまではいい。
耳を疑ったのはこの後に「ノアールと三人で」という言葉が続いたからだ。
焦ってアレスの服を掴んだら「最後まで責任持てよ」と凄まれた。
「そんな」という抗議は無言で却下され、ローレンが何故か「今度の休みならあいてるから大丈夫」と色よい返事をしたので結果ノアールまで巻き込まれる形となった。
「最低最悪の事態だ」
降りかかった災難に身悶えながら、今後人の恋路に関わるのは止そうと経験から学んだ。




